菜の花の黄色と桜並木の桃色が、真っ白な曇り空に淡く広がっている。

 創立一二〇周年の看板の横を、大きめの制服を着た新入生たちがぞろぞろ歩いてくる。悪いOB達が、朝から南行橋駅に屯して、無理に絡もうとしている。あんな風にはなりたくない。というか、俺はあんなのとは違う。反面教師にして、見なかったことにしよう。

 高校生活最終年度のはじまりだというのに、空は曇ってどんよりしている。くすんだ校舎に、グラウンドからの砂埃が降りかかる。

「ついに私らも三年生になったっちゃねぇ」

「自覚ないけどな」

「さっき思ったんやけどさ、田んぼの中を走るへいちくっち、私らの関係に似とらん?」
「どういうこと?」

「線路って、ずーっとまっすぐやん。私らも、小さい頃からずっと一緒で腐れ縁じゃん? で、空と山と田んぼと霧と。でも、見慣れすぎた景色の中に、季節によって違う表情があるんやないかなぁって。当たり前すぎて見えとらんことも多いんじゃないかなぁって」

「お、良い事言う! でもオチがないけん座布団はあげられんね」

 へいちくから一緒に令和コスタ駅に降りて、今日も高校までの道を一緒に歩いた穂香。話を聞きながら、いつも一緒にいたことを改めて実感した。

 と、その時。見覚えのある黒髪ロングが俺等の後ろからすっと前に躍り出た。

「汐!? なんで!?」

「あ? なんだよ?」

 いつも日曜日に会っている活動家の汐が、穂香と同じ制服を着て、俺と同じ高校に登校している。ブレザーの前ボタンは開けっ放しで、腕まくりして腕を組んでいる。同じ学校だったんだ。なんで気づかなかったんだろう。

「なんだよって……今日も朝からキツいなぁ」

「うっせぇ。じゃ、またな」

 髪をかきあげ、プイッと体を向き直して早足で去っていく汐。毎週日曜日に会っているのに、少しも距離感が縮まらないのは、その捉えようのないキャラクターのせいじゃないかと思う。不機嫌なときと楽しそうなときの差が激しすぎて、まるで別人のようだ。

「睦ちゃん、あの子と仲良かったっけ?」

「ああ、まあ、ちょっと、ね」

「ふーん。なんか私に隠しょうち」

「しゃあしいのう。穂香には関係ないちゃ」

「関係あるちゃ!」

 汐との関係性は、他の誰にも秘密にしていたのに。特に穂香には教えないようにしていたのに。別に後ろめたいことは何もないけど、穂香には言わないほうが良いと思うから。

「あれって総合ビジネス科の不思議ちゃんでしょ? どこで知り合ったの?」

「え、汐って、うちの高校だったん!?」

 まさか同じ高校だったなんて。でもなんで今まで会ったことがなかったのだろう。確かにクラス毎に全然やってること違うし、全然絡みが無いから、そんなもんといえばそんなもんだけど。

「え、なに? 下の名前で呼び合う関係? どういうこと?」

「ああ……友達? よ。いやぁ、汐ってちょっと頭良いんだな。あの、あれよ、牡蠣小屋の娘っちゃ。一緒に牡蠣小屋行ったときかな、初めて会ったのは」

 別に穂香には何でも話せるはずなのに、なぜか汐のことは穂香に話したくなくて、とにかく隠し通したかった。それが自分でも不思議だった。

「ふーん。最近休みのたんびに出かけとったのも、あの子と会っとったちゃろ」

 ぐぬぬ、って本当にぐぬぬ、って感じなんだな。うまく言い訳を紡げない。

「ちょっと弱み握られて、強制参加させられとるだけ」

「なんそれ気になる! 教えてや!」

 穂香の声が普段より少し高い気がする。本当に気になっているときのやつだ。うまく説明できる気がしないし、無駄にお節介を働かれる気がして、教える気にはなれなかった。

「しゃあしいけ教えん!」

 しつこい穂香を振りほどいて、教室に逃げ込んだ。でも、同じ農業技術科の穂香とは、三年目も同じクラスなので逃げ場はなかった。いつものように机に近寄ってくる穂香。その近すぎる存在に、思わず身を引く。誰かと深く関わりたくなくて、いつも一定の距離を保とうとしてしまう。けれど穂香は、そんな俺の心の壁も見透かしているかのような気がして、逆にもっと逃げたくなった。


