Pure─素直になれなくて─

 楓花と晴大の付き合いが結婚前提になったことは、すぐに晴大の両親にも伝えた。ただし楓花はまだそこまで考えられていないので、いつのことになるかは分からない。
「晴大が楓花ちゃんに本気なのは、ペンダントで分かったわ」
 彼の母親は優しい顔で笑っていた。
「それ、ブルートパーズでしょう。晴大の誕生石で、成功に導いてくれる石。晴大、いつあげたの?」
「──誕生日。俺がアメリカ行く前」
「こんなんだった晴大がまさか、ねぇ……。楓花ちゃんもびっくりでしょう?」
 母親は晴大に言って中学の卒業アルバムを持ってこさせていた。開いているのは晴大の写真が載っているページだ。楓花も久しぶりに見るので、八年前の晴大がものすごく可愛く見えてしまった。
「懐かしい……。ははっ、確かにこんなんでした!」
「……なに〝こんなん〟って」
「いや……いろいろ思い出して……」
「楓花ちゃんは音楽得意なの?」
「はい。今はあんまりですけど、ピアノやってて」
「それで音符なのね。……晴大はリコーダーも吹かれへんからねぇ」
 その発言に楓花は思わず笑いそうになってしまった。晴大の視線を感じたので、口は閉じた。
「──吹けるし。家でやらんかっただけ」
「そう? 小学校のとき、懇談でいつも先生に〝家で練習するように〟って言われてて、全然やったやん」
「……中学入ってから練習した」
「えええ、いつ? 聴いてないけど? もしかして、楓花ちゃんに教えてもらってたとか? でも同じクラスなってないし、違うか……」
「私、教えてました」
 母親が考えている間に晴大は観念したようで、話しても良い、と楓花に伝えていた。リコーダーのことを簡単に話すと、母親は音符の意味を知って嬉しそうに楓花を見ていた。

 後期ガイダンスの日、楓花と一緒にいる晴大を見て、翔琉は眉間に皺を寄せていた。
「渡利……おまえ、おったんやな」
「は? おったら悪いか?」
「──くっそぅ……、相変わらず飄々としてんな」
 楓花は二人を宥めようとしたけれど、それより先に晴大に引かれて翔琉とは離れた席に座った。晴大は翔琉のことは特に気にせず、久々に会う友人たちに簡単に挨拶をしていた。
「晴大はこれから、大学に来るだけ?」
「……どういう意味?」
「あ──バイトはもうやらんの?」
「いや? またやる。あのときは〝やめる〟って言ったけど、休んでただけ」
「良かった。また隣で頑張れる」
「──そうやな。また時間合ったら送るわ」
「うん。ありがとう」
 楓花は晴大と一緒にガイダンスを受け、そのあと彼は友人たちに誘われて男数人で食堂へ行った。楓花は晴大に誘われたけれど彼にはいつでも会えるし、男同士の話もあるだろうと思って遠慮した。
 寂しそうに何度も振り返る晴大に手を振っていると、彩里が『良いの?』と話しかけてきた。
「せっかく帰ってきたのに。一緒にいたいんちゃうん?」
「私は家も近いし、バイトも隣やからいつでも会える。帰ってきてから何回か会ってるし、晴大も、ちゃんと“ほんまの自分”で友達と話したいやろうし」
「……そっか。前は楓花ちゃんとのこと隠してたもんなぁ」
 晴大は楓花と再会してから、嘘はつかなかったけれど本当のことをずっと隠していた。特に翔琉と楓花には気付かれないようにしていたし、噂のこともあって友人たちにも言わなかったらしい。
「楓花ちゃん、何かあった?」
「……なにが?」
「何かさぁ、何ていうんやろ……付き合っとぉからやろうけど……いや、でも、私やったらそこまで余裕で見送れんわぁ」
 目の届かないところで彼氏が他の女と会っていたら嫌だ、と彩里は首を横に振る。晴大は男だらけで出かけたけれど、メンバーが変わらないとは限らない。
「渡利君は楓花ちゃんと行きたそうやったけど」
「うん……」
「俺、あいつは筋通ってる奴やと思うわ」
 振り向くと、翔琉が顔を歪めながら近づいてきていた。
「あいつアメリカ行く前と今と、ほとんど変わらんやん? 変わったのは……楓花ちゃんと仲良くしだしたくらい……」
「それは仕方ないわ、楓花ちゃんと付き合っとるんやし」
「分かってる。だから──あいつがもし楓花ちゃん泣かすようなことアメリカでしてたら怒ったろうと思ってたけど、そんな感じないし……。何より、楓花ちゃんが前より落ち着いてるんよな。精神的に」
「翔琉君、それ! 私もそれが言いたかった!」
 荷物を片付ける楓花の隣で、彩里と翔琉は楓花と晴大のデートを勝手に想像していた。晴大が主導権を握っているだとか、逆に楓花が握っているだとか、そのどちらでもなく部屋でのんびりしているだとか。
「楓花ちゃん、どっち? やっぱ渡利君が行くとこ決める感じ?」
「どうやろなぁ……まだちゃんとデートしてないから……」
 二人で会ったことはあるけれど、晴大が行き先を決めていたり、楓花のアルバイト帰りに送ってもらったくらいだ。晴大の家に行った日は、晴大が車で家まで送ってくれた。そのときに、楓花の両親にも晴大は自分の意思をはっきり伝えた。
「渡利君って、優しい?」
「……優しい。優しすぎる。お父さん社長やし、家も大きいし、私なんかが一緒にいて良いんかな、って思う。晴大の部屋は普通やったけど……他がすごい」
「あー、無理、あいつが優しいって、想像できん!」
「相手が楓花ちゃんやからやって。翔琉君に優しくしてたら、逆に怖い」
「確かに、俺も嫌やわ。でも、その渡利の優しさで、楓花ちゃんは落ち着いてられるんやろ?」
「……うん」
 楓花は何も考えずに答えたけれど、その顔はものすごく穏やかだったらしい。翔琉はそんな楓花を見たくなかったようで、適当な用事を思い出しながらどこかへ行ってしまった。
「──で? 渡利君とはどこまでいったん?」
 積もる話は置いておいて、楓花は彩里に連れられてキャンパス内のカフェに来ていた。いくつかある飲食店のうち一番おしゃれなので女子学生で満席のことが多い。晴大が友人たちと行っているのは、おそらく一番大きな学食だ。
「楓花ちゃん、渡利君の……部屋に行ったんやろ?」
 彩里はなぜか小声で聞いてきた。
「うん。お母さんがケーキ持ってきてくれて」
「ええっ? 渡利君一人じゃなかったん?」
「うん?」
「え……何しに行ったん? 渡利君……楓花ちゃんを抱きたかったんじゃないん?」
「えっ? ちがっ、それは、あ──違えへんけど……あの日は……違う」
