夏恋(かれん)で新しい自分が始まった。
 今、振り返ると、私はガラスの四角形に閉じ込められたみたいだった。
 ただ、意味を持たない言葉だけが、ガラス越しにいる私の目の前を通り過ぎていく。
 この世界はそういう虚しさしかないと思っていた。

 あのときの夏恋はそんな私のことを変えてくれた。

 






 休み時間は苦痛だ。私はスクールカーストの最下層にいる。
 だから、このクラスに友達はいない。
 この学校に入って、ようやく2年が過ぎた。つまり、私は高校3年生だし、あと3週間もすれば夏休みになる。

 スクールカーストの中でも私はまだ、マシな方だと思う。
 壮絶ないじめに遭っているわけではないし、必要最小限の会話は成立する。

 私は人の心が読めてしまうから、黙っているしかないんだ――。







 「マジで不気味」と吉沢玲香(よしざわれいか)が言っているのが聞こえた。
 私は顔を上げずに我慢して、開いている文庫に目を向け続ける。そのあと、数人の失笑が聞こえた。もちろんそれは吉沢玲香の取り巻きたちである、堀田綾(ほったあや)内村真理(うちむらまり)の声だ。コイツら三人はマジで性格が悪い。教室の真ん中の席は、私にとって、ものすごく、苦痛だ。だから、私は今日も読む気もない文庫本を開き、読書をしている振りをしている。

 吉沢玲香は顔が縦長で顎が出ている。その輪郭を隠すためか、ロングで拘束違反ギリギリの茶髪で毛先は内巻にパーマがかかっている。

 堀田綾は出っぱのデブで、量産型のショートボブでお笑い担当みたいなことをしている。前髪を自分で切るのが下手みたいで、たまに髪型がおかっぱみたいになっている。唯一内村真理だけ小柄で顔も整っていて、黒髪のストレートボブがすごく似合っていた。なぜ、内村真理がこんなブス二人とつるんでいるのか謎だった。







 先週の金曜日、席替えがあった。週が明けてから、この席で過ごすことになった。吉沢玲香と堀田綾、内村真理は教室の一番奥の隅を陣取っている。内村真理の席が一番端の席になったからだ。吉沢玲香と堀田綾は休み時間になると必ずその場所を陣取る。

 吉沢玲香はいつも窓に寄りかかり、腕組しながら教室を一望している。そして、一軍の男子がなにか面白そうなことを言っていると必ずその話を掴み、話題をもっていく。教室前側の入り口付近にたむろしている男子一軍と遠いのに話をするから、対角線上に騒ぐ声が教室を横断する。それがめちゃくちゃキモいし、うるさい。

 最悪なことに私の席は教室のほぼ中央の位置になってしまった。つまり、どの場所からも私が視界に入る場所だ。座っているだけで目立っているようなものだ。今日は金曜日。席替えからちょうど一週間が経ったけど、ストレスが溜まっていく一方で毎日、早く家に帰りたいと今までよりも強く思うようになった。

「ねえ、綾。肩トントンしてきてよ」
「え、どういう風に?」
「こうやって――。トントンって」
「え、それやばいヤツでしょ。私。めっちゃ不審者じゃん」堀田綾がそう言ったあと、また三人は超音波くらいけたたましく、下品な声で笑った。

 その直後、チャイムがなると同時に国語教師の塚原が入ってきた。私は面倒なことに巻き込まれないことが確定し、ほっとした。机にかけているリュックから現代文の教科書とノートを取り出した。

『えー、もう授業なの』
『マジだりぃ』
『次、塚原だからこのままギリまで喋ってようと』

 近くにいる、近藤、遠藤、斉藤の心の声が聞こえた。うるせえよ。こっちだってダルいし、今日も聞かなくていいことばかり聞いて疲れてるんだよと私は思った。そう思っても私の心の声は誰にも聞こえていない。塚原が教室に入ってきても、みんな急いで自分の席に戻る気配はない。それぞれの会話を終わらせてから自分の席に戻っている。
 
 「はい、戻ってー」と塚原は平坦な声で言った。
 腹が出ていてボタンがはち切れそうなYシャツに紺色のパンツを履いている。塚原はそんな体格でまだ20代後半だ。非常勤講師で、常に弱腰だから、みんなから舐められている。

「つかっちゃん、来るの早すぎー」と吉沢玲香のでかい声が後ろから聞こえてきた。
「座って。座って」と塚原が右手で座れのジェスチャーをしながらそう言った。
「座って。座って」と私の後ろから加納(かのう)の声が聞こえた。後ろを振り向くと、加納は立ち上がっていて、塚原と同じジェスチャーをしていた。そして、何人かの一軍男子が立ち上がり、加納と同じように「座って。座って」と言って同じジェスチャーをしてクラスは一気に爆笑した。







 私がこの世の中がバカげていることに気づいたのは小学5年生のときだった。
 それまでの私は普通に周りと話すことは簡単にできたし、クラスの中では浮くことはなかった。

 私が話せなくなったのは、ある日突然だった。
 前の日までそんな兆候はなかった。普通の女の子だった。普通に友達と話しているときに友達が言っていないことが聞こえた。

 私はショックだったし、信じられなかった。
 私のことを嫌いなのにこうして私の前では笑顔でいることが。

 そのあとから、自分が消えた気がした。その日をきっかけに、私はガラスの中に閉じ込められたような気がした。それは、一人ぼっちで、冷たく、そして、一方的に言葉で殴る世界が私にだけ、透けて見えている。
 ガラスの中でそんな、本音と建前の矛盾だらけの世界をただ、見ているだけでも、ものすごくストレスだった。
 そして、この世に善人なんて存在しないんだってことも、ものすごくショックだった。今まで美しく見えていた世界が、一気に色褪せた。そんななかで、あと何十年も生き続けなくちゃいけないことも、絶望的に思えた。

 心の声が聞こえるようになってから、5年以上経った私は、ようやく孤独にも慣れてきたような気がした。
 孤独でいることは、強さがいることをいろんな局面を通して、痛感した。
 
 だけど、日々の虚しさは、まだ拭うことができなくて、暇さえあれば、家の中で、ギターを弾くことにあて続けた。







 塚原が夏目漱石のこころを解説している。『精神的に向上心のないものはばかだ』の意味について解説している。めっちゃどうでもいい。私の席から見て左側、窓側の一番前の席に吉沢玲香が座っている。吉沢玲香は今回の席替えで無理やり堀田綾を自分の席の隣にした。
「私と堀田綾めっちゃ目が悪くなってきてるみたいだから、一番前の席がいいと思います。そういう配慮って大事じゃないですかー」と言う、めちゃくちゃな意見が採用されて、吉沢玲香と堀田綾はくじ引きより先に前側の好きな席を選ぶことになった。そして、吉沢玲香が左端の一番前の席、堀田綾が吉沢玲香の右隣の席になった。

 吉沢玲香は堀田綾の方を向いて、小さい声で何かを話して、笑っている。塚原の授業のときはいつもこんな感じだ。吉沢玲香と堀田綾以外も現代文を真面目に受けようとしているクラスメイトはいない。教科書を立てて、スマホを横持ちしてゲームをしていたり、動画を見ているヤツも少なくとも5~6人くらいいる。そして、もちろん寝ているヤツもいる。後ろから寝息が聞こえる。きっと加納の寝息だ。
 
  加納が私の後ろの席になったのは最悪だ。加納――。加納翔太(かのうしょうた)はクラスの一軍男子で、その中でも女子人気が高い。理由は簡単で顔が整っていて、少しチャラいからだ。髪はパーマがかかっていて、長めだ。筋の通った小ぶりな鼻と小さい顔、そして、二重でくっきりした両目。薄い口唇はなぜか男らしく見えた。








