第4話 月からの遣い(前編)


 さて、あれから10年も経つと心も体も大きくなり、こいは16歳になりました。
ここまでの道のりは決して平坦ではなく、バケモノの指導者であるトキは宣言通り、鬼となりました。


新しいお家に来た翌日のこと、私はぼうっと寝巻のまま着替えさせてくれるのを待っていた。しかし、トキは目の前で正座をするだけだった。
「トキ、お着がえ」
「いいえ、お着がえは今日から一人でして頂きます」
 私の前にさっと着物が置かれただけだった。
着物を置かれても着方のわからない私はトキと着物を交互に見ることしかできない。
「着れない」
「では、どうします?」
「トキに」
「いいえ」
「わからない」
「では、そのままでいてください」
「やだ」
 私が駄々をこねてもトキは何もしてくれなかった。
最終的に溜息をついてから、いいですかと私を諭した。
「わからないことは聞いて、教えてもらわないといけません。教えを乞うときは教えてくださいと頭を下げます」
やだやだと言ったところでトキはじゃあそのままでいてくださいと何度も突き放した。くしゃみをして鼻水が垂れ、肩が震えてようやく私は観念した。
「着物の着方を教えてください……」
 おずおず頭を下げるとトキは眉を下げ、微笑んでくれた。
「かしこまりました」
トキは着物の着方を一から説明し始めた。
二日ほど自力で着ることが出来ず、体に布を巻き付けて過ごした。

「トキ……髪……」
「ご自分で」
 櫛を渡されただけだった。
寝て起きて、四方八方ハネ、うねる私の髪の毛はくせが酷く梳かすのが大変だということを初めて知った。
櫛を片手に何度も何度も逆立つ髪の毛と交戦した。
 
今までやってもらう側だった私が、自分でやる側になるのは何をするにも大変さが付きまとった。
布団の敷き方、炊事、裁縫、洗濯、掃除、お風呂、何もかも知らなかった。
「包丁の使い方を教えてください」
「裁縫の仕方を教えてください」
「掃除の仕方を教えてください」
「洗濯の仕方を教えてください」
 私の言葉にトキは嫌な顔を一切見せずに根気強くかしこまりましたと頷いてくれた。鬼の言う通り、やることも、やらなければいけないこともたくさんあって退屈はしなかった。

「きゅうりって……」
 初めて育てた野菜はきゅうり。野菜は木から生えるわけではないことも初めて知った。


何度も調理中に包丁で指を切った。裁縫をすれば針で指を刺したり、洗濯物を泥まみれにしたり、掃除をすれば床を水浸しにしたりと困難が多い日々だった。けれど、トキというとても厳しい先生のおかげで炊事、裁縫、洗濯、掃除一人で難なく出来るようになった。
 
身体が大きくなるにつれて心も大きくなると心の傷も大きくなるらしい。10年前のお姉様の瞳が歳を重ねるごとに鮮明に頭に浮かぶようになった。
何度も忘れようと、前を向こうとしたのに忘れることなど出来るはずもなく、次第に人の目が見られなくなった。
『あんたなんか、いなければよかったのに』
他人の視線が否応なく私を責めたてているように感じてしまう。少しでも遮るように前髪を伸ばしはじめ、唇に触れるくらいの長さでおちついた。
また、赤い瞳を見て驚かれることも多く自然と地面ばかり見るようになった。

「ぁ……ァ」
月に何度か、あんたなんていなければと叫ばれる夢を見て夜中に目を覚ましてしまう。びっしょりと背中に汗をかいている。
「そんなこと……私が一番わかってる、だれにも迷惑かけないようにひっそりと生きるから……ごめんなさい、ごめんなさい」
いくら私が生きることに前向きになったとしても、前に進んでいるように見えたとて、少しも進んでいないのかもしれない。