 楓花が晴大の家に行ったのを、彩里は二人が身体の関係を持つためだと思っていたらしい。おそらく晴大はそのつもりにしていたし楓花も覚悟はしていたけれど、家に彼の両親がいた時点で可能性はないと思ったし、実際にそうはならなかった。
「でもさぁ、やったんかなぁって思うくらい、仲良いやん?」
 彩里が恋人と既にそうなっているのは以前に聞いている。
「楓花ちゃん、渡利君を見とぉとき目がトローンてなってたし、距離も近いし。渡利君も優しい顔しとったしなぁ」
 晴大は楓花が初めての彼女だと言っていた。だから身体の関係も誰ともないと信じたいけれど、せめて知識は持っておいてリードしてもらいたい。
「前さぁ、渡利君に将来の話された、って悩んどったやん? 解決したん?」
 半分ふざけていた彩里も、いつの間にか真剣な顔をしていた。
「うん……その、家に行った日、やっぱり言われた、結婚したい、って」
 カフェへ来る前に翔琉がいなくなって良かったと思う。翔琉にはいまは教えたくなかったし、そもそも晴大とのプライベートの話をしたくなかった。
「そっか……それで、OKしたん?」
「……今はまだ考えられへんから仮やけど。晴大の家のこと教えてもらって、晴大がどう考えてたかも聞いた。それで、晴大なら大丈夫、って思えた」
「ふぅん。それで仲良かったんやな」
 晴大が楓花の両親に意思を伝えると、楓花の両親はとても満足そうにしていた。晴大はまず格好良いし、成績優秀でスポーツもできる。スカイクリアを継ぐことと楓花を想い続けていたことも、彼の評価を跳ね上げたらしい。
「言われたときは実感なかったし涙も出んかったけど、だんだん湧いてきてるんよなぁ。でも晴大に、今度こそ、ほんまのときに泣かして、って言ったから、それまでは耐えなあかん」
「ははっ、良いなぁ。渡利君はプレッシャーやろうけどな」
 晴大は困惑していたけれど、楓花と一緒にいられるなら、と将来のことを思い浮かべて嬉しそうにしていた。ケーキを食べたあと楓花が化粧を直そうとすると、晴大に手を捕まれた。持っていたメイク道具は取り上げられてテーブルに置かれ、抱き上げられてベッドに運ばれた。晴大は男の顔をして楓花を組み敷いていたけれど、やがて優しく微笑んで唇を奪いにきただけだった。
「ところで渡利君は、何の仕事するん?」
「……スカイクリア」
「──ええっ?」
 スカイクリアが晴大の名前から来ていたことは、やはり彩里も分からなかったらしい。晴大はあまり愛想は良くなかったので、接客業とは結びつかなかった。
「よく〝一緒にすんな〟って言ってたやろ? 早くから先を見てたから、他の人らと並びたくなかったんやと思う」
「そら翔琉君のこと下に見るわ……。そういえば、ensoleilléってどういう意味なん? 何語? フランス語?」
 フランス語で〝晴れ〟だ、とそれも晴大が教えてくれていた。楓花が祖父母と行った料亭の『天』も、その他のスカイクリアが経営する店は全て空に関わる名前がつけられていた。ensoleilléは最初にできた店なので特に、晴大の名前に近くなったらしい。
「楓花ちゃん良いなぁ……羨ましい……」
 彩里の彼氏を、楓花は写真で見たことがある。晴大に負けないくらい格好良いけれど、晴大のほうがいろんな意味で好条件だと思う。
「今日はこれから予定あるん?」
「特に何も決めてないけど……授業決めて、あとは就活かな……」
 晴大との結婚がいつになるか分からないし、楓花がすぐにスカイクリアで働く話は今はないので就職するのが妥当だと思う。
「楓花ちゃん、電話鳴ってない?」
「ん? あ──晴大から……もしもし?」
 無意識に笑顔になっていたようで、電話に出る楓花を見て彩里は笑っていた。
『これから予定ある?』
「ううん? 晴大は?」
 後期の授業の履修希望を提出してから帰りたいようで、一緒に考えようと提案された。楓花は彩里と合わせたいものもあったのでそれを確認してから、晴大と待ち合わせた図書館へ行った。
「楓花あと単位どんだけ要るん?」
「確かあと二十五くらいかな……卒論書いたら四貰えるし、八割は取れてたはず」
 四年間で必要な単位のうち、六割ほどは二年間で取った。三年の前期でも頑張ったので、就職活動と卒業論文にかけられる時間はたっぷり残っている。
「なかなか頑張ったんやな。……そのボールペン、使ってんやな」
「うん、使ってる。……そういえば晴大の誕生日は十一月よなぁ。もうすぐ」
「いや、まだ九月やぞ? 二ヶ月あるやん」
「二ヶ月なんかすぐやん。半年に比べたら……。どうしよっかなぁ」
 楓花は晴大のほうを見ながら、何をプレゼントしようか考える。晴大がくれたようにペンダント──は、晴大には似合わないし、そもそも楓花の誕生石は赤いので変に目立ってしまう。身に付けるものを頭から順に、顔、首、腕──。
「そんな見んな……」
「えっ、今さら? じゃあ、見んとく」
「──いや、見れよ」
 楓花がわざと下を向くと、晴大は拗ねていた。その様子がかわいくて、楓花はつい笑ってしまった。
 渡利家に生まれたことを、特に嬉しく思ったことはないが、嫌だったわけでもない。ありがたいことにスペックには恵まれ、友達にも恵まれて運動も好きになった。お陰で学校で人気だったのは良かったが、一つだけ苦手なものがあった──楽器だ。
 小学校のときはなんとかごまかせたが、中学からはそうはいかなかった。だから意を決して佐藤に個人練習を頼むと、体育祭の準備の後で音楽室で待てと言われた。
 先生たちは会議中で他の生徒は帰っているはずが、音楽室からピアノの音が聞こえた。そっと中を覗くと、弾いているのは見たことのない女子生徒だった。全く知らない曲だったが、不思議と惹かれて聞き入ってしまった。
 ──が、俺でも分かるくらい中途半端なところで音は止まってしまった。
「なんで止めたん? 上手いのに」
「えっ? ……渡利君?」
 ピアノを弾いていた楓花は、俺のことを知っていたらしい。
 俺が残っている理由は適当にごまかして、続けてピアノを弾けと言った。俺はそれを聴きながら窓の外を眺め、いつの間にか床に座って寝てしまっていた。
 体育祭の準備で疲れたのかもしれないが、音楽を聴いて寝たことは今までなかった。それくらい楓花のピアノが心地よくて、もしかすると佐藤よりも上手く教えてもらえるかもしれない、と思った。
