君の隣、夜明けの歌を

あれから、一か月。柳川くんとはあの事がなかったかのようにまたいつも通りの距離感であれから話すことは無かった。
「夏休みの講習の申込書、出してないやつ早く出せよ」
ホームルームで通達される。あと一週間で夏休みだ。
「おい、小柳。あとで職員室に来い」
先生に呼びだされた。生徒会のことかな。
「失礼します」
「小柳、こっちだ」
奥で辻元先生が手招きしている。
「はい」
「小柳、進路どうするんだ」
わかっていたけど、こうなるよね。
「理系の大学に行こうと思ってます」
辻元先生は机の引き出しの中から、一枚の紙を出す。
「これ、小柳の進路調査の紙、大学一個しか書いてなかったよな。そこ一本にするつもりか?」
一か月前に出した進路調査票。両親にも言わずに、大学の名前を一個だけ書いて出したのだ。
「はい。理系のことを学びたくて」
「ほんとか?」
私は昔からの嘘の定型文をひたすら口にする。
「早く就職したいので」
辻元先生は頭を抱える。
「無理して進路決めてないか?小柳が受験しようとしてる大学はお兄さんも通っているだろう。成績もいいからって家族の期待に応えようとしてないか心配なんだ」
わかっている。だけど、私は。
「大丈夫です。自分で決めました」
「まだ時間はある。ちゃんとご両親とも話し合って、後悔の無いようにな」
「はい」
後悔の無いようにか。楽しいこともたくさんある。だけど、私の人生はもう気づけば後悔しかないのに。
人は求めることと好奇心の天秤が真逆だ。だから、その天秤が水平でいない人はこの世界のはぐれものになる。
人は共存こそするが、共存できないものを肯定はしてくれない。
だから、表向きは仮面をかぶって、こうやって、ひとり傷つく。

帰り道、ぼーっと辻元先生に言われたことを考えていた。
中学の時、あの事があって、自分の理想と現実の差に気づいてしまって、心がを折れた。
そして、人との関わり方も変えて、この世界で溶け込むようになれるように頑張った。
自分はそんなに成績は良くなかったけど、ちょっとでも自分が家族の負担になりたくなくて、勉強を頑張って、今の高校に入った。そのときから、お兄ちゃんと同じ大学に行くことは決めていた。
自分の中では決まったことで、これ以上の答えはあるのか。
たとえ、自分を騙しても、私はみんなのための自分でいなくちゃいけないんだ。
そうじゃなくちゃ私は生きてる意味なんてないんだから。
家に帰ると、お母さんが帰ってきていた。
「ただいまー」
「真菜、おかえり。こっち手伝ってくれる?」
「はーい」
手を洗って、台所の食材を見る。まだ切ってる途中のえのきがあった。
コンロには落し蓋をした鍋が火にかけられていた。
これは肉じゃがかな。
「えのきのあんかけ作りたくて」
「じゃあ天津飯みたいにしようよ」
「いいわね。カニカマ、まだあった?」
「この前、サラダ作ったとき、余ってたよ。私、あんかけ作るね」
「ありがとう。真菜はなんでも手伝ってくれるから、助かるわ」
胸がズキっとなった。
今の私はいい子を貫いて嫌われたくない臆病者なのに。
「あはは。そんなことないよ。お母さんもいつもありがとう」
遠くでドアが開く音がして、声がした。
「ただいま」
お兄ちゃんが帰ってきた。しばらくすると、大荷物を持ったお兄ちゃんがリビングに来た。
「おかえり」
「弁当、ありがと」
「うん」
私は料理の手を止めて、弁当を受け取る。
「ただいまー」
また玄関からバタバタと音がした。多分、お父さんも帰ってきた。
いつもより、帰ってくるの早いな。
「お父さんおかえり」
「おつかれさま。今日、早かったわね」
「早く会社に戻れたから、定時であがれたんだ。真菜も手伝いありがとう。勉強は大丈夫か?」
「うん。大丈夫だよ」
「裕也と同じ大学に行くんだ。勉強大変だと思うが、真菜ならやれるさ」
「ありがとう、お父さん。頑張る」
「はあ」
するとため息をついたお兄ちゃんがドアに手をかける。
「俺、飯いいや。風呂入って寝る。おやすみ」
「ちょっと裕也!」
「今、俺、気分悪いから」
そう言って出て行ってしまった。
「裕也、どうしたのかしら」
「授業と練習で疲れてるんだろう。一人になりたいときもあるさ」
「そうね。私たちも食べましょう」
私も夕方の今で、進路の話をされて、ご飯を食べる気力がなくなってしまっていた。
このまま部屋に行きたいけど、私まで居なくなったら、お母さんの機嫌が悪くなるのが目に見えていた。
「そうだね」
何もなかったようにご飯を食べて、部屋に戻る。
とにかく、今は頭を空っぽにしたかった。勉強するか、作業をするか。どうしよう。
「真菜。入るぞ」
ガチャっとドアが開いて、お兄ちゃんが入ってきた。
お風呂上りで首にタオルがかかっていた。
「入っていいって、返事してないんだけど」
「珍しく苛々してるじゃん」
お兄ちゃんは冷笑した。
自分が苛ついている理由はそんなの、決まってる。
「今日、進路相談で先生に呼び出されて、大学一校しか受けないのか?って言われた矢先にお父さんがあんなこと言うから」
「だろうな」
お兄ちゃんは壁にもたれかかった。
「私の進路の話の時、お兄ちゃんも苛々してたじゃん」
「そりゃ、両親には期待を、妹には空回りの背伸びを見せつけられて、呆れてたんだよ」
「ごめん」
「こんなにわかりやすいのに気づかずニコニコと応援してる、母さんたちもどうかとは思うけどな」
「私、そんなに分かりやすい?」
「わかりやすい。例えばこれとか」
そう言ってスマホを取り出して画面をこっちに向ける。
画面に映っていたのはソラのユーチューブチャンネルだった。
「ソラ、だっけ」
「お兄ちゃんなんで?」
「こっちも気づかないほうがおかしいだろ。歌録りとか作業も防音室でやるべきだったな。たまに声掛け手も反応ないとき、部屋入るだろ。毎日徹夜で勉強なんか無理してするはずないのが違和感だったからな」
しまった。お兄ちゃん、毎日、忙しいからって、気づかれないと思ってた。
「そんな顔しなくても、母さんたちには言わないから、安心しろ。お前が見つけた母さんたちからの期待への抗い方なんだ。答えが出るまで頑張ってみればいい」
「お兄ちゃん...」
「あと、進路。俺の後を追いかけてこなくても、真菜の道はたくさんある。自分を押し殺すなよ。いつか壊れるぞ」
お兄ちゃん、もう、とっくに壊れてるよ。そうじゃなきゃ、こんな道を選ばない。
「絶対分かってないと思うけど、あまり悩むなよ。じゃあな」
言い残して、お兄ちゃんは部屋を出て行った。
こんな憂鬱の気持ちで、勉強する気にも作業する気にもなれなかった。私はベットに寝転んだ。
毎日、誰かにどう思われているか、気にして、学校でも家族の前でも『いい子』を演じて、もうすべてに疲れてる自分がいた。
「このまま消えられたら、何も気にしなくなれるのかな」
もしそうなったら、痛いのやだな。人魚姫みたいに泡になれたらいいのに。
真っ暗な世界の中に沈みたい。
ぽろぽろと涙が出てきて、掛け布団を頭までかぶって潜る。
そのままぐるぐると暗い感情が頭をめぐっていくうちに寝落ちていた。