黄昏(たそがれ)という、国家に名付けるにはいささか不吉な国名は、いつぞやの帝が己の老いを憂えて心を病み、強引に押し通したそうだが、それからの二百年余り、国家の衰退は見えずむしろ栄えるばかりなので、縁起が良いとして改名せずにいる。
 黄昏国の都には大内裏が置かれ、その奥には雅な後宮が広がっている。現帝がまだ即位間もないということもあり、皇后は未だ立てられておらず、女御(にょうご)には左大臣の娘・織風(おりかぜ)と右大臣の娘・小波(こなみ)更衣(こうい)である大納言の娘・朱子(あかこ)がいる。女官は多く存在するが、れっきとした妃と呼べるのはこの三人のみである。
 七殿五舎で構成された後宮の中で、織風は七殿の弘徽殿(こきでん)という最も格の高い殿舎を、小波は承香殿(じょうきょうでん)を、朱子は淑景舎(しげいしゃ)という帝の住居からは遠い場所にある格の低い殿舎を与えられた。

 黄昏国に現帝が即位して一年ほど経った、ある日の昼下がり。晩夏の暖かさが漂う中、朱子は淑景舎でぼんやりと物思いに耽っていた。
 朱子は絹のような漆黒の黒髪を垂らし、簡素な玉簪を挿している。華奢な身体には桜や白の単衣(ひとえ)を重ね、薄紅の淡い小袿(こうちぎ)を纏っており、その裾を揺らしてみたり、ひとりで手遊びをしたりする。
「暇だなぁ」
 ぽつりとそう呟いたとき、廂《ひさし》を忙しなく歩く足音が響いてきた。
「まったく、誰も分かってないんだから!」
 久木(ひさぎ)が苛立ちを隠さぬ様子で、御簾の内側に入ってくる。丁寧に御簾を下ろす仕草と怒りに満ちたその表情がちぐはぐだ。
 この女は、朱子の女房である。久木は十六歳である朱子よりも歳上の二十歳の女で、幼い頃から世話役として仕えてきてくれた。白の単衣(ひとえ)一つに若草色の小袿(こうちぎ)を重ね、長い黒髪を背に垂らしている。
 朱子は几帳を退けて、部屋に入ってきた久木を見上げる。
「久木、どうしたの?」
 朱子の問いかけに、久木はすとんと腰を下ろして、はあ……とため息をついて、怒気の籠った声を上げる。
「宮中は見る目のない者ばかりなんです! 誰も彼も、姫様の瞳を悪いようにおっしゃいますけれど、私からすれば美しいことこの上ないのに」
 久木は大人っぽい顔立ちに反して、随分気軽な物言いをする。
「なんだ、そんなこと。また何か言われたのね。放っておいたらいいのよ。わたしは気にしてないから」
 朱子はそう言って、くすりと笑みを零す。
 毎度怒ってくれる久木には悪いけれど、すっかり慣れたことだ。特に、織風を中宮にと推す左大臣側の人間からは、よく陰口を言われる。それは、朱子の父がさほど高い地位ではなかったのと、朱子が奇異な目を持っているからだろう。宮中の公家や女官は、その目を忌々しいものとして疎み嫌うのだ。
 瞳の色に関して何かを言われるのは、もう気にしていない。人は常とは異なるものを恐れる。それは当たり前のことだろう。
 朱子は生まれつき、普通の人間とは瞳の色が違っていた。黒色ではなく、紅色をしているのである。
 だから、名も朱子だ。瞼を上げた朱子の瞳を初めて目にした母は、ひどく怯えて憔悴してしまったという。産婆(うば)もこんな瞳をしている嬰児(えいじ)を初めて見たと、恐ろしい顔をして言っていたらしい。
「そうですけど……流石に扱いの差が酷いです。女房だって増やしてくれたらいいのに……まず、今いる女房たちが全然仕事してくれないこと自体おかしいんですけど!」
 久木はそう言って、女房たちの部屋が設えられた局の入口の方を睨む。