 トキからお使いを頼まれて街を歩いていると、街中で普段あまり聞くことのない黄色い声がたくさん飛び交っていた。
声を追いかけるように辺りを見渡すと女性に囲まれている青年が両手で迫りくる女性たちを制しながら困ったように眉をハの字にしていた。
「見たことのないお顔ですけれど……」
「どちらからいらっしゃったんですかぁ?」
「この街へは何をしに?」
「僕は……ですね」
 質問攻めをされている青年が質問を切るようにそれはもう、眩しさを感じるほど綺麗な顔で微笑んだ。その表情に周りの女性は話すのをやめてうっとりと見上げ、青年の言葉を待っている。
「人を、探しているんです」
 人探しか……見つかるといいな。
前髪の隙間から青年を見上げた瞬間。少し距離があったのに目が合った。
 バチン――。
 星がはじけるみたいに目がちかちかした。青年は私から目を離すとわざとらしく困った素振りをして、口元に手を当てた。
「赤い髪で、赤い瞳の子を探していて……」
 赤い髪で、赤い瞳……なんてこの街で私しかいないじゃない。
鳥肌が立って気づけばぐるりと体を翻して走り出していた。
 私は自分が知らないうちに罪を犯していたのでしょうか。あの人はきっと私を捕まえに来たんだ。絶対に捕まりたくない。嫌だ嫌だ嫌だ。
 家の中に駆け込んでトキに縋りついた。
「トキ、トキ、トキ、私、捕まっちゃうかもしれない。何か罪を犯してしまったんだと思う。私がバケモノだから……」
 トキはきょとりと何度か瞬きをした。そして、縋りついている私をなだめながらため息をついた。
「なにか思い当たることがあるんですか?」
「おもいあたるこ、と?」
「それがないなら、捕まる理由なんてないではないですか」
「だって、私の事探してたんだよ? この街で髪と瞳が赤い子を探してるって、理由もなく探すなんておかしいよ」
「では、理由があるのでは?」
「ないない、絶対ない。あんなに眩しい人、見たことも、もちろん会ったこともないよ」
 ふむとトキが顎に手を当てて考えこんだ後であっと何か思い付いたようだった。
「それは捕まえに来たのではなく、迎えにきたのではないですか?」
「何の迎えだっていうの?」
「例えば、そうですねぇ。あ! お嬢様をお嫁にお考えとか」
「嫁! そんなこと天と地がひっくり返っても可能性ないでしょう。どちらかというと捕まる方が……可能性あるよ」
「わからないではないですか。どこからかお嬢様の情報を得て、縁談の申し込みをなんて、ない話ではありませんよ。お嬢様ももう16なのですからね」
 お、お、お嫁さん。私が嫁入り? いやいやいや。そんな御伽話じゃないんだから。
「あるわけ、ないよ! そんなの、さ。ねぇ。本当にあったら困るよ」
 でも実際、本当にあったら……私はどうするんだろう。
いや、違う。珍しい赤い女だから騙されて、どこかに売られるなんてことの方があるかもしれない。体温が急激に上がったり下がったりしている中、玄関先からごめんくださいと声がした。
私はびくりと飛び上がった。トキは飛び上がった私にびっくりしていた。
「き、きた」
「では、トキが出てきます」
「ま、まって。危ないよ。私がはっきり断るから……だ、大丈夫。任せて、トキに迷惑かけない、よ!」
 トキに背中を見守られながらゆっくりと玄関先に向かって歩いた。何度か己を鼓舞するように胸を叩いて、よしよしと声を出した。 
勢いよく戸を開けて、相手の顔は見ず、話も聞かず、頭を下げた。
「ごごごごごめんなさい。お嫁にはい、い、いけません!」
 頭の上にしーんと沈黙が流れていて、とても間が長くておかしいことは分かってはいたものの、顔を上げられずにいるとトキの声がした。
「あぁ! 郵便屋さん。私に手紙ですか?」
「あぁ、はい。こちらです」
「ご苦労さまです」
「いえ、ではまた」
 頭の上で戸が閉まる音がした。
「あれ?」
 トキの笑っている声がして、ゆっくりじっとり顔を上げて振り返った。顔の部位をぎゅっと中心に寄せた。
きっと今、梅干しみたいな顔をしているに違いない。
「穴があったら入りたい」
 顔から火が出そうだった。いや、出ていたのかもしれない。
「顔を冷やしてくる」
 いまだに笑っているトキを尻目に外に出ようと戸を開いた時だった。文字通り、ばったりあの人に会ってしまった。
「あ」
「僕でよければ、結婚します?」
「けけけ、結構です」
 慌てて家の中に入ろうとすると待ってと腕を掴まれた。
前髪の隙間からちらりと覗くと私よりもずいぶん背が高く、やっぱり眩しい容姿、年上のようで、口元にほくろがあった。微笑みかけてくる表情は狐に似ていて、反射的に手を振り払おうとするとパンッと音をたてて手が離れた。
「え、あ」
 傷ひとつない頬がほんのり赤くなり、私の手が青年の頬を叩いてしまったことを理解した。
「ごごごご、ごめんなさい。叩くつもりはまったくなくて、なかったんです!」
 青年は頬を触りながらも表情を崩すことはなかった。
「僕がいきなり腕を掴んだのがいけなかったですね」
 こんな綺麗な顔を叩いてしまった。いよいよ、言い逃れのできない大罪人として捕まってしまうに違いない。
「現行犯になってしまった」
あわあわしているとトキがするりと横から顔を出して家の中に招き入れた。
「こんなところで立ち話もなんですし、一旦中で、頬を冷やしましょう」

