明日から夏休みが始まる。それに今日は午前で終わりだ。
 期末テストもこの前済んだからか、教室の空気は張りつめながらも微量に緩んでいた。
 今日ばかりは居残りする子たちも帰り支度をしていた。
 わたしは粉っぽい黒板消しで、先生の端正な字を端から順番に消していく。
 日付のすぐ下、日直、そこに並んだわたしと怜くんの苗字で手が止まる。これも消さなきゃ。
 あの日以降、亜衣ちゃんと怜くんの距離がぐんと近くなっているのは、外野にいるわたしでもわかった。
 女の子たちはひそひそしてはしゃいだし、亜衣ちゃんを推している男の子は露骨に不快そうな顔で怜くんを見るときすらあった。たったひとりの女の子の存在で、ここまで教室のかたちが変わるんだ、とわたしは少しの恐怖さえ感じていた。
 夏目漱石の「こころ」に書かれた愛のことなんてわからないと言っていたみんなが、実のところそれによって変わっているのは、皮肉だと思った。でも、わたしだって変わっていた。
 小学校のときのひやかし。中学校のときの、おそるおそる境界線つまさきで踏んでるみたいな空気。それらとは違った。高校生の、子どもでもなければ大人でもない異性同士の恋愛の空気は、なにも喋らなくても勝手にこころの隙間に手を差し入れてくる感じがあった。たとえ他人のものでも。
 わたしは怜くんが怖くなった。それはわたし自身への恐怖でもあった。
 彼から離れようとすると、小説に近づいた。
 だから小説のことばかり考えるようにした。そうしたら、あの制汗剤のボトルの色や、拾ってくれた蛍光ペンの色や、交わしたはずの言葉やそういう記憶のいろいろの輪郭がふやけはじめた。それでいいと思うようにした。
 かわりに、ダイチくんとよく視線がぶつかるようになった。わたしが見ているんじゃない、彼の目線がいつでもわたしの目線の端を探してるから。それで、想われることの重さ、違和感、みたいなものをうっすらと、そこで、はじめて、知った。
 そうなると怜くんへの感情は次第にねじれていって、あの七月のはじまりには空気の詰まったゴムボールだったわたしのそれは、空気の抜け始めた、靴跡まみれのボールになっていった。
 一個一個が言語化できなくなると、ビブリオノートにありのまま書き留めた。それでちえりの言葉を思いだして、「選択しなかった」こととしてシーンを組み立てていった。
 萎んでねじれて痛むわたしとは分離した物語が、このころには半分まで進んでいた。
 皮肉にも、恋の感情に執着しなくなってから、あれだけ悩んでいたのが嘘だったみたいにちゃんとした物語に変化しつつあった。キーボードを叩きながら苦笑いが浮かぶくらい。
 黒板消しに力をこめて、日直の下、名前を消す。
 細かい粉が散る。チョークのにおいはいつでもこもってる。
「マミズ」
 怜くんの声で心臓が嫌な動き方をする。消し終わったはずなのに、黒板はうっすらまだ詩を被っている気がする。振り返って、うん、と呟くように返事をした。
「日誌、やろう」
「うん」
 怜くんの目線から逃れるように窓辺を見たら、わたしがいつか水をかけた鉢植えがなくなっていることに気がついた。今知った。だってそのあたり、ダイチくんの席だったから。このごろは机の上ばかり見つめていた。それは息苦しかったけど、息苦しさで安心してもいた。
 教室にはほとんど人がいなかった。ほっとして、自分の席に戻る。もし亜衣ちゃんの仲良しの子たちがいて、これを見て、なんか言ったらと思うと頭が痛かったし。
 ペンケースを出すと、シャーペンをノックする。怜くんはあの日みたいに椅子の背を前にして、わたしの目の前に座っていた。わたしはなるべく顔を上げないようにする。
「……マミズ」
「うん?」
「大学決まった?」
「ううん、まだ。ぎりぎりまで考えることにした」
 怜くんを向こう側へ押しやって、小説に寄りかかる。
 そういう風にしたら、普通に喋れるようになってしまった。なんか、可哀想。わたし。その可哀想は、自己愛の可哀想とは違って、第三者の目線で憐れんでいるあの感覚に似ていた。
「ぼく、東京の大学受けることにした」
「そうなんだ。応援してる」
「あのさ、マミズ――」
「え、まみじゅだ、なんでー?」
 ドアのほうから大きな声がして、怜くんがわずかに肩を揺らしたのが視界の隅で見えた。顔を上げる。ドアのところには、不機嫌そうな顔の亜衣ちゃんが立っていた。
 まみじゅ。
 亜衣ちゃんに変な名前で呼ばれたし、なんで、の三文字に、女の子にしか感じ取れない特有の、ぬるりとした嫌悪が混ざっていた。ぞくりとした。おなかがきゅっと痛くなった。
「……なんでって、マミズとぼく、日誌書かなくちゃいけないし」
「ほかのことふたりきりはだめってゆったじゃん」
「……いや、そんなこと言われても」怜くんは難しい顔になる。「やらなきゃいけないし」
 ――やらなきゃいけないし。
 ギム、の二文字を分解して組みなおした言葉。
「まみじゅのほうが、こくごりょくあるよ」亜衣ちゃんの喋り方はなんかもつれてる。「ね。れい、理系だし」
「マミズと比べたらみんなそうだよ。……ごめん亜衣、もうちょっとだから」
 ――亜衣。
 シャーペンの芯を出しすぎてしまって、そっと机に押しつける。どくどく戻っていく細い芯。
 ぱらぱら、雪よりなにより細かい鉛のかすが指先にくっついて、取れない。
「今日の欠席者って」わたしの声はどんどん小さくなる。平坦になる。
「岡野と斎藤さん」
 すらすらと怜くんが答える。言いながら、わたしの止まった手のかわりに書きこんだ。そんなに話したことのない人だって、怜くんはちゃんと見てる。
 斎藤さんの、さいの字すら、ちゃんと合ってる。
 ……そうなんだよなあ。
 別にわたしだから見られていたんじゃないってこと。
 クラスメイトだから見られていただけだってこと。
 怜くんはそういう人だったんだってこと。
 思い知る。少し距離を置くようになってから、やっとわかるようになった。
「書くことあんまりないよな」
「そうだね……」
