敷きっぱなしの布団でタオルケットに絡みつかれたまま、わたしはぼんやり本棚を見つめていた。涙がするすると勝手にこぼれて耳の穴にひっかかるから、気持ち悪かった。
 誰かを使わないと、怒ることすらうまくできない。
 どこまでも不自由でへたくそな自分に腹が立ってしかたがなかった。 
 小説を自分から手放したら、本当の空っぽになってしまった。強みもなにもなかった。
 チューリップが刺繍された布団カバー。枕カバー。薄い黄色のカーテンとあめ色の大きな本棚、詰まる小説たち、詰まるわたしの息、吐きだされる涙。
 文机の上、行く気もない大学の資料集の下でじっとしているお父さんのパソコン。
 あれ――あれ、いつ、もらったんだっけ。
 まぶたをおろしたら、お父さんが買ってきてくれたローマ字表とにらめっこしながら、がちゃがちゃと人差し指だけで文字を打っているいつかの自分が見えた。髪の毛はまだ短くて、あのときお気に入りで着倒していたピンクのワンピースを着ていた。お父さんの部屋だった。
 ――いと、おはなしかくひとになる。
 そう言ったのは七歳のころだった。らくがき帳やお父さんのいらない紙の裏に、クーピーや鉛筆やポスカやいろいろで思いつくまま好き勝手にお話を作っていた。あのころ。お父さんに言った、わたし、はじめて言ったのは、お母さんじゃなかった。
 お父さんだったんだ。
 ――いとにはまだはやいかなあ。でもいいか。
 そう言いながら、古いパソコンをくれた。
 ワードくらいしか使えない、インターネットにも繋がっていないパソコン。お父さんが毎日使っている、薄くてかっこいいそれとは違って分厚いやつだった。
 嬉しかった。
 わたし嬉しかったんだ。
 あのときお父さんは真面目な顔で頷いたんだった。よくある、小さな子の大規模な夢をほほえましく受け止めるような大人じゃなかった。笑いもせずに聞いてくれた。それでなにも言わずに頷いてくれた。お父さんはそういう人だった。
 小さい子が口にする「なになにになりたい」なんて、いくらだって変わっていくのに、お父さんは信じたのかもしれない。それか、お父さんはわかっていたのかもしれない。わたしがずっと書き続けること、それらをどうしたって嫌いになれないこと、お父さんはわたしなんかよりずっと早くから知っていたのかもしれない。
 お父さんのことはきっと一生ゆるせない。
 わたしの傷、その中でいちばん大きいのは、あの日お父さんと刺し合ったものだから。
 なのに、会いたい。
 ゆるせないのに、会いたい。
 お父さんに会いたい。
 ……愛って、いやだ。
 愛って、なんてバランス悪いかたちしてるんだろう。
 愛ほど、融通のきかない、自由のきかない、治ることのない病なんてない。きっと、ない。
 おとうさん、とわたしは呟いた。たった五文字。世界中にその名前があてはまる人間はいくらでもいるのに、思い浮かぶのはたったひとりだった。
 階下でお母さんの帰ってくる音がした。おばあちゃんが夕飯のしたくを始めたのも聞こえた。この家は広いのに、ここにいるみんなの生活がちゃんと聞こえる。
 でも、お父さんだけが、もうこの家にいない。
 起き上がったら頭がくらくらした。不確かな五歩でお父さんにたどりついた。わたしはいつかのスカートと同じようにパソコンを抱きしめた。ほこりくさかった。重かった。ぬるかった。ぼろぼろ涙が落ちるから、そのたび指先で拭った。パソコンに落ちたわたしの涙はのびた。
 ごめんなさい。
 気づいたらそう呟いていた。
 わたしのせいでちえりを泣かせた。わたしのせいで主人公は永遠に動かなくなった。
 わたしのせいで、わたしは、自分のことを否定してしまった。
 鼻を啜って、鞄を開ける。入れっぱなしだったビブリオノートを取り出す。表紙では相変わらず黒猫が眠り続けている。開けばわたしの中身がびっしりと書き留められている。
 ――〆切。
