不審者だと思った。
なにもないところに殴りかかっている大人を見れば、子供は迷わず防犯ブザーに手をかけるだろう。だが、頭巾紅葉という子供は、防犯ブザーの紐を引っ張らなかった。彼女の小さな頭のなかでは警報アラームがうるさいぐらいに鳴り響いているというのに、決して紐を引き抜こうとはしなかった。紅葉の耳に入ってくる音は、カラスの鳴き声とアブラゼミのジリジリジリとした鳴き声。そして、目の前でなにもない虚空を殴りつけている大人が発している、微かな声のみだった。
小学校の近くにあるこの公園で、不審者の目撃情報はなかったはず。
と、紅葉は極めて冷静なまま目の前の大人を見ていた。黒のまじめそうなシューズに黒のスラックス。白いシャツの上で暴れる紺色のネクタイ。
その大人は、夏なのに長袖のシャツを着ていた。
仕事帰りのサラリーマンだろうかと予想を立てて、紅葉は野良猫の喧嘩でも見ているような気持ちで、大人が虚空を殴る光景を眺めていた。
黄色い帽子がずり落ちてくる。紅葉は汗がしみ込んだ帽子を取って、うちわ代わりにした。
紅葉が防犯ブザーを引かなかった理由は、この大人が不審者ではないと思ったからだ。ほとんど勘だが、確かな自信があった。だからなにもせず──火照った顔を帽子で扇いではいるが──ランドセルを背負ったまま突っ立っている。
アサガオでも観察しているかのように、じぃーと。
「──いっ」
大人が声を発した。思ったよりもその声は高く、透き通っていた。なにが「い」なのかと、紅葉はその大人の観察を続けた。すると、異変が起きていた。
虚空を殴っていた大人の手が赤くなっているのだ。そして、その大人の手首から肘にかけて、長袖シャツには無数の穴が空いていた。そこからは血が、涙のように流れている。下から見ていたからこそわかる、犬のような歯並びの痕が、そこにはあった。
それもひとつではなく、無数に。
「おい。そこのガキ」
気だるげな声が聞こえてきて、紅葉は身体をすくませた。こんなにも冷めきった声は、はじめて聞いたからだ。
「なんですか」
帽子で顔の下半分を隠しながら、紅葉は尋ねた。
「さっさとお家へ帰りな。変な歌なんてうたうなよ。変なものには変なものがくっついてくるんだから」
長い前髪から鋭い視線が送られる。紅葉は小さな声で、
「……はい」
と、答え、言われた通りにお家へ帰った。寄り道せずに、まっすぐ帰った。
自分がなにかに襲われ、あの大人に守られていたことに気づいたのは、自宅の玄関の三和土に立って靴を脱いだ時だった。
自室に入ると、紅葉の身体から一気にちからが抜けた。ランドセルが肩から滑り落ち、側面にかけていたナップザックが潰れる。帽子はベッドの上に投げ捨てた。目の前には鏡があって、紅葉はさっき見た光景を脳内で再生した。
スーツのようなものを着た大人が、虚空を殴っていた。
その大人は、いつの間にかたくさんの傷を負っていた。
血が流れても、あの大人は紅葉の前に立ち続けていた。
なぜか、目を離せなかった。
ただ見ていただけなのに、なにかを取られてしまったような感覚。
ただ見ていただけなのに、なにかをもらってしまったような感覚。
紅葉は胸に手を当てて、瞳をとじた。
まぶたの裏にうつったのは、ついさっき鏡で見た、紅潮した自分の頬だった。
その日、小学生である頭巾紅葉は知った。
この世にないものがこの世にはあることを、知った。
一目惚れというものを、知った。
この感情に名前がつくならば、それが初恋であることを、知った。
▽
桜花爛漫。
と言いたいところだが、街路樹の九割が葉桜だった。まだ四月も頭だというのに、花は散っている。花びらは学生たちが歩む通学路を埋め尽くし、薄汚れた桃色の絨毯となっていた。彼ら彼女らのスクールシューズの裏には、数多くの花びらが引っ付いているだろう。