 楓花は驚いていたが、俺にリコーダーを教えることを了承してくれた。俺はそもそも音楽の基本も分かっていなかったので、そこから始めてもらった。
 俺がたまに放課後にいなくなることは学校の七不思議の一つのように笑われたが、楓花は誰にも言わずにいてくれた。楓花の時間を削っていたはずなのに文句を言わなかったし、嫌な顔もしていなかった。
 俺を見て騒ぐ女子は多かったが楓花が騒いでいるのは見たことがなかったし、二人でいるときも緊張している様子はなかった。だから俺も練習をしやすかったが──、その時間が穏やかに過ごせたからか、いつの間にか楓花のことを女として意識するようになった。
「渡利君は今日は、外にいたほうが良いんじゃないん?」
「ああ……ええねん、既にクラスの奴からいっぱいもらってるし。逃げるついでに練習しようと思って」
 バレンタインに練習を追加したその理由は、厳密には嘘だ。
 クラスの奴らから貰ったのは本当だが、楓花と過ごしたくて練習を入れた。もしかすると何か貰えるんじゃないか、と期待もしていたが、結局は何も貰えなかった。
 学校を出てから丈志に会ったので自転車に乗せてもらい、そのまま遊ぶことになった。
「あっ、誰か歩いてる……俺のクラスの奴や」
 先に学校を出た楓花だった。丈志はお菓子をねだっていたが、楓花は本当に何も持っていなかったらしい。去り際に楓花を見ていたのはリコーダーの件もあるが、どうしてくれなかったのか、と訴えたつもりだった。誰にも秘密で会っている分、少しくらい気にしてくれていると思っていたが──。
 楓花はその日を最後に、練習に付き合ってくれなくなった。佐藤からは〝俺が上手くなったから〟だと聞いたが、本当なのかは疑問だった。楓花と二人では会わなくなったのでちゃんと理由は聞けず、残念なことに高校も別々のところに決まってしまった。卒業なので写真くらい──と思ったが、そんなチャンスは巡ってこなかった。
「わ、渡利君、あの、付き合ってください」
 高校に入ると、告白されることが増えた。高校生になって、そういうことに目覚める奴が多いのだろうか。嫌な気はしなかったが、正直、俺は興味がなかった。
 ただその場で断るのは、その人自身を否定するような気がして申し訳なくて、告白してきた勇気の分は返そうと思った。
「じゃあ──今日、一緒に帰るか? 部活あったら今度にするけど。俺もバイトあるし」
「うん……じゃあ、今日……。あ、あの、付き合って、もらえるん……?」
「それは後で決める」
 緊張している奴はだいたい良い奴だったが、俺の何が良いのかと聞いても〝格好良いから〟だけだったし、
「渡利君いま彼女おらんの? カラオケ行こうよ!」
 明るく誘ってくる奴は気分転換にはなったが、そのノリが俺には合わなかった。公立高校特有のガラの悪さが合わさって将来を考えられる相手ではなかった。まだ高校生なので遊びで良かったが、それよりは自分の職のことを、親父のスカイクリアを継ぐことを真剣に考えたかった。
 初めのうちは何回か会った奴もいたが、告白される数が増えて、いつの間にか一回で判断するようになった。どうしても外見が好みではない奴には申し訳ないがその場で断ることになったが──、俺が一回しか遊ばないことはいつの間にか、〝誰でも良いから女の子と遊びたいだけ〟という悪い話に変わってしまっていた。俺を見てキャーキャー言う奴は減っていったし、告白してくる奴は全くいなくなった。
「渡利、おまえの噂、他の学校にも広まってるみたいやで」
「マジかよ……俺、何か悪いことしたか?」
 遊びたいだけ、という話でもじゅうぶん嘘だったが、噂を聞いただけの奴らが余計なデマをくっつけて、俺と目が合うと女たちはだいたい逃げるようになった。
 ──環境を変えなければ、俺は誰にも相手にされなくなる。
 そんな気がして、噂を知っている奴らがいなさそうな、地元からは離れた大学を受験することにした。通えるギリギリの距離だったし、レベルも少しは高かったので、知っている奴がいたとしても根拠のない話はしないだろうと思った。大学は自分の意思で学ばないと卒業できないので、もしもの場合は孤立しても構わないと覚悟は決めていた。
 総合大学で学生数も多いので、受験当日は全く気付かなかったが──。
 入学式の日に、楓花と再会することになった。
 大学の入学式は親と来ている奴もいたが、俺は一人で行った。慣れないスーツを着てネクタイもして、髪型も一応は整えたつもりだ。俺をちらちらと見てくる奴はいたがとりあえず無視して、式が行われる講堂へ行った。
 入学式のあと、教室に着いてから俺は隣にいた男と話していた。彼は〝なんとなく〟英語コミュニケーション学科を選んだのではなく、外資系の仕事に就きたいからと本気で英語を勉強しに来たらしい。俺も既に親父の仕事を継ぐ方向だったので一緒だと話をして、近くにいた男たちで意気投合し、それから顔を合わせれば話をするくらいにはなった。
 午後の自己紹介の時間、見覚えのある奴が登壇した。スーツを着ていたので一瞬分からなかったが、確かにそれは楓花だった。中学を卒業して以来なので、会うのは三年ぶりだ。三年前も可愛かったが少しだけ大人びた顔に変わっていて、諦めかけていた恋を今度こそ本当に実らせたくなった。
 楓花は出身と意気込みを話してから席に戻ったが俺には気付いていなかったので、俺が気付かせた。ただ楓花の反応が良くなかったということは、俺の噂を知っていることになる。楓花の友人の舞衣にも告白されたので、何かしら相談をされたのかもしれない。
 俺のことを知っている奴は楓花以外にいなかったので、またぽつぽつと告白されるようになった。俺は楓花しか興味がなかったが、彼女のプライベートは分からないのでまた、高校のときのように〝一日遊んでさようなら〟を繰り返すようになった。楓花も俺の噂を信じていたし友人たちにも話したようで、楓花の周りの学生には避けられ気味だった。
「俺のこと、嫌な奴と思うならそれで良いけど、自分の評価を自分で下げんなよ?」
 本当はそう思われて良いわけがないが、そう言うしかなかった。下手に弁解しても信じてもらえるかは分からなかったし、それよりも俺は、楓花が評価を落とされることのほうが心配だった。
 楓花は気にしていないのかもしれないが、とても優しい。リコーダーのことはもちろん、見るからに性格の違う桧田とも、せっかく知り合ったから、と仲良くなろうとしていた。