 赤ペンで書いたそれを指先でなぞった。八月はもうじき終わりにさしかかる。あと少ししかなかった。本当にあと少ししかなかった。
 書かなきゃ。
 そう呟いた。
 ――愛ってよくわからないけど、たぶん、言葉にできないから曖昧のアイ、を使って、仮の名前ってことにしたのか
 ――怜くんのことをモデルにしようとすると、見つめなくちゃいけなくて難しい
 ――恋と愛の違いはインターネットでも議論されてるけど、みんなわかろうとしていてすごいとおもう、わかってしまったら愛は偶像の愛におさまってしまうかもしれない
 ――愛する人ってみんないうけど、わたし怜くんのこと愛してるとはおもえない、小説かもしれない やっぱりわたしが愛してるのは小説だけなのかもしれない
 ――主人公の恋人は人間をモデルにするんじゃなくて、
 ……わたしが書き残したそんないろいろを見返しながら、わたしはパソコンを開こうとした。
 風が吹いて虫の鳴き声が消えた。手が止まる。
 顔をあげたら、ちえりが見えた。
 怖くはなかった。
 ちえりはあめ色の本棚の前に座っていた。
 ちえり。
 名前を呼んだ。ちえりはわたしを見つめ、困ったように笑った。
 わたしは手を伸ばした。
 ちえりが飛びこむ。
 ちえりはわたしをゆっくりと抱きしめた。
「ちえり」声が震えた。「ごめんなさい――」
「平気よ」
 だって私、いとが小説を嫌いにならないって、ちゃんと知ってる。
 ちえりに顔を埋めたら、いちごチョコレートの髪が甘く香った。群青の蝶々のピアスが睫毛にあたる。ごめんなさい。わたしはもう一度繰り返した。
「泣かないで、いと」
 ちえりを見上げる。
 ちえりはわたしを慈しむように見つめていた。
 それからあのちえりのにおいが近くなる。
 その長い睫毛がゆるやかなまばたきで呼吸するみたいに揺れて、わたしの睫毛に触れる。
 ぬるいちえりの唇とつめたいわたしの唇、その触れ合ったいちぶで体温混ざりあって、曖昧にとけて、だから唇の先まで頭出してたなんかの言葉が溶けてしまった。
「……ちえり」
 声が掠れた。
 ふたりの鼻先がまだ触れ合っていた。まるい私の鼻先と、少し尖った綺麗な形のちえりの鼻。
 睫毛だけが、その絡まりが、ほんの少しほどけた。
「ちえり、わたしのこと、すきでしょう」
「すきよ」
「痛みが、あるから?」
 ちえりは眉根を下げた。す、は、という、あんまりにもかすかな呼吸さえ、今はふたりの共有物になっていた。お互いにお互いのうすい呼吸を聴いていた。
「ちえりも、」のどが渇いている。「ちえりも、そう思うの?不幸や傷は、あればあるだけ小説家になりたい人間のステータスになるって、思うの」
「――そうだよ。ごめんね、いと」
 わたしの唇が震えた。言葉を吐き出したり震えたり、忙しいな、なんて、どうでもいいことぼんやり思う。イグサのにおいと染みついた家のにおいを深く吸いこむたびにみじめになる。
「傷ついた人は愛おしいの。優しくてかなしくてどうしようもないの、でも愛おしいの。だってそういう人だけだから。世界のことちゃんと見ているのは。いずれ乾く水たまりや枯れ果てた雑草のこと、ほとんどの人は目もくれない。でもいとは違う。いとはそういうひとつひとつを見つめて愛せる人。だから傷つく。だから書けるの」
 ちえりはわたしの目に映るつまらない部屋とわたしの顔を見つめている。
 わたしはちえりの肩に頭を埋める。ぬるい皮膚。彼女の鎖骨がわたしの頬に埋まる。
「……ちえり、小説でしょう」
 ちえりの呼吸。うすく上下繰り返す胸元。
 開け放した窓の向こう、いつまでたっても名前が曖昧な、いくつも混ざりあう夏の虫のぐずる声。
 黄色い薄手のカーテンが弱々しい夜風に揺れる。うっすら暑い。夏は死に果てるまでしぶとい。
 春はあんなにすぐ死んでしまうのに。
 すり、と頭が滑る。ちえりのお腹のあたりに頭を横たえる。ちえりは黙ったままだった。
「ちえりはね、わたしの神様だよ」
