「ら、藍ちゃん! 今日一緒にお昼、食べれる……?」
お昼になって、今日はわたしから藍ちゃんを誘った。
今まではずっと藍ちゃんから誘ってきてくれていた。けれど、今回はわたしから動かないといけない。
藍ちゃんは目を丸くして、驚きを隠さないまま「いいよ」と言ってくれた。
自分のお弁当を持って、藍ちゃんを待ち、一緒に中庭に行く。
その間はお互い口を開かずに、無言のまま移動した。
空いていたベンチに座ると、わたしはとなりを促して藍ちゃんを座らせる。
しっかり座ったのを見てから……。
「「ごめん‼」」
誰かと声が重なった。驚いて顔を上げると、藍ちゃんも頭を下げていた。
あまりにも同時だったのが可笑しくて、わたしたちは二人そろって吹き出した。
「ふははははっ。アハハハハッ……!」
「ふふっ……あははっ」
藍ちゃんに限っては涙を流している。そんなに面白かっただろうか。
藍ちゃんの笑いがある程度治まったころ、わたしは改めて頭を下げた。
「ねえ、藍ちゃん。ごめんね。本当にごめん」
「ううん。昴が謝る必要はないよ。あたしも…………昴に謝らないといけないことがあるから」
藍ちゃんに何かされた記憶はない。
謝らないといけないことって何だろう。
「あたし、昴のこと悪く言っちゃった……」
目を潤ませて、「ごめん」と連呼する藍ちゃん。
「そんなこと思ってない。ごめんね。あたしのこと殴っていいから……」
藍ちゃんは優しい子だ。だからこそ、そんなふうに自分を責めさせるのは、あまりにも酷だった。
「ねえ、これからも友達でいてくれる……?」
「うん、もちろん!」
藍ちゃんの、珍しく弱々しい声に、わたしは明るく返したのだった。
お昼ご飯を食べ進めること15分。
話題はいつの間にかわたしのことへ移っており、わたしは質問攻めにあっていた。
「ふーん、朔くんが好き、ねえ……」
「は、はっきり言わないでよ恥ずかしい……」
ふむふむ、と大げさにうなずいた藍ちゃんがピン、と指を立てる。
「じゃあ早く告っちゃえ! 取られちゃうよ?」
こ、告っ……。
どんどん顔が赤くなっていくのを感じる。
藍ちゃんはそんなわたしの反応を楽しむように、にやにやと笑っている。
「何照れてんのー。お似合いだよ?」
「い、言わないで……!」
もし本人がいたらどうするの!と言おうとしたとき、後ろの方で当人の声が聞こえた。
俊くんと一緒にいるようで、何か楽しげに話している。
「も、もうその話はおしまい!」
耳まで赤くなった顔をもうごまかすことはできなくて、わたしは無理やりその話を中断した。
藍ちゃんは物足りなさそうにしていたけれど……。
告白。わたしにはそんな勇気ないけれど、できたら、いいな……。
「あ、もう授業始まっちゃうよ」
予鈴が鳴って、藍ちゃんと一緒に駆け足で教室に戻った。
つい夢中になって話していたら、いつの間にかこんな時間だった。
教室に戻るとほとんどの人が教科書などの準備をしていて、ギリギリセーフ。
授業が始まる数分前に先生が教室に入ってきて、一気にシンと静まり返った。
すぐに授業が始まって、わたしは目の前のノートに集中する。
広瀬くんは今日も寝ていた。
先生は何度か起こしていたけれど、途中から諦めているようだった。
授業が終わると、今日は下校だ。
今日からお母さんもお父さんも家に帰ってくるので、少しは自分の時間を取れるだろうか。
最近あまり寝れていなかったので、今日は早く寝ようと心に決めた。
「さようならー」
「また明日―」
普段だったらしばらく教室に残っているけれど、今日は早く家に帰りたかった。
少しでも多く自分の時間を作りたかった。
だから、広瀬くんが先生とわたしのことを話していたなんて、知る由もなかった。
「せんせー、いつも霜月にばっかり仕事やらせすぎてません? ちょっとは考えてあげてくださいよ」
「確かにそうかもな……。俺がいけなかったよ。お前、よく見てるなあ」
「まぁ、放っとけないんで」
彼の顔がどこか寂し気に笑う。
緑色に染まった桜の葉っぱが、ざわざわと揺れた。
季節は移り替わって、もう春は終盤になっていた。
桜はとうに散り、梅雨の幕開けだ。
今日の空は真っ暗で、しとしとと雨が降っている。
四月始めのころみたいに、藍ちゃんと話しながら帰りの準備をしているところだ。
「ごめんね、今日早く帰らないといけないんだ~……」
パンっと手を合わせて申し訳なさそうに謝ってから、カバンを背負って教室を出ていった。
今日は火曜日だ。きっと妹さんの迎えがあるのだろう。
他の人もだんだん散っていって、残ったのはわたしと広瀬くんだった。