 びくびくする。亜衣ちゃんの前で、今までみたいな顔をしたり、声を出したり、そんなことしてしまったら――。怖い。わたし、今、怖い。
「……マミズ?」
 やめてよ、とこころの中でわたしが膝を抱えていた。
 こういうときに、名前、呼ばないで。
 わたしのこと、まっすぐ、見ないで。
「おそい」
 しびれをきらしたらしく、亜衣ちゃんが怜くんのところまで歩いてくる。そうだよね、と思う。ごめん。わたしとふたりきりでも、嫌だよ、そんなの当たり前だよ。なんか怜くんにいらいらしてくる。おかしいな。変だ。変なの。わたし、亜衣ちゃんのことすきじゃないのに。
「はやくしてよお」
 そう言った亜衣ちゃんが怜くんにうしろからよりかかる。わたしは思わず一瞬息をとめた。
 怜くんが目を伏せる。
 それは文字を書くためにそうしたのか、わたしを見ないようにするためか、わからなかった。
 亜衣ちゃんはぷくっと頬を膨らませて、それからわたしに目線を滑らせる。
 怜くんの白い首筋に絡む、亜衣ちゃんの細くて綺麗な腕。
 なに。
 そう言いたげな冷たい目線だった。そんな目をしていても、かわいかった。
 細い肩、ずりさがりかけてる鞄。そこにぶらさがるぬいぐるみやチャームや全部がきらきらしていて、見ていられなかった。
「……マミズ、これ、あとはぼくがうめておくよ」
「あ、」声が震えた。「……あ、ありがとう、」
「……マミズ?」怜くんがまたわたしを呼ぶ。「だいじょうぶ、……」
 立ち上がって、ペンケースを鞄に入れる。ベージュのカーテンが揺れて、ちかりと真昼の光が射して、怜くんの顔は真っ白に潰された。亜衣ちゃんの目。蝉の声。全部嫌い。
「……なんでもない。さよなら」顔も見ずに鞄を肩にかけて教室を出た。
 一瞬だけすれ違った亜衣ちゃんから、石鹸のやわらかいにおいがして、視界が滲んだ。
 やっぱり、だめだ。
 だめだ。
 終われると思ったのは、そう思ってしまったのは、あのふたりの距離を知りながらも、片方の怜くんしか意識していなかったから。 
 だから――だから、いざ目の前でふたりが近づいたとき、あのとき、わたし、素直に息が吸えなかった。
 さよならなんて言ってしまった。
 一瞬、ほんとに一瞬、あの日お父さん刺したときと似た意地悪がふきだしたから。
 わたしがぶつけたさよならの四文字は、冷たかった。
 あの日齧っていたアイスなんかよりずっとカチカチで、口にしたら舌にはりついてぴりぴりしちゃうみたいな、あの冷たさ。
 れい、はやくしてっ。
 そんな声が廊下まで聞こえてくる。
 亜衣ちゃんの声はいつも大きい。亜衣ちゃんの声はいつもちゃんと耳を通る。
 聴きたくなんかないのに。
 どうでもいいのに。
 あんな女の子、わたしは大っ嫌いなのに。
 最低なのに。
 意識したくもないのに。
 怜くんがすきだから、あの子のことまでとりついてくる。
 大っ嫌い。
 ぜんぶぜんぶ、大っ嫌い。
 おんなじにおいなんかさせないでよ。
 廊下をはじめて走った。
 階段を駆け降りた。
 あのふたりに追いつかれないためだった。
 ――嫌い!
 あの日の自分の声が脳裏を駆けた。
 嫌い、お父さんなんか大っ嫌い。
 足がもつれる。すんでのところで手すりを掴んだから、転ばずに済んだ。はっ、はっ、と息が切れる。ばたばたべたべた、上靴がうるさい。文句ばっかり言っている。髪の毛が暴れて、何本か口に入って、前髪じゃないくせに前髪のところに混ざって、うざい。
 なに、それ。
 大丈夫って、そんなわけないじゃん。
 見てるくせにちゃんと見てない。
 わたしがあなたをすきなこと、あなただったらわかったんじゃないの。
 亜衣ちゃんの性格実は最低なこと、あなただったら見抜けるんじゃなかったの。
 なんでわかんねえんだよ。
 バカ。くそ馬鹿。あほ。あんなの顔だけ野郎だ。全然好きじゃない。そういうことするやつなんか好きじゃない。ああなんだよ結局男だったんだ、男、男だからかわいいこがよかったんだ。きらい。そんなことする人だって思ってなかった。ばかばかばか、ばかか、しんじゃえ。
 でろん、汚い鼻水が出た。
 綺麗な涙がはじめに出ないわたし、やっぱりかわいくなかった。
 ずずずずッ、なんて音をたてて啜った。思いっきり啜ってやった。
 わたしを選ぶことがないなら、せめて誰のことも選ばないでほしかった。
 なんで亜衣ちゃんなの。
 なんでよ。
 わたし、クラスの端っこのあの子のこと、笑ったりしない。写真撮りたいからって廊下塞いだりしない。思わせぶり振りまいて、それでもらった好意をキモイなんて笑ったりしない。
 そんなことひとつもしないよ。
 どうしてそんなことする子がいいの?
 どうして。
 かわいいから、亜衣ちゃんがいいの?
 小説が消えること、なんでもないように笑い飛ばしたあの子がよかったの。
 それでよかったの?
 わたしよくないよ。わたし「は」よくない。
 そう、わたし「だけ」が、よくない。
 ばこん、なんて思いっきり靴箱の扉閉めてやったけど、閉まんなかったし、半開きで馬鹿みたいにぱかぱかしてるし、わたしのお行儀悪い音はむなしく響いただけだった。
 履きつぶしたローファーに足つっこんだら、かかとの部分がねちゃんとひしゃげて足が上手く入らなかった。よろけた。手をついたら汚い砂つぶたくさんくっついてきて、よけいに泣きたくなった。ほんとによけい。
だってこれ、海辺の砂なんかじゃない。グラウンドとりまくトラックの、かたくて痛い砂。
 手のひらが砂なんかでこんなに痛むの、知らなかった。
 あんなの知らなかったら、こんなの知らなくてよかったじゃん。
 ひぐらし泣き出す少し前、それでももう夕方が訪れる。のっぺりしたオレンジ色と橙色混ざったあいまいな色彩で昇降口の入り口に立ち止まってる。蝉がまだ泣いてる。うるせえ、いつまで泣いてんだよ、なんでそんなに泣くんだよ、うるせえな。
 わたしを呆然見下ろして立ち止まったままの色だまりに体当たりして飛び出した。
 図書室に向かって猛然走りだした。
 ちえりがいるのはわかっていた。

