Pure─素直になれなくて─

 夏休みの間、楓花は友人たちにはほとんど会わなかった。前期で予定していた単位は全て取れていたので、夏休みの間はアルバイトの時間を増やした。旅行客も増える時期で楓花の英語力も上がっていたので、時給も少しだけ上げてもらえた。
 合宿で彼女ができたら勝ち、と翔琉は勝手に晴大に勝負を持ちかけていたけれど、結局それは勝負にならなかった。翔琉は楓花に話しかけようと機会を窺っていたけれどそもそも班が違ったので時間は取れず、晴大は楓花と一緒のことが多かったけれどそんなことを言う気配すらなかった。
 翔琉は再試にはなんとか合格できたようで、そのことは八月になってから楓花に連絡があった。試験の結果は判定だけは担任から知らされたけれど、詳しい点数は自宅に郵送された。翔琉が再試を受けた試験は、楓花はS判定の満点だった。
 自分で自分の評価を下げるな、と晴大に言われたことを楓花は考えていた。合宿ではそれ以上の説明はなかったので、真意は分からなかった。わざと悪い点数を取る、という意味ではないとはすぐに分かったし、楓花もそんなことはしていない。楓花がしたのは、自分の本当の成績を隠して周りに合わせることだ。本当は余裕で合格だったけれど、友人たちから差別されるのが怖くて嘘をついた。楓花も彼らと同じレベルだと、わざと思わせた。
 そんなことをせずに本当の自分を曝せ、と晴大は言いたかったらしい。
「下に合わせてたら、ほんまにそうなるぞ」
 ある日のアルバイトの帰り、帰りの電車で晴大と一緒になった。
「まぁ──今のとこ大丈夫やと思うけどな。バイトでも頼りにされてるみたいやし」
「……なんで知ってんの?」
「前──うちの店に来た女の人が、〝最近入ったバイトが英語ペラペラで助かってる〟って話してた」
 そのことから推測して、楓花は日常英会話には困らないと判断し、試験もそれに近い内容だったので楓花にとっては簡単だろうと思っていたらしい。
「あいつから──告白された? 桧田」
「えっ……、されてない」
「やっぱ口だけか……。あいつ弱いよな」
「──弱い?」
 翔琉は勉強はそれほど得意ではないようだけれど、サッカーが上手いのは知っている。クラスの中でも外見に伴って性格も明るいほうで、どちらかというと人気なほうだと思う。何をもって弱いというのか、楓花には分からない。
「知ってるやろ? 合宿の前にあいつ言ってたこと。俺と勝負するって。大きい声で、響いてたよな」
「うん……全部聞こえた」
「別に勝負なんかせんでも、勝手にしたら良いのに。別にLINEとかで誘われることもないんやろ?」
 翔琉からはたまに連絡が来るけれど、デートの誘いは全くないし、どんな人が好きなのかも聞かれたことはない。楓花のことを気にしているのは分かるけれど、直接なにか言われたこともない。彼の性格なら〝とりあえず〟付き合ってみようと言われそうな気がしていたし楓花もそのときの対応を考えていたけれど、それよりも晴大が〝気をつけろ〟と言うわりに〝勝手にしたら良いのに〟と言ったことが、楓花には興味がない、と言われた気がしてほんの少し悲しくなった。もちろん楓花も晴大には特に興味がないし、噂のことも忘れてはいない。
「あいつ自分から何も出来んのか? 勝算なかったら告白もせーへんとか……」
「それが、弱いってこと?」
「フラれんのが怖いんちゃうん? 長瀬さんが桧田のことどう思ってんかは知らんけど。あと流されやすいよな」
 楓花は翔琉のことは気にはなっているけれど、付き合いたいと思ったことはない。だから今は彼のことを知っていきたいけれど、なかなか上手くいかない。そんなことは、晴大に言うつもりはない。
「それは渡利君と比べたらあかんと思うけど」
 いまの晴大の状況は分からないけれど、彼は過去に何人も彼女がいた人だ。告白されたのが多かったとしても、それが全部だったわけではないはずだ。
「そんなことないやろ? 俺に勝負しにくるくらいやし。あ、言っとくけど、俺はそもそも乗らんかっただけやからな?」
 やはり晴大は楓花には興味がないらしい。
「だいたい男のほうが力強いし、下に引っ張られんなよ。一緒におったら周りからは男のレベルに見られがちやからな」
 もしかすると晴大は、楓花が翔琉に合わせることで周りからの楓花の評価が翔琉と同じになる、と忠告してくれたのだろうか。中学生のとき楓花が何の接点もなかった晴大にリコーダーを教えたことで、楓花は仲間を傷つけない、と思われているのだろうか。
 晴大のことはいつ見ても格好良いと思うし、二人でいるときは周りの女性たちからの視線がとても痛い。楓花はこれまで顔を評価されたことはほとんどないので、〝あんな女より私のほうが彼と釣り合うはず〟と悔しそうな顔で何度も見られた。それならいっそ付き合うほうが周りが大人しくなると思ったけれど、彼にそんな気はないように見えるし、高校時代の噂もあるので気は進まない。
 翔琉が動いてくれないのなら、自分から仕掛けてみようか。
 と思いLINEを送ろうとしたけれど、何を言えば良いのか悩んでしまう。翔琉のことは知りたいけれど、彼の夏休みの予定は分からない。居酒屋のアルバイトをしていると聞いたので会うなら昼間だろうか。
 晴大は翔琉が弱いと言っているけれど、楓花はそこまでは思わなかった。だから試験のことは引き続き黙っておくことにしたし、数日後に届いたデートの誘いにも乗ることにした。ただしそれは、翔琉と二人で、というのではなく、智輝とその彼女も同行するらしい。
 楓花は智輝のことが気になっていたけれど、智輝の彼女・直子(なおこ)には敵わないと体育祭のときになんとなく思ったし、実際に話してみて確実にそうだった。直子は智輝とは高校の頃から付き合っていて、智輝と同じ理学療法士を目指しているらしい。
「直子さんってスポーツしてるんですか?」
「今は授業しかしてないけど、高校のときはバレー部やったよ。私は智輝とは違って普通に引退しただけやけど」
「それでかぁ……。健スポの人ってみんな引き締まってるけど、直子さん特にキレイです」
 休み時間の移動中にジャージを着た学生たちとすれ違うことが週に何度かある。直子を見かけたことはないしジャージなので体型は分かりにくいけれど、なんとなくそんな気がした。