 仲良くなるのは構わないが、俺が心配だったのは、楓花が悪い社会に染まってしまい、友達を失くすことだ。俺は早い段階で桧田の良くない噂を聞いて、バイトのない日に尾行してみると、桧田はガラの悪そうな奴らと合流していた。初めはただ屯しているだけのようだったが、アルバイトを始めてから裏社会の人間と関わるようになり、大学は卒業したいから、と遠慮しているときもあったが、断りきれなくなって一緒に遊んでいるように見えた。
 そのことを楓花に伝えると少しは考え直していたが、大学で見る桧田は特に悪くは見えないので、楓花は混乱し、とりあえず友達を続けていたらしい。その優しさが余計に桧田が楓花を好きになる要因だったようで、桧田は何回か楓花に告白して、ダメだと言われ、次の機会を窺っていた。
 そんな中で俺が、楓花とはただの同級生のままだったが桧田よりは頻繁に話していたのもあって、楓花の前で態度を変えていると思われていたらしい。
「おまえほんまは、楓花ちゃんに好かれようとしてるやろ?」
「──おまえと一緒にすんな。俺は俺や」
 本当に俺は、楓花の前だから、と良いところを見せたことはない。自分がするべきことをして、楓花に話したのも俺が実際に見聞きしたことだけだ。楓花のことが好きなのは事実だが、まだ打ち明ける時期ではないと分かっていた。完全に信頼されているわけではなかったので、打ち明けるのは誤解が解けてからにしたかった。と言いながら、〝一緒にするな〟〝俺は俺〟という言葉は中学のときから楓花に聞かせていたので、他の奴らと比べるまでもなく誠実な男だ、と気付いてもらいたくもあった。
 成人式の翌日、楓花をドライブに誘ったのは単純にデートがしたかったからだ。楓花は誘われた意味を分かっていなかったが、嫌だとは言わず着いてきてくれた。由良には幼少期に住んでいただけなのでほとんど記憶はないが、白崎海岸の景色だけは忘れられなかった。あれを楓花は何と言うか、連れてきた俺をどう思うか、聞いてみたかった。
「私、渡利君のことずっと誤解してた。〝嫌な人〟って思ってたけど、間違いやった……悪いとこなんか、ないやん」
「別に、ほとんどの奴がそう思ってるし、謝らんでも。嫌な奴で良いのに」
 嬉しかったが素直に喜べず、反対のことを言ってしまった。
「ううん。渡利君が私に言ったこと、そのまま返す。自分で自分を下げたらあかん」
 それを聞いてハッとしてしまった。俺は楓花に〝自分を曝せ〟と言っておきながら、自分がそれをできていなかった。俺は、遊び相手は女なら誰でも良い──わけがない。
 本当は楓花の誕生日を狙っていたが、アルバイトがあるようなので前日に買い物に誘い、欲しそうに見ていたものを店員にこっそり包んでもらった。
 楓花も本当は俺のことが好きだったらしいが、返事はなかなかもらえなかった。楓花は友人たちに相談したらしい。
「渡利おまえ、やっぱり楓花ちゃんのこと好きやったんやな。一緒にすんな、とか言っといて」
「ああ──実際、好かれようとはしてなかったし。俺は俺のまま、普通にしてた。長瀬さんなら分かると思うけど」
「──うん。渡利君は別に、作ったような優しさとか、良いカッコしてるな、とかはなかった」
 最近はそうでもないが、中学のときや再会した頃は、むしろ嫌われそうな態度をとっていた。それでも楓花は外面ではなく、ちゃんと内面を知って好きになってくれた。
「え? ……アメリカ?」
 留学の話をすると今にも泣きそうな顔をするほどに──。
 楓花は俺を見ても特にキャーキャー言わない。
 ──と中学のときは思っていたが、友人たちと話すときは騒いでいたらしい。
「そのほうが、周りと一緒、ってごまかせたし。でも、舞衣ちゃんにはバレてたみたいやけど」
 楓花にリコーダーを教えてもらうことになったとき、楓花には俺の弱い部分を見せることに決めた。教室では言えない弱音もときどき吐いていた。楓花は周りが知らない俺のことを知って、普通の少年だと分かって嬉しかったらしい。友人たちに合わせて騒ぎながら、事実とは違う話になって否定しかけたのを何度かごまかした、と聞いた。
 俺を好きになることに何が一番影響したのかは、正直わからないらしい。同級生の中では楓花が俺のことを一番知っていた。他の同級生にはもちろん、丈志にさえ俺はあまり弱音を吐かなかった。もしかすると俺は、無意識のうちに楓花の母性本能を刺激していたのだろうか。再会してから俺が楓花に弱音を吐くことはなかったが、困っている楓花を放っておけなくて何度も手を貸した。というより、楓花が楽しく過ごせるようにアドバイスをしていた。楓花と桧田が仲良くなるのは嫌だったが、それでも楓花には笑顔でいてもらいたかった。
「今日、三限休む」
 俺が留学の話をしていると、楓花は目に涙をためていた。
「──戸坂さん、ノートお願いして良い?」
「あっ、うん。任せて」
 俺は楓花を連れて教室を出た。リフレッシュスペースに到着して、楓花が落ち着くのを待った。
「なんで今なん……。寂しい……」
「そんなに、俺のこと好きなんか?」
「うん」
 素直に答える楓花に思わずドキリとしてしまった。楓花に好かれようと全くしていない、と言うと嘘になるが、好かれようとしたというより、楓花を守りたくて体が動いていた。それが楓花に評価されて俺の印象が変わり、ブラックな俺でも好きだと言ってくれた。……楓花には優しくしたいし、桧田が気に入らないだけでブラックになった覚えはないが。
 自分で決めたこととはいえ、半年もアメリカに行くのは正直に辛かった。桧田はまだ楓花を諦めていないように見えたし、他にも楓花が仲良くしている男は何人かいた。もしも楓花が他の男と──と思うと気が狂いそうで、だから留学する前に楓花を彼女にしたかった。
 ……俺のファーストキスが楓花だったのも本当だ。楓花のことを好きになってから、他の女とは考えられなかった。そして願いが叶って楓花とキスができたのはバレンタインの夜だ。下手だ、と突き放されないか心配していたが逆に上手かったようで、楓花は俺を腕に閉じ込めて恍惚とした表情をしていた。
 慣れない土地で得意ではない経営の勉強をネイティブの英語で聞くのは想像以上に難しかったが、楓花が待っていると思うと頑張れたし、経営の勉強をしていくうちに、スカイクリアのことを考えているうちに、楓花と結婚したいと思うようになった。他に誰かを好きになるとは思えなかったし、英語が得意な楓花は海外へ行く可能性がある俺の妻にはぴったりな相手だった。