 大急ぎで座布団とお茶と頬を冷やすように手ぬぐいを水で絞ったものを用意してぎこちなく向かい合った。頬に手ぬぐいを当てている青年におどおど声をかける。
「え、えっと、どうして家に」
 青年は頬から手ぬぐいを離して、喉を鳴らした。
「はじめまして、花宮月彦(はなみやつきひこ)と申します」
「と、東条こいです……」
 つられて私も名乗ってしまった。
「ひとつお願いがあってこちらまで参りました」
「お願い、ですか?」
 お願いの詳細が語られるまでに少し間があき、息を吸う音がした。少しだけ顔を上げて花宮さんの喉ぼとけのあたりを眺めていた。
「あなたの一年間を僕に売って頂けないですか?」
「う、売る!?」
「報酬はお金でも、物でも、例えば僕でも構いません」
「えっと」
 捕まってしまうこと、騙されること、お嫁にいくこと、何通りかを想定した上でどう断ろうかと言葉を組み立てていたのに花宮さんからの言葉にどう返せばいいのかわからなかった。
「……」
何も発しない私に代わりに隣に座るトキが手を上げた。
「どういうことでしょうか?」
「厳密に言うと年が明けるまで、僕と一つ約束してほしいことがあるんです」
「約束というと?」
「これ以上は引き受けるという答えが得られないと教えられません。ただ、誓って。こいさんに危害は加えません。安全と衣食住の確保はお約束します。もしもの時は僕も命を懸けます」
「命ってそんな」
 参ってしまった。これならお嫁に来てほしいと言われたほうがよかったとまで思ってしまった。
「考えさせてください」
「えぇ、また改めて伺います」
 花宮さんは答えを急かすことなく、意外にもすんなり今日は帰っていった。
すぐに断りたかったのに断れなかったのは淡々と語る口調と余裕のある表情とは裏腹にずっと彼の手が震えていたからだった。

 
第5話 月からの遣い(後編)

 花宮さんが去った後、晩御飯を食べながら話すのはやはり彼のことだった。

「トキ、どう思う?」
「あの青年のことですか?」
「うん」
「えらく、綺麗な御人でしたねぇ」
「眩しかったよねぇ」
「本当にお会いしたことないんですか?」
「ないない」
「じゃあ、何故お嬢様に」
「きっと私が知らないうちになにかしちゃったんだよ」
「うーん、トキから見てお嬢様を捕まえに来たわけではなさそうですけどねぇ」
 みそ汁をすすりながらトキの話を聞いた。
「何か悪巧みをされているようには感じませんでしたが」
「そうかなぁ」
「一年だけなら前向きに検討してもいいのではないですか?」
「うーん」
「いい出会いかもしれませんよ?」
「うーん」
「報酬は弾むと仰ってましたし、結婚も夢ではありませんよ」
 トキの口調は青年の味方のようだった。
「トキは私の味方でいてよ」
「トキはずっとお嬢様の味方ですよ? この先もずっと、でも……」
「でも?」
「ずっと一緒にいられる保証はないので、ね」
「トキが私を見捨てても私はずっとここにいるよ?」
「もしもの話ですよ、トキがいなくなったら」
「やめてよ。トキはいなくならないよ!」
 トキはそれ以上話をするのをやめてしまった。
 気づけばみそ汁を飲み干していて、ご飯を口の中に放り込んだ。トキの言葉とお米をゆっくり咀嚼しながら天井を見上げた。
 トキとずっと一緒にいられないなんて、そんなこと考えたことなかったよ。


 答えは出ないまま時間だけは過ぎていき、数日間寝る前もご飯の時も、洗濯物を干している今もトキとの話題はそればっかりだった。
「……何かに困っているのかなぁ」
「そう見えたような、見えなかったような」
「そもそも私の1年にそんな価値……あるのかな。あるとは思えないけど」
「……事情は分かりませんが、価値があるからお嬢様に会いに来られたのではないでしょうか」
 物干し竿に洗濯物を広げながらぱんぱんとしわを伸ばしているトキを背に桶の中でわしわし衣類を洗い続けた。
「トキはあの人の味方だもんねぇ」
 トキはお嬢様の味方で決めるのはあくまでお嬢様だと言われることを想定していた。想像できなかったのは何も返答がないことだった。
「ねえ、トキ聞いてる?」
 振り返る間際、ばさりと洗濯物が地面に落ちる音がしたと同時にもっと大きい音がした。 
勢いよく振りかえるとトキが丸くなりながら倒れていた。
「トキ!」
 体を揺さぶろうとして目に入った青い顔をしたトキを見て手を止めた。
「むやみに触らない方が、いい、絶対」
 どくんどくんと心臓が口から出てしまいそうなほど動いている。頭はすでに真っ白で口だけがぱくぱく開いている。
「ぁ……えっと、なんだっけ。お医者さん!」
 視界がぐるぐるし始めた。それでもお医者さんを呼びに行かないと、もつれる足をどうにか動かして家を飛び出した。