「そんな……、ありがとう」
 直子は素直に喜び、隣を歩く智輝に半分冗談で『私きれい?』と聞いた。
 お昼前に待ち合わせ、昼食を取ってから水族館へ行った。智輝がチケットを四枚手に入れて、直子と行くことを決めたあと、楓花と翔琉を誘ってくれたらしい。
「ありがとうございます。夏休みバイトしかしてなかったから退屈してて」
「何のバイトしてるん?」
「ホテルです。外国の人が多いから、英語得意じゃないスタッフの通訳とか」
「さすがやなぁ。桧田は──居酒屋って言ってたな?」
「はい。あ、お酒はまだ飲んでないですよ?」
 長らく放置されていた翔琉は、智輝に話題を振られて嬉しそうにしていたけれど。
「英語は生かせてるん?」
「いえ……、日本人ばっかです」
 もしも外国人経営のパブだったら英語の勉強になったかもな、と笑われて悔しそうにしていたけれど、気を取り直して翔琉は水槽のほうに駆け寄って楓花を呼んだ。
 夏休みだったのもあって子供の姿も多く、全てを見ていると予定より時間がオーバーしてしまった。出口付近にあった売店でソフトクリームを食べた。
「手ベタベタやな……洗ってこよう。楓花ちゃんも行く?」
「あ……っ、はい」
 直子は〝行く?〟と聞いていたけれど、〝話があるから来て〟という顔をしていた。何の話なのかは最初から気づいていた。このメンバーで行くと聞いたときにそんな気がして、水族館を回っている間に確信に変わった。
「楓花ちゃん、大丈夫? 疲れてない?」
「はい……」
「このあと解散の予定やけど──、二人にして良いかなぁ?」
 夏休みが始まる前、智輝は翔琉から〝楓花に告白したいけど勇気が出ない〟と相談されたらしい。初め智輝は〝自分で頑張れ〟と笑っていたけれど、少ししてから水族館のチケットを手に入れたのでダブルデートを提案したらしい。
「楓花ちゃんと桧田君って、性格あんまり合わなさそうやけど……」
「まぁ、そうですけど……でも大丈夫です。私も翔琉君のことちゃんと知りたかったし」
 それから待っている男二人のところに戻り、駅まで一緒に歩いてから智輝と直子は行くところがあると言って楓花が帰るのとは違う方向へ向かう電車に乗った。
「ええと、私は──」
「楓花ちゃん、時間ある?」
「うん。明日は朝からバイトやから遅くまでは無理やけど」
「じゃあ、花火行かん?」
「あ──そこの港の? 今日やったっけ? 人多いよなぁ?」
「任して、穴場あんねん」
 花火の会場からは離れたところにある展望台に翔琉は連れていってくれた。屋外なので少しは暑かったけれど、人の数はあまり気にならなかった。早めに到着したのでベンチを確保できたし、もちろん港までの景色を遮るものも無かった。
 夕食を食べに行ってしまうと席がなくなる可能性があったので、翔琉がコンビニでホットスナックとおにぎりを買ってきてくれた。
「ごめんな、こんなとこで……」
「ううん、良いよ、ありがとう」
「あのさ──渡利はやめたほうが良いぞ」
 突然の発言に楓花は思わずむせた。お茶を飲んでから翔琉を見ると、ものすごく真剣な顔をしていた。
「え? なに急に? どういうこと?」
「前に楓花ちゃんも言ってたけど、あいつ、見る度に違う女の子と歩いてる」
「ああ……そうらしいなぁ」
 高校の頃からそんな噂はあったので、今さら聞いても特に気にしない。
「なんか、飄々としてるというか、一匹狼というか……俺と違いすぎて分からん」
 翔琉は頭をかきむしりながら晴大のことをぶつぶつと話していた。女癖が悪そうなのに成績優秀でイケメンなので、好きにはなれないけれど羨ましいらしい。
「中学とき、あいつとはどういう関係やったん?」
「別に、ただの同級生やけど……同じクラスなったこともなかったし」
 リコーダーを教えていたことは、もちろん秘密だ。
 ドン、と大きな音がして、花火が打ち上げられた。
「ひゃっ?」
 楓花はベンチに付いていた手を思わず引っ込めた。温かい感覚があって、隣で翔琉が慌てていた。
「ごめん……つい……」
 翔琉が手を握ろうとしてきていたらしい。
「俺、前から楓花ちゃんのこと気になってて……。俺と付き合ってください」
「──返事、今度で良い?」
 楓花は翔琉のことは嫌いではないけれど、半日を一緒に過ごしてみても、彼のことを好きになったとは言い切れなかった。彼は楓花にとても良くしてくれていたけれど、楓花は同じようにはできなかった。
「もしかして、渡利のこと……?」
「違う、渡利君とは何もない。翔琉君のことがまだよく分かれへんというか、私が、まだあかん、って言ってる。さっきも、手……払ってもぉたし」
 もしも翔琉と付き合いたいと思っているのなら、彼の手を振り払うことはなかった。そうなることを期待して、黙って繋がれたはずだ。
 大学の夏休みは長く、後期が始まるのは九月の中旬だ。希望すれば一年の後期にアメリカ分校に留学することができるけれど、楓花は行かない選択をした。彩里と翔琉は経済的な事情で、晴大は家庭の事情で希望していなかった。
 楓花と翔琉の関係は、以前と何も変わっていない。水族館に行ったあと花火のときに告白されたけれど、楓花は返事を待ってもらった。
「え? デートしたん?」
 後期ガイダンスのあと翔琉は帰ったので、楓花は彩里と二人でキャンパス内のカフェに来ていた。パニーニのランチをそれぞれカウンターで受け取り、空いているテーブルを探して座った。
「うん。私も誘おうかと思ってたし、悪くはなかったんやけど……」
 あの日の出来事を簡単に話すのを、彩里はじっと聞いてくれていた。彼女も翔琉のことは嫌いではないようで、少しだけ羨ましそうにしていた。
「何なんやろう、踏み出されへん」
「前にさぁ、付き合ってみんと分からんことある、って言っとったやん? お試しで付き合ってみたら?」
「それが良いんかなぁ? でも、なんか、本能的に……。あと、渡利君に言われたんやけど」
「なになに? 〝俺の女になれ〟って?」
「ちがっ、そんなんじゃないから」
 彩里が笑いながら言ったので、周りにいた人たちの視線が楓花に集まった。楓花が慌てて否定すると、視線は徐々に少なくなった。
「そうじゃなくて、その……自分で自分を下げるな、って」
「……どういう意味?」
