「任せて!」って笑った君は
いつも相手のことばかりで。
「平気だよ」って裏返した言葉は
いつも相手のためであって。
自分のことなんか後回しって
結局そういうことなんだ。
頑張りすぎて、疲れ果てたときであっても
君はやっぱりいつも笑ってた。
色を無くした心に
少しでも響いてくれますように。
心の中に溜まった涙を
少しでも減らせますように。
「嘘は大っ嫌いだから」
君の嘘に、一番に俺が気づいてやるから。
――だからもう、頑張らなくていい。
わたしは今日も、濁り切った教室で無意識に笑顔を浮かべていた。
小さい水槽のような狭い空間で、たくさんの人が生活している。
相手の心情を窺って、言葉を選んでいた。
本音を抑え込んで「そうだね」って笑うわたしが、嫌いだった。
「しもー!」
元気で明るい声が、わたしの耳に届いた。
わたしを呼ぶ声だとわかって、どうした?とその声をした方を振り向く。
もちろん、笑顔を忘れずに。
「しも! おはよー! 朝からどんよりしてどうした~」
手をパーにしてわたしの顔の前で上下に振る藍ちゃん。
心配そうに顔をのぞき込まれて、わたしは藍ちゃんと目を合わせた。
長年の付き合いのせいか、笑顔であるにもかかわらず、どんよりとしたオーラが漂っているのが分かるらしい。
この子の前では、この子の前だけでは、わたしはわたしを偽れない。
「おはよ。今日も雨だね。気分下がっちゃう」
ほら、朝からこんなに降ってるし、と窓の外を指差せば、藍ちゃんも「そだねー」と同意するようにうなずいてみせた。
灰色の雲。
灰色の空。
涙のように降り続ける雨。
弱まる気配はない。
そういえば今日は一日雨って言ってたっけ、とわたしは朝のニュースを思い出してため息をついた。
いつになったら、この空は晴れるのだろうか。
「もー、全く春らしくなんないね。春ってもっと桜が咲いてて、ちょうちょが飛んでて、お日さまが出てて、みたいなそんなかんじじゃない!? 雨のせいで台無しだよおおお……」
こりゃあ、テンションも下がるわけだよ、と肩をすくめた藍ちゃん。
まったく藍ちゃんの言う通りだ。
こんな雨じゃあ、春を実感することもできない。
桜は雨で散ってしまったし、雨の日に蝶がそこらを飛んでいるわけがない。
もちろん、太陽も出ていない。
わたしははあ、と二度目のため息をついた。
そいえば、とふと思い出したかのように藍ちゃんが口を開いた。
「朔くん、今日も欠席だって。そろそろ学校来てもいいのにねえぇ」
そうだね、とわたしは呟いてとなりの席を盗み見る。
広瀬 朔。
彼の名前はよく聞く。なぜなら、彼を心配する声が毎日のように教室を飛びかっているからだ。
彼とはまだ、話したことがない。
高校一年生のときは、ほとんど不登校状態だったらしい。
違うクラスだったから、そこまで広瀬くんについては詳しくない。
高校二年生のクラス替えで、たまたま同じクラスになったのだ。
一週間ほど前に行われた、高校二年生の一回目の席替え。
もちろん彼は出席していなくて、代わりに先生が引いてたっけ。
となりの席に誰もいなくて、机の前に張ってあるネームプレートを見たら、ああ、と納得した。
この綺麗な名前を持つ子が、始業式から顔を見せていない男の子か、と。
誰もいないその席は妙に寂しくて、笑い声があふれる教室の中でもぽつんと取り残されたように動かない。
窓から降り注ぐ日差しがその席を照らしている。
そこだけスポットライトが当たったかのように明るくて、その温かな日差しは、その席に人が座るのを待っているような気がした。
待ってるよ。きっとみんな待ってるよ。
あなたのことは知らないことだらけだけど、待ってるよ。
この椅子も、あなたが座るのを待っているはずだよ。
何もない空間を見つめて、そんなことを思った。
キーンコーンカーンコーン、と始業を知らせるチャイムが鳴った。
同時に担任の先生が入ってきて、「ほら、みんな着席着席!」と手をたたく。
藍ちゃんは、またあとでね、とこそっとわたしに言ってから、自分の席へ向かって行く。
他のみんなも、名残惜しそうに輪を崩すと、決められた自分の席に着いた。
じゃあ、と先生の視線がわたしに向けられて、それに応えるようにかすかにうなずいた。
学級長のわたしに、何度も何度も向けられてきたこの視線。
ため息が出そうになって、わたしはぐっとそれを飲みこむ。
代わりに息を吸って、起立、と呼びかける。
小さいかすれた声しか出ない。
そして数人しか反応してくれない。いつもそうだ。
わたしが精いっぱい呼びかけても、読書している人や、となり同士で話している人がいる。
声が届いていないのは自分のせいなのだ。もっと声を張れば、聞こえるように大きな声で呼びかければ。
なんとかしてその視線をわたしに向けたくて、さっきよりも大きく息を吸ってはっきりと口にする。
「起立」
座っていた人は、今気づいた、とでも言いたげな表情でのろのろと立ちあがる。
早く立ってよ。みんな待ってるって気づけないの?