 トキがトキが、走りながら息を吸えばいいのか吐けばいいのかわからず、ただ息が苦しい。真っ白な頭の中にトキの言葉が浮かんできてほしくなかった。
『ずっと一緒にいられる保証はないので、ね』
『トキがいなくなったら』
 トキがいなくなったら、私はどうしたらいいの。
 唇が勝手に震えはじめる。力任せに唇を噛みしめても震えは止まらなかった。

 街中の一本道、この先を抜ければ病院なのに、人だかりが出来ていて進むことができない。その人だかりの中心にいるのは女性に囲まれている花宮さんだった。
「あの、どいてください、道をあけてください」
 女性たちに弾かれて、冷たい言葉が飛び交って尻餅をついた瞬間に唇を噛んで切った。口の中に鉄の味が広がった。
 こんなところで止まっているわけにはいかないのに。
 人だかりの中から手が伸びてきて私の腕を引っ張り上げた。
 女性たちの甲高い悲鳴が上がる中、花宮さんはとても冷めた声で道をあけてくれと女性たちをどかせた。
「何かあったの?」
 花宮さんは私の瞳を覗き込むように屈んで前髪の隙間から瞳を探してくれた。
「トキ、トキが、倒れちゃって」
 少ない言葉で察してくれたのか花宮さんは腕を引いて病院を目指してくれた。病院の場所を把握しているようだった。私よりも慣れているように病院に入るとお医者さんに話をし、私たちを先導した。
「トキさんはどちらに?」
「こ、こっちです」
 家につくなりお医者さんと力を合わせトキを家の中へ運んでくれた。
 気を失ったのかただ眠ってしまったのか、穏やかに布団で寝ているトキに安心しながらも険しい表情のお医者さんが私に向き直った。
「こいちゃん」
 この街に来てからずっとお世話になっている先生から聞いたことのない重い声がした。先生は分厚いレンズの眼鏡を取って、目頭を押さえた。
「先生、トキは」
「トキさん……心臓の調子がよくないって以前からうちに通ってたんだよ」
「前から……?」
「こいちゃんには秘密にしてほしいって言われていたし、僕みたいな街医者には治療は難しいからもっと大きな病院に行った方がいいって、何度も言っていたんだけどねぇ」
「秘密……? どうして」
「まぁ、大きい病院に見てもらうっていうのもタダじゃないし、きっとこいちゃんを一人にしたくなかったんじゃないかな」
「私がいなかったら、トキは治療をしていたんでしょうか……」
「あーごめん。そうじゃない。先生の配慮がなかったね。責めているわけじゃない。理由はきっと数えればいくらだってあるよ。こいちゃんだけのせいじゃないさ」
 慌てて気を遣ってくれる先生は大きな鞄に診察道具をしまいはじめた。
「……ありがとうございました」
「お大事にね」
 深々と頭を下げる私に先生は気休めにしかならないけどと薬を置いて帰っていった。

 お医者さんを見送った後、隣にいてくれた花宮さんに頭を下げた。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって……とても……助かりました」
 ぐらぐらと心が揺れているのが自分でもわかる。気を抜けば泣いてしまうくらいだった。 
隣にいる花宮さんを見上げると彼は綺麗に口元を吊り上げていた。それに合わせて口元のほくろも妖しく揺れた。
 その顔は今、この場にはとても不謹慎だった。
「何を笑っているんですか……」
「え、笑ってた?」
 見間違いだったのだろうか。
「あぁ、この状況は悪くないなって」
 何を言っているんだろう、この人。
 爪先からじわじわと呼吸をするたびに怒りがこみ上げ、胃のあたりまであがってきた。
「こんな時に……最低です」
 着物を巻き込んで拳を握った。
「最低? それはどうかな」
「なに……」
「僕を利用するなら今だよ」
「利用?」
「僕を利用してトキさんを助ける選択をすればいい。君の1年を僕に売って、その代わりにトキさんを助けてほしいって言ってくれれば、トキさんの治療費、入院費、生活費全て出すよ。そして君の事も保証する」
「何を、言っているんですか」
「君にとっても悪くない話じゃないの?」
 花宮さんを睨みつけてさらに強く拳を握った。
返す言葉もこれからどうすればいいかも何も持ち合わせていない。ギリギリと爪が掌に食い込んでいった時だった。