 楓花は彩里にも黙っているつもりにしていたけれど、翔琉が赤点を取った試験で満点だったことを打ち明けた。
「もしかしたら、私の周りからの評価が下がるぞ、って」
「──なるほどね」
「嘘はつくな、って言われたけど、翔琉君にはよぉ言わんし、言ったら絶対傷つくし、もしもバレてレベル違う、って離れられるのも嫌やし」
 そんなことを考えていたのもあって、翔琉には良い返事をできなかった。
「楓花ちゃん……渡利君はどうなん?」
「えっ? いや、ないない」
 格好良いとは思うけれど、付き合いたいと思ったことはない。高校時代の噂もあるし、それは今でも変わらないらしい。楓花は見ていないけれど、見かける度に違う女の子と一緒だ、と翔琉が話していた。
「でも楓花ちゃん、ときどき会っとぉみたいやし、翔琉君のことも忠告というか、気にしとったんやろ?」
「言ってたもん、『勝負なんかせんと勝手にしたら良いのに』って」
「ふぅん……」
 パニーニを食べ終えて、残ったドリンクは持ってカフェを出た。キャンパス内の掲示板の前には学生たちが集まっていたので、掻き分けながら学科や教授からの連絡を確認していた。
「あっ、来月、文化祭って、そういえば言ってたな」
 それも体育祭と同じように、いくつかの文化系学科の催しに参加したり有名人の特別講演を聞いたりすると単位が貰える、非常にありがたい日だ。
「そういえば……楓花ちゃん、翔琉君がアウトドアサークル入ったって聞いた?」
「聞いてない。うちの大学の?」
「ううん、確か○✕大学って言ってた。バイト先の人に誘われたって」
「へぇ……。サッカーじゃないんやなぁ」
 翔琉はサッカーが得意とは言っているけれど、運動全般が好きなようなので良いのかもしれない。
「アウトドアって……キャンプとか?」
「何やろう? 季節のスポーツをやる、って言ってたと思うけど」
 それから数日経って、楓花は翔琉からサークルの話を聞いた。春は花見、夏はキャンプ、秋は登山に冬はスキーとアウトドア全般を楽しむサークルらしい。
「ほんまはサッカーが良かったけど、行ってみたら楽しかったし……。あ、それで来月、○✕大学の文化祭で店出すんやけど、良かったら遊びに来て! うちの大学とは違う日やし」
 サークルのメンバーで焼きそばの屋台を出すことになり、翔琉は午前中の店番担当になったらしい。
「○✕大学やったら私の友達も行っとぉし、楓花ちゃんも行く?」
「うん。彩里ちゃんは、友達はサークル?」
「そやねん、演劇部に入ってて、夕方にやるらしくて」
「へぇ……」
「あ、でも遅くなりそうやから、もしバイトやったら」
「俺──昼で交代やからさぁ、どっか行かん?」
 翔琉は彩里の言葉を遮ってから楓花を見つめていた。二限と三限の授業が同じ教室だったので、昼休みはコンビニで買ったサンドイッチを教室で食べていた。楓花は彩里と並んで座り、彩里の後ろに翔琉が座っていた。二限も三限も必須科目なので教室には晴大もいるけれど、彼は離れたところで伏せて眠っている。
「バイトあるん?」
「まだ決まってないけど……昼間やったら行けると思う……」
 楓花が言うと翔琉は喜び、彩里はにやけながら二人を交互に見ていた。
「楓花ちゃんって──音楽好きなんよなぁ? 近くで楽しめそうなカフェがあるらしいんやけど」
「あっ、そこ行ったことある!」
 彩里が何かを思い出して翔琉のほうを見た。
「何年か前に親に連れて行ってもらったんやけど、生演奏してた! 確かグランドピアノ置いてた」
「へぇ……楽しそう」
「じゃ、そこ行こ! あ──ごめん、ちょっと電話してくるわ」
 翔琉が教室から出ていったので、楓花は彩里からカフェの話を聞いた。住宅街からは離れたところにある洋館のような建物で、それほど広くはないけれどゆったり食事をして音楽を楽しめるらしい。
 三人の話し声は少しずつ大きくなったので教室全体に聞こえていたと思うけれど、晴大は相変わらず机に伏せていた。
 ○✕大学は楓花が通う大学より遠くにあるので、楓花はいつもより──二限から授業の日より早く家を出た。いつも降りる駅は通り過ぎてもう少し先へ行き、家を出て二時間を過ぎてからようやく駅構外に出た。彩里とはそこで待ち合わせていて、○✕大学までは長い坂道を上ることになる。
「うわぁ、キツそうやなぁ……」
「学生はバスあるんやって」
 勾配は緩やかではあるけれど、距離があるので運動不足の楓花と彩里には辛い時間だった。夏を過ぎて気持ち良い風が吹いていることが唯一の救いだ。
「はぁ……着いたぁ」
 正門で配られていた催し物の案内をもらってから、翔琉がいるはずの屋台を探した。キャンパスが広いのであちこち歩き、一周したところでようやく姿を見つけた。
「なんやぁ、逆に回ったらすぐやったんや」
「お疲れ。坂上って歩いて、疲れたやろ?」
 翔琉は店の前に出てきて、ははは、と笑っていた。まだお昼には早いので焼きそばを買いに来る人はいない。
「ん? 桧田──その子が例の?」
 鉄板のほうを見て調理していた男性が顔を上げて楓花を見ていた。
「あ、はい」
「これ、好きなのあげて。喉乾いてるやろし」
「良いんですか?」
「二人とも、好きなん飲み」
 焼きそばと一緒に売っていたペットボトル飲料をくれると言うので、楓花はお茶を選んだ。彩里ともお金を出すと言ったけれど、奢るから、と受け取ってもらえなかった。
 彼は翔琉のバイト先の先輩で、○✕大学の三年生らしい。気遣いはありがたかったし笑顔で話してくれるけれど──、最初に楓花を見たときの表情が品定めしているようで、嫌な感じがした。
「楓花ちゃん、俺、昼には終わるから、そこの正門で待っててもらって良い?」
「うん。あ──お腹は空かせといたほうが良いんかな?」
「そうやな……あ、軽くなら大丈夫」
 翔琉とは昼過ぎに待ち合わせることを約束し、楓花は彩里と一緒に催し物のある建物に入った。楓花が通う大学と○✕大学は規模やレベルが似ているけれど、受験しなかったのは単純に通えないからだ。
 いくつかの催し物を見て、彩里が友人と合流してから楓花は一人で正門に戻った。朝から歩きっぱなしでお腹は空いていたけれど、楓花は我慢してお腹を空かせたままにしていた。これから翔琉と行くカフェの食事を楽しみたかった。
「楓花ちゃん!」