 まだ肌寒い四月の海に、コンクリートで区画分けが進む。厳しい寒さが緩和された分、参加者が増えるかと思ったが、反対運動の参加者は減り続けた。あんなに話題になっていた潮力発電所兼巨大防波堤の建設を含む沿岸部の再開発事業は、行橋の人々の頭からすっぽり抜け落ちたようだ。

 それでも汐は群衆を導いていた。その姿は、潮が寄せては返すように、確かな力強さを感じさせた。
「潮力発電所の建設、反対! 防波堤建設、反対! 綺麗な海を、汚すな!」

 さすがに覚えた。頭から離れない。夢でうなされそう。だけど、不思議と悪い気はしなかった。一緒に声を張り上げる汐の背中には、鮮やかな藍色が見えた。それは町の灰色を突き抜けていくような、強い意志の色。声を合わせる度に、自分の中の灰色が少しずつ薄れていくような気がした。

「睦! おつかれ! 今日はこのあと海水浴場の方に行ってみない?」

 今日も笑顔が爽やかだ。艷やかな黒髪が風になびく。満潮時の汐の笑顔は、完璧すぎる。まるで教科書通りの理想的な女子高生を演じているかのよう。でもその完璧さが、逆に不気味に感じる時がある。影が妙に色濃く見えて、怪しげに映る。昼時の汐はやっぱり機嫌が良いようで、朝イチの汐とはやっぱり別人のよう。ずっとこっちの汐でいてくれればいいのに。

「良いけど、まだ入るには寒くない? 水着もないし」

「水には入らないよ! マテ貝、掘ろう?」

 なにそのユニバ行こう? みたいなノリ。可愛いんですけど。

 建設現場から橋と道路を渡って簑島を通過し、民家の間をすり抜ける細い道路をまっすぐ突き進むこと一時間。山と田んぼと空しかない景色に若干飽きながらたどり着いたのは、長井浜海水浴場だった。砂浜が見えた瞬間に疲れがどっと押し寄せて、思わず石段に座り込んだ。

「休憩! しばらく休憩させて! ていうか汐ほんと元気だなぁ。すげえわ」

「あ? なめてんのか? 小さい頃から来てるんだから、慣れてるだけだ」

「え?」

「あ?」

 お昼時のあの可愛らしさはどこへやら。今日はなぜか午後からやさぐれた不良女のような荒々しい口調の汐が戻ってきた。暑いのか髪をかきあげ、ブレザーの前ボタンを気だるそうに開けて、猫背で膝を立てて座っている。せっかく一時間も歩いてきたのに、色んな意味でキツいわ。

「ほら、そろそろ動けんだろ。貝掘るぞ、貝!」

「ええ……」

 こんな汐を見ても動じない自分に、少し驚く。普段なら面倒くさがって逃げ出すところだ。勉強も部活も、興味を失ったら即やめる。先生からはもっと努力しろと散々言われるが、正直どうでもいい。クラスでは浮いているわけではないが、深く関わる友達もいない。その分、スマホの中の世界に没頭する。

 そんな俺と正反対なのが穂香だ。農家の手伝いもこなせて、たくましい体格で男勝りな性格。毎日放課後はへいちくで穂香と一緒に帰るけど、ほとんど会話もなく、ただスマホを見ている。それでも穂香は黙って隣で楽しそうに振る舞っている。全然気を遣わなくて良いからこそ、知らないうちに穂香に対して冷たく接してしまう。それに多少は罪悪感を感じながらも、結局は自分から行動せず、平穏無事にすべてが収まることを期待し続けてしまう。


 お世辞にもそんなに白いとは言えない灰色の砂浜に飛び出し、巣穴を探す。砂浜の上の方を数センチだけスコップで救って、穴を探していく。見つかり次第そこに塩を多めに盛って、あとは飛び出してくるのを待つだけ。最初は無数の穴から長墓沿い貝が飛び出してきて気持ち悪かったが、慣れるとだんだん楽しくなってきた。

