しゃらん、と小さな音がした。
「え?」
見下ろせば足元に鈴が転がっている。拾い上げてみると、見事な球体に青色の組みひもと木彫りの鳥の飾りが付いた、なんとも高価そうな代物だった。不思議なことに白い鈴がぼんやりと光って見える。
「どうかされましたかね、お客さん」
近くの和菓子屋の女将さんが言った。私にではなく、店の前で長椅子の下をのぞき込む男性客に向けた言葉のようだ。
「ちょっと落とし物をしてしまって。転がっていってしまったかも」
「あらあら」
女将さんも周囲を見回しているが、男性客は苦笑してそれを止めた。
「いいんですよ、たぶん見つからないから。お手間をとらせちゃいけない」
「大事な物じゃないんですかい?」
「まあ、ね」
そうは言いながらも、男性客の視線はまだ周囲を探しているようだ。私は近寄って声をかけた。
「あの、もしかしてこれですか」
手のひらに乗せた鈴を見せる。男性客は一瞬目を丸くして、女将さんがのぞき込む前に鈴を取ってしまった。
「どうもありがとう。本当に助かりました」
顔をよく見れば、端正な顔立ちの若者だった。歳は二十代の初めくらいだろうか、明らかに良い生地で仕立てられた羽織袴に中折れ帽をかぶっていたが、今はその帽子を取って礼を示している。おかげで目立つ瞳の色が良く見えた。それは、なんて鮮やかな――。
「何かお礼をしたいのですが」
「えっ」
彼の瞳に気を取られていた私は我に返った。他人の顔を凝視するなど、普段の私なら絶対にしないのに。
「いえ、そんな大したことでは」
「私がそうしたいのです」
人のよさそうな笑顔に、横で見ていた女将さんが目を奪われている。
「甘味でもご馳走しましょう。さっきの落雁はまだありますよね、女将さん」
「え、ええ、もちろん!」
ほんのり頬まで染めた女将さんは喜んで言って、件の鈴に目を留める。
「素敵な根付ですこと。やっぱり大事なものだったんじゃないですか」
「でもほら。この通り、音のしないものだから。見つかりにくいでしょう?」
根付が揺らされて、しゃらん、しゃらんと心地よい音を立てる。さっきの言葉に頷く女将さんを見て、私は悟った。彼女には見えていない。聞こえていない。
「ね、だからちゃんとお礼をしたいのですよ。お嬢さん」
意味ありげに鮮やかな目が細められる。私は背筋に寒いものを感じて、一歩二歩と後ずさりながら言った。
「す、すみません、急ぎますので!」
そして本当に急いで踵を返し、走るようにその場を逃げ出したのだった。
*****
昔から私の目には、ちょっと余計なものが見えた。いつからかは覚えていない。たぶん生まれつきなんだろう。
例えば五歳のころ。家の女中と一緒に道を歩いていて、とある店の前に猫がたくさん集まっているのを見つけた。店のお婆さんが餌をやっていたのだ。
「あら、お嬢様。猫ちゃんがたくさんいますね」
「ええ! とっても可愛い!」
数が数えられるようになっていた私は、喜んで猫を数え始めた。
「見て、十一匹もいるわ」
女中は少し笑って言った。
「よく数えてみてくださいな。ここにいるのは十匹ですよ」
「……そう?」
「珍しいですね。お嬢様は読み書きも計算もお得意なのに」
子供の数え間違いだと思ったのだろう、そのまま女中は店の人と話し始めてしまった。私はその間に何度も猫の数を確かめたけれど、どうやっても十一匹にしかならなかった。
それから六歳の頃。お父様と妹と一緒に出掛けた帰り道、歴史ある庭園に立ち寄った。広大な園内には日本庭園、池や橋、樹木に花畑、高い塔など様々なものがあって、私は妹と一緒にあちこち見て回った。
「立派ね。六重塔なんて初めて見たわ」
妹が胡乱気な顔をした。
「何言ってるの、お姉さま。五重塔よ」
「え?」
もう一度数え直したけれど、やっぱり塔は六階建てだった。
「お姉さまったら、どうしても数字が苦手なんだから」
妹は小馬鹿にするように笑って、さっそくお父様に報告に行った。自分は年上の姉よりも優れていると自慢したいのだろう。
七歳の頃。両親に連れられて、大きな迎賓館で行われるパーティーに出席した。洋館みたいな建物の内部は歴史ある調度品や舶来品が飾られて、ちょっとした博物館みたいな機能も有している、風格に満ちた素敵な場所だった。
その廊下を歩いていたとき、どこからかピアノの音が聞こえてきた。まだパーティーの開始時刻には早かったはずだが、人も集まってくる頃だし、もてなしのために音楽をかけているのだろうと思った。
「綺麗な曲ね。何ていう題名かしら」
両親と妹は三人で顔を見合わせ、揃って眉をひそめた。
「誰か、音楽なんて聞こえる?」
そのまま入ったホールには、楽団はいたけれどピアノはどこにも見当たらなかった。
そんなことが何度あっただろう。家に来たお客様の着物の柄が私だけ違って見えたり、他の人には聞こえない声や音が聞こえたり。初めは「子供の言うことだから」と流していた周囲も、次第に変な目で見るようになった。
もちろん家族も心配した。
父は私を良家に嫁がせることができるのかと。
母は教育の仕方を間違えたと責められないかと。
妹は自分まで他人から変な目で見られやしないかと。
それぞれの不安を抱えて対策を講じようとする彼らを見て、嫌でも自然と理解していた。私の視界は他の人と違うのだと。だから発言には細心の注意を払い、できるだけ口は開かず、会話は同意や相槌でやり過ごすことが多くなった。芸事や書物に夢中な振りをして部屋にこもる時間を増やし、実際に楽器や裁縫の練習を頑張った。それしかすることが無かったし、将来のことを考えれば、少しでも多く技術を身につけておきたかったからだ。
そうしているうちに私はすっかり「奥ゆかしい深窓の令嬢」とされていた。両親が私を外に出したがらないのも相まって、あの家の娘は大層な高根の花だと、噂は独り歩きして行ったのである。
そんな深窓の令嬢でも、そろそろ進路は決めねばならない。上がつかえていては妹が嫁に行きづらいからだ。私も腹をくくらなければいけない、のだが。
「はぁ」
先日の鈴の一件が頭をよぎる。あれは結局なんだったのだろう。持ち主の男性客は何者だったのだろう。そもそも私の目に映る余計なものは、一体なんなのだろう――。
「ダメよ、私。考えちゃダメ。全ては気のせいなんだもの」
鏡の中の自分と目を合わせて言い聞かせる。幼いころから数えきれないほど繰り返してきたおまじないだ。
「余計なものは見えてない。全部、私の見間違い。大丈夫、大丈夫、だいじょう、ぶ……」
――私は、本当に大丈夫なの?