「きゃっち」
と、空から舞い落ちる一枚の小さな花びらを掴む手があった。正確には、掴もうと伸ばした手のひらがあって、掴み損ねた拳があった。
このあたりにあるソメイヨシノの最後の一枚かもしれなかったその花びらは、無惨にも水溜まりの中へ落ちていく。水面がまるく弾け、そこを覗き込んでいる顔を歪めた。
花びらを掴もうとした黒髪の学生は、ひとつため息をついた。見目麗しい黒髪の学生が水溜りを眺めながらため息をつく姿は、その横を通る同じ制服を着た彼ら彼女らの足を止めた。
「あれが掴めれば、なにかが起こると思ったのですけれど。まあ、仕方ないですね」
ひとりごち、素早く気持ちを切り替えた黒髪の学生は、鼻歌まじりに通学路を進んだ。その歩みはだんだん早くなり、疾走へと変わった。
立ち止まっている同じ制服を着た彼ら彼女らを追い越して、黒髪の学生は己がこの春から勉学に励む場所──菊之花高校へ向かう。足取りは軽く、そして素早かった。だからあっという間に、黒髪の学生は菊之花高校の正門に着いた。
そして、誰かへの宣誓を始めるかのように、黒髪の学生は背筋を伸ばした。彼女は瞳をらんらんさせて、肩で息をしている。
「さあ、やってきましたよ」
恋焦がれた相手に出会った時のように、黒髪の学生は笑った。なにもないところで笑うのは不審ではあるが、それが良しとされる容姿を持っているのが彼女という人間だった。そして黒髪の学生は、小さな声で、ここにはいない誰かに向かって語りかける。
「四月といえば『出会い』ですけれど、ぶっちゃけ本人にとっては出会いたくないという場合がありますよね。
誰かにとっては運命の出会いでも、誰かにとってはただの偶然かもしれない。
わたしにとっては運命でも、あなたにとってはただの偶然だったのでしょう。
街中で肩と肩がぶつかったとき、当事者同士がなにを思うかはその者たち次第。恋が始まる合図かと思う者もいれば、喧嘩が始まる合図だと思う者もいます。
あの時の虚空は、あなたにとっての喧嘩相手だったのでしょう。あの時の虚空がなんだったのか、わたしは考えました。ですがどう頭をひねっても、どんな本を読んでも、答えはひとつ。
『この世のものではないなにか』
あなたの横顔を思い出せないくらいに、わたしはあなたのことを考え尽くして、思い出はきれいなものになりました。
なんにしろ、『出会い』であることに変わりはありません。
ヒトとヒトとの出会い。
立派なものじゃあないですか。おめでたいことじゃあないですか。良縁でも悪縁でも、繋がることは孤独よりもましだと思うのです。わたしはあなたと縁を繋げたい。
……のですけれど、どうすれば良いのかわかりません。わたしとあなたの接点はあの時の虚空のみです。
ゆえに、わたしは探します。
あなたに会うために、虚空にいる存在を探します。
出会いたいものが、縁を紡ぎたい相手が、生きている人間だとは限りません。わたしが出会いたいのは、この世には生きていないものたちです。
あなたはそちら側のヒトなのでしょう? ならばわたしも、そちら側にゆきます。
そのために、わたしはここに来たのです」
黒髪をなびかせる学生──頭巾紅葉は、空中にあるなにもない場所を。
虚空を、みつめた。
▽
「春っていうのは暖かくなるがゆえにいろんなものの行動力が強くなる。紳士の活動は活発になり、淑女の会話は毒が増し、耳に突き刺さる子供の声は一オクターブ高くなる」
入学式のあと、紅葉は教室で担任教師である狩屋独活の話を聞いていた。真ん中の列の真ん中の席──つまりは狩屋の真正面にいるにも関わらず、頬杖をついてそっぽを向きながら話を聞いていた。
否、聞いてはいなかった。
紅葉の頭のなかは、あの大人のことと虚空の存在のことでいっぱいだった。だが紅葉が耳を傾けていなくても狩屋の話は進んでいく。