「ほら、そこ出てる」
「はい!」

 ドギツいほうの汐に促され、一生懸命に貝を掘る。可愛い方の汐とワイワイきゃっきゃしながらやりたかったのになぁ。砂に潜る貝を追いかける汐の指先が、まるで失われていく何かを掴もうとするように見えた。

「汐、ちょっと聞いても良い?」
「あ?」

 しゃがんだままマテ貝の巣穴を探すふりをしつつ、恐る恐る聞いてみる。やっぱり反応が怖い。

「汐って、双子なの? それか、二重人格?」

「二重人格っていうのは近いかもな。睦は潮の満ち引きって、もちろん知ってんだろ?」

「ああ、まぁ詳しくは分かんないけど、海の水が多いとか少ないとか、そういうこと?」

「ざっくりだな。まぁそんなとこ。あたしさ、潮の満ち引きで性格変わるらしくてさ。記憶とかも有耶無耶な時があるし、なんか疲れるんだよね。周りの人にも迷惑だしさ。だから誰にも話さなかったんだけど、睦なら話しても良いかなって思ったんだよね。なんでだろね」

 それで学校では不思議ちゃんって呼ばれてるんだ。潮の満ち引きで性格が変わるって、どういう感覚なんだろう。女心は山の天気のように変わりやすいとよく言うが、それのもっと激しいバージョン? みたいなイメージ? なのだろうか。

「満潮時のあたしは、理想の自分? 干潮時のあたしは、逆に罰としての自分? みたいな? そう自分に言い聞かせてる」

 その言葉に違和感を覚えた。自分に言い聞かせる、という表現。しかも、罰って。

「罰って、何のだよ。別に悪いことしてるわけじゃないんだし」

「客観的に見てわかんだろ。睦だって、女の子らしいほうが好きだろ? 接しやすいだろ? 満潮時のあたしとは、仲良くしたいと思うだろ?」

「まぁ……そうね」

「じゃあ今のあたしは? ちょっと距離あんだろ? 普通に考えて、可愛くないだろ。好かれないだろ」

 その言い方には、どこか誇らしげな響きがあった。干潮時の汐を否定的に語るその口調に違和感を覚える。まるで誰かの欠点を強調するようで、そうあってほしいと願っているかのようだ。

「だから、これは罰なんだよ。満潮時に好かれる要素が固まって、干潮時には好かれない要素が固まって。それが形になったんだって、そうやって自分で自分を納得させてる」

 諦めで自分自身を納得させるかのような言い方に、息が詰まる。いや、諦めというより、どこか意図的な響きをも感じる。この「好かれない汐」は、本当に罰なのか、それとも誰かの願望なのか。

「そっか……大変だね」

 誰でも言えそうなどうでも良いひと言かもしれないが、今の俺にはそれ以外のもっと良いコメントを残せそうになかった。

 海の方を向いて悲しげな横顔を見せる汐は、タバコが似合いそうな大人の女性に見える。マテ貝をたばこ代わりにしたりして。なんてふざけるような雰囲気ではない。

「潮干狩りって、その名の通り、潮が引いてるからできるんだよね。だから、マテ貝を掘るのはあたしの役目。ここに連れてくるのは、女の子らしい満潮のときのあたしに任せたほうが良い。そういうことなんだろうね。今午後三時だから、今日はあと一時間くらいはこんな感じ。四時頃に満潮になって、そうしたらまた変わる。だいたい六時間くらいで満ち引きが入れ替わるんだ」

「そっか、それぞれのときの考え方も全く違うもんな。確かに接し方には気をつけないとね。気をつけます。はい」

「そんな怖がんなよ。って、無理か。こんなんだもんな」

 また髪をかきあげてからスコップを持って砂浜の方に視線を落とした汐に、かけられる言葉が見つからなかった。

 波が寄せては返し、砂浜に無数の模様を描いていく。それは誰かの記憶のように、すぐに消えてしまう。でも確かにそこにあった痕跡は、砂の中に刻まれ続けている。


 完全な二重人格ではないけど、自分の中に二人の自分がいる。そんな感覚、考えたこともなかったから、どう接するのが良いのかイマイチわからない。可愛くて爽やかで女の子らしいのは満潮時の汐。荒々しくてドギツいのは干潮時の汐。それぞれのピークタイムに性格が入れ替わってしまうらしい。「わたしはね」と優しく語りかける満潮時の汐と、「あたしには関係ねえ」と突き放す干潮時の汐。満潮時は髪をきちんと整え、制服をきっちり着込み、立ち振る舞いまで優等生そのもの。一方、干潮時は髪を無造作に束ね、テキトーに腕まくりすることが多く、猫背がちに歩く。確かに別人のような違いだ。

