薄っぺらい原稿から顔をあげたちえりのほっぺたが、いつもより明るい桃色をしていた。
「……変なとこ、あったり、した?」
「ない、ない、」ちえりはぶんぶん首を振って、はしゃいだ声をあげる。「かわいい、このお話、私だいすき」
「まだ序章しか書いてないよ……」気恥ずかしさで目を伏せる。
 わたしたちはいつもの窓辺の本棚の上で並んで腰かける。ふたりでビブリオノートをのぞきこむ。
 ちえりのにおいはいつも変わらない。
 いつしかノートの中身を、ちえりになら全部見せるようになっていた。
 わたしの癖字、しかも殴り書きを、ちえりはいつもすらすら読み解く。
「この一文好き。……二十四時間のうち六時間近くもきみのうしろに座ってて、それなのに知ることができるのはその背骨のかたちだけ」
「えーっ、ええ……これ、うーん、ちょっと、うざくない?くさくない?」
「そう?」
 わたしたちは肩をくっつけあって、クリップで右上とめただけのまだうすい物語と、シャーペンで急いで書きこんだいろいろを見つめる。誰かにこうして物語を見せたり自分の小説のこと相談するのはわたしにとってはじめてのことで、でもちえりならいいや、そういう気持ちのほうが大きかった。
 むしろちえりにならいくらでも話したいことや見せたい部分があった。
「好きって、いいな。かわいい、かわいいなあ、こういうこと考えているとき」
 ちえりはしみじみした顔でそう言って、原稿を撫でた。
 真っ白な紙に黒いインクで書かれた仮タイトル。それを一枚捲れば、まだ未完成の物語が顔を出す。
「ちえり」
「うん?」
「髪ゴム。緩んでるよ」
「え、」
 今日のちえりは低い位置でひとつに結んでいたけれど、髪質とゴムの感じが合わないのか、緩んでいる。
 結んであげようか、と言うと、嬉しそうに頷いた。
 ちえりの髪をポニーテールに結ぶ。さらさらした束にこっそり鼻先近づけたら、やっぱり気のせいなんかじゃない、確かな甘いにおいがした。ポケットから折り畳みの櫛を出す。
「いとの好きな人はきっと特別なんだろうね」
「え?」ヘアゴムでくくる前に何度も櫛を通す。
「いとから見て、他にかわりはいないくらい、特別?」
 もうちえりにはお見通しらしかった。
 さらん、さらん。
 ちえりの櫛通りのいい髪は綺麗にまとまっていく。
「……特別じゃない。どこにでもいると思う。きっとそれ以上の男の子もいる。いるけど、怜くんじゃないとだめな理由がどっかにあるんだと、思う」
「……うん、素敵だね」
 ふたりして窓に目を向ける。
 ふたりきりの図書室、夏は加速するばかりで、今日もまた汗をひどくかいているのはわたしだけで、ちえりの肌は湿ってもいない。 
 あらわになった白い首筋に日差しがあたって、ああ、まぶしいな、そんな呟きも一緒に髪ゴムでくくってしまう。
「ねえ、蝉ってどうして七日間しか生きられないの?」
「ええ、……なんでだろ」
 まっすぐでささいなちえりの質問で、わたしは知らないことばかりだと気づく。
 ひとりだったらすぐにスマホを出すわたしは、このごろ、ちえりといるときだけスマホを出さないことにしていた。
 知らないものを、知らないなりに、あってるかもわからないことを、自分なりに喋るようにした。
 わたしたちは、頭のいい人ならとっくに知っている蝉の七日間について何十分も喋り続けていた。高い位置でくくったちえりの髪は、わたしの無茶苦茶で適当な言葉に何度も揺れた。

               *

 小説を書きはじめると、わたしの世界は溶けだした氷みたいになにかに沈みはじめる。
 なにか、はたぶん「日常」の下で、そこはわたしだけの世界で、わたしがわたしの小説のことだけを考える空間で、筆を進めていくとそれに比例してどんどん溶けて沈んでいく。
 これがいつか、からんと音を立てて完全に沈む瞬間を待って、待って、待ちながら、熱にぼうっとした感じで書き続ける。
 見なくちゃいけない氷の上の「日常」にはやらなくちゃいけないことがたくさんあるけど、どうにも集中できなくて、気づけば沈もうとしてる。悪い癖だ。
 でもこの悪い癖がわたしを救ってる。
 このごろ朝早く学校へ来て、まだ誰も来ていない教室の窓全部開け放して、ひとりでただビブリオノートにこれからの展開を書き留めていくことが日課になっていた。
 原稿自体はずいぶん昔にお父さんのおさがりでもらったパソコンで書いているけど、重たいし、ここまで持ってくるのは壊してしまいそうで気が引けた。だから帰ったらどのシーンを書くか、これから主人公をどんな女の子にして、恋を描いていくか、考えながら思いついたものをどんどん書いていく。
 昔から筆圧が強いから、紙に凹凸ができて、芯もわりと折れやすい。
 頭に流れてくるものをひととおり書き終えたころ、やっと手が止まる。
 下を向いていた首は痛いし、右手の端っこは鉛のせいでうっすら黒い。
 長く息吐き出してシャーペンをペンケースに入れると、手をぶらぶら揺らす。
 蝉の声は朝を過ぎてから強くなっていく。この教室に踏みこんだときはまだほんのちょっと静かだったな、そう思いながら窓辺に目線を滑らせると、今日もすっかりかさかさになった花の植木鉢が目に入る。
 あの日、怜くんの隣でやっぱり渇いていた子。誰が連れてきたんだろう。
 窓辺に手をついて、植木鉢を見おろす。もう葉っぱもほとんど枯れていて、だめだろうな、というのは直感でわかった。刺さっている紙の札を抜き取ったら、ぼろぼろと黄土色の土が落ちる。鮮やかな満開の写真と、古い感じのフォントで刻まれた花の名前。
 ちゃんと育てばこうなりますよ。
 そう言っている気がした。わたしは抜いたせいでできてしまった穴に、そっくりそのまま、もう一度札を刺しこんだ。それから席に戻って鞄から水筒を取り出す。
 きんと冷たい麦茶がまだなみなみ入ってる。おばあちゃんが毎朝入れてくれる麦茶。
 蓋だけ持って廊下に出る。A組の教室通り過ぎた奥に水道がある。
 少しずつ、少しずつ、確かに、秒針ともしかしたら同じ速度で朝も変わっていく。水道の向こう側、窓の奥から射しこむ陽ざしはさっきよりもずっと明るい。手を伸ばして掴んだ蛇口があたたかい。捻る。水が眩しく筒状になって、年季の入った石の洗面台にぶつかってはじける。
 緩めて、細くなった水を蓋の半分ほど溜めて蛇口を閉めた。
 教室に戻る。まだ誰も来ていない。
 今だ、と思って、植木鉢に近づくと、蓋を傾けた。
 黄土色に乾いていた土がレンガのような色になり、それより濃い色に変わっていく。
 ほっとして、でもはっとして、蓋に目をやる。植木鉢には水がいっぱいになっていた。
 わたし、――自分のためにこうしてる。
 そう思ったら、あの日、一目惚れして買った猫のぬいぐるみを女の子にあげたのも、ちえりのためにラムネを一気飲みして叩き割ったのも、変にしっくりきてしまって苦しくなった。
 わたしの優しさ、ってみんなが言うものは、エゴの言い換えだ。
 人間くさいな。
 こんなににおうのは、いやだ。なんでかいやだ。
 もっと綺麗な存在でいたいと思ってしまうんだ、いつも。それで無意識にいろいろ空回って、全部まわりまわって自分のために着地する。そういうことか、そっか。
 これは、わたしがやらなくてもいいことをやったせい。
 これは、予想よりずっと多かった水のせい。
 これは、乾きすぎて飲みこむことも難しくなってしまった土のせい。
 こんなような答えの、どれをとればいいかわからなくなる瞬間が、このごろとても多い。
 鉢植えの前で、蓋を全部とった水筒から麦茶を飲んだ。がぶがぶ飲んだ。冷えすぎた麦茶がからだの中心をとおっていくのがわかる。でもどっかで急にいなくなる。
 濡れた手をハンカチで拭いたら、忘れていた鉛の汚れが灰色になって染みついた。ため息が出る。
「あれー、おはよ」
 大きな男の子の声で、びくりとする。
 振り返ったらほとんど話したこともない子がわたしを見て手をあげたから、一瞬言葉に詰まった。
 おはよう、と言おうとしたら、その数歩後ろから怜くんが顔を出したから、よけいに声が出なくなってしまった。
 視線をずらしたらまた植木鉢にぶつかって、水をあびた土が、じわ、じわ、と懸命に吸いこもうとしていた。
「あ、マミズ、おはよ」
 結局、何度も頷いただけで、わたしは逃げるように自分の席に戻った。
 目の前で怜くんが鞄を下ろしたから、あっと思った。
 そうだ、怜くん、わたしの目の前の席だった。窓辺にいればよかったなと顔を向けたら、男の子がその近くの席に腰をおろした。
「真水がこの時間にいるの珍しいよな」
 男の子がさらりとわたしを呼んだから、戸惑ってしまう。
「確かに。マミズ、どこらへんなの?」
 そう聞きながら、怜くんがボトルの制汗剤を鞄から取り出す。
 ライトブルーのボトル。キャップがあくと、石鹸のにおいがふっと鼻先撫で上げて、わたしは思わずその手を見てしまう。
「遠い?」
「えっ、あ、えっと、灰羽町」
「灰羽?遠いねちょっと。歩き?」
「歩き」
「ええっまじでえ」男の子が目を丸くする。「この暑いのに?えらすぎだろ」
「ダイチは近所なのに自転車だよ」
「いや、いいだろッ、別に」
 ダイチ。
 あ、この子か。
 怜くんが何度かなぞっていた名前。
 怜くんはダイチくんと映画かなにかの話をしながら、手に持っていた制汗剤を数滴出した。
 さっきよりはっきりする石鹸のにおい。それから慣れた手つきで首筋につける。
 伸びかけの黒い襟足が持ち上がって、そこにたしかに汗の筋を見た。
 汗、かくんだ。
 当たり前のことに気づいて、気まずくなって、小説でも読もうと鞄に手を伸ばした。
「……あ、ごめん、」怜くんははっとした顔でわたしを見る。「においだめ?」
「あ、ううん、全然。気にしないで。平気。いいにおいだから大丈夫」鞄に伸ばしていた手をばたばたさせる。「わたしあんまり気にしないタイプだから、大丈夫」
「使う?」
 はい、なんて、クエスチョンつくかつかないか微妙すぎるイントネーションで、へんてこな返事が飛び出した。怜くんは気にも留めてない様子で、わたしにボトルを差し出した。ええ、てかわたし、いいにおいだからとか、変なこと言っちゃった。
 暑さとはまた別の汗が垂れた気がしたけど、目を上げたら手のひらに石鹸のにおいが冷たく広がった。
「首、」怜くんは軽く指先で自分の首を指した。「涼しいよ」
「あ、ありがと……」
 伸びきった黒髪を持ち上げて、手のひらをあてる。おそるおそる滑らせたら、ひやりとした、つくりものの涼しさが走った。顔のすぐそばで石鹸のにおいがして、鼓動が焦りだす。
「おおい島本ォ。おまえちょっと卑猥なことしてんじゃねーよ」
「卑猥ってなに」怜くんは呆れた声を出す。男の子と喋るとき、トーンが落ちる、っていうより、ぐんと落ち着いて、少しだけ早口気味になる。「すぐ使わないでくださいそういう言葉」
 はい、じゃあどうぞ。
 怜くんはそう言って、ダイチくんの手にそのままボトルを投げた。あ、って思ったけど、遅かった。
 ダイチくんは素直にキャップを開けて、ばしゃばしゃ出すと首筋に塗った。
 おんなじにおいしたのが三人になっちゃった。
 うわっ、こいつ。わたしはひっそりこころの隅っこで呪った。
 ダイチくんはサンキューと言いながらキャップを閉めてこっちへ来ると、怜くんの鞄に制汗剤のボトルをつっこんだ。
 いつものことなのか、怜くんはそのまま椅子に座る。
「てかおまえ白すぎね?なんで焼けないの」
「赤くなんの。言っとくけど結構痛いんだからな」
「ちぇ、色白腹立つわー」
「あっそう」
「態度が違いすぎだろ、なんだよさっきの真水に対しての優しさは」
「おまえに優しくする必要あるの」
 怜くん、結構毒吐くんだ。
 普段やわらかい言葉ばかり使う怜くんのつめたくてあったかい言葉に、また簡単にどきどきする。
 あーいっそ、男の子だったらよかったかもしれないな。無二の親友みたいな。
 そこかわってよと思う。首筋におそろいの石鹸のにおい塗りたくった怜くんの「友だち」に。
「幻滅されるよ?真水に」
「なに、幻滅って」怜くんは気だるそうに呟く。
「な。幻滅するよな。実は結構毒吐くんだよこいつ。おれのこと平気でおいてったりするし」
 急にダイチくんがわたしを見る。
 重そうなまぶたに反して、その奥の目は元気に光っている。彼が近づくと、同じにおいの奥にまだうっすら汗のにおいがした。
「幻滅、」
「ていうか暑い、離れてよダイチ」
「あーあー、なんでおまえみたいなのがモテてんのかわかんねーっ」ダイチくんは自分の腕を押しやった怜くんに泣く真似をしながら言う。「おまえよりおれのほうが足速いのにー」
「あー、マミズ、信じなくていいよこいつの話は。いつも大げさだから」怜くんは呆れたような顔でダイチくんを見ている。
「嘘つけよ飯島とライン続いてるくせに」
 息を飲む。
 わたしは、そうなんだ、と言うだけで精いっぱいだった。
「いや、続いてるっていうか、あれは……」
「同担拒否結構いんのに大丈夫ですかー」
「あーもーうるさいなほんとに」怜くんはぱちんとその背中を叩く。「声、でかいし」
「ねーてか喉渇いた、今のうちに自販機行こうぜ」
「わかったって、わかった」
 ふたりはそのまま教室を出て行った。
 それからまるで入れ替わりのように何人かが入ってきて、それぞれ鞄の中身を取り出したり、イヤフォンはめてなにかを見はじめたり、教室の空気は、少しずついつも通りの大きな一個になっていく。
 首筋に触れる。涼しかったのは一瞬だった気がする。石鹸のにおいもなんだかうすい。
 ビブリオノートをもう一度開いて、ページを一枚ずつさかのぼっていく。
 ――この一文好き。
 この前ちえりがそう言ってくれた文章をもう一度読む。
 ――二十四時間のうち六時間近くもきみのうしろに座ってて、それなのに知ることができるのはその背骨のかたちだけ。
 ね、たしかにね、とわたしはこころの中でここにはいないちえりに話しかける。
 シャーペンで乱暴にその一文をぐるぐる囲った。

                    *

 どっかで聴いた、でも知らない曲のアレンジバージョンがひたすら流れるドラッグストアで、わたしは自分の単純さにうんざりしながら突っ立っていた。
 目の前に並ぶ制汗剤のボトル。三色しかない。石鹸かピーチかオレンジ。田舎だ。
 その下には制汗剤シート。ベリーとフローラル。もしくは石鹸。もしくはバラ。テスターもないから、においがわからない。ベリーとフローラルってなんだよ。
 スカートの裾押さえて屈む。腿の裏にはりつく汗が気持ち悪い。
 じわり熱い手を伸ばして、うっすらほこり被ってるライトブルーのボトルを取った。
 青春の二文字を連想させる。ザ、青春。この時期テレビでしょっちゅうCMが流れてくる。
 ……うわああ、痒い。ボトル見つめてしまった自分の頬をはたきたい気持ちになってくる。
 たぷん、と音が鳴る。せっけんのかおり、と印刷された横にしろくまがペンギンと一緒にたっている。
 ほこりついたビニールの外装には、ロングセラー、黄色い字が入っていた。
 いくらなんでも馬鹿まるだしだ、あーあわたしこんな女だったっけ、うわ、いやだな。
 いやだなー、馬鹿だなー、とぼやきながら、わたしの手はボトルを持ったままだった。
 買うの、やめんの、ちょっといい加減にしてよ。
 そう責めるように、屈んでいた足が痺れだした。
「あれッ、真水さんじゃない?」
 底抜けに明るい声でびくりとする。振り返ったら、亜衣ちゃんとよく一緒にいる女の子たちだった。
 いつも三人でくっついていて、長い髪をアレンジして、制服もそれなり着崩している子。
 鞄にはインディーズバンドのラバーバンドがいくつもついていて、底にはポスカかなにかの落書きが目立つ。
「買い物―?」
「あ、うん」手に持ったままの制汗剤が今は重い。「なくなっちゃって……」
「あーね、ないとしぬよねー」
「それなー、やばいもんねー」
「暑いもんねー」
「うん、」
「じゃーね、またねえ」
「うん、またね、」
 女の子三人はきゃあきゃあ言いながらお菓子売り場に向かっていく。ぬいぐるみやガチャガチャのマスコットがじゃらじゃらついた鞄が眩しく揺れる。わざわざ東京まで行って買ってるのは、話したことないけど、知っていた。彼女たちがいつも楽しそうに教室で交わすのは、そんな話ばかりだから。同じ空間でいつも耳たぶに触れるから。
 ライトブルーのボトルを棚に戻した。
 半透明の無害。
 今は忘れかけていた言葉をまた思いだす。自分で自分につけたやつ。無害だ。無害だから、話しかけてくれる。
 嫌味な目つきや嫌味な言葉なんてなかった。それでも彼女たちに近づくようなことを言ったり、似せるようなことをしたりできない。
 無害なんだし――空っぽの手で意味もなく髪を耳にかける。無害なんだし、別におんなじもの買ったっていいのに。
 それもできない。あーあ、ほんとに半端。
 ざらり。
 またすぐに髪が落ちる。
 ……ちえりに会わなきゃ。
 ふつふつと小さく分裂して、それでも増えていく不安を、ちえりに消してほしかった。
 制汗剤のボトルを棚に戻した。
 あの子たちとすれ違わないうちに、早足でドラッグストアを飛び出す。また蝉の絶叫に耳がきんときたところで、あ、あの曲、雪の華か、と思いだした。季節感なさすぎ。今夏だって。
 下校ラッシュが落ち着きだしたまばらな人波に逆らっていく。
 みんなの背中を押す陽ざしが反対にわたしの顔にぶつかるから、眩しくて目がちかちかする。潮のにおいを背中に受けながら、校門を通って、吹奏楽部の音色と運動部の掛け声の隙間を泳いで、図書室に向かう。
 いつもの三段、今日は真ん中を飛ばして、息を切らして引き戸を開けた。
 ちえりがいるかどうかはカーテンを見ればわかる。ひらりとベージュが舞った。
 ほっとして、息を整えながらいつもの席で足を止める。
「いと」
「あ、いた、よかったー……」
「帰ったのかと思ってた」
「戻ってきたの」
 ちえりは本棚に座り、あの足元の青い大きな本を広げていた。ちえりの白いワンピースの上、見開きいっぱい蝶々の写真が鮮やかに並んでいる。
「あ、それ、やっぱり図鑑だったの」
「うん、これ、すごいよ」ちえりはわたしが座るスペースをあけて手招きした。「これはね、蝶々の図鑑だったけど、他にも深海生物とか、お花とか、いっぱい」
 広げられた図鑑に目線を落とす。写真の色彩、毒々しい、にも近いほど鮮明なそれで、ずいぶん昔に撮られた写真だろうなとわかる。
「……不思議な感じしない?」
 うん?ちえりが甘くうすい声で聞き返す。これ。わたしは並んだ蝶々の写真を指さす。
「きっとこの図鑑、昔のでしょ。ここにはいなかった蝶々が、今、普通に飛んでるんだよ」
「このときいなかったいのちが今はあるのが不思議、ってこと?」
「うん」呼吸が落ち着いてきて、ちえりの隣だからだ、なんてうすっぺらいことを思った。
「はんたいに、ここにいたはずの蝶々が、もう死に絶えてることもあるんだよね」
 ちえりの言葉で、うん、とわたしは頷いた。そうだ、ほんとにそうだ。
「……いと、書けなくなっちゃった?」
「え?」
「それともなにかこころが疲れちゃった?」
 ちえりの半身に寄りかかる。腕に絡みつくようなわたしを、ちえりはそのまま拒みもせずに受け止める。やっぱりなんか、懐かしいにおい。目を閉じる。
「怜くんのこと?」
……目を閉じると、ちえりの声がいつもより浮き出て聞こえてくる。蝉や風やその他の雑音の中で、数ミリ浮き上がっている感じがする。
「……すきな子がいるのかもしれないなって、今日」
「まだわからないよ」ちえりはわたしの髪を撫でる。「誰にもわからないよ。怜くんにも」
「そうかなー……」
「こころって思っているより融通がきかないし、それで自分とは意外と数センチ距離があるものよ。その人のものではあるけど、その人だって自由に扱えるわけじゃないのよ」
 ちえりって変な子。
 同い年のくせに、グミやラーメンは知らないくせに、怖くなるほど人間のなにかを見透かしている感じがして。
「……書けない気、するな。なんとなく。ちえりの言う通り。わたしがまだ自分を捨てきれないで、投影するようなものばっかり書いてるからだよね」
「自己投影は悪いことじゃないよ」
「でもずーっとそれでやってはいけないでしょ……」
「成長痛」
 ちえりがそう言った。
 せいちょうつう?
 聞き返して目を開けたら、きんとした陽ざしが射した。
 う、と反射的にまた目を閉じてしまう。透けて見える橙色とオレンジ混ざったまぶたの色を数秒見つめて、それからゆっくり開く。
「いとの作家としての成長痛だよ」ちえりの優しい指先が、今度はわたしの頬を撫でた。「成長してなかったら、そういうことにも気がつかないから。自信持ってよ、ね」
「……全然そんなこと思ってなかった」
「背が伸びるときの成長痛もっ、」ちえりはスカートに隠れたわたしの太腿を軽くたたく。「はじまりとかわかんないでしょ?気がついたら勝手に始まって終わってるんだもん」
 ばらり。
 重みのある音をたてて、図鑑のページがめくられる。
「……ちえり、怖い」
「どうして」
「お見通しじゃん、なにもかも」
 ふふふ、とちえりが笑う。
「うわあーっ、むずかしいっ」
 そう言ってちえりを見たら、ちえりはまた笑った。今度はなぜかひどく嬉しそうに。
「でも、楽しい?」
「……うん。困る」
「困ってないくせに」
「……書く」
「うん」
「頑張る」
「うん」
 チャイムが向こうで聞こえる。
 ちえりは図鑑を戻すために本棚から降りると、裾もそのままに屈みこんだ。
 いつの間にか夕暮れが色濃くなって、図書室には赤に近いオレンジが無数に射しこみはじめていた。
 それは床板に広がったちえりの白にぶつかっては、見たこともない花びらみたいになって、わたしの目に焼きついていく。
 五時の鐘が蝉の声に重なった。

                    *

 二年生の教室が並ぶ廊下の、いちばん奥。水道の隣にぽつんと置かれた机。
 ――二年B組 三者面談の紙はここへ。
 先生の手書きの付箋が張りついたピンクのプラスチックのかごが置かれていた。
 切り取ったプリントの下半分を入れる。
 隣に置かれている名簿、真水いと、を探し出して、ボールペンで〇をつける。
 真水いと。
 改めて見ると、わたしの名前って、やっぱなんかバランスが悪い。
 それから、上半分に目線を滑らせてしまう。斎藤このみ。島田幸喜。島本、怜。
 クラス名簿の半分に〇がつきはじめている。怜くんの隣はまだ空白だった。
 ――映画。
 もう「ちょっと前」の記憶に変わってしまった、怜くんとの会話を思いだす。
 教室の後ろにいつの間にか置かれた分厚い大学一覧で、映画の学科を探してしまったくらいには覚えていた。
 わたしはそこに行かないのにね。
 ライトブルーの制汗剤も買わなかったし、怜くんの名前以外ほとんどなにも知らないし。
「あの、すんません」
 男の子の声に振り返ると、隣のみどりのプラスチックのかごを指さした。C組の提出かごだ。あ。ごめんなさい、ぼそぼそ謝ってぺこりと頭を下げる。男の子は、いえ、と小さく言うと、切り取ったあのプリントを入れる。それを目尻で見送りながら、わたしは廊下をまた歩き出す。
 重なっていく薄っぺらいプリントの下半分。みんな見られないように下向きにしていた。
「あー、三者面談マジで怒られそう。どうしよ」
「次こそおまえのお母さんゲームぶっ壊すんじゃねーの」
「まってそれはマジでやばい」
 背の髙い男の子二人がそんなこと言い合いながら歩いていく。
 すれ違う瞬間に、あの制汗剤のにおいがした気がして、心臓が怯える。
 ……そりゃ、あれ使うのがたったひとりなわけないか。
 高校からいちばん近いドラッグストア、三種類しかなかったし。あとの二本はなんとなく男の子が選ぶようなにおいじゃないしな、勝手なこと考える。
「大学行くの」
「行くわさすがに」
「進路の紙いつまでだっけ」
「明後日」
「あざーす」
「自分で把握しとけバカ」
 背中を叩かれた男の子が、ぎゃはは、と大きく笑い声をたてる。さっきのC組の子が足早にわたしを追い抜かして階段をおりていく。黒いリュックサックにぶらさがったテーマパークのキャラクターのぬいぐるみが、その速度でぐわぐわ揺れる。ビーズの黒い目がわたしを見た。
 進路希望調査票、わたしも書かなきゃいけないな。
 教室に戻ったら、もうほとんどがいなくなっていた。居残りのすきな子たちが机をくっつけて、お菓子を広げ始めている。そのうちのひとりが帰ろうとしたショートの女の子に手招きしたけれど、ショートの子は申し訳なさそうに笑って、ごめんっ、塾、と言い残して出て行った。
 夏休みまであと少し、最近じゃ塾とか夏期講習とかそういう単語が、いつものにぎやかなおしゃべりに混ざるようになってきて、自分だけが浮かれている気がして不安になる。
 将来のことは漠然としか考えてこなかった。
 やりたいことだけを考えていた。
 お金とか暮らしとか仕事とか、そういうことまで意識しないで夢ばかり口にしていた。というか、してる。ずっと。今も。
 フックに下げた鞄を持ち上げて、肩にかける。
 考えようとしても止まってしまう。ううん、ちがうな、想像もできない、になってる。想像もできないからわかりません、なんて言葉が使えるような年齢ではなくなったのに。
 持ち手に髪が引っかかるから、持ち上げてかけなおす。右肩にかかる重み。わずかに首の裏が痛む。昨日のせいだな、指でちょっとさする。
 昨晩、猫背になってがちゃがちゃ鳴るキーボードを叩き続けていた。ファンの回る音もうるさいし、ワード以外使えないお父さんのおさがり。いつから使い始めたか曖昧だけど、もうずっとあいつを頼りに原稿を打っている。
 ちえりに会うたびにほんの少しずつだけどほどかれていく気がするから、会っては、書いて、書いてはまた印刷してちえりのもとへ行って、最近はそんな日々を送っていた。
 早く帰って早く書かなきゃ。
 教室を出ようとしたら、ちょうど正面から亜衣ちゃんたちが入ってくるところだった。昇降口の自販機で買ったらしい紙パックのジュースと、コンビニの袋を持って、いつもより黄色い声音でなにかの話をしていた。亜衣ちゃんはスマホでみんなになにかを見せていて、わたしは慌てて端によける。みんな気づかないまま、歩きながら顔をよせてスマホを見ていた。
「え、似てるねー、あ、似てる似てる、なんかわかるわ」
「そう、今の推しに似てんの」亜衣ちゃんはいつもと違うにやにやした笑い方をしていた。
「それだけ?ウケる」
「まあでもよくね?数か月付き合うくらいでしょ、亜衣は」
「なにそれひどー。がんばりますけど一年くらいは」
「目指せ一年記念日」
 また告白されたのかな、とぼんやり考えた。亜衣ちゃんがかわいいことは有名で、なにかしら学校行事のたびに告白されているし、他校にもファンみたいな男の子がいる、なんて話はしょっちゅう聞く。ティックトックかなにかで結構バズった動画もあるらしいし。
 ――でもマジありえない。引く。キモかった。ダルかった。
 そういう「恋」のなにかがあるたび、亜衣ちゃんは教室でも構わずそういう風に鼻先を鳴らす。
 クラスの女の子の中には、亜衣ちゃんのああいうとこはちょっとヤバいと思う、と不快そうにする子もいるにはいるんだけど、わたしも実のところそんなこと言わないであげればいいのに嫌な子だな、って思ってしまうけど、それよりなにより亜衣ちゃんがかわいいから、しかたないよね、と思ってしまう。
 同性がそう思うんだから、異性が気づくわけないよね、とも思う。
「でも確かに島本はいいかもね。おとなしいし頭いいし、高嶺の花」
「なにそれ」
「えーなんか、え、なんだっけ、あのー、王子様的な意味じゃなかったっけ」
「おいバカー」
「はいしつれーですそれ」
「え、でもさー、見て、結構イケメンじゃね?色白いし二重だし」
「あ‼あとあと、あいつ毛少なくね?つかなんならうちらより薄い」
「え、わかる、前の英語の板書のとき腕つるつるでうざかった」
「しぬ」
「ええでもEライン微妙じゃない?ほら」
「しぬ、そこかよ拡大すんなって」
 もたついていた最後の女の子がようやくドアを抜けたから、わたしは慌てて一歩踏み出す。
 ――嘘つけよ飯島とライン続いてるくせに。
 忘れたいのにいつまでもこびりついているダイチくんの言葉を思いだす。
 そのタイミングで、わたしの意識を針でつつくみたいな亜衣ちゃんの声が聞こえた。
「ねーうざい、しんで」
 ぱん。
 わたしの中に何個かあるうちの一個の風船が、そうやって破裂した。
 ……冗談でも、しんで、なんて使う女、嫌い。
 どくどくどくどく、鼓動がそのままひとりでに走り出しちゃうほど速度を増していた。
 きゃはははは。
 黄色い笑い声が、さっき割れたわたしの風船より何倍も大きく膨らんでいく。
 止めていた足を進める。わたしの心臓のビーピーエムは早すぎる。
 小説。
 小説書かなきゃ。
 ゆっくり息を吸う。吐き出す。大丈夫。小説のことを考えていればいいんだから。
「あッ!あ、ねえ、……真水っ」
 聞き覚えのある声に振り返ったら、ダイチくんが立っていた。
あのとき三人一緒におんなじにおいになった男の子。
 ほどよく焼けた小麦色の肌。白い半そでから伸びる腕には血管が目立つ。汗ばんでいるのがわかる。はっきりした眉毛。しっかりした鼻筋。目は大きいけどまぶたが重いのか、目つきはいつもどこか眠そう。それなのに声はいつも大きい。
「……あ、え、なに……?」
「あ、えっと、あの」
 ダイチくんはおどおどと目線を彷徨わせたあと、誰もいないのを確認して、わたしを廊下の端っこに呼び出した。
 廊下はひときわ目が焼かれそうになる。ガラス窓を通しても皮膚にはりついてびりびりする陽ざしに、目が細くなってしまう。
 じーいじーいじーいじーい。蝉の声が近い。窓のすぐ傍の木にでもぶら下がっているんだろう。
「どうしたの、」
「あの、真水って、すきな人、いますか」
「……え?」
「いますか。すきな人」
 じん、蝉が息継ぎする。
 ぎゃあああ、あはははは。
 少し向こうのわたしたちの教室で、亜衣ちゃんたちが大きな笑い声を立てている。
 怜くんの隠し撮りで。
 怜くんの話で。
 廊下を振り返る。
 無意識に、誰かが立ってることを望んでいた。
 誰もいなかった。
 放課後。
 吹奏楽部の音色。
 明らかにくたびれた運動部の声。
 蝉の声。
 空調のない古い校舎。
 陽ざしからうまれた、白い線がいくつも入る眩しい青色のタイル。
 熱を孕んで膨れ上がったように見えるみんなの銀色ロッカー。
 ――うるさいなあ、好きなのっ、今は!
 亜衣ちゃんの声がちゃんと聞こえた。ダイチくんを振り返る。
「すきな人、ですか」変な返事。
「はい。すきな人、いたりしますか」変な返事。
「……いないです、すきな人、いません」変な返事。
 吹きこむ七月中旬の熱波、舞い上がるわたしの髪。伸ばしすぎたかも。何年も切っていない、背中をそれなり隠してしまうわたしの長い黒髪。
 顎下四センチがいいのかな。いっそ切っちゃおうか。それより短く。
 関係ないこと考えていたら、ダイチくんがばっと頭を下げた。
「え?」
「あの……な、夏休みに、一緒に、どこか行きませんか」
 ――ねえマミズ、どこか行こうよ。
 そんな怜くんの声はどこにもなかった。
 だって怜くんはもうここにはいなかったから。
 ――マミズだったら、どこに行きたい?
「……わたし、東京の水族館行ってみたい」
 ダイチくんが顔をあげた。綺麗な顔、と思った。顔立ちの話じゃなくて、表情が――表情が、すごく綺麗だった。
 わたしはぼうっとしながら、他人事みたいに彼を見つめていた。
 綺麗な表情。綺麗な笑顔。すきな人がいるとき、人間ってこんな顔するんだ。
「マジですかっ」
「……でも遠い、少し――」
「おれは平気です」
「……でも」
「真水、おれのこと、嫌いだったり、する?」
 困ってしまう。
 嫌いとか。だって意識してなかった。
 突然わたしの世界に飛びこんできた男の子のこと、数秒で判断できない。
 それから、あ、もしかしてわたし今、怜くんとおんなじ立場かな、なんて気づいてしまった。
「……嫌いじゃないよ」
 ぽつ、と汗が落ちた。
 言葉も一緒に落ちた。
 ひび割れた群青のタイルにぜんぶ吸いこまれていく。
「……電話、します」はッ、と息を吸いこんで数秒後、ダイチくんはそう言った。
「……はい」かすれそうな声で返す。
「じゃああのっ、またっ、えっと、あの、夜に電話します!」
「はい」
 ばたばたばたっ、ダイチくんはまるで小学生みたいに騒がしく廊下を走っていった。
 廊下の真ん中でひとり、わたしは突っ立ったままだった。

               *

 爪を切るとき、いつも深くまで刃を添わせてしまう。
 おばあちゃんが寝てしまって、お母さんとふたりきりになったちょっとだけさみしいお茶の間で、わたしは古い爪切り使って足の爪を切っていた。両手の爪はさっき済んだ。
 帰ってきてぼうっとしたままお風呂に入ってごはんを食べて、そこから小説を書いていたけれど、キーボードにあたる爪の音が気になってどうしようもなくなった。ただでさえがちゃがちゃうるさいのに。一度気になってしまうとだめだ。
「いとちゃん猫背ねえ」
 お母さんがくすくす笑って、わたしの丸まった背中を優しく撫でた。ふん、音になりきらない小さい声で返事して、膝小僧に顎くっつけて、今度は中指の爪を切りだす。
「いいもの書けそう?」
「……テーマまちがえた」
 ぼんやり声にだしてみたら、その通りだなんて気がしはじめた。長い髪が影になるのがうっとうしい。手で雑に払って、爪を切る。
「何書いてるの」お母さんがテレビの音量を少し下げた。回答外したお笑い芸人がいじられる。
「……恋愛小説」
「あら」
「……でも難しい。ただでさえ人間書くのって難しいのに、恋愛ってなると、もう、無理」
「いとちゃんはあんまり恋愛に興味ないもんね、わたしが見てた恋愛ドラマも途中で飽きるし」
「お母さんが見てるのは純度百パーセントのフィクションだもん」
 あの世界は嫌い。
 わたしはそう呟いて、薬指の爪に刃を噛ませた。どうして?その問いかけに、だって、と小さい子どもみたいな言葉が飛び出る。
やわらかいお母さんの言葉や声音で、わたしはいつもぼろぼろなんでも喋ってしまう。
「……少女漫画も恋愛ドラマも、女の子、かわいいじゃん」
「そうねー、そういうものだものね」
「かわいい子がさ、こんなわたしじゃだめ、とか言うじゃん」
「言うねえ」
「あれきらい」
「そうなの?」
「だって、かわいい子じゃないと恋愛しちゃいけないみたい。まるで。わかってるよ、自己投影のために綺麗な主人公がいいって言う受け手がたくさんいるのは。そういうものだと思うし。でもどっかで、そういうのに置いていかれる受け手がいるもん」
 わたしのこと、なんだけどさ。俯いて爪を切った。切り取っても、唯一なんの痛みもない自分の一部。
「……そうじゃないのにねえ」
 ぱちん、ぱちん、ぱちん。
 ひとつの指の爪を切るのに、わたしは三回かかる。
「どうしたってわかるのが遅いのよ、しかたないよね」
「わかるって?」顔をあげる。お母さんはほほえんでる。
「女の子を選ぶときはお顔よりも中身だって」わたしの頬にはりついた長い髪をそっと耳にかけてくれる。結局すぐにばらけるのに。
「……今わかんないなら意味ないじゃん」ふてくされた声が出た。
「そうだよね」お母さんはくしゃっと笑う。「ばかなのよう、男の子は」
「……あーあ」
 小指の爪は二回で終わる。
 お母さんが流し見していたクイズ番組はエンディングが流れていた。一位のタレントには、飛騨牛のお肉がプレゼントされるらしい。くだらない。
「なかなか戦ってるわねー」
「そんなたいしたことじゃないよ」
「ううん、すごいよ」お母さんはそう言って、わたしのグラスに冷えた麦茶をつぎ足した。「やりたいことがあるって実は珍しいことなのよ、その若さで」
「……そうかな」
「……恋愛小説はやめる?別のものを書くの?」
「わかんない……書けば書くほどわかんなくなってく感覚なんて、今までなかった」
 ティッシュの上、半透明の三日月の爪、見失いそうになってまた猫背になる。
 イグサの上に、さっき飛ばしてしまった爪が引っかかっていた。指先で抜き取ってティッシュにくるむ。
「はじめてのことでいいじゃない」
 お母さんはそう言って笑った。はじめてのこと。
 ……わたしはうまれてはじめてすきになった人のこと、お母さんにまだ話せていない。
 すきな人ができたの。
 すごくすきなの。
 でもね、だめそうなんだ。
 その子、クラスでいちばんかわいい女の子にとられちゃいそうだから。
 そんなこと言えなかった。

               *

 わたしのお父さんとお母さんは、去年離婚が成立したばかりだ。
 わたしは二年前、ちょうど中学三年生の夏から、もうお父さんに会っていない。
 おわりはふいに訪れるものだと知ってはいた。でもたとえば教室で飼っていたメダカが浮いていた日や、昨日まで咲いていた花が薄茶色になっている日は、何度も繰り返してきたことのはずなのにいつだってぞわりとした。
 わたしたちはものごとの終わりを知っているようでいつまで経っても理解できない。
 今だって。
 平穏の膜を破るのは乱暴ななにかで。
 あの日唐突に訪れた終わりのことを、わたしは今でも嚙み切れない。

                    *

 中学三年生。塾で夏期講習を受けたあと、お父さんが迎えに来た。
 ひぐらしが泣きだすころだった。いつもならお母さんが迎えに来るのに、見慣れた車に近寄ったら、運転席に座っていたのはワイシャツを着たお父さんだった。
 わたしのお父さんは出張が多くて、東京での仕事も忙しいから、中学にあがってからはあまり会えなくなっていた。
 このごろみんな、お父さんやお兄ちゃんのことを気持ち悪いなんて言うけど、わたしはお父さんを気持ち悪いと思うことはなかった。今思えば、「適度に」距離があったから、かもしれない。
「おとーさん」
「おかえり」後部座席のドアを開けて乗りこんだら、お父さんはいつもの声でそう言った。「暑かったな」
「うん」
「夏期講習、無理してないか」
「え?」シートベルトをつける。「なんで?」
「……無理してないならいいけど、お母さんが言いだしたから。塾は」
「行かせてくれてるだけありがたいよ」
 お父さんは、そうか、と呟くように言ってエンジンをかけた。
 開けっ放しの窓から、カナカナカナカナ、ひぐらしの声が飛びこむ。車はじきに走り出した。
 わたしの住む町には塾がないから、わざわざ隣町まで車を走らせてくれてる。お父さんは途中のコンビニでアイスを買ってくれた。近所にはコンビニがない。あの駄菓子屋より、ガリガリくんが二十円くらい高くてびっくりした。外は橙色に暮れていた。
 窓を全開にして、ほんの少しだけ頭を出してアイスを齧る。
 お父さんの車のオーディオから流れるチャットモンチーで、夏だな、と思う。
 お父さんはチャットモンチーがすき。なんでか、知らない。
 くわえたソーダのかたまりきんきん冷えていて、甘さもあいまいだ。
 あんまり長く頭を出してると、風が分厚くてすぐに苦しくなってしまう。さっきまでかちかちだったガリガリくんの青い雫が垂れそうで、慌てて頭を戻す。
「冷房つけるから、閉めなさい」
「ん」
 スイッチ引きあげれば窓が閉まる。
 オーディオから流れるチャットモンチ―は、さっきよりもたっぷりわたしの耳を包む。優しい声は小さいころから変わらないまま、歌詞をなぞる。
 小さいころからたくさん聴いているから、曲とタイトルが一致していないものが多いけど、唯一覚えているのは「世界が終わる夜に」だった。こういうドライブのとき、お風呂のとき、寝かしつけのとき、お父さんがへたくそな音程で一生懸命歌っていたから、覚えてる。
「ねえお父さん、今日仕事やすみじゃないの」
「うん」
「なんでスーツなの」
「用事があるんだよ」
「ふーん、間に合うの」
「うん、間に合うよ」
「お迎えありがとう」
「うん」
 じゃく、垂れる前に食べきってしまいたくて、アイスを齧る。なんか最近、右の奥歯が染みる。虫歯かも。ちゃんと磨いてるのに。窓にこめかみくっつけて、飛んでいく景色を見てる。
 じゃく、じゃく、じゃく。
 優しい音に混ざる、夏のわたしの咀嚼。後部座席から見えるお父さんの頭。いつもちゃんとセットしてる黒髪。太くて艶のある髪。わたし、髪だけはお母さんに似ていて細い。わたしの髪をくくるたび、髪の毛はお父さん似がよかったね、あはは、なんておばあちゃんがよく言っていた。お父さんの髪の毛、すきだ。なんでだろう。
「ねえねえお父さん」
「うん」
「アイス、はずれた」
「そうそう当たんないさ」
「お父さん当たったことある?」
「なんで?」
 お父さんのすきなところ。
 運転中でも、お昼寝邪魔しても、お仕事中でも、わたしの話を聴いてくれるところ。
 お父さんの目線がわたしに向いたのがミラーで見えた。
「わたしちっちゃいころから運悪いんだもん。どっちかの遺伝だ」
「じゃあお母さんだ」
「なんで」
「お父さんは運がいいよ」
「どうして」
「さあどうしてだろう」
 お母さんにチクッとこ。
 わたしはそう呟いた。
 いつもならやわらかく笑うお父さんは、その瞬間だけ黙ったままハンドルを握りなおした。

 三十分ほど走れば、見慣れた海が見えてきて、そこからまた五分飛ばせば家につく。
 おばあちゃんが、お母さんが、生まれてからずっと住んでいる家。大きいけど古い。最近は隣町に新しく建った友だちの家なんかに遊びに行くとどうしても羨ましくなるけど、この懐かしさがないと家じゃないとも思っていた。
 駐車場に車を停めて、わたしは先におりる。
 玄関までの砂利を踏みしめて、途中にあるおばあちゃんの庭、ハズレのアイスの棒をパンジーの隣にさした。見つけたらおばあちゃん怒りそう。わかってるのに、このごろそういう一個一個を守るのが面倒くさくてしかたなくなってしまう。
 チャットモンチーのサビをなぞりながら、お父さんの前を歩く。お父さんはいつもよりゆっくり歩いてる。じゃり、じゃり。古いわたしの家は門から玄関まで、ちょっと長い。
「お父さんさあ」振り返らないまま、お父さんを呼ぶ。
「うん」
「チャットモンチー以外聴かないの」
「あれ、飽きたか」
「飽きてないけど。お父さんいっつもおんなじものばっかり」
 ワイシャツも。ネクタイのデザインも。コーヒー豆も。普通のお洋服のブランドも。全部全部、いっつもおなじもの。お気に入りは何回も。お父さん、変にこだわりあるっていうのか、なんだろう、大事にする人、なんだと思うけど。飽きたりしないのが変だ。
「おなじものばっかりかな」
「同じだよ全部」
 そうか、とお父さんは呟いた。
 しばらく会っていないから。一緒にいた時間が長いようで短かったから。それとも別の理由か。わからなかったけど、お父さんがその日、いつもより影に食われている、そんな感じがした。気のせいだと思って玄関を開けた。
 がらり。足元でひしゃげているわたしの影と、数歩後ろでもっとひしゃげているお父さんの影。
 おとーさん、そう呼び掛けながら振り返ろうとしたら、お母さんが出てきた。
「ただいま、」
「ッ、なんで帰ってきたの!」
 わたしははじめ、自分が言われたのかと思った。びく、と激しく肩が震えた。おそるおそる顔を上げたら、お母さんが見ているのはわたしじゃなかった。
 お父さんのことだった。わたしはからだ固めたまま、お母さんを呆然と見つめていた。
「なんでって、……いとを迎えに」お父さんは呻くような声でそう答える。
「わたしが行くって言ったでしょう。なによ、どこまで自分勝手なの、最後の最後まで」
「……え、なに、」わたしはおろおろ言葉を吐き出す。「喧嘩、したの?」
 ちゃり、と車の鍵が鳴った。お父さんが手を握りしめたからだった。
「お母さん、どうして怒ってるの――」
「最後のって、僕は」
「お父さん、なにしちゃったの――」
「最後に決まってるでしょ、なに言ってるのよ……」
「最後って、きみが勝手に言ってるだけだろ」
「別の人のところに帰るんでしょ?そうするって言ったのは誰よ」
 わたしだけ半透明になっていく。ふたりの間で輪郭が掠れていく。
 最低ッ。
 お母さんは誰かを傷つける言葉をほとんど言ったことがない。
 お母さんの一生懸命の最大の暴言は、それだった。
 ――知ってるよ、そんなこと。
 お父さんは消えそうな声でそう言っただけだった。
 お母さんはキッと鋭くお父さんを睨みつけると、奥に駆けこんでしまった。
 お父さんはわたしを見て、何も言わずに足元へ目線を落とした。わたしはサンダルを脱ぐために、ベルトの部分に人差し指をひっかけた。ぱつん、とベルトが外れる。裸足がぬるい。
 ばたばたばた、どんッ、お母さんからはじめて聞く乱暴な音がして、わたしはびっくりしたままお父さんと一緒になってその場に立ち尽くしていた。
 戻ってきたお母さんは、電子レンジを抱えていた。
 それは真昼に花火打ち上げるような、夏にマフラー巻くような、変、だった。
 変だった。
 お母さんは変な格好のままお父さんにつっこんでいった。わたしの足がもつれて、わたしはそのまま上がり框に転がった。ずるずるとふたりから距離をとった。お父さんとお母さんの輪郭が混ざりあってよくわからなくて、それは変な抽象画眺めてるみたいだった。
「二度と帰ってこないでって言った!」
「しかたないだろ、いとの――」
「しかたないってなによ、いとのこと最後に一目見たかったからとかきれいごとでしょッ」
「どっちにしろ戻ってこなきゃいけなかったんだ」
「なんでなのよッ、今朝一緒に荷物持っていったでしょうッ」
 ぶうん。
 ぶん。
 ぶうん。
 大きな蠅が飛んでるみたいな音で電子レンジは叫んだ。
「出て行ってッ」お母さんは泣きながらむちゃくちゃに電子レンジを振り回し続ける。電気の通らない、ねずみの尻尾みたいなコンセントがぶんぶん揺れていた。「もうやだッ、いとの前に現れないでッ、あんなことしておいてッ、いとのお父さんなんて言わないでッ、いとが傷つくッ、あなたがあのままでここにいるなら、もっともっといとが傷つくのッ」
「だから今からどうにかしに行くって言ってるだろッ」お父さんは頭を庇いながら怒鳴った。「どうにかってなによッ、なんでそんなにえらそうなのッ、えらぶってんじゃないわよおッ」
「やめなさいよおッ」おばあちゃんがひっくりかえりそうなくらいびっくりしながら出てきて、わたしを引っ張った。「いとの前でなんてことしてるのみっともないッ」
 ええん、とお母さんが泣き声を上げた。
 小さい子どもみたいな泣き声をたてているのに、くっきりした目がお父さんをじっときつく恨んだ色で見つめていて、怖かった。おばあちゃんがわたしをぎゅうと抱きしめた。
「いとの前でその話はしないんじゃなかったの!」
 おばあちゃんの激しい声で、お母さんがはっとわたしを見た。
そこではじめてわたしを見た、そんな感じだった。
「お母さん……なんで」
 お母さんがぶらさげた電子レンジは、お母さんのかわりにばかんと口を開けた。
 次の瞬間、滑稽、その二文字をなぞる動きでターンテーブルが落ちて床にぶつかって、鋭く耳障りな音を立てた。でも、その音に肩を震わせたのはお父さんだけだった。
 お父さんが大きなため息をついた。おばあちゃんが庇うようにまたわたしを抱きしめた。
「……お父さん、出てって」
 みんながびっくりしてわたしを見た。
 ぶらぶら揺れるコンセント。馬鹿みたいに口開ける電子レンジをぶらさげたお母さん。
 散らばったターンテーブルの破片が裸足に刺さったけど、感覚はぼやけていた。
「出てって、」おばあちゃんが、いと、と呼んだけど腕を振り払った。「お願い」
 みんながあんぐり口開けてわたしを見ていた。
 お父さんは茫然とした顔をしていた。
 お母さんに最低って怒鳴られてもぴくりともしなかった顔が、わたしの簡単な言葉ひとつで崩れた。
 その瞬間、言葉のおそろしさを知った。
 でも止まれなかった。今は誰が悪くて、それを解決するにはどうしたらいいかとか、そんな難しいことちゃんとわかるほどわたしは成長していなかった。
 じゃり、足の裏でターンテーブルの破片が泣いた。
 お父さんは言葉を失ったまま突っ立っていた。
 赤に近い夕暮れが、開けっ放しの玄関から遠慮なく割りこんできて、わたしたち家族の崩壊を傍観していた。
「いと、」
 お母さんがわたしに縋りつく。おばあちゃんは言葉を失ったままそこにいる。
 お父さんだけが、みんなより一段も二段も下の三和土で立ち尽くしている。
 息を吸った。
 押してはいけないスイッチを押しこんでしまったのを、自分でも知っていた。
 でも止まらなかった。
 言葉はいくらでも零れ落ちて、三和土にぶつかって激しく割れて、お父さんの革靴からお父さんの黒い、あの整髪料のにおいがするかたくてやわらかい髪にまで刺さっていくのを見た。
 わたしはお父さんにそういう破片を刺した。
 泣きながら破片を刺しこんで、めちゃくちゃに血を流してやろうと思った。
 思ってしまった。
 なにもかも気持ち悪く見えた。黙ったまま、唇をきつく、色が変わるまで引いて、なにかに耐えるように顔をゆがめているお父さんが、急に遠い存在に見え始めた。
 もうこのころには、すき同士の人たちがなにをするのか、わたしは知っていた。
 手を繋いでキスをして、その先があること。それは生々しくて嫌なこと。
 許せなかった。お母さん。わたしのかわいい、大事な大事なお母さん。
 お母さんと一生の愛を誓ったんだから、お母さんだけを見ててほしかった。
 でもそういう綺麗ごとよりなによりも、お父さんが男に見えて気持ち悪かった。
 うう、とうめき声が出た。
 言葉は凶器。
 何回も何万回も何億回も使い回されているそんなフレーズがよぎった。でもわたしは言葉をとめなかった。吐き出し続けた。
 やがてそれは湿り、鼻水や涙を含み、怒りを孕み、わたしは崩れるようにその場に座りこんだ。
 花びらみたいに床に広がった白いスカートは、去年の誕生日にお父さんが買ってくれたやつだった。お気に入り。レースがいくつも重なっていて、花びらに似てる大事なスカート。
 一度こいつを傷つけてやろうと思うと、ひどい言葉が自分でも信じられないくらい大量に流れこんできて、そのままわたしに吐き出させた。傷つけよう、もっともっと傷つけてやろう、言われたくもないこと、言ってはいけないこと、なんだって使って刺し殺してやる、そういう気持ちになった。震えながら言葉を続けた。
 気がついたらお父さんが消えていた。
 三和土には誰もいなかった。ただただ、我が物顔で夕暮れが寝そべっていた。
「いとちゃん」お母さんがわたしを抱きしめた。「いとちゃん、ごめんなさい」
 ばらばらと涙が落ちた。わたしの一部、大事な部分が、一緒になって落ちていく気がした。
 二度と帰ってこないんだ。
 三和土に揃えて置いてある靴はどれも女ものだった。今までそこにちゃんとあった、お父さんのぴかぴかの黒い革靴はなくなった。 
 わたしを遊びに連れて行ってくれるときの無骨なデザインのスニーカーも、なかった。そういえばここ数カ月で、お父さんのもの、を見る機会がなくなっていた気がする。
「足裏が切れてる」おばあちゃんが泣きそうな声をあげた。「いと、やだ、刺さってる」
「刺さってない……」
 お母さんがはっとわたしを抱きしめていた腕を緩めて、おばあちゃんとおんなじようにわたしの足を見た。ああ、やだッ、とおんなじように声をあげた。
「わたしのせいだわ、ごめんねいとちゃん、ごめんね、やだ、痛いね、痛いよね、」
「破片を先に片付けなくちゃいけないよ」
 刺さってない、とわたしは繰り返した。刺さってない、わたしにはなんにも刺さってない、刺しただけ、わたしが刺したの、わたしが――。
「痛いね」お母さんは泣きながらわたしを抱きしめる。「痛いね、ごめんねえ、ごめんね」
 痛くない、とわたしは泣いた。
 痛くない、痛くない、こんなの痛くない。ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい。
 電子レンジは口を大きく開けたまま、わたしを見つめていた。

 夜の風が好き勝手泳ぐお茶の間で、おばあちゃんがそっとわたしの足裏から小さな破片を抜いた。
 お母さんは泣きそうな顔のまま、わたしの足裏に薬を塗った。
 お父さんが消えてから、もう数時間も経っていた。
 テレビは沈黙をかき消すために一生懸命喋り続けていた。
 誰も喋らなかった。いつもならテーブルを囲んで一緒にごはんを食べている時間だった。
 もう誰かに言葉を使うのは、やめなくちゃいけない。
 二度とあんなことしちゃいけない。
 生身の人間同士の言葉は、こわい。
 本心なんていくら抱いても伝えるものじゃない。
 伝えちゃいけない。
 誰よりも慎重に。誰かと触れあうときには飾った優しい言葉を使って。本心は言わない。
 言葉でわたしは人を殺すことができてしまう。
 目を閉じた。おばあちゃんとお母さんが、一緒になって優しくわたしを撫でる。
 おばあちゃんの大事な、神様を祀った小さな祭壇がわたしを見おろしている。
 わたしは護られていた。
 でもあんなこと、言っちゃダメだった。
 大人が嘘つきなのは、子どもなんかより当たり前に賢いからだ。
 お笑い芸人がわからないふりでトンチンカンな英語を喋って、外国人のお姉さんがわらっている。スタジオのみんなもわらっている。わらってるって、このわらってるって、どっちの字なんだろうな。そう思って、わたしはふふふ、と小さくわらってみた。
 その声で、おばあちゃんとお母さんがほっとしたのがわかった。
 お腹空いたねえ、とおばあちゃんが言う。お米炊こうかね。そうだね、とお母さんが言う。いとちゃん何食べたい?
 ハンバーグって答えようとして、それはお父さんのすきなものだったから、お魚がいい、そう呟いた。
 お魚ある?あるよ、とおばあちゃんが答える。
 いとの好きなみりんづけが買ってあるんだよ、焼いてあげようね、わたしはうっすら笑って頷く。

 やがてごはんの炊けたにおいがして、でもわたしは起き上がれないままだった。
 おうちの神様にごはんをお供えする時間。
 おばあちゃんがガラスの器にごはんをよそって、お供えして、お母さんと一緒になって手を合わせるのを、ぼんやり見つめているだけだった。
 いつもならわたしも手を合わせないとおばあちゃんは怒るのに、今日だけはなにも言わなかった。おばあちゃんとお母さんがそれぞれこころの中でおまじないを三回繰り返してる。じっとした沈黙で、わかる。
 お母さんの横顔はいつもよりずっと頼りなくて青白かった。
 お母さん。
 今、なに考えてるの?
 お父さんのこと?それともちゃんとした大人だから、この瞬間だけは、いつも通りのあのおまじないを繰り返してるの?お母さんの横顔見つめ続けていたら涙がこみあげた。
 教えてもらったおまじないはなんかとんがった響きをしていて、すきじゃない。
 だからわたしは勝手に、ちちんぷいぷいしらんぷり、って唱えている。もうずっと前から。
 からだをゆっくりと起こす。冷たいお茶の間を離れたら、廊下はもっと冷たかった。
 ちちんぷいぷい、しらんぷり。
 ちちんぷいぷい、しらんぷり。
 ちちんぷいぷい、しらんぷり。
 唱えながら階段を上がる。自分の部屋に一歩入ってすぐ、スカートを脱いだ。一年生のときに買って、短くなっちゃって、それ以来、家で履き倒してるジャージのズボンに足を通す。
 脱いだスカートは畳の上で満開に咲いた白い花みたいだった。蹴り飛ばしてやろうとしたけど、できなかった。どうしてもできなかった。手を伸ばして、拾った。抱きしめた。べたん、そのまま畳に座りこむ。
 うーっ、と声が出た。
 べちゃべちゃした涙は鼻水と混ざってしょっぱい。スカートに顔をおしつけた。わたしの汗のにおいと、この家の古びたにおいしかしなかった。
帰ってこない。もう一生、帰ってこない。
 わかっていたことなのに、それでもときおり、わたしは玄関に並ぶ靴を見てしまう。今でも。

 お母さんは別にお父さんのこと、電子レンジの角で殺したかったんじゃない。
 電子レンジの角で許したかったんじゃない。
 そばにいてほしかっただけなんだろうなって、今は、知ってる。
 電子レンジは殴打するために生まれたんじゃなくてあっためるために生まれたし、でもそれをもってしても、お父さんは結局帰ってこなかった。
 でもわたしは電子レンジがなくても、お母さんのあたたかいごはんを食べてる。
 あの日お父さんに襲いかかった電子レンジは、お父さんの新しい家で冷たいごはんあっためたりしてるんだろうか。
 だって、お母さんを傷つけた新しい女、たぶんかわいいけど、料理なんかできない馬鹿な女だってわたしは勝手に思い続けてる。会ったことなんてないけど。人のもの欲しがる貧しい女のいいとこなんて、顔くらいだろ、なんて最低なこと、ひっそり思い続けてる。
 お母さんはあの日の話をたまにする。それで、自分で笑ってる。
 電子レンジなの、バカだよねえー。
 わたしはお母さんと半分こにしたアイスやりんごやクッキー齧りながら、笑う。
 あのときのお母さんを、今のお母さんが、優しく馬鹿な思い出にできるように。