緑を食む


「相原、昨日悪かったな」
 朝イチで今井くんに声をかけられた。昨日、とはプリントのことだろう。チャイムを鳴らしたらお母さんが出てくれたので、無事にプリントを渡し、明日までに提出だと伝えることができた。
「ううん。元気になって良かったね」
 私は笑顔を見せた。今井くんは少し言いにくそうに口ごもったあと、口を開いた。
「お礼にさ、放課後なんかおごるよ」
「えっ」
 私は目を見開いた。そして「悪いよ」と言いかけたところに、今井くんが食い気味に続けた。
「おごるっつっても、カフェとかな。フランス料理フルコースとかはねえから!」
 そう言って今井くんはふいっとそっぽを向いた。私はプリントを届けただけなのになあと申し訳なく思いつつも、昨日に引き続きクラスの子たちと仲良くなれるようで少し嬉しかった。
 放課後、私と今井くんは電車に揺られていた。カフェは学校の二駅先にあるのだ。夕方は学生などでそれなりに混んでいる。私たちは立ちながら授業のことなど他愛もない話をしていた。喋るのはほぼ今井くんだったが。
 ひとつめの駅に停車した時、重そうな荷物を持った妊婦さんが乗ってきた。妊婦さんはきょろきょろしたあと、億劫そうに手すりに掴まった。私は優先席のほうを見た。
 私は眉を寄せた。私のお母さんくらいの年頃の女性二人が大きな声で喋りながら優先席を占領していた。
「どした? 相原」
 今井くんが不審そうに声をかけてきたので「ちょっと」と答えて私は女性たちのほうへと歩いて行った。
 もしかして妊婦さんが乗ってきたのに気付いてないのかもしれない。それならば教えてあげれば席を譲ってくれるかもしれない。
 とても緊張する。今までの私ならきっと見て見ぬふりをする。でも、今日は。
「なに?」
 女性たちの前に立つと、そのうちの一人が胡散臭そうに私を見上げた。足が震えた。
「あ、あの。今妊婦さんが乗ってきて」
「だから?」
 二人が私を睨んだ。今井くんが私の腕を引っ張ったけれど、今はこの女性たちと話をしている。
「ここ、優先席なので、譲ってあげたほうがいいんじゃないかと」
「はあ? それあんたに関係あるの?」
 目の前が白くなった気がした。どうしよう。
 そう思っていたのは、ほんの一秒にも満たない時間だったのかもしれない。
「すみません! 俺たち今授業で一日一善ってのやってて。ここで席譲ってもらえるとクリアなんすよ!」
 今井くんが私の前に出て、そんなことを言った。
「一日一善って! 別に君たちが席譲ったわけじゃないでしょうが」
 女性たちが笑った。今井くんは「そうなんすけどねー」と笑った気配がする。背中しか見えないので表情はわからない。
「おい、みっともないと思わないのか。こんな若者たちに言われて」
 私たちの背後から、恰幅のよい中年男性がやってきた。すると女性たちはムッとしたような顔をしたが、ぶつぶつ言いながら席を立った。
「空きましたよ」と男性は妊婦さんに声をかけた。妊婦さんは男性に頭を下げ、それから私たちのほうにも「ありがとうね。若いのにえらいわね」と微笑んでくれた。
 今井くんはにこにこと妊婦さんに返事をしていたが、私はそれらの出来事を夢の中のそのまた映画を見ているような気持ちで眺めていた。
 次の駅で私たちは降りたようだ。
「今日は帰るか?」
 今井くんに言われて自分が電車から降りたことに気付いた。
「あ、うん……」
 そう答えた。家に帰りたかった。
「ごめんね。せっかくここまで来たのに」
 今井くんは頭をかきながら笑った。
「いや、今日は相原へのお礼だからいいんだよ。でも、今度また、絶対お礼させてくれよ」
「ありがとう」
 私は夢見心地のまま今井くんのあとをついて、また元来た方向行きの次の電車に乗り込んだ。