               *

 れ、くー、が。
 あがりそうな息の代わりにやっと吐き出したのに、それなのにうまく言葉にならなかった。ちえりの腰掛けた本棚まで走り寄ったら、もうなにもかも湿ってしまってひしゃげてしまって、どうにもうまく渡せなくなってしまった。
「いと」ちえりは驚いて大きな目でわたしを見つめ、肩に触れた。「いと」
「れ、ッ、い、くん」
 れー、くん。
 れい、くん。
 れいくん。
 ちゃんと言えるようになるまで何回もなぞった。なぞるから、漢字ドリルみたいになって、漢字ドリルでなぞるのは覚えるためで、だからなぞるたびにあの記憶が深く深く刻まれていくのがわかった。
 ちえりがわたしをきつく抱きしめた。白いワンピースのやわらかさとちえりのからだの曲線に、わたしは包まれていく。ぼろぼろ、涙が転げ落ちていく。
「付き合っちゃった。他の女の子と、他の、他のこと、……」
 ぼとぼとぼと、思ったより激しく床板に涙がぶつかった。
「……怜くんが?」
「あいちゃん……っ、く、クラスで、いちばん、いちっ、いちばん、かわいい……」
「……いと――」
 ちえりの手がわたしの背中に優しくとんとんと触れた。赤ちゃん寝かしつけるみたいに。
「やっぱり、わ、わたし、っ、運が、ないんだ」
「そんなことないよ」
「選んでもらえなかった」
「それは違うよ、お互いのことよ、お互いが選びあわなかっただけ――」
「そんなわけないじゃん……」
「どうして」
「どうしてって言われてもわかるわけないよ……」
「いと、……傷ついたのね」
「ちがうッ、むかついてるの!」自分でも驚くくらい大きな声が出た。「あんな女の子選んだことにむかついてるの!だって、だって、かわいいだけの、顔だけの女だよッ、平気で悪口言うし、ひそひそするし、バカにするし……ッ」
 呼吸がひっくり返った。
「小説なんかいらないって言った!」
 ぱん。
風船が破裂するような声が出た。割れたそこから、どんどんどんどん、嫌な感情が飛び出していく。もう届かない。自分の手じゃだめだった。
「いと」
「あんな女の子わたしは嫌いっ、大っ嫌い!」
 ちえりはぎゅうっとひときわ強くわたしを抱きしめる。
 ええん、とわたしは大きく泣き声をあげた。いつか聞いたお母さんの泣き声と同じだった。
「怜くんなんか不幸になればいいんだっ――」
 言ってしまって、わたしははっと息を吸いこんだ。息を止めた。
 あの日から、なんにも、変わってない。
 どうしてこんなに意地悪な気持ちになってしまうんだろう。
 何回でも傷つけてしまうんだろう。
 わたしは自分の言葉がどれだけ嫌なものに変わってしまうか、知ってるはずじゃなかったの。
 ちえりはわたしをきつく抱きしめて、いと、いと、と繰り返し優しい声でわたしの名前をなぞった。
「いと、優しいのね」ちえりはわたしの背中をなぞる。「優しすぎるのよ」
 どこが優しいの。
 わたしはどこまでも自分勝手で不細工なのに。
 ちえりはなんにもわかってない。
 そう言いたかったのに、それ以上はのどに布でも詰まってしまったみたいで、なんにも音にならなくて、わたしはただ、懐かしいにおいのするちえりのワンピースに顔を埋めた。
 あとからあとからいくらでも涙が出てきて、とまってくれなくて、これ以上泣きたくなんかないのに、泣く理由、自分でも無駄だってわかっているのに、だめだった。
 ちえりの手がわたしの背中をさする。背骨をひとつひとつなぞるように優しい手で。
 怜くんの背中を思いだす。
 とっくにわたしのぜんぶと紐づいちゃった怜くんのこと。
 ほどいてほしかった。
 自分で勝手に結びつけたのに、ほどきかたを知らなかった。
 近すぎて遠かったから、ちゃんと怜くんの全身を見たことなかった。
 いつも都合よく切り取った表情やしぐさばかり見ていた。怜くんが日々さらっていく日常のひとすくいに、少しでもわたしの色が混ざっていないか知りたくてしかたなかった。
 たくさんの糸で複雑に編みこまれた怜くんのこと、好き勝手にほどいてたぐりよせたつもりになってた。あわよくばわたしの一部分とつなげて、かたむすびにしちゃいたかったんだ。
 今でも、好きだな、と、好きだったな、を往復してしまってどうしようもない。
 まるでシャトルラン百二十回目みたいなそんな状態。
 息切れして、ただただそんな自分の気持ちの間だけいつまでも往復してて――あと一回でやめる、やめるって思いながら、でも今までの感情無駄にしちゃう気がしてこわかった。
 時間を全部巻き戻してしまいたかった。知りたくなかったし、においも味もなにもかも、それにわたし、恋愛小説なんて書きはじめちゃって、物語はもう半分も進んでるのに、ねえ、どうするの。どうしようもない文句を、今は怜くんだけに思い切りぶつけてしまいたかった。

               *

 ダイチくんから二回目の電話がかかってきたのは、約束の前日だった。夏休みはじまって、まだ三日目。あのとき変な意地かなんかで行くことにした自分を呪い殺してやりたかった。
 夏休みに入ってからすぐに小説が進まなくなって、図書室に行かないからちえりにも会わなくなった。まだたった三日のことなのに、人生の空白ができてしまった気がした。でもからだが動かなかった。なにか一本、抜けちゃったみたいな気がする。そういう言い訳でタオルケットに甘えていた。枕もとで振動したスマホを数秒無視したけど、何度もかかってくるから、観念して手を伸ばした。
「……はい」
「……あ、真水、」電話でも声が大きい。「今、平気?」
「うん……」寝返りうって、畳の筋を指先でなぞっていた。「明日のこと?」
「あ、うん、あの、……綴が言ってた水族館、スカイツリーのところのだよね。ペンギンの」
「うん、……わかったんだ、……すごい」
「あ、うん、調べた」ダイチくんの声が少し緩む。「……遠いけど、でも、行きたい。おれも」
 返事ができなかった。腕を投げ出す。指先が畳と擦れていたせいでびりびり痛い。
「……真水?」心配そうな声が聞こえる。
「……うん、」
「あの……ごめん。無理やり誘っちゃって」
「え……」罪悪感。その三文字で酸素がまずい。「ううん」
「嫌だったら、でも……あの、明日、待ってます。とりあえず、待ってるので」
 あのときの、あのときの、あのときの、……いろんなときの、わたしみたい。一緒だ。
 そう思ったら、わかった、と小さな声がもれた。鼻の奥が痛くて、目を閉じたら涙が出た。
 ――変わってない。変われない。
 猫のぬいぐるみ。ラムネ瓶。間に合わないほど乾いてしまった鉢植えにかけた水。
 それから、……ダイチくん。
 明日の九時。ひとつしかない駅の改札前。
 電話が切れて、わたしは枕に顔を押しつけた。服も気持ちもなにもかも、ない。