言いたい。言いたいけど、言っちゃダメ。
顔が引きつらないように、意識して笑顔を作る。
「おはようございます」
――今日も、心の雨が止む気配はない。
疲れ切った一日が、「さようなら」の言葉で締めくくられる。
クラスメイトが教室を飛び出して、放課後の予定を話している。
わたしもその中に混ざって帰りたかった。
けれど今日は、これからまだやることがある。
疲れた日に限ってやらなければいけないことがあるなんて、今日は本当についてない。
月曜日のはずなのに、気分は金曜日だ。
「霜月、居残りさせてすまないな。明日の授業で使う予定のプリントを運んでもらいたかったんだ」
いえ、と小さな声で言ってから、プリントを準備している先生に顔を向ける。
「大丈夫です、この後予定もないので」
「そうか。そりゃ助かるな」
慣れた手つきで二種類のプリントをまとめて束にし、わたしに手渡す。
プリント自体はそんなに重くない。
けれど、その後に続く言葉を想像して、思わずプリントを握りしめた。
「いやあ、よかった。霜月が学級長で助かったよ。今回もありがとなぁ」
こういうとき、どうやって返すのが正解かわからなくて、「そうですか」と小さくつぶやくことしかできない。
先生からの期待が、重い。
ずしり、と見えない荷物を背負ったような、そんな感じ。
ただわたしが学級長に推薦で選ばれて、たまたま予定がない日に手伝いを頼まれて、たった、それだけのことなのに。
なんで先生は、クラスメイトは、こんなにわたしに期待するんだろう。
わたしの表情が曇ったのが先生もわかったのか、心配そうにわたしを見た。
「霜月も無理はするなよ。悩みかなんかあったら先生に相談してくれてもいいからな」
先生の顔は真剣で、本当に心配してくれていることが分かった。
先生に相談できたら、そりゃあラクになるだろう。
相談したら「つらかったな」「気づけなくてごめんな」って言われるに違いない。
でもわたしは同調してほしいわけでも、謝ってほしいわけでもない。
わたしが望んでいるのはそんな言葉じゃない。
ただ自分が判断してこうやって手伝っているのだから、謝られても困るだけだ。
わたしは先生を安心させるように目を細めて、
「大丈夫です。これ、先生の机に運んでおきますね」
とひとこと言って、わたしは先生の返事も聞かずに、足早のその場を去った。
放課後の静けさに包まれた校舎の階段を上って、わたしのクラスに向かう。
プリントにざっと目を通すと、どうやら国語のプリントらしかった。
もともと担任の先生は国語科で、わたしたちのクラスの国語を持っているから、当たり前と言えば当たり前だけど。
教室まであと一歩というところで、プリントが一枚舞った。
空いている窓から吹きつける風のせいだ。
わたしはかがんでそれを拾い上げる。
そのプリントはさっき見たプリントとは違くて、なにも印刷されていない。
あれ……? 印刷ミス……?
真っ白なA4の紙。
ただただ広いまっさらなコピー用紙。
他のプリントも確認すると、ちょうど半分ほど真っ白なプリントがあった。
どうやら印刷ミスではないらしい。この真っ白で広すぎるプリントにも、しっかり理由があるのだろうか。
何に使うんだろう……?
もう一つの、一番最初に確認したプリントを見れば、その答えはすぐにわかった。
「あなたは真っ白な紙があったら、それを何色で塗りますか」
なるほど、とわたしは手を打つ。
こういうのは嫌いじゃない。
答えが人の数だけあって、正解はない。
わたしだったら何色で塗るのだろう、と少し考えてみる。
好きな色で塗ってもいいかもしれない。一色だけ、と書かれていないのなら、虹色で塗ることも可能だ。
でも、すぐには思い浮かばなかった。
この広すぎる、この嘘がつけない真っ白な紙に、わたしは色を乗せる自信がない。
わたしはそっと先生の机に置いた。
優しすぎる春の風に飛ばされないように、近くに置いてあったボールペンを上に置いて。