必至に抑え込んできた心の声が響く。どくん、と心臓が跳ねた丁度そのとき、部屋の外から女中の声がかかった。
「お嬢様。旦那様と奥様がお呼びです」
「……伺うわ」
よし、とにかく支度をしないと。家族の前では隙を見せないと決めているのだから。
「お待たせいたしました」
ちゃんと身支度をして向かった座敷では、両親が並んで私を待っていた。
「翠、お前に縁談の話がある。相手は成見家の次男だ」
驚きのあまり、久しぶりに父と目を合わせる。
「あの、成見様ですか」
「そうだ」
父は鷹揚に頷き、母はなぜか伏し目がちに畳を見つめていた。
「知らないうちに章太郎さんが、成見家にお前の縁談を持ちかけてしまったそうでな。断られるかとおもいきや、実際に会うことを了承されたそうだ」
「……兄様には娘がいないから、縁続きになるきっかけが欲しかったんでしょうねえ」
母の兄、つまり私の伯父である章太郎さんは、家の格をあげることに一生懸命な人である。母が気まずそうなのはそのせいか。
成見家といのは一言でいえば、この地域で一番の有力者一族である。国全体でも上位に入るかもしれない。昔は我が家を含めた広大な土地を治める領主だったそうで、領地制度が廃止になった現在でも多くの不動産や事業を所有する名家。過去から受け継いだ遺産だけでなく、優秀な軍人や政治家を絶えず輩出することでも有名だ。ちなみの件の次男は商売事業の部門を任されているらしい。
多方面で成功が続くので、「あの家は政府か帝の密命を負っているから覚えが良いのだ」とか「人知れぬ何かを味方に付けているのだ」といった、都市伝説めいた噂を囁く者まで出るほど。所詮はやっかみなのだけれど。
そんな名門がなぜ、「ちょっとした良家」程度の我が家を視野に入れたのかが謎である。
「成見家のお見合いと言えば、噂に聞く通りの?」
「そうだな。今回は他に三名の候補者が集まるらしい」
「丁度そのお見合い会があるから、良かったら一緒に参加をと言ってくださったらしいのよ」
なるほど、ついでの話なのね。
私が初めて、その成見家次男の噂を聞いたのは、数少ない友人の千代子からだった。何でも、その次男は妻選びために謎かけをするのだという。今まで何人もの女性たちが問いに答えようと知恵を絞ったはずだが、未だに婚約者の席が空いているということは、正解を出せた者はいないらしい。
「そもそも謎かけの意図が明確じゃないって聞くもの」
当時の千代子は饅頭を食べながら、どこから仕入れたのか知らない情報を喋ってくれた。彼女は何かと早耳なのだ。
「知識と教養に優れた答えを求めているのか、飾らない素直な言葉を求めているのか、はたまた感性に溢れた雅な言い回しを求めているのか。何を試されているのかも分からないんですって」
「ふうん。嫁いだら苦労しそうな相手ね」
それでも優良物件である次男には見合い話が絶えず、我が子でも親戚筋でも、年頃の娘を売り込もうとする者がひっきりなし。成見家の広すぎる人脈の端々から縁談が持ち込まれるのである。一つ一つ捌ききれなくなった成見家は、一度に複数人の娘たちと対面させる方式にしたのである。
「何それ。使用人の面接?」
「まあ、あり得ないわよね」
普通に考えて、そんな見合いが成立するのか疑問だ。もしかしたら全て破談にするために、わざとやっているのかもしれない。
千代子が饅頭を飲み込んで言った。
「随分と他人事だけど、あなたはどうするのよ」
「どうって?」
「成見家の話はともかく、そろそろ私たちも縁談を決めないと。行き遅れるわよ」
「いいのよ、別に」
幸いなことに教育はちゃんと受けさせてもらっている。子供相手に芸事や勉強を教える仕事なら十分に出来るだろうし、何なら奉公に出たって良いだろう。家柄がどうのという矜持にこだわらなければ何だってできる。きっと一人でも生きて行ける。
「たぶん私は、誰かと一緒にはなれない」
「ちょっと、翠。本気で言ってるの?」
「もちろん」
それから時間も経って、千代子の方は既に婚約が成立したと聞いている。私の番が来るとは思わなかったのに。
つらつらと考えていたら、勢いよく襖が開いて妹が姿を見せた。
「お姉さまだけずるいわ。私も成見様とお会いしたい!」
盗み聞きしているのは気配で気づいていたけれど、堂々と乱入してくるとは思わなかった。母など驚いて腰を抜かしている。
「茜、勝手に入ってくるんじゃない」
「だってぇ」
「お前には別の見合いが入っているだろう? 気になる男だというから釣り書きを送ったんじゃないか」
「成見家と比べられるわけないもの」
一応は注意しながらも本気で怒っていない父と、もはや謝る気すらない妹、何も言わない母。目の前で他人一家の日常が流れているようだった。一芝居終わるまで待つ私は暇で仕方ない。
「成見様は謎かけがお好きなんでしょう? 私の方が良い答えを出せるのに」
「茜は和歌も得意だからな」
妹はすっかり、私の間違いを指摘することで自分の評価をあげようとする、歪んだ子に育ってしまった。昔は絵や文章を書いてはわざわざ私に見せに来て「何が書いてある?」なんて聞いてきたものだ。不思議と妹が書いた物は見間違えることも無く、私が正解を答えると不機嫌そうに去って行った。そんな幼い遊びも成長と共に飽きたのだろう、今では言葉を交わすこと自体があまり無くなっている。
父の咳払いで、私は目の前の一幕が終わったことに気づいた。
「とにかく、翠。せっかく成見家の方と接触できる機会だ。あまり時間も無いが準備に励み、とにかく気に入られなさい。我が家の印象だけでも残すのだ」
「はい」
やっぱり本気で選ばれるとは思っていないらしい。私もだけれど。
「良い印象を与えれば、次は茜の見合いにつなげられるのだ。励みなさい」
「はい。お父様」
ずっと練習してきた美しい礼を披露する。これで満足だろう、洗練された娘に見えるから。
「幼いころは変なことを言う子だと心配していたが、近頃は治ったようだな」
「ご心配をおかけいたしました」
下がって良いと言われた私は早々に座敷を後にする。音もなく閉めた襖の向こうから、家族三人の楽し気な笑い声が聞こえた。
自分の部屋である離れに戻った私は、ちょっと着古した地味な着物に替えて外出した。今日は千代子と会う約束があるのだ。
「こんにちは」
和菓子屋の暖簾をくぐると、どこからか飛び出してきた千代子が目の前に出現した。
「翠、待ってたわ!」
「今日も突然現れるわね」
「何のこと? 私ずっと、ここにいたのに」
くるくると表情が変わって、見ている方が元気になる千代子。私も本当はこんな女の子になりたかった。
「さ、行きましょ」
和菓子の入った包みを持って颯爽と陽の下に出て行く。
この和菓子屋は周辺地域の中では有名店で、店内の一角と店の前の長椅子で買ったものを食べられるようになっている。最近はめっきり減ってしまった、昔ながらの茶店や甘味処みたいな雰囲気を残しているのだ。実は私もこっそり食べに来たりする。千代子はこの店の娘で、いずれ嫁に行ってしまうのが惜しいと常連さんからも泣かれているらしい。地域ぐるみで愛されているようだ。
「良い天気ねぇ」
「ほんと」
土手沿いの道に置かれたベンチに座って、和菓子屋で買ってきた甘味を食べるのが私たちのお決まりの流れだった。今日は二人して柏餅にかぶりつく。
「んー、やっぱり味噌餡おいしい」
「甘じょっぱさが絶妙ね」