くどくどと長い話も終盤に差し掛かった頃、ようやく紅葉の意識は狩屋に向けられた。
「──お前らのなかには自己紹介で大失敗してサムくなっているやつもいるだろうが、どうかめげずに明日からも通学してくれ。小学校一年生くらいの時には大人に見えた高校生だって、所詮はまだ子供だからな。ここから巻き返せ」
だるそうにゆっくり喋る狩屋の話は、文章にしてたった数行聞いただけでも、入学式においての校長の話よりもつまらないものだった。耳の中を右から左へ、滞りなく流れていく。
紅葉の頭のなかは、再びあの大人のことでいっぱいになった。だから、
「では、解散」
という一言を聞き逃した。
気づけば、教室にいる生徒たちは立ち上がって好き勝手に移動していた。もうすでにいくつかのグループができており、帰り道にファミレス行こうぜ。いやいやそこはカラオケだろ。いいやファミレス。などという呑気な話し声が、紅葉の耳に入ってくる。
紅葉の席だけが透明な水に落ちた墨のように目立っていた。紅葉はそういう『輪』に属するタイプではなく……。否、属せるタイプではなかった。
「ねえ、頭巾さん」
ひとりの女子生徒が遠くから声をかけてきた。
「頭巾さんもカラオケ行かない?」
「いえ。わたしは遠慮いたします」
紅葉は即答した。そして、何事もなかったかのように前を見据えた。その視界の端には、狩屋にちょっかいを出す生徒がいた。狩屋は至極だるそうに、あしらうことすらせず、されるがままになっていた。
「駄目だった。やっぱり高嶺の花だね」
話しかけてきた女子生徒の、大して落胆していないような声音が聞こえてくる。
頭巾紅葉という人間は高嶺の花だった。なぜか、周りから高貴な人間と思われている。それはまっすぐな黒髪につり気味の大きな眼。太り過ぎず痩せ過ぎずのちょうど良い体型に、お淑やかな口調や動作など。すべてが整っている容姿から勝手に連想されたものであり、いろいろな外的要素が相まって、紅葉は中学時代から男女問わず高嶺の花として扱われていた。
告白された数は優に三桁を突破していた。しかしそのすべてを、紅葉は拒絶している。なぜならば、彼女は小学校一年生の時に出会ったあの大人に一目惚れという名の初恋を捧げ、それを今なお継続して想い続けているからだ。
思い出が擦り切れるほど毎日のようにあの時の大人のことを考え、今もあの公園にたびたび通っている。カラスが鳴きアブラゼミが多く生息する、遊具もなにもない公園に。
がやがやとした話し声をくぐるようにして、紅葉は教室から出ようと立ち上がった。今日も公園へ、あの大人を探しに行くためだ。
「あ、そこのやつちょっと待て」
だがしかし、それは狩屋の一言で阻止された。
▽
「えーっと……名前なんだっけなあ、赤ずきんみたいなやつ」
担任教師は入学までに自クラスの生徒の名前くらい覚えておくものじゃあないのか。
と、紅葉は静かに激昂した。
それは求め過ぎと捉えることもできるが、紅葉にとってはそれは当たり前の、彼女のなかでは一般常識と言えるものだった。
担任教師は自分のクラス全員の顔と名前が一致しているもの。
そういう固定概念がへばりついている。だからちょっとした嫌味を込めて、紅葉は──
「なにかごようですか? 狩人さん」
なんていう、失礼極まりないことを言い放った。
担任教師の名前くらい覚えておけよ。
と言われることは、紅葉の頭のなかには入っていない。担任教師の名前など、とっくに覚えていた。だからこれは、ちょっとした『おあそび』だ。
教室が静寂に包まれる。
狩屋は一拍おいて、
「いろいろと違う」
とだるそうに首を横に振った。至極面倒くさい奴に当たった、とでも言いたげな表情だった。