 付き合いは結婚前提にしたい、とだけ楓花に伝えると、やはりまだ先のことなのでわからないと言われた。それでも俺と別れる選択は考えていないようで、家のことを聞いてから考えると言ってくれた。これまで俺が家に呼んだのは男だけだったので〝彼女を連れてくる〟と言うと両親は驚いていたが、俺が真剣に将来のことを考えていると分かって嬉しかったらしい。
 両親とも楓花のことを受け入れてくれたし、楓花も俺の決意を聞いてくれた。仮ではあるがプロポーズすると、楓花は笑顔をくれた。
「その日を待ってるから、今度こそ泣かせてな?」
「──ハードル上げんな……」
「晴大ならできる。だって──他の人らとは違うから」
 母親が持ってきたケーキを食べてから、化粧を直そうとする楓花の邪魔をしてベッドで組み敷いてやった。楓花を家に呼んだ時点で抱くつもりにしていたし楓花も全く抵抗しなかったが、いろいろ考えてやめた。
 その代わり楓花を穴が空くほど見つめ、限界まで焦らしてから唇を重ねた。重ねたというより、奪ったのほうが近いのかもしれない。優しくするつもりだったが理性を抑えられず、楓花の唇の柔らかさを角度を変えて何度も確かめた。たまに漏れる楓花の声が甘く可愛くて、余裕すらなくなりかけていた。
「は、る……と……苦……し……」
 楓花の訴えに気付いてようやく唇を離すと、だらりと俺の口から出てしまった透明なものが──ぽつっと楓花の閉まりきらない唇に落ち、そのまま口に入ってしまった。
「ごめん、よだれ落としてもぉた」
「……今さら?」
 笑いながら起き上がろうとする楓花を手伝い、髪を整えてやりながらぎゅっと抱き締めた。ずっとそのままでいたかったが、楓花が化粧を直すのをじっと見ていた。
 久々の大学には楓花と一緒に行った。帰りに会うことは何度かあったが、朝に一緒なのは初めてだ。朝は苦手ではないが生活リズムが戻っていないので、電車の中では楓花に凭れてしまう。大学の最寄駅を降りてからは、楓花に手を引かれて歩く。
「渡利……おまえ、おったんやな」
「は? おったら悪いか?」
 教室に入るなり桧田が突っかかってきた。楓花と二人きりの幸せな時間が途切れてしまった。
「──くっそぅ……、相変わらず飄々としてんな」
「別に普通やろ。俺は俺やし。おまえがうっせぇ」
「なんやと?」
「ちょっと二人ともっ、晴大っ」
「おまえが先に言ったんやぞ。……行こ、楓花」
「あっ──、翔琉君ごめんっ」
 桧田の声を聞きたくなくて、楓花を連れて遠くに席を取った。楓花は桧田に謝ってはいたが、すぐに俺のほうを見て嬉しそうに笑っていた。
 楓花が所属しているゼミのメンバーが一人増えた。というより、長く出席していなかった一人が顔を出すようになった。それは、晴大だ。
 楓花は初め観光に興味があったけれど、晴大の影響でビジネスコミュニケーションのゼミを選んだ。彩里は離れたけれど、翔琉が一緒だった。晴大は所属だけ聞いてメンバーは聞いていなかったようで、楓花が話すのを聞いて明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
「まぁ良いか……楓花いるし」
 大学三年になってゼミが始まったときに四年生が歓迎会をしてくれていたけれど、改めて晴大の歓迎会を三年だけですることになった。晴大がスカイクリアを継ぐことについて話が広げられ、楓花にも話を振られた。
「長瀬さん、渡利と付き合ってるやん? 渡利んとこ就職するん?」
「えっ、ううん。普通に就活するけど」
「へぇ……。なぁ渡利、もしやで、もし長瀬さんと俺が同じとこ就職して、仲良くなっても文句言うなよ?」
「──友達ならな?」
「いやいや渡利、そこはさぁ、分かるやろ?」
 おそらく本気ではないので先生も笑っていたけれど、晴大の顔は少しずつこわばってきていた。楓花は隣に座っていたので〝そんなことはあり得ない〟と彼を落ち着かせた。
「まず楓花がおまえを選ばんと思うけど」
「いや、確かに渡利すごいけど──」
「渡利はっ!」
 楓花と晴大とは離れて座っていた翔琉が、店の迷惑にならない程度に声をあげた。全員が翔琉に注目した。
「渡利は──楓花ちゃんにプロポーズして、楓花ちゃんもOKした。卒業してすぐではないけど結婚するって、聞いた」
 その言葉でまたメンバーは盛り上がってしまったけれど、それは嫌なものではなかった。晴大は楓花を狙った男性陣から謝られ、楓花は女性陣から詳しい話を聞かれることになった。
「おいっ、渡利っ、俺は別に、おまえを助けたんちゃうからな」
「ふん。……助かったわ」
 翔琉が照れ臭そうにしながら席を立ち、それを見て晴大が嬉しそうにしているのを、楓花は見逃さなかった。もしかすると翔琉は、晴大と距離を縮めようとしているのかもしれない。
 楓花は大学にいるときはだいたい晴大と一緒だった。翔琉が歓迎会で話したことはいつの間にか二人を知る全員に広まって、どこから伝わったのか、いつか晴大が一回だけデートした女性にまで知られてしまっていた。
「私のことは一回遊んで捨てたくせに、なんでそんな女と? 私のほうが映えるやん?」
 キャンパス内の掲示板の近くで見つかってしまった。
「うっさいな、そもそも付き合ってないから捨てたんちゃうし。……おまえが狙ってるのは俺の金やろ」
「違うっ。その子だって」
 晴大の財産が目当てだろう、と言葉を変えて何回も言われた。財産は全く狙っていないけれど、楓花よりも女性のほうが晴大と並んで映えるのは確かだ。
「楓花、俺はそんなこと思ってないからな? 俺が楓花を選んだんやから、気にすんな。楓花は可愛い」
「うん……」
 晴大はそう言ってくれるけれど、楓花は涙を流してしまった。
「なに泣いてんの……私のほうがお洒落やから、悔しいんやろ?」
「おまえさっきから楓花のこと──」
 晴大は女性に手を上げそうになったけれど、さっと誰かが間に入ってきて晴大の動きを止めた。晴大の手は行き場をなくしてぷるぷると震えていた。
「……桧田?」
「おまえ暴力なんかしたら、楓花ちゃん泣くだけやぞ。まぁ……フリしただけやろうけどな。下がってろ」
 晴大は楓花を守りながら少しだけ下がった。
「あんた何? どいてよ」