 なにもないくせに、服を選ぶだけで時間がかかった。
 ないのに悩むのは、魅力的に見られたいからじゃなくて、当たり障りのない、無害な半透明になれる女の子らしさが欲しかったせい、そう思うことにした。どんなにどうでもいい場所へ行くのにも、女ってだけで嫌味な本能が顔出してしまう。堂々とジャージかなんかで行ける女の子の方が何倍もかわいいし、実際、羨ましい。
 押し入れの中、プラスチックの衣装ケース。引き出しを漁っていったら、白いレースのかたまりが目に入る。結局捨てることもできないままの、お父さんが買ってくれたスカート。きっと一生ここで眠ったままだ。この子は。わたしがいつかこの家を出たってここにいればいい。
 結局、当たり障りのないワンピースに袖を通した。たんぽぽ色の、小さいお花の刺繍が散ったワンピース。日焼け止めを塗って、小さなショルダーバッグを肩にかけて、髪はいつかのちえりと同じポニーテールにした。
 見送ってくれたおばあちゃんに、今日はお友だちと水族館に行ってくるね、そう言って笑ってみせた。おばあちゃんは女の子と一緒に行くと思ってる。楽しんでくるのよ、と言われた。うん。笑ったままそう答えて、あの日より一センチは大きくなったサンダルに足を通した。あの日履いていたサンダルは捨てた。入らなくなったから。きつくなってしまって、それで。
 駅まで俯いて歩いていた。汗っかきのわたしはいくらでも汗をかいた。ハンドタオルで押しつけるようにして拭いながら、サンダルがかるかる鳴るのをじっと見下ろして、ただ歩いた。
 八月の近づいた夏はこのごろ真っ白に発光していて、蝉は七日間の寿命なんて知らないから、いつまでもいつまでも泣き叫んでいる。
 梅雨の終わりごろから現れだした彼ら、もう何匹が死んだんだろう。相手の見つからないまま死んでしまう蝉もいるって聞いたことがあった。誰も相手がいなくって、それでも最後の最後まで泣きじゃくって、それでぽろっと木から落ちて死ぬんだ。
 でもそれで胸が痒くなるのなんて、感情に飼われた人間の中でも、感情に全部握られちゃってる人間だけだ。蝉はなんとも思ってない。思う、なんて、蝉にはない。
 海沿い辿って歩きつづけたら、あっという間に駅についてしまった。学校より少し先にあるのに。本当は、本当のところは、遠いはずなのに。
 改札前に男の子が立っていた。
 制服じゃないから、違う人みたいだった。
 でも、間違いなくダイチくんだった。
 彼はスマホも見ないで立っていた。だから彼はすぐにわたしに気がついて、ぱっと笑った。おはよっ、数メートル離れてるのにもう言葉をわたしに投げた。
 おはよう、張りあげたのにへにゃっとした声が出てしまう。彼のもとに急ぐ足が重い。
「暑いね」
「うん、」顔をあげたら、きらきらした表情の中、黒くて澄んだ目がまっすぐにわたしを見ていた。「……ダイチくん、日陰で待ってて、よかったのに」
 水色の綺麗なシャツ。伸びた腕。その日焼け。汗をかいてる。きちんと蝶々になってる靴紐。目線をあげて、そうしたら見える彼の顔。人懐っこいんだろうな、明るい子なんだろうな、そういう顔立ち。夏の暑さやそれ以外のなにもかも、たとえば桜と一緒に本当に消えちゃいそうな怜くんとは正反対の、男の子。
 ダイチくんはわたしの言葉に、今やっと気づきました、そういう顔をした。
「あっ、そっか、……気づかなかった。おれ、緊張しすぎてて」
 照れたような笑い声をたてる彼に、わたしは泣きたい気持ちを押しこんで笑った。

 わたしたちの町から、水族館のある押上まで二時間近くかかった。
 いくつも電車を乗り継いだ。同じ関東にあるはずなのに、東京は遠かった。お父さんがお仕事していた東京。こんなに遠いんだ。
 わたしは何度も迷いそうになった。そのたびにダイチくんが遠慮がちにわたしの肩をたたいて、こっち、こっち、そうやってひとつひとつ引っ張っていってくれた。生まれてからずっと、こんな小さくて大きくて複雑な場所に来たことのないわたしたち。それなのに、ダイチくんはわたしみたいにきょろきょろしたりしなかった。
 ダイチくんはいい人だ。
 全部調べたんだ。全部知ろうとしたんだ。
 ひとつひとつで揺れ動いたのは、こころじゃなくて罪悪感だった。
 なんでだろう。なんでわたし、自分勝手なまま、こうやっていろんな人傷つけて、それなのにそういうことに気づくのに後悔するのはずっと後になってからで、自分の感情にいつでも揺さぶられて――めちゃくちゃなやつだ。なにもかもむちゃくちゃだ。
 ダイチくんとわたしの間は三センチくらいあいていた。ずーっと、同じだった。
 お昼ごはんはショッピングモールの中で食べた。
 天井から下がるガラスでできた照明。テーブルクロスのギンガムチェック。椅子はソファ席だった。きらきらしてて、人がたくさんいて、食器や、喋り声や、いろんな音が一帯に響いているレストランだった。夏休みだからどこもかしこも人ばっかりだった。うるさかった。こんなにたくさんのおしゃべりが聞こえる場所ははじめてだった。
 わたしたちはそこでオムライスを食べていた。オムライスなんて、きいろい卵のまるっこいやつに、ケチャップかかったものしか知らなかったのに、そこにはデミグラスソースやいろいろがかかった知らないものばっかりたくさんあった。
 ダイチくんはたくさんおしゃべりする人だった。中学校は隣町のサッカー部が強いところだったこと。でも自分は剣道部だったこと。真夏でも顧問が怒鳴るから休憩時間がそんなになくて、いつだったかぶっ倒れかけたこと。今だったらとっくに大問題だね、と言ったら、だよねえ、と屈託のない笑い方をした。
 ダイチくんは一人っ子。でもいとこが七人兄弟で近所に住んでるから実質八人兄弟みたいなこと。購買のパンはミルククリームのはさまったやつだけあんまりおいしくないこと。学校の中庭には去年までたぬきがいたこと。同じ学校で同じ時間を過ごしていたはずなのに、ダイチくんの話す学校のことは、わたしとはまるきり違くて、奇妙な感じだった。
「購買のパン、食べたことない」
「え?真水いつも弁当だけど、毎日持ってきてんの?」
「うん」スプーンに絡まるチーズでちょっと食べにくい。「毎日」
「夏も?」
「うん。あの、お母さんとおばあちゃんが交代で作ってくれてるんだけど、夏は保冷剤たくさん詰めてるバッグに入れて持っていってるの」
「すげ、きんきんだ」
「あ、でも、教室が暑いから……結構溶けてる」
「ははは、マジで教室暑いよなー、エアコンが職員室だけなのやばくね」
「新校舎は全部つくみたいだけど、でも、工事終わる前に卒業しちゃうよね」
「夏長すぎるよな。ここ数年さ、十月くらいまで平気で暑いじゃん」
「うん、長いよね」ダイチくんのお皿が空になったから、急いで自分の残りをスプーンに集める。「のびたよね、夏」
 真水って、やっぱりなんか、違うよな。
 ダイチくんがそう言った。最後の一口を食べたせいで、目でしか聞き返せなかった。
 いや、あの、嫌な意味じゃなくて。ダイチくんは緊張が緩んできたのか、朝よりも表情が柔らかくなっていた。他の女子とは違うなって、いい意味で。
 わたしは曖昧な顔でほほえんで、冷えすぎた水を飲み干した。