 だから、加納が私の後ろの席になったのは最悪だ。塚原の授業は退屈なまま終わり、今日、すべての授業が終わった。私の席の後ろは休み時間、常にうるさい。運動部の猿たちが加納に群がるようになった。早くホームルームが始まってほしい。夏休みまであと3週間――。その前に期末テストも控えている。私は単純に憂鬱だ。

 教室に担任が入ってきた。担任が入ってくるとみんな自然に座り始めた。そして、いつものように担任が淡々とした声色でHRを始めた。担任が三者面談の内容が書かれたプリントを配り始めた。私の前に座っているオタクで私と同じくカースト下位の石崎光(いしざきひかる)が私の方を振り向きプリントを無言で私に差し出した。私は左手でプリントを受け取り、自分の分を右手で取った。
 
 そして、私は後ろを振り向き、プリントを加納に差し出した。加納と目が合った。加納はニッコリとした表情をした。なぜ、私に微笑んでいるんだろう。柔らかい目つきが妙に気になる。そして、早くプリントを受け取ってほしいのに加納はなかなか受け取ってくれない。
 私は左手で軽く上下させて、加納に催促をかけた。
「わかってるよ」と加納は小声でそう言った。きっと私にしか聞こえていないくらい小さな声だ。加納はようやくプリントの束を受け取った。私はそれを確認して、前を向こうとしたとき、左手に何がを握らされた。
 
 え、と思い、もう一度加納を見ると、加納は私の左手を指さし、口パクで『みて』と言った。私は予想外すぎるこの加納の行為が理解不明だった。私は何も言わずに、何もなかったかのような装いを演じ、ねじっていた身体を元に戻した。
 
 左手に握ったままの紙はノートの切れ端だった。グレーの罫線が印字されていた。そして、それはハート型に織り込まれていた。ハートの真ん中には『ひらいて』と書いてあった。

 ――ふざけやがって。
 一体、何がしたいのかわからない。私はそっとハートを開いてみた。
 
 加納が後ろの席になったのは最悪だ。――それなのに。LINEのIDが書かれた紙を加納から渡された。そして、LINEのIDの下にはこう書いてあった。

 土曜日デートして。12時に駅前で。
 






 電車はいつものように大きな川にかかる橋を渡っている。河口側、海側の方から夕日が差し込み、車内はオレンジになっている。電信柱の隣を電車が通過するたび、電信柱の影が車内で伸び縮みをした。私は左側のドアに寄りかかり、スマホをいじっている。車内は座るところはほぼ、埋まっていて、数人が私と同じように立っていた。
 
 電車は嫌いだ。隣にいる人の心の声が聞こえてくるから辛い。特に座ると両隣の人の声と、目の前に立っている人の声、3人分の声が聴こえてくる。だから、私は電車の中で座席に座ることはない。電車に乗っていると、みんな何かに悩んでいて、電車に乗っている時間でスマホでSNSをみたり、動画をみたりしながら悩んでいることを考えているのがわかる。

 だから、電車に乗っているときはそんな心の声に圧倒されてスマホをいじっていても何も頭に入らない。今も、私の近くにいる2人くらいの心の声が聞こえる。
 
 ――そういえば。

 加納の心の声は授業中、聞いたことがなかった。まだ、席替えをしてすぐだから、偶然かもしれない。

 ――だけど。

 さっき、LINEのIDをもらったとき、わずかに加納の手に触れた。人に触れるとほぼ、確実に相手の心の声が聞こえる。加納のニヤッとした表情を思い出した。なんでやけにニヤッとしたんだろう。――変なの。私はLINEの画面を起動した。トーク一覧の画面には親の名前しかなかった。








 駅前に着いた。今日は梅雨が抜けたみたいに綺麗に晴れている。そして、ジリジリとした日差しが肌を焼いているように感じた。腕と顔にはしっかりと日焼け止めを塗った。
 私は別に加納のことなんか意識していない。なのにしっかり化粧をして、白いワンピースなんか着て、どうかしてると思う。

 加納の姿が見えた。遠くからでも加納のすらっとしていて、自然な筋肉質な身体つきが異質さを放っていた。
 そういえば、前の席のとき、私のすぐ隣の席で1.5軍の女子が3人で集まっていた。そのときに「加納って話さなきゃ残念じゃないのに」と話していたのを思い出した。

 そう、話さなきゃ加納は整っているから、きっとモテるはずだ。――なのに、なんで私なんかとデートするんだろう。――加納と目があった。

絵里衣(えりい)! よかったーーー」と加納は右手を挙げて大きめな声で言った。私は思わずその場に立ち止まった。

「絵里衣!」と加納は懲りた様子もなく、私の名前を呼んでいる。
「……ちょっと」
「え、どうしたん?」
「……なんで、下の名前で呼ぶの」
「絵里衣のそういう表情が見たかったからだよ」と加納はそう言って笑った。私は急に顔が熱くなるのを感じた。汗も妙に滲み始めている。

「顔赤いよ。絵里衣」
 加納はニヤッとした表情を浮かべた。

「……からかわないで」
 私はそう言ったあと、加納から視線を逸らすために首を下げた。
 
「――もしかして、ウザい?」
「――ううん。全然」
 私は首を上げ、もう一度、加納を見た。

「安心して、こう見えても俺、全然チャラくないから普段」と加納は言って微笑んだ。いつもよりもしっかりと整えられた加納の髪はウェーブでより強くなっている。

「絵里衣。来てくれてありがとう」 
「ううん……」
「よし、行こうか」
 加納はそう言ってまた微笑んだ。







 スタバに入ってフラペチーノを飲んでいる。店内は昼時で、ほとんどの席が埋まっていた。私と加納はたまたま空いたカウンター席に座ることができた。目の前にある窓の外には駅まで繋がる細い商店街の光景が広がっていた。

 ちらっと横目で私の右側に座っている加納を見ると加納は右手でカップを持ち、ストローを咥えフラペチーノを飲んでいた。

「絵里衣は飲まないの?」
「………飲むよ」
 思わず、そんな加納からの催促に反応してしまい、私は慌ててカップを持った。そして、ストローを咥えて、フラペチーノを一口飲んだ。

「絵里衣は素直だなぁ。嫌いじゃないよ。そういうところ」
「まだ、私のこと何もわかってないでしょ」と私が言うと、加納は穏やかに微笑んだ。

 普段、クラスの中では下品で大きな声をあげて笑うのに、カフェ仕様の穏やかで静かな笑い方ができるんだと思った。それにしても緊張する。別にデートだとか男の子と二人っきりだとかそういう理由じゃないと思う。誰かとこういうことをするのがすごく久しぶりなだけだからだと思う。
 
「俺って、普段はあんな感じじゃん。だけど、あれ、結構、無理してるんだよね。だから、たまに疲れるんだ」
 加納はゆっくりと自然に話し始めた。私は前を向いたまま、窓の外に広がる駅に向かう人の流れを見ていた。そんなことをいきなり、切り出すなんて、意外だった。私からしてみたら、加納は1軍のなかでも、充実していそうな印象だったからだ。
 なのに、加納はそれを手に入れるために無理しているんだ――。

「本当は絵里衣みたいに大人しくて、謎に満ちたタイプの人と一緒になりたいって思ってるんだよ」
 加納は続けてそう言った。力が抜けて弱くボソッとした声で。私は不思議な気持ちになった。いつもなら、そんなわけないだろと咄嗟に心の中で思うけど、なぜかそう思えなかった。

「だから、うちのクラスの一軍たちみたいにギャル系はあんまり得意じゃないんだよね」
「……へえ」と私はどう言葉を返せばいいのかわからなくなって、間抜けな声で相槌を打ってしまった。

