世界でいちばん優しい嘘を、嘘つきの君に贈りたい



 これで本当のことを言ってしまったら、きっとまた甘えてしまう。
 これ以上優しくされたら、もう独りだったあの時に、戻れなくなってしまうから。

 もうすでに、独りでいるときが怖くて仕方ない。あなたと一緒にいた時間が長すぎて、支えられすぎたから。

 深呼吸をして、涙をこらえて、それでも笑顔をつくる。

 そんな顔しないでよ。
 わたしのこと、ただのクラスメイトなんでしょ?

 期待させないでよ。

 口元だけをこっそりと動かして「大好き」と伝える。
 サイレントゲームみたいだね。口の動きだけで言葉を当てるの。

 ねえ、気づいてくれるかな。
 結局伝わっちゃったら意味ないけどね。

 でもさあ、気づいてくれること……少し期待してもいい?

 さっきの嘘も、きっと彼なら……。
 ……嘘が大っ嫌いなあなただったら、見破られちゃうかな。

 わずかな希望と後悔を胸に、わたしはその場をゆっくりと離れた。
 
 後ろから突き刺さる視線が、いつまでも追いかけている気がした。

 教室を飛び出した後、誰もいない下駄箱で、独り佇んでいた。
 静かすぎる下駄箱には、ぽつぽつと屋根を叩く雨音だけが響いている。
 まるで時間が止まったようだった。

 やっぱり言いたくなかったな。言わなきゃよかった。言わなかったら……!