 オムライスのお金も、水族館のチケット代も、ダイチくんは受け取ってくれなかった。おれ、結構バイトしてるから。マジで、いいから。
 わたしはただ、ありがとう、と言うことしかできなかった。高校生のくせに大人のやりとりみたいでちょっと気が沈んだ。でも彼の 善意に針を刺すようなことは、意気地のないわたしにはできなかった。
 東京の水族館は一見小さく見えるのに、階段をおりていくと奥行きがあった。そういえば、といつかのお父さんの話を思いだした。
 ――東京は、地上の土地があんまり残ってないから。地下に広いんだよ。
 なんでお父さんのことばっかり。絶対、あのスカート見ちゃったせいだ。
 夏休みの水族館はそれでも人でぎゅうぎゅうだった。家族連れが多くて、カップルも多くて、水槽の前には人の壁ができていた。見えないね、とダイチくんが呟く。
「東京、すげえな」
 わたしたちは人気のない、真っ暗で小さい、壁に埋め込まれたような水槽の前で足を止めた。
 中には小さいカニがいるらしいけど、いくら探しても見つからない。こういうの、わたしは昔から見つけないと気が済まなくて、あたりを一度見回したら相変わらずみんなは大きな水槽の前に壁を作っていたから、カニを探すことにした。
 カニは小さな木のうしろにいた。ほっとする。小さい小さいカニ。カニはその両手のはさみを動かすこともせず、まるで木に両手を置いて眠っているように見えた。
 かに、と小さい子の声ではっとして、わたしは慌てて水槽から離れた。お父さんに抱っこされた男の子は、舌っ足らずの残る声で、かに、かに、と繰り返しながら水槽に額をつけている。ダイチくんを探したら、彼はもう二つ先の水槽をどこかぼんやり見つめていた。

 わたしたちはひとつひとつをぼんやり見て回った。
 ペンギンエリアは人が多すぎてみるのをやめることにした。
 最後に足を止めたのは大きな水槽で、そこにはマンボウが横たわっているだけだった。
 マンボウしかいないせいか、みんな少し先にいったところのクラゲエリアにぎゅうぎゅうに立っていた。わたしたちはそこでやっと水槽の目の前に立つことができた。
 マンボウは生きているのか不安になるくらい、横たわったまま動かなかった。
 クジラは――やっぱり、いない。
 マンボウの水槽に鼻先を寄せる。不思議なにおいがする。マンボウはわたしの視線の更に下で横たわったままだ。じっと見ていると、かなしくなってくる。
 小さな街から電車で飛び出したのに、ここまで来たのに、こんなに大きな水槽なのに、クジラがいない。クジラだけがいない。水死した人はきっと今日だって何人もいるのに。
 ダイチくんもなにも言わずにわたしの隣でマンボウを見ていた。
 東京、すげえな。
 そのダイチくんの言葉を最後に、わたしたちはずっと、なにも言葉を発さないままだった。
 急に――熱い指先がわたしの指先に当たった。
 うかがうようなその動きに、ダイチくんがなにをしたいのか、見なくてもわかった。
 ぞっとした。マンボウは動いてくれない。眠ってるのかもわからない。
 やめてよ。
 なんで。
 気持ち悪い。
 ――きもち、わるい。
 いくらでも最低な言葉が脳みそぐるぐるするから目が回る。めまいに似てる。
 いくらでも言葉はこぼれ出すのに、唇は開かなかった。
 それでも手を握られた。
 わたしは動けなかった。
 わたしは大きな水槽の、分厚いガラスの、その奥の、実はなんてことない距離で泳いでいる、でも途方もないマンボウ見つめて、瞬き忘れたままだった。
 目が痛くて、震えるような瞬きを繰り返した。
 乾いて痛む眼球で、ダイチくんを見た。
 目線が絡まる。というより、絡めとられる。指先と同じように。
「ごめんなさい」無理やり笑った。「帰らせて――」
 わたしはすぐに俯いたから、ダイチくんがそのときどんな顔をしたかも知らなかった。
 ダイチくんの手を振り払って、マンボウ置き去りにして人波に飛びこんだ。
 荒れ狂う人波。汗や香水や誰かの口臭。毛の生えた太い腕に大事そうに抱えられた赤ちゃんのにおい。高い声低い声、揺れる声のその音がぐちゃぐちゃに入り乱れてわたしの耳を混乱させる。館内アナウンス。水っぽいにおいはどこからするんだろう。ここは全部ガラス張りなのに。呼吸。誰かの、誰かの、大量の、呼吸。学校に充満するものと変わりはしない「生」。
 どこにいってもとりついてくる。時間をかけて電車を何度乗り継いでも。むしろここはひどい。最低だ。あの町より何倍も。
 いるかのぬいぐるみ抱いた女の子の肩を、優しそうな男の子が抱いている。薄暗い群青の中で指先絡めあってるお兄さんとお姉さん、強く握らなくたって疑わない愛情を隙間にぶら下げてるそれ、薬指にたぶん結婚指輪。腕組み合ってるお兄さんとお姉さん。仲良し同士で連れてこられた小さな女の子と男の子は、ふたりで指先使って魚の行く末探してる。
 わたし、今朝、ワンピースなんて着ちゃいけなかった。
 ここに来ちゃいけなかったんだ。
 ……今ごろ、怜くんと亜衣ちゃんはデートしてるのかな。
 ずきずきむずむずして、苦しくて、言葉になんない。
 わたしずーっと、いろんなこと、いろんな感情、いろんなもの、自分のなかの言葉を使って食べた。消化してきた。でもこの気持ちだけ、どうしたらいいかわかんなかった。
 恋ってなんて偉そうなんだ。
 恋に病んでる女の子、なんて偉そうなんだ。
 えらぶってんなあ、えらそうだ、こんなのかわいいわけないだろ。
 水族館出たら、外の熱気にくらくらする。眩しい白い陽ざしで、八月の嫌なとこを知る。
 わたしの嫌なとこみたい。すきって思ったら、こんくらいしつこく熱してる、気がする。
 本当は――本当はわたし、今日いちにち、ずっと、怜くんの輪郭だけを欲してた。