「どくのはあんたや。渡利は楓花ちゃんのこと本気やぞ。家のことは誰も最近まで知らんかったしな。楓花ちゃんはあんたみたいにジャラジャラ飾らんでも可愛いし、無駄に騒げへんし──たぶんやけど渡利の弱いとこも全部知ってんやろ?」
「弱い? 晴大君のどこがっ、完璧やん」
「付き合ってたら聞かされてんちゃうん? 渡利、どうなん? おまえだって人に言いたくないことあるやろ」
「……あるな。楓花には、出会った日に言ったな」
「おまえ、言えるか? 言われへんよな?」
「……もういいっ、もっと良い男いるし!」
「あっ、おいっ、謝れよ!」
「翔琉君、良いから……ありがとう」
 女性は走って逃げていき、翔琉は〝捕まえなくて良いのか〟という顔で晴大を見ていた。
「──また助けられたな」
「俺はっ、楓花ちゃんが困ってたから……」
「ううん、翔琉君は晴大を守ってくれた」
「誤解すんな……誰が渡利なんか……」
 翔琉はそっぽを向いているけれど、照れているのは明らかだった。晴大は短くため息をついてから、さっと翔琉に右手を出した。
「なに?」
「はよ出せ。手」
 翔琉がしぶしぶ手を出すと、晴大はガシッと握手をした。
「おまえのこと見直したわ。借りは……どっかで返す」
「──す、好きにしたら良いやろ。じゃあな」
 翔琉は晴大の手を力いっぱい振りほどくと、早歩きでどこかへ行ってしまった。晴大も少しは照れていたけれど、満足そうにも見えた。
「これから……翔琉君と仲良くするん?」
「どうやろな。借りは返すけど」
「もう、素直じゃないなぁ二人とも。素直な晴大も好きなんやけどなぁ」
「……楓花には素直やろ?」
「それを翔琉君にも」
「は? 俺と桧田が? いや、それ拷問やろ、そもそも俺、男は」
「え? 何言ってんの? 翔琉君とも素直に話したら?、って言ってるんやけど」
「そっちか……ややこしい言い方すんな」
「えー、何かややこしかった?」
 晴大が何を勘違いしたのか分かってしまったので、楓花は笑いながら聞いた。もちろん楓花もそんなことにはなってほしくなかったので、〝私には素直すぎる〟と笑いながら晴大と腕を組んだ。
「晴大……晴大の誕生日、晴大が行きたいところに行こ?」
 楓花の誕生日に晴大は自身の誕生石のペンダントをくれた。だから楓花も誕生石のペンダントを──と思ったけれど晴大にはあまり似合わないし、一月の誕生石ガーネットは赤いので似合ったとしても変に目立ってしまうのでやめた。
 晴大にどこに行きたいかと聞くと、少し考えてから京都だと返事がきた。最近は日本人はもちろん訪日外国人が増えすぎてのんびりとは歩けなくなったところだ。
「早朝とか夕方なら空いてんちゃう?」
「どうやろなぁ……二時間くらいかかるから、電車なくなるし長居は」
「車で行くし、帰りも家まで送る。バスとかも乗れるか分からんし」
 晴大の誕生日の朝、いつものように駅前で待ち合わせてから、晴大は頑張って京都まで車を運転してくれた。予想通り言われた〝何か喋れ〟には、一ヶ月先のクリスマスのデートプランを提供しておいた。
 空いている駐車場に車を停めて、早めの昼食にした。人気店だったけれどオープンしてすぐだったので行列ができる前で、広い個室を用意してもらえた。
「早めに来て良かったな。食べたら高台寺(こうだいじ)あたり行って……さすがに清水寺は人多いやろうし、近くの寺でゆっくりしよか。あとは──楓花、何かスイーツ食べたいやろ?」
 注文した料理を味わって、お茶を出されてから楓花は晴大にプレゼントを渡した。晴大は嬉しそうに包みを開け、中身を見てまたさらに嬉しそうに笑った。
「楓花、これ俺、買わなあかんなって思っててん」
「良かった。それくらいやったら目立たんで良いやろ?」
 楓花が晴大に贈ったのは、ネクタイピンだ。シンプルなシルバーのデザインで、先のほうにガーネットを埋め込んである。
「楓花も誕生石くれる気して調べたんやけど……」
「私の今の気持ち。変わることはないと思う」
 ガーネットの石言葉には〝真実〟や〝友愛〟がある。一途な愛や変わらない友情の証しとしてプレゼントされることもある石だ。
 ネクタイピンだけではどうかと思ったので、合いそうなネクタイと万年筆もつけた。スカイクリアで働くことが決まっている晴大には、持っていてもらいたい物だ。
「楓花、いつになるか分からんけど、絶対──泣かしたるからな。それまで、変えんな」
「ふふ。分かった」
 晴大が大学にネクタイをしてくることはないけれど、万年筆はちゃんとペンケースに入れてくれていた。楓花が貰ったボールペンと合わせて、持っていると知っているだけで顔が緩んでしまう。
「ん? 渡利……良い万年筆持ってるな?」
「これですか?」
 珍しそうに見ていたのはゼミの先生だ。ゼミによっては普通の教室を使っているところもあるけれど楓花たちは研究室と繋がった部屋を使っているので、他の学生や先生には内緒でゼミ室でパーティーをすることもある。
 晴大のペンケースから万年筆が転がって出ていたらしい。
「どこで買ったん?」
「貰ったんですよ、誕生日に」
「プレゼント? ……長瀬さんから?」
「はい」
「ふぅん……長瀬さん、これいくらしたん? 高いやつやろ?」
「そんなん、言えないです」
「俺も欲しくて見たことあるんやけど……」
「あーっ、ダメですよ、言わんといてください!」
 楓花が思わず声を上げると、先生は笑いながら研究室のほうへ戻っていった。
「楓花ちゃん、バイト確かホテルって言ってたよなぁ? 時給いくら?」
「確か、千八百円くらい……」
「えっ、良いなぁ。ちなみに渡利君は?」
「俺は……二千円やったんちゃうか?」
「私らさぁ、英語は得意なはずやけど、この二人は別やもんなぁ?」
 就職活動が始まってから楓花はアルバイトの日数を減らしたけれど、それでも毎月の給料が少ないとは思わなくなった。晴大ももともと時給が良かったところ、接客態度が良くなって知識も増えたので、大学を卒業するまで変えない条件で高額になったらしい。
 クリスマス当日は平日で直前の週末も二人ともアルバイトが忙しくなると分かっていたので、その少し前の大学の帰りに梅田で降りてイルミネーションをゆっくり見に行った。一緒に過ごすことが増えて話題は尽きてしまったけれど、特に気にならなかったし、晴大も〝何か喋れ〟とは言わなかった。
「そういえば、EmilyからJamesと撮った写真届いてた」
