「なにが怖い? 独りで追い込むのはなしね?」
ひとりだと思い込んでいたので、わたしは突然の声に飛び上がった。
そして右手から伝わる温もりが、傷ついた心に響いていく。途轍もない安心感だった。
どうしてこの人は、わたしが居てほしいと思ったときに居てくれるのだろうか。
どうして、わたしが聞きたかった言葉を言ってくれるのだろうか。
……だから好きになっちゃうんだよ。これ以上、好きにさせないでよ。
「別に無理して言うことじゃないけどさ。もう、見てらんないから」
見てられない。その言葉の意味が分からずに、わたしは広瀬くんの方を振り返った。
少し困ったような顔をしてわたしを見つめる広瀬くんが、少しの間を開けて口を開いた。
「……俺さ、前にそれでダメになったことあるから」
唐突な言葉に、わたしはどう反応すればいいのかわからなくて、そのまま広瀬くんを見た。
彼は笑っていた。でも、その笑みは、どこか遠いところを見ていた。
「ま、今は落ち着いたけどさー。家に帰れば『勉強しなさい』『テストは何点だったの?』って。普通かもしんない。でも……」
わたしの手を握る力が、すこしだけ強くなった。
「友達と遊びに行くことなんか許されなかった。好きなバスケも部活で続けたかったけど、それもダメ。勉強に集中しろって、期待して……っ。それで俺は学校にも行けなくなったっ。評価されるのが怖かった……。でも学校に行けって親が言うから。毎日怒鳴られて、行くしかなかった……」
冷たいその声が、静かに胸に響いていく。期待って、わたしと一緒だ。
「期待すんなよって、言ってやりたかったよ……っ! だからあの日、屋上から落ちたらどうなるかなって、俺が死んだら何か変わるかなって、ずっと考えてた……」
だんだんと、彼の”素”が出てくる。
それと同時に激しくなる語気が、彼の心を表しているようで辛かった。
「俺さ、夜、あんま寝れねぇの」
その声は、さっきまでの語気の強さとは違って、弱くて、頼りなかった。
わたしは、黙って続きを待った。
「なんか……ベッド入ると、頭が勝手にぐるぐるしてさ。あのとき、親が言ったこととか、勉強しなきゃとか、失敗したらどうしようとか……どんどん浮かんできて」
それを打ち消すように、彼は空を見上げた。
その横顔は苦しそうで、その苦しさを吐き出すように、彼が言う。
「……だから学校来ると、ホッとする。人がいるから。声があるから。少しだけ、静かになれる」
広瀬くんは、教室でよく寝ている。
その理由が、今明らかになった。
きっと、夕方に公園で何度か姿を見かけたのも、家に居たくなかったから……ということだろうか。
強くて、自由で、ずっと笑ってるこの人が、こんな重いものを背負っていたなんて。
広瀬くんはどんな思いで今まで自分を偽ってきたんだろう。
握られていた手を、わたしから握り返した。彼の手が不安そうに震えていたからだ。
彼はハッと驚いたような顔をすると、その瞳から涙がこぼれた。
透明なその雫は、嘘なんかで濁ってなくて、透き通っていた。
「……ごめん」
「頑張ったね」
彼はコツン、とわたしの肩に頭を預ける。
ずっと一人で抱えていた過去が、スーッと洗い流されていく。
わたしが彼に言われて救われたように、彼にとって救いになれたら……。
始めて見せてくれた彼の弱さが、きっと優しさにつながっているのだと、わたしはそう思った。