「そういう淡白な反応がいいんだよ。最高だな。絵里衣」
 加納はそう言って笑った。淡白な反応ってところが少しだけ引っかかった。それが悪意を持って言ったのか、それとも、素で思ったことをそのまま言ったのかわからなかった。というか、こんなに人のことがわからないのが、あまりにも久々なことだから、私は余計に戸惑っているような気がした。

「……やっぱりよくわからない」
「だよね。いきなりこんな話されてもって、感じかもな。要は気持ちを抑えて、毎日、みんなにウケがいいように演じてることを、誰かに伝えたかっただけなのかもな」
 加納はカップを手に取り、フラペチーノを一口飲んだ。そして、再びカップをテーブルの上に置いた。

「だから、俺から見た絵里衣は、自分を貫いているように見えて、すごいなって思ってるんだ」
 確かに、自分を貫いているよ。世の中の心の声にうんざりしたら、こうするしかないと思うから。
 どんな人だって。もし、心が読める科があったら、すぐに駆け込んで、心を読むのを抑える薬を処方してもらいたいくらいだから。
 だけど、そんなことは誰にも言えないことはわかっている。5年生の頃、すぐに親に相談したら、笑われて、誤魔化されたんだから。
 だから、私の一貫性は、せざるを得ない一貫性なんだよ。
 本当はこんな自分なんて、貫き通したくないよ。私だって――。

 一方の加納はさ、ちゃんと一貫性保ってるじゃん。今、私にカミングアウトしている以外は。
 だったら、私の前でも、その一貫性保ってよ。君は自分の意図で、一貫性を持つことが嫌だって思っているんでしょ?
 それを演じるのが疲れるって。
 贅沢な悩みだよね。だったら――。

 そんなことを思いながら、私はすっと息を吐いた。

「……ねえ」
「何? 絵里衣」
「演じなくていいよ」
「えっ」
「話聞いてて、ありのままでいてほしいって思ったの。――ただ、それだけ」
「――ありがとう。今日、初めて目が合ったな」
 加納はそう言って笑った。私は急に恥ずかしくなり、また前を向いた。

「顔、赤くなってるよ。かわいいね。絵里衣」
 加納はそう言ったあと、また微笑んだ。その微笑みになぜか優しさを感じ、私はちょっとだけ嫌味を込めてそう言ったことを後悔した。



   



午後の公園はまだ遊ぶ空気に満ちていた。トイプードルが舌を出しながらマダムと散歩していたり、親子連れが噴水で水遊びをしていたり、芝生の上でキャッチボールをしている同年代がいたり、思い思いに休日を楽しんでいるように見えた。

 私と加納はスタバを出て、駅近くの公園を散歩することにした。公園に入ってすぐの木陰になっているベンチに座っている。今日の天気予報通り、30℃はいっていない気温に感じた。たまに吹く風が少し冷たくて心地よく感じる。

「さっきの話の続き、してもいい?」
 加納は私に聞いてきた。その話の始め方ってさ、YESしか返答しようないじゃんと私は思った。

「――いいよ。どの話?」
「 絵里衣が大人っぽいって話」
 加納がそう言って笑ったから、私は少し嫌な気持ちになった。

「絵里衣が大人っぽい理由って、同じ年代の子たちよりも成熟しているからだと思うんだよね。だから、人とあまり話すこともしないし、人間関係を作ろうとしない。――だって、人と関わることは自分が傷つくことであることがわかっているから、自分を守るために極力、人間関係を築かない」
 加納は私の右手の平に被せるように左手を置いた。そして、私の手を繋いだ。
 私はドキッとした。――加納が言っていることで、ドキッとしたのか、手を繋がれたことでドキッとしたのか、わからなくなった。なぜか、不思議と引き込まれていかれるようなそんな、フワフワした感覚が急に身体を支配した。

「殻に閉じこもってるね。それ」
「うん。そう見えるんだよ。絵里衣は。――だから、俺と近いものを感じたんだ。殻に閉じこもった絵里衣を守りたくなったし、二人でなら、そんな臆病なことも乗り切れるんじゃないかって思ったんだ」
「へえ。――だけど、私から見たら、加納は真逆に見えるよ。一人で上手くやってるんだから、わざわざ、私のこと庇う必要なんてないんじゃないの?」
 私がそう言い終わると、加納はうーんと言って、渋い表情をした。何かを伝えようと言葉を考えているように見えた。
 
「なあ。絵里衣」
「……なに?」
「俺、好きになったんだよ。絵里衣のこと」
 私はどうすればいいのかわからなくなった。心臓が破裂しそうなくらい心拍数が上がっている。だけど、この心拍数の上がりが、ただ単に、人生で初めて男子から告白された所為なのか、それとも、初めて心が読めない人と話しているから、そのことによって、動揺しての心拍数の上がりなのかが、わからない。

 これが、恋なのかどうかすら、私にはわからない。
 私は一体、気持ちがわからない君とどうやって付き合えばいいんだろう――。

 「――絵里衣?」
 加納はまた小さな声でそう言った。加納は不安そうな顔をしていた。
 そう、その表情はあたっているよ。
 だって、私はまだ――。

「ごめん。心の準備、できてないよ。――それに、なんで私なの?」
「そんな悲しいこと言うなよ。絵里衣に惹かれた。ただ、それだけだよ」
 そう言われても、私は、まだ大した話していない加納に惹かれていない。いつかTikTokで流れてきた、付き合ってから好きになる恋愛もあるらしいけど、この恋を仮に始めたとして、私は、ちょっと弱みを見せた加納のことを好きになれるのか、なんてわからない。
 なんで、よりによって、私なんだろう……。

「なんで……。加納みたいに性格いいし、明るいし、顔だっていいから他の人からモテまくってるでしょ。こんな陰キャで学校で一言もしゃべらないし、誰も友達がいない私にどうして……」
 そのあとすぐ、私は加納に抱きしめられた。私の胸から感じる加納の胸は筋肉質で硬く、背中は加納の両腕の熱を感じる。何秒間か止まったみたいに思えた。加納は更に両腕に力を入れ、私の身体は強力に加納の身体に吸い寄せられた。私の頬は加納の首にぴったりとくっついた。

「――ねえ。痛い」
「――悪い」
 加納はぼそっとした声で言って、加納の両腕が私から離れた。背中にはまだヒリヒリと熱が残っていた。
 






 いつものように学校へ向かう。
 電車の中はいつものように混んでいて、もう、一層のことカフェに入ってアイスコーヒーを飲みながら何も考えないで過ごしたいと思うくらい憂鬱だった。
 別に土曜日のことを気にしているわけじゃない。だけど、私はなぜ、こんなにも加納のことが気になるのかわからなかった。他の人は簡単に相手の気持ちがわかってしまうから、こんな気持ちになったことなんてないのに。

 電車はいつものように大きな川の橋を渡る。
 大都会へと進む月曜日の電車の中はどんよりとしていて、乗っているだけで気分が悪い。

 聞きたくもない隣の人の心の声が時折、聞こえる。
 隣にいる別の学校の制服を着た女子高生は『告白に失敗したらどうしよう』と不安に押しつぶされているようだ。
 告白ってそんなにストレスかかるのかな。正直、そんなこと、どうでもいい。

 ようやく電車が駅に着いた。
 私は人をかき分け、ホームに降りた。ホームには私と同じ制服を着た人が何十人も居て、すでに何人かの心の声が聞こえた。それを聞くだけで嫌気がさした。




 



 教室に入ると一気に視線を感じた。今日はいつも以上だ。そのあとすぐ、心の声が聞こえた。

『付き合ってるらしいよ』
『あ、来た来た。どうなるかな』
 私は数歩で教壇の前までたどり着き、左に曲がり中央にある私の席まで歩く。私はできるだけ下を向き、歩き続けた。