 ――然し……然し君、恋は罪悪ですよ。

                    *

 八月も真ん中にさしかかっていた。
 お父さんのおさがりのパソコンは、いつの間にか大学の資料集の下敷きになった。
 ちえりに見せるためにいちいち印刷していた原稿の束は山になって、文机の下で雪崩を起こしていた。夏休みの宿題は受験準備のために減らされていたけれど、模擬を受けてみたり、そんなことをするためにシャーペンを握って教科書やワークを睨みつける日ばかりになった。夏休みはそんな風に死んでいく。
 模擬。勉強。資料集め。
 いっぱしの受験準備はしていたけど、それでも大学に進む、受験をする、という決意はわかないままだった。
 お母さんもおばあちゃんも、そういう話はしないようにしようと決めているのか、猫背になって問題にとりかかるわたしの背中を撫でるばかりだった。
 ちえりに会わなくなって一か月近く経った。
 書かなくなった。
 あれほどすきだったのに。
 書かなくても平気になってしまった。
 沈みこんでいたとき、筆を止めたら死ぬと思っていたけど、やっぱりそんなわけはなかった。
 停滞する主人公。きっと水死体になって漂ってる。わたしの手じゃないと、わたしが考えた言葉じゃないと、一秒だってあの世界は変わらない。進まない。でも正しさを失った今のわたしにどうして小説が書けるだろう。自分を慰めるための、誰もがもう何十回も何百回もなぞった当たり前のお説教を、さも自分の言葉かのように組み替えることしかできないわたしに。
 結局――進路希望調査票には、文学部、と書いて出した。
 行くなんて思ってもないのに。
 三者面談でも同じことを言った。なにか文学の勉強できればいいかなと、思っています。
 そうか、と担任は頷いた。それから、向いてるな、とも言った。
 西野先生には言えたのに。わたし、西野先生に、言ったのに。
 おばあちゃんは口を挟まないでじっと話を聞いていた。
 わたしが書かなくなったのを、おばあちゃんもお母さんもとっくに知っている。
 でも、書かないの、とは言わなかった。
 書かないの、そう言われるのをどっかで待っている自分が、ここ数日顔を出し始めた。うんざりする。うざい、おまえ。悪態ついてもしぶとくこっちを覗いてくる。
 本当は、パソコンを開いていたときもあった。
 文字は書けた。文章にもなった。でもそれは小説じゃなかった。
 ただのわたしの日記みたいなものだった。
 それで電源を落としてしまった。
 今までこんなことなかった。
 へたくそでも物語になってた。
 どっかでなにかがずれてしまった。怜くんから離れて、そうしたらいい具合に滑りだしたはずのボートは、簡単な波で方向を失った。今までは正解とか不正解とかそんなの考えたことなくて、ただ楽しくて、夢中で、そうしたら小さな陸にたどりついて、またしばらくしたら漕ぎだして、わたしそうやって書き続けてきていた。
 たとえ誰にも認められずに終わっても。
 今まで続いてきたのは、わたし自身が、わたしの物語をすきでいられたからだ。
 今は?
 すきじゃない。すきになれない、いや、ちがう、すきって言う、自信がなくなった。自身も。
 でもそれが、小説、なのか、わたし自身、なのか、そんなこともわからなくなった。
 ――いとの小説、読みたい。
 ちえりの声が聞こえた。
 ねえ、ちえり。
 書けないよ。
 小説にならない。
 そっか、そう言っていつもみたいに抱きしめたり、髪を撫でてもらいたかった。文机の下を見たら、今までのわたしの原稿がぐちゃぐちゃに乱れて、滑って、混ざっていた。
 ごめんね。
 そう思って目を閉じる。わたしの小さい部屋。小説詰まった本棚以外、他の女の子の部屋より隙と空白の残る部屋。蝉の泣き声かき消してほしいのに、扇風機の声は小さい。
 ちえりが恋しくて、こいしい、その四文字が目を閉じたわたしにとりついた。
 ちえりはどんな顔するんだろう。
 ねえちえり、書けなくなっちゃった、わたし、小説書けなくなっちゃったよ。
 いちごチョコレートの髪。白いワンピース。汗の目立たないさらりとした肌。綺麗な二重と長い睫毛、高い鼻筋、明るくて空気の詰まったボールそっくりの声。
 あいたい。
 今、誰よりも、ちえりに会いたかった。

                    *

 ――軒先につばめの巣ができてるよ。
 庭にいるおばあちゃんが嬉しそうにそう言ったのを、上がり框から聞いた。
 今までの原稿を詰めこんだトートバッグを肩にかけたわたしは、ほどけたスニーカーの靴紐をかたく結びなおしている途中だった。
「つばめ?春じゃないの?」
 開け放された三和土には、おばあちゃんの靴だけが残っている。お母さんは今日も仕事に行ってしまったし、わたしもこれからちえりに会いに行ってしまう。
「夏ごろまではつくったりするのよ、むかーしも、こうだった」
 おばあちゃんは眩しそうに手で日よけをつくりながら、軒先を見上げている。歳のわりにまだ若い、そう言われているし、わたしもそう思っていたけど、おばあちゃんは少しずつ確かに小さくなっていってる。昨晩お母さんの白髪も見た。
 時間は――時間は勝手に進む。わたしはそんなこと思いながら、帰ってくるの、と聞いた。
「え?」このごろ何度か聞き返されることが増えた。わたしは大きく口を動かす。
「帰って、くるの?つばめ。今からっぽでしょ」
「かえってくるよ」
 立ち上がる。
「ここが家だもの」
 おばあちゃんの隣に行くと、眩しい陽ざしで目が細くなる。おばあちゃんのまねをして日よけを作ってみる。ほら、あそこ。指さした軒先までまた戻って、見上げる。つばめの巣がちゃんとあった。ほんとだ。呟いてみる。
「……ちゃんと戻ってくるからね」
「ここに」
「そうよ。家だから。帰ってくる場所だからね」
 肩にかかる原稿の重みは、全然、たいしたことなかった。ずり落ちる持ち手をもう一度肩にかけなおして、いってきますと呟いた。
「どこ行くの」
「図書館」
「気をつけてね」
 飛び出す。
 八月。
 七月よりもっともっと白々しくて、蝉がうるさくて、蚊がいて、汗ばかり滲んで、海も潮のにおいもひときわ強くて、大っ嫌いな八月。
 一歩踏み出したら、戻れない、そう思わせるような熱波で、小さな町の空気は歪んでる。
 逃げ水に飛びこむ。
 また、夏に引きずり込まれていく。ちえりに会うために。