直前まで狩屋にちょっかいを出していた生徒の姿はなく、教師専用のしっかりした机には無数の書類が広がっていた。
周りからは静かな嘲笑が聞こえたが、ほとんどは高嶺の花が発した稀に見る冗談と捉え、その思考もどこかのグループが放った馬鹿みたいな笑い声でかき消された。
紅葉は依然として態度を変えず、おおよそ目上の人に対する対応ではないままの状態で、
「わたしの名前は頭巾紅葉ですよ。ず・き・ん・こ・う・よ・う。わかりますか? よく混ざりに混ざって『赤ずきん』と呼ばれることもありますが、わたしとしては不服以外のなにものでもありません。是非とも『頭巾』とお呼びくださいな」
肘掛け付きの椅子に身体を任せている狩屋に近づきつつ、名乗りをあげた。
「すまんな。ちなみに先生は狩屋独活だよ。か・り・や・う・ど」
「知っていますよ」
悪びれもせず、紅葉はスクールバッグがかかった肩をすくめる。
「それで、なんのようですか狩屋センセ。書類の不備でもありましたか」
紅葉は、机の上に広がっている紙の束を見て言った。
「いやいや。お前に届け物があったんでな」
「届け物ですか」
高嶺の花として学校という場所に君臨し続けていた紅葉は、またか、といったような表情を浮かべる。教師経由でなにかがプレゼントされることは珍しいことではなかったが、大抵そのプレゼントは扱いに困るもので、毎回、持て余していた。中学時代の貰い物(ダンボール五つ分)をすべて捨てたのは、比較的新しい記憶だった。
狩屋はだるそうだった気配を消し、不気味なほどまでに爽やかな笑みを浮かべて立ち上がった。ふたりの顔の距離が缶コーヒーひとつ分になり、周りからひっそりと黄色い声が発せられる。狩屋とは身長差があるため、近づくにつれ紅葉は己のおとがいを上げなくてはいけなかった。その動作に、またもや黄色い声があがる。
「どんな届け物ですか?」
「説教の届け物だ」
間髪入れずに聞かされた言葉に、
「丁重にお断りさせていただきます」
と紅葉は微笑んだ。そんなことをされる覚えがなかったからだ。紅葉は、高嶺の花の優等生として名を馳せてきた。説教とは無縁の人生で、褒められることはあっても叱られることはほとんどなかった。
一歩後ろに下がり、そのまま背中を向け教室から出ようとする紅葉。だが──
「逃がさんぞ」
あっけなく、狩屋に首根っこを掴まれてしまった。そしてそのまま引っ張られ、あっという間に生徒指導室と書かれた看板を引っ提げた教室の中に連れ込まれた。
紅葉は、生まれてはじめて教師から『指導』されることになったのだ。
▽
「……センセ、ジャケットは?」
「脱いだ」
早着替えとはこのことか。
と、紅葉は、ジャケットを脱ぎ紺色のネクタイの先を胸ポケットに入れた狩屋の姿を観察する。汗はかいていないが、この陽気であのかっちりとしたスーツのままではさぞかし暑かったのだろう。ネクタイは緩めている。しかし袖を捲ることはなく、薄いストライプが入った白い布地が彼の腕を覆い、窓からの陽光で細い線がきらめいていた。
「それで、わたしはなんの説教をされるのですか?」
紅葉は率直な疑問を呈した。お茶目に首も傾げたが、なぜか、狩屋も首を傾げた。
お互いに、鏡のように首を傾げるふたりは、そのままの状態で生徒指導室の床に突っ立っていた。
向かい合わせに置いてある机と椅子には埃が溜まっている。首を傾げていても埒が明かないと思った紅葉は、手で埃を払ってから椅子に座った。同じタイミングで真正面に、狩屋が神妙な面持ちのまま座る。
「本当に、身に覚えはないのか」
「ないですよ。それよりも──」
紅葉は薄暗い辺りを見渡す。
「カツ丼が食べたくなりますね」
「お腹空いたよな。だが我慢だ」