『加納獲ったら、それはそうなるよね』
『あー、玲香、めっちゃこわっ。女の恨み半端ねぇ』
 私はその心の声を聞いていると、ふと冷たくて鋭い視線を感じた。顔を上げ、右奥側を見ると吉沢玲香が腕組をして鋭い目でこちらを見ていた。窓に寄りかかっている吉沢玲香はいつもふてぶてしく下品に見えるけど、今日は特段、下品でイライラしているように見える。

 吉沢玲香の隣で同じように窓に寄りかかっている堀田綾と吉沢玲香の前にある自分の席に座っている内村真理は笑みを浮かべて私のことを見ていた。

 私の後ろの席はまだ空いていて、加納はまだ教室にいなかった。
 そして、私の机の異変に気づくのは簡単なことだった。私の机に大きな落書きができていた。遠くで見ると黒い球体に見えた落書きはハートだった。私は席に着いた。
 大きなハートの真ん中には消しゴムで消して作った線で『公然わいせつ』と書かれていた。

 クラスのみんなが私の反応を見ている視線を感じた。別にショックとかそういうのはない。
 ただ、バレちゃいけないことが簡単にバレてしまったような、そんな罪悪感がモヤモヤと胸の中に広がっていくを感じる。

「絵里衣ちゃん。おはよう。風紀を乱したデートは楽しかったですかー?」と吉沢玲香の腐った声が聞こえた。私は何事もなかったかのように振る舞うことにした。だから、吉沢玲香を無視することにした。リュックサックのチャックを開け、教科書を取り出した。
 
 こんなことになったら、加納が大変なことになる。
 ――というか、もうなっているのかもしれない。

「シカトかよ」と吉沢玲香の声が聞こえた。
「ウケる。シカトしてもいいことないよ」
 続けて堀田綾の声がした。だけど、私はそれに反応することなく、黙り続けた。

「土曜日、めっちゃイチャついてたね。見ててキモいくらい」
「キモかったよね。綾、ウケるんだけど。真理も何か言ってあげなよ」と吉沢玲香はイライラした声でそう言った。
「別にいいよ。私は」
「えー、つまんな」と内村真理に対して、堀田綾は単調な声でそう返した。
「それより、つまんねーのはあいつの反応だよ」
 吉沢玲香が言ったあと、誰かが歩き始めた音がした。私は視線を向けず、その足音だけに注意を払う。
 それにしてもわざとらしく、無駄に足音がうるさい。なんて下品で育ちの悪い足音なんだろう。
 てか、帰りたい。もう、帰ってもいいかな。

 私はそんなことを考えながら、息を吸って、小さく一気に吐き出した。

 足音が近づき、そして止まった。目の前に吉沢玲香が立っている。吉沢玲香と目が合う。吉沢玲香は睨みつけてきた。
『ふざけるな。ブス。ふざけるな』
 吉沢玲香の心の声が聞こえた。ブスなのはお前だろ。ブス。
 
「ねえ、絵里衣ちゃん。自分がかわいいとでも思ってる?」と吉沢玲香は言った。私は無視し続けることにした。膝に載せた右手の拳をぎゅっと強く握った。早く時間が流れるといい。さっさと終わればいい。

『なんであんたみたいなヤツが付き合ってるんだよ。ふざけるな』
 バンッと乾いた音がした。吉沢玲香が思いっきり机の上を叩いた。
「調子のってるんじゃねーぞ。このブス」と吉沢玲香がそう言ったあと一瞬、教室の中が静かになった。そのあと、すぐにまたザワザワと至るところで話す声が聞こえ始めた。
 吉沢玲香は笑みを浮かべたあと、ふっと鼻で笑った。そして私の前から立ち去った。




  



 加納は学校に来なかった。だから、今日起きたことは知らないはずだ。朝の出来事以外、ごく普通の一日だった。いつも通り、電車で帰っている。電車はいつもの大きな橋を轟音を立てて通過している。ドアに寄りかかった身体に振動が伝わる。
 
 お気に入りの白いコンバースが無くなったわけでもなく、教科書がビリビリに破られることもなく、LINEグループでハブられることもなく、1日が終わった。そもそもクラスのLINEグループすら知らないから、もしかしたら、めちゃくちゃに悪口を言われているかもしれない。
 買ったばかりの消しゴムが半分くらいになってしまった。どれだけのシャープペンの芯を消費したら、あれだけのハートを書くことができるのだろう――。

 そして、いつ、私が加納と一緒にいるところを目撃されたんだろう。あまりにも、出来すぎているように思えた。
 ――もしかしたら、加納が面白半分で私のことをハメたのかもしれない。
 ――いや、考えすぎか。加納の心の声が聞こえたら、それもわかったのに。

 明日からはどうなるかわからない。吉沢玲香の朝の顔を思い出した。気持ち悪い笑みをこぼしていた。小根が腐っていて、自己中心的な性格がそのまま表情に表れているような笑い方だった。
 ――あいつ、加納のことが好きだったんだ。








 改札を抜けると加納がいた。加納は手をあげて、こちらへ近づいてきた。加納は白のTシャツにベージュの7分丈のチノパンを履いていた。そして、黒のクロックスを履いていた。明らかに学校に行く気がない格好だ。

「絵里衣。行こう」
 加納は真顔でそう言って、私の右手を繋いだ。

 手を繋いだまま、駅の通路を通り、南口を出た。外に出ると潮の香りが立ち込めていた。手を握っても加納の気持ちはわからなかった。それが新鮮な感覚で手を繋ぐ行為よりもそっちの方に驚いた。家族以外の男の人に手を引かれるのは生まれて初めてなのに、私はそっちのドキドキを感じられなかった。

 お互いに無言のまま、砂浜に着いた。砂浜ではビーチバレーをしている人や、散歩をしている人、海に入ったサーファーがいい波が来るのをじっと待っている人、様々な人が様々なやり方で自分の世界に入っていた。私は加納に手を引かれたまま、コンクリートでできた階段まで連れて行かれた。そして、加納は階段までくると、当たり前のように階段に座った。

 私も加納の左側に座り、海を眺めることにした。波は穏やかで、沖に出ているサーファーは退屈そうに波に揺られているのが見えた。

「ねえ。これからどうしよっか」
 そう聞いてみたけど、加納はしばらく何も答えなかった。波の音とカモメが鳴く声が、まるで私の質問がなかったかのように辺りの音を支配していた。

「なあ。絵里衣。こんなことになって悪かった」
 加納はようやく答えた。

「今日の出来事、知ってたの?」
「真理から聞いた。LINEで」
「へぇ」
 自分でも驚くくらい抑揚のない声でそう返した。
 ――別に興味ないわけじゃないのに、なんでこんなにそっけなくなるんだろう。

「私のことハメたんでしょ。最低だね」と私が言ったあと、カモメの間抜けな鳴き声が響いた。
「ハメた? どういうこと?」
「うん。私と居るところ、なんであいつらが知ってたの? 意味わかんないんだけど」
 辺りに私の声が響いた。自分でも思った以上に声が大きくなってびっくりした。

「――悪かった。ごめん」
「最低だね」
「違う。そういう意味で謝ったんじゃない」
「それ以外、何があるの?」
「絵里衣を守れなくて悪かったって意味。――俺もこんなことになるなんて思わなかったよ」
 
 加納の方を見ると、加納は両手を後ろにつき、前を向いたままだった。

「真理が教えてくれたんだよ。綾が俺と絵里衣が抱き合っているのを見たって、玲香にバラしたって」
「――へえ」
「それで、今日、学校に来ない方がいいって真理から言われたんだ。だから、俺は忠告通り、学校を休んだ。それだけだよ」
「最低だね。――嫌いになりそう」と私は言ったあとに少し後悔した。

「そうはっきり言われても仕方ないか」
「バカみたい。結局、自分の立ち位置しか、考えなかったってことでしょ。それって」
「ごめん」
「もういいよ。……帰るね」と私は言って立ち上がった。