頭上では初夏の陽気に透ける青々とした葉が揺れている。やっぱり外は気持ちが良い。
隣のベンチでは顔見知りの老夫婦がのほほんと日光浴を楽しんでいたので、一緒に持ってきた落雁をおすそ分けすした。旦那さんの方は既に目が見えないようなのだが、妻が語る風景の様子を聞くのが好きなのだと言って、よく二人でこの場所に座っているのだ。私と千代子も、風に舞う花の事や、雨で増水した川の流れや、もうすぐ晴れそうな曇り空のことなんかを話してあげたことがある。
「自分で見るのも良いが、誰かの目を通すのも風流なもんだ。その人ぞれぞれの見方、感じ方が上乗せされて、飽きの来ない場所になる」
優雅に語る老人の素性はじつのところ、引退した漁師だと知ったときの驚きは今もよく覚えている。
二つ目の柏餅を手に持ちながら、ようやく私は切り出した。
「あのね、千代子。実はお見合いすることになったの」
「えええ⁉」
面白いくらい反応してくれた。
「ああ、あの翠がとうとう縁談に興味を。あの、一人で生きるって言ってた翠が、ついに幸せを見つける決心を! 今夜は赤飯よ!」
「面白がってるでしょ」
「もちろん」
良い性格をしていると思う。ちょっと羨ましい。
「で、お相手は?」
私が簡単な内容を耳打ちすると、千代子は盛大に咳きこんだ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ! 何でいきなり成見家? いやまあ、翠は素敵な淑女だけれども、そういうことじゃなくて」
「私だって謎なのよ。なんでお見合いまで漕ぎつけられたんだか」
「これは、アレよ。何か仕組まれた陰謀が」
「やっぱり面白がってるでしょ」
「もちろん」
二人して吹き出して大笑いしたら、いくらか気分が軽くなった。やっぱり千代子は大切な友人だ。それから一応経験者である彼女にお見合いの諸々なんかを聞いて、私は断られるためのお見合いの準備のために帰るのだった。
そして当日。一番上等な緑の着物で向かった会場は、いつだったか私が塔の階数を間違えた日本庭園の中にある、大きな料亭の座敷だった。障子を開ければ縁側の向こうに例の塔が見える。広さからして大人数での宴会向きの場所なのだろう。そこに他のお見合い相手が三名、それぞれが青・赤・白の着物で詰めている。
娘たちの付き添いで来た家族も後ろに控える中、女将さんの声掛けとともに襖が開かれ、男性が二名入ってきた。前にいるのは柔和な顔に眼鏡をかけた若い男性。整った顔立ちに人柄がにじみ出ているようだ。その後ろに続く、同じく若い男性は。
「あ」
危うく声は出さずに済んだ、と思う。頑張って忘れようとしていたその顔は、例の鈴の持ち主だった男性客なのである。慌てて目を逸らしたが、相手もこちらを見ている気配が伝わってきた。
全員が座って落ち着いたところで、眼鏡の男性が口を開く。
「皆様、本日はご足労いただきありがとうございます。このような複数名が会する形での顔合わせを、何卒ご容赦いただきたく存じます」
見た目の通り柔らかな声だった。彼が仲人役なのだろう。
「それでは、まず自己紹介から」
ようやく全ての元凶、成見家次男が口を開いた。
「成見蒼次郎です。本日はお集まりくださり……」
聞き覚えのある声で、当たり障りのない挨拶をしている。こちらも端正な顔立ちで、優しそうな人ではあるのだけれど、どこか警戒してしまう別の顔を隠している気がした。
全員の自己紹介が終わると、蒼次郎さんは早速噂通りの展開を進めてきた。
「いくつかの問いに答えていただきたい。順番は誰からでも構いません」
女性たちが一斉に身構える。私も一応、姿勢を正した。
「ひとつ。私の目は何色か?」
一瞬、周囲を伺うような空気が流れ、青の君が凛とした声で言う。
「名工の手で生み出された漆器の如く、美しい漆黒でございますわ」
続いて赤の君が優雅に微笑む。
「まるで数多の星を従える夜空のよう、輝きをちりばめた暗黒色です」
それから白の君が少し首を傾ける。
「最高級の気品まで染め付けた御召し物のごとく、藍下黒とでも申しましょうか」
とりあえず、「黒」と答えるのが正解なのは分かった。最後に残った私も無難な答えを言うとしよう。
「静かな水中で時を待つ、黒真珠のようでございます」
よし、たぶん乗り切った。
一方の成見さんは表情を変えずに淡々と続ける。
「ふたつ。私の羽織は何柄か?」
先ほどと同じ順番で三人が答えた。
「絶えることのない川の流れ、力強い流水紋でございますわ」
「風が撫でる湖を思わせる、涼やかな水紋の柄でございます」
「悪しきものを流す清らかさ、伝統ある光琳水の文様とお見受けします」
水の模様を答えれば良いようだ。ならば私は。
「時には荒く渦を巻く、大いなる水面の文様にございます」
成見さんは小さく息を吐く。
「みっつ。私は何を背負っている?」
前の二問より少しだけ長い沈黙があった。それから先陣を切ったのは、やはり青の君の凛々しい声である。
「歴史ある一族の更なる発展、成長を続ける大店の未来でございましょう」
それで方向性が見えたとばかりに、二人が続けた。
「輝かしい成功をなさっているご家族の期待と願いを」
「国内有数と名高い名家の末永い存続を」
確かに間違ってはいないのだろう。だが、どの答えも薄っぺらく感じてしまった。それに私としては「本当に背中に背負っているモノ」に目が行ってしまい、そこから気を逸らすことで精いっぱいになっていた。
「……ええと、ですね。ご自身の力で高みに上るための大いなる翼を」
ついつい、例のモノに引っ張られた答えを口走ってしまう。恐る恐る成見さんの表情をみると、鋭い視線が私を射抜いた。
「いや、その」
「皆様、問答へのご協力に感謝します。食事を楽しんでください」
一瞬で元の好青年に戻った成見さんの一言を合図に、障子が開いて次々とご馳走が運ばれてきた。この人、本当に何なのだろう。
その後は何ということも無く、お見合いというよりは社交のための宴会のような雰囲気でこの日は終わった。蒼次郎さんはそれぞれの娘たちとその家族とも言葉を交わし、商談ともつかない仕事の話まで振られて、それを絶妙に流していた。人当たりのよさそうな雰囲気は商売人ゆえかもしれない。私は出来るだけ話に混ざらないように気配を消しながら、聞いているのが楽しいのだという微笑みだけを貼り付けて料理を完食した。
これで仕事は終わった、と思ったのだが。数日後に再び両親に呼び出された私は、いつになく興奮した父に告げられるのである。
「成見様が、もう一度お前に会いたいそうだ」
「なぜでしょうか」
「明確な理由は告げられなかった。とにかく僥倖だ、心してかかれ」
部屋の外から妹の黒い気配が漂ってくる気がした。
*****
何をどう頑張ったらよいのかも分からないまま、私はとにかく外に出ることにした。静かな部屋に一人でいるのは耐えられそうにない。今日も目立たないよう地味な着物に替えて、
ふわふわした足で和菓子屋に向かう。
「こんにちは。千代子さんはいらっしゃいますか」
「今ちょうど、買い物に出ているのよ。そのうち戻ると思うけれど」
「そうですか」
私は団子を注文して、店の外の長椅子で食べることにした。
「お待たせしました。みたらし団子とお茶ね」
「ありがとうございます」
置かれた食器に影が落ちる。顔を上げた目の前には件の見合い相手が立っていた。
「私もいただきたい」