生徒指導室の雰囲気は完全に取調室だった。実際には行ったことがないとしても、テレビでは何度も見ている。それは灰色の世界で、薄暗く、埃っぽく、子供の勉強机の上にありそうな電気スタンドがひとつあるだけの場所。四方を塞がれ、身動きができずにいるのはとてつもないストレスが伴うだろう。
と、紅葉は刑事ドラマのなかに入った気分になりながら空想した。
空想すればするほど、カツ丼が欲しくなった。ちなみに、本物の取り調べでカツ丼が出ないことを、紅葉はちゃんと知っている。
「わるいとは思ってるよ。だが飯を食ってる場合じゃあねえ。お前、もしかしたら退学になるかもしれないんだからな」
「え」
思わず、紅葉の声がひっくり返った。
「まあ、それは最悪の場合だが」
狩屋は紅葉を落ち着かせるように、静かに告げる。それがかえって不安を煽り、紅葉の頭のなかには先を輪っかにした縄をせっせと吊り下げている己の姿の幻をみた。学生の身である紅葉には『退学』という言葉が『死』同様にみえたのだ。
せっかく頑張って勉強して入試に受かったのになぜ?
という気持ちもあった。
紅葉はますますわけがわからなくなった。自分が一体なにをしたというのだろうか。入学して一日も経っていないのに。
「先生もまだ教えきっていない教え子を退学にしたくはない。お前だって入学して早々なんて嫌だろ? そうならないためにも、今日、お前が学校に来る前になにをしたか教えてくれ」
「わかりました」
紅葉はひとつ息を吐いて、今朝の出来事を頭のなかにイメージする。そしてそれを、そのまま口に出した。
「起床。朝食。歯磨き。身支度。休憩。携帯を確認。出発。小学校へゴー」
「待て」
調子良く、指折り数えていっていた紅葉を止める狩屋。彼は頭を抱えていた。
「それだよ」
「どれです?」
紅葉はまた首を傾げた。狩屋の言葉の意図がわからないのだ。まじでどれ? と混乱のなかにいる。
「なんで入学式の前に小学校に行くんだよ」
「なんでって……」
紅葉は目をぱちくりさせた。
「行きたかったからです」
「内実を言え」
ぺちん、と狩屋は紅葉の額を叩いた。
絶対赤くなってる。
と思いながらも、紅葉は入学式の前に小学校に行ったわけを話す。
「この世のものではない存在──トイレの花子さんに会いに行こうとしたのです。今はあの小学校でご活躍されているそうなので。
って怪訝そうな顔をしないでくださいわたしは正気です」
狩屋は、「カウンセラーを紹介したほうがいいのか?」と頭を悩ませているようだった。実際、そう呟いていた。だがそれも仕方のないことだった。もし、紅葉を中学時代から知る同級生やら先輩やら後輩やらが訊いていたら、鼻で笑うだろう。
ご冗談を。
と箸にも棒にも掛からない態度を取られるか、狩屋のように精神的な異常を考えられるかの、二択だ。そんな彼を落ち着かせようと、紅葉は弁解する。
「いや、あのですね。彼女と会えるのは今日しかなかったんですよ。もうすぐ引っ越すそうなので、最後のチャンスだったんですよ。そりゃあ、会う機会なんてまだあるかもしれませんけれど、もし次に引っ越す場所があの世だったら詰みでしょう? あの世なんて、わたし、いけません」
身振り手振りを加えて必死に話したが、狩屋は頭を抱えたままだった。
「そんなに会いたかったんだな。花子さんに……。わかったよ」
「はい?」
紅葉には、自分がおかしなことを言っている自覚があった。いつもなら、「わかったよ」だなんて共感するような返答はこない。思っていたものとは異なっていた狩屋の言葉に戸惑いつつも、紅葉は改めて、
「はい、そうです。会いたかったんです」
と笑みを浮かべながら返事をした。高嶺の花と言われている理由は、紅葉の笑顔にもある。それは、雨上がりに咲いた花のような初々しさを、しみじみと感じさせるものだった。
▽
頭を抱えることをやめると、狩屋は面倒くさそうに机に片肘をついた。