 視界が滲み、そこからいくつもの涙が流れ落ちる。
 制服のすそで乱暴に涙を拭ったけど、拭ったそばから新しい涙が溢れてくる。
 
 しばらくの間、下駄箱の前にしゃがみ込んで、シミを作る涙を見つめていた。

 なんてバカなんだろう。
 好きなのに、嫌いって言っちゃった。一番広瀬くんが嫌いそうなことを、自ら選んでしまった。
 
 誰にも聞こえないこの場所で、涙だけが次々とこぼれていく。
 そのとき、目の前に光を感じた。
 鮮烈で、真っすぐな光。わたしの心を照らすように、真っすぐな。

 顔を上げると、くもった窓の向こうに、晴れ渡った空が広がっていた。
 後ろの窓を覗けば曇天なのに、目の前は晴天だ。

 まるで世界が違うようだった。

 一歩戻れば曇り空。一歩進めば青空。
 一歩でこんなに違うんだ。同じ世界なのに、こんなにも。

 真っ暗な空に輝く太陽は、どこか現実味がなくて、ただ――ただ、綺麗だった。

 気づけばその景色に、心までもを奪われていた。
 突然、背後から声がした。
 誰もいないと思っていたので、思わず飛び上がりそうになった。

 しかもその声が、彼のものだったから。

「へぇ、そんなとこにいたんだ?」

 泣き顔を見られたくなくて、わたしは後ろを振り向かずに彼の声を聞いていた。
 実際に彼の顔を見ているわけじゃないのに、彼がニヤッと笑っているのが容易に想像できた。

「霜月さぁ、嘘つくの下手すぎるよ。顔、泣きそうだった」

 どきりとする。わたしは言葉が出てこなくて、ただ目を見開いた。

「俺の前で嘘つくなんて百年早ぇんだよ」

 う、と声にならない嗚咽がかすかに洩れた。
 それと同時に、さっきまで止まっていたはずの涙がもう一度溢れてくる。

 意地悪な優しさが、どこまでもわたしを追い詰める。

 涙のせいで何も喋れなくて、振り向くこともできなくてわたしはせめて、顔を見られないようにと顔を覆った。
 彼によってぐしゃぐしゃになった心を、彼がさらにかき乱す。


「ホ、ホントはっ……好きだよって伝えたかった……!」

 
 涙ですべての感情が攫われる。
 自分でもとんでもないことを口にしているのはわかってる。でも今は取り繕う必要はないと思った。

「でも、怖くてっ。このままだと、もう独りになったとき立ち直れないから……っ」

 嘘だらけの言葉が、だんだんと塗り替えられる。
 “嘘”が“本当”に置き換わって、空白の世界に白が色を付けていった。

 涙がこぼれるたびに、全ての嘘が洗われていく気がした。


「……独りになんかさせねーよ」

 あまり使わなさそうな、強気な言葉。

 気づけば、わたしの頭にそっと手が触れていた。
 温度が、じんわりと伝わってくる。わたしの涙を、ちゃんと受け止めてくれるあたたかさだった。

 もう、言葉はいらなかった。

 振り向いて、ぐしゃぐしゃのままの顔で、彼を見上げた。
 涙で滲んだ視界の中でも、彼の顔ははっきり見えた。

 雨の匂いと、彼の匂い。

 後ろで小さくつぶやいたのが聞こえた。いつも通りの、どこか申し訳なさそうな、悔しそうな声音で、ぽつりと言った。
 
「でも、ごめんね」

 その意味を理解したとき、スッと体が冷えるのを感じた。
 この恋は叶わないと分かりきっていたことだった。それよりもショックだったのは、広瀬くんの口にごめんと謝らせてしまったことだ。

 彼にこんなことを言わせてしまったのはわたし。彼が謝る必要はないのに。

 全部がごちゃごちゃになって、それが涙へと変わっていく。
 ごめんね、それはこっちのセリフだよ。

 困らせてごめん。こんなに弱い自分でごめんね。

 わたしは静かに立ちあがって、溢れる涙を止めることなく、その場を去った。




 あのさあ、広瀬くん。
 わたしが気づかないとでも思ってるのかな。

 ねえ、わたし気づいてるよ。

 どうしてあなたがあんな悔しそうな顔をしたのか、意味は分からなくても、あんな嘘なんてすぐにわかるよ。

 教えてよ。あなたの心を。
 聞かせてよ。あなたの本音を。

 嘘なんかで、わたしを騙さないでよ。自分を騙しているのと一緒だよ?
 一番傷ついているのは、あなた自身なんだから。

 それをわたしに教えてくれたのは、あなたでしょう?
 わたしは弱い。誇れるような長所もない。

 けど、誰かの光になれるなら、もしわたしが誰かの支えとなれるなら……。
 広瀬くんの光になれたら……。

 この恋は叶わなくても、それでよかった。

 広瀬くんの後ろ姿を思い出す。

 いつも飄々としていて、どこか掴みどころがなくて、それでも優しさが滲み出ている人。
 そんな彼が、「ごめんね」なんて言った。
 きっと彼も、何かを隠していた。わたしと同じように。

 誰かを想う気持ちは、とても優しくて、同時にとても残酷だ。
 その優しさが時に刃になることも、彼は知っている人だった。

 そして、わたしはそれを知っていて嘘をついた。

 ごめんね、わたしって結局いつも自分のためだ。

 さっきまで晴れていた目の前の空はすっかり暗くなり、わたしを責めるような雨が降っていた。
 空を仰ぐと先の見えない雲の隙間から雨が音をたてて降ってくる。傘をさすこともなく、ただ雨に打たれながらわたしは家に帰った。
 その日は全く眠れなかった。学校に行くのも辛かった。でも行くという選択をせざるを得なかった。
 だからまあ、学校(ここ)にいるのだけれど。

 ちょうど昨日、親が帰ってきて、最近の学校の様子を尋ねられたのだ。
 「普通だよ」と曖昧なわたしの返事。
 
 だって、親に心配かけさせるわけにはいかない。
 もともと仕事で忙しいのに、心配事を増やすわけにはいかない……。

 まあ、本当のことを言ったところで心配してくれるかと言われるとわからないけど、お姉ちゃんは黙っていないだろう。
 お姉ちゃんには十分助けられてしまっているから、これ以上甘えるわけにはいかないんだけどなあ……。