「あのさあ……」
 花宮さんは前髪の隙間から今度は素早く私の瞳を捕まえた。
「こんな時だから! 決断するんだよ。死んでしまったら、もう何もかも間に合わない!」
 彼は背筋がびりびりとするくらいの声量で言った。ひくりと喉が鳴り、勢いに負けて後退ったのは私。花宮さんはすぐ狐のように目を細めて今度は冷静に言葉を紡いだ。
「ごめん大きな声を出して……君はさっき、お医者さんに私がいなかったらって聞いてたよね?」
「ぁ……えと、はい」
「自分のせいだと思うなら、なおさら最善を尽くさないと一生悪夢を見続けるよ?」
 私の返答を待たずにではまた明日と花宮さんは帰って行った。
 背中のビリビリが落ち着いてくると背骨を抜かれたようにふにゃふにゃと体の力が抜けた。トキの眠る横で膝を抱えて丸くなる。ころんとそのまま寝転がるとうとうとしはじめた。

 夢の中でお姉様の声がした。
『あんたなんていなければ』
 その声を振り切るように走り出した先にお父様が見えた。
『お前なんていなければ』
 お父様の声がした。
 表情まで見られなかったけれど、きっと間違いない。その声からも逃げるように走り出した先にトキを見つけた。縋りつくように引っ付くと冷たく振り払われてしまった。
「トキ?」
 困惑する私に降りかかってきたのは涙だった。
『お嬢様のせいで、お嬢様のせいで私は死ぬんです。お嬢様さえ、いなければ!』
 やめて、トキには言われたくなかった。ここにいていいって言ってほしかった。地面が抜ける感覚で目が覚めた。穏やかに眠り続けているトキに安堵しつつも唇を噛んだ。
『一生悪夢を見続けるよ?』
 いつか私も悪夢を見ないようになれるのだろうか。


 花宮さんの言葉を思い出して、自分の肩を抱き、目を閉じて深呼吸をすると家の匂いがした。今となっては何も感じないこの匂いもここに住み始めた時は違和感でしかなかった。
『トキ、変な匂いする』
『きっと慣れますよ。新しい生活が始まった合図です』
 ここにきて近所の子に赤い髪をからかわれた時。
『お嬢様の赤はみんなを照らす太陽みたいでありがたいですけどねぇ。誰にでも暖かい太陽、トキは大好きです』
『そうかなぁ』
 はじめて一人で作った料理は焦げていて半分以上真っ黒だった煮物。
『味が沁みていて美味しい』
 トキは全て美味しそうに食べてくれた。
 初めて自分で縫った着物を家宝にすると泣いてくれた。眠れない日は手を繋いで眠ってくれた。歌を一緒に歌ったり、魚を焦がして笑ったり、風邪を引いたらずっと隣にいてくれた。
 トキと過ごしてきた日々は悪夢なんかじゃなかった。
「宝物みたいに大切にされてた」
 トキが私を大切にしてくれたように私もトキを大切にしたい。
 トキとの思い出を振りかえって目を覚ますと夜が明けていて、自分の身体にトキの布団が半分かけられていた。トキが目を覚ましてこちらを向いた。私の前髪を暖簾のように指先で分けて耳にかけてくれる。
「ご心配をおかけしました。驚かせてしまって、たまにある発作が昨日はたえられずに」
「トキ……」
「はい?」
「決めたよ」
「何をです?」
「私のせいで長生きしちゃったって笑ってほしいから、身体治そうよ」
「お嬢様の負担になるのなら……」
「ならないよ。むしろお釣りが出るよ」
「この先、鬼ばばになるかもしれませんよ?」
「もうずっと前から鬼ばばだよ」
「ふふ」
 トキは泣きながら笑ってありがとうございますと何度も言った。


 翌日、お昼過ぎに花宮さんがやってきた。
「トキさん、お加減いかがですか?」
「えぇ、花宮さん。お嬢様から聞きました。昨日はお世話になりました」
「いえ、僕はなにも」
 こいちゃん、花宮さんは狐のような表情で微笑んで私の名前を呼んだだけだった。答えを催促するわけでもなく私が話すのを待ってくれる。
「花宮さん、あの……私の1年間、買ってください。その代わりトキのことよろしくお願い致します」
「こちらのほうこそ、よろしくお願い致します。トキさんのことはお任せください」
 お互いに頭を下げた。私が頭を上げても花宮さんはまだ頭を上げず、慌ててもう少し頭を下げてみた。
第6話 はじめまして、灰色の君(前編)