「まさか。中学時代から有名な高嶺の花が重度のオカルトマニアだったとはな」
「違いますよ。トイレの花子さんはあくまでもきっかけで、私の目的はその先にあります」
「そっか。でもな。高校生が朝っぱらの通学時間に堂々と小学校に入るなっての。あの小学校からクレームがきたわ。『おたくはどういう教育なさってるの』って…………。知らねえよ。まだ教育してねえよ。新入生だよ。けっ」
紅葉以外誰もいないのを良いことに、狩屋は『先生』であることを忘れたかのように呟く。そして、うーっと、低い声で唸った。オオカミのようだった。怒りモードから打って変わって愚痴モードだ。けれどもそれも数秒間愚痴っただけで落ち着きを取り戻せたのか、狩屋はひとつため息をついてから、再び口を開く。
「まあ。一回目ってことと未遂ってので、今日はお咎め無しだが……次はねえぞ」
「無慈悲ですね」
「無断で小学校の敷地に入ろうとした高校生であるお前はただの不審者なんだよ。慈悲なんてあると思うな……、ったく。めんどくせえ」
とうとう言った「めんどくせえ」という言葉に、紅葉は内心微笑む。こんなにも『めんどくせえ』という言葉が似合う人もなかなかいない。だが、面倒だといっているわりには、ボタンはちゃんと一番上まで閉じているし、シャツのはみ出し等もない。長い前髪と時折鋭くなる眼だけが、彼から怠さや惰性を感じさせる要素だった。
「っていうかさ。花子さんってつまり、そういうことだよな? この状況で嘘吐いたら先生怒るぞ」
「嘘じゃないですよ。だって連絡とったことありますもの」
紅葉は、自分ができる一番の良い笑顔で言った。
「うっわあ。いーい笑顔ね」
それは狩屋にもひしひしと伝わったらしいが、なぜか露骨に顔をしかめてきた。紅葉はそんな狩屋の様子を見てもなお、うきうきと話を進めた。
「センセはあの世って知ってますか?」
「知ってる」
「なら話は早いです。それはですね──」
紅葉はこの話を、ほとんどしたことがなかった。する機会がなかった。
今が絶好のチャンス。
と、狩屋が面倒くさがっていなくなってしまわないうちに、今まで抱えていたものをどさりと机の上に置くような気分で、話を切り出した。
「あの世とは、大多数が首を傾げる物語のなかだけの未知の世界。
幽霊や妖怪、神様など、みえざるものや生きていない者が住む世界。
そんなあの世とここ──菊之花高校は繋がっているんですよ。嘘だって思うでしょう? それがなんと事実っぽいのです。
わたしがここに入った理由はコレです。
偏差値とか推薦とか度外視して入試を頑張れたのもこれが理由なのですよ。
小さい頃からそういうのに興味がありましてね。『いつか本物に会いたいなあ』と、子供ながらにいろいろと考えていたんですよ。ですがまあ、いろいろ調べていくとわかるんですけれども、あの世って、素人が手を出しちゃあいけないんですよね。
『本物』がありますから。その分野においては偽物であるわたしは到底、手が出せません。それは常人であるわたしとは無縁の世界で、みえない世界なんですよ。
ですが。
わたしは諦められませんでした。諦めませんでした。
ですから、偶然ネットで知り合った花子さんに、どうしても、会いたかったのです。
あの世と繋がる、貴重なチャンスだったんです。それでですね──」
「待て。ネット? ……お前、ネットで花子さんと知り合って小学校に呼ばれたのか?」
狩屋は紅葉の話の、おかしな箇所を指摘した。
あの世だの『本物』だのを差し置いて、話を遮り、『ネットで知り合った』ということを気にした。それには紅葉も動揺し、滔々と喋っていた口を止める。狩屋がなにを言うかを待っていると、
「それ十中八九……」
紅葉を哀れむような声音で、
「嘘、だろ」