 晴大に写真を見せると、あとでJamesに連絡しよう、と言っていた。アメリカの大学の一年間は日本より半年遅れているので、卒業するのは楓花たちが先だ。EmilyとJamesが日本旅行に来る頃、楓花は何の仕事をしているのだろうか。
 年末年始は晴大に会えなかったけれど連絡は頻繁に来ていたし、冬休み明けも一緒に大学へ行った。少ししてからあった後期試験は、楓花はまた良い成績を残すことができた。
「晴大は?」
「ん? ……ああ……一個だけ落としたわ……」
「えっ、そんなことあるん? 何落としたん?」
「──楓花をちゃんと守ること。俺、桧田が弱いとか言っといて、自分が弱いな。……フリでも女に暴力とか」
「ううん、晴大はいつも大事にしてくれてる。あれはしょうがない。私のためにああしてくれたんやし」
「はいはいはいはいそこ、続きは家でやって」
 楓花と晴大の間に翔琉と彩里が入ってきた。二人が話していたのは、事務室の前だ。
「聞いてあげて、翔琉君、試験全部受かっとって、しかもSも二つあったって」
「えっ、すごっ」
「渡利──おまえのお陰や。その、ありがとうな」
「え……晴大、勉強教えてたん?」
「……借りの分。桧田が〝一個はそれで返せ〟って言うから」
「渡利、今回はマジ助かったけど、やっぱおまえと二人でおるのは嫌やわ。だからもう一個は……〝楓花ちゃんを幸せにしろ〟。もう、泣かすな。それで無しにしてやる」
「──言われんでも」
 大学四年の五月の連休に、楓花たちのゼミは研修センターへ合宿に行くことになった。他のゼミでは三年の夏休みに行われたけれど、晴大がいないから、という理由で楓花たちだけ延期されていた。楓花は特に問題ないけれど──、晴大は翔琉と同じ部屋になったことを不服そうにしていた。
 今回の合宿の目的はゼミの仲間との交流のほかに、卒業論文や就職に向けて英語漬けの時間を過ごすことだった。楓花は英語には困らなかったけれど、何時間も英語ばかりだと息苦しくなってしまう。
「あー、マジ疲れた、俺、英語と関係ないとこ就職しよかな」
 楓花が研修センターのウッドデッキで考え事をしていると、翔琉が友人と一緒にやってきた。外灯はあるけれど暗いので、外に出るまで楓花がいることに気付かなかったらしい。
「あれ、楓花ちゃん一人? 渡利は?」
「さぁ……聞きたいことある、って先生とこ行ったけど」
「ふぅん。──ごめんな、いろいろ」
「え? 何が?」
 翔琉に謝られたけれど、理由が分からなかった。翔琉が楓花の隣に座ったので、彼の友人は気を遣ったのか館内へ入っていった。
「いろいろ。俺のわがままに付き合ってもらったし。好き勝手ばっかり言って、楓花ちゃん困らしてばっかやったやろ?」
「そんなことないよ、私だって、キツいこと言ったし……それに、あの頃は楽しかったし」
 楓花は最終的に晴大を選んだけれど、翔琉と過ごした時間も良い思い出だった。悪いことをした事実は変わらないけれど、翔琉は今はちゃんとした大学生になった。相変わらず勉強は苦手なようだけれど、四年で卒業して就職できるように努力していた。
「渡利のことも、めちゃくちゃ言うたしな……」
「ははっ、それは私もやし、気にせんで良いよ」
「俺──ほんまは、あいつのこと嫌いちゃうねん」
「……そうなん?」
「最初は、楓花ちゃんから噂聞いて、俺も見たし、飄々としててなんかムカついたし、なんやこいつ、って思ったけど、あかんことはしてないんよな。頭良いし。言ってることも正論やし。ほんまは仲良くしたかったんかもな」
 翔琉は〝今さら無理だ〟と言いながら笑った。
「そんなことないと思うけど……今からでも」
「いや──嫌いちゃうけど、敵やからな」
「──どういうこと?」
「こんなこと言ったらまた渡利に怒られるけど、俺まだ楓花ちゃんのこと好きやから……だから、あいつ見たら沸々と、敵意がな」
 翔琉はまた笑っているけれど、悲しそうな目をしていた。もう楓花とは付き合えないと分かっていても、翔琉は楓花を助けてくれていた。翔琉はいつも強がっていたけれど、本当は晴大と同じで優しい青年だったのかもしれない。
「──おい、桧田、何してんや?」
 晴大がドアを開けてウッドデッキに来た。楓花がここにいることは、晴大には既に伝えてあった。
「別に、おまえに怒られることしてないし。……行くわ、楓花ちゃん、また明日!」
 翔琉は楓花に手を振って、一瞬、晴大を見てから走ってどこかへ行ってしまった。
「楓花、ほんまに何もされてないか?」
「ははっ、大丈夫、翔琉君は、今までのこと謝ってただけ」
「……なら良いけど」
 楓花は翔琉が言っていたことは晴大には言わないことにした。翔琉があの態度でいるうちは、本当の気持ちは知られたくないはずだ。それに楓花が言うよりも、できれば本人同士で解決してもらいたい問題だ。
「くっそう、なんで俺あいつと同じ部屋なん」
 楓花と一緒が良かった、と言っているけれど、それは絶対に無理なことだ。
「仕方ないやん、一部屋で足りる人数なんやし。……前さぁ、翔琉君と握手してたやん? 仲直りしたんじゃないん?」
 それとなく聞いてみると、晴大は少しだけ唸った。
「俺はそのつもりやったけどな。あいつ相変わらずムカつくことしか言わん」
 晴大と翔琉が仲良くなるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 翌朝、朝食後に自由時間があったので、楓花は晴大に誘われて施設内の遊歩道へ散歩に出かけた。
「晴大、なんか眠そうやけど、寝れんかった?」
 朝に弱くないはずの晴大が珍しく目を擦っていた。
「寝たかったんやけどな……くっそう……桧田のイビキで何回も目覚めたわ」
「ああ……それは、残念」
 他にも起こされた学生がいて、その度に一緒に翔琉に枕やクッションをぶつけていたらしい。
「寝言も言ってたしな。……あいつ、夢でも俺と仲悪いらしいわ」
「ははっ。何て言ってたん?」
「……楓花を泣かしたら許さんぞ、って。俺は、泣かすつもりやけどな?」
 晴大は笑ってから、楓花の手をとった。泣かすと言われてもそれは嬉しい意味なので、楓花もつられて笑顔になってしまう。
 山の中なので涼しくて、歩いているうちに晴大はようやく目が冴えてきたらしい。昨夜、楓花と別れて先生に聞きに行っていたことをいろいろ教えてくれた。
「やっぱり晴大はすごいなぁ。もう将来のことまで考えてて……私なんか全然やのに」