                    *

 防波堤に停まった自転車が三台、太陽に狙われてじくじく熱を孕んで光っていた。声変わりを迎える前の男の子たちの声がここまで聞こえてくる。海に飛びこんで遊んでいるのか、ばしゃばしゃと水をはねつける音も聞こえた。
 自転車のすぐそばに転がったサイダーの缶と誰かの文庫本、見分けのつかない黒いショルダーバッグ、それぞれのスニーカーとそこに詰まったそれぞれの靴下。
 陽ざしに照らされて、鈍く光りながらいなくなる軽自動車。
 べたべた足音をたてながら、わたしを追い越していく女子小学生ふたりの水色とピンクのサンダルのきらめき。
 茹だる空気。
 ゆらりゆらり、向こうで揺れる景色。
 途中、自動販売機でペットボトルの麦茶を買うと、一気に半分飲み干した。
 夏休みの学校は奇妙な静けさをまとっていた。お盆が近くなって、だからか、部活動も休みに入ったんだ、空っぽのグラウンドを見ながら気づいた。
 図書室に向かう足取りが、あの湿った道の途中でひどく重さを増していた。
 会いたい、違う、会わなきゃだめ、そういう気持ちでここに来たのに。
 頭上で蝉が飛んだ。かたちにならない声が唇の端から同じように飛び出す。右の靴紐が緩んでいる。足元の土はなぜかぬかるんでる。雨は降っていなかったはずだ――。
 図書室の入り口、たった三段の階段をいつもより重たく踏みしめた。肩が痛い。
 引き戸が何度も引っかかった。苛立ちがつのる。優しくなんかない乱暴な手つきで思い切り引っ張った。はめこまれたガラスがびりびりと怯えた声をたてたけど無視をした。
 カーテンは揺れていた。
 鼓動が落ち着きなく何度もわたしのからだに響く。ちえりはいつでもいる。だって、わたしがここに来るたび、ちゃんといる。今日だってそう――。
 窓はすべて開け放されていた。
 窓辺の背の低い本棚の上にちえりはいなかった。
 は、っ、と短く息を吐き出す。
 網戸もない窓の向こうに見えるのは新校舎を覆い隠す工事中のアルミホイルみたいな布と、空っぽのグラウンド、青く葉の茂った木。そのもっともっと向こうに、海辺の線がうっすら存在している。
 窓を背にして図書室を見回す。なにも変わらないこの場所。机も、椅子も、本棚も、そこへ詰まる本たちも、なにもかも変わらない。ずっと変わらない。窓の一枚向こうは一秒だってそのままではいられないのに、ここには目に見える時間の流れがない。壁にかかる時計がなければ、そこに表示されている日付がなければ、自分が今どこを生きているのかもわからなくなる。
 ちえりがいない。
 本棚に座って、壁に背中を預けて、ただ外を見つめていた。暑くてぼうっとしても、汗がたれても、わたしはそうしていた。膝の上でトートバッグが陽の光を集めるから、じりじりとそれさえも焼けていってしまう気がして原稿を取り出した。
 全部で七つになった束。
 書くたびに、ちえりに見せようと、壊れかけのコピー機で印刷したわたしの原稿。
 食べるのに飽きてしまった子どもがもてあそぶような、興味を失ってしまったような、そんな手つきで、いちばん最初の原稿からめくっていく。目を通す。そうやって、ひとつめ、ふたつめ、みっつめ、順番に読んでいくと、文字と文字の向こうにそのときどきの自分が透けて見えて、みじめ、馬鹿みたい、そんな言葉ばかり頭に響く。
 なんて夏だよ、泣きたくなって膝を抱えたら、ずるりとトートバッグが滑って床に落ちた。拾わなかった。がさがさと両腕の中で原稿が身を寄せる。そのまま顔をつけた。
 ――いと、おはなしかくひとになる。
 小さいころから本をたくさん買ってもらった。たくさん読ませてもらった。誰も、わたしのすきを否定しなかった。いつだって優しい人たちにわたしは護られていた。だから唯一、わたしの大事なすきを否定してしまうのは、わたしだった。
 わたしだけだった。
 ずる、と鼻を啜った。暑さでくらくらした頭はちゃんと動いていなくて、感情をうまく言葉にすることができなかった。だから一個も食べられなくて、消化できなくて、わたしはまた鼻を啜った。夏の音でうるさいはずなのに、ここには誰もいないから、そういう小さなわたしの音も響いてしまった。
 高校二年生。十七歳のわたし。おはなしかくひとになる、そんなこと言っていたわたしとはもうなにもかも入れ替わっちゃってるのに、わたしのこころだけがいつまでもあのときで止まってしまっている。進めない。進まなくちゃいけないのに、進めない。
 小説以外になんにもない。
 でも、わたしは別に天才じゃなかった。
 書いて、書いて、でもだめで、また書きなおして、それでもだめだ。
 書いてるうちにわかってくる、ああ、この作品まただめかもしんない――そういう直感に似たものを押しこむように、よし、できた、そう言って出して、だめで。
 みんなは大学に行く。社会人になる。
 あと一年したら、わたしは今よりももっと浮いていく。
 沈めない。
 軽いから沈めない。
 みんなと同じ重みがあればよかった。
 この先、……この先なんて、どうやって考えればいいの。
 わたしは頭がよくない。
 だから、わからない。
「いと」
 おそるおそる顔をあげた。
 ちえりがいた。
 滲んでいた涙が乾いていく。まばたきを忘れたから。
「……ちえり、いたの、」
「……うん」
 ちえりは本棚の上に乗って、わたしの正面に座った。風が吹いて、今日はおろしたままのちえりの髪を揺らした。陽があたると白さを増すその肌とワンピース。ちえりはまっすぐにわたしを見つめ、ぐしゃぐしゃになった原稿に手を伸ばした。
「どうしたの?」
「……ちえり」唇を噛むことで涙を無視した。「書けなくなっちゃった。だから書かなくなっちゃった。みんなもう塾に行ったり大学の話してて、あと一年もあるなんて浮かれたこと言う子もほとんどいなくて、わたし、わたし嘘書いた。進路のこととか、……もう、わかんなくなちゃった――」
「いとは、小説家になるんだもん」
「なれるわけない」
「……なれるよ」
「才能があったらとっくにデビューしてるよ。だって、わたしと同い年の女の子がデビューするんだよ、その子……その子、はじめて書いた小説だって言ってた。わたしはもうずっと書いてきたけど、どれもだめだったよ。才能がないってことだよ。なれるなんて思えない」
「人それぞれだよ。いとは才能あるよ」
「それならどうしてだめなの?わたしたくさん読んだよ。賞をとったやつも、そうじゃないやつも、毎日読んでた。それで自分なりに考えていろいろ書いてきた。だめだった、それって才能がないからそうなるんじゃないの?なにしたらいいの」
「そのままでいいの。成長痛がまだ続いてるの。それはいつか終わるよ、いとが書き続ければそれは痛みじゃなくていとの視界をひらけさせるものに変わるの」
 ちえりは動じない。わたしがなにをまくしたてても、いつも通り、ほほえみすら浮かべてそういうことを言う。だからわたしの隙間に風が吹く。不足しているのはいくらだってわかるのに、なにが不足しているのかがわからない。わたしはそれを知りたいのに。
 言葉をまくしたてるための呼吸、酸素を吸うたびに、わたしの中で汚れきったものが膨らみだす。ポンプで空気を送りこむみたいに。