 織風や小波には多くの女房が仕えているというのに、朱子は久木とその他三人のみ。その三人も朱子を気味が悪がり「外れ主人」と言って、最低限の仕事をこなしたら引き篭ってしまう。彼女らは常々他の妃に仕えたいと嘆く。狭い淑景舎の中でさえ、朱子が心を許せるのは久木だけであった。

 朱子の入内が叶ったのは、朱子の父が院の寵臣であったというだけである。院は一年前に急病により譲位したが、ひと月前に、疫によって朱父とともに故人となってしまった。途端に朱子を支えていた基盤は崩れ、後ろ盾を失った朱子のみが淑景舎にぽつんと取り残されてしまっているのだ。
 だが、朱子は現状を憂いてはいない。久木という心から信頼できる女房が傍にいるし、最低限の生活はできる。誰の目を気にすることもなく物語を読み耽り、蝶や花を愛でることができるのだから。
(でも最近、この子の様子がおかしいわ。哀しそうに鳴くの……)
 朱子は、己の膝元に頭を乗せて臥せる赤羽を持つ大きな鳥の背を優しく撫でる。燃えるような赤と金の羽、冠のような頭部の羽毛に、豊かな長いしっぽ。足元は金の鱗に覆われている。
 朱子よりも大きなこの子は朱雀(すざく)、朱子の守護獣(しゅごじゅう)だ。己が朱雀に触れられるのは、あやかしの見える目を持つ異能者──妖守(あやかしもり)だからこそだ。
 久木や他の人間には、朱雀の存在は見えないし触れられない。例えば、久木の足が朱雀とぶつかったならば、朱雀の身体はすり抜ける、といった具合だ。

 この世には、ごく稀に妖守という特殊な力を持つ人間が生まれる。あやかしの姿を見て声を聴き、話ができる妖守は、あやかしの住む幽世(かくりよ)常世(とこよ)を繋ぐ繋者とも呼ばれ、この国では神の使いとされている。
 しかし、妖守はその特性から、悪意あるあやかしに命を狙われてしまう。それと引き換えに守護獣を背負って生まれるが、それを使いこなす力量を持たない妖守も多い。
 そのため、妖守として生まれても、陰陽師を輩出する家系などの例外を除けば、異能を隠して生きる者がほとんどだという。妖守だと知られれば、その周囲の人間もあやかしに狙われかねないと、遠ざけられるからだ。
 朱子も異能を秘めて生きる側の一人であった。この後宮で、久木だけが朱子が妖守であることを知っている。幼い頃からの世話役として、朱子の異能については把握しておいた方がいいだろうという亡き父の意向だ。

 そんな朱子は、後宮で一人だけ、自分と同じ妖守を知っている。
主上(おかみ)……)
 麒麟(きりん)の守護獣を背負う、崇高なる天子。黄昏国の帝──雨月(うげつ)は、朱子と同じ妖守であった。朱子はたった一度だけ、入内を果たしたその日に雨月の姿を仰いだ。  
 つり目がちな大きな目、つんと高い鼻。形のいい唇。雨月はまだあどけなさの残る端整な容貌をしていた。それに加えて、ひと目でこの御方こそが神に選ばれた存在だとわかる、言い知れぬ趣を持ち合わせていた。歳は朱子と同じで十六歳だとか。
(あの御方に、もう一度お会いしたいわ)
 朱子は、雨月がいるであろう清涼殿(せいりょうでん)をうっとりと見つめる。朱子はあの日、若き帝に一目惚れしたのだ。この御方の后妃となれてどんなに嬉しいことかと、胸が躍った。
 淑景舎に雨月が渡ったことはまだ一度もない。朱子よりも前に入内していた弘徽殿や承香殿のもとに訪れたことはあるが、夜は共にしていないという噂は聞いたことがある。その真実は分からないが。
 朱子が雨月に想いを馳せていると、きゅううっと朱雀が首を反らせて微かに鳴く。その声は、久木には聞こえない。
(朱雀、どうしたの?)