わたしは家庭学習用の教科書をカバンに詰め込みながら、となりで頬杖をついて外を見ている広瀬くんをちらりと横目で見た。
「……広瀬くん」
すっと細い瞳がわたしを捕らえて、「何か用?」とでも言うように目を細めた。
いつか言わないといけないと思っていた。
それも、なるべく早くに。これ以上、広瀬くんと関わる前に。
ただのクラスメイトとして、接していけるように。
この気持ちが、今よりも大きくなる前に。
どんなにそう思っても、どんどん好きになっちゃうんだけどね。
雨の雰囲気に教室が呑まれていく。
一瞬、静けさに包まれた。
広瀬くん。あなたのことが好きです。
だからこそ、わたしは言わないといけない。
真っすぐに彼を見つめて、口の端を持ち上げた。
「……大っ嫌い」
その言葉を放った瞬間、彼の顔が歪んだのが見えた。
胸がギュッと締め付けられる。昴は視線を逸らし、唇を噛みしめる。
ごめんね、そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。
わたしだって言いたくなかったよ。
あとで嘘つきって言われちゃうかもしれないな。
けどそれでもいいや。
これで本当のことを言ってしまったら、きっとまた甘えてしまう。
これ以上優しくされたら、もう独りだったあの時に、戻れなくなってしまうから。
もうすでに、独りでいるときが怖くて仕方ない。あなたと一緒にいた時間が長すぎて、支えられすぎたから。
深呼吸をして、涙をこらえて、それでも笑顔をつくる。
そんな顔しないでよ。
わたしのこと、ただのクラスメイトなんでしょ?
期待させないでよ。
口元だけをこっそりと動かして「大好き」と伝える。
サイレントゲームみたいだね。口の動きだけで言葉を当てるの。
ねえ、気づいてくれるかな。
結局伝わっちゃったら意味ないけどね。
でもさあ、気づいてくれること……少し期待してもいい?
さっきの嘘も、きっと彼なら……。
……嘘が大っ嫌いなあなただったら、見破られちゃうかな。
わずかな希望と後悔を胸に、わたしはその場をゆっくりと離れた。
後ろから突き刺さる視線が、いつまでも追いかけている気がした。
教室を飛び出した後、誰もいない下駄箱で、独り佇んでいた。
静かすぎる下駄箱には、ぽつぽつと屋根を叩く雨音だけが響いている。
まるで時間が止まったようだった。
やっぱり言いたくなかったな。言わなきゃよかった。言わなかったら……!
視界が滲み、そこからいくつもの涙が流れ落ちる。
制服のすそで乱暴に涙を拭ったけど、拭ったそばから新しい涙が溢れてくる。
しばらくの間、下駄箱の前にしゃがみ込んで、シミを作る涙を見つめていた。
なんてバカなんだろう。
好きなのに、嫌いって言っちゃった。一番広瀬くんが嫌いそうなことを、自ら選んでしまった。
誰にも聞こえないこの場所で、涙だけが次々とこぼれていく。
そのとき、目の前に光を感じた。
鮮烈で、真っすぐな光。わたしの心を照らすように、真っすぐな。
顔を上げると、くもった窓の向こうに、晴れ渡った空が広がっていた。
後ろの窓を覗けば曇天なのに、目の前は晴天だ。
まるで世界が違うようだった。
一歩戻れば曇り空。一歩進めば青空。
一歩でこんなに違うんだ。同じ世界なのに、こんなにも。
真っ暗な空に輝く太陽は、どこか現実味がなくて、ただ――ただ、綺麗だった。
気づけばその景色に、心までもを奪われていた。
突然、背後から声がした。
誰もいないと思っていたので、思わず飛び上がりそうになった。
しかもその声が、彼のものだったから。
「へぇ、そんなとこにいたんだ?」
泣き顔を見られたくなくて、わたしは後ろを振り向かずに彼の声を聞いていた。
実際に彼の顔を見ているわけじゃないのに、彼がニヤッと笑っているのが容易に想像できた。
「霜月さぁ、嘘つくの下手すぎるよ。顔、泣きそうだった」
どきりとする。わたしは言葉が出てこなくて、ただ目を見開いた。
「俺の前で嘘つくなんて百年早ぇんだよ」
う、と声にならない嗚咽がかすかに洩れた。
それと同時に、さっきまで止まっていたはずの涙がもう一度溢れてくる。
意地悪な優しさが、どこまでもわたしを追い詰める。
涙のせいで何も喋れなくて、振り向くこともできなくてわたしはせめて、顔を見られないようにと顔を覆った。
彼によってぐしゃぐしゃになった心を、彼がさらにかき乱す。
「ホ、ホントはっ……好きだよって伝えたかった……!」
涙ですべての感情が攫われる。
自分でもとんでもないことを口にしているのはわかってる。でも今は取り繕う必要はないと思った。