 私の1年を買ってもらうことになった後、花宮さんさっそくトキの入院する病院、担当するお医者さんの名前等を詳しく教えてくれた。
 
 翌日にはトキの迎えがやってきて慌ただしい別れになってしまった。

 その二日後、私は家の戸締りや移動の準備をはじめて10年住んだ家を出ることになった。

 荷造りをしたところ持っていく荷物は風呂敷一枚に収まってしまい自分でも驚いた。
「荷物はそれだけ?」
「これくらいしかなくて、ですね」
「女の子は荷物が多いって聞いていたけど、そうでもないんだ」
「あーあはは……私物は10年前の地震でほとんどなくなってしまったので」
「……あの地震で」
 花宮さんの声が小さくなった。 
 気を遣わせてしまったのだろうか。風呂敷を抱える力を少しだけ強めた。

 家の前には見慣れない機械が停まっていた。
初めて見る動物に接するように距離を取りながら観察していると花宮さんはすたすた近づいていった。
 中から男性が顔を出し、花宮さんと談笑していた。
「こいちゃんこっち」
 談笑を終えた花宮さんはこちらに振りかえって手招きをしてくれた。
「車で駅まで行くから乗りこんで?」
「これ乗り物なんですか」
「そうだよ?」
 恐る恐る乗り込んで花宮さんが隣に座った。程なくして扉が閉まり、車が動き出した。車の振動に驚き、びくびくしていると花宮さんはけたけたと笑っていた。
 失礼な人だ。
 

「ここが駅」
 汽車もこんなに近くで見たのは初めてで、汽笛の音も初めて聞いた。
 駅舎前でそわそわしている私に花宮さんはまた笑っていた。
「切符を買ってくるからここで待ってるんだよ? くれぐれも知らない人にはついていかないようにね」
「わかってますよ!」
 花宮さんは私を子供扱いし、駅舎の中に入って行った。
 駅にはたくさんの人が行きかっていた。
 じろじろ見るべきではないと思いつつ、身綺麗な人、歩くのが早い人、遅い人、物知りそうな人、気難しそうな人、美しい人。私を見て驚く人。
 たくさんの人の中に立っているといかに自分が周りとは違うものだと思い知ってしまう。
 花宮さんはどうして私を探してたんだろう。
 風呂敷に顔を埋めていたところ声をかけられた。
「お嬢さんお嬢さん、お連れの人が探してましたよ?」
「はい?」
 風呂敷から顔を上げると目の前には中年の男性が立っていた。
「連れ?」
「今、手が離せないから呼んできてくれってさ」
「そう、なんですか?」
「あぁ、たしかにお嬢さんのこと呼んでた。こっちだよ」
 男性はにやりと口元を引き上げた。
 花宮さん何かあったのかな。
 男性の後ろについていこうと一歩踏み出したときだった。
「真っ赤な女の子なんて見たことなかったなぁ」
「え」
 ふと、知らない人にはついていかないようにと花宮さんの声が頭に響いて足を止めた。
 振り返った男性が眉間に皺を寄せたのを見て、鳥肌がたった。
「こら、言ったそばから」
 後ろから肩を掴まれて振り向いた。
「え」
 背後にいるのが花宮さんだと分かったと同時に舌打ちをする音が聞こえた。はっとして前を見ると先程の男性はすでにいなくなっていて、首を傾げる私に花宮さんは盛大に溜息をついた。
「攫われてからじゃ遅いよ?」
「私がですか?」
「他に誰がいるの」
「私より花宮さんの方が攫われそうですよ」
 私より断然綺麗だし、価値がありそう。
「馬鹿なこと言わないで」
 花宮さんは私の額を指で弾き、腕を引いて駅舎に入り汽車に乗り込んだ。
 指示に従いボックス席で花宮さんと向かい合うように座った。
 席を通りすぎていく女性がちらちらと花宮さんをうっとりと見ては通り過ぎていくのを見るたびに駅舎で疑問に思ってしまったことがぶくぶく膨らんでいった。
「花宮さん」
「ん?」
 車窓から景色を眺めていた花宮さんは横目でこちらを見た。
「どうして私を探しに来たんですか?」
「いきなりどうしたの?」
「私、特に何かに秀でている事もありませんし、趣味も特技もなくて、見目もよくないし。別に私じゃなくてもほかにいっぱい……」
「こいちゃんにそんなの期待してないよ」
「そんなのって……」
 とくに擁護するわけでもなくぴしゃりと言い切られて、複雑な気持ちだった。
「僕はただ真っ赤な子を探していただけだから」
「どうして真っ赤な子なんですか……」
 赤い子なら誰でもよかったとも聞こえる口ぶりに口を尖らせた。
 私の様子を見て花宮さんはあぁと何かを察したようだった。
「お願いの内容を話していなかったね」
 そういえば、私の1年間を買って何をしたいのか聞いていなかった。
「年が明けるまでバケモノと暮らしてくれないかな? 暮らしてくれるだけでいい」
「ば、バケモノ?」
 言われたことのある言葉に喉がしまっていく。閉塞感で呼吸がしづらい。
 なんの冗談なんだろう。バケモノ同士どうにかなるって話だろうか。
「なんて言ったらいいのかな」
 花宮さんは私に聞かせる言葉を探すように唇に指を押し当て考えこんだ。
「......来年、災いを招くと言われているバケモノが僕の実家である花宮神社に連れ込まれたんだ」
「災いを招くバケモノ……」
「年が明けたらそのバケモノは殺すことになってる」
「こ、ころ」
 自分が殺されるわけではなのにひやりと首元に刃物が突き付けられたような感覚になった。
 バケモノと私の繋がりがまだ見えてこず、必死に頭の中で仮説を立てはじめた。
「バケモノさんが赤い髪の人間を食べるとかそういう役割ですか」
 私の仮説に花宮さんはふっと鼻で笑って、手荷物から包みを二つ取り出した。お弁当と書かれたそのうちの一つを私に差し出した。
「お腹、空かない?」
「お弁当では騙されませんよ?」
「本当にいらないの?」
 いりませんよと言ったと同時にお腹が鳴ってしまい、渋々お弁当を受け取った。花宮さんはお弁当包みを開きながら話を続けた。
「こいちゃんを食べるどころか、傷つけることは絶対ないと思うよ?」
「どうしてわかるんですか」
「彼、大人しいから」
「花宮さんはお知り合いなんですか?」
「いいや? 凶暴だって報告は受けてないからね。一度でも傷付けられたら逃げ出していいよ。こいちゃんの全てを保証するって約束だからね」
「はあ」
 花宮さんが割り箸をぱきんと割った。それを見て私もようやくお弁当の包みに手をかけた。