 と、朱子は心の中で朱雀に問いかける。守護獣とは心で会話できるのだ。口に出してもいいのだが人目もあるため、朱子はなるべく心の声で話しかけるようにしている。
 声をかけられた朱雀はこちらに目を向けず、下ろされた御簾の向こう側をじっと見つめる。
(もしかして、あやかしがいるのかしら)
 朱雀はあやかしを見つけると鳴き声を上げるのだ。
 朱子はその場に立ち上がり、御簾の方へと歩み寄る。後ろから「姫様?」と久木が問いかける声が聞こえるが、それには答えず、両手でぐいと御簾を押し上げた。
 朱雀は朱子の両肩に足をかけて乗り、またきゅうっとひと鳴きする。乗られているという感覚はあるが、重くはない。
(何かいるの?)
 朱子は淑景舎の庭をぐるりと見渡す。日当たりが悪く、人気(ひとけ)がない。三人の女房たちは今日も今日とて己の部屋に引き篭っている。
 そんな寂れた庭先に、朱子はもふもふした黄色い毛玉を見つけた。
「あれは……」
 (ひさし)に出た朱子は浅沓(あさぐつ)を履いて、縁側から庭に降りる。そして、よくよく近づいて見ると、草むらの中に転がっていたのは毛玉ではなく、馬のような小さな獣である。
 朱子は、あやかしかしら……と、両手で獣を抱き上げる。
 黄色の毛並みは日に当たると金色のように輝き、額には小さな(つの)が一本生えている。耳は鹿のようで、背には雲のようにふわふわとした鬣が生えていた。長いしっぽはふさふさで、馬のような蹄を持っている。
(不思議な見た目ね……あら、寝てるみたい)
 どうやら、獣は眠っているらしかった。目は瞑り、腹は微かに上下している。
 後ろから久木が「姫様」と声をかけてきたので、朱子は獣を抱えたまま、部屋の中に戻る。
「姫様、またあやかしですか──って、あれ、子馬?」
 久木は朱子に抱えられた獣を見て首を傾げた。
「久木に見えるってことは、この子あやかしじゃないの?」
「はい、はっきりとこの目に見えますので。でもなんで子馬がこんなところに?」
「さあ……角が生えているし、子馬でもないかも。なんの動物かしら」
 獣は鹿や馬の特徴を持っているが、どうにも、そのどちらでもないようだ。そもそも、黄色の一角獣など見たことが──。
(あれ?)
 朱子は腕の中の獣を見て、不思議に思う。この獣のような姿の動物をどこかで見たことがあるような気がする。
 記憶を辿り思案していると、突然、獣がぐるる……と小さく呻いた。瞼を閉じた目元がぴくぴくと動いている。
 朱子は獣の様子を見て、不安げに眉尻を下げる。
「どうしたのかしら、なんだか辛そうだわ」
「お水と布巾を持って参りましょうか?」
「ええ、お願いね」
 久木は頷き、廊下を渡って水場に向かった。

 朱子は部屋の中に戻り、柔らかな敷物の上に座る。朱雀も肩から降り立ち、羽を閉じて床の上に丸くなった。
(もしも、織風様や小波様が飼っていらっしゃる子だったら、大変なことになるかもしれないわ。とはいえ、あんな寂れた庭に放っておくこともできないし……)
 そんなことを考えながら、赤子は膝の上に乗せた獣乗せを撫でる。朱雀と同じく、もふもふで気持ちいい。
 ぼふんっ!