「なあ、絵里衣。こんな気持ち初めてだよ。人って、わかり合えないから付き合えるんだろうな。何考えてるのかわからないと予想つかない。――俺は予想された世界の中でしか、生きていけないのかもしれないってふと思ったんだ」
「――何それ」
 私がそう返すと、加納は立ち上がり、私を見た。真っ直ぐな目をしていて、加納の視線に吸い込まれそうになった。

「つまり、今日のことは予想外だったってこと。ごめん」
「へぇ。最低」
 私は目一杯の低い声でそう言って歩き始めた。すごく、どうでもいい気分になった。








 教室に入るとまた、静かになった。奥の席で吉沢玲香がニヤニヤしているのが見えた。絶対、何かやろうとしているのがわかった。内村真理はスマホをこちらに向けている。きっと、私のこと撮影してるのだろう。
『玲香、えげつないな』
『もう、可哀想だけど、仕方ないか』
『ざまぁ』
 ざまぁ? 私はざまぁと心の中で言っていた谷口沙織(たにぐちさおり)を睨んだ。すると谷口は一瞬、驚いたような顔をしたあと、私から視線をそらした。

 自分の席の方を見ると、まだ加納は来ていなかった。またか。と思った。
 自分の席に着いたけど、昨日みたいに、机の上には落書きはなく、異常なことはなかった。
 だけど、吉沢玲香と堀田綾の視線は感じる。内村真理は私を追うようにスマホを私に向けている。だけど、それ以外の人はいつも通り、各々グループを作って話をしていた。リュックを机の上に置き、椅子を引き、座った。リュックから教科書類を取り出し、机の中に入れようとした時、目の前に吉沢玲香が立っていた。

「別れろよ。ブス」
 吉沢玲香は冷たい声でそう言った。まだ言ってるのかよ。と思いながら、私はその言いがかりを無視して、机の中に教科書とノートを入れた。机の中に入れた時、何かが入っている感触がした。紙の角のように硬いものが右手の人差し指に当たっている。それを取り出すと、写真だった。私と加納が抱き合っている写真だ。

「どう? いい写りでしょ。綾が撮ったの。証拠写真。ブスの公然わいせつ」と吉沢玲香は嬉しそうな表情でそう言った。写真の裏をひっくり返すと、ピンク色の蛍光ペンで別れろブスって書いてあった。私の名前はブスになったらしい。

「なんか言ったら、気持ち悪い」と吉沢玲香が言った。堀田綾が吉沢玲香の隣に立ってニヤニヤしている。
「どう? しっかり公然わいせつでしょ」と堀田綾が嬉しそうな表情でこっちを見ている。
「ねえ、綾。こいつ何も言わなくてキモいんだけど」
「黙ってたら、やり過ごせると思ってるんじゃない? まー、そうさせないけどね」
 堀田綾が言うと、私は後ろから思いっきり髪を引っ張られる痛みがした直後に上を向いていた。

「これでも黙ってるんだ。きっしょ」
 堀田綾は私の髪を掴んだまま、嬉しそうな表情をしている。
「綾、マジ、ウケるんだけど。こいつの顔、歪んでて余計ブスに見えるよ」
 吉沢玲香が言ったあと、持っていたスマホを私に向けて写真を撮っていた。何枚もシャッターを切った音がした。

「……痛い」
「ようやっとしゃべった。痛いだって」
 堀田綾はそう言ったあと、私の髪をより強く引っ張った。思わず表情筋が動いたのが自分でもわかった。

「ウケる。どんどんブス顔になっていってる。可哀想な淫乱絵里衣ちゃん」
 吉沢玲香は下品な笑い声を上げた。
「綾。ヤバいって。いいかげん離してあげたらー」
 内村真理の声が左後ろから聞こえた。こういう状況になったら、内村真理は止めに入ってくれるんだって思ったけど、結局、今までの経緯を考えたら、内村真理も同罪だよねって、やられっぱなしの所為か、痛みを感じながら、冷静に私はそんなことを考えていた。

「ヤバくないよ。こいつ、マジキチだから、大丈夫でしょ」
「離せよ」
 後ろから低い声が聞こえた。

「綾。最低。私、知ーらない」
「え、待って。玲香」
「は? 玲香関係あるのか? 髪引っ張ってるのお前だろ」
 低い声が聞こえたあと、ようやく髪が引っ張られる感触が消えた。左側を見ると加納が堀田綾の右腕を掴んだまま立っていた。

「私は、綾、そこまでやらなくてもいいんじゃないって言ってたんだけど」
「え、玲香、言ってないじゃん」
「ごちゃごちゃ、どうでもいいんだけど。綾、お前、絵里衣に手出すんじゃねぇよ!」
 加納は低い声で怒鳴った。その声は教室中を反響し、この教室どころか、両隣の教室と、廊下が一気に静まり返った空気が流れている。綾を見るともう泣き出しそうな顔をしている。
 加納は堀田綾の手を離したあと、私の左肩をポンと叩いた。
「いくぞ」
 加納が小さい声でそう言った。私は教科書とノート、そして写真をリュックの中に慌てて入れてチャックを閉めた。そして、立ち上がると、加納は私の右手を繋いで、後ろの扉をの方へ歩き始めた。ようやく、教室はざわざわとし始めた。後ろで堀田綾が泣いている声がする。

「怖かった」とか言っている。
 ――勝手にほざいてろ。








 海は穏やかだ。太陽で煌めく海は揺れていて、潮の香りがこのまま時間が止まってしまうんじゃないかと思うくらい、のどかに感じた。私は加納とコンクリートの階段に座り、2人で海を眺めている。

「教室抜け出してこんなところにいるの最高だな」
「ヒーローぶってるつもり?」
「ぶってる訳じゃない。ヒーローになろうと思ったんだよ」
 そう言ったあと、加納は持っている缶コーラを開けた。

「乾杯しようぜ」と言って、加納が缶コーラを差し出してきた。
 私も缶コーラを開けた。すると加納は持っている缶を私の缶に当てた。そのあと加納は満足そうな表情をして、コーラを飲み始めた。私も一口、コーラを口に含んだ。口の中で炭酸が弾けたあと、甘いフレーバーがした。

 加納はリュックからスマホを取り出した。
「おっと、みんなからの心配通知が鳴り止まない。やっぱり俺、愛されてるぅー」
 まるで昨日のやり取りがなかったかのような明るいトーンの声で加納はそう言った。さっきは助けてくれたけど、基本、俯瞰している側に回っているような感じで嫌になった。
 相変わらず、加納の心の声は聞こえないから、もしかすると加納はただ、ヘラヘラして、私のことを遊んでいる、ロボットなんじゃないかって、一瞬、ひどいことも考えちゃうくらい、他人事みたいに今の問題を扱っているのが、嫌になった。
 だけど、なぜかわからないけど、そんなヘラヘラしている加納のことを完全に憎むこともできない。
 
「――私なんかと付き合うの辞めなよ。ろくなことないよ」
「なあ、もっと素直になれよ。絵里衣。俺と絵里衣は付き合いました。めでたしめでたしでいいじゃん。周りなんてどうでもいいだろ」
「ねえ、さっきから付き合った前提になってるけど、まだオッケーしてないんだけど。私」
「あれ、そうだっけ。てっきり俺たち付き合ってるのかと思ってた」
「最悪」
 そう返すと、加納はヘラヘラと笑った。どうして、こんなに加納はヘラヘラしているんだろう。ふと、そんなことを考えた。きっと、私と違って、加納には、自分を囲う四角いガラスが存在しないんだと思う。だから、言葉をダイレクトに受ける耐性があるのかもしれない。ほとんどの人たちは、四方にガラスはなくて、ガラスがあったとしても、一面なんだと思う。
 私の場合は、四方をガラスで覆われ、遮断されている。そう考えると、加納はそういうガラスがないから、人のことを信じられるのかな。
 だから、私は加納に聞いてみることにした。