 あくびをかみ殺して、わたしは目をこする。
 遅くまで勉強をしていたせいか、すごく眠い。今日はしっかり寝なきゃ。
 それこそ心配されてしまう。

 放課後になって、わたしはひとりになるために屋上へ向かう。
 いつの間にかこれは習慣になっていて、自然と足がそちらに向かっていた。

 屋上は、心地いい。
 誰も知らない「わたし」でいることができる。「いい子」でいなくていい、たった一つの場所。

 今日は、眠いのが影響したのか授業中もぼんやりとしたままで、先生に指名されたものの答えることができなかった。

 あの時のクラスメイトの視線。
 何度も見てきた「できるはずでしょ?」という期待(プレッシャー)の目。

 「霜月なら解けるだろ。学級長なんだから授業にはしっかり参加しろ」という先生の視線。
 
 なにを言いたいのかわからない、広瀬くんの貫くような視線。

 わたしにだって解けない問題はあるよ。期待しないでよ。怖いよ。怖いよ……。



「どーした」


 
 そう言ってわたしの目の前に現れたのは……震える手を掴んだのは、紛れもない広瀬くんだった。

「なにが怖い? 独りで追い込むのはなしね?」

 ひとりだと思い込んでいたので、わたしは突然の声に飛び上がった。
 そして右手から伝わる温もりが、傷ついた心に響いていく。途轍もない安心感だった。

 どうしてこの人は、わたしが居てほしいと思ったときに居てくれるのだろうか。
 どうして、わたしが聞きたかった言葉を言ってくれるのだろうか。
 
 ……だから好きになっちゃうんだよ。これ以上、好きにさせないでよ。

「別に無理して言うことじゃないけどさ。もう、見てらんないから」

 見てられない。その言葉の意味が分からずに、わたしは広瀬くんの方を振り返った。
 少し困ったような顔をしてわたしを見つめる広瀬くんが、少しの間を開けて口を開いた。


「……俺さ、前にそれでダメになったことあるから」


 唐突な言葉に、わたしはどう反応すればいいのかわからなくて、そのまま広瀬くんを見た。
 彼は笑っていた。でも、その笑みは、どこか遠いところを見ていた。

「ま、今は落ち着いたけどさー。家に帰れば『勉強しなさい』『テストは何点だったの?』って。普通かもしんない。でも……」

 わたしの手を握る力が、すこしだけ強くなった。
 
「友達と遊びに行くことなんか許されなかった。好きなバスケも部活で続けたかったけど、それもダメ。勉強に集中しろって、期待して……っ。それで俺は学校にも行けなくなったっ。評価されるのが怖かった……。でも学校に行けって親が言うから。毎日怒鳴られて、行くしかなかった……」