 すると、突然、不思議な音を立てて、獣が白い靄に覆われてしまった。
「へっ?」
 予想だにしない出来事に、朱子は目を丸くする。動揺に瞳を揺らしながら、靄を見つめていると、その中から見知らぬ男が現れた。先程まで撫でていた獣の姿はもうどこにもない。
「えっ、ええっ……!?」
「ここは……?」
 突如として朱子の目の前に現れた青年は、その場に座り、呆然としてこちらを見つめている。一方の朱子も唖然として、口をあんぐりと開いたまま青年を見つめた。
 青年は紫を基調とした直衣(のうし)を重ね着し、そこに金の差し色が入っている。少し癖のある長髪は纏められずに、肩からふわりと流れていた。
 忘れもしない、類まれなる美しい容姿。柔らかな声。高貴な色使いの衣装。涼しげな眼差し──。
 朱子ははっとして、その場に叩頭する。
「お、主上(おかみ)、大変な無礼をいたしました……!」
 震える声で言葉を紡ぐ。あまりの事態に、脳内は混乱しきっていた。
(どうして、主上(おかみ)がここに……!?)
 目の前にいる青年は、まさしく黄昏国を治める帝・雨月であった。朱子が恋い慕う主である。冠を外した姿を見るのは初めてであるが、間違えるはずもない。
 雨月は乱れた髪をさらりと払い、朱子を見下ろして告げる。
「面をあげよ」
「ありがとうございます」
 朱子はおずおずと頭をもたげた。すると、雨月の眼差しが朱子を真っ直ぐに突き刺し、心臓が跳ねる。
「そなたは……たしか、亡き大納言の娘、朱子だったか。ここはどこだ?」
「ここは後宮の東北にある淑景舎です」
 どくどくと速まる鼓動を感じながら、答える。
(顔を覚えていてくださったのね)
 そのことが嬉しくてたまらない。
 朱子がぼんやりと見蕩れてしまう一方、雨月は空虚に向かって声をかける。
「麒麟よ、これはどういうことだ。人の姿に戻ってるぞ」
 瞬間、雨月の体内から飛び出るようにして大きな獣が現れた。獣は足を折って縮こまり、床に伏せる。
(あ、)
 朱子はその獣を見て、驚きよりも先に納得する。
 黄色の毛並みを持つ一角獣、雨月の守護獣である麒麟だ。朱子が庭で拾った小さな獣と特徴が一致する。
(あの子は麒麟だったのね……でも、なんで小さく? 久木にも見えていたし……)
 麒麟は朱子と、その隣に伏せる朱雀を鋭い目で一瞥した後、雨月に顔を向けてぐるると小さく鳴く。
『主よ、この娘は妖守です。娘の守護獣であるこの鳥めが我と共鳴し、変化(へんげ)が解かれたのでしょう』
 突然低音で話し出した麒麟に、朱子はびくりと肩を揺らす。己に取り憑く朱雀以外の声を聞くのはこれが初めてだ。
「そういうことか。そういえば、初めて会った時も朱雀を抱えていたな。すっかり忘れていた」
 雨月は朱子と朱雀を交互に見て、納得がいったように頷く。
(そうか、主上(おかみ)は麒麟に変化(へんげ)していたのね)
 朱子は昔読んだ書物に、妖守は守護獣の姿を借りて、獣に変化できると書いてあったことを思い出す。さらに、変化(へんげ)した獣の姿は普通の人間の目にも見えると。人の姿でなくなるのがなんだか恐ろしくて、朱子はまだ変化(へんげ)を試したことがない。
(身体の大きさを変えられるなら、ちょっと試してみたいかもしれないわ)
 なんて思ってみたりするが、踏み出すのには勇気がいる。それに、朱雀が応じてくれるかどうか分からない。
 朱子は膝の上で拳を握り、緊張した面持ちで雨月に尋ねる。
「あの……主上(おかみ)はどうして変化(へんげ)をしていらっしゃったのでしょうか」
「そなたも妖守なのに分からないのか? 我々妖守は守護獣といわば一心同体、ふとした瞬間にその獣の性が顔を出す。……そのためか、私は時々殿舎の外を駆けて日向ぼっこをしたくなるのだ」
「日向ぼっこ……?」
「ああ、今日も庭の草むらに姿を隠して赴くままに歩いていたら、こんなところに──待て、昼過ぎの鐘は鳴ったか?」