「はいはい」
蒼次郎さんは自分もお茶と団子を頼んで、勝手に私の隣に座った。
「君は嘘つきなんだな」
「何のことでしょうか」
澄まし顔で団子を頬張った。誤魔化しなんて慣れたものだ。
「問答のとき、本当は別のものが見えていたんじゃないのか」
もぐもぐもぐ。口に物が入っているので答えられませんよ、の体を貫く。蒼次郎さんは見合いの時の礼儀正しさを置き忘れたかのように、ぞんざいな口調で話しかけてきた。やっぱり猫をかぶっていたのか。
「君は何を恐れているんだ」
「何のことでしょうか」
「そんなに俺が信用できないか」
「何のことでしょうか」
「普通に会話くらいしないか」
「何のことでしょうか」
蒼次郎さんがゆっくりと額を押さえた。何やら唸っている声も聞こえるが、諦めて帰ってくれれば一瞬で解決するのに。
「他の皆様、素敵な方々だったじゃないですか。お綺麗で、教養があって、家柄も申し分ない。選び放題なんですから、早くお決めになったら如何ですか」
「一生を隣で過ごす相手だ。急いで決めることも無いだろう」
「なるほど。選び放題だから余裕があると」
つい嫌味な言い方になってしまった。もういいか、どうせ私には縁のない相手。不興を買って家ごと潰されたりしたら困るけれど……いや、一人で生きていくなら家が潰れたって問題ないのか。なんだ、私も案外気楽な身の上じゃない。
さっきより美味しく感じる団子の最後の一口を飲み込んだところで、静かな声がした。
「ひとつ昔話を聞いてくれないか。茶を飲み終わるまでで良い」
了承していないのに話は始まった。
「昔、この世には人と人ならざるものが混じって暮らしていた。人ならざるものの呼び方は様々あったが、とりあえず『妖ノ者』としよう」
「よう……妖怪だとでも?」
「今はその認識でも良いだろう。妖ノ者は人よりも数が少なかったが、人には無い能力を持っていた。だが人の世が変わると、彼らは次第に生きづらくなった。同時に諍いも増える。そこで人と妖ノ者は住む場所を分けることとなった。世代交代の早い人の地では、周囲にいなくなった妖ノ者の存在を次第に忘れ、認識すらできなくなってゆく。今では一部の家の者が、両者の間で物事を調整する仲介役を担っている」
一度言葉を切って空を仰ぐ。
「人の世にも時折、妖ノ者を感知する体質を持って生まれてくる者がいるんだ。そういう者を見つけ出すのも『一部の家』の仕事であるんだが……俺はそんな人を見つけ出して、妻に迎えたいと思っている。だから探しているんだ」
「……見つからなかったら、どうするのですか」
「どうしようかな」
その声は少し寂しそうだった。
「同じ景色を見て、ともに語り合える相手がほしいと思うのは可笑しいか」
「それは」
痛いほど胸に刺さる言葉だった。この人は私がとっくに諦めてしまった望みを追い続けているのかもしれない。自分なりの方法で同類を見つけようと工夫し、努力し、孤独に足掻いてきたのだろう。それが今、叶えられるかもしれないと私に期待を寄せている。
私が答えられずにいるうちに、成見さんは二人分の代金を置いて行ってしまった。
「可笑しいか、って……」
「追いかけないの?」
「きゃあっ」
店の中から顔だけ出した千代子がこちらを見ていた。いつ帰ってきたのかも、いつから覗いていたのかも分からない。
「え、え? 聞いてたの?」
「話の中身は聞かないようにしてたわよ。何かしんみり語り合ってるなーって。あれが噂の成見さん?」
仕方なく頷いたら、今度は千代子は私の隣に座った。みんなして勝手に隣を埋めてくる。
「成見さん、あなたに興味あるみたいじゃない」
「そ、それは!」
否定はできない。だからこそ困っているのだ。
「あの方はね、私に期待していることがあるみたいなの」
「素敵。良いことじゃない」
「でもそれは、何かを努力すれば成長できるとか、補えるような種類のものではなくて……生まれつき持っているかどうか、みたいな感じなの。もしもその期待に応えられなかったら、どうしたら良いの?」
彼は同じ景色を見られる相手を求めている。でも、同じものが全て見えているかなんて分からないのだ。彼には見えていて、私には見えない何かが出てきたら。私には聞こえていて、彼には聞こえない何かに気づいてしまったら。そのときも側に置いてくれるだろうか。
「期待とは違ったって、後になって気づいたら? もういらないって言われたら? 私は今度こそ居場所なんてなくなってしまう!」
離縁されても戻る家などないだろう。その頃には私も今より歳をとって、働き口すらないかもしれない。
千代子は少し考えて、あっさり言った。
「それをちゃんと言ってみたら?」
「会ったばかりの人なのに、そんなこと!」
「会ったばかりじゃない人にだって、ずっと言えてないこともあるでしょ?」
含み笑いで私を見ている。
「ねえ、千代子って」
「ほら、行った行った。こういう場合、相手はまだその辺で黄昏ながら、自分の言動を反省してるもんよ」
「どういう意味?」
「あの雰囲気だと川沿いかしらね」
強引に店の前から追い払われる。とぼとぼ歩いて仕方なく土手の方に向かったら、本当にベンチに座って青葉を見上げる蒼次郎さんがいた。
「千代子って、何者なのよ」
その声が聞こえたらしく、蒼次郎さんが振り向いた。
「おや。また会った」
「偶然ですね」
素っ気なく言って通り過ぎようと思ったけれど、彼の前を過ぎたところで足が勝手に止まった。きっと振り向いたら聞けないだろうから、背を向けたまま言ってみることにする。
「もしも、あなたに隣り合う人が出来たとして」
「ああ」
「同じ景色を見られたとして」
「良いことだな」
「ある日、同じに見えない景色に気が付いたら。どうされますか」
私からの謎かけに、どんな答えを出すのだろうか。
「それも良いじゃないか。自分にはこんな風に見えると、それぞれの目に映るものを、それぞれの表現で語り合うのも楽しそうだ。二倍の視界を楽しめるのは得ってものだろう?」
「得、ですか」
吹き抜ける風に混ざって、気持ちの良い笑い声が聞こえた気がした。振り向いたら、そこにはもう誰もいない。
*****
二度目のお見合いは先日と同じ料亭で行われた。でも女性側は私一人。前回と同じ羽織袴の総一郎さんは距離を置いた対面に座って、初めて私たちは正面から顔を合わせる格好になった。
「お越しいただき感謝いたします」
「こちらこそ、お招きいただき光栄でございます」
お互いに猫をかぶった礼儀正しい挨拶。私は大きく息を吸ってから顔を上げた。
「成見様。もう一度、問答をいたしませんか」
「良いでしょう」
優雅な笑みが崩れて、口の端が愉快そうに上がっている。
「私の……いや。俺の目は何色だ」
「碧玉みたいな青色」
透き通る碧玉がわずかに細められた気がした。ああ、本当に綺麗な色。
「俺の羽織は何柄だ」
「水の中を自由に泳ぐ金魚たち」
答えに呼応するかの如く、音もなく魚が跳ねる。羨ましいくらい自由なのね。
「俺は何を背負っている」
「カラスみたいな黒い翼」
陽光を浴びた羽が一枚落ちる。艶があって柔らかく、触ったら絹みたいに気持ちよさそうだ。
蒼次郎さんが姿勢を正して、私を真っすぐに見る。
「最後の質問だ。あの塔は何階まである?」
少しだけ、答えを躊躇した。これまで築いてきた「普通」を台無しにしてしまうと分かっていたから。でも本当はずっと言いたかった。私に見えている景色を、誰かに聞いて欲しかった。