「俺は──俺は俺やからな。楓花も自分のペースで決めれば良い。……俺が継ぐとき、できたら近くにおってほしいけど」
 それは、楓花が晴大と結婚して一緒に暮らせていれば良いな、という意味だ。楓花もそのつもりにしているし晴大の仕事をできる限りサポートしたいとも思っているけれど、今から考えられることではない。
「楓花」
「ん? どうしたん?」
「就活、これから大変やろうけど……諦めんなよ。うちのこと気にせんと、楓花がやりたいこと選んだら良いし」
 大学四年生になってから楓花はいくつかの企業にエントリーシートを提出し、残念ながら全てがお祈りメールで返ってきていた。
「就活終わったら──あ、卒論があるんか……全部終わったら、旅行しよか」
 六月になって就職活動は本格化したけれど、楓花は既に自信を無くしてしまっていた。大企業には書類で落とされ、中堅企業や中小企業には一次面接で落とされた。楓花は何らかの形で英語を使う仕事を希望していたけれど、思いつくほとんどの企業とは縁がなかった。
 大学卒業までに必要な単位は取れると確信できているので、大学にはあまり行っていない。必須の授業やゼミを中心に出て、あとの時間は就職活動とアルバイトと卒業論文に充てていた。
 もしかすると英語を生かせるかもしれない、と思って地元の食品メーカーを受けてみたけれど、予測通り潰されてしまった。この日は夕方にアルバイトの予定が入っていたけれど、行く気になれず休む連絡を入れた。
「あら? 楓花ちゃんじゃない?」
 電車の最寄駅を降りると、後ろから声を掛けられた。
「やっぱり、楓花ちゃん! もしかして……面接の帰り?」
 声を掛けてきたのは、晴大の母親だった。
 楓花は帰って眠りたかったけれど、母親に誘われて渡利家へ行くことになってしまった。晴大は今日は大学へ行って、午後はアルバイトだと聞いている。
 渡利家には晴大の父親は不在だった。女同士なので話はしやすいけれど、相手は──きっと、未来の姑だ。悪い人ではないと分かっているけれど、緊張してしまう。
「就職活動、うまくいってないの?」
「はい……。始まったとこなんで、まだ大丈夫なんですけど、お祈りメールばっかり届くから……」
 今日の面接もたぶんダメです、と力なく言うと、母親は楓花の隣に座りに来た。
「晴大から、うちで働かないか、って話はされてる?」
「……はい。でも、好きな仕事したら良い、って言ってくれたから……。いつかは隣で支えたいとは思うんですけど、今はまだ分からなくて」
 最初から頼るのも嫌だったし、一人で社会に出て働いてみたかった。
「晴大とは──確か、成人式の後から付き合ってるって言ってたよねぇ?」
「はい。同じ中学で、大学で再会して……」
「晴大はたぶん、その頃から楓花ちゃんとの将来を考えてたと思う」
「え? あ──そういえば、お父さんに〝相手探してやる〟って言われたの断ったって」
「そう。大学入ってすぐの頃かな。あんな真剣な晴大、初めて見たかなぁ」

 ──母親の話によると。
 晴大は大学に入ってから、父親にスカイクリアを継ぐ意志があることを話した。父親は快く受け入れたけれど、アメリカで経営を勉強することと、卒業後は早くに結婚することを条件にしたらしい。
『相手は、そうやな、娘さんいる知り合いに聞いてみよか』
『やめてくれ、そんなすぐに信用できんわ』
『そんなことないやろ、顔で断られることないやろうし、今から徐々に……四年もあったら』
『そんなん、無理』
『何言ってんや、出会って一年も経たん間に結婚して上手くいってる人もいるんやぞ。信用は後からでもついてくるやろ。……形だけで良いから、とりあえず落ち着け。今みたいにフラフラしてたら、おまえに信用ないぞ』
 それでも晴大は父親が言うことを全く聞かなかった。そっぽを向いて不機嫌そうに口を尖らせていた。
『晴大──彼女でもいるんか?』
『……おらんけど、気になる奴ならいる』
『ほぉ。どんな子や?』
『いま同じクラスで、ensoleilléの隣のホテルでバイトしてる。英語はたぶん俺より得意やわ。そいつのことは信用してる』
『ふぅん。脈ありそうか?』
『──今は嫌われてる。でも誤解されてるだけやし、誤解とけたら──いける気はする』
 晴大は初め言いたくなさそうにしていたけれど、父親には打ち明けたらしい。それから父親は何も言わなくなり、晴大が楓花を紹介する日を待つことになった。

「晴大は──親の私が言うのもおかしいけど、良い顔してるでしょ? だから女の子に困らされてるかなぁ、とは思ってたのよ。でも楓花ちゃんは晴大の内面を見てくれて、晴大も安らげたん違うかな」
 楓花は晴大の顔を──もちろん格好良いと思うけれど、それほど評価したことはない。同級生の誰も知らない弱い面を見て、強がりな態度に隠された本当の意味を聞いて、もっと奥にある優しい心を知った。楓花のことを何年もずっと好きだったと聞いて、彼に素直にならずにはいられなかった。
「楓花ちゃんのことは私も気に入ってるし、将来──お嫁に来てくれたら嬉しい。晴大と一緒にスカイクリアを継いでくれたら、もっと嬉しい」
「……もし違う仕事に就いたら、私どうなりますか?」
「それは楓花ちゃんの自由よ。本当に、好きな仕事をしてくれて良いの。私はただ、楓花ちゃんには、晴大のそばにいてあげてほしくて……。晴大、高校のときは表情が硬くてね。でも今は毎日楽しそうで……」
 きっと楓花が近くにいるからだ、と母親は言った。楓花は高校時代の晴大を知らないけれど、大学入学で再会したときよりも今のほうが、表情が豊かになったと感じていた。
「ねぇ、晴大は……何を誤解されてたの?」
「それは──」
 非常に言いにくかったけれど、言葉を選びながら楓花は正直に話した。話し終わると母親は、晴大は何も悪くないと分かって安心していた。
「態度があんまり良くなかったから、良い人か悪い人か分からなくて……でも私には、ずっと優しかったんです。いつも私のこと気にしてくれて……」
 晴大は自分が傷つくことよりも楓花の幸せを考えてくれていた。
「私、前は何でも友達に合わせてたけど、付き合いだしてから、自分の意見を言えるようになったんです。だから感謝もしてて……そばで支えたいとは思うけど、頼ってしまうのは嫌で……」
 楓花が母親に正直に複雑な気持ちを伝えると、ゆっくり悩んで決めれば良い、と優しく言ってくれた。