夏のにおいと春のにおいは同じように透明だけど、夏はその輪郭を掴んだ感触がする。
 春はだめだと思う。
 春は綺麗で澄んでるのにぼやっとしていて、掴もうとすると飲みこまれてしまう。その鬱々とした胃の中で過ごす梅雨もきらい。
 溶かされてどろどろになってようやく吐き出されると、世界はあっという間に真っ青な夏になっている。溶けたからだを立て直す時間もないまま。
 梅雨が明けて七月に入った世界で、実際、わたしの輪郭はまだぶよぶよしてる。水の抜けきっていないような感覚。
 季節はいつでもわたしたちを置いて、彼女たちだけに共通した規則通りに進んでいく。
 古びた図書室。開け放した窓から飛びこむのは蝉の声とぬるい風。夏の夕方はまだ遠い。引き延ばされた昼間はたるんで緩み、熱気がどこにもいけずに漂っている。壁にかかる時計は午後の四時を指していた。
 徐々に氷が溶けるように、蔓延る蒸し暑さに変わっていく。
 古いにおいがするベージュのカーテンはうわうわと動き回って舞って、そのたび夏のにおいは濃く、眩しいおひさまの光で本の背表紙たちが光る。
 たっぷり詰まった背表紙たちは、わたしにとって綺麗な絵画に似てる。
 作家が名づけた響きを刻まれて、彼女たちは本棚にきつく身を寄せ合って息をひそめている。開かれることを、その奥にわたしたちが手を伸ばすことを待っている。
 そんな彼女たちの待合室ですごすことがすきでたまらなかった。
 わたしと小説の待合室。夏の日は長く、夕方が近づいているのが信じられない。無人のカウンター。少しでも体制を変えると文句を言う椅子。傷だらけの机。昔に彫られたらしい、コンパスの針で刻まれた誰かの似顔絵と相合傘。こびりついているのはいつかの黒い文字うつり。
 ビブリオノートに口づけたシャーペンの先がそれ以上進まない。
 ペンを置いて、ページをさかのぼる。これでもう五冊目になったノート。
 表紙に黒猫が眠っているデザインがすきで、小説を本格的に書くようになってから、プロットを綴るのはこのノートだけなんてルールがあるくらい。
 このノートの中で組み立てた物語は、そのときどきのわたしの百パーセントだった。
 うまく書けたと思ったのにな。呟いてみる。
 わたし以外誰もいないから、かわりに本棚に詰まった彼女たちがその声を吸収してくれるけど、むなしくなる。
 今まで応募したわたしの小説は、ぜんぶ、線香花火より早く落ちた。
 倍率数千倍の新人賞。受賞したのはわたしのひとつ下の女の子だった。その前も。倍率五百倍。半分以下でも落ちた。数千倍の原稿の束から引きあげられた女の子のインタビューが掲載された文芸誌は、その月だけ読めなかった。
 ページをさかのぼると、常にわたしが不貞腐れた顔で隅っこにいるから耐えられない。
 ため息と一緒にからだをほどいて、ぬるいテーブルに頬をつける。
 踊るカーテン。あたまの部分がくっついちゃってどこにもいけないのに、わかってないから動き続けている。
 なんかわたしみたいだな、簡単に風に揺れて踊るのに――、
 こく、と息を飲みこんだ。
 ベージュのカーテンの中に、誰かが立っていた。
 足の形で女の子だとわかったけど、この学校の子じゃないことは明確だった。
 だって白いワンピースの裾が揺れてる。わたしの高校の制服はセーラー服だし、スカートは濃紺だから。
 ひときわ大きくカーテンが膨らみ、その瞬間、女の子がこちらを見た。
 ピンク色の髪の毛ではっとする。
 鎖骨のあたりで跳ねる毛先。白いワンピースはオフショルダーで、さらされた鎖骨の形が神経質にくっきりしている。
 彼女を見たとき、わたしはまっさきにいちごのチョコレートを思いだした。
 長方形のかわいい箱に詰まった、小さな山の形をしたお菓子。
 彼女の髪は、まるでそっくりだった。伸びはじめた根元のミルクチョコレートと、その一センチほど先からはじまる、さらさらした甘ったるいいちごのチョコレート。
 彼女はゆっくりとわたしのもとに来て足を止めた。
 彼女の顔のつくりはより立体的に目に映って、白い肌の中にはっとするような赤を孕んだ唇に目がいく。大きな目は綺麗なアーモンド形、長い睫毛はそのまま下向きで、化粧っ気は感じないのに整った子だった。
 やわらかいいちごのチョコレートはゆるやかに右耳にかかって、その隙間から蝶々のピアスがきらめいていた。色白の肌によく似合う群青の蝶々。
「気付いた?」
 彼女はそう言って笑った。わたしたちの視線が絡み合った瞬間に。
「……ごめん、なさい」気まずくて謝罪を口にする。
「ううん」
 彼女はさらり落ちた髪を指先でまた耳にかけて、机のふちにちょっとだけ腰をおろした。
 視界に入りそうで、わたしは静かにビブリオノートを閉じる。
 転がったシャーペンを見つめて、それから彼女はわたしに目を向けた。
 ここの図書室は、裏道さえ知っていれば誰でも使える。でも、はじめて出逢った子だった。
 わたしの通う高校は古くて、何年かかけながら校舎を新しくしたり教室を移動させたりしている。木造のぬるいつくりは、冷たいコンクリートに変わり始めている。
 図書室も例外ではなくなって、今は新校舎に作り直された。みんな勉強したいときはそっちに行くし、ここへ来る人はいない。置いてある本も古いし、ほこりっぽいし、空調もないし。たまに虫だって出るし。
 めずらしいピンク色の女の子と数秒見つめあって、わたしはまばたきを繰り返すことしかできなかった。
 彼女はゆるやかにほほえむと、空気のじゅうぶん詰まった丸いボールみたいな声でこう言った。
「ここの図書室、素敵。あなたがいるから」
「……あ、えっと、」言葉に詰まってしまう。恥ずかしさに唇が痒い。「そんな――」
「ずっとここにいたの。あなたと目が合ってよかった。あなたが気付いて」
 彼女の顔のつくりはわたしの理想のものだった。
 目の形も鼻の形も唇の形も、髪質も、透くような白い肌も、なにもかも。
 長い睫毛にふちどられた瞳につかまらないように、それでもわたしは見つめてしまった。
 街中でこころ惹かれるものに出逢って足を止めたときの気持ち、それにとてもよく似ていた。
「なんていうの?」彼女の声は丸くてはち切れそうなほど酸素に満ちている。
「え?」
「あなたの名前」
「……あ、えっと、真水――」
「まみず、」
「あ、えっと、まみずは、苗字で。名前は、いとです」
「どんな字?」
「ひらがな――」
「素敵」
 彼女が机についている、その手の白さに目を奪われる。カーテンの隙間で踊り、この部屋のほうぼうに着地してはじける光のそのどれもが、彼女の透き通るような白に反射する。
「わたしはちえり」
「……ちえり?」
「うん」ちえりは微笑んだ。「似合ってる?」
 わたしはわずかに唾を飲みこんだ。
 彼女を見たとき、勝手に思い浮かべた名前が、そっくりそのまま同じだったから。驚いたの?ちえりが聞く。頷く。
「そんな気がしてて」
「うれしいな」ちえりはそう言ってまたほほえんだ。よく笑う女の子だった。
 ちえりからはうっすらと懐かしいにおいがした。深く眠るためにもぐった布団の奥とか、好きでたまらない本棚の木のかおりによく似ていた。
「いとは何歳?」
「十七歳。ここの二年生」
「わたしと同い歳だね」
「そうなの?」
 そう言われてみると、たしかにあどけなさは残っている気がする。
 ちえりが目を細めるたびに、長い睫毛が震える。なにも纏っていないやわらかい睫毛。
 クラスで見かける女の子たちの、くるりと上を向いたものとは違うちえりの睫毛は、その奥のまなざしをやわらかく、それでいてどこか不確かにさせていた。

                    *

 ちえりは十七歳。高校二年生。どこの高校かは教えてくれなかった。
 ピンク色の髪の毛とあの大きな蝶々のピアスがゆるされるなんて校則が緩いだろうし、でもちえりは賢そうだし、わたしは勝手に隣町の私立進学校の子だと思うことにした。
 あの高校の子たち、いつもかわいい。ブレザーだし、ギンガムチェックのスカートだし、髪も耳も顔もきらきらしてる。
 わたしたちは濃紺スカート膝下で泳がせながら、長い長い坂必死にのぼって、白いセーラーやシャツに汗を滲ませているのに。
「ねえ、しばらくここに来てもいい?いとに会いたい」
 あの日、陽がすっかり暮れて、帰り支度をしているわたしにちえりが言った。
 気づけば、うん、と頷いていた。ちえりはくすぐったそうに笑って、ありがと、と呟いた。

                    *

 このごろ、朝を迎えた世界は白く光っている。
 ぬるい畳からあがるイグサのにおいと、蝉の声、スマホのアラームが入り混じる変な音で目が覚める。
 階下でお母さんとおばあちゃんがあわただしく動き回っている音も聞こえる。
 長く伸ばした黒髪は、短かったころに比べて寝癖がつかなくなった。なんで伸ばしてるかもわからないけど、切る理由もないから伸び続けている髪。手首にくくっていたゴムで適当にひとつに結ぶ。
 いつまでも鳴るアラームをとめて、薄黄色のお気に入りのカーテンを開ける。
 白く光る七月の朝。
 さらりとした白いブランケットが裸足に絡まっているからほどく。
 ハンガーにかけてあるセーラー服に袖を通す。濃紺のスカートを履く。指定の靴下を履く。
 それから部屋を出る。わたしの家は古くて大きいから、一階と二階を繋ぐ木製の階段も無駄に大きい。一段ずつ踏みしめると軋む床板、その奥からほんの少しのほこりのにおい。
 すぐ下は玄関、大きく光る長方形の三和土が目の前に広がっている。隅っこで身を寄せ合う、わたしのローファーとお母さんのパンプスと、おばあちゃんの靴。
 引き戸の向こうにも蝉の声。寝汗をかいたからだはどこか軽い。
 洗面所のある右へ曲がる前に、台所に顔を出す。味噌と魚とお茶のにおい、なによりうすいはずなのにはっきり鼻を通る炊き立てのごはんのにおい。
「おはよう」
「あら、」炊飯器のごはんを覗いていたおばあちゃんが振り返る。「おはよう」
「いとちゃんおはよう」お母さんの声が飛んでくる。
「おはよう」
「ごはんが炊けたよ、お供えするから歯を磨いてきなさいな」
 こくんと頷いて、ぬるい廊下早足で通って、洗面所。
 大きな丸い鏡と、青いタイルで作られた洗面台。すぐ横の窓からも白が滲んでいる。古びた蛇口捻ったら、水ももうぬるい。
 顔に押しつけるみたいにして洗って、ふくらんだタオルで拭う。歯を磨いて水含んで口ゆすいで、そうしたらやっと目が覚めた気がする。お母さんと一緒に使っている化粧水叩きこんで、こだわりない日焼け止め塗ったら、ヘアゴムをとる。
 鏡にうつるわたし。このごろ少し焼けてきた。
 黒髪に櫛を通していく。細くて弱そうな髪。もっと太くて艶のある髪がよかった。
 寝ぐせで外にはねた髪をヘアアイロンで直して、またばたばた廊下を戻る。
「あらあら」お茶の間からおばあちゃんが手招きする。「おいで」
 お茶の間のいちばん高いところに、おばあちゃんが大事にしている祭壇がある。
 なんの神様か、ちゃんとしたことは知らない。
 でもわたしが生まれるずっと前から、おばあちゃんはこの神様を信じてる。近所のおばあちゃんたちも同じ信者。ときどき集まってはなんかいろいろ話したりしてるみたいだけど、気持ち悪い、とか思ったことはなかった。
 神様には炊き立てのごはんをいちばんにお供えする。ガラスでできた小さい器に盛って、祭壇の前に置いて、手を合わせる。
 それから三回、こころの中でおんなじ言葉を繰り返して、手を合わせて、祈る。
 小さいころから一緒にやるのが決まりだった。
 おばあちゃんが先に手を合わせて、そうしたらわたしの隣でお母さんも手を合わせる。わたしも手を合わせる。
 数秒の沈黙。
 いつだっていちばんに目を開けるのはわたしだった。穏やかに目を閉じているおばあちゃんとお母さんの横顔は、親子だけど、あんまり似てない。お母さんはおじいちゃんにそっくりなんだって、おばあちゃんがいつも言う。
「はい、ごはん食べましょ」
 おばあちゃんがそう言って、わたしたちは手をほどく。はあい、と返事する。
 スーツに着替えたお母さんがテレビの電源を入れる。天気予報、このごろずっとおんなじ感じだ。毎年毎年、何年ぶりの最高気温とか言うけど、ほんとなのかな、とわたしは疑ってしまう。
「いとちゃん」台所のテーブルからお母さんがわたしを呼ぶ。「お弁当忘れないでね」
「はあい」
 返事して、朝ごはん揃ったテーブルにつく。
 家族三人で手を合わせて、食べる。わたしの向かい、お母さんの隣はやっぱりずっとあいている。
 目に入るのが落ち着かないから、麦茶がなみなみ入ったピッチャーをそこに置いた。
 グラスの中で氷が滑って、からんと声をあげる。

 家を出るのはお母さんがいちばん最初だ。
 近所でも昔っからずっと綺麗だって言われているわたしのお母さんは、どんな格好してても綺麗だ。スーツを着ると、お母さんって言うより、大人、って感じがする。
 わたしはお母さんには似なかった。あんまりだと思う。
「じゃあ行ってくるからねえ」
「行ってらっしゃい」
 おばあちゃんと一緒に手を振る。わたしたちにほほえんで手を振り返すお母さんの左手の中、車の鍵がちゃりんと鳴る。指にひっかけたキーリングが鈍く光って、ちょっとだけ息が詰まる。
 二年前からお母さんはまた働き始めた。わたしの大学費用のために。
 うちはお金持ちじゃないから、大学まで行かせてもらおうなんて思ってないのに。それより、お母さんには自分のこと優先してほしいのに。そんな気持ちをお味噌汁に混ぜて飲みこむ。
 ――そういえば、鞄の中に三者面談のプリント入れっぱなしだった。
 おばあちゃんにお願いしようかな。どろりとしたなめこをゆっくり噛んで飲みこむ。
 有名大学に行きたいとか、大企業で働きたいとか、資格が欲しいとか、そういうちゃんとした人生目標がわたしにはない。
 ただ、小説家になりたい。
 それ以外になにも思ったりしない。ずっと。
「いと」おばあちゃんがテレビ左上を見て口を開く。「もう五分くらいしかないよ」
「ん、もう出る」
 ぱちんと手を合わせて口早にごちそうさまを言うと、食器をシンクの洗い桶に沈めて、おばあちゃんが作ってくれたお弁当を鞄に入れると、ローファーをつっかける。
 引き戸の向こうの白がさっきよりも色濃く、蝉が早くしろと言わんばかりに大きな声でわたしを呼んでいる。
「気をつけてね」おばあちゃんはいつもわたしを玄関まで見送ってくれる。「いってらっしゃい」
 いってきます。
 ほほえんで手を振って、一歩出たら、夏へ引きずり込まれていく。

 関東圏、海沿いの田舎。
 わたしの育った小さな町。
 東京に行くには遠くて、駅五つ向こうに行かないとろくに遊ぶ場所もない。
 それくらいでいいな、と思っている。でもきっと高校を出たら、この町も出る。そんな気がしている。
 つい覗いてしまう、通学路にある小さな本屋さんはまだ閉まっている。
 朝の七時三十分。自転車漕いでぬるい風かき回していく同じ制服の女の子たち。肩ぶつけあって笑ってる男の子たち。高校へ近づいていくたびに、同じ格好をした同じくらいの子たちが増えていく。
 わたしたちが混ざっていく、その感覚が走る。
 海辺の学校。潮のにおいが熱波に混ざる。海のおしゃべり。蝉の泣き声。布被った新校舎は夏の熱波で溶けそうだ。古い校舎は陽ざしを吸いこんで堂々と建っている。
 一歩ずつ混ざっていく。錆びた校門を通れば、小規模な国に入った感覚で息苦しくなる。
 夏の朝、昇降口のがらんとした開放的で薄暗い感じがいつまで経ってもすきじゃない。
 熱のたまったローファーを脱いで、靴箱を開けると上靴に足を通す。
 どの子も、あつい、あつい、と繰り返す。蝉の泣き声の狭間でそれが反響しあっている。あついね、あつい、あつい。
 子どもでも大人でもないわたしたちが一日を過ごすここは、息苦しい。
 小さいころには見えなかったいろいろが、このごろ見えだして、生きることの難しさが日々積み重なっていく。同調や格差やいろいろが、社会のシュクヅが、ここで健康的に蔓延っていて、毎日が健康的にずれていく。
 でもこれに耐えられないなら、外では生きていけない、とも思う。
 二年B組の教室。
 写真を撮る女の子たちで入り口は塞がれていた。みんな朝なのに顔も髪も綺麗にしている。
 無駄にぐるりと大回りをして、反対側の階段からまたあがってくることにした。
 おりていくわたしと、あがっていくみんな。
 わたしの顔には影とぬるい風がぶつかって、反対に、あがっていくみんなの顔には夏の白い光がまぶしくあたっている。どの子の顔も白くてよく見えない。
 無数の足音と喋り声、笑い声。廊下に反響するそれぞれのそんな呼吸で、すでにまぶたをおろしたくなってしまう。
 汗と制汗剤の混ざった体臭。上履きのゴムのにおい。校舎に染みついた古いにおい。
 どっと襲ってくる、大人数の「生」が、このごろどうしようもなく鬱陶しいのは、夏のせいか、わからない。
 大回りしたら、北側の階段はがらんとしていた。遠回りになるからここを使ってあがってくる子はほとんどいない。日陰側の階段。ぬるくて冷えた感じ。やっと息ができた気がする。
 くすんだガラスがはめこんである北階段。薄暗い向こうの階段より光が入るはずなのに、ここはなんだかじめっとしていて、いつまでも暗い。ぞうきんくさい掃除ロッカーが口半開きのままだ。指先でそっと押して閉じると、教室に向かう。
 反対側から上がってきたのに、さっきより女の子がふたりくらい増えていた。うわ、と思う。思いながらなんとか後ろのドアに手を伸ばす。前のドア口で写真を撮っているから、わたしがうつりこんでいないかなぜかびくびくする。
「爪切った?」
「なんで?」
「今日服装検査」
「ねーだるいなんでだし」
「てかねー、この前のライブさー、最前だったのやばくない?」
「整理番号いくつ?」
「十二」
「やば、ラッキーだったね」
「ねー今日暇な人いないの?」
「ねえ待ってよまだ撮ってないのに動かないでっ」
 海のささやきよりはっきりした女の子たちの重なりあう声。中でもひときわきらきらしている、かわいい声。好き勝手おしゃべりしてたみんなが、ごめえん、と笑う。
「ねえー、亜衣のでも撮ろって言ったじゃん、だるいー」
「ねーごめんってえ」
 亜衣ちゃんがふとわたしの視線に気づいたのか振り返る。
 目が合う。まずい、と思って慌てて視線をずらす。ぬるいドアに手をかける。
 飯島亜衣。
 一年生からクラスが一緒の女の子。
 髪がさらさらで、目が二重で大きくて、睫毛も長くて、わたしより十センチ近く背が低い。小柄で細くて、クラスでいちばんかわいい女の子。
「おはよー、まみずちゃん」
「あ、」あいまいな笑顔を思いきりはりつける。「おはよう」
 おはよー。
 女の子たちのなまぬるいおはようは、尻尾が溶けていて、甘ったるい。
「ごめんねー、遠回りしたんでしょー、わざわざ」
 あ、
 ……見られてたんだ。
 恥ずかしくて首を振る。
「ううん、ごめんね」それしか言えない。じゃあなんでどかないのとか、思っちゃうのに。
 ごめん、と言われてしまうと、情けないわたしはしゅるしゅる気持ちをすぼませてしまう。
「邪魔だよやっぱ」
「亜衣がねー」
「は?全員でしょっ、ばーか」
 からからころころ、女の子たちの笑い声は蝉の声によく馴染んで消えていく。廊下に鳴り響いたシャッター音が、まだ耳の奥にこびりついている。 
 女の子にしては背の髙いわたし。へらへらするくせに無駄にプライド高くて、どっかで人を見下していて、だから小説くらいしかすきになれない変な女の子。
 わたしはそういう子になってしまった。自分から。
 遠巻きに亜衣ちゃんを見つめながら、思う。
 誰かをああやって強くひきよせるなにかがわたしにはない。
 無邪気に近寄ったり、ときどき計算したり、そういう生き方ができない。
 自分の席、フックに鞄をひっかけて、おばあちゃんが水筒に入れてくれた冷たい麦茶を二口飲むと、小説を取り出す。
 読みかけの物語に早く沈んでしまいたかった。
 教室は落ち着かない。沈みたいのに浮いてしまう、水面のなにかみたいな気持ちだ。
 鬱陶しくて、汗ばんだ髪を耳にかけた。
 ざらり。
 そんな感触でわたしの髪はすぐに耳から落ちる。髪が細くて頼りないせいでいつもこう。
 目を落としていた小説に影がさす。俯けば自分の汗のにおいがふわり鼻先を撫でて嫌だ。
 規則正しく健康的にずれていくみんなと一緒になれないのは、なっちゃいけないと思って無意識にすべてから一歩ずれようとするのは、きっと間違ってるんだろうけど、認められない。
 わたしは無害な半透明として、馴染んでいるし、浮いてもいる。
 そう思う。
 無害な半透明。
 なにかに染まることもない。牙を剥いたり背いたりしない。
 そういう子は、クラスにとって無害だ。思春期のわたしたちが数十人も一緒に過ごす小さな教室では、無害であるほうがいい。
 どこでだってそうだ。大人の世界でもきっとそうだ。
 社会に振り回されるためにも、振り回すためにも、無害ないきものは使いやすい。だから排除されることはない。排除されるくらいなら、半透明になってしまったほうが何倍もいい。
 いつだって矛盾してるそんな自分が、馬鹿って、わかってるけど。
 ――早くここから出た方がいいんだよね。
 そうこころの中で呟く。
 ――そうよ、さめざめしたところで生きた方がいいよ、ふやけちゃうから。
 ちえりだったらそう返してくれたりするんだろうか。
 斜め前の女の子の鞄にぶらさがるピンクのクマを見て、ちえりのことを思いだした。
 ちえりがどこか浮いて見えるのは、ちえりがこの町の子じゃないからかもしれない。
 ちえりはきっともっと開放的で無遠慮で冷たくて、そういうところを泳いでここに来た女の子なのかもしれない。
 ちえりとふたりきりの図書室に戻りたい。
 まだ出逢ってから日の浅い女の子なのに。
 でろり、溶けたように机に頬をつけてだらしなく窓の外を見る。
 指先で持てあますミュシャのしおり。金属でできている薄くてかたいそれに描きこまれた、春の女神。使いすぎてこのごろおぼろげに削れ始めている。
 春を連れ去ったのは誰だろう。
 窓の外、ベランダの白く粗い壁に取り残されている蝉の抜け殻を見つめて、ふとそんなことを思う。
 梅雨なのかな。梅雨は春なのかな。それとも全く別の季節になるのかな。それなら季節は四つじゃなくて、五つになるのかな。それともみんな、梅雨は見ないふりしてるんだろうか。ただ湿った、そして生ぬるい、春とも夏とも言えないあの季節を嫌う人はたくさんいる。
 あ、なんか、梅雨とわたし、似てる?
 そんなことまで思って、細く静かなため息がもれる。こんなことばっかり考えてる。
 誰かが電源入れたから、黒板のあたりに座りこむ大きな扇風機が動きだした。鮮やかな蛍光に近いオレンジ色の羽がぐるぐる回る。 
 前の席に座ってだべっている男の子二人の黒髪が、乱暴な感じに揺れていく。
 写真を撮り終わったのか、亜衣ちゃんたちは騒がしく教室に入ってくると、鞄からなにかを取り出してベランダに飛び出した。
 がらり。
 重いようで軽いドアが開いて、飛びこむ蝉の声がこめかみをぶつ。はっとする眩しさとむっとする熱波。彼女たちはまだなにかを笑いながら、緑色のストローでシャボン玉を吹く。
 真っ白な七月に、輪郭も不確かなシャボン玉がいくつもいくつも浮いていく。
 割れては生まれ、割れては生まれ、それを見上げて笑う女の子たちの歯の白さと茶色に透ける髪、細い脚、濃紺のスカートの裾がひらめいて、すべてが夏の一瞬に騒がしく刻まれていく。
 開けっ放しのベランダのドアから、光がいくつも忍びこむ。照らされたわたしの左足が熱い。
「夏にバカみたいなことしてる」
 ベランダで光る誰かがそう言って、ベランダで光るみんなが笑った。笑い声はシャボン玉より数秒遅れて、ぱち、ぱち、ぶつかりあってはじけて消えていく。眩しくて瞬きを繰り返す。
 バカみたいなことしてるみんなはかわいかった。
 真ん中で頬を膨らませて、シャボン玉吹く亜衣ちゃんはもっとかわいかった。
 だから目が焼けそうで、陽のあたる左足の熱が痒くて、わたしはゆっくり目を閉じた。

                    *

 五時間目はみんなの嫌いな現代文だった。
 みんなは窓の外のとっくに散ってしまった青い桜の樹や、グラウンド、室内の時計の秒針を見つめたり、ふせて眠ったり、長い髪でイヤフォンを隠して音楽聴いたり、狭い教室の机の下で、さらに狭いラインを交したりしていた。正面を向く黒い頭はまばらだった。
 オレンジ色の羽が大きく回る扇風機の頼りない風じゃ、みんなのからだは熱を持ったままで、午前中よりも汗のにおいははっきりこもっていた。
 夏目漱石の「こころ」を読み上げる先生の声はやわらかくて優しいから、みんなうつらうつらしはじめていた。
 中には思いきり突っ伏して眠る子もいる。
 現代文の先生は三十代くらいのまだ若い女の先生で、長い黒髪をひとつにまとめた小柄な人だった。優しいから、誰かを怒ってるところとか、あまり見たことがない。
 先生はかかとの低いパンプスを履いていて、それでゆっくり教室を回りながら小説を読み上げる。先生の足取りは、とんとんと品のいい音がする。
 寝ている子の列を通っても怒ったりしないから、みんなどんどん気にせずに眠るようになった。それでも先生は怒らない。
「……はい、じゃあプリントを配ります。せめて先頭の子、起きてちょーだい」
 先生がプリントを配ると、みんながだらだら起き上がる。先生がかつかつとチョークで板書を始めたから、目を向けて、あ、そういえばわたしの前の人が寝てるの見たことないな、とふと気がついた。席替えして一週間。わたしの前はおとなしそうな男の子だった。
 シャーペンをルーズリーフにくっつけた瞬間、かさ、とかすかな音を立てて白いものが視界に飛びこんできた。
「はい」
 前の男の子の細い指先から、プリントがさがっている。
 ありがとう、と小さな声でお礼を言って手を伸ばす。すぐにうしろの子に回す。
「ありがとう」
 そう言われて男の子を振り返った。
 はじめてちゃんと顔を正面から見た。
 前髪が長くて、でもなんとなく線の細い、やわらかい雰囲気の男の子だと思った。男の子がほほえむ。
 思いきり笑ったりしない人。唇はきゅっと閉じたまま、本当にささやかに口角をあげるだけ。
 確か怜くんだ。島本怜。しまもとれい。
 席が決まったとき、前の黒板にそれぞれみんな名前を書いていった。自分の前後左右には目を通していたから、彼の名前を見たとき、その字とかたちに、最初は女の子かと思ったのもまだ覚えている。
 ものを手渡すときに、「ありがとう」を使う人に、はじめて出逢ったから、少し戸惑った。
「あ、ぜんぜん……」
 わたしは気おくれしたような声で呟いた。男の子はくるりとすぐ前を向いてしまった。
「ええ、やだーっ」
 派手なグループにいる女の子が声をあげる。プリントに目を落とすと、小説の分析を行ってみましょう、と書かれただけの、あとは空白が広がるものだった。その声を合図に、みんなが不満を言い始める。無理―。何文字書くんですかー。さっきまで寝てたくせに、と思う。
 今やっておいたらいいと思ったの、と先生は困ったように笑いながら言う。それでも膨れ上がる不満に、ぱんぱんと大きく二回手を鳴らした。
「でもみんな、あれよ、小説そのうちやらなくなるのかもしんないのよ、だからやれるうちにいろいろ考えたり、触れてみたりするのは大事な機会になるのよ」
 シャーペンの芯が折れてどっかに飛んだ。
 ええええ。
 教室にまわっている蝉の声に、みんなの声も混ざる。
「なんでー?」亜衣ちゃんが頬杖ついたままだるそうに聞く。
「国の方針でね。小説扱わなくなるかも」
「え、ちょーサイコー」亜衣ちゃんがくすくす嗤う。「亜衣、内申点あがるかも」
 取り巻きがくすくす嗤う。コピーペーストしたみたいにおんなじ嗤いかた。
「文系ぶっちゃけ意味なくない?」
「えわかるー」
「意味ない?」先生が困ったような声で聞く。「ほんとに?どうしてそう思う?」
 えー、と亜衣ちゃんはだるそうな声を出す。顎下四センチだっけ。このごろみんな同じようにしてるボブヘア。夏休みにブリーチすると言っている髪は実のところ茶色をしている。長期休みのたびに透くような金髪にしてるせいだ。
 休み時間にお菓子を齧っているのにはっきりしてるフェイスラインが、頬杖ついてるから髪の隙間から文字通り顔を出してる。
 どこまでも上向きの長い睫毛が不機嫌そうに揺れて、赤い唇が歪む。
「亜衣マジで国語嫌いだもん。バカつまんない、あんなの」
 わかるッ、と叫んだのは、漫画に出てきそうなほどありふれたキャラクターの男の子だった。亜衣ちゃんのことをずっと推しだって言い続けている子。亜衣ちゃんがなにか言うたびに同調する子。センターパートの黒髪。顔立ちは印象に残らない感じ。実は両耳にこっそりピアスあいてるの、わたしは知ってる。自慢げに話しててダサかったから。
「亜衣この前の現文十五点でしたーあ、作者の気持ちわかんなかったんでえ」
「え、亜衣やばッ」
「だってインスタあげてたもんね低すぎて」
「ねーちょっとうざいんだけど」亜衣ちゃんが笑うと、唇は三日月になる。「うざすぎ」
 げらげらげらげら、教室が揺れる。優しい先生は大げさに眉毛下げて、そんなかなしいこと言わないでえ、先生の仕事なくなっちゃうかもしんないんだよーう、と明るく言った。
「どうしてよ、みんな嫌いなの?本読まない?」
「読んでる時間ねえっすよ普通に」センターパートが行儀悪く椅子揺らしてぼやく。
「スマホいじるじゃない、携帯でも小説読めるわよ」
「いやいやいやつまんない。ゲームとか映画のがよくね」なあ。周囲の男の子たちが頷く。
「えでも先生、俺アニメと漫画はマジちゃんと見る」
「漫画ねえ、漫画大事よ、でも小説とやっぱり違うじゃない。ちょっと読むだけでも、入試の現文解きやすくなるわよ。もう今年から本腰入れて対策しないと遅いからね」
「あでもあたしミステリー好きだよ」
「あ、わかる。でも教科書のはマジつまんない」
「それなあ、なんだっけ三月日記みたいなやつ馬鹿つまんなかった」
「山月記、です」先生が困ったような顔で笑う。
 下を向いたら、汗より先に涙が落ちる気がした。そっと鼻水啜る。
 目線をあげたら、怜くんの真っ白なワイシャツが見えた。
 その奥にほんのちょっと、洗剤のにおいが混ざっている気がした。はっとする。
 怜くんは頬杖ついたまま、じっとしていた。
 怜くんは、笑ってなかった。
 泣きそうなわたしと、笑いもせずに頬杖ついてる怜くんの背中。
 かしゃんッ、という音でみんながわたしを見た。わたしもはっとした。
 左肘でいつの間にか端っこに追いやっていたペンケースが床に落ちていた。
 ぺこ、と小さく頭下げて、散らばったペンに手を伸ばす。
 細かいゴミが散ったぬるい床板。みんなは一瞬の出来事を気にも留めずに、まだやいやい盛り上がっている。その声が蝉の声と一緒に手を繋いで、天井をぐるぐるしてる。
 四色ボールペンは、運悪くセンターパートの足元に転がっていた。
 頭下げて拾いに行った。履きつぶした上靴が汚かった。なにか喋るたびに、べたべたべた、と足踏みする。椅子に座ったまま、汚い上靴べたべた鳴らす。転がったボールペンを拾うわたしにも気づかない。
「あ、わり」
 拾い上げたらやっとわたしに気が付いた。大丈夫だよ、とやわらかく言って愛想笑いする。
 今度は蛍光ペンを拾う。ボールペン以外はわたしの席の近くに散らばっていた。シャーペンの芯を入れたケース、ちゃんと蓋が閉まったままでほっとした。でもきっと数本折れている。
「はい」
 顔を上げたら影がさした。
 ピンクの蛍光ペンを差し出した怜くんの指先。
 プラスチックのキャップに集まった昼間の光。
 風で揺れるわたしの髪。
 指先で髪をよけて、怜くんを見上げる。長い睫毛。目にかかる前髪。
 ありがとう。
 声が掠れそうになる。
 受け取ったペンがいつもより重たい。
「かわりに道徳やったほうがいいよな、このクラス」
 怜くんはそんな意地悪をこっそり言って、また口角だけで笑った。
 わたしは席に座って、ピンク色の蛍光ペンを唇に押しあてて俯いた。