「六階建てでございます」
真っすぐに見つめ返して答える。もう後戻りはできないのだから。
蒼次郎さんが立ちあがって、私の近くまでやって来た。座り直して居住まいを正し、美しい仕草で手を差し出してくる。
「どうか私の妻に」
「謹んで、お受けいたします」
周囲の驚く声が遠くに聞こえた。喜んでいるのか怒っているのかも分からないが、今はもうどうでも良かった。目の前の手を取ったところで、それ以上に気になるものが見えてしまったから。
「ちなみに、後ろに見えているのは尾羽ですか?」
「おっと。これは隠しておくつもりだったのに」
少し恥ずかしそうに笑うのを見て、こんなに可愛らしい顔をする人だったのかと思った。私までちょっと笑ってしまった。
二人の未来に何があるのか。この先はまだ、誰にも視えない。
「え?」
見下ろせば足元に鈴が転がっている。拾い上げてみると、見事な球体に青色の組みひもと木彫りの鳥の飾りが付いた、なんとも高価そうな代物だった。不思議なことに白い鈴がぼんやりと光って見える。
「どうかされましたかね、お客さん」
近くの和菓子屋の女将さんが言った。私にではなく、店の前で長椅子の下をのぞき込む男性客に向けた言葉のようだ。
「ちょっと落とし物をしてしまって。転がっていってしまったかも」
「あらあら」
女将さんも周囲を見回しているが、男性客は苦笑してそれを止めた。
「いいんですよ、たぶん見つからないから。お手間をとらせちゃいけない」
「大事な物じゃないんですかい?」
「まあ、ね」
そうは言いながらも、男性客の視線はまだ周囲を探しているようだ。私は近寄って声をかけた。
「あの、もしかしてこれですか」
手のひらに乗せた鈴を見せる。男性客は一瞬目を丸くして、女将さんがのぞき込む前に鈴を取ってしまった。
「どうもありがとう。本当に助かりました」
顔をよく見れば、端正な顔立ちの若者だった。歳は二十代の初めくらいだろうか、明らかに良い生地で仕立てられた羽織袴に中折れ帽をかぶっていたが、今はその帽子を取って礼を示している。おかげで目立つ瞳の色が良く見えた。それは、なんて鮮やかな――。
「何かお礼をしたいのですが」
「えっ」
彼の瞳に気を取られていた私は我に返った。他人の顔を凝視するなど、普段の私なら絶対にしないのに。
「いえ、そんな大したことでは」
「私がそうしたいのです」
人のよさそうな笑顔に、横で見ていた女将さんが目を奪われている。
「甘味でもご馳走しましょう。さっきの落雁はまだありますよね、女将さん」
「え、ええ、もちろん!」
ほんのり頬まで染めた女将さんは喜んで言って、件の鈴に目を留める。
「素敵な根付ですこと。やっぱり大事なものだったんじゃないですか」
「でもほら。この通り、音のしないものだから。見つかりにくいでしょう?」
根付が揺らされて、しゃらん、しゃらんと心地よい音を立てる。さっきの言葉に頷く女将さんを見て、私は悟った。彼女には見えていない。聞こえていない。
「ね、だからちゃんとお礼をしたいのですよ。お嬢さん」
意味ありげに鮮やかな目が細められる。私は背筋に寒いものを感じて、一歩二歩と後ずさりながら言った。
「す、すみません、急ぎますので!」
そして本当に急いで踵を返し、走るようにその場を逃げ出したのだった。
*****
昔から私の目には、ちょっと余計なものが見えた。いつからかは覚えていない。たぶん生まれつきなんだろう。
例えば五歳のころ。家の女中と一緒に道を歩いていて、とある店の前に猫がたくさん集まっているのを見つけた。店のお婆さんが餌をやっていたのだ。
「あら、お嬢様。猫ちゃんがたくさんいますね」
「ええ! とっても可愛い!」
数が数えられるようになっていた私は、喜んで猫を数え始めた。
「見て、十一匹もいるわ」
女中は少し笑って言った。
「よく数えてみてくださいな。ここにいるのは十匹ですよ」
「……そう?」
「珍しいですね。お嬢様は読み書きも計算もお得意なのに」
子供の数え間違いだと思ったのだろう、そのまま女中は店の人と話し始めてしまった。私はその間に何度も猫の数を確かめたけれど、どうやっても十一匹にしかならなかった。
それから六歳の頃。お父様と妹と一緒に出掛けた帰り道、歴史ある庭園に立ち寄った。広大な園内には日本庭園、池や橋、樹木に花畑、高い塔など様々なものがあって、私は妹と一緒にあちこち見て回った。
「立派ね。六重塔なんて初めて見たわ」
妹が胡乱気な顔をした。
「何言ってるの、お姉さま。五重塔よ」
「え?」
もう一度数え直したけれど、やっぱり塔は六階建てだった。
「お姉さまったら、どうしても数字が苦手なんだから」
妹は小馬鹿にするように笑って、さっそくお父様に報告に行った。自分は年上の姉よりも優れていると自慢したいのだろう。
七歳の頃。両親に連れられて、大きな迎賓館で行われるパーティーに出席した。洋館みたいな建物の内部は歴史ある調度品や舶来品が飾られて、ちょっとした博物館みたいな機能も有している、風格に満ちた素敵な場所だった。
その廊下を歩いていたとき、どこからかピアノの音が聞こえてきた。まだパーティーの開始時刻には早かったはずだが、人も集まってくる頃だし、もてなしのために音楽をかけているのだろうと思った。
「綺麗な曲ね。何ていう題名かしら」
両親と妹は三人で顔を見合わせ、揃って眉をひそめた。
「誰か、音楽なんて聞こえる?」
そのまま入ったホールには、楽団はいたけれどピアノはどこにも見当たらなかった。
そんなことが何度あっただろう。家に来たお客様の着物の柄が私だけ違って見えたり、他の人には聞こえない声や音が聞こえたり。初めは「子供の言うことだから」と流していた周囲も、次第に変な目で見るようになった。
もちろん家族も心配した。
父は私を良家に嫁がせることができるのかと。
母は教育の仕方を間違えたと責められないかと。
妹は自分まで他人から変な目で見られやしないかと。
それぞれの不安を抱えて対策を講じようとする彼らを見て、嫌でも自然と理解していた。私の視界は他の人と違うのだと。だから発言には細心の注意を払い、できるだけ口は開かず、会話は同意や相槌でやり過ごすことが多くなった。芸事や書物に夢中な振りをして部屋にこもる時間を増やし、実際に楽器や裁縫の練習を頑張った。それしかすることが無かったし、将来のことを考えれば、少しでも多く技術を身につけておきたかったからだ。
そうしているうちに私はすっかり「奥ゆかしい深窓の令嬢」とされていた。両親が私を外に出したがらないのも相まって、あの家の娘は大層な高根の花だと、噂は独り歩きして行ったのである。
そんな深窓の令嬢でも、そろそろ進路は決めねばならない。上がつかえていては妹が嫁に行きづらいからだ。私も腹をくくらなければいけない、のだが。
「はぁ」
先日の鈴の一件が頭をよぎる。あれは結局なんだったのだろう。持ち主の男性客は何者だったのだろう。そもそも私の目に映る余計なものは、一体なんなのだろう――。
「ダメよ、私。考えちゃダメ。全ては気のせいなんだもの」
鏡の中の自分と目を合わせて言い聞かせる。幼いころから数えきれないほど繰り返してきたおまじないだ。
「余計なものは見えてない。全部、私の見間違い。大丈夫、大丈夫、だいじょう、ぶ……」
――私は、本当に大丈夫なの?