 雨月は眉根を寄せて朱子に尋ねる。
 宮中では陰陽寮の漏刻博士が時守(ときもり)を指揮して時刻を測り、政務や食事の区切りの時刻になると、鐘の音で教えてくれるのだ。
「はい。先程、鐘の音がこちらの方まで」
 朱子が告げると、雨月はしまった……と案外子供っぽい表情を浮かべる。 
「まずい、私は政務に戻らなければ。そなた、此度の件は口外してはならんぞ。そなた以外誰も知らない私の秘密だ」
「もう、行ってしまわれるのですか……?」
 名残惜しさに、咄嗟に言葉が口を付いてしまい、朱子は慌てて「いえっ、なんでもありません」と訂正する。
(朱子、だめよ! 主上(おかみ)の邪魔をしてはいけないわ)
 雨月は困ったような顔を見せるので、朱子は申し訳なさに俯く。すると雨月は、膝の上の赤子の手に自分の手を重ねて言う。
「すまない、迷惑をかけた。そなたに撫でられるのは、なかなか気分が良かったぞ。同じまた暇があればここに来よう」
「は、はい……」
 朱子はぽかんとして雨月を見上げる。手は直ぐに離れていったが、触れられた箇所がじんと熱を持つ。
 雨月は立ち上がり、直衣の襟を正す。
「──麒麟、早く変化(へんげ)を」
『御意』
 麒麟が雨月の身体に吸い込まれるようにして消えていく。次の瞬間には、ぼふんっと音を立てて雨月が小さな麒麟に変化(へんげ)した。雨月は小さな足を動かしてその場でくるりと回り、ぐるる……と微かな鳴き声を上げる。
 一度だけ、丸い琥珀の目を朱子に向けた後、しっぽを揺らして部屋から庭へと駆けていった。
 朱子は瞬きを繰り返しながら、雨月の去っていった方を見つめる。
「夢じゃないわよね……?」
 頬をくいっと抓ってみるが、じんわりと痛みが襲ってくる。これは現実だ。そう分かった途端に、全身に熱が集まり顔がぽっと赤く染まる。
(わたしったら、主上(おかみ)になんてことを……!)
 朱子は自分の仕出かしたことを思い返して、あわあわと身体を震わせる。正体を知らなかったとはいえ、雨月を腕に抱えたり、膝の上に置いて撫で回したり、恐ろしく無礼なことをしてしまった。それが申し訳ないやら、情けないやら、恥ずかしいやら。
 けれど、雨月に触れることができたのは、とても嬉しかった。一瞬手と手が触れるだけで、こんなにも胸がときめくのか。もしも、もしもだ。それ以上に近づくことができたならば、己はどうなってしまうのだろう……。
 色々な感情がいっぺんに襲ってきて、朱子は顔を青くしたり、赤くしたりと忙しない。
 やがて、感情が落ち着いた後、朱子は間近で見た雨月の姿を思い出し、ため息を吐き出す。
主上(おかみ)も妖守なのに、普通の瞳をしていらっしゃる。やっぱり、わたしだけなのね」
 雨月の瞳は薄い黒色をしていた。他の人間と同じ色だ。
 ということは、朱子の瞳の色が特殊なのは妖守であるからではない。妖守だから、あやかしが見えるからといって奇異な瞳の色をしているわけではないのである。
 ならばなぜ、己の瞳は紅いのだろう……。
 朱子が思考の渦に沈みそうになった瞬間、(ひさし)から足音が聞こえてきた。そして、桶を抱えて久木が部屋に駆けてくる。
「姫様申し訳ありません! 水場が混んでまして……ってあれ、子馬はどこに?」
「久木、ごめんなさい。さっきの子は逃げちゃったの」
「まあっ、そうなんですか。元気だったなら何よりですけど……」
 久木は台の上に水の入った桶を載せて、申し訳なさそうに告げる。
「姫様、申し訳ありません。水場で出会った弘徽殿の女房に雑用を押し付けられてしまいまして……文を届けろだなんて、高位の妃の女房ともなると自分で届けることもできないんでしょうかねえ。わざわざ私に頼むなんて嫌がらせですよ、まったく」
 と、久木は愚痴を零しながら、桜色の色紙を指で摘んでひらひらと揺らす。きっと恋文だろう。