 調べてみたが、潮の満ち引きは一日の中で周期的に入れ替わり、一日ごとに五〇分ずつずれていくらしい。だから、正月のときのリズムと四月に入ってからのリズムにズレがあったのだ。

 それさえ分かってしまえばこっちのもの。満潮時の汐と会える時間帯を狙えば、あのドギツい干潮時の汐には会わなくても済む。四月中旬は反対運動に参加すると朝早くからあの爽やかな笑顔が見られるが、昼時にはドギツい汐になるから昼で帰ろうとか。四月下旬はまた朝からドギツい汐だから、そもそも反対運動には参加しないとか。もしくはあえて昼過ぎに行って、集会終わりの弁当とその後のデートのみ楽しむとするか。

 満潮時の汐は、灰色の空から差し込む薄明光線のようだ。爽やかで、可愛らしくて、まるでどこか遠い世界からやってきた存在のように、世界を色づけていく。俺はその姿に、この町からの逃避を見ていたのかもしれない。

 抗議活動の合間、睦は無意識のうちに潮位と汐の様子を照らし合わせていた。

 時には爽やかで優しい笑顔を見せ、時には攻撃的な態度を取る汐。その変化は汐自身が言っていた通り、確かに潮の満ち引きと連動しているようだ。だが、次第に違和感が募っていく。潮の満ち引きの時間は毎日少しずつずれていくと聞いていたが、それにしても汐の変化が激しすぎる。それに、満潮時の汐の言動にも、どこか不自然さを感じる。考えすぎだろうか。

 いつもの爽やかさの中に、時折見せる悲しげな表情。まるで演技をしているかのような不自然さ。そんな中、時々汐は独り言のように『ごめんね』とつぶやいていた。それを言う汐の声には、どこか影があった。抗議活動への執着も、単なる環境保護や商売の維持だけが目的ではないような気がした。だが、そんな疑問が頭をよぎっても、すぐに打ち消してしまう。疑いたくないという気持ちが、違和感を無視してしまう。

 工事への反対運動は、日に日に熱を帯びていった。だが汐の熱心さには、どこか異様なものを感じる。まるで自分を追い詰めるかのような必死さ。この活動自体が、何かの贖罪なのではないかとさえ思えてくる。

 みんなのために声を上げないと、と先導する汐。だけど、本当に行橋市民を代表しているのだろうか。建設や埋め立てに対して反対の立場を取る人達みんなの想いを、汐一人で背負う様子は格好良くは見えるが、どこか違和感があった。

 しかしそんな違和感も抗議運動が終われば自然消滅した。また次に満潮時の汐に会えるタイミングを伺って、足を運ぶ。それを何度も続けているうちに、本当にこれで良いのか心配になるほど、都合の良いタイミングで会えるようになった。干潮時の汐を避けることは、きっと間違っている。そんな後ろめたさを感じながらも、満潮時の汐との時間を求めてしまう自分がいた。

「睦ちゃん、最近なんかあった?」

「なんもないちゃ」

「嘘ちゃ。幼稚園の時から、嘘つくと目を合わせんくなるの知っちょうけん」

「しゃあしいなぁ。穂香にはかなわんわ」

「当たり前やん。ずっと見とるけん」

 その「ずっと」という言葉に、なぜか胸が詰まった。でも、その意味を考えないように、必死で目を逸らした。

「ま、ちょっとね。穂香には内緒」

「なんでや! 教えてや! 教えてくれんと夜桜の迎え行かんよ?」

「今川の夜桜? あー、良いよ、今年は行かんでも」

 今川沿いには桜の木が並んでおり、今ちょうど満開を迎えている。夜にはライトアップされて、ちょっとした観光スポットになっている。穂香とは小さい頃から一緒に親に連れて行ってもらって、帰りは穂香のおやじさんの車で犀川の家まで送ってもらうのが習慣だった。