「ねえ、人って信じられる?」
「うーん。イーブンかな」
 加納は言ったあとコーラをまた一口、口に含んだ。

「イーブン?」
「そう。五分五分でしょ。心の底からは信じられる人は少ないような気がするな。だけど、内側と外側なんて違うのは、誰でもそうだと思うから、俺はどう思われてもいいやって、開きなおってるのかもしれない。そして、自分だけを信じている」
「そうなんだ」
 私と正反対だね。とは、なぜか続けて言うことができなかった。というより、自分のなかで、そう言うことは、とっさにひどいことだと思ったから、口には出さなかった。
 加納を見ると、加納は微笑んで、コーラをまた飲んだ。

「だから、俺はそういう意味で考えると、心の底から人のことは信じられないかな。絵里衣、以外は」
「なんで、私だけ――」
「だって、絵里衣は人間不信でしょ。そういうところが人と違うから、俺からみたら、好感持てるんだよ」
「――変なの。加納が思っているよりも酷いと思うよ。私の人間不信」
「そしたら、お互い様だな」
「いや、意味わからないし。だってイーブンなんでしょ」
「そうだけどさ、基本的には信じてないっていうか、信じられないよ。人のことなんて。ほとんどのやつは言ってることと心のなかで思っていること違うしさ。――そして、こういうことも起きるし、完全に疑わないのはちょっと違うかなって思う」
「――へえ」と私は言ったあと、コーラを一口飲んだ。

「なんだよ、気の抜けた返事だな。自分から聞いておいてさ」と言った加納を見ると少しいじけた表情をしていた。加納のパーマがかかった前髪が風で弱く揺れていた。

「だって、加納は学校で楽しくやってそうじゃん。なのに、人のこと信じてないんだって思って」
「だから、デートのとき、言っただろ? チャラいのは嫌いだって」
「自分だってチャラい癖に」
 私はそう言ったあと、少しおかしくなって弱く笑った。

「あ、今、笑った。笑うともっとかわいいよ。絵里衣」と加納は言ったあとニコッとした表情をした。
「は? 口説かないでよ」
 私はそう言いながら、そっぽを向いた。
 
「また顔、赤くなってー。かわいいな。絵里衣は」
「うるさいな。口説くなよ」
 私がそう言うと加納は大きな声で笑った。

「ねぇ。どうして、私なんか救ってくれたの?」
「バカ。当たり前だろ。――好きだからだよ」
「どうして、私のこと、こんなに」
「気持ちが読めないからドキッとしたんだよ。ドキッとして好きになっちゃんだから、仕方ないじゃん。こんなの初めてだよ」」
 加納はボソッとした声でそう言った。
 私はその後の言葉が見つからず、そのまま黙った。波が静かに満ち引きしている音がした。

 






 吉沢玲香はあの一件以来、堀田綾のことを冷たく扱うようになった。吉沢玲香はあのことを全て堀田綾の所為にした。次の日、堀田綾は吉沢玲香に泣いて謝っていたけど、吉沢玲香はそれを無視していた。堀田綾は必死に自分の居場所を確保しようと、元々仲が良かった一軍グループに入ろうとしたけど、ことごとく無視され、1.5軍にも無視され、最終的に誰とも話さなくなり、スクールカースト下位になった。

 吉沢玲香は一軍グループを吸収合併し、クラスのグループ構成を大きく変えた。みんなはきっと吉沢玲香が怖くて仕方がないのだろう。内村真理はそのまま、吉沢玲香とくっついてのらりくらり上手くやっているように見えた。堀田綾は加納に怒鳴られたこと、腕を掴まれたことを先生にチクり、加納は呼び出しをくらった。

 加納は堀田綾との関係は冷え切ったけど、それ以外とはいつも通りだった。

 そうして、あと二週間で夏休みを迎えようとしていた。








 加納が停学になった。今日、いきなり学校に来なかった。朝の出欠確認の時、一軍男子が加納は? と聞いたら、担任は「今日から停学」と言った。それで、クラスがざわついた。加納が停学っておかしいだろ。って一人の男子が担任の胸ぐらを掴んで、騒ぎになった。堀田綾の方を見ると、堀田綾は頬杖をついたまま黒板を見ているようだった。加納は一人だけ早い夏休みに入ったんだと私は思った。

 そして、なぜか今週から急に堀田綾が吉沢玲香のグループに戻っていた。バカは仲直りも早いのかと思った。休み時間に入るとこのバカたちはまるで自分たちは被害者であるような振る舞いをしていて、気持ち悪かった。何人かの男子が加納のことを言っても「怒鳴られたの私たちなんだけど」と言って取り合う気配はなかった。クラスは完全に分断され始めていた。








 加納が来ないまま、今日の授業が終わった。一軍男子たちの加納の噂話が聞こえた。加納は堀田綾のことを殴ったことになって、停学になったらしい。加納は堀田綾の腕を掴んだだけなのに、堀田綾が誇張して、先生にチクったらしい。それで、加納も反論しないで、そのまま、停学になったらしい。

 帰りのHRも終わり、リュックに教科書をつめていると、後ろから肩を叩かれた。
『お願いだから乗って』と肩を叩かれたのと合わせて、誰かの心の声が聞こえた。振り返ると内村真理が立っていた。

 内村真理は無言で私にメモを手渡してきた。私は素直にメモを受け取った。すると、すぐに内村真理は私の前から立ち去って、左前方にいる吉沢玲香と堀田綾の方へ歩いていった。








 メモに書いてあった通り、学校の近くのカフェの前に来た。木で出来た重い扉を開けて、中に入ると入り口からすぐの壁側にあるカウンター席に内村真理が座っていた。私はカウンターでオレンジジュースを頼み、カウンターでもらったあと、内村真理の隣に座った。

「座る時も無言かよ」
 内村真理はあからさまにイラッとした声でそう言った。
「ごめん、元々こういう性格だから許して」
「いいけど、ビックリさせないでよ。マジで」と内村真理はそう言って、椅子を座り直した。私は喉が乾いていたから、オレンジジュースを一口飲んだ。

「それで話ってなに?」
「本当はあんたなんかと居るところ見られたら私、ぶっ殺されるくらいのリスク犯しているんだからね」
「そんなのそっちの勝手じゃん」
 私がそう言い返すと内村真理はそのあと何も言わなかった。

『私だって、好きでこんなことやってないのに』
 内村真理の心の声が微かに聞こえた。はい、そうですか。全部被害者意識ってことね。と私は思った。

 内村真理を横目で見ると、いつもの整ったストレートボブから左耳が透けて見えている。内村真理の小ぶりな顔立ちは憧れる。普段、学校用の薄化粧でも可愛くみえるから、吉沢玲香と堀田綾と一緒にいるとたまに内村真理は浮いているように見える。それくらい、顔が整っているのに、なんであいつらとつるんでいるのか不思議に思える。

「加納、いいヤツだから助けたいの」
「私に関係ある? 」
「関係大有りでしょ? だって付き合ってるんでしょ? 彼女なら当然、助けたいって思うでしょ?」
「まだ、付き合ってないし。私。あんた達が勝手に決めつけてるだけだよ。それ」
「え。だって、抱き合ってたじゃん。それ以外どんな関係があるの?」
「……友達以上、恋人未満」

『何それ。付き合ってるんじゃん』
 また内村真理の心の声が聞こえてきた。いや、付き合ってないんだって。と私は心の中で言い返したけど、内村真理にはきっと伝わっていない。