 冷たいその声が、静かに胸に響いていく。期待って、わたしと一緒だ。

「期待すんなよって、言ってやりたかったよ……っ! だからあの日、屋上(ここ)から落ちたらどうなるかなって、俺が死んだら何か変わるかなって、ずっと考えてた……」

 だんだんと、彼の”素”が出てくる。

 それと同時に激しくなる語気が、彼の心を表しているようで辛かった。

「俺さ、夜、あんま寝れねぇの」

 その声は、さっきまでの語気の強さとは違って、弱くて、頼りなかった。
 わたしは、黙って続きを待った。

「なんか……ベッド入ると、頭が勝手にぐるぐるしてさ。あのとき、親が言ったこととか、勉強しなきゃとか、失敗したらどうしようとか……どんどん浮かんできて」

 それを打ち消すように、彼は空を見上げた。
 その横顔は苦しそうで、その苦しさを吐き出すように、彼が言う。

「……だから学校来ると、ホッとする。人がいるから。声があるから。少しだけ、静かになれる」

 広瀬くんは、教室でよく寝ている。
 その理由が、今明らかになった。
 きっと、夕方に公園で何度か姿を見かけたのも、家に居たくなかったから……ということだろうか。

 強くて、自由で、ずっと笑ってるこの人が、こんな重いものを背負っていたなんて。
 広瀬くんはどんな思いで今まで自分を偽ってきたんだろう。

 握られていた手を、わたしから握り返した。彼の手が不安そうに震えていたからだ。
 彼はハッと驚いたような顔をすると、その瞳から涙がこぼれた。
 
 透明なその雫は、嘘なんかで濁ってなくて、透き通っていた。
 

「……ごめん」

「頑張ったね」 


 彼はコツン、とわたしの肩に頭を預ける。
 ずっと一人で抱えていた過去が、スーッと洗い流されていく。
 
 わたしが彼に言われて救われたように、彼にとって救いになれたら……。
 始めて見せてくれた彼の弱さが、きっと優しさにつながっているのだと、わたしはそう思った。
 しばらくして、彼が落ち着いたころ。
 彼は少し恥ずかしそうに「ありがと」とわたしに呟いた。
 

「わたしこそありがとね、聞かせてくれて」  


 ニコッと微笑むと、広瀬くんはわたしと目を合わせずに「うん」と答えた。
 泣いた後の顔を見られたくないのか、わたしに顔を向けようとしない。

 手は繋がれたまま、彼がポツリと話しだす。

「最初、霜月を見たとき、俺と似てるなって思った。それと同時に、俺とは同じになってほしくないって、そう思った」

 絞り出すようなその言葉に思わず息をのむ。
 
「そう思ううちに、好きになってた」

 嘘偽りのない、真っすぐな言葉。
 鼓動が早くなるのを感じる。トクトクと心臓が鳴りだした。 

「でも、まだ怖い……。親に何か言われるかもしれないし、それで霜月を傷つけたらやだ。だから、ごめ、」

「それでもいい!」

 言葉の裏にある過去が、今も彼を、彼の想いを苦しめている。
 その事実に胸が痛くなって、わたしは彼の言葉を思わず遮った。

 思わず叫ぶように声が出たわたしに、広瀬くんがハッとしたように目を見開いた。

「……それでも、わたしは広瀬くんのそばにいたい。わたしが決めたことだよ」

 わたしの言葉に、彼は口を開きかけて、でも何も言えずにまた口を閉じた。
 そしてゆっくりと、繋いだ手に力をこめる。

「……強いね、霜月は」

 弱々しく笑うその顔に、わたしは首をふった。

「ちがうよ。わたしも怖い。でも、広瀬くんのこと、好きだから。怖くても、逃げたくない」

 彼がやっと、わたしを見た。
 少し赤くなった目。濡れた睫毛。
 
 泣いた顔を見られたくなくて、顔を背けてたはずの彼が、ちゃんとわたしの目を見てくれた。

 わたしの胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「……ほんとに、変なやつ」

 そう呟いて、彼はやっと少し笑った。その笑顔が嬉しくて、わたしもつられて笑ってしまった。

 この手を離さないでいたい。そう思った。


 白色の空が、夕焼けに染まっている。
 赤くなった顔は夕焼けのせいだろうか。それとも……。

「……ね、昴」

 名前を呼ばれて、胸の奥がふっと熱くなる。
 それは初めて聞く、彼の口から出たわたしの名前。
 呼ばれるのが嫌で仕方なかったのに、彼に呼ばれるとすごく嬉しい。

「俺さ、昴に会えてなかったら、たぶん、どっかで止まったままだったと思う。だから……いてくれて、ありがと」

 彼は照れくさそうに目をそらしながらも、繋いだ手をぎゅっと強く握った。

「だから、もうちょっとだけ、このまま隣にいて」

「……うん」

 肩が少し触れて、指先が震えて、心がそっと寄り添った。

「ねえ、朔くん」

 その瞬間、彼の肩がびくりと揺れる。
 顔を向けた彼は、夕焼けの光の中で、少しだけ照れて笑っていた。

「……今の、もう一回言って」

「やだ」

 そう返すと、彼はふふっと笑って、「じゃあまた言わせる」と小さく呟いた。

 茜色の空の下で、わたしたちはただ静かに並んでいた。

 夕陽が沈むその先に、まだ見ぬ明日が続いている。
 たとえ怖くても、きっとわたしたちは、大丈夫。

 言葉はもういらなかった。



 だって今、ちゃんと――

 

 繋いだ手が、たしかにそこにあったから。







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