 何と言っても今年は満潮時の汐が、行橋の良さを知れということで夜桜に誘ってきたのだ。もうデートの日時も決まっている。ちょうど夕方から満潮時の汐になってくれる日を選んでくれて、最高のシチュエーションだ。穂香に邪魔されるわけには行かない。

 約束の日。朝から例のごとく抗議活動に参加。行橋に向かうへいちくから見える景色が、いつもとは違って見えた。今まで気にも留めなかった田んぼの水面に映る空の青さが、汐の瞳のように鮮やかに見えるようになっていた。早く汐に会って、参加したことを喜ばれたい。お昼過ぎからはドギツい干潮時の汐に変わってしまうから、昼からは用事があることにして、テキトーに時間を潰す。夜七時頃に満潮になるので、その前に行橋駅の近くのコンビニでお菓子やジュースを買っておいた。七時半頃ならちょうど良く満潮時の汐になっているはずなので、機関車の車輪が飾ってあるところの前で待ち合わせた。

「おつかれー。用事はもう済んだの?」
「うん、もう全然大丈夫よ」

 そんな用事はひとつもないから、暇すぎて死にそうだったなんて言えない。この町で暇をつぶすことがどれだけ大変か。汐は魅力を伝えてくれるのに一生懸命だけど、何にも興味を持てない。興味を持てるのは満潮時の汐ただひとりだけだ。

 行橋駅から真っすぐ歩いてゆめタウンのところの橋を渡る手前で河川敷に降りると、先の方でぼんやりとピンク色に光っている桜並木が見えた。もう少し暗くなってくるともっとはっきりと見えてくるはずだ。

 壁当てもできない橋の下をくぐって、すぐに氾濫しそうな川の真横に作られた道を歩いて、桜並木に近づいていく。ライトアップされた桜の木々は天の川のようで、昼間とは違う幻想的な表情を見せている。光はピンク単色から虹色へと変化し、白や紫にも変わっていった。そのたびに川面に映る光が揺らめき、その反射が汐の顔を彩る。汐が必死に伝えようとしていた、この町の隠れた美しさを、今なら少し理解できる気がした。

 隣を歩く汐はかっちり着込んで寒さ対策をしているが、俺は見通しが甘かったのか鳥肌が止まらなかった。コンクリートの護岸ブロックに腰掛けて、今川の方を向いて休憩すると、川に反射されたライトアップされた桜がゆらゆら揺れていた。

「今日はありがとうね。最近たまにしか反対運動に参加しないから、嫌われたのかなぁって心配になってた」

「いや、嫌いになんてならないよ! むしろ……いや、なんでもないけど」

「最近集まり悪いじゃん? 工事はどんどん進んで、私達なんか眼中にないしさ。そんなものなのかな?」

「まぁ、何も声を上げないよりはマシなんじゃない?」

「なら良いけどね。睦はそういう意味ではすごく心強いんだよ。私が無理に誘ったのに、こうやって通い続けてくれてさ。ありがとね」

「いやぁ、それほどでも」

 下心丸出しで参加しているだけだし、たまにしか参加しなくなったのは干潮時の汐に会わないため。それなのに、心強いと思われているなんて、ラッキー。このまま良い雰囲気になって、あわよくば……なんて考えてしまう。

「なんで反対運動なんかしてるのかって、気にならないの?」

「あ、別にそれは……」

 言われてみれば確かにそうだ。なぜ反対運動に参加しているのか、理由を聞いたことはなかった。興味も持ったことがなかった。なぜなら満潮時の汐に会いに行くのが目的だから。

「気にならない?」

「気になる気になる! そうだなぁ、実家の牡蠣小屋への影響があるとか?」

「それはあるね。移転になるか、廃業になるか、どっちかだし。でもそれ以上に、もっと大事なことがあるんだ」

「大事なこと?」

「そう。私の人格っていうか、性格っていうか、二重人格みたいでしょ?」

「それは干潮時の汐から聞いたよ。大変だよね。自分の中に二つも人格があるなんて、想像もつかないけど、俺なら嫌になっちゃうな」

「だけど、それが解決するとしたら?」

「え、いいじゃん! 色々面倒なこともなくなって、楽になれるんでしょ? 良いことじゃない?」

「それがそうとも限らなくて。夏休みが終わる頃には、一番最初の埋め立てが完了する予定でしょ? 私の性格っていうか人格はある場所の潮の満ち引きが大きく関係してるんだけど、その場所が今度の計画で埋められるそうなんだよね。この意味、わかる?」