必至に抑え込んできた心の声が響く。どくん、と心臓が跳ねた丁度そのとき、部屋の外から女中の声がかかった。
「お嬢様。旦那様と奥様がお呼びです」
「……伺うわ」
よし、とにかく支度をしないと。家族の前では隙を見せないと決めているのだから。
「お待たせいたしました」
ちゃんと身支度をして向かった座敷では、両親が並んで私を待っていた。
「翠、お前に縁談の話がある。相手は成見家の次男だ」
驚きのあまり、久しぶりに父と目を合わせる。
「あの、成見様ですか」
「そうだ」
父は鷹揚に頷き、母はなぜか伏し目がちに畳を見つめていた。
「知らないうちに章太郎さんが、成見家にお前の縁談を持ちかけてしまったそうでな。断られるかとおもいきや、実際に会うことを了承されたそうだ」
「……兄様には娘がいないから、縁続きになるきっかけが欲しかったんでしょうねえ」
母の兄、つまり私の伯父である章太郎さんは、家の格をあげることに一生懸命な人である。母が気まずそうなのはそのせいか。
成見家といのは一言でいえば、この地域で一番の有力者一族である。国全体でも上位に入るかもしれない。昔は我が家を含めた広大な土地を治める領主だったそうで、領地制度が廃止になった現在でも多くの不動産や事業を所有する名家。過去から受け継いだ遺産だけでなく、優秀な軍人や政治家を絶えず輩出することでも有名だ。ちなみの件の次男は商売事業の部門を任されているらしい。
多方面で成功が続くので、「あの家は政府か帝の密命を負っているから覚えが良いのだ」とか「人知れぬ何かを味方に付けているのだ」といった、都市伝説めいた噂を囁く者まで出るほど。所詮はやっかみなのだけれど。
そんな名門がなぜ、「ちょっとした良家」程度の我が家を視野に入れたのかが謎である。
「成見家のお見合いと言えば、噂に聞く通りの?」
「そうだな。今回は他に三名の候補者が集まるらしい」
「丁度そのお見合い会があるから、良かったら一緒に参加をと言ってくださったらしいのよ」
なるほど、ついでの話なのね。
私が初めて、その成見家次男の噂を聞いたのは、数少ない友人の千代子からだった。何でも、その次男は妻選びために謎かけをするのだという。今まで何人もの女性たちが問いに答えようと知恵を絞ったはずだが、未だに婚約者の席が空いているということは、正解を出せた者はいないらしい。
「そもそも謎かけの意図が明確じゃないって聞くもの」
当時の千代子は饅頭を食べながら、どこから仕入れたのか知らない情報を喋ってくれた。彼女は何かと早耳なのだ。
「知識と教養に優れた答えを求めているのか、飾らない素直な言葉を求めているのか、はたまた感性に溢れた雅な言い回しを求めているのか。何を試されているのかも分からないんですって」
「ふうん。嫁いだら苦労しそうな相手ね」
それでも優良物件である次男には見合い話が絶えず、我が子でも親戚筋でも、年頃の娘を売り込もうとする者がひっきりなし。成見家の広すぎる人脈の端々から縁談が持ち込まれるのである。一つ一つ捌ききれなくなった成見家は、一度に複数人の娘たちと対面させる方式にしたのである。
「何それ。使用人の面接?」
「まあ、あり得ないわよね」
普通に考えて、そんな見合いが成立するのか疑問だ。もしかしたら全て破談にするために、わざとやっているのかもしれない。
千代子が饅頭を飲み込んで言った。
「随分と他人事だけど、あなたはどうするのよ」
「どうって?」
「成見家の話はともかく、そろそろ私たちも縁談を決めないと。行き遅れるわよ」
「いいのよ、別に」
幸いなことに教育はちゃんと受けさせてもらっている。子供相手に芸事や勉強を教える仕事なら十分に出来るだろうし、何なら奉公に出たって良いだろう。家柄がどうのという矜持にこだわらなければ何だってできる。きっと一人でも生きて行ける。
「たぶん私は、誰かと一緒にはなれない」
「ちょっと、翠。本気で言ってるの?」
「もちろん」
それから時間も経って、千代子の方は既に婚約が成立したと聞いている。私の番が来るとは思わなかったのに。
つらつらと考えていたら、勢いよく襖が開いて妹が姿を見せた。
「お姉さまだけずるいわ。私も成見様とお会いしたい!」
盗み聞きしているのは気配で気づいていたけれど、堂々と乱入してくるとは思わなかった。母など驚いて腰を抜かしている。
「茜、勝手に入ってくるんじゃない」
「だってぇ」
「お前には別の見合いが入っているだろう? 気になる男だというから釣り書きを送ったんじゃないか」
「成見家と比べられるわけないもの」
一応は注意しながらも本気で怒っていない父と、もはや謝る気すらない妹、何も言わない母。目の前で他人一家の日常が流れているようだった。一芝居終わるまで待つ私は暇で仕方ない。
「成見様は謎かけがお好きなんでしょう? 私の方が良い答えを出せるのに」
「茜は和歌も得意だからな」
妹はすっかり、私の間違いを指摘することで自分の評価をあげようとする、歪んだ子に育ってしまった。昔は絵や文章を書いてはわざわざ私に見せに来て「何が書いてある?」なんて聞いてきたものだ。不思議と妹が書いた物は見間違えることも無く、私が正解を答えると不機嫌そうに去って行った。そんな幼い遊びも成長と共に飽きたのだろう、今では言葉を交わすこと自体があまり無くなっている。
父の咳払いで、私は目の前の一幕が終わったことに気づいた。
「とにかく、翠。せっかく成見家の方と接触できる機会だ。あまり時間も無いが準備に励み、とにかく気に入られなさい。我が家の印象だけでも残すのだ」
「はい」
やっぱり本気で選ばれるとは思っていないらしい。私もだけれど。
「良い印象を与えれば、次は茜の見合いにつなげられるのだ。励みなさい」
「はい。お父様」
ずっと練習してきた美しい礼を披露する。これで満足だろう、洗練された娘に見えるから。
「幼いころは変なことを言う子だと心配していたが、近頃は治ったようだな」
「ご心配をおかけいたしました」
下がって良いと言われた私は早々に座敷を後にする。音もなく閉めた襖の向こうから、家族三人の楽し気な笑い声が聞こえた。
自分の部屋である離れに戻った私は、ちょっと着古した地味な着物に替えて外出した。今日は千代子と会う約束があるのだ。
「こんにちは」
和菓子屋の暖簾をくぐると、どこからか飛び出してきた千代子が目の前に出現した。
「翠、待ってたわ!」
「今日も突然現れるわね」
「何のこと? 私ずっと、ここにいたのに」
くるくると表情が変わって、見ている方が元気になる千代子。私も本当はこんな女の子になりたかった。
「さ、行きましょ」
和菓子の入った包みを持って颯爽と陽の下に出て行く。
この和菓子屋は周辺地域の中では有名店で、店内の一角と店の前の長椅子で買ったものを食べられるようになっている。最近はめっきり減ってしまった、昔ながらの茶店や甘味処みたいな雰囲気を残しているのだ。実は私もこっそり食べに来たりする。千代子はこの店の娘で、いずれ嫁に行ってしまうのが惜しいと常連さんからも泣かれているらしい。地域ぐるみで愛されているようだ。
「良い天気ねぇ」
「ほんと」
土手沿いの道に置かれたベンチに座って、和菓子屋で買ってきた甘味を食べるのが私たちのお決まりの流れだった。今日は二人して柏餅にかぶりつく。
「んー、やっぱり味噌餡おいしい」
「甘じょっぱさが絶妙ね」
頭上では初夏の陽気に透ける青々とした葉が揺れている。やっぱり外は気持ちが良い。