「でも、怖くてっ。このままだと、もう独りになったとき立ち直れないから……っ」
嘘だらけの言葉が、だんだんと塗り替えられる。
“嘘”が“本当”に置き換わって、空白の世界に白が色を付けていった。
涙がこぼれるたびに、全ての嘘が洗われていく気がした。
「……独りになんかさせねーよ」
あまり使わなさそうな、強気な言葉。
気づけば、わたしの頭にそっと手が触れていた。
温度が、じんわりと伝わってくる。わたしの涙を、ちゃんと受け止めてくれるあたたかさだった。
もう、言葉はいらなかった。
振り向いて、ぐしゃぐしゃのままの顔で、彼を見上げた。
涙で滲んだ視界の中でも、彼の顔ははっきり見えた。
雨の匂いと、彼の匂い。
後ろで小さくつぶやいたのが聞こえた。いつも通りの、どこか申し訳なさそうな、悔しそうな声音で、ぽつりと言った。
「でも、ごめんね」
その意味を理解したとき、スッと体が冷えるのを感じた。
この恋は叶わないと分かりきっていたことだった。それよりもショックだったのは、広瀬くんの口にごめんと謝らせてしまったことだ。
彼にこんなことを言わせてしまったのはわたし。彼が謝る必要はないのに。
全部がごちゃごちゃになって、それが涙へと変わっていく。
ごめんね、それはこっちのセリフだよ。
困らせてごめん。こんなに弱い自分でごめんね。
わたしは静かに立ちあがって、溢れる涙を止めることなく、その場を去った。
あのさあ、広瀬くん。
わたしが気づかないとでも思ってるのかな。
ねえ、わたし気づいてるよ。
どうしてあなたがあんな悔しそうな顔をしたのか、意味は分からなくても、あんな嘘なんてすぐにわかるよ。
教えてよ。あなたの心を。
聞かせてよ。あなたの本音を。
嘘なんかで、わたしを騙さないでよ。自分を騙しているのと一緒だよ?
一番傷ついているのは、あなた自身なんだから。
それをわたしに教えてくれたのは、あなたでしょう?
わたしは弱い。誇れるような長所もない。
けど、誰かの光になれるなら、もしわたしが誰かの支えとなれるなら……。
広瀬くんの光になれたら……。
この恋は叶わなくても、それでよかった。
広瀬くんの後ろ姿を思い出す。
いつも飄々としていて、どこか掴みどころがなくて、それでも優しさが滲み出ている人。
そんな彼が、「ごめんね」なんて言った。
きっと彼も、何かを隠していた。わたしと同じように。
誰かを想う気持ちは、とても優しくて、同時にとても残酷だ。
その優しさが時に刃になることも、彼は知っている人だった。
そして、わたしはそれを知っていて嘘をついた。
ごめんね、わたしって結局いつも自分のためだ。
さっきまで晴れていた目の前の空はすっかり暗くなり、わたしを責めるような雨が降っていた。
空を仰ぐと先の見えない雲の隙間から雨が音をたてて降ってくる。傘をさすこともなく、ただ雨に打たれながらわたしは家に帰った。
その日は全く眠れなかった。学校に行くのも辛かった。でも行くという選択をせざるを得なかった。
だからまあ、学校にいるのだけれど。
ちょうど昨日、親が帰ってきて、最近の学校の様子を尋ねられたのだ。
「普通だよ」と曖昧なわたしの返事。
だって、親に心配かけさせるわけにはいかない。
もともと仕事で忙しいのに、心配事を増やすわけにはいかない……。
まあ、本当のことを言ったところで心配してくれるかと言われるとわからないけど、お姉ちゃんは黙っていないだろう。
お姉ちゃんには十分助けられてしまっているから、これ以上甘えるわけにはいかないんだけどなあ……。
あくびをかみ殺して、わたしは目をこする。
遅くまで勉強をしていたせいか、すごく眠い。今日はしっかり寝なきゃ。
それこそ心配されてしまう。
放課後になって、わたしはひとりになるために屋上へ向かう。
いつの間にかこれは習慣になっていて、自然と足がそちらに向かっていた。
屋上は、心地いい。
誰も知らない「わたし」でいることができる。「いい子」でいなくていい、たった一つの場所。
今日は、眠いのが影響したのか授業中もぼんやりとしたままで、先生に指名されたものの答えることができなかった。
あの時のクラスメイトの視線。
何度も見てきた「できるはずでしょ?」という期待の目。
「霜月なら解けるだろ。学級長なんだから授業にはしっかり参加しろ」という先生の視線。
なにを言いたいのかわからない、広瀬くんの貫くような視線。
わたしにだって解けない問題はあるよ。期待しないでよ。怖いよ。怖いよ……。
「どーした」
そう言ってわたしの目の前に現れたのは……震える手を掴んだのは、紛れもない広瀬くんだった。