「だったら、助けようよ。加納のこと」
「そもそもさ、あんた達が私に目付たからこうなったんだよ? 自覚ある?」と私は呆れてそう言った。意味がわからない。加害者側がトラブルを勝手に起こして、勝手に被害届を出しているようなそんな感じじゃんと思った。

「あんた、わかってないと思うけど、私はあんたのこと最初から手出してないから」
「そしたら、なんで、私と加納が堀田綾に撮られたこと、加納に言ったの? 私のことからかいたかっただけ? 加納と組んで」
「は? なんで私がそんなことしなくちゃいけないわけ? 意味わかんないんだけど」と内村真理はそう言って私のことを鋭く睨んできた。その睨む顔すら可愛げがあるように見えるから、不思議に感じた。内村真理はため息をついたあと、アイスのカフェラテをストローで吸った。

「そしたら、本当に善意だったんだ」
「うん。実際、あの日、加納が学校に来たら、どうなってたか、わからなかったでしょ。加納に私と吉沢玲香と堀田綾のグループラインのスクショ送って、私が学校に来ないようにって忠告したの」
「加納は守って、私はタコ殴りにしたんだ」

「当たり前でしょ。加納とあんたとじゃ、立場が違うから。それに仲間を助けるのは当たり前でしょ。――なんで、加納があんたなんかに手出したのかは謎だけど、加納は私の仲間だから、ピンチの時は助けるよ。そりゃあ」
「意外とそういう熱いところあるんだ」
「あんたが冷めてるだけだよ」
「ねえ。さっきから、あんたって言うけど、やめてよ。その言い方。あんたって言うくらいなら、絵里衣って呼んでよ。腹立つから」
「――いいよ。そう言うことははっきりと言うんだ。意外。――私たち、もしかしたら気が合うのかもね」と内村真理はそう言ったあと、カフェラテを一口飲んだ。

「ねえ、加納が絵里衣のこと好きになる理由、なんとなくわかるよ。私」
「どういうこと?」
「地味なふりしてるけどさ、絵里衣ってかわいいもん。顔も整ってるしさ。なのに誰とも関わらないし、無口だから、周りから見ててすごい腹が立つんだよ。――そこが加納から見たら、魅力的なのかもね」
 内村真理はそう言ったあと、リュックからスマホを取り出した。スマホケースは派手にデコられていて、趣味が合わないと思った。

「私、この動画撮ってたでしょ」
 内村真理はスマホの画面を私に見せ、そう言った。








 再生されている動画には私が堀田綾に髪を引っ張られているのが写っていた。鮮明に映る吉沢玲香と堀田綾の顔はとても楽しそうな表情をしていて、動画の中でも気持ち悪さが滲み出ていた。そのあと、加納が後ろのドアを開けて、教室に入ってきた。堀田綾と吉沢玲香はまだ、そのことに気づいていない様子だった。
 
『ようやっとしゃべった。痛いだって』と堀田綾の声がする。
『――ウケる。どんどんブス顔になっていってる。可哀想な淫乱絵里衣ちゃん』と吉沢玲香が言ったあと大きく笑っていた。笑い声が下品に響いている。動画は加納が歩く姿と、私が堀田綾に髪を引っ張られている姿が交互に映し出されていた。
『綾。ヤバいって。いいかげん離してあげたらー』と内村真理の声が大きく入っている。
『ヤバくないよ。こいつ、マジキチだから、大丈夫でしょ』と堀田綾声がしたあと、
『離せよ』と加納が言って、堀田綾の腕を掴んだ。

『ごちゃごちゃ、どうでもいいんだけど。綾、お前、絵里衣に手出すんじゃねぇよ!』と加納の低い声で怒鳴り声が入っていた。
 そのあと、私が立ち上がり、加納は私の手を繋いで後ろのドアに向かって歩き出していた。








「どう? 全部撮ってたんだけど」と内村真理はスマホをリュックの中に入れながらそう言った。
「最低」
「失礼だね。私は絵里衣がいじめられている証拠を集めてたんだよ。――絵里衣を救うために」と内村真理が言ったのに思わず私は反応して、内村真理の方を見た。内村真理は真っ直ぐ壁を見たまま、頬杖をついてた。

「だけど、この動画、絵里衣を救うためじゃなくて、加納を救うためのものになると思うんだ。いろいろエグいし。――吉沢玲香と綾、マジでキモいから、いい加減どうにかしたいなぁ」
「仲良いわけじゃないんだ」
「仲はいいけど、目に余るってだけだよ。――私、こう見えて、筋が通ってないこと嫌いだから、こういうの嫌い」と内村真理はそう言ったあと、私の方を見てきて、内村真理と目があった。

「だから、協力して欲しいの」
「何?」
「絵里衣のかわいい顔も映ってるから、きっとうまくいくよ。だから、悪いけど、協力して」
 内村真理はそう言って微笑んだ。








 ネット上のいろんなSNSで話題になるくらい、いじめ動画としてネタにされた。
 2分くらいの動画はあっという間にとんでもない数の再生回数を稼いだ。そして、その内容はもちろん、動画概要欄に書かれた説明で《ちなみにこの男子は暴力を振るったとして、停学処分になったよ。いじめた女子二人は処分なし。学校はマジでカス》と書かれていた。しかも学校の実名入りで。

 内村真理が、金曜日の夕方に投稿して、大成功した。かなり拡散されたから、この動画のコピーがいくつも出回って、より多くの人に拡散された。日曜日の夜には、すでにテレビのニュースで取り上げられるくらいの騒ぎになり、今日、月曜日を迎えた。

 私は教室に向かうため、職員室の前を通った。職員室の電話が常に鳴っていて、職員室にいる先生、ほぼ、全てが電話対応している状態になっていた。職員室の前後の入り口で何人かの生徒が「うわぁ」とか「やばすぎ」とか言いながら、職員室を眺めていた。








 教室に入ると、修羅場みたいになっていた。
 堀田綾は泣いていて、吉沢玲香はブチギレていた。そして、複数人に二人は囲まれていた。

「ふざけんなよ! 私の人生、めちゃくちゃにする気かよ。ふざけやがって!」と吉沢玲香は声を荒げて、机を思いっきり蹴った。机は大きな音を立てて、床に倒れた。

 まだ、教室の誰もが私が来たことに気づいていなかった。内村真理の席を見ると、内村真理はまだ来ていないようだった。きっと、いつものより遅く来るつもりなのだろう。

「絵里衣来たよ」
 谷口沙織が大きな声で言った。そして、クラスのみんなが私を一斉に見た。みんな冷たい目をしていた。吉沢玲香が私の方に歩いてきた。私はドアの前に立ち止まったままでいる。なぜかわからないけど、急に両足がガクガクと震えているのを感じた。思いっきり、奥歯を噛み締める。顎もガクガクと震えている。私は小さく息をつき、吉沢玲香が近づいてくるのを待った。アイコンタクトを感じた。ふとその方を見ると、左前にいる野球部の男子、鶴橋(つるはし)が何かサインを送っているのがわかった。

「おはよう。絵里衣ちゃん。最高の気分でしょ。今」
 吉沢玲香はそう聞いてきたから、私は黙ったまま、吉沢玲香を睨んだ。

「どうして、こうなってるのか説明してもらえる?」
 吉沢玲香はまた静かな声でそう言った。クラスは静まり返り、片杖を飲んでいるのを感じた。心の声が無数に聞こえるけど、一つ一つ耳を傾ける余裕もない。

「得意の無視かよ。――いっつも黙ってれば済むと思ってるんじゃねーぞ! このブス!」
 吉沢玲香は大きな声で怒鳴ったのと合わせて、右手で私をどつき、私は後ろへ思いっきり倒れた。そのあとすぐ「やめろ!」とか「マジかよ」とかいろんな声が一斉にざわざわし始めた。