隣のベンチでは顔見知りの老夫婦がのほほんと日光浴を楽しんでいたので、一緒に持ってきた落雁をおすそ分けすした。旦那さんの方は既に目が見えないようなのだが、妻が語る風景の様子を聞くのが好きなのだと言って、よく二人でこの場所に座っているのだ。私と千代子も、風に舞う花の事や、雨で増水した川の流れや、もうすぐ晴れそうな曇り空のことなんかを話してあげたことがある。
「自分で見るのも良いが、誰かの目を通すのも風流なもんだ。その人ぞれぞれの見方、感じ方が上乗せされて、飽きの来ない場所になる」
優雅に語る老人の素性はじつのところ、引退した漁師だと知ったときの驚きは今もよく覚えている。
二つ目の柏餅を手に持ちながら、ようやく私は切り出した。
「あのね、千代子。実はお見合いすることになったの」
「えええ⁉」
面白いくらい反応してくれた。
「ああ、あの翠がとうとう縁談に興味を。あの、一人で生きるって言ってた翠が、ついに幸せを見つける決心を! 今夜は赤飯よ!」
「面白がってるでしょ」
「もちろん」
良い性格をしていると思う。ちょっと羨ましい。
「で、お相手は?」
私が簡単な内容を耳打ちすると、千代子は盛大に咳きこんだ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ! 何でいきなり成見家? いやまあ、翠は素敵な淑女だけれども、そういうことじゃなくて」
「私だって謎なのよ。なんでお見合いまで漕ぎつけられたんだか」
「これは、アレよ。何か仕組まれた陰謀が」
「やっぱり面白がってるでしょ」
「もちろん」
二人して吹き出して大笑いしたら、いくらか気分が軽くなった。やっぱり千代子は大切な友人だ。それから一応経験者である彼女にお見合いの諸々なんかを聞いて、私は断られるためのお見合いの準備のために帰るのだった。
そして当日。一番上等な緑の着物で向かった会場は、いつだったか私が塔の階数を間違えた日本庭園の中にある、大きな料亭の座敷だった。障子を開ければ縁側の向こうに例の塔が見える。広さからして大人数での宴会向きの場所なのだろう。そこに他のお見合い相手が三名、それぞれが青・赤・白の着物で詰めている。
娘たちの付き添いで来た家族も後ろに控える中、女将さんの声掛けとともに襖が開かれ、男性が二名入ってきた。前にいるのは柔和な顔に眼鏡をかけた若い男性。整った顔立ちに人柄がにじみ出ているようだ。その後ろに続く、同じく若い男性は。
「あ」
危うく声は出さずに済んだ、と思う。頑張って忘れようとしていたその顔は、例の鈴の持ち主だった男性客なのである。慌てて目を逸らしたが、相手もこちらを見ている気配が伝わってきた。
全員が座って落ち着いたところで、眼鏡の男性が口を開く。
「皆様、本日はご足労いただきありがとうございます。このような複数名が会する形での顔合わせを、何卒ご容赦いただきたく存じます」
見た目の通り柔らかな声だった。彼が仲人役なのだろう。
「それでは、まず自己紹介から」
ようやく全ての元凶、成見家次男が口を開いた。
「成見蒼次郎です。本日はお集まりくださり……」
聞き覚えのある声で、当たり障りのない挨拶をしている。こちらも端正な顔立ちで、優しそうな人ではあるのだけれど、どこか警戒してしまう別の顔を隠している気がした。
全員の自己紹介が終わると、蒼次郎さんは早速噂通りの展開を進めてきた。
「いくつかの問いに答えていただきたい。順番は誰からでも構いません」
女性たちが一斉に身構える。私も一応、姿勢を正した。
「ひとつ。私の目は何色か?」
一瞬、周囲を伺うような空気が流れ、青の君が凛とした声で言う。
「名工の手で生み出された漆器の如く、美しい漆黒でございますわ」
続いて赤の君が優雅に微笑む。
「まるで数多の星を従える夜空のよう、輝きをちりばめた暗黒色です」
それから白の君が少し首を傾ける。
「最高級の気品まで染め付けた御召し物のごとく、藍下黒とでも申しましょうか」
とりあえず、「黒」と答えるのが正解なのは分かった。最後に残った私も無難な答えを言うとしよう。
「静かな水中で時を待つ、黒真珠のようでございます」
よし、たぶん乗り切った。
一方の成見さんは表情を変えずに淡々と続ける。
「ふたつ。私の羽織は何柄か?」
先ほどと同じ順番で三人が答えた。
「絶えることのない川の流れ、力強い流水紋でございますわ」
「風が撫でる湖を思わせる、涼やかな水紋の柄でございます」
「悪しきものを流す清らかさ、伝統ある光琳水の文様とお見受けします」
水の模様を答えれば良いようだ。ならば私は。
「時には荒く渦を巻く、大いなる水面の文様にございます」
成見さんは小さく息を吐く。
「みっつ。私は何を背負っている?」
前の二問より少しだけ長い沈黙があった。それから先陣を切ったのは、やはり青の君の凛々しい声である。
「歴史ある一族の更なる発展、成長を続ける大店の未来でございましょう」
それで方向性が見えたとばかりに、二人が続けた。
「輝かしい成功をなさっているご家族の期待と願いを」
「国内有数と名高い名家の末永い存続を」
確かに間違ってはいないのだろう。だが、どの答えも薄っぺらく感じてしまった。それに私としては「本当に背中に背負っているモノ」に目が行ってしまい、そこから気を逸らすことで精いっぱいになっていた。
「……ええと、ですね。ご自身の力で高みに上るための大いなる翼を」
ついつい、例のモノに引っ張られた答えを口走ってしまう。恐る恐る成見さんの表情をみると、鋭い視線が私を射抜いた。
「いや、その」
「皆様、問答へのご協力に感謝します。食事を楽しんでください」
一瞬で元の好青年に戻った成見さんの一言を合図に、障子が開いて次々とご馳走が運ばれてきた。この人、本当に何なのだろう。
その後は何ということも無く、お見合いというよりは社交のための宴会のような雰囲気でこの日は終わった。蒼次郎さんはそれぞれの娘たちとその家族とも言葉を交わし、商談ともつかない仕事の話まで振られて、それを絶妙に流していた。人当たりのよさそうな雰囲気は商売人ゆえかもしれない。私は出来るだけ話に混ざらないように気配を消しながら、聞いているのが楽しいのだという微笑みだけを貼り付けて料理を完食した。
これで仕事は終わった、と思ったのだが。数日後に再び両親に呼び出された私は、いつになく興奮した父に告げられるのである。
「成見様が、もう一度お前に会いたいそうだ」
「なぜでしょうか」
「明確な理由は告げられなかった。とにかく僥倖だ、心してかかれ」
部屋の外から妹の黒い気配が漂ってくる気がした。
*****
何をどう頑張ったらよいのかも分からないまま、私はとにかく外に出ることにした。静かな部屋に一人でいるのは耐えられそうにない。今日も目立たないよう地味な着物に替えて、
ふわふわした足で和菓子屋に向かう。
「こんにちは。千代子さんはいらっしゃいますか」
「今ちょうど、買い物に出ているのよ。そのうち戻ると思うけれど」
「そうですか」
私は団子を注文して、店の外の長椅子で食べることにした。
「お待たせしました。みたらし団子とお茶ね」
「ありがとうございます」
置かれた食器に影が落ちる。顔を上げた目の前には件の見合い相手が立っていた。
「私もいただきたい」
「はいはい」
蒼次郎さんは自分もお茶と団子を頼んで、勝手に私の隣に座った。
「君は嘘つきなんだな」
「何のことでしょうか」
澄まし顔で団子を頬張った。誤魔化しなんて慣れたものだ。
「問答のとき、本当は別のものが見えていたんじゃないのか」
もぐもぐもぐ。口に物が入っているので答えられませんよ、の体を貫く。蒼次郎さんは見合いの時の礼儀正しさを置き忘れたかのように、ぞんざいな口調で話しかけてきた。やっぱり猫をかぶっていたのか。
「君は何を恐れているんだ」
「何のことでしょうか」