「面倒ですが、届けてきますね。届けなかったらもっと面倒なことになりますし。ついでに中秋の宴に向けた調度品を内蔵寮(くらりょう)に頼みに行ってきます」
 久木はよく他の局から用を任される。それは、間接的に朱子への嫌がらせでもあるのだ。
 朱子は久木を見上げて謝る。
「久木、いつも悪いわね」
「そんな、姫様が謝ることは何もありません! 私自身、身体を動かすのは嫌いじゃないですし」
 久木は慌てて首を横に振る。そして、「行ってきます」と部屋を出ていった。
 彼女には本当に感謝しかない。昔から、疎まれ孤立する朱子の傍にずっと仕えてくれた。なんとかして、彼女にも良い思いをさせてあげたい。己の妃としての昇進こそがそれに繋がるのだと心の隅では分かっているのだ。
 そのこともあり、なんとかして雨月に近づきたい。恋心を成就させるためにも。現状を憂いてはいないが、満足しているわけでもない。己はか弱いだけの姫ではないのだ。
 ふと、朱雀がきゅうっと再び鳴き声を上げる。
 もしや、また雨月が来てくれたのかと朱子は一瞬期待したが、朱雀の視線は部屋の外ではなく内側に向いていた。
「あら」
 仄かに白檀が香る中、朱子は部屋の隅に茶色い毛並みの狸を見つけた。
(ふふ、可愛らしいあやかしね)
 これは常世の狸ではなく、化け狸である。妖守の目で見れば、あやかしは薄らと青い炎をその身に纏っている。だから、見分けることができるのだ。
 その丸い見た目に、朱子の胸が擽られる。朱子に見られていることを知らない狸は、短い手足を動かして部屋の中を駆け回る。どうやら、普通のあやかしには守護獣が見えないらしいのだ。
 あやかしは通常幽世に住んでいるが、時折常世に紛れ込んでくる。妖守の目に見えるのは、その侵入してきたあやかしたちだ。悪さをするためにやってきたあやかしもいれば、たまたま常世に迷い込んでしまったものもいる。
 狸は無邪気にはしゃいだ後、白檀を焚く香炉に近づいていく。そして、香炉を囲む網に手をかけ、ぽいっと外してしまった。
「まあ、なんてこと!」
 今度は香炉の蓋に手をかけて倒してしまおうとするので、朱子は慌てて狸を抱き上げた。
 ようやく朱子が妖守であると認識した狸は、ぴんと丸い耳を突っ張らせ、足をじたばたさせて、きゅうきゅうと鳴く。
「悪さをしてはだめよ」
 朱子は真面目な顔で狸を見つめ、説き伏せる。そして、狸の丸い頭にそっと手を添えて、念じる。
「あやかしよ。その気を鎮め、幽世に帰りなさい」
 朱子の手のひらがぽわっと淡く光り、狸を包み込む。きゅうきゅう鳴いていた狸は徐々に目をとろんとさせ、ついには眠ってしまった。
 狸の頭を撫でながら、朱子はもう一度囁く。
「さあ、お帰り」
 すると、狸の身体がしゅううと小さく縮まっていき、ひとひらの青い花弁に変わった。
 朱子は花弁を手に乗せてふっと息を吹きかける。花弁はひらひらと宙を舞いながら、やがて、その姿は儚く消えていった。
 これで、狸は幽世に帰っていったはずだ。弱いあやかしだったから言葉のみで癒すことができたのだ。
 妖守である朱子は、こうすればあやかしを幽世に返すことができる……というような方法を自然と理解していた。その方法はあやかしによって様々であり、あやかしと遭遇した都度、頭の中に浮かび上がるのだ。

 また、朱雀が寂しげにきゅうと鳴く。
「こちらにおいで」
 朱子はとんとんと膝を叩いて、朱雀に顎を乗せるよう促す。朱雀はこの体勢が好きらしい。朱子も朱雀を撫でていると自然と心が落ち着く。
(あやかしは、陰陽師の結界内には姿を現さないのが常なのに。幽世で異変が起きているのかしら)
 御所は、陰陽寮の陰陽師によって大きな結界に包まれている。その白い(とばり)のような結界は、妖守である朱子の目には見える。
『姫、あなたの想う通りです』
「え?」
 ふいに手元から声が聞こえ、朱子は瞠目して朱雀を見つめる。
(朱雀が話すなんていつぶりかしら! いったいどうしたの?)