 私は吉沢玲香に胸ぐらを掴まれた。そして、吉沢玲香は右手に思いっきり拳を作り、振りかぶろうとしているのが見えた。私はなすすべもなく、このまま、身体を任せている。

「消えろーーー! このブス!」
 吉沢玲香が絶叫した。私は真っ直ぐ吉沢玲香を睨む。吉沢玲香の拳が動くのが見える。私は反射的に目を思いっきり瞑った。

「やめて!」
 女の声が後ろから聞こえた。吉沢玲香の拳が私の頬に弱く触れた。目を開けると鶴橋が吉沢玲香を両手で押さえていた。
 吉沢玲香はツルハシを振り払おうと暴れている。

「ふざけるんな! ブス! ふざけるんじゃねーーーよ!」
 吉沢玲香が大きな声がそう言って暴れている。私は上を向いたままだった。全身の力が抜けているのを感じた。海の中で浮遊しているようなそんな感じに思えた。後ろから手を差し出された。差し出された手を握り、起き上がった。差し出された手は内村真理の手だった。

「大丈夫? 絵里衣」
「うん。ありがとう」
 そう返すと内村真理は穏やかに微笑んだ。

 吉沢玲香は一気に落ち着いたように見えた。全身をバタつかせるのをやめて、鶴橋に身体を任せているようだった。鶴橋が吉沢玲香からゆっくり手を離した。

「私だよ。動画拡散したの。あんたの所為で加納が停学になるのはおかしいよ。やっぱり」
「真理――。私たち、友達だよね? 友達なのにそんなことするの?」
 吉沢玲香は今にも泣き出しそうな声でそう言った。

「は? 友達なわけないじゃん。こんなことするヤツ。あんたのいじめのおかげで、いろんな人たちに迷惑かかってるんだけど」
 内村真理はピリッとした冷たい声でそう言った。

「迷惑かけてるのは真理でしょ。――私じゃない。私じゃねーよ」
 吉沢玲香はそう言っているけど、さっきまでの威勢はだんだん薄くなっていっている。

「玲香ってバカだよね。加納のこと好きだったんでしょ? 私に相談してたでしょ」
「やめて。――真理」
「絵里衣を加納から離すためにいじめるなんてバカだよ。バカ。こんなことしたら加納から余計嫌われるだけじゃん。しかも大好きな加納を停学にしてさ。バカだよね」
「違う。加納を停学にしたのは私じゃないもん。綾が調子乗って、勝手なことしたからでしょ!」
「玲香ーーー! 私じゃない!」
 大きな声が奥から聞こえた。

「私じゃない! 玲香に気に入られるためにやっただけだもん! 私の所為じゃなーーーい!」
 後半は半分は、絶叫混じりだった。堀田綾は完全に取り乱しているように見えた。

「うるさいな! 黙ってろよ。全部、お前の所為なんだよ! こんなことになってるのは。綾、ふざけるんじゃねえよ!」
「大体、動画撮ってた真理もブスのこといじめてたんじゃん。――なのになんで、その動画、拡散したの」
「え、なに言ってるの? 私はいじめの証拠、撮ってただけだよ。あんたのこと嫌いだから」
「真理、ふざけるなぁぁぁ!」
 吉沢玲香が絶叫して内村真理のほうに詰め寄った。そして、内村真理は吉沢玲香に胸ぐらを捕まれたあと、簡単に押し倒された。鶴橋は吉沢玲香を押さえることができず、ただ、その場に立ち尽くしていた。

「朝からうるせぇな」
 低い声が教室の後ろ側から聞こえた。声がした方を見ると、加納が教室の後ろ側のドアの前に立っていた。
 






 加納はゆっくりと、教室の前の方まで来た。
「絵里衣。おはよう! 久しぶり」
 加納の声はいつも通り気さくな感じの声色だった。

「――おはよう」
 私は小さな声で答えた。

「誰だよ。いとしの絵里衣ちゃんを泣かせたヤツは。どこのどいつだよ。なあ、絵里衣。誰にやられた?」
 加納は私の目をしっかりと見て、そう言った。私は吉沢玲香を指差した。

「へえ。おはよう玲香。久しぶりだな。聞いたよ。俺のこと好きなんだって?」
 加納は陽気な声色を変えないままそう言った。吉沢玲香は黙ったまま、下を向いている。

「玲香、今がチャンスだよ。俺のバーゲンセール。今、玲香に告られたら、玲香ちゃんに乗り換えしよっかなー」
「は? なに言ってるの?」
 吉沢玲香は冷たい声でそう加納に返した。

「いや、マジだって。告白しろよ。玲香」
「――好きです」
 吉沢玲香は聞こえないくらいの声でそう言った。

「え、そのあとは?」
「……え、そのあと」
「うん。ほら、勇気だして。付き合ってくださいは?」
「……付き合ってください」
「付き合うか。バーカ。もう二度と絵里衣に手だすんじゃねぇぞ!」
 加納は怒鳴った。また、教室の壁が揺れたような気がするくらい大きくて低い声だった。吉沢玲香は膝から崩れ落ち、声をあげて泣き始めた。

 そのあとすぐ、担任が教室に入ってきた。








 夏休みが始まった最初の日は30℃を超えていた。白いTシャツに黄色のロングスカートを私は纏って外に出た。待ち合わせ場所のスタバへ行っている途中、内村真理からLINEが来た。
『私は恩赦だって 二人はまだ、保留中だって いろいろありがとね 夏休み中、またカフェ行こうね』
 私は初めてLINEを交換した友達のメッセージにほっとした。だから、すぐに返信した。 
『よかった 恩赦記念に飲みに行こう』
『カフェを酒屋にするなよ』
 1分もしないで返ってきた内村真理の返信に既読をつけたあと、私はこの夏は楽しくなりそうだと思った。



 スタバの中はしっかりと冷房で冷やされていて、穏やかな時間が流れている。
 目の前に座る加納はゆったりとしたソファにもたれて、足を大きく開いて、リラックスしているように見えた。

「そしたら、OKってこと?」
 加納はそう言って、右手でカップを持ち、ストローを咥えて、フラペチーノを飲み始めた。

「――いいよ」
 私はそう言ったあと、照れ臭くなって、加納から視線を逸らした。

「よっしゃ」
 加納は右手に拳を作って、小さいガッツポーズをした。その姿を見て、本当に私のこと、付き合いたかったんだと、改めて感じた。あの日、本当に私のことを守ってくれた加納のことは、信じてみてもいいかなって思ったから、例え、加納が私のことを五分五分程度しか、信じてくれなくても、私は加納のことを、100%信じることにした。

「ねえ」
「なに?」
「どうして私以外、ありえないって言い切ったの?」
「告白には最高の言葉だと思ったし、本当にそう思ったからだよ」
「――そうなんだ」
 私はまた照れ臭くなって、顔が熱くなるのを感じた。それを誤魔化すために、フラペチーノが入っているカップを手に取り、ストローを咥え、一口飲んだ。

「絵里衣に一つ言ってないことがあるんだ」
「――なに?」
「俺、人の心の声が聞こえるんだ。――だけど、絵里衣の気持ちは読めない。だから、イーブンで一緒にいれると思ったし、大切にできると思ったんだ」
 加納はそう言って微笑んだ。私は加納のその微笑みが、いつも以上に、とても優しい微笑みに思えた。
 たぶん、加納と私の間には、最初からガラスなんて存在しなかったんだ。ガラスを感じていたのは、もしかしたら、私の思い込みだったのかもしれない――。
 だから、加納は、信じてみてもいいのかも。

 私は呆気に取られ、右手に持っているプラスチックのカップを危うく落としそうになった。汗をかいたカップの水滴が垂れて、人差し指を伝った。

 この夏恋《かれん》から、新しい自分が始まるような気がした。