 わたしはちえりの膝の上、お腹のあたり、そこで目を閉じる。涙が滑る。白いワンピースの繊維の奥に染みていく。
 ちえりのいちごチョコレートから甘いにおいがする。やわらかい布が頬にあたる。それは毎日触れて愛したページ。
「ちえり、ずっとわたしの傍にいたよね」
 安っぽいアニメ映画みたいな言葉がこぼれる。
 ちえりはわたしの傍にいた。
 はじめて読んだ小説は、お父さんが買ってくれた銀河鉄道の夜だった。
 わたしは、ジョバンニとカムパネルラみたいにわかりあえるともだちが欲しくなった。
 はじめて自分で買った小説は、檸檬だった。あの繊細な感性に酔った。そういう人間でありたいと思った。
 七歳で書きはじめて、ぜんぶ見よう見まねの未完で、十四歳のとき、はじめて書き終えた。
 純文学とも呼べない、ただ自分のかなしさを主人公に感染させた、慰めの物語だった。
 くだらなかった。くだらなかったけれど、わたしはそれで酸素を吸った。
 わたしはいつしか、小説を書くことが、自分の生きる意味だと思うようになっていた。
 朝も昼も夜も眠っているときも、食べていても笑っていても泣いていても、いつでもちえりのことを考えていた。街中で目に映るもの、それは雑草や崩れ落ちた建物や線路に転がるゴミや、泣いている人や笑っている人やいさかいを起こす人だったりした、そのどれもを見つめた。
 とりこぼさないように見つめ続けた。
 わたしだけがえがくことのできる世界で、正解を書きたかった。
 そうやって生きていたかった。
 痛くてどうしようもなくても、痛みを忘れることすら嫌だった。
 痛みを忘れたら、書けなくなる気がした。
 すべての痛みを愛そうとした。
 そうしたら自分の中のパレットに余白がないことを忘れていた。
 決まりきった色だけを絞り出してえがく世界。誰が見たって綺麗なのは、知っている。
 でもわたしはたった数色でこの世界をえがきたくなかった。
 たった十七年しか生きていないけれど、でもその十七年間をめいっぱいに書きたかった。
 ちえりのことを愛していた。
 愛していた。
 今だって愛している。
 これからも愛せる。
 死んでも。次生まれたときも。その次も次も次も次も。
 ちえりがいない世界なら、生きていたくないほどに。
 だってそこは痛くもかゆくもないから。そんな世界にいたくない。痛くない。
 わたし絶対、これからだって、自分のパレットにいくらだって色を出す。えがく。やめられないと思う。ちえりはわたしを見つけて、わたしはちえりを見つけてしまったから。
 起き上がって、ちえりの頬に手を伸ばす。わたしからちえりにちゃんと触れたのは、今日がはじめてだった。
 ちえりの頬をなぞる。いとおしい、と思う。
 いとおしい。
 何度も使った。
 使ったけれど、本当の意味を今知った気がした。
 言葉はぜんぶそうだ、本当の意味は、ひとりじゃわからない。
 ちえりはわたしを見つめ、はたはたと涙をこぼした。
 それはあのぬるついた動きではなくて、散りゆく桜の花びらみたいに、軽くてどこかにいってしまうような涙だった。
 このうすい秋風で簡単に失われてしまうように。
「いとを――いとを愛してる。でも、作家にしてあげることは、できない。ごめんね。ごめんね、私にはその力がないの――私はただ、いとのことを愛してただけ。これからも愛してる、それだけなの。それしか、できない。でも書き続けてほしいの。私を愛していてほしいの。いとは、いとには、ちゃんと――ちゃんとこの世界が見えてるの――そんないとが好きで好きでたまらないの。離れていかないで。書き続けて」
 愛はどうしたって一方的になってしまって、困るな。
 どんな神様だって、わたしたちと一緒だ。
 困るな。
 愛してるのに。
 同じにならなくて、困るな。
「わたし、ちえりを愛してるよ。これからも愛してる。ぜったいよ、やくそくよ」
「うん」