 翔琉のほうが先に待ってくれていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、腹減ったわぁ、俺、ソースのにおいしてない?」
「大丈夫、してない」
 カフェは隣町にあるようで、楓花は翔琉と話をしながら坂道を下りて、電車に乗った。昼間なので乗客はまばらで、けれど駅から近いカフェの駐車場は車がいっぱいだった。
「良かったぁ、電車で」
「翔琉君……免許持ってるん?」
「ううん、まだやけど……車やったらコインパーキング探さなあかんかったかもな」
 店内もやはり満席だったようで、しばらく待ってからようやく席に案内してもらった。天井が高くシーリングファンがいくつかあって、とても開放的だった。家具は北欧のもので統一されていて、店の中央に置かれたグランドピアノはナチュラルな木目がきれいなピュアオークだ。
「すごい、黒じゃないピアノ初めて見た」
「そうやな……だいたい黒よな? 楓花ちゃんはピアノ弾けるんやろ?」
「うん。もう長いこと弾いてないけど」
 楓花がピアノを見ていると、着飾った男性が二人現れた。一人はアコースティックギターを持っていて、もう一人はピアノの前に座った。演奏された曲を楓花は知らなかったけれど、聴いていて笑顔になっていたようで、いつの間にか翔琉に見つめられていた。
「楓花ちゃんのピアノ聴いてみたいなぁ」
「いや、もう無理無理。指が動かんと思うわ」
 注文した料理が届けられ、楓花は演奏を聴きながら食べた。演奏は上手くて料理も美味しくて、どちらかひとつに集中はできなかった。
「渡利は聞いたことあるんやろ?」
「え? あ──うん。そもそも出会いが音楽室やったし」
「音楽室? 何かしてたん?」
「違う違う、私が一人で弾いてたら、知らん間に聴かれてた。先生を探しに来たみたいで……。横におったのはその時だけやと思うけど」
「そうなん? 実は、楓花ちゃんがピアノ弾けるって、あいつに聞いた」
 翔琉は楓花をデートに誘う前、晴大から楓花の趣味を聞いていたらしい。彩里にも聞いたけれど詳しくは知らなかったので、迷った末に晴大に聞くことにした。もちろん晴大も楓花の趣味は知らなかったけれど、最後に思い出したように〝そういえばピアノ弾いてたな〟とポツリと言ったらしい。
「あいつ最近、楓花ちゃんに何も言ってきてない?」
「そうやなぁ……夏休みに一回だけバイト帰りに一緒になったけど、後期になってからは」
「渡利とは何もないって言ってたけど、告白もされてない?」
「うん。されてない。多分やけど、私に興味ないんちゃうかな」
「それなら、良いんやけど……」
 翔琉は安心したのか、カフェに入ってからようやく笑顔になった。つられて楓花も笑うと、翔琉は食後のアイスコーヒーを思いっきりストローで吸った。それがおかしくてつい声を出して笑ってしまった。
「今日、俺、バイト入ってもぉたから夕方には行かなあかんのやけど……こないだの返事、聞いて良い?」
「──ごめん、まだ答え出てない。でも翔琉君のことは嫌いじゃないから、前向きには考えてる」
「楓花ちゃん、ほんまは……俺なんかより、だいぶ頭良いんやろ? 渡利が言ってた。俺が知ったら傷つくから黙ってたって」
 成績が理由で離れられるのが嫌だったことも、晴大から聞いたらしい。
「優しすぎやわ。ま、それも含めて好きなんやけどな」
「なぁ──、何かあったんか?」
 声がしたほうを見ると、不思議そうな顔をして晴大が立っていた。
 大学のキャンパス内のベンチに一人で座っていると声を掛けられた。全ての学科の共通科目の授業しかない月曜日は彩里とは履修が違うので、楓花は一人で過ごす時間がある。
「最近あんまり授業に集中してないやろ?」
「別に……。何か用?」
「ああ、これ、俺のバイト先の割引券。いっぱい貰ったから、やるわ」
 晴大は鞄から小さい封筒を取り出した。白い無地のシンプルなもので、隅に店のロゴが──流れるような文字で〝ensoleillé〟と書かれていた。
「十枚あると思うわ」
「えっ、そんなに貰って良いん?」
「他に渡す奴いてないし。親も来ることないし。あ、戸坂さんとかにあげても良いけど、一応、優待券みたいなやつやから、使うとき俺の名前言ってな」
 詳しいことを聞こうとしていると、遠くのほうから晴大を呼ぶ女性の声がした。何となく見たことはあるけれど、楓花は彼女を知らない。楓花よりも可愛くてお洒落で、持ち物もブランドに見えた。
「晴大君、何してんの? その子は?」
「あ──いや、何もない、行くか」
 晴大はそのまま向きを変え、女性と一緒にどこかへ行ってしまった。もしかしたら晴大の彼女なのだろうかと思ったけれど、それ以上のことを考えるのはやめた。彼女もまた明日には泣いているのかもしれないし、けれど楓花にはどうすることもできない。
 翔琉にはまだ、返事をしていない。彼は楓花の成績を知っても何も変わらず、今までと同じように接してくれている。だから楓花も必要以上に気にするのをやめたけれど、どうしてか前には踏み出せなかった。
 気になっている人は、他に誰もいない。
 晴大とはよく話すけれど、彼との関係も何の変化もないし、付き合うつもりもない。楓花が晴大と地元が同じだとはクラス全員が知っているので彼のことを聞きに来る人が初めはいたけれど、最近はまた例の噂が広まったようで誰にも聞かれなくなった。
 楓花は食堂へ移動して二人分の席を確保した。お昼は何を食べようか、と考えていると、智輝が直子と一緒に入ってくるのが見えた。
「直子さん、お久しぶりです」
「あっ、楓花ちゃん! 元気?」
 直子は智輝と図書館に行っていて、早めの昼食を取ってから午後はデートらしい。
「授業ないんですか?」
「一限だけ入れてたんやけど、先生の都合で休講やって。嬉しいけど、ひどいよなぁ」
 せっかく出てきたので少しだけ勉強していた、と直子は笑った。
「ところで楓花ちゃん──桧田、どうしてる? 告白して返事まだ、とは聞いたんやけど」
 智輝に聞かれ、楓花は唸ってしまった。
「やっぱり楓花ちゃんとは合えへんのちゃうん?」
 直子が智輝に言った。
「どんな子か私は知らんけど……ちょっとチャラそう」
「そうなんよなぁ。あいつ見た目がな……」
「あ──いえ、嫌いではないし、前向きに考えてるんですけど、踏み出せなくて」