「こいちゃんは占いって信じる?」
「あまり、信じないですけど」
 信じたい気持ちは大いにあるのに、神社でおみくじを引いても末吉と小吉しか出たことがない。何を信じればいいのと毎回おみくじ片手にトキに泣きついたのを思い出した。
「花宮神社の占いで赤い人の子、災いを止めるって出たんだよ」
「はぁ」
 花宮さんは占いを信じるような人には思えないけどなと割り箸を割ると彼は片目を細めて得意気な顔をした。
「信じてないな? うちの占いは結構当たるんだよ」
 花宮さんはお弁当のおかずを箸で口に運んでいった。私も卵焼きを箸で挟んで口に運んだ。
 甘い卵焼きだ。
「そのバケモノさんっていうのは……」
「バケモノはバケモノだよ。それ以上もそれ以下もない」
 花宮さんはそれ以上は喋らないと言いたげで窓の外に視線を向けてしまった。
 白米の上に乗った梅干しを箸で持ち上げる。白米に梅干しの赤が移っていて、何故かその赤から目を離せなくなった。

 もう少し聞きたいことがあったのに大人しくお弁当を食べるくらいしかできなくなった。
 バケモノはバケモノ。
 自分の事のようにも聞こえてじくりと熟れた果物を微力で握り潰しているような気持ちになった。


第7話 はじめまして、灰色の君(後編)


「もう着くよ」

 花宮さんに声をかけられて少しうとうとしていた意識がはっきりした。
 ずいぶん遠くまで来たなぁと外の見慣れない景色でぼんやり思った。
 目的の駅に到着し、汽車を降りると乗る人と降りる人でごった返している駅舎ですぐに溺れてしまった。手に持っている風呂敷が勝手に人波に流れていきそうになるのを必死に耐えているとそれを見かねた花宮さんが腕を引いてくれた。
「お、お手数を」
「面白い光景だったよ」
 駅から歩いて街を通り過ぎ、山道をひたすら歩いた後、お疲れ様と言われて顔を上げると立派な囲い門の邸宅前だった。
「高い塀」
 宝箱でも隠してあるみたい。
 当然、花宮さんも一緒に中へ入るものだと思っていたのに歩き出さない彼を見上げると、きょとんとしていた。
「花宮さんは、行かないんですか?」
「うん。ここまで」
「そ、そうなんですか」
「僕は……ここには入れないから」
「なるほど?」
 そういう規則があるのかと納得してしまう。
「この門をくぐるとすぐに家だから中に入って問題ないよ」
「私は具体的に何をすればいいんでしょうか。あ! 家事とか一通りできます」
「特に何もしなくていいよ? 気構えず、過ごしてもらえれば問題ないから」
「気構えず……」
 じゃあ、なにかあったらこの裏手にあるのが花宮神社だからいつでも訪ねてきてと花宮さんは手を振って見送ってくれた。
 ぎこちなく手を振り返した。


