昇降口を出て、校門に向かうみんなとは逆方向に踏み出す。木が何本も生えている、夏でも湿っていて薄暗い裏道。
 蝉の声が近くてぞわぞわする。お願いだから飛んでこないでよ、そう思いながら、もうとっくに慣れた道を少し早足で進んでいく。
 乾いた地面に一歩出たら、その先に小さな図書館。
 図書館、と呼べるほどの大きさでもないから、図書室、と呼んでいる。じーんじーんじーんじーんびりびりびり。
 蝉の声が鬱陶しく耳を殴る。汗で額にはりついた髪を指先で払いながら、図書室の入り口に近づいていく。
 プレハブ小屋みたいな図書室。軋む三段踏みしめて、がたつく引き戸を開ける。
 木と本とほこりのにおいがこもっている。
 いつもなら、引き戸を開けた瞬間に頭がくらくらする暑さで息が詰まるのに、今日は少しだけ息が吸いやすかった。顔をあげたらベージュのカーテンがかすかに揺れている。
「いと!」
 ……ちえりだ。わたしはそろそろと引き戸を閉めて、声に近づいていった。
 ちえりは窓辺の背の低い本棚に座っていた。
 この前と同じ格好だったけれど、今日は髪を三つ編みにして垂らしていた。なんでも似合うな、と思いながら、おはよう、と言う。
「朝じゃないのに」
「だって、友だちにこんにちはって言わないし……」
 ちえりはわたしの発した「友だち」という響きが気に入ったのか、満面の笑みで、そっかあ、と言った。
「ちえりちゃん、早くない?学校近いの?」
 水筒の中身がなくなりそうだなと思いながら、氷で薄くなった麦茶を飲む。水滴が指先にまとわりついて、飲み干したのどだけがするする冷えた。
「えーっ、内緒だよー」
「内緒ね、わかった」
「……いとって、ちゃんと人のこと見てるのね」
「ええ?なに、急に」
「内緒とかひみつとか、人って開けずにいられないでしょ」
「ううん、……気になったりはするけど。全部開けるほどじゃないし……」
 ちえりはあんまりいい思い出がないんだろうか。そう思う。
 でもわたしだって一緒だ。そういうのが面倒くさくて人から離れるだけだし。ちえりが言うように見てるわけじゃない。興味のないものだと言い聞かせて、無意識へ放りこむことができてしまう冷たいやつってだけで。
「ここ、いつもさみしいよね」
 ちえりが呟く。わたしはその言葉にくるりとあたりを見回した。
 小さな図書室。背の髙いあめ色の本棚に詰まった背表紙。ベージュのカーテン。大きな窓。置かれた机は三つ。軋む椅子が机ひとつにつき四脚ずつ。いつもの窓辺の椅子を引っ張って、座った。軋む音さえここでははっきり響く。
「さみしい」
 わたしは呟いた。呟いたら、言葉にしてみたら、本当にさみしくなってしまった。
 ここには食べても食べても減らないくらいの物語たちが眠ってる。
 一度食べれば気のすむ人が多いけど、わたしは違う。同じものだって何度も食べる。
 いつも味が違うことを、一回きりの咀嚼じゃ逃してしまう食感や味やにおいがあることを、多くの人は知らない。知ることの意味を知らないから。
 だからさみしい。
 もっともっとわたしと同じような人ばかりになったら、物語がそうやって食事と同じように人を生かすことをみんながわかってくれたら、そうしたらさみしくないのに。
「いとは小説が好き?」
「すき」
「どれくらい?」
 そう問いかけて、ちえりは窓の向こうから彼女を射す光に目を細めた。
 七月の中旬にさしかかったこのごろ、じっとしているだけでも暑いのに、ちえりの肌には汗の筋すら見当たらない。
「うーん――なくなったら、死んじゃうくらいかな……」
 ふと、今日の授業を思いだした。
 わたしだけが笑えなかった。
 みんな平気なんだ。物語が消えること。
 みんな平気だ。
 わたしはいやだ。
 でもわたしだってゴーヤが嫌いだし、もしゴーヤがこの世からなくなりますとか食べられなくなりますなんて言われても別に平気だ。
「ねえ、いとって小説書いてるよね」
 ちえりの言葉ではっとした。ぼうっとしていたのは暑さのせいじゃなかった。
 蝉の声が旋回する窓の向こう。うるさい七月。でもここは静かでどっか涼しい気さえする。
 それでも汗が滑り落ちる。わたしの猫背の骨の形に沿うようにして。
 鞄の中、相変わらずビブリオノートの黒猫はずっと眠り続けている。一生目覚めないまま。
「いとは小説を書く人だなって、すぐわかったよ」
「……どうして?」
「だってあなたの考えてること、だいたいわかる。言葉の隙間から見えるの」
 わたしはちえりを見た。
 ちえりはほほえんだままだ。
「――ちえりちゃんは、小説、すき?」
「ちえりでいいよ」
「ちえり、……は。すき?」
「うん、愛されてるって思う」
 返事になっていない奇妙な回答だった。わたしは窓の外に目を向ける。蝉の声。七日で死に絶える蝉。茹だる暑さの空気。抜けるような青空。ここから一歩外に出たら、夏に飲みこまれていく。そんなことをぼんやり思う。
「ちえりの高校で、山月記ってやった?」
「山月記?」
「教科書、同じかな。故郷は?走れメロスとか、……」
「覚えてる。どうして?」
「……あと数年くらいでさ、小説、やらなくなるんだって」
「学校で?」
「うん。そうなるかもしれないって先生が言った。クラスメイトは喜んでた。小説なんて答えのないもの解かされるのきらいなんだって。でもわたしはいやだ」
「どうして?」
「小説にきっと答えはないよ。書いてても思うもん。読む側がそう思うのもあたりまえだと思う。でも答えがないのは、答えを決めてしまったら小説が消えちゃうからだと思う――」
 んじ、と蝉が一瞬息継ぎをした。
 わたしも息継ぎをした。
「でも……小説の中の、……物語の中のできごとを、論理的に解くためにわたしたち読んでるんじゃない。赤ペンでマルもらうためでもないのに、でも、うまくおんなじ考えにならない。みんなにとって大事なものって共通してない。いつも――」
「さみしいの?」
「さみしい。わたし、いつでも奥に手を伸ばしたい。存在しない奥に。それでもそこを探りたいんだ。小説の奥ってないと思うの、無だと思う、でもその空洞は必要だから、なにも入れないように小説家はあけておくんだと思う、」
 そこまで口にして、わたしははっとした。
ちえりはふいに結ばれたわたしの唇ではなく、ただわたしの目を見つめ続けていた。
 話して。
 そう促すように。
「……みんなはわからない。小説のこと。でもアイドルやユーチューバーやバンドマンがすき。ちえりは、推し、いる?」
 ちえりはゆるやかに首を振った。
「……すきなひとのぜんぶを知り尽くすことに必死なんだ、みんな」
 そう言って、わたしは唾を飲みこんだ。自分の唾の味は自分のものなのに、いつまで経ってもわからない味がする。
 ちえりの目を見ていると飲みこまれていく。このあまりに小規模な国の一歩先に出なくても。
 ちえりのまなざしで、穏やかな湖に滑りだすボートみたいに言葉が綴られていく。
「なにがすきでなにが嫌いで、性格はどうとか好みのタイプとか、小さいことまで一生懸命かき集めて、自分の中にその人そっくりの形を模したもの宿すのに必死で。わたし、それと同じように小説のこと考えてるけど、みんなはちがうみたい」
「……いとは、どんな物語を書くの?」
「どんな」
 その三文字を吐き出した後で、わたしは考えこんでしまった。
 どんなものを書くの?わたしが小説を書いていることを知った人は、次にそれを知りたがる。でも答えられない。
「……今は、なにを書いてるの?」
 陽の当たるピンク色の髪の毛。
 甘ったるいいちごチョコレートの隙間の奥の景色は、さっきよりやわらいだ夕方に変わりつつあった。
 ノートも小説も、見せたことなんてない。誰にも。
 それでもなぜかちえりは知っている気がした。知っていて、それでも聞いているような。
「……今は迷ってる。書くべきものとか書きたいものを考えて、ぽつぽつ、ノートに書きだしてはいるけど……なんかいつも似たようなものばっかりになっちゃうから、それで悩んでる」
「うーん、……ねえ、いとの書いたことないものって、なに?」
「書いたことないもの?」
 チャイムがうっすら聞こえてくる。
 ちえりはわたしの言葉を待っている。本棚に詰まった彼女たちもなぜか息を潜めている気がした。
 蝉の泣き声は円になって窓の外を回っている。冷えた汗で、セーラー服の襟元が張りついて気持ち悪い。
 人差し指を隙間に入れて、ぱたりぱたりあおぐ。
「あー……うん、ファンタジーと恋愛ものは書いたことない」
「そう、いとは賢いからだね」
「賢いと、そのふたつって結びつかない?」
「賢い子は、なんとなく、そう思うな」ちえりはやっと机の端から腰をおろした。「いとって、空想を望んでるようで望まないんだね。書く言葉のどれもにきっとそれが滲んでるのかな」
 ちえりの、年齢と顔立ちに似合わないその言葉で、わたしは春のはじめに落選した小説のことを思いだした。
 予選すら通らなかった それ。
 かさぶたに爪をたてられたのに、わたしは痛みを感じなかった。
 そうなんだ、と思った。いつもならきっといらいらしたのに。
「かわいげがないのかな、」
「ううん。かわいげがないわけじゃないと思うけど――」
 ちえりはそう言いながら、窓の外へ鼻先を向けた。横顔も見つめてしまうくらいに綺麗だった。
 つんとした鼻先で、ちえりはしばらく夏のにおいを吸いこんで確かめている気もした。
「書いてみたことのないものを書くのは、素敵なことだと思う。ファンタジーや恋愛」
「でもわたし、ちゃんとしたファンタジー、書けない。作家になりたいなら、できないなんて言葉、通用しないのなんてわかってるんだけど、だめなの。たとえばシンデレラのガラスの靴はわざと脱ぎ捨てて行ったんだと思うし、プリンセスは全員かわいい時点で話になってない。犬や猫が喋るなんておかしいって思うし。だって彼女たちには彼女たちの言葉があって、それなのに人間と同じ言葉喋るわけないじゃない、それグロテスクだななんて思っちゃうし。人間の自分勝手な感じ。ヒクツなんだよねわたし、自分だって存在しないものごとに囚われて、それらに生かされてるのにね……結局、いつもできあがるのは、現実を水に沈めて、ある程度の汚れを落としたがってるかのようなどうでもいいことばっかりなの。現実を書いてるのに、現実から目を背けようとしてるようなものばっかり。矛盾してるの」
 ちえりがくるりとまたわたしを見た。それから、そういうこと考えてるいとってすごく愛おしいけど、と呟く。
 わたしは首を振った。汗が首筋を滑っていったからぞわりとした。
 ちえりの足元には大きな図鑑だか、よくわからない大ぶりの青い本が詰まっている。
「空想世界はすき。でもそこに滲む人間の、こうだったらいいなが綺麗すぎて、むかつくの。もっともっと人間も世界も汚くて、汚いから愛せるのに。魔法だって綺麗ごとじゃないよ」
「純度百パーセントが、きらいなんだね」
「そう。かわいくないよね」
「賢いのよ。疑うことは大事。疑わない純粋さは汚い」
 ちえりは十七歳とは思えない言葉を使う。それに少しひるんだ。
 いつも慢心してるんだな、と思った。わたし。
 だって、どっかで、絶対自分は十七歳の中でも賢いやつって思ってた。
 ちえりと話していると、少しずつ自分の隙間が見え始める気がする。
 ちえりの言葉はわたしのそういう隙間にやわらかい風を通すから、あ、なんかこういうとこがない、足りてない、なんてことを思う。わたしは口を閉じた。ちえりを見る。
 汗で湿った感じなんて一切ない、お人形みたいな肌。白いな、と思う。うらやましい。
 ぼうっとする。のどが渇いてる。水筒を開けたら、小さくなった氷が転がった。
「ちえり」
「うん?」
「飲み物買いに行こうよ」
「うん、いいよ」
 ちえりがほほえむ。
 この子いつでも笑ってるな、わたしはそう思いながら水筒の蓋をきつく閉めた。
 ちえりは踊るような軽い足取りで図書室を出ていく。わたしは汗をにじませながら、蝉の声と熱波で歪んだ外へ、ちえりの背中を追って進む。白いワンピース。白は光があたるとどんな色よりも激しく眩しいものになる。目が焼けそうだ。
 ちえりは怒ったり泣いたりするんだろうか。
 今のところ、わたしの中でちえりは絶対的な穏やかさを持つお人形のようなかたちになりつつあった。
 わたしよりも綺麗で、わたしよりも人間のにおいがしないちえり。うらやましいな。あまりに浅い言葉がちえりの影にかかる。
 忙しいな、わたしはいつでも誰かのことを羨んでばっかりだ。
 人の綺麗な表面しか見たくないと思っているくせに、欲しがるばっかりだ。
「暑い?」
 振り返ったちえりがわたしに問いかける。しんじゃうくらいあつい、とわたしはぼやく。
「夏、好き?」
 蝉がぶら下がる木々の影の下を歩き出す。湿った地面。じんじんじんじんぶぶぶぶぶ。蝉以外に夏を感じとれるものが欲しいと思う。騒がしくって仕方ない。
 ちえりの問いかけに、わたしは、きらい、と答えた。夏なんてしょうもないよ。
「いとは素敵な場所にいるね。いつでも」
「そうかなー……」田舎だし馬鹿みたいに暑いのに。
「ねえっ、ここより先、どこに繋がってるか、いとは知ってる?」
 ちえりが指したのは校門を出た先に伸びる下り坂だった。
 青く葉を茂らせた木が左右にずらりと並び、そこにも蝉がこびりついて愛を叫んでいる。あいつらどこにいても必死だ。
「……ちえり、行ったことないの?」
 ちえりはこくんと頷く。
 汗がこめかみを滑り落ちていく。足に絡みつくスカートも汗で湿っている。鞄をかけた肩まわりにも汗が染みる。
「海があるよ。そこからまたまっすぐ行ったら、みんなの家がある」
「行きたい」
「どこへ?海?」
 ちえりはまた頷いた。
 ぱんッ。
 グラウンドの奥から、ボールを蹴り上げる音が跳ねる。おおおおーっ、低い男の子の声。運動部の子、よく倒れないな。
 いいよとわたしは言う。行こうか。
 ちえりがくるくる回る。子どもみたい。でも言うことは大人みたい。変な子。
 広がるワンピースの裾で、これから膨らもうとするいつかのアサガオを思いだす。
 どうして小学生のころ、そろってアサガオなんて咲かせなくちゃいけなかったんだろう。
 わたしのアサガオ、咲いたんだっけ、枯れたんだっけ、その記憶がなぜかどうしても出てこない。
 ちえりが駆け出す。
 山を切り開いてつくったわたしの高校、下り坂はひどく急だ。
 はしゃぐような声をあげて、ちえりがどんどん遠くなっていく。
 えええ、呆れながらも置いていかれる気がしてちょっぴり不安になって、わたしも結局走り出す。
 熱波が顔にぶつかって蝉の声はあいかわらず、汗の染みた制服の裾がばたばた踊る。
 ローファーがぼろぼろのアスファルトを蹴って、そのたび小さな石ころがはねて落ちていって、わたしのからだは半分浮遊しているようで、それは暑さでぼうっとしているせいなのか、それとも本当に数ミリだけ浮いているのかはわからなかったけど。
「まってーぇっ」わたしの声がわたしより先に転がっていく。「ちょっとーっはやいっ、てっ」
「どっかに落ちてっちゃいそうっ」
 ちえりがはしゃいだ声のままそう言って、一瞬だけわたしを振り返る。
「落ちないでよっ、てかっ、落ちないからっ」
 べたべたべたっ、落ち着かない足取りで坂を駆け降りたら、ちえりの白いワンピースが視界一杯に広がって、思わず目をぎゅうと閉じた。
「落ちなかった!」
 ちえりの声で目を開ける。
 ぶつかったら折れちゃいそうなのに、ちえりはしっかりとわたしを受け止めて笑っていた。
 あの懐かしいにおいがする。はーっ、長い息がもれる。
 あぶないってー、そう言うと、ちえりは気にしてませんという顔でわたしに手を伸ばす。
 滑るような肌が、わたしの汗ばんだ腕に触れた。ぐい、と引かれる。
「え、」
「連れてって」
「……連れてくなら、わたしがちえりを引っ張らないと意味ないじゃん」
 わたしはもたついた調子でそう返した。
 ちえりに手を引かれた瞬間、なぜかひどく泣きそうになった。
 ごまかすようにわたしは笑った。
「あ、いと、ちょっと、」わたしの顔を覗きこんで、ちえりがはっとした顔をする。「顔が真っ赤だ、早く飲み物買いに行こうっ、倒れちゃう」
 そう言うなり、道もわかんないくせにずるずるわたしを引いて歩き出す。呆れてしまうのに、笑えてきてしまう。冗談ぶって、やばいもう死んじゃうかなあ、と言ってみる。ちえりの顔色がぐんと悪くなった気がして、まだ大丈夫だよ、と慌ててつけくわえた。
「いとって、冗談言ったりするのね」
「え、どうして」
 十字路でちえりが立ち止まったから、わたしは右へ踏み出す。ちえりは後追いしてくる子猫みたいにちょこちょこ歩いてくる。
「なんか、思ってたより、明るくて、楽しそうで、よかったなーって」
「なに、それ」潮のにおいがうっすらとしはじめた。「お母さんみたい、ちえり」
 じゃーっ、うしろから自転車が三台、わたしたちを追い抜いていく。
 あどけなさの残る男の子の声。ペダルにひっかかりそうでちょっと怖いスラックスの裾。白い指定のヘルメット。近所の中学生だろう。
 負けたらおごりっ。三人のうち誰かが発した声だけが残る。
 ちえりはにこにこしながら彼らの背中を見つめていた。
 平和だな。なんかぼけちゃって怖いくらいに、ここって平和だ。
 早く出なくちゃいけないんだな、やっぱり。
 とん、とちえりが優しく肩をぶつけてきたから、それ以上考えるのをやめた。
「ちえり、わたし今汗くさいよ」
「ええ、全然くさくないけど」
 嘘つけー、と言うと、ちえりはぶんぶん首を振った。
 それから見えてきた自販機を指さして、あれ?と聞いてくる。
 わたしは、うん、と答えようとして、それから少し先に駄菓子屋があるのを思いだした。
「……ううん、もうちょっと奥」
「え、なに、なにかあるの?」
「うん」
「ええ、でもいと、倒れちゃうよ」
「こんだけ暑かったら、あと数メートルなんて変わんないよ」
 汗を拭う。いつの間にかすぐそこに海が見える。
 潮のにおいが混ざる風に、わたしの汗を吸った制服と、ちえりのさらりとしたワンピースが揺れた。

 予想通り、ちえりは駄菓子屋そのものをはじめて見たらしかった。
 引き戸を開けて一歩入ると、まわりを埋めるお菓子やおもちゃに、わあ、なんて声を上げた。
 図書室とはまた違う懐かしくて古いにおい。一歩ごとに軋む床板。アイスの入った長方形の冷凍庫が低く唸る。
「ねえこれなに?」ちえりは十円グミの入ったケースを指さす。
「グミ」
「グミ?」
「あたりが入ってるよ。はずれのほうが多いけど」
「これは?」
「ラーメン」
「ラーメン……って、こういうものなの?聞いてたのとちがう」
「こういう麺だけのお菓子もラーメンって言うんだよ」
「甘いの?」
「しょっぱいの」
「あっ、これ、アイス?」
「そうだよ。そこから開けて、すきなのとって、買うの」
「ふーん……あ。わたし、いとがよく食べてたアイス当ててあげる」
「うそ、ちえりにわかるかな」
「これだ」ちえりは誇らしげにガリガリくんを持ち上げた。「そうでしょ」
「えー、あたり、なんでわかんの、変なの」
 ふははっ、といたずらっぽい声をあげて、ちえりは冷凍庫の蓋を閉めた。
 わたしはそんなちえりを変な子だなと思いながら、大きく削った氷と一緒に桶に浮いているラムネ瓶を一本とった。
 水滴がぼたぼたと垂れる。ハンカチで拭って、古びたカウンター代わりの机に置く。 
 お店の奥は住居と繋がっているのか、昔っから一日中大きなテレビの音がする。
 ちょこっとからだを曲げると、レトロな玉飾りが下がる奥、畳の上でテレビを見る小さな背中が見えた。
 すみません。
 声を張り上げると、数秒後に、はいはいはい、とおばあさんの声が返ってきた。
 小さいおばあさん。いつもにこにこしてて、なんかちょっとちえりみたいだ、そういえば。
 おばあさんはゆっくり、いろんなところ掴みながらここまで下りてくる。それを見るとなんか申し訳なくなってくる。
「あら、」わたしと目が合うと、にこにこ笑う。「おかえり」
「あ、お願いします」近所の人がかけてくれる、おかえり、にうまく返せる言葉を小学生くらいから探しているけど、全然わからない。ぺこりと会釈する。
「真水さんとこの。久しぶりねえ、また背が伸びたね。モデルさんみたいねえ」ここのおばあさんは物覚えがいい。「お母さんは元気?」
「はい」
「そうそう、よかった。恵子さんにもよろしく言っておいてちょうだいね、この前の集会のお礼言えなかったのよお」
 はい、と差し出されたなまぬるいおつりを受け取って、冷えたラムネ瓶を右手にさげる。
 あ、そっか、と思いだす。
 このおばあさん、うちのおばあちゃんとおんなじ宗教の集まりによく来るって聞いたことがある。はい、と愛想笑いで答える。
「ありがとうね、またいらっしゃい」
「はい」わたしはそこでちえりを思いだした。「あ、ちえりはいらないの?」
 おばあさんが、あら、と呟いた。
「お友達と一緒?」
 おばあさんは不思議そうな顔でわたしを見る。え、と抜けた声が出た。
 振り返ると、ちえりはもう店の外に立っていた。

 もう、変な子みたいになったでしょ。
 そう言うと、ちえりは、ごめんっ、と笑った。変に間延びしない、すっきりしたごめんの三文字で、わたしもなんだか笑えてきてしまう。ふたりでそのまま目に映る海に向かっていく。
「なに、それ」ちえりがわたしの右手を見て不思議そうな声を出す。「花瓶?」
「ラムネ。知らない?」
「知らない、……あ、あのね、……私、結構いろんなもの知らないの」
「ふふ、うん、大丈夫だよ」わたしはしゅんとしたちえりにそう返す。
 一口いる?そう聞いたけど、ちえりは首を振った。
「ねえ、ちえりこそなにも飲んでないよね?倒れちゃうよ?」
「私、暑いの平気なの。寒いのも平気だし」
「倒れたら死んじゃうよ、冗談抜きだからね?」
「死なない、死なない」ちえりは歌うように明るく言った。
 それならいいけどさ。よくないよと思いながら言う。
 自販機でなにか買って、あとで無理やりなにか飲ませた方がいいかもしれない。汗ひとつ目立たないのも怖いし。汗かかないって、結構やばいんじゃなかったっけ。どっかでそんなような情報を見かけた気がする。
 ふたりで防波堤に座った。海が見えると、ちえりの目は爛々と輝いて、あ、なんか本当に小説の中によくいる綺麗な女の子みたい、そう思う。ちえりってどっか生気を感じない。
 わたしは慣れた手つきでラムネのフィルムを剥がし、プラスチックの蓋を押しこんだ。
 ぽん、という音でちえりがわたしを見る。
 沈む青いビー玉と、かわりに浮き上がる炭酸の泡。甘くてどこか透明なにおいが弾けて、うわ、夏、なんて軽いことをつい呟いてしまった。
「すごい」ちえりは目を丸くした。「すごい、綺麗、とじこめちゃったんだね」
 とじこめる?
 思わず聞き返したわたしの言葉に、ちえりは沈んだビー玉を指さした。
「これ。……ねえ、これどうするの?どうやって取り出すの?それとも取り出さないほうが綺麗だから、こうするの?」
「え、うーん、なんだろ。でもこれ、すきにしていいんだよ。取り出そうとする子もいるし」
 わたしはそれだけ呟いた。答えになるような言葉を知らなかったから。
 わたしは飲みかけのラムネ瓶を光にかざして、窮屈そうにごろごろ回るビー玉をちえりに見せた。
 ちえりはじっとそれを見上げている。甘いにおいが潮のにおいに混ざっていく。
「これ、いる?」
 わたしはそう聞いた。じっとビー玉を見つめるまなざしは小さい子どものそれと同じで、いつだったか、バスの中でわたしの鞄にぶら下がった猫のぬいぐるみを、じっと見つめていた小さい女の子にあげてしまったのを、こんなタイミングで思いだした。
 大事にされるかどうか保証もないのに、気づくとそんなことばっかするわたし。
 優しくはない。絶対に。優しさじゃない、もっと別の意識からくるものだとはどっかで勘づいてる。
 ちえりは驚いたような顔でわたしを見て、え、と言った。え、とわたしも言った。
「ほしいんじゃないの?いらない?」
「いとのものよ」
「ええ、そうだけど、でも、わたしはすきにまた買うしさ」
「……うん、」
 ちえりはなんだかもぞもぞした感じで曖昧な返事をした。
 わたしは残りのラムネを飲み干した。炭酸すきだけど、あんまり強くない。
 目尻にうっすら涙が浮かんだけど、汗をかいているからか、ちえりは気づかなかったらしい。よし、とわたしは立ち上がる。
「ちえり」
「うん、」
「あっちにおりてみよう」
 空になったラムネ瓶と鞄ぶら下げて、わたしは防波堤をおりていく。がたつくテトラポッドも、小さいころから乗っかったりして遊んでた。今日は天気もいいし、心配ない。なにも。
「あっちって、どこ?」
「浅瀬。海の近く」
 ちえりは一生懸命わたしについてくる。
 ほんとに子猫みたい。
 いじらしさがこころをくすぐるから、恥ずかしくもあって、わたしはごまかすためにそのまま一気に浅瀬へ駆けおりた。

 ちえりは海を目の前にすると立ち止まった。
 その大きな目が惹きつけられたようにじっと海を見つめている。その光景を見ながら今更気づく。
 鬱陶しくてたまらないのに、今日はどこかすがすがしい夏だ。それから、ちえりのうすく開いた唇の赤さに、また目を奪われる。
「ちえり」
 ちえりを呼ぶ。ちえりはわたしの声ではっとこちらを見る。
「きて」
 ちえりとわたしはそれなりに大きい、砂浜から顔を出している岩の前に屈んだ。
 じりじりと太陽が首筋を焼く。汗が落ちる。鞄からスポーツタオルを取り出して、わたしは砂浜に膝をついた。
 素肌にあたる乾いた砂の感触、熱くて粗い。それからスカートの上にタオルを広げる。
「なに?」ちえりは少し不安げだ。
「ちょっと離れて。……そう、そこから見てて」
 岩に向かってラムネ瓶を振り下ろす。
 想像よりずっと音は小さかった。ざ、ざ、ざ、波が押しては引いて、押しては引いて、塩のにおいがそのたびに近くなって遠くなる。
 ぎゅっと目を閉じたちえりが、おそるおそる目を開く。
「……あっ、よし、」ひざから転がり落ちたビー玉をなんとか拾い上げる。「ほら、見て」
「わあ、……」
 ちえりはしばらくビー玉に見惚れていた。砂を払って、はい、とちえりの白い手に置く。
「え、」
「あげる」
「いいの?」
「うん」
 いいにきまってるよ、そう言ったら、ちえりは安心したように優しくビー玉を握りしめた。
 膝の上でちゃりちゃりと瓶の破片が揺れる。タオルでそのままくるむ。そういえばコンビニでおやつを買ったときの袋、いつか丸めてしまっておいた気がする。鞄に手を伸ばそうとしたら、ちえりがおそるおそるわたしのタオルを指さした。
「これ?あぶないよ」
「えっと、」ちえりはもじもじした様子で口にする。「これ、海につけたら、綺麗?」
 その言葉で、背中を向けていた海を振り返る。
 七月の海。突き抜ける青空。海は透明で、空の色を反射しているだけなんて聞いたことあるけど、本当なのかな。
 海は海で、どこまでも終わりのない青色をしていると思ってしまう。うん、とわたしは答える。綺麗だと思う。
 わたしたちはそのまま浅瀬に近づく。濡れそうで濡れないぎりぎりを狙って、ふたりで歩く。
 海の終わりはどこなのか知りたいな、なんて唐突に思う。
「ねえ、いと?」
「んー?」シーグラスかと思って掘り返したら、割れた貝だった。「なに?」
「いとの小説、読みたい」
「……おもしろくないかもよ」
「そんなわけないじゃん」
「……いいけど、まだ書けてないんだよ、なんにも」
「恋愛小説は?」
「……ええ?」
 気だるげな声が出てしまった。ちえりはそんなわたしを見てふふふと笑った。
「だって、いと、きっとすきなひといると思うから」
 ――あなたの心はとっくの昔から既に恋で動いているじゃありませんか。
 ちえりは歌うようにそう言った。やわらかくて甘ったるい声音で。
「それ、……こころでしょ。今、やってる」
「授業で?」
「うん。でも、ほんのちょっとしか抜粋されてないの。わたしのすきなシーンほぼカット。金曜ロードショーで観るハリポタみたい」
 あははッ、とちえりはからからに笑った。ちえりの笑い声は気持ちがいい。
「ちえりのところは、今、なにやってるの?」
 砂浜に指先を入れて貝殻を探していたちえりが手を止める。
「内緒」
「なんでよ」ちえりの後ろに立つ。それから屈む。わたしたちは並んで貝殻を漁る。
 熱風吹いて、はたはたはた、ちえりのワンピースが揺れるから、その白さに目を細める。
「ねえ」ちえりがわたしの肩に寄りかかるようにしてくっついた。
「なあに、暑い」ちえりのやわらかい肌は真夏なのに乾いていて不思議だ。
「ひどい」ぷ、とちえりが頬を膨らませる。
「なによ」唇突き出してみる。
「すきな人いるんでしょう、教えて」ちえりはわたしの目を覗きこんだ。
「やだっ」
「なんでっ」
 わたしたちは仲良しの猫がそうするみたいに、ふざけて肩をぶつけ合う。
「だってちえりばっかりずるいでしょ、わたしのこと根掘り葉掘り」
「だっていとのこと知ってるし、他に知らないのはそういう話だけなんだもん」
「嘘つかないでよ」
「嘘じゃないよ」
「ちえりのすきな人教えてよ。彼氏くらいいるんじゃないの」
「いないよう」
「嘘だ」
「なんでよ」
「ちえりかわいいのに。どーせ振ってきたことしかないんでしょう」
「かわいい?いとから見て、やっぱり、かわいい?」
「やっぱりってなによ自覚あんじゃんっ」
 あはははは、とちえりが笑う。さっきより何倍も楽しそうに声を上げて。
 ざッ、ざッ、ざッ。
 波寄せる音はちゃんと聞いてみるとなんだかぶつぶつ途切れていて、それがちっちゃくちっちゃくなんとか繋がっている感じで、目を閉じたらもっと不思議な感じがする。
 浅瀬に手のひらをつける。
 ちえりはタオルを広げると叩き割ったラムネ瓶の破片を取り出して、流れていかないように、砂浜にさしこんでいく。
 水族館を閉じこめたみたいな、透く青。
 水に溺れていく色があまりにも綺麗で、わたしたちはくっつきあったまま、破片にかかる波とその音と色に沈みこんだ。
「綺麗」ちえりがささやく。
「うん」
「いとの見る世界はこんなに立体的だったんだね」
「ええ?なあに、それ」
「私、いとと同じものを見れてうれしい」
「なんでよ」
「駄菓子屋もラムネも、ほんとうを見たのははじめてだった。全部好きになっちゃった」
「……ちえりっておおげさ」照れ隠しでそんなことを言ってしまう。
「だってこれから何回でも思いだせるくらいだもん、今日のこと」
「……そう?」
「思いだしたときにはすきなのよ、そうだと思うよ」
 言葉の意味がぴんとはこなくて、うん、とわたしはそれだけ呟いた。
 ちえりはそろそろと破片に手を伸ばす。
 名残惜しそうに手元の破片を見つめる横顔に、わたしはさみしさのようななにかを覚えて、隣に屈みこむ。また肩が触れ合う。
「持って帰る?」
「……うん」
 ちえりが頷いて、破片を濡れたままポケットに入れようとした。
 ちえりのポケットの中でラムネ瓶が牙を剥いて、白いワンピースに血がにじむのを、一瞬想像してしまった。ぞっとした。
 待って。
 思わず声が出て、ちえりが手を止める。
 わたしは鞄の底から丸めたコンビニの空袋を取り出して広げる。
 ぶん、風飲みこんで膨らむ白の半透明を、ちえりが不思議そうに見つめていた。
「大きなくらげに見えた」
「なによ、それ」ちえりの言葉に思わず笑ってしまう。「ビニール。これあげる、これに入れて持って帰って。ポケットの中で刺さっちゃったら、痛いし」
 ありがとう。
 ちえりはにっこり笑った。怜くんのふっとした笑い方よりわかりやすくて、底抜けに明るい笑顔。かすかに開いていた唇を閉じる。
 ちえりの宝物をひとつずつ引き抜いて、ハンカチで海を拭って、ビニールに入れる。
「いつか乾くよ?」ちえりは不思議そうに言う。
「濡れたままだと嫌なこともあるよ」
 今度はちえりがあまりぴんと来ていない様子で曖昧に頷いた。
 ――思いだしたときにはすきなのよ。
 さっきちえりに言われた言葉が、瓶の破片と一緒になってビニールへ溜まっていく気がした。

                    *

 掃除が終わって教室に戻ると、黒板に大きく書かれた「三者面談の紙は夏休み前に出すこと」の字が目に飛びこんだ。あ、と思った。
 追い打ちかけるみたいに、帰りのホームルームでは進路希望調査票が配られた。いつものプリントより重い気がした。
 ――三者面談の紙、また忘れてた。
 帰り支度で騒がしい教室、鞄の奥底を漁る。
 嫌な気がしたらその通りで、三者面談のプリントはしわが寄って破けていた。
 やっちゃった。いつもならファイルに入れて、その日のうちにお母さんに渡してるのに。
 あーっ、めんどくさい。
 悪態つきたいけど、百パーセント自分が悪い。諦めて鞄を肩にかける。
 なにがめんどくさいって、職員室が遠いこと。
 きゃあっとアイドルの動画見ながら黄色い悲鳴をあげる女の子たち、なにかで大笑いしてる男の子たちの隙間を通って廊下に出る。 
 二年経てば迷うこともなくなって、にぎやかな膜いくつも破って淡々と歩く。北階段をおりていく。
 職員室は薄暗い感じがする。ドアをノックする。
 ドアを開けて、言い慣れた言葉で一歩踏み入れる。
 冷房のついた職員室は涼しくて、でもその涼しさで途端に機械じみた感じがする。
 ドアのいちばん近くに座っている男の先生がわたしを見る。どした、と低い声で聞かれて、あの、とおずおず担任の先生の名前を口にした。
「あれ、」ぼりぼりと剃り跡の残る顎をかきながら男の先生が職員室を見回す。「いねーな」
「あ、そうですか、」
「あれ、真水さん」
 やわらかい声に顔をあげると、現文の先生がわたしに手をひらり泳がせた。
「どうしたの?」
「あ、あの、三者面談の紙が破けちゃって、」喋りながら、あ、そうだ、先生隣のクラスの担任だ、と思いだす。「新しいの、いただきたくて」
「いいよ、ちょっと待ってて」
「はい、すみません」
「いいのよー、まってねー、今印刷してあげるからね」
 どこにいたらいいかわからなくて、おそるおそる先生の隣にちょっとの距離を置いて立つ。職員室の机はそれぞれ先生たちの内面がにじんでて、つい見てしまう。先生の机はきっちり整頓されていて、無駄のないように収納ケースやボックスが組み立てられていた。そのどれもに、黒板と同じ字で、西野まみこ、と書かれてた。西野先生。下の名前ははじめて知った。
「……進路、きまってる?」
「……あ、」ペン立ての中でネームシートのはがれかけた赤ペンから目を離す。「……まだ」
「大学行くとしたら、文系とか?」
「……えっと、あの」
「うん?」
 電話がかかってきて口を噤んだけど、受話器をとったのは別の先生だった。西野先生はいつものやわらかいまなざしでわたしを見上げている。
「……小説家になりたいです」
 西野先生は目を丸くした。スカートをぎゅっと握りしめる。冷房で引いた汗が暑いときより鬱陶しい感じがして、すぐに手を離した。湿ってるせいか皴はすぐには戻らない。
「なりなよ」ころっとした声でそう言われて、今度はわたしが目を丸くする番だった。
「……え、あ、でも、」
「なれるよ。やめない限りいくらだって可能性があるよ。それなら大学に行くかどうか、よけいに悩むわね。そうね。私は担任じゃないから、しつこく真水さんにいろいろ言う権利ないんだけど、そう、よかった、やりたいことちゃんとあるのね。そうなの」
「……大学は、……お母さんは、行かせてあげたいって。でもうち、お父さんいないので、」
「あら、そうなんだね。そうか。お母さんに夢の話はしてる?」
 はい、と頷く。
「お母さんは、すきなことをしていいって。でも、すっかりそうは思えないっていうか、」
「……そっか、うん」
 西野先生はわたしをじっと見つめて、それから呟くように言った。
「……真水さん、この前の授業、悲しそうな顔してたね。ごめんなさいね」
「え?」
「なくならないわよきっと。この世からなくなることはないから。きっとね。真水さんみたいな人が書いて、繋げていっているから。そうやって続いてるから、文学は」
「……はい」
「人間ってね、変わんないのよ。ずーっと変わんないの。本質はずっとずっと同じよ。繰り返す生き物だから。竹取物語の時代から変わってないのよ。一本道じゃなくて、円だからね、この世界は。そこをみんなぐるぐる回るしかできないの。どうにか少しでも歩きやすいようにしながらね。小説はそういう部分をちゃんととらえてきたものだから、消えたりしない」
「……でも、みんな、本読まないです」
「読まないねーっ、びっくりしちゃうくらい読まない。もったいなーいって思うし、教師としてもひとりの人間としても焦るわよ。でもなんかわかんないけど、消えたりはしないって、思っちゃうんだよね。思えてしまうんだよね。人はこころの底では文学を好きよ。誰でも」
「誰でも?」
「うん。気づいていないだけ。無意識に言葉に縋るのよ人間は。そういうふうにできてるの。小説がなんで続いたと思う?救ってきたからよ、そうやっておっこちそうになった命を何個もね。何個も何個も拾って、また、よいしょって、戻してたのよ。立ち止まるための言い訳になってきたのよ。人間は言葉が発達した動物だし、なにより感情の動物だから。言葉がないと、うまく生きていけないことがたくさんあるのよ。先生はそう思ってるよ」
「……そうですね」
「うん。真水さん、恥ずかしいと思わなくていいよ。だって恥ずかしいことじゃないからね。ああそうだ、あなたの書いたこころの解釈、先生はすごく好きでした。いつもちゃんと読んでくれてありがとうね。また発表してね、よかったら。みんなの手を引いていかなくてもいいから、ねえ見て、くらいでいいから。真水さんらしくいてほしいと先生は思います」
 はい、じゃあ、これ。
 先生はそう言って、新しい三者面談の紙をわたしに差し出した。
 刷ったばかりの、まだあたたかい紙。インクのにおいがかすかにわたしと先生の間で混ざっていく。
「お母さんに賛成するよ」先生は優しく笑った。「好きなことをしちゃいなさい。迷う前に」

 ドアを閉めたらむっとする暑さの廊下に出る。目を細めてしまうほどの光がめいっぱいに散っている。
 おーいまじずるいよなあ、職員室だけエアコンはねーよお、そんなことを気だるそうに言いあいながら、同学年らしき男の子ふたりが入れ替わりで職員室に足を踏み入れる。
 手の中でくたりと三者面談の紙がくたびれていく。進路希望表まで配られてしまって、ああいよいよ、大人に向かって歩けって、少しずつ大人たちが手を離していく感覚が広がっている気がする。
 好きなことしちゃいなさい。そう言って笑ってくれた先生は、好きなことを追った結果、先生になったのかな。それとも、他にあったけど、大人になるために捨てたのかな。
 夕方の近づいた空気はほんの少しだけぬるくて、それでも歩いているうちに汗が出る。
 前髪がはりつくから、うんざりする。手の中で紙はどんどんしおれていく。誰にもちゃんとしたことは聞けないんだから、自分でどうにかしなくちゃいけないのはわかってるのにな。
「あ、マミズ」
 男の子の声に振り返ったら、怜くんがいた。たった数歩の距離。
 心臓がはねて、思わず一歩下がる。汗くさい。今のわたし、絶対、汗くさい。やばい。
「あ、えっと、なんか、あった?」
「あ、ううん。見かけたから。部活?」
「ううん、あの、わたし、帰宅部だから」
「あ、そうなんだ。一緒だね」
「あ、」喉が渇くから、言葉が舌に絡まってしまう。「そう、なんだ」
「進路希望表、書いた?」
「あ、まだ――」
「だよね。配られたばっかりだし」
 いつの間にかふたりで歩き出していることに気がついて、足がもつれそうになる。
 どうしよう。
 まともに男の子とふたりで喋ったこと、ない。
 隣にいる怜くんをほとんど見れないまま、ただ歩いた。
 いつものなんてことない距離が長くも短くも感じられて、足取りはおぼつかない。
「マミズは大学行くの?」
「え、っと、」汗くさい、かも。そうだったら、どうしよう。「決めかねてる、っていうか」
「そっか」
「えっと……怜くんは?」
 吹奏楽部の音色が遠くで聞こえる。北階段を降りていく。
 いつもと変わらない、ぬるくて薄暗い階段。わたし以外にもここを使う人がいたんだ、そんな今更に驚いている。
「ぼくは受験」階段に響くわたしたちのまばらな足音。
「東京の大学?」汗、とまって、こころの中で何度も祈る。
「うん、東京。芸術学科があるから」怜くんの横顔。見慣れていないそれ。
「芸術学科?」
「映画撮りたいから」真夏でも、汗、の二文字が想像できない、さらりとした怜くん。「それで」
「……映画、すきなんだ」
「うん。表現全般好き。……や、マミズの前であんま言えないけど」怜くんは恥ずかしそうに言う。
「え、……どうして、」
「だってマミズはすごいからさ」
「……え、すごくなんか」思わず俯く。「全然」
 少しの沈黙で、はっとする。よけいなこととか、変なこと、言ったのかもしれない。そう思って慌てて怜くんを見たら、目が合ってしまった。彼の薄い唇がまた開く。
「マミズの詩、読んだよ。この前の学年便りの裏に載ってたやつ。学生の詩のコンテストだっけ、結構いいところまでいってたんだね。すごいね、ぼくにはあんなの書けない」
「……え?」
 授業内で書いていた詩を、先生の勧めで出していたやつだ。
 学年便りなんてどうせ誰も見ていないから、知ってる人もいないだろうと思っていた。
「あと、現文で発表してた綴の小説の解釈とかも。あれ、ダイチと一緒にすげえよなって言ってたんだよ。みんな、綴には国語じゃ勝てないとか言ってるし」
「え、そ……そうなんだ、知らなかった、」
「もっと自信持ってもいいと思うけど」怜くんはゆるくほほえむ。「謙虚だよね、マミズは」
 はじめて聞くことばかりだった。
 みんなわたしを無害な半透明だと思ってる。そう勝手に決めつけてた。
 そうじゃなかったり、したんだ。そうじゃないかもしれないんだ。
 教室に戻るまでの一歩一歩が、そこから急にもたつきはじめた感覚に変わって、わたしは恥ずかしくてなにも自分から切り出せなくて、そうしたら怜くんも黙ってしまった。
 気まずさとはまた違う変な感覚に、なにか言わなくちゃ、そう思ったら、あのいつもの掃除ロッカーが目に入った。
 ぞうきんのにおいがする、ひしゃげた掃除ロッカー。
 ――あ、あの掃除ロッカー、またドアが半開きになってる。
 そう思った瞬間、怜くんが指先でそっとロッカーのドアを押しこんだ。
 はっとする。
「あ、ぼく、ダイチ呼びにいかないといけないから」そう言って、怜くんは右に繋がる廊下を指す。教室は左。ここで別れる、そう思うとうっすら安心してしまうほどに、緊張していた。
「あ、」顔をあげる。「うん、それじゃあ……」
「うん、また明日」
 ひらりと怜くんが手を振る。紋白蝶の羽に見えた。
「あ、怜くんっ」
 思わず声が名前をなぞった。怜くんが立ち止まって振り返る。
 放課後の廊下。明るいそこに立っているはずなのに、怜くんの輪郭に沿うような影。輪郭が不確かだ。怜くんはときどき、消えそうに見える。唇を必死に動かす。
「この前、ペン、拾ってくれて、っ……あ、ありがと……」
 言葉がすぼんでいく。呼び止めるほどのことじゃないじゃん、呆れたわたしが呟く。
 怜くんはわたしの言葉にほんのちょっと目を丸くして、それからまたあの笑い方をした。
「マミズは優しいね」
 やわらかい声が飽和して、その言葉の意味を受け取る前に、怜くんは消えていた。
 はしゃいだように揺れ出した鼓動と、這い上がってくるようなくすぐったさが残った。
 気づいた。
 ああ、わたし、気づいちゃったんだ。
 むずがゆさに息を止めたら、熱のこもった頬が火照っていく。

                    *

 ――愛は不確かでわからないので、うまく答えられない。先生もその通りだと思いました。むずかしいよね。愛がどういうものなのか、向ける相手によってかたちもにおいもすべて変わってしまうからかな、と先生は考えました。真水さんはどうですか?気が向いたら教えてね。
 返ってきたプリントには、先生の赤ペンで、先生の字で、先生らしいことが書かれていた。その下、端正な丸の中にいるのは、丸っこい「A」だった。ほっとする。
「みんな、いい回答でした。素晴らしかったよ」
 西野先生はプリントを返し終わるとそう言った。みんないつもやいやいうるさいのに、なんだか恥ずかしそうな、奇妙な顔をする子も何人かいた。
 そりゃこんな半端な年齢で、愛とか恋に関して聞かれてもわかんないよね、とわたしも思う。
 わたしだってかっこつけていろいろ書きこんで、読み返したらぞわっとくるくらい浮かれていたから、結局書きなおしたし。
 当たり障りない、それでもなんか気取ってるような自分の文章読み返しているうちに、うわ、浅い、と言ってしまいそうになる。
 プリントをファイルに挟んだらチャイムが鳴った。
「はい、じゃあおつかれさま―」
 西野先生はあっさりと教室を出ていく。
 次の教科書を出すと、わたしは久しぶりにビブリオノートを広げた。
 全然書いてない。やばいなあ、そういう焦りでシャーペンを握りなおした。
 ――恋愛小説。
 ちえりの言葉を思いだす。それからプリントに連ねた非凡のふりした平凡の文章。
 愛は不確かでわかりません。
 でもその通りだと思うし。
 ノートに、愛、と書く。その隣に、恋、と書いて、そもそも分別つけはじめたのって誰だ、とペン先を止める。
 スマホを取り出して、公開チャットアプリを開く。検索欄に、愛、と入れる。
 ――愛されてないなと思う、まじで。とりあえず連絡しろって話です
 ――彼氏から連絡がこない?愛される女の特徴は……
 ――愛情がないってそれだけで死にたいの理由の一個になるよな。
 ――さすがに愛じゃない?
 知らない人たちの、知らない会話や呟き。その中で使われた愛の一文がどんどん出てくる。
 誰かを想っていたり、憎んでいたり、はたまた誰かの名前だったりする愛。
 スクロールするけどなかなか切れない。目についたものがあれば指先を止めてノートに箇条書きをする。愛、って、みんなよく使うな。そう思った。
 きりがないから、今度は、恋、と入れる。大量に出てくる。
 でも、「恋」単体で使われている文章よりも、愛とくっついた「恋愛」の文章の方が多いことにふと気づいた。
「マミズ、なにしてるの」
 反射でノートを閉じる。
 顔をあげたらすぐそばに怜くんがいて、うわ、と声が出そうになる。心臓がばくっ、と鳴った。
 視界に入れないように、今日いちにち、わたしずっと俯いてたのに――シャーペンが転がって落ちそうになって、そうしたら怜くんの指がそれを止めた。

 あの日のせいで、怜くんのことばかり目につくようになった。
 男子高校生のなかでは小柄で、色が白くて、睫毛にかかる前髪に透けるおひさまの光さえ、他のなによりきらきらして見えてしまった。少し目つきは悪いのに、影がつくのに、言葉は優しくて声はやわらかくて、ひとつ気づくと全部をすきになってしまう魔法がかかっていた。
 きっかけは簡単だった。あんまり簡単なきっかけで人をすきでたまらない日がくるなんて、そんな方程式は予習してこなかったから、困った。
 呆れちゃうくらいなんでもないような気づきでほろほろ崩れて、その隙間から怜くんの複雑に編みこまれた糸のかたまりが見えた気がして、それはわたしだけが覗いた隙間、わたしだけが見つけた宝島のような気がしていて、そこへ手を入れてほどきたいことがたくさんあった。知りたいことがたくさんあった。
 わたしはうしろの席だから、怜くんの瞳や睫毛や感情の揺れよりも、彼の背骨を見ることの方が多かった。指定の真っ白なワイシャツの下でもうっすらわかる背骨。
 彼は目が悪いのか、板書をするときひどい猫背になるから、痩せ気味の背中から背骨が浮き上がる。それはいつか読んだクジラの骨と言い伝えを思わせる。
 ギリシャのお話。クジラは人間のともだちで、かつて水死した人の生まれ変わり――。
そんなこと重ねてしまうのは、怜くんのことまるでそうやって言ってるみたいだけど、でも実際、ふいに窓の外に目を向ける怜くんの横顔を見るたび、なぜか水を連想してしまう。
 怜くんが本当はクジラだったりしたら。
 そんなこと思うと、怜くんに視線や思考を奪われると、とたんにおぼつかなくなってしまう。
 わたしこんなにゆらぎやすかったんだ、そんなことに気がつく。
 さっきだってそうだった。西野先生がこころのどこを辿ったか何度も見失った。
 怜くん、こんなに近いのに。わたしきっと毎日、誰よりもこの人の近くにいるのに、なんにも知らない。でも、知ることが少し怖い。
 すきだらけになって、生活がたるんで隙ができて、でもきっとしあわせなんだろうな。
 クジラ。
 ルーズリーフの右上にそう書いた。クジラ。七月七日の上。それからふっと、七夕だなあ、と思う。思いだす。イベントの中でも、どうして七夕だけあんな軽い扱いなんだろう。
 ――織姫さまと彦星さまは、一年に一回しか会えないのよ。
 幼稚園生のとき、七夕のお話を知った。
 お星さまのかたちに黄色い画用紙ざくざく切りながら、わたしは、一年って、大変だなあ、なんて思っていた。かなしいんだろうな。だってあのころわたしのお母さんは、お父さんが一か月出張行っただけでもかなしそうな顔でごはんを食べていたから。
 でも今わたしが十七歳になって思うこと。一年ぽっち、意外と平気なんじゃないかって。
 だって息を止める暇もないくらい、一日一日は早く過ぎていくから。
 それに、すきなひとと会うのは、それくらいがちょうどいいんだ、きっと。
 だってわたし、まだなにも伝わっていないのに、伝えていないのに、怜くんに毎日会っているだけで苦しい。ルーズリーフをぐしゃぐしゃにした。
 クジラと七月七日とこころがごちゃ混ぜになって、しわしわになっていった。

 ありがと、と声が小さくなってしまった。怜くんはシャーペンをわたしに差し出して、自分の椅子の背を前にすると静かに腰をおろした。
「いつも何書いてるの」
 怜くんのまなざしは、窓に射しこむおひさまの光とおんなじ。
 穏やかなのにわたしのたいせつなところに刺さる。かえしがついてるせいで抜けなくなる。抜いてしまったらきっと塞がらない穴になってしまう。
 だから怜くんが今までわたしを見つめたぶんの針が、わたしのたいせつなところには深く刺さっている。抜かないでほしいと思う。一生刺さったままでいいと思ってしまう。
「……もしかして、小説?」
 息を飲む。怜くんの真っ黒で澄んだ瞳の中に、睫毛で陰るその中に、わたしがちゃんと映っていた。目が合ってる。視線が絡んでる。心臓が泣きそうに暴れ出す。
 男の子なのに真っ白な肌。
 男の子なのに乱暴じゃない言葉や声。
 男の子なのに陰る色。
 男の子だから目立つ喉仏。
 男の子だから浮き上がる血管。
 今は見えない背中のクジラ。
 瞳に少しだけかかる前髪の透いたその光。
 怜くんがわたしから言葉を奪うようにほんのちょっとだけ首を傾ける。
 本当は言いたかった。
 そうだよ、わたし小説書いてるんだよ。ずっと書いてるの。
 それでね、今はあなたのことを書こうとしてる。
 ――ねえ、これが本になったら、いちばんに読んでくれたり、する?
 瞬きで睫毛が震えた。目を上げる。
 目を逸らしてしまう。自分から。
 今この瞬間だけは、怜くんが、祈らなくってもわたしを見てくれているのに。
「……ないしょ」
「だめか」
「……ッ、ひみつ」
「あはは、ごめん。綴って結構、秘密主義だね」
 ビブリオノートの黒猫が少しだけ目を開いた気がする。わたしは恥ずかしくて目を伏せて、伏せたのに、わたしの机についた怜くんの手の骨や血管に心臓小突かれてしまった。
 めったに笑わない怜くんが、歯を少しだけ見せて笑うときの顔がすき。
 笑う理由にわたしがいることがすき。
 うわ、すきだ。
 すきになった、そうなんだ、そっか、どうしたらいいんだろう。
 ああなんかもう、どうしようもないな。
 どうしようもなくなるから、すき、だけで、それ以上のこと望んだりできない。
 でも、できないだけで。すきでいるだけでじゅうぶんだってわかってるわけじゃない。
 不細工な願いならいくらでもある。
 せめてわたしと怜くんの制服の肩回りがほんの少し触れあってほしいとか、小規模な願いからだいそれた願いまで――なによりこの人を誰の手にも渡らないようにしてしまいたい。
 こんなにすきで、だからきっとわたし、自分でもこの気持ちを負いきれない。
もてあましてもてあまして、困ってずっと持っていてしまって、だから溶けて、いつか崩れてこじれる。
 それなのに、ほしいと思う。すきと独占欲と、そのいずれも怜くんを幸せにするものじゃない。イコールなんかじゃないのに。
 だからよけいに、すきなんて言えない。
 直接、すき、って言うのはむずかしい。
 本当の意味のすきを伝えるためには二文字じゃむずかしい。みんなどうして伝えているんだろう。すきの二文字じゃ裾も足りない。
 振り向いてくれないんだろうな、って、どっかでわかってる。
 ――しまもとー。
 怜くんは眼鏡をかけたおとなしそうな男の子に呼ばれると、窓辺に向かって席を立った。白いワイシャツ、彼の動きで少ししわが寄って、風に真っ黒な髪が揺れて、髪は真っ黒なのに光を通すとどこまでも透明にきらめいて見える。
 窓辺の白い棚の上、誰かが持ってきて水やりのおざなりな花の隣、怜くんはクラスメイトと一緒になにかをスマホで見て、くすぐったそうに笑った。それからなにかをすらすら喋って、それはいつもと全然違う感じで、クラスメイトはその言葉に笑いながら細い肩を小突いた。
 蝉の声で聞こえない。
 教室に充満する呼吸やおしゃべりで聞こえない。
 汗がこめかみからわたしの胸元に滑り落ちる。
 濃紺のスカート汗ではりついて、ここは暑くてぼうっとする。
 カーテンが揺れる。
 見つめていたわたしの目線に怜くんが触れる。
 目が合う。
 ふ、って緩む、口角。
 優しい、でも優しい代わりに、なんにもこもっていない笑い方。
 すき。
 ねえ怜くん。
 せめて誰のものにもならないでいて。
 そんな身勝手な言葉を握りつぶすかわりに、わたしはもう一度シャーペンをとった。