 その原因が何なのか楓花にも分からないけれど、少なくとも彼の見た目は関係していない。
「俺──ダブルデート誘っといてあれやけど、個人的に桧田はやめたほうが良いと思う」
「えっ? どういうことですか?」
「最初に言ったと思うけど、あんまり良い奴ちゃうねん。あ、でも、やること決めたら一生懸命で、そこは良いんやけどな。あいつのこと信じれるまではやめたほうが良い」
 智輝の視界に翔琉の姿が映ったようで直子を連れて食堂から出ていってしまい、楓花も彼に声を掛けるのはやめた。翔琉の姿を見失ったあと、彩里がやってきた。
 二人で日替わりランチを食べながら、やはり彩里は翔琉とのことを聞いてきた。
「何を迷っとんの?」
「分からん……。さっきちょっとだけ本田さんと話したんやけど、翔琉君はやめたほうが良い、って言われて……意味が分からん」
「こないだデートしたんやろ?」
「うん。別に嫌なとこ無かったから、付き合おうと思ってたんやけど、そんなこと言われたら気になって」
「何か──具体的に言ってた?」
「ううん」
 気になったけれど智輝は翔琉から逃げるように去っていってしまった。そういえば晴大も〝気をつけたほうが良い〟と言っていたな、と思い出して余計に迷ってしまう。
「あ──彩里ちゃん──、私のバイト先の隣のレストラン……行く?」
「え、なに急に? 隣って、渡利君がバイトしとぉとこやろ?」
「うん。さっき外で会って、割引券くれたんやけど」
「へぇー。わ、十五%オフってすごいな。……五千円以上の場合、一人一枚、やって」
 割引率はありがたいけれど安いレストランではないし、そもそも交通費が高くなるからと彩里は貰ってくれなかった。
「バイト帰りとかにパートさん誘って行こうかなぁ」
「渡利君は? それくれてからどっか行ったん?」
「──誰か知らんけど、可愛い女の子とどっか行った」
「うわぁ……とうとう見たんか」
 晴大がいつも違う女性と歩いている噂は何度も聞いていたけれど、彩里はまだ見たことがないし、楓花も初めて見た。晴大はいつも通りだったけれど、女性は嬉しそうに目を輝かせているように見えた。
「渡利君って、優秀やし、遊んでる風には見えんけどなぁ。どっちかと言うと、翔琉君のほうが遊んでそう」
「うーん……やっぱ、そう見えるよなぁ」
 翔琉の外見のことは気にしていないつもりだったけれど、晴大と比べると遊んでいるように見える。楓花にはいつも優しく接してくれているけれど、文化祭のときに○✕大学で会った彼のバイト先の先輩には冷たいものを感じてしまった。
 見た目やイメージが人の全て──ではないけれど。
 楓花にはまだ、正解が分からなかった。
 楓花が見た〝晴大と一緒にいた女性〟はやはり、晴大との関係はすぐに終わってしまったらしい。『あの人、やめたほうが良い!』と話しながらキャンパス内を歩くのを見かけた。晴大のほうはときどき見かけるけれど、本当にいつ見ても何も変わらない。教室移動のない休憩時間は勉強しているか机に伏せているかのどちらかだ。
「楓花ちゃん、何見てんの?」
「あっ、ううん、どうしたん?」
「いや? 楓花ちゃん見てただけ」
 楓花と翔琉の関係も変わっていない──けれど。楓花は彼と過ごす時間を増やし、翔琉も友人より楓花の隣にいるようにしていた。
 翔琉は楓花に良いように思われたかったのか、以前より真面目に勉強するようになった。空き時間も図書館で本を読んでいるし、楓花に英語の質問をしてくることも増えた。アルバイトも外国人客が多いところに変えたようで、日常会話がいちばん勉強になる、と嬉しそうにしていた。
「そうそう、掲示板見た? クリスマスツリーの点灯式やるって」
 キャンパス内に大きなもみの木があって、点灯式は冬の恒例行事になっているらしい。
「見たけど、私その日バイトやから行かれへん」
「ええー。マジ?」
「うん。週末やし」
 楓花はまた英語力が上がっているようで、最近はフロントにヘルプで入ることも増えた。
「あっ、おい渡利、おまえ……クリスマスツリーの点灯式、行くん?」
 晴大は席を移動しようとしていたようで、荷物を持って翔琉の近くを歩いていた。
「点灯式? 行かんけど。バイトやし」
「ふぅん……でも、誰か女の子に誘われたやろ?」
「まぁな。でもシフト変えられへんし」
「おまえ何その感じ? なんかムカつくわぁ」
 表情をほとんど変えずに答える晴大に、翔琉は明らかに嫉妬していた。翔琉と比べると晴大のほうが成績は良いし、モテているし、楓花のことを知っているし、顔を合わせればだいたい翔琉はイラついていた。楓花はどちらの味方もしていないし、どちらかと距離を置くつもりも今のところない。それも翔琉にとってはモヤッとするらしい。
「俺は事実を言ってるだけやけど」
「くっそー。あっ、楓花ちゃん、クリスマスは?」
「ごめん、バイト休まれへん……」
「マジかぁ……。いつやったら空いてる?」
「桧田、おまえ多分──、長瀬さんの親から嫌われるタイプ」
「はぁ? ──ごめん、ちょっと出てくるわ」
「翔琉君!」
 教室から出て行く翔琉を追いかけようとして、楓花は晴大に腕を捕まれてしまった。晴大は特に表情を変えずに楓花を見ていた。
「なんであんなこと言うん? 翔琉君に謝ってよ」
「何を謝るん? 実際そうやろ、紹介しても良い顔はせぇへんやろ」
「そうかもしれんけど……なんで渡利君が言うん?」
「長瀬さん、こないだ両親と三人で店に来てたやろ? 曲がったこと嫌いっぽく見えたんやけど」
 晴大に貰った割引券を使おうと、楓花はアルバイトが休みの日に晴大が働くレストランへ行った。晴大と顔は合わせなかったけれど、彼は離れて様子を見ていたらしい。楓花はごく普通の一般家庭に生まれているけれど、どちらかというと厳しめに育てられた。成績が下がると怒られたし、校風が乱れやすい公立高校よりも規律の厳しい私立高校に行けと言われた。
「俺、言ったよな? あいつには気をつけろって」
「何を根拠にそんなこと……。渡利君だって悪い噂あるくせに、人のこと言えんの? せっかく仲良くなろうとしてんのに、邪魔せんといてよ」
 楓花が言うと晴大は言葉を詰まらせていた。晴大の悪い噂を楓花は高校の頃から聞いていたし、実際に目撃した。