 心細さを感じながら門をくぐると空気がぴりっと肌をはじいた気がして自然と足が止まった。
 瓦屋根の和風な立派な家屋に整えられた広い庭。
 ここにきて少し手が震えてきたのはバケモノさんが本当にバケモノだったらどうしようという事実をずしりと実感してしまったからだ。
「私もバケモノって言われたこと何度かあるけれど……」
 それでも私はただの人間で、本物のバケモノってどういう姿、形をしているのだろうか。
「そもそも、人の形してるの?」
 とんとんと話が進んでしまったからあまり深く考える時間がなかっただけで、思考が追い付いてくるとすべてが不安で仕方がない。
 今更怖気づいたところでだいぶ遅いことは分かってる。けれど、そもそも見ず知らずのバケモノさんと暮らしていけるのだろうか。

 不安が身体に充満した時は頭にトキをパッと思い浮かべる。
「すべてはトキのためトキのためトキのため」
 頬を叩いても動かない身体を動かしたのはどこからか流れてきた桜の花びらだった。
 一枚二枚と私の足元に落ちてきた。
「桜? どこから」
 トキと住んでいた街には桜が少なかったから珍しいものを追いかけるような気持ちで花びらを追って顔を上げた。
「綺麗」
 すでに満開になる桜の木が堂々と立っていた。その桜の木に引き寄せられるように歩いていくと木の幹にもたれて座っている人を見つけた。
 寝ている様子で目を閉じ、呼吸するたび胸が上下している。
 髪は灰色、着物も灰色。薄い色のない唇、皮膚が太陽に透けそうなほど白く、傷ひとつなかった。
 まるで桜の木に全てを吸われてしまった人のようだった。

 ところどころ花びらに埋もれていて、傷ひとつない色の白い頬に花びらが落ちた。
 何の気なしに傍らへ風呂敷を置いて、手を伸ばしてしまった。
 花びらを指先で取ったとき、薄く開かれた瞳と目があった。
「あ」
 目が合ったことに驚いて重心を後ろにして距離を取ろうと思ったのに腕を取られて引っ張られてしまった。かえって胸に飛び込むような形になると、さらに近く、瞳がぶつかった。
「《《……待ってた》》」
 彼は確かにそう言った。
 言葉の意味よりも顔の近さ、声の近さ、瞳の近さに耐えられず、息を止め距離を取ろうと強引に尻餅をついた。
 バクバクする心臓を抱えるように丸くなっていると彼は立ち上がり、着物の砂をはらっている。
「ここで待ってて」
 私の返答なんて待たずに家の中に入っていき、またすぐに戻ってきた。

 手には植木用のはさみにも、裁縫用の断ち切りばさみにも見える大きさのはさみを持って帰ってきた。
 ざりっと地面を滑る足音が近づいてくる。
 きつく、固く目を閉じた。
「うっ」
 私は殺されるのでしょうか。
「これくらいかな」
 聞こえる声はきっと私をバラバラにする寸法を測っているんだ。食べてしまうんだ。

 こんなにも麗かな春の日、満開の桜の下で心躍るその雰囲気にそぐわないジョキジョキとはさみで何かを切る音がただただ響いている。
「終わったよ」
 何が終わったというのか。
 目を開けたら私はこの世にはいないのかもしれないと思いながら、目を開ける。
 とても広い世界が目の前に広がっていた。何も遮るもののない世界。それはあまりに綺麗でとてつもなく、眩しい。
 
 異変に気付いたのはすぐだった。
「ない」
 前髪を手で触ると眉毛の上までなくなっていた。
 うらめしく彼を見上げるとじっとこちらを見下ろしていた。
「よろしくね、こい」
 あれ、私……名前言ったかな。
 この人が花宮さんの言ってたバケモノさん? 災いを起こすようには見えないけど。
 彼は私の心の中を見透かしたように頷いた。
「あなたは本当に、悪いことしようとしているんですか?」
  灰色の彼は肯定も否定もせず、控えめに微笑んだ。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア