セイレーンと白い楽譜

 目映い光の中で、初老の男性が身を屈めて幼い少女に言う。
「じいちゃんな、昔セイレーンに逢ったことがあるんだよ」
「せいれーんってなあに?」
 少女はあどけない表情で小首を傾げた。
「歌がとても上手くて大好きな美しい者たちだよ」

 ***

 久しぶりに聞いた祖父の優しい声で、少女は夢から覚めた。
「おじいちゃん……」
 あの笑顔を思い出すと、自然と目が潤む。
 少女――水嶋(みずしま)望渚(もな)の祖父は二年前に病気でこの世を去った。
 身を起こそうとした指先に、カサッと何かが触れる。
 何だったかと夢現のチョコレートブラウンの目を手元に向けると、それは手書きの楽譜だった。赤ペンで注意点や改善点がびっしりと書き込まれていて、最早書いた本人ですら解読は困難だった。
 モナは楽譜を持ち上げて目を通すと、溜め息を吐いた。
 幼少期よりピアノを習っていたので、楽譜通りの曲は大抵弾くことが出来る。けれど、いざ自分で作曲するとなると、どうにも味気ないものになってしまう。偉大な音楽家たちが遺した曲の模倣にしかならない。
 モナの祖父も偉大な音楽家だった。祖父の頭の中で作られた旋律は骨張った指先から溢れて、鍵盤の上で優雅に踊り出す。誰しもの耳に残る、唯一無二の曲でモナもよく弾いた。
 そんな祖父に憧れて音楽家を志したものの、鍵盤に触れる度に自分が平凡な人間だと思い知らされた。
 それでも諦めきれないのはピアノと、何より祖父が大好きだからだ。モナはその想いを胸に楽譜を持ったまま、ベッドを下りた。
 ちょうどそのタイミングで、部屋の扉が開いた。
「モナ。夕飯出来たわよ」
 現われたのは母だった。
 モナが返事をしようとすると、母の呆れた声がそれを遮った。
「また作曲? 才能ないんだからやめて、就職するか普通の大学を目指しなさい」
「何でいつもそんなこと言うの? 私の夢なんだから、お母さんには関係ないじゃん!」
 モナが語気を強めると、母もまた、語気を強めた。
「音大なんてお金かかるのよ! 誰がお金出すと思っているの!?」
「バイトして自分で稼いで、自分で払う!」
「現実を見なさい! あなたの考えは甘いの! お祖父ちゃんとは違うのよ!」
「もういい!」
 モナは床に楽譜を叩き付け、すたすたと母の隣を通り抜けた。
 高校二年に上がったばかりのモナは、そろそろ将来について本気で向き合わなければならない。父はモナの夢に肯定的だが、母は否定的だった。
 母とは音楽の話になると、互いに熱がこもって口喧嘩になってしまう。そんな時は家に居づらくなり、決まって同じ町内の祖父母の家にお邪魔する。
 出迎えてくれた祖母は「困った子だねぇ」と朗らかに笑いながら心が迷子のモナを受け入れてくれた。
 モナはリビングを通り過ぎ、歩き慣れた廊下を突き当たりまで進む。祖母はモナの背中を優しい眼差しで見送り、リビングに入っていった。
 廊下の突き当たりには下りの階段があり、下りて行くと天井から降り注ぐ柔らかな光の中で両開きの扉が厳かに構えていた。
 モナはゆっくりと扉を押した。
 真っ暗だった室内に、自動で明かりが点いてそこにある物の輪郭を鮮明に浮かび上がらせた。
 室内の片隅に楽譜や音楽関連の本がぎっしりと詰め込まれた本棚が置かれ、中央にグランドピアノがずっしりと鎮座していた。
 祖父が入り浸っていたこの空間にいるだけで、モナの気持ちは澄み切っていく。
 祖父が生きていた頃から亡くなった後まで、度々足を踏み入れて存分に鍵盤の上で指先を踊らせた。
 モナの家にはピアノがなく、何より母に良い顔をされないのでこの場所は好都合だ。
 モナはピアノを愛おしそうに撫で、本棚に視線を移した。ここにあるのは全て祖父のものだ。祖母はここだけは片付けずにそのままにしてあった。その上、モナがいつ来てもいいようにこまめな掃除までしてくれていた。
 モナは何となく目に付いた物を本棚から引き抜いた。パラッと開いてみると、ガサッと古びた紙の束が落ちた。
「何これ……楽譜?」
 曲名のないそれは、祖父の筆跡だった。後半のものは別の曲のようだったが、そちらは文字が掠れて読めなかった。祖父の作った曲は全て知っているつもりだったが、これは初めて見る楽譜だった。
 読める前半の曲だけでも弾いてみたい。
 モナはピアノの前に座った。その先はもう夢中だった。心が、指先が、踊るのを止められなかった。
 何て楽しいのだろう。まるで、異世界に迷い込んだような心地がした。
 演奏に合わせるように、美しい歌声が耳に届いた。聞き心地の良い、若い男性の低音で、どこか聞き覚えがあった。演奏が終わる頃にはモナは目を閉じていた。
 今の歌声は幻聴に違いないけれど、素晴らしかったことには変わりない。満たされた気持ちで目を開けた途端に、脳に衝撃が走った。
「ここ……どこ?」
 ピアノは目の前にあるのに、周りの景色は様変わりしていた。
 周りを囲んでいるのは重量感のあるグレーの壁ではなく、鮮やかな緑の葉をたっぷりと蓄えた木々。見上げた先は高い天井ではなく、どこまでも広がる青い空に変わっていた。
 思考が追いつかないモナの視界に更なる異変が映り込んだ。
「だ、誰?」
 切り株の上に、現実離れした美しい青年が腰掛けていた。
 揺らめく海面のようにチラチラと陽光を反射させるターコイズブルーの長髪に、同色の瞳。睫毛が長く色白で華奢な体付きのため、中性的だ。足下を覆い隠す白のローブは飾り気がないが、反って彼の美しさを際立たせていた。
 青年は優雅に立ち上がり、恭しく頭を下げた。
「僕はルーファス。ここで歌っていたら、懐かしいピアノの音色が聞こえてきてね。あの時のように二つの世界が繋がったようだよ」
 所作まで美しい彼に、モナの心臓は高鳴った。
「えっと……ルーファスさんね。わ、私はモナです」
 モナも立ち上がって、控えめに頭を下げた。
「モナね。良い響きだ」
「あ、ありがとうございます。おじいちゃんが付けてくれた名前で……。じゃなくて、世界が繋がったってどういうこと? ここはいったい……」
「そのままの意味だよ。僕の住むこの世界とモナが住む世界は視ることも触れることも勿論行き来することも出来なかった……あの時までは。モナが弾いた曲と僕の歌がぴったりと合わさった時にだけ、世界が繋がるんだよ。あの時も全く同じだったから。これが二回目なんだ」
「この曲……おじいちゃんが作った曲で、たぶん他に知ってる人いないと思うんですけど……」
「お祖父ちゃん? そうか、それで……。僕は昔、モナと同じ年頃の少年とこんな風に出逢ったことがあるんだ」
 ――じいちゃんな、昔セイレーンに逢ったことがあるんだよ。
 モナの脳内で祖父の言葉が再生され、モナはルーファスの頭から爪の先まで眺めて目を瞬いた。
「もしかして、ルーファスさんはセイレーンなんですか?」
 ルーファスはニコリと笑った。
「そう。僕はセイレーンだ。もう数える程しか仲間はいないけれどね」
 祖父から聞いたその種族のことを、何年か前に本やインターネットで調べたことがある。確か歌で人間を惑わす妖魔で、その姿は上半身は人間、下半身は魚もしくは鳥だったはずだ。ローブで隠されているその下半身もそうだったりするのか。モナの目はそれを確かめようとしていた。
「ところで、モナ」
 声をかけられ、モナは慌てて顔を上げ「はいっ!」と裏返った声で返事をした。
 ルーファスはクスリと笑い、細い指先でピアノを指した。
「そこにある楽譜は“行き”の曲だね。キョースケ……モナのお祖父さんは元の世界に戻るために、僕と共にこの世界を巡って“帰りの曲”を作り上げた。だから、そこにその曲があるはずだよ」
「えっ。本当?」
 今最も心配しなくてはならなかったことなのに、異世界とその住人に気を取られてすっかり忘れてしまっていた。
 モナは楽譜に手を伸ばし、はたと気付く。
「そういえば、この楽譜……後半は文字が」
 捲ってみると、やはり掠れて読むことは出来なかった。
「ふむ……」とルーファスは細い顎に手を当てて少しの間考え込むと、何か思い付いたようでモナに手を差し出した。
「ちょっと、それ貸してくれないかな」
「あ、はい……どうぞ」
 モナは後半の楽譜をルーファスに手渡した。
「セイレーンは破壊と再生を司るんだ。これももしかしたら……」
 ルーファスを中心に白光する魔法陣が展開し、楽譜が彼の手から離れて地上から一メートル程浮かび上がった。ルーファスが目を閉じて、モナには聞き取れない言葉で詠唱する。すると、楽譜も白光し始めて、目映い光が周囲を包み込んだ。
 モナは目を細めて、幻想的な光景を眺めていた。
 光が消えたのと同時に魔法陣も消えて、ルーファスの手の中に真新しい楽譜が収まっていた。
 モナは目をしっかりと開いて駆け寄った。
「すごい! あんなにボロボロだったのに」
 対して、ルーファスの表情は曇っていた。
「どうやら、再生し過ぎてしまったようだね」
「あれ? 真っ白……」
 そこには五線譜だけを残して音符やその他記号が一つもなかった。
 モナは急に不安になった。
「ど、どうしよう。私、帰れないの?」
「今すぐには無理だけど、その方法はあるよ」
 ルーファスは真っ白な楽譜をモナに返して、優しく笑った。
「この世界には音符が生物のように存在している。それを捕まえて、その楽譜に取り込んで曲を作るんだ。帰りたいと願えば、自然と旋律が浮かんでくるはずさ。キョースケがやったように」
「でも私、作曲の才能ないんです。出来るかな……」
 俯いたモナの肩をルーファスががっちり掴んだ。
「出来るよ。才能じゃない。想いが曲を作るんだ」
 想い、その言葉がモナの心に強く優しく響いた。
「それに、モナの奏でる音楽にはちゃんと想いがこもってる。だからこそ、僕の歌声と共鳴出来たんだよ。さあ、行こうか。音符を探しに。割と近いところから気配を感じるよ」
 近いと言われても、見渡す限り森だ。こんな深い森の中にどんな状態でどれぐらいの大きさで存在しているのか分からない音符を探すのは気が遠くなりそうだと早くも諦めかけたモナの目の前で、ルーファスは身を屈めてモナに背中を向けていた。しかも、その背中には猛禽類と酷似した大きな翼がいつの間にか生えていた。
 状況が把握出来ずにモナが立ち尽くしていると、ルーファスはもう一度同じことを繰り返した。
「さあ、行こうか」
「行こうかって……まさか、その背中に乗って?」
「そうだよ? あー……大丈夫。僕、こう見えて力あるから。女の子一人乗せて飛ぶことなんて造作もないよ」
 そういう心配ではない。
 モナは男性経験がないため、その身体に触れることに抵抗を感じていた。そんなことは知る由もないルーファスは純粋にモナを待ってくれている。
 時間ばかりが過ぎて気まずい空気にモナは息苦しさを感じ、意を決してルーファスの背に恐る恐る乗った。
「よし。じゃあ行くよ。ちゃんと掴まっていてね。五分ぐらいで着くから」
 ルーファスが両翼を羽ばたかせると、その両足(猛禽類の足だった)が地面から浮き上がり、モナは両腕を彼の首に解けないように巻き付けた。
 そしてすぐに地上から離れ、景色は森から空へと移り変わった。
 真下にある森はどこまでも広がっていて、近くで見たら存在感のあったピアノは木々に隠れて見えなくなった。
 モナにとっての唯一の現実は視界から消え、周りの景色も掴まっている青年も全てが異世界となった。まるで、夢でも見ているようだ。けれど、全身に感じる風とヒトの温もりは確かにそこにあった。
 潮の香りが風に運ばれてきた。
「海……?」
 途切れた森の先には一面の海が広がっていた。ルーファスの髪と同じ色だった。
 ルーファスは少しずつ高度を下げていった。
「あそこの港町から、音符の気配を感じる」
 そして、二人は港町に降りた。

 煉瓦造りの道の両脇に食材や雑貨を扱う露店がズラリと並び、道行く人たちが足を止めたりしている。しかも、皆モナと同じ人間ばかりではなく、ルーファスのように半分獣の者や獣そのものもいる。姿形違えど、皆表情豊かで活気に溢れていた。
 擦れ違うヒトたちの視線が突き刺さる。その訳をモナはすぐに理解した。皆、ルーファスに見惚れているのだ。今は翼をしまっているが、それがなくとも、むしろないからこそ、美しい顔が際立つ。対して自分は平均的な外見で、彼とは釣り合わない。そんな惨めさに、モナは自然と俯いていた。
「そうだ。モナ、お腹空いてるでしょ」
 モナの気持ちなど知らず、ルーファスは無邪気に声をかけてきた。
「え……うん。よく分かりましたね?」
「だって、飛んでいる間、ずっとお腹鳴っていたもんね」
「ええっ!? ……うそでしょ」
 思い返してみると、母と喧嘩した後何も食べていなかった。
「この町に僕のお気に入りのカフェがあるんだ。まずはそこに行こうか」
 モナは今度は恥ずかしさで俯き、しばらく顔が上げられなかった。

 ルーファスのお気に入りだというカフェは建物が入り組んだ先の少し高台にあった。全席テラス席で、ルーファスが空いている席に座り、モナも向かいに座った。
「いらっしゃいませ」
 女性店員が頭のうさ耳を揺らしながらにこやかにやって来て、テーブルにメニュー表を置いてまた去っていった。
 ルーファスはメニュー表を広げた。
「さて、モナは何にする? 僕はねえ、ジェノベーゼにしようかな」
 メニュー表にはメニュー名と簡単な絵が載っていた。文字は見たことのない文字で書かれていたため、モナには読むことが出来なかったが絵でメニューがそれとなく想像することが出来た。モナのいた世界と大差がないようだった。
「えっと……じゃあ、これ」
 モナが絵を指差すと、ルーファスは隣の文字を読み上げた。
「チキンクリーム煮とバゲットのセットだね」
「チキン……」
「以上でいいね? ――店員さ」
「ちょ、ちょっと待って!」
 ルーファスの声をモナが必死な声で遮ると、ルーファスはきょとんとした。
「ん? まだ迷ってた?」
 無垢な眼差しに、モナは心苦しくなる。
「そうじゃなくて……鳥、大丈夫なんですか?」
 セイレーンであるルーファスは、半身が鳥だ。そのことをモナが思い出したのは、彼が料理名を読み上げた時だった。
 ルーファスは問われたことに対して首を傾げ、すぐに理解して破顔した。
「正確には僕は鳥ではないからね。それに、大型の鳥が小型の鳥を食するのはおかしくないし。全く気にしていないよ」
「そうなんですか……」
 セイレーンはセイレーンということだろうか。
「でも思い出すな。キョースケと言い争いになった時に「お前なんてチキンカツにしてやる」って言われたんだよね」
「おじいちゃん、チキンカツが好きだったから……」
 知らない祖父の姿が知れることはモナにとっては新鮮だった。
 ルーファスが改めて店員を呼んで注文を済ませ、料理が出来上がるのをしばし待つ。その間、モナは少し気まずかった。異性と二人という状況は面映ゆく、何を話せばいいのか分からなかった。
 潮風がモナの黒い長髪とルーファスのターコイズブルーの長髪をそっと揺らした。
「おまたせしました」
 最初の店員が料理を両手に、小走りでやってきてテーブルに並べた。
 綺麗な緑色のパスタはバジルの良い香りがして、チキンクリーム煮は濃厚な色味で湯気が立ち昇り、切り分けられたバゲットはこんがりと焼かれ、どれも美味しそうだった。
 店員が一礼して立ち去った後にモナは「いただきます」と言って、バゲットを手に取った。と、その時、店員が踵を返した。
「あ。そうそう。最近この町で引ったくりが多くてねぇ。お嬢さん、綺麗な身形だから気を付けてね」
「は、はい。ありがとうございます」
 再度立ち去る店員の背中を見届けると、モナは自分の格好を見て首を傾げた。
 眉上で切り揃えられた前髪に、腰まである後ろ髪は直毛で、艶のある黒であるため、品が良さそうと言われることはあった。
 服装は日本では珍しくもない制服で、モカブラウンのブレザーに、水色のタイ付きの白いブラウス、ブラウンチェックのプリーツスカート、黒いタイツ、黒いローファーという、女子高生の基本スタイルだった。そういえば祖父母の家の玄関で靴を脱いだはずなのに、こちらの世界に転移してきた時にはローファーを履いていた。
「確かに、モナは可愛いからね」
 ルーファスはフォークでパスタを器用に巻いて口へ運んだ。
 終始上品な彼の所作を無意識に目で追っていたモナは、彼の無自覚の口説き文句に赤面した。その後、食した物は美味しいはずなのに、全く味がしなかった。

「モナ、いたよ!」
 食後音符探しをしていると、路地裏を移動する八分音符をルーファスがいち早く見つけた。
 三次元に適応してちゃんと立体感があり、大きさはミニウサギぐらいあった。それが命を宿したように、ふよふよと浮いて地上を徘徊していた。不可思議な光景だった。
 モナが呆けている間にも、音符は遠ざかっていってしまう。
「あっ……行っちゃう。でも、どうしよう。ルーファスさん、どうやったら音符を捕まえられるんですか?」
「そうだね。まずは音符を引き寄せないといけないね」
「引き寄せる?」
 モナが訊き返した時には、ルーファスは歌っていた。
 地面を叩く雨音のように心地良い澄んだ歌声は、この狭い空間ではよく響いた。
 建物の向こうに行きかけていた音符はくるりと向きを変え、ルーファスの方に体を揺らしながら近寄ってきた。
 ルーファスはモナの肩に触れ、一旦歌を中断する。
「あの白い楽譜を出して掲げて」
 またルーファスは歌を再開し、音符は一定の距離まで詰めるとそこに留まった。
 そうすることでどうなるのか分からないモナだったが、とにかく言われた通りにした。
「これでいいのかな」
 すると、楽譜が発光し、モナの手から離れて独りでに浮き上がった。ルーファスは歌を止めた。音符も揺れるのを止めて、発光して浮き上がった。
 そして、音符は楽譜に吸い込まれるようにして消え、楽譜はモナの手に戻った。
 発光が治まって元通りになったと思われたが、それには明らかな変化が起きていた。
「音符が書かれてる」
「成功だね。今は空いているところに取り敢えず収まっているけれど、たくさん増えれば位置は変わる。そうして、モナが思い描いた楽譜は完成するんだ」
「私が思い描いた楽譜……。というか、何だか不思議な体験でした。ルーファスさんの歌にはあんな力があるんですね」
「セイレーンの歌声は生物を魅了する力があるんだ。だけど、そこに悪意はなくて、昔魅了した船を沈めてしまってね。以来、森の中でしか歌わないようにしているんだよね」
 モナの世界で伝えられていることと同じだ。ただ、悪意がないとは記されていなかった。これはセイレーンが司る破壊の方の部分かもしれない。
「この楽譜もルーファスさんの力で?」
「いや。元々そちらの世界の楽譜には微量な魔力が込められている……魂とでもいうべきか。こちらの世界の住人たちは音楽にさほど興味がないんだよ。だから、音符も誰も捕まえようとしないから野放しさ。音符は音楽に対する強い想いを持つ者にしか手に入れられないんだ」
「そうなんですね。何か嬉しい」
 何だか音楽そのものに認められているみたいで。
 モナがうっとりと楽譜を眺めると、一陣の風が吹き抜けた。一瞬目を閉じてしまう。
「強い風……――あれ!?」
 モナの手から楽譜が消えていた。
 今の強風で飛ばされたのかと視線を彷徨わせるとあった……背の低い人型の生物の片手に。
 戸惑うモナの横を、先程の風を彷彿とさせる勢いでルーファスが走り抜けた。その時ちらりと見えた横顔がこれまでの彼とは別人の、怒りに満ちた表情だったことにもモナは戸惑った。
「それを返せ!」
「返すわけねーだろ。鳥頭が」
 足を止めずに振り返り下卑た笑みを向けたそいつは、ゴブリンだった。
 頭髪はなく、尖った大きな耳と大きな目を持った、濁った緑色の肌をした種族だった。昔は悪事を働き周囲を困らせていたが、今は改心して真面目に働いたりと周囲と馴染んでいる。だが、一部はまだ周囲と馴染もうとせず、このゴブリンもその一人だった。
「残念だけど、僕は鳥頭じゃないよ」
 ルーファスは踏み出した片足で地面を蹴って、ゴブリンの頭上まで跳んだ。
「鳥足だよ」
 その鳥足をゴブリンに振り下ろした。
 ゴブリンは勢いよく吹き飛んで、楽譜を手放して地面に転がった。
 ゴブリンの前に着地したルーファスが楽譜を拾い上げると、ゴブリンは舌打ちした。
「くそっ……まあ、いい。珍しい魔道具かと思ったが、今見りゃただの紙切れじゃねーか。そんなもん売れねーし、何の価値もねー」
 ゴブリンは立ち上がってルーファスを睨め付け、彼の脇を擦り抜けた。
 楽譜に対して言われただけなのに、モナの胸はずきんと痛んだ。その類いの言葉を、何度も母に浴びせられた記憶が蘇る。さらに、書きかけの楽譜を棄てられた記憶も蘇り、視界が滲んだ。
「価値がないなんて、君が決めることじゃないよ」
 ルーファスの凜とした声に、モナの脳内に響く母の声が掻き消された。
「はあ?」と、ゴブリンは足を止めた。
「これは彼女にとっては大事な物なんだ。お金になるとかならないとか、そんなのは関係ない。君がどうこうしていい物じゃないんだよ」
 瞬間、真っさらだったモナの脳内に暖かな風が吹き抜けて、色取り取りの花が一面に咲き乱れた。中央に置かれたグランドピアノが独りでに音楽を奏でる。
 軽やかに、重々しく、ゆっくりと、忙しなく、不規則に調子が変わってゆく。これが恋に落ちた音であると、生まれて初めてモナは知った。
「はい、モナ」
 ルーファスが楽譜を手渡すと、モナはハッと我に返って彼との距離が近いことにたじろいだ。
「あ、ありがとうございます」
「ん? 顔が赤いよ? 大丈夫?」
「大丈夫です……」
 モナは楽譜を胸に抱いて、そっとルーファスから視線を外した。
 二人が少し話している間に、ゴブリンはそそくさと逃走しようとしていた。
 ルーファスはゴブリンの方に向き直り、翼を広げて上空まで飛び上がった。
「逃がさないよ。君、最近この辺りを騒がせている引ったくりでしょ」
 軽く息を吸い、セイレーンは高らかに歌った。
 全てを魅了するその歌は町中に響き渡り、耳にした者は皆セイレーンに引き寄せられる。ゴブリンも例外ではなかった。ルーファスを中心に、大勢の町人が集ってきた。
 歌を止めてルーファスが地上へ降り立ったのを合図に、町人は一斉に引ったくりに飛び掛かった。ゴブリンは抵抗も虚しく、縄で縛られて連行されていった。
 ルーファスはモナに微笑んだ。
「さあ、行こうか」
「はいっ」
 モナはルーファスの半歩後ろを小走りでついていった。

 ザザーン……ザザーン……と、規則的な波音が真下で聞こえる。足下は時々揺れて不安定だ。モナとルーファスは客船の上にいた。
 路地裏から抜けた時に建物の間から客船が見え、急に思い立ったように、ルーファスが乗ろうと言って今に至る。
 モナは風に踊る横髪を押さえた。
「あの……これからどこへ向かうんですか?」
「うーん……そうだねぇ」
 ルーファスは暢気に、遠ざかっていく港を見送っていた。
 それから少しの間を置き、ルーファスはモナに視線を移した。
「魔法使いのところへ行こう」
「魔法使い?」
「そ。僕の古くからの友人。僕ではある程度近い距離じゃないと音符の気配を感知出来ないんだ。けれど、彼の魔法ならば世界中の音符の居場所を探し出せる。キョースケの時も、彼の力を借りたんだよね」
「その人はどこにいるんですか?」
「あの水平線の向こう」
 ルーファスが指差す方向にモナは目を凝らしたが、青い空と海が広がっているばかりだった。


 大量の本が床を埋め尽くす、仄暗い部屋の中で、傍らのランプの明かりだけで本を読む少年の姿があった。
 広い鍔の三角帽子にマント、厚底のブーツ、目にかかるぐらいの前髪に首筋までの後ろ髪、その全てが漆黒だった。吊り上がった瞳だけが煌々と燃えるような紅で、薄暗がりの中でもよく映えた。その姿は魔法使いそのものだった。
「またアイツが来そうだな」
 少年は忌々しげに呟くと、パタンと本を閉じて椅子から立ち上がった。

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