「悪かったな……。でもほんまにあいつ、優しいのは表面だけで良い噂ないぞ。俺のことは──」
 言いたいように言えば良い、と呟きながら晴大も教室を出て行ってしまった。それから少しして授業が始まったけれど、出席確認が終わっても、授業が終わっても、翔琉も晴大も戻ってこなかった。
 それから楓花は翔琉とも、もちろん晴大とも口を聞かないまま冬休みになった。彩里は翔琉と話したらしいけれど、楓花は顔を合わせられなかったし、連絡も来なかった。彼とはもめていないけれど、晴大の忠告を全く聞いていないわけではないので何となく気まずい。
 クリスマス期間も楓花はアルバイトだったので、ホテルのロビーに飾られたツリーを一人で眺めていた。仕事が終わってから私服に着替え、正面から中に入った。客のほとんどは食事の時間なのでロビーは静かだ。
(私……どうしよう……)
「──おい」
(翔琉君と話したいのに……渡利君があんなこと言うから……)
「おい。長瀬さん」
「はっ、はい、あ──。何?」
 楓花を呼んだのは晴大だった。
 彼もアルバイトが終わり、帰りにホテルの前を通って楓花が見えたらしい。
「隣──座って良いか?」
「……どうぞ」
 晴大は楓花の隣に座り、寒い、とか、忙しかった、とかぶつぶつ言っていた。クリスマスで忙しかったのは楓花も同じだ。
「桧田からは何も聞いてないんやろ?」
「……何を?」
「あいつのサークルとか、バイト先とか」
 翔琉は居酒屋でアルバイトをしていて、そこの先輩に○✕大学のアウトドアサークルに誘われた、と楓花は聞いている。アルバイト先は変わったらしいけれど、職種は同じらしい。
「それがどうかしたん?」
「俺、最初の頃に桧田の友達を見てな……。ややこしそうな感じやったから調べた」
 それから晴大は翔琉について分かったことをいろいろ教えてくれた。翔琉は楓花や彩里には学生生活を真面目に謳歌しているように話しているけれど、実際は悪いほうに足を踏み入れてしまっているらしい。
 年が明けて一月のうちに後期試験があった。楓花はまたほとんどの科目でA判定以上が出ていた。興味本位で受講した共通科目のうち社会心理学はなんとかBを貰えていたけれど、認知心理学は予想通りの不合格だった。
「楓花ちゃんが取るっていうから俺も取ったけど、無理やろあれ。友達で他の大学で心理学専攻してる奴いるんやけど、認知は必須じゃない、って言ってたで」
 翔琉とはしばらくは気まずかったけれど、試験が終わる頃にはもとの関係に戻っていた。もちろん、付き合うことにはなっていないし、そもそも返事がまだだ。
「そういえば渡利も取ってたよな……? おい、渡利、認知どうやった?」
 翔琉は晴大とは以前に増して仲が悪く見えるけれど、気になることはちゃんと聞くらしい。
「ああ……悪かったわ。C」
 それでも一応は合格しているので、晴大の成績が楓花より良いのは明らかだった。羨ましいけれど、楓花が彼に勉強を教えてもらう予定はない。

 クリスマスの夜、晴大が翔琉のことを話し終えると、楓花は難しい顔をしていた。信じたくないけれど、信じるしかなかった。
「俺が見ただけやから、絶対とは言えんかもしれんけどな」
 翔琉の周りには、見た目が派手な人が多くて。
 バイト先は外国人が多いので確かに英語の勉強にはなっているけれど、カタギではない人が来ることもあるパブで。
 そこを紹介してくれた○✕大学の先輩も、そういう人と繋がりがあるらしい。
「まぁ……桧田は今のとこ、まだ染まってはなさそうやけどな。じゃ、俺は帰るわ」
 晴大は立ち上がり、入口のほうへ向かう。
「渡利君、あの、その……ごめん、いろいろ」
「……別に」
「なんで翔琉君のこと教えてくれたん?」
「別に、長瀬さんは幼馴染みたいなもんやし、悪くならんように注意しただけ」
「こないだも……翔琉君に、私の趣味を教えたって」
「ああ……どうせ遊びに行くんやったら楽しいほうが良いやろ」
 晴大は改めて入口のほうに歩きだし、顔を上げてから足を止めた。そのまま数秒だけ外を見て、楓花を振り返った。
「帰るんやったら、送ってくけど」
「え?」
「暗いし。駅から家まで歩きやろ? ここで置いて帰って後悔すんのも嫌やし」
 楓花はいつも駅からは徒歩で慣れてはいるけれど、晴大と話している間にすっかり遅くなってしまっていた。楓花の家の近所は暗いので、晴大はきっと、楓花に何かあったら自分のせいになる、と思ったのだろう。
 晴大は本当に楓花を家の前まで送ってくれた。
「渡利君って、良い人なん?」
「さあな。噂を知ってんやったら、良くないやろ。……じゃあな」
 楓花は家の門扉に手を掛けてから、晴大の姿が見えなくなるまで後ろ姿を見ていた。彼にリコーダーを教えていたときのことを思い出して一瞬、また二人で過ごせたら、と思ったけれど、それは駄目だ、と考えを消した。

 後期試験のあとは、特別学期になった。全学科共通の講義があって、いくつか受講するとそれは単位に加えてもらえる。普段の共通科目と違っているのは、学生以外でも希望すれば社会人でも受講可能なことだ。楓花は単位は多めに取れているのでアルバイトを詰めて入れようかとも思ったけれど、せっかくなので受講することにした。ただし、少しは勉強から離れたかったので、簡単そうなものを選んだ。
「楓花ちゃんさぁ、翔琉君とはどうなっとるん?」
 キャンパスでいちばんお気に入りのカフェは定休日だったので、同じくキャンパス内にあるファストフード店に来ていた。メニューは基本的に外の店舗と一緒だけれど、ソフトドリンクがおかわり自由なのは有難い。先に食べ終えた彩里はドリンクをお代わりしてから楓花に聞いた。
「別に何も……」
「返事はしたん?」
「ううん……でも、断ることになると思う」
 楓花は晴大から聞いたことを、智輝の言葉と合わせて伝えた。彩里はもちろん驚いていたけれど、○✕大学の先輩のこともあって反論はしてこなかった。
「たださぁ、それが事実やとしても、ずっと仲良くしてきたし、何かされたわけでもないし、友達としてはこのままで良いか、って思うんやけど」
「そうやなぁ……翔琉君って、ちょっとお茶目で可愛いしなぁ」
「だから──言わんといてな?」
 翔琉はあれから楓花には返事を聞いてこなかったし、特別学期に大学で会うこともなかった。サークルに入っているので仲間と出掛けているのかもしれないし、単位はそれなりに取れているようなのでアルバイトを増やしたのかもしれない。
 大学生になれば新しい恋をするだろうと思っていたけれど、最初に憧れた智輝には直子というしっかりした彼女がいたし、翔琉とは仲良くはなったけれど友達止まりだった。晴大とは一緒に過ごす時間が多いけれど、そんな話をする関係ではない。春休みの間に一度、楓花はホテルのパートたちを誘ってensoleilléへ行き、たまたま晴大が担当になった。パートたちも彼のことは知っていたようで同級生だと言うと驚かれ、どうして友達止まりなのか、という質問はいつの間にか、楓花ほどの英語力があれば引く手数多だろうから外国人を選ぶのが良いかもしれない、という話に変わっていた。
 今のところ、晴大が一番の優良物件だけれど、楓花はまだ彼のことを信頼していない。たとえ好かれていたとしても、付き合うつもりはない。
(もしかしたら来年、化けてる男子に会えるかも)
 大学で会う男性の中に恋人候補はいないので、一年後にある成人式で同級生たちと再会するのを楽しみにしていた。当時は平均的な外見の男子が多かったけれど、良いほうに化けてお洒落になった人がいれば声をかけようと思った。高校時代は誰にも会わなかったので、五年間の話もあるはずだ。
 大学二年の最初の日はまた、クラスごとのガイダンスから始まった。クラスメイトとはだいたい週に一度は顔を合わせていたけれど留学していたメンバーもいるし、人によってはこの春休みでイメチェンしていて理解するまで時間がかかってしまう。
 楓花はもちろん彩里も晴大も特に変化はなかったけれど、翔琉は最初に会ったときよりも派手になっているように見えた。服装は見たことがあるけれど、髪色がワントーン明るくなって、ピアスも増えた──気がする。
「翔琉君、何か変わったなぁ?」
「そう? 特別学期の頃に染め直したから、もうみんな知ってると思ってた」
 明るく笑いながら話す翔琉は、キャラクターは特に変えていないらしい。
「そういえば楓花ちゃんも彩里ちゃんも、髪伸ばしてんの?」
「うん。成人式でアップしたいから」
「そうそう。短いのも可愛いけど、長いほうがアレンジしやすいし」
「へぇ……。二人とも、振袖着るんよなぁ」
 翔琉は見たそうにしているけれど、実際に見るのはおそらく不可能だ。
「楓花ちゃんて、渡利と同じとこ行くんやろ?」
「まぁ、うん」
 翔琉は少し離れて座る晴大をじっと見て、それに気づいた晴大は嫌そうな顔をしていた。

「なぁ、楓花ちゃん……そろそろ答え出た?」
 彩里と二人でキャンパス内のカフェにいた楓花は、通りかかった翔琉に呼び出された。カフェの中なので近くを他の学生が通るし、楓花はまだ食事中だ。
「……ごめん、翔琉君とは、付き合われへん」
 楓花が言うと翔琉は、やっぱりか、と肩を落とした。
「それは──今は、ってこと? もし俺が楓花ちゃんの好みに変わってたら、アリってこと? 今は、フリーなんよな? 渡利とは何もないんよな?」
「それは、そうやけど……」
 それならまだチャンスはある、と翔琉は元気になってどこかへ行ってしまった。楓花はため息をつきながら彩里のところに戻り、前期の授業のことを一緒に考えた。
 翔琉は喜んでいたけれど、楓花には彼と付き合う未来は見えていなかった。いつか晴大が言っていた通り楓花の両親に翔琉が受け入れてもらえるとは思えなかったし、楓花自身も彼への信用を落としてしまっていた。友人として話すのは問題ないけれど、それ以上の関係を築くのは無理だと思った。
 そしてそれは、いつの間にかクラス全員の共通の認識になってしまっていた。早くに二十歳の誕生日を迎えたクラスメイトが先輩に誘われて居酒屋に行き、その帰りに派手なメンバーで騒いでいる翔琉を見かけたらしい。翔琉は夜の街で屯してから、やがて近くのパブへ入っていった。彼はまだ一応は未成年で、その雰囲気が嫌だった、と噂は広まった。
「ほらな、言った通りやろ」
 楓花が彩里と二人で翔琉の話をしていると、晴大が割り込んできた。
「付き合っても良いことないわ。まぁ──更正したら、知らんけど」
 噂が広まり始めてから、翔琉の姿はあまり見なくなった。ごく稀に出席票に彼の筆跡で名前が書かれていたけれど楓花が姿を見つける前にいなくなってしまっていたし、嘘だと思いたいけれど悪いことをして警察にお世話になった、という噂も聞いた。
「無事やったら良いんやけど……とりあえず生きてれば」
「もう良いんちゃうん? あんな奴」
 それでも楓花は彼の心配をするけれど、晴大はやはり彼が嫌いらしい。彩里も心配しているけれど、同じような学生は少数派だ。

 五月の連休に振袖を買ってもらうことになって、楓花は母親と二人で母方の祖父母を訪ねた。祖母の知人が呉服屋をしているようで、祖父には留守番をしてもらって三人で出掛けた。
「楓花ちゃんは何色が似合うかなぁ?」
 あれでもないこれでもないと、何色も試してみた結果、定番の赤系で帯には黒を選んだ。母親のときはピンクだった、と祖母は懐かしみながら、草履やバッグ、髪飾りなど細かいものを決めて、最後に届け先を店に伝えてから昼食に向かった。
「おーい、こっちこっち」
 祖父とも合流し、入ったのは少しだけ高級な料亭『(てん)』だ。経営している会社・スカイクリアは、和食と洋食をそれぞれ数店舗、全て違う名前で近隣府県に展開しているらしい。
「楓花ちゃんのアルバイトしてるホテルの近くにもあるらしいよ」
「へぇ……。あ、もしかして」
 料理が運ばれてくる前に気になって調べると、やはりホテルの隣のensoleilléだった。箸袋には店名しか書かれていないけれど、テーブルナプキンの印字は見覚えのあるものだ。
「楓花──、あの店で同級生がバイトしてるって言ってたけど、どんな子?」
 晴大のことは割引券をもらったときに両親に簡単に話していた。店の雰囲気と客層からそれなりにちゃんとしている人間だと思っているらしい。
「どんなって、普通。成績は良いけどそんなに仲良くもないし、ちょっと性格悪いかな」
「その子は──楓花ちゃんの彼氏?」
「ちがっ、絶対違う。だいたい、性格悪いから嫌われてるし……」
「彼氏はいてるん? 前、水族館行ってたやん?」
「あれは……違う。あれも友達」
 言ってから楓花は、心の中で翔琉に謝った。悪い噂は確かにあるけれど、彼のことを〝あれ〟と言ってしまったのが嫌だった。好きにはならなかったけれど、いまも友達だ。
「楓花、あんまり変な子と遊ばんときや? 真面目な子と付き合い。顔はまぁ、二の次やけど、良いに越したことないわ」
 と言われてしまうと、そういう男性は今のところ楓花の近くにはいない。だから余計に成人式が楽しみで、地元の友人たちのいまの姿を想像したりする。おそらくほとんどの女性は振袖でほとんどの男性はスーツなので、市内全域から集まる新成人の中から知っている顔を探すのは難しいかもしれないけれど。
 中学一年の冬の頃──。
 晴大は相変わらず人気なようで、〝格好良くて成績が良くてスポーツもできる、完璧!〟という噂は学校中に広まっていた。同じクラスになった生徒はなぜか自慢していたし、体育祭でも彼のいるチームの成績は良かった。
 そんなんだから当然、晴大のことが気になる、という友人たちの声をいくつも聞いた。ほとんどは女同士で話しているだけだったけれど、何人かは告白しようとしていた。
「でも渡利君っていつも誰かと一緒やし、あんまり見かけへんしなぁ」
「休み時間に、授業終わった瞬間に走ったら間に合うんちゃう?」
「緊張するわぁ……どうしよう……ちゃんと喋れるかなぁ」
 楓花は稀に放課後に、他の生徒から隠れて晴大と一緒にいる。けれどそれは言うわけにはいかないし、言ってしまうとおそらく、楓花は友人たちに敵に回される。
 噂が勝手に大きくなっているけれど実際は普通の少年だ、と言ってやりたかった。晴大の噂は間違ってはいないけれど、楓花が出会った頃は楽器の演奏は壊滅的だった。そもそもドレミが分かっていなかったし、肩に力が入りすぎていた。楓花はまず楽譜の読み方から始め、リコーダーの構え方、裏穴に隙間を作るときの押さえ方や息の出し方など楓花なりのコツを教えた。
「──何? 俺、何か変なことした?」
「ううん。たださぁ……みんながこれを知ったら何て言うんかなぁ、と思って」
「い、言うなよ? 絶体アホにされる」
「そうかなぁ……楽器苦手な男子って結構いるし」
「あいつらと一緒にすんな……俺は俺や」
 学校内には晴大の他にもモテている男子生徒はいるけれど、女子生徒たちにとって晴大は別格らしい。
「今までどうしてたん? 小学校でも授業で使ったやろ?」
 リコーダーを使うのは中学校のアルトリコーダーが初めてではない。
「授業は適当にごまかして、テストの日はサボって後で一人で見てもらってた」
「……なるほど」
「なぁ、この、裏のとこ押さえへんやつは、どうするん?」
「それは、他の指で頑張るしかない」
「マジかよ、押さえるの一ヵ所やん」
「左手の押さえる指と、右手の親指でバランス取って、あとは咥えてるから離さんかったら大丈夫」
「難しいこと言うなぁ……」
 ぶつぶつ文句を言いながらも晴大は頑張って練習を続け、簡単な曲なら吹けるようになった。晴大の唯一の欠点が無くなり、彼はますます明るくなっていった。
 そんな彼をやはり周りは放っておかなかった。
「もうすぐバレンタインやけど、学校にお菓子を持ってくるのは禁止ですからね」
 ホームルームで担任が言っていたけれど、だいたい守られないのが通常運転だ。
「いつ渡そう? 放課後かな? 昼休み?」
 そんな声をあちこちで聞いた。
「楓花ちゃんは誰かに渡すん?」
「ううん、別に渡したい人もいてないし、そんなお金もないし」
 本当に、楓花は好きな人がいなかった。晴大ともそんな関係ではないし、気にしたこともない。
「あっ、長瀬さん、伝言なんやけど」
 用事があって職員室に行くと、佐藤に呼ばれた。
「今日もし時間あったら、練習見てほしい、って」
「──えええ? 今日?」
「予定あるの?」
「ないけど……今日は渡利君と離れときたいのに」
「ああ……ほんまやねぇ」
 放課後にいつもの場所に行くと、既に晴大は到着していた。部屋の隅で椅子に座り、リコーダーを構えていた。
「悪いな、急に頼んで」
「ほんまに急やわ……友達ごまかすの大変やった」
 晴大は練習を再開し、楓花も適当に座った。クラブがある日なので、生徒が寄り付かない場所にある会議室の更に奥にある、存在すら知らない生徒が多そうな部屋だ。
「渡利君は今日は、外にいたほうが良いんじゃないん?」
「ああ……ええねん、既にクラスの奴からいっぱいもらってるし。逃げるついでに練習しようと思って」
「──かわいそう」
 近いうちにリコーダーのテストが予定されているので、晴大はその練習をしていた。
「もう大丈夫なんじゃない?」
「そうなん? もしテスト失敗したら、おまえ──長瀬さんのせいにするからな」
「なんでそうなんの」
 宿題をしながら晴大のリコーダーを聴いていると、ときどき遠くのほうでバタバタという足音と共に、晴大を探す女子生徒の声が聞こえた。息を潜めて聞いていると、こんなところにいるわけがない、と言って体育館のほうへ探しに行った。
「私、そろそろ帰るわ。一緒にいるとこ見られても嫌やし」
「ああ──俺も帰ろ」
「待って、時間ずらして」
「良いやん別に」
「良くないわ、ただでさえ渡利君は人気やのに、今日一緒におるとこ見られたら、私が困る」
「……あっそ」
 不服そうに頬を膨らませる晴大を置いて、楓花は先に学校を出た。
 一人で歩いていると、しばらくしてから二人乗りの自転車が追い越していった。同じ学校の男子生徒が二人、一人はヘルメットを被っているけれど、後ろに乗っている人はノーヘルだ。自転車は楓花を追い越して少ししてから止まり、二人とも振り返った。運転していたのはクラスメイトの丈志(たけし)で、ノーヘルは晴大だった。
「長瀬さん、余ってるチョコある? 今日はバレンタインやろ?」
「──あるわけないやん。禁止って先生も言ってたし」
「真面目やなぁ……。あ、渡利、おまえどうせいっぱい貰ったんやろ? 一個くらいくれよ」
「ん? ……はい」
「サンキュー。これ、誰から?」
「忘れた。クラスの誰か」
「ふぅん。おし、じゃ行こか、長瀬さん、また明日な」
 丈志は楓花に挨拶してから自転車を漕ぎだした。晴大は少しの間だけ楓花を見ていたけれど、何も言わなかった。