 わたしは本棚からおりた。ちえりから取り返した原稿を抱いて、床に潰れたままのトートバッグなんか忘れていた。ねえいと。ちえりの声が背中を撫でた。
「そんな日もあるよ、大丈夫よ」
 かっとなったのが自分でも嫌なくらいわかった。
 ――違う、
 欲しかったのはそれじゃなかった。
 ばつん、はりつめていたなにかがペンチで切り落とされたような音がどこかで鳴った。
「書けない!」わたしは叫んだ。「どうしても書けないの!」
 その瞬間、訪れた静寂が、わたしたちの間に空白をつくりあげてしまった気がした。
 おそるおそる振り返った。
 わたしを追いかけてきたちえりは、珍しく言葉に詰まっているみたいだった。悲しそうな表情に、わたしの心臓はぎりぎり締っていく。そんな顔しないでよ。そんな泣きそうな顔しないでよ。ちえりのくせに。
「やめたい」
 本当は思っていないのに、わかってるのに、嘘と焦りと恨みと全部が混ざっていく。
「小説なんかもう書けない」
「書ける、いとは書ける」ちえりはわたしに手を伸ばす。「ねえ、やめないで……」
 わたしの汗ばんだ腕を掴むちえりの白い手。やっぱりさらさらしていて、汗も体温もわずらわしさもなくて、それはいつかの怜くんの感じとよく似ていて、唇を強く噛んだ。
「なんでちえりに、やめないで、なんて、言われなくちゃいけないの」
 矛盾した意地悪ばかり、飛び出す。
 ちえりはなにも言わない。じっとわたしを見つめている。悲しそうでもあって、なにかうっすらと恐ろしささえ感じるまっすぐなまなざし。長い睫毛の奥の瞳がわたしを射抜いていることに今はぞっとしてしまって、その手を強く振り払った。
「それならちえりが書きなよ」声が、言葉が、尖っていく。「ちえりが書けばいい」
「……できないよ、私には」
「じゃあ関係ないじゃない、」わかってるのに。「ちえりはなんでわたしに執着するの?」
「いと……」
「保証のない夢追ってるのはわたしなの、書いてるのはわたしなの、今苦しいのもわたしなの、」
 なんて最低なんだろう。
 なんて自分勝手なんだろう。
 またわたし、おんなじことしてる。
 いったい何回繰り返せば気が済むんだろう。
 いったいいつ、やめられるようになるんだろう。
 こんな人間なら、作家になれなくて、書けなくて、もう当たり前だ。
「誰のために書いてるのか、どうして書いてるのか、わからなくなったの。なにがおもしろいのかもわからないの、なに求めてるかもわからないの、もう何回も何回も書いて書きなおして、これはいける、これで決まるって、そうやって送り出した小説の全部が、今まで誰のこころにも残らないままわたしのところに帰ってきた!いつまで続くのかもわかんない、いつまで、あとどれくらい、なにをして、なにを頑張っていたらいいのかわからないよ!わたしでも書けるような物語が愛されてて、誰にももう書けないような物語が汚い教室で馬鹿にされてて、忘れられて行って、そんな世界にこれ以上なにを与えるために書けばいいの?考えればいいの?才能だって運だってなくて、いったいいつなれるの?誰も答えてくれない、誰も言ってくれない、だったらせめてわたしちえりにはねつけてほしかったのに、だめだよいと、才能がないんだから諦めようよって、それでどうでもいいような社会に出て小説家じゃない人生を選ばないと後悔するよって、そうやって怒鳴ってほしかったのに、なんでまだわたしのことを庇うの……」
「だって、だって私、いとのこと、愛してるから……」
 わたしは原稿の束を握りしめた。表紙が破ける。ちえりがぐしゃりと表情を壊した。わたしより何倍も痛むような顔で。びり、指先で表紙が裂けて千切れて、そこへ涙が落ちる。
「夢を追えば追うほど、どんどんみんなとずれていくんだよ。それが怖いのに、誰も教えてくれない。こんなことしてる間にどんどんずれる。答えのないもの追ってる間にどんどん自分だけずれて、当たり前の時間を進んだみんながときどき振り返ってわたしを見るんだ、それで気休めみたいなこと言うんだ、夢追ってるのすごいねって……」
 そんなのすごくもなんともない。
 出逢いたくなかった。
 小説なんかに。
 ちえりなんかに。
 すきになりたくなかった。
 なにもかも。
 クリップを外した。ばらけていく原稿で、ちえりが青ざめていく。やめて、いと、やめて。呻くような声なんて聞こえないふりをして、わたしは原稿を縦に破った。ちえりの手が空を切る。物語の序章がちぎれて、床にはらはらと落ちていく。はじまりを失った物語はばらけていく。次の十数枚を掴む。裂く。ちえりの顔がどんどん青ざめて、頬を滑る涙の筋が増えていく。
 痛いッ、とちえりが叫んだ。やめて、いと、やめて、痛い!鋭い声に一瞬ひるんだ。
 ちえりはわたしの足元に駆け寄ると、無理やり残りの原稿をひったくった。その瞬間、指先に鋭い痛みが走る。散らばる原稿の破片で滑って、取りあげようと伸ばした手が空ぶった。
 ちえりはわたしの小説の束をきつく抱きしめていた。ぼろぼろ涙を流しながら。
「いとが書かなくなるなんていやだからッ、そんなの、絶対、ッ」
 いつもならわたしなんかより何倍も落ちついていて、わたしの前で泣いたりしなかったちえりが、ちっちゃい子みたいに叫んだ。悔しそうな顔でわたしを睨みつけながら、泣いていた。
 わたしは茫然とちえりを見つめていた。
 カーテンがぶわりと風をはらむ。
 いちごチョコレートが揺れて、ちえりの崩れたむき出しの泣き顔にぶつかる。
「いとじゃないと書けないもの、たくさんあるのに!やめるなんて言わないで、消えちゃう、全部消えちゃう、今までのいとの傷も優しさもなにもかも消えるのッ、絶対にいやだ!」
 ひりつく指先に目線を落とす。原稿の端っこで切れた人差し指から、真っ赤な線が浮き上がっている。なんでよ、とわたしはひとりごとのように言葉を落とす。
なんでそんなにちえりが一生懸命になるのか、わたし、わからないよ――。
 ちえりはその場にうずくまって、静かに涙を落としていた。肩が震え、床にはワンピースの裾が白い花びらみたいに広がって、その真ん中、ちえりのピンク色の髪が相まって、ちえりはこの世にはないなにかの花みたいな、ぞっとするほどの美しさを孕んでいた。
 わたしはもう言葉も探せずに、ただただ痛むのどで張りつくような唾を何度も飲みこんだ。
 執着してるのは、わたしのほうだ。
 痛みを忘れて、都合のいいもので満たされること。それを幸せっていうのかもしれない。
 でもわたしはそんなの馬鹿だと思った。痛みは治らない。
 生きるうえでの痛みは、ケガじゃない。いのちに染みついてるもので、それを知らんぷりすることなんて、できなかった。
 わたしは痛みと一緒に生きて痛かった。
 だから――でも。
 言ってはいけないことと自分の本当が繋がってしまっていることが多くて、それから指を離して他の選択肢を引っ張り上げると、いつだって本当が言えないままで、わたしはいつまでも、誰にたいしても嘘を吐き続けている。そんなのいけないって、それじゃだめだって、そういうときが、大人になっていくにつれ増えていくのに。
 どうしたらいいかわからない。
 ちえりは背中を丸め、何度も何度もしゃくりあげるばかりだった。
 その背中があまりに猫背で、骨がうっすら浮いていたから、いつかのクジラを思い出してわたしも泣いた。