 朱子は嬉しげに心の中で語りかける。朱雀の声は数ヶ月ぶりに聞いた。どういうわけか、ここ最近はずっと鳴き声しか上げなかったのだ。
 朱雀は長いしっぽを揺らして答える。
『麒麟に会いましたから、力が戻ってきたのです。最近の姫は妖守としての力の使い過ぎで、私も口をきけないほど弱まっていました』
(そうだったのね、ごめんなさい……)
 近頃、あやかしが御所に頻繁に集ってくる。淑景舎にもよく紛れ込んでいるので、朱子は先程の狸のようにあやかしたちを癒していた。
(ねえ、朱雀。わたしの言う通りってことは、やっぱり幽世で異変が起きてるってことなの?)
 朱雀は同意するかのように、しっぽを左右に揺らす。
『仰る通り。幽世に鬼が生まれました』
(鬼?)
『鬼とは、常世に災いをなすあやかしです。数百年前に祓って以来生まれていませんでしたが、麒麟を背負う天子が誕生したことにより、常世と幽世の共鳴が起きたでしょう』
 朱雀の言葉を受けて、朱子の胸に不安が募っていく。
(それって、主上(おかみ)が帝となったから鬼が生まれたってこと? 鬼が起こす災いとはどんなものなのかしら……)
『妖守は守護獣を失えば、その命も尽きます。鬼は麒麟を喰って天子を殺し、黄昏国を崩壊させるつもりです。実際に、数百年前には麒麟が無惨に喰われ、当代の帝は死にました』
(そんなっ……うそでしょう……?)
 鬼に雨月が殺される。とてつもなく恐ろしい話に、朱子の顔が真っ青になる。
 しかし、残酷にも朱雀は冷静に返事をする。
『残念ながら、有り得る話です。しかし、その未来を防ぐこともできます。麒麟を守れるのは、麒麟以外の五神(ごしん)の守護を持つ妖守のみ。姫、貴女には私が付いている。貴女が天子に近づく鬼を見抜き、守るのです』
 天子を守れ、というあまりに重い言葉に、朱子は戸惑う。
 たしか、昔読んだ書物には、妖守の中でも五神──青龍(せいりゅう)、朱雀、麒麟、白虎(びゃっこ)玄武(げんぶ)を守護獣に持つ者は、あやかしと繋がる力が非常に強いと書かれてあった。その中でも最も特別なのが麒麟だ。麒麟を背負う妖守は滅多に生まれず、生まれたならば必ずその国の天子となる運命にある。
 朱子は不安げに首を傾げ、朱雀に尋ねる。
(守れと言ったって、わたしの身体は小さくて武術など身につけてないわ。一体どうすれば……)
 朱雀はその丸い目を朱子に向けて、力強く語る。
『物理的な問題ではありません。先程のように、姫様にはあやかしを癒す力がおありでしょう。貴女はその力を特に強く持って生まれた。鬼は自身のみならず、その他の強力なあやかしを常世に送り込み、災いを及ぼそうとしてきます。貴女は癒しの力で天子に近づくあやかしたちを、そして鬼を鎮めるのです』
 朱子はあやかしの気を鎮め、幽世に返すことができる。生まれたときからそうだった。鬼さえも、この手で癒すことができたならば。
 朱子は胸に手を添えて、遠い清涼殿のある方を見つめる。そして、
(絶対に主上(おかみ)を死なせたりしない。わたしがあの御方をお守りしてみせるわ)
 と、固く決意した。