「そんなに俺が信用できないか」
「何のことでしょうか」
「普通に会話くらいしないか」
「何のことでしょうか」
蒼次郎さんがゆっくりと額を押さえた。何やら唸っている声も聞こえるが、諦めて帰ってくれれば一瞬で解決するのに。
「他の皆様、素敵な方々だったじゃないですか。お綺麗で、教養があって、家柄も申し分ない。選び放題なんですから、早くお決めになったら如何ですか」
「一生を隣で過ごす相手だ。急いで決めることも無いだろう」
「なるほど。選び放題だから余裕があると」
つい嫌味な言い方になってしまった。もういいか、どうせ私には縁のない相手。不興を買って家ごと潰されたりしたら困るけれど……いや、一人で生きていくなら家が潰れたって問題ないのか。なんだ、私も案外気楽な身の上じゃない。
さっきより美味しく感じる団子の最後の一口を飲み込んだところで、静かな声がした。
「ひとつ昔話を聞いてくれないか。茶を飲み終わるまでで良い」
了承していないのに話は始まった。
「昔、この世には人と人ならざるものが混じって暮らしていた。人ならざるものの呼び方は様々あったが、とりあえず『妖ノ者』としよう」
「よう……妖怪だとでも?」
「今はその認識でも良いだろう。妖ノ者は人よりも数が少なかったが、人には無い能力を持っていた。だが人の世が変わると、彼らは次第に生きづらくなった。同時に諍いも増える。そこで人と妖ノ者は住む場所を分けることとなった。世代交代の早い人の地では、周囲にいなくなった妖ノ者の存在を次第に忘れ、認識すらできなくなってゆく。今では一部の家の者が、両者の間で物事を調整する仲介役を担っている」
一度言葉を切って空を仰ぐ。
「人の世にも時折、妖ノ者を感知する体質を持って生まれてくる者がいるんだ。そういう者を見つけ出すのも『一部の家』の仕事であるんだが……俺はそんな人を見つけ出して、妻に迎えたいと思っている。だから探しているんだ」
「……見つからなかったら、どうするのですか」
「どうしようかな」
その声は少し寂しそうだった。
「同じ景色を見て、ともに語り合える相手がほしいと思うのは可笑しいか」
「それは」
痛いほど胸に刺さる言葉だった。この人は私がとっくに諦めてしまった望みを追い続けているのかもしれない。自分なりの方法で同類を見つけようと工夫し、努力し、孤独に足掻いてきたのだろう。それが今、叶えられるかもしれないと私に期待を寄せている。
私が答えられずにいるうちに、成見さんは二人分の代金を置いて行ってしまった。
「可笑しいか、って……」
「追いかけないの?」
「きゃあっ」
店の中から顔だけ出した千代子がこちらを見ていた。いつ帰ってきたのかも、いつから覗いていたのかも分からない。
「え、え? 聞いてたの?」
「話の中身は聞かないようにしてたわよ。何かしんみり語り合ってるなーって。あれが噂の成見さん?」
仕方なく頷いたら、今度は千代子は私の隣に座った。みんなして勝手に隣を埋めてくる。
「成見さん、あなたに興味あるみたいじゃない」
「そ、それは!」
否定はできない。だからこそ困っているのだ。
「あの方はね、私に期待していることがあるみたいなの」
「素敵。良いことじゃない」
「でもそれは、何かを努力すれば成長できるとか、補えるような種類のものではなくて……生まれつき持っているかどうか、みたいな感じなの。もしもその期待に応えられなかったら、どうしたら良いの?」
彼は同じ景色を見られる相手を求めている。でも、同じものが全て見えているかなんて分からないのだ。彼には見えていて、私には見えない何かが出てきたら。私には聞こえていて、彼には聞こえない何かに気づいてしまったら。そのときも側に置いてくれるだろうか。
「期待とは違ったって、後になって気づいたら? もういらないって言われたら? 私は今度こそ居場所なんてなくなってしまう!」
離縁されても戻る家などないだろう。その頃には私も今より歳をとって、働き口すらないかもしれない。
千代子は少し考えて、あっさり言った。
「それをちゃんと言ってみたら?」
「会ったばかりの人なのに、そんなこと!」
「会ったばかりじゃない人にだって、ずっと言えてないこともあるでしょ?」
含み笑いで私を見ている。
「ねえ、千代子って」
「ほら、行った行った。こういう場合、相手はまだその辺で黄昏ながら、自分の言動を反省してるもんよ」
「どういう意味?」
「あの雰囲気だと川沿いかしらね」
強引に店の前から追い払われる。とぼとぼ歩いて仕方なく土手の方に向かったら、本当にベンチに座って青葉を見上げる蒼次郎さんがいた。
「千代子って、何者なのよ」
その声が聞こえたらしく、蒼次郎さんが振り向いた。
「おや。また会った」
「偶然ですね」
素っ気なく言って通り過ぎようと思ったけれど、彼の前を過ぎたところで足が勝手に止まった。きっと振り向いたら聞けないだろうから、背を向けたまま言ってみることにする。
「もしも、あなたに隣り合う人が出来たとして」
「ああ」
「同じ景色を見られたとして」
「良いことだな」
「ある日、同じに見えない景色に気が付いたら。どうされますか」
私からの謎かけに、どんな答えを出すのだろうか。
「それも良いじゃないか。自分にはこんな風に見えると、それぞれの目に映るものを、それぞれの表現で語り合うのも楽しそうだ。二倍の視界を楽しめるのは得ってものだろう?」
「得、ですか」
吹き抜ける風に混ざって、気持ちの良い笑い声が聞こえた気がした。振り向いたら、そこにはもう誰もいない。
*****
二度目のお見合いは先日と同じ料亭で行われた。でも女性側は私一人。前回と同じ羽織袴の総一郎さんは距離を置いた対面に座って、初めて私たちは正面から顔を合わせる格好になった。
「お越しいただき感謝いたします」
「こちらこそ、お招きいただき光栄でございます」
お互いに猫をかぶった礼儀正しい挨拶。私は大きく息を吸ってから顔を上げた。
「成見様。もう一度、問答をいたしませんか」
「良いでしょう」
優雅な笑みが崩れて、口の端が愉快そうに上がっている。
「私の……いや。俺の目は何色だ」
「碧玉みたいな青色」
透き通る碧玉がわずかに細められた気がした。ああ、本当に綺麗な色。
「俺の羽織は何柄だ」
「水の中を自由に泳ぐ金魚たち」
答えに呼応するかの如く、音もなく魚が跳ねる。羨ましいくらい自由なのね。
「俺は何を背負っている」
「カラスみたいな黒い翼」
陽光を浴びた羽が一枚落ちる。艶があって柔らかく、触ったら絹みたいに気持ちよさそうだ。
蒼次郎さんが姿勢を正して、私を真っすぐに見る。
「最後の質問だ。あの塔は何階まである?」
少しだけ、答えを躊躇した。これまで築いてきた「普通」を台無しにしてしまうと分かっていたから。でも本当はずっと言いたかった。私に見えている景色を、誰かに聞いて欲しかった。
「六階建てでございます」
真っすぐに見つめ返して答える。もう後戻りはできないのだから。
蒼次郎さんが立ちあがって、私の近くまでやって来た。座り直して居住まいを正し、美しい仕草で手を差し出してくる。
「どうか私の妻に」
「謹んで、お受けいたします」
周囲の驚く声が遠くに聞こえた。喜んでいるのか怒っているのかも分からないが、今はもうどうでも良かった。目の前の手を取ったところで、それ以上に気になるものが見えてしまったから。
「ちなみに、後ろに見えているのは尾羽ですか?」
「おっと。これは隠しておくつもりだったのに」
少し恥ずかしそうに笑うのを見て、こんなに可愛らしい顔をする人だったのかと思った。私までちょっと笑ってしまった。
二人の未来に何があるのか。この先はまだ、誰にも視えない。