 ちえりが笑う。わたしも笑う。泣きながら笑うことができるわたしたちは、なんて生きづらいんだろう、そう思う。泣きながら笑ったり、泣きながら怒ったり、感情にとりつかれているのに、わたしたち、一生懸命だ。かわいいな、そう思う。人って、かわいいな。
「ちえり、わたしね、ずーっと、運がないの」
 わたしたちはお互いに寄りかかって、なにもない窓の外を見つめていた。
 踊る黄色の薄手のカーテン。イグサのにおい。本棚のにおい。ここはわたしとちえりの部屋。昔から。
「くじ引きはいつもティッシュでしょ、コンビニのアメリカンドッグ目の前でなくなっちゃうし、お気に入りのバンドのライブは全部外れちゃった、買ったばっかの靴壊れてたり、お母さんとお父さんは離婚した。ねえ、知ってる、知ってるよね、わたしのお母さん、電子レンジの角でお父さんのこと追い出したんだよ。変なの。漫画みたいなの。それでおばあちゃんは白米に宿る変な神様のこと大好きだし。でもわたしはちえりのこと愛してるし、一緒だね」
 ふふ、とちえりが笑う。長い睫毛が濡れたら束になって、きれいで、かわいい。見つめていたいから、素直に数秒、見つめていた。 
 ちえりはそんなわたしを見て、また笑った。
「……あ、十七年目にしてはじめての恋は、クラスでいちばんかわいくていちばん性格悪い女にとられた。あはは、今思いだした」
「あんなに好きだったのに」
「すきだったけど、愛までいかなかった」
「難しいよね」
「高校生で愛を語ったらきっと笑われるよね」
「でも愛せてるよ、いとは」
「ちえりに勝てる存在なんてきっと今後ないよ」
 ちえりは恥ずかしそうに目を伏せて、それから、うれしい、と呟いた。
 触れあったから、わたしたちはそのまま指を絡めて手を繋いだ。少しずつちえりの指がわたしの指に馴染んで、その感覚が薄くなっていくのを感じていた。
 離さないように握りしめた。
「でもね、おっきい幸運のためにひとつひとつ失ってるって思うことにするよ」
 うん。
 ちえりは頷いて、わたしの肩にそっと頭を預けた。根元のミルクチョコレート、一センチ先からのびる甘ったるいいちごチョコレートの髪。きらめく白い耳たぶの蝶々。
「……それにね、やっぱり、そういうひとつひとつもいつかわたしだけの、それで誰かの中にちょっぴり染み出す小説にできちゃうんじゃないかって思う。だからわたし平気だ。平気だね、意外と平気なんだなあ……」
 繋がれていた指はいつしかほどかれて、ちえりはわたしの腕に自分の腕を絡めていた。さっきよりも何倍も冷たい。透けていく。
「失ってないよ。得てるの。ひとつひとつ、いとは愛して、大事にしまってる。私それがたまらなくうれしい」
 ちえりの腕の感覚が消えた。
 わたしはちえりの蝶々に耳をつける。耳たぶは、いつの季節も、どんなときも、血が通ってるのが嘘みたいに、冷たい。
「……消えるの」
 囁いた。
「消えるわけないよ」
 ちえりも囁いた。
「今のいとが、私の姿見えなくても、だいじょうぶになっただけよ」
 さみしいから、いやだ。
 わたしはそう言った。ちえりはゆるやかに腕を離す。
「いつでもいとと一緒に生きてる」
「……ちえり、わたし小説家になるから。絶対になる」
「信じてる」
 わたしは頷いた。ちえりの髪が秋風に揺れて、やっぱりその奥にいちごチョコレートのにおいが飽和した気がして、髪が揺れるからひときわ蝶々が目立った。
 ちえりの輪郭は酸素になっていく。吸いこむ。この三か月でわたしは深く息を吸うことをやっと覚えた、そんな気がする。
「いとちゃん、ごはん、食べよう?」
 襖のあたりでわたしを呼ぶ、お母さんの声に振り返る。わたしに向けられたまなざしのやわらかさに、わたしまた簡単に泣きそうになる。カーテンが膨らんで、その風に背中を押された。
「食べる」
                                                           了