「つまり……海じゃなくなる?」

「うん。もっと言えば、潮の満ち引き自体がなくなる。潮が満ちていない状態になるっていうこと」

「ということはまさか……」

「そう。ずっと干潮状態になる。ずっと干潮状態になるっていうことは、私自身もずっと干潮状態になるっていうこと」

「そんな! それじゃあ、今の満潮時の汐は? どうなるの?」

「……消えるんじゃない?」

 そんな。せっかく出会えたのに。せっかくこんなに仲良くなれたのに。それであんなに熱心に抗議活動を続けていたのか。一人だけ熱量が違うのは、本当に自分事だったからなんだ。

「俺、頑張るよ。満潮時の汐が消えるなんて、俺には耐えられないから」

 夏休みの終わりって、もうあと四ヶ月を切ってしまっている。早くどうにかしないと、本当に満潮時の汐の人格が消えてしまう。本格化する前になんとかしないと。まだ春だからとのんびりしてはいられない。夏の終わりまで、もっと効果的に抗議運動を進めないと間に合わない。

「睦……ありがとう!」

 抱きついてきた汐の体温を感じて、逆に鳥肌が立った。暖かくて、良い匂いがする。だけど細かく震えていて、きっと色々怖かったのだなと思うと、愛おしくなってきた。この瞬間がいつまでも続けば良いのに。このままの汐がずっと続けば良いのに。そのためには、工事を止めないと。

「ごめんね? 急に」

「ううん、全然。全然かまわんよ。むしろありがとうっていうか。全然ありがとうだよ!」

 離れた途端に風が吹いて、名残惜しさが倍増した。

「一緒に写真撮ろう?」

「おう、良いよ!」

 まるで恋人同士になったみたいで緊張する。背景にはライトアップされた桜。横には笑顔の満潮時の汐。最高の瞬間だ。

「せっかくなら撮ってもらおうか。あ、すみません、ちょっと写真お願いしてもいいですか?」

 道を行く二人組の女性に声をかけた汐。自分のスマホを渡してこっちに笑顔で戻ってくると、スマホを持たされた女性の姿が見えた。

 構えているのは、穂香だった。
 なんともいえない複雑な目をしている。

「穂香!?」

「あれ? 睦ちゃんじゃん。ふーん、来てたんだあ。今年は来ないって言ってたのにね?」

 わざとらしく標準語で話す穂香が恐ろしい。別にやましい事はなにもないはずなのに、体が硬直する。

「睦、この人って」

「ああ、えっと幼馴染で友達でクラスメイトの穂香」

「どーも。総合ビジネス科の長野汐さんだよね? 同じ学年なのに、全然絡みないもんね」

「あ、同じ学校なんだ。よろしくね! 睦、仲良しの幼馴染がいるんだったら教えてくれたら良かったのに!」

「あ、ああ、仲良しっていうか別に普通だから、あえて言う必要もないかなって。あはははは」

 我ながら笑う演技が下手くそである。なにひとつ誤魔化せていない。いや、何も誤魔化す必要はないんだけども。穂香と汐の間に微妙な空気が流れていて、なんだかこっちが緊張させられる。

「ほーら。二人共しっかり近づいて。はい、もっともっと。はーい、撮りまーす」

 下手くそな作り笑いのまま写真を撮られてしまったが、汐は爽やかな笑顔で満足してくれた。穂香も表面上笑っていたが、なんだか目力がいつもより強く、体はさらにたくましく見えた。

「じゃ、お二人さんの邪魔になるのでこの辺で。行こ!」

 去っていく穂香の背中は大きく、隣の友達とクスクス笑うたびに上下に揺れていて、冷や汗をかきそうだった。一番見られたくない人に見られてしまったなぁ。別にやましいことはなにもないけど。ないけど。

「穂香ちゃんかぁ。可愛い名前だね!」

「……名前は、ね」

 せっかくの初ツーショット写真を、見返すことはなかった。