と言った。
「あっ」
立ち止まって考えてみれば、簡単なことだった。すぐにわかることだった。だがそれをせずに突っ走ってしまうのが紅葉という人間の、今の状態だった。そうなってしまうのが、恋というものだった。紅葉は高嶺の花であるまえに、ひとりの恋する少女だったのだ。
「確かに。よく考えてみればそんな簡単に『本物』が見つかるわけない、ですよね。さっき自分で言っていたのに……。ああ、くやしいです。やっと近づけると思ったのに……」
「先生としては、ネットで知り合った人と、そう簡単に、直接会っちゃダメだよ。と、言いたい」
訥々と、狩屋はひとりごちる。
その姿を見て紅葉はやっと、自分がやった過ちを──自分はそれほど過っていると思ってはいないが──自覚はした。
やっちゃったなーって、思いはした。
「ご迷惑をおかけしました」
「ほんとにね」
頭を下げると、机に前髪がくっついた。だが机の上の埃をあまり払っていなかったのを思い出して、紅葉はすぐに頭を上げた。けれどそれももう遅く、紅葉の前髪にはベタついた埃が飾られてしまった。
これは罰だろうか。
と、手櫛で前髪を整えながら紅葉は思う。前髪は命だ。一糸の乱れも許されない──と、中学生の時にクラスにいた子が言っていた。紅葉はその言葉を信じていないが、聞いてからというものの、見映えを気にするようにはなった。
あらかたの埃を取り終えたのち、紅葉はもう一度頭を下げた。今度は埃がつかないように、浅めに下げた。
「狩屋センセ、話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「……急に殊勝になったが、どういうことだ?」
「考えてみてください。あの世だなんだってわめいている奴の相手なんてしたくないでしょう?」
「自覚あったのか」
「ありますよ。だから嬉しかったのです。狩屋センセが、わたしの話を聞いてくれたという事実が」
紅葉の言葉に、目を見開いて驚いている様子の狩屋。紅葉は、なぜ彼が驚くのかがわからなかった。
どうやら紅葉と狩屋のチャンネルはズレているらしい。だが他者とチャンネルが合わないことなんて慣れっこだった。高嶺の花だなんだと言われるようになったのだって、チャンネルが違うからだ。
紅葉は構わず話を進める。胸に手を置いて、祈るように。
「貴重ですよ。馬鹿みたいな戯言同然の話を聞いてくれる人って。最近はほら、みんな片手に携帯ですし……、わたしの話なんて、みんな聞いてくれません」
肩をすくめ、諦めを半分落とし込んだような笑みを浮かべた紅葉。そんな彼女の顔を見て、狩屋は遠慮がちに一本の指を立てた。
「ひとつ、質問いいか?」
「いいですよ」
「なぜお前は、そんなに花子さんに会いたかったんだ」
「さっきも言いましたが、別に花子さんに会いたいわけじゃあないのです……、花子さんを通して、ある方に会いたいのですよ」
「ある方?」
紅葉は頬を紅潮させていた。あの時の出来事を思い出しているのだ。
「小学校一年生の頃、見えないものに襲われそうになったのです──たぶんですけれど──ですが、とある大人に助けてもらって、わたし、その方に一目惚れしちゃったのです。初恋です。でもなかなか再会できなくて、その方の唯一の手がかりが虚空──この世ならざるものなのです。
わたし、恋をしているのですよ」
悲しみのようなものが紅葉を包み込む。
紅葉は、ちゃんとわかっていた。自分の信じていることが他者に通じないことを。だが紅葉は、そんなことでへこたれる人間ではなかった。あの時の大人にみえている世界が自分にはみえなくとも、誰も自分の話を誰も信じてくれなくても、どうにかして『あっちの世界』と繋がろうと躍起になっていた。
あの時の大人がこの世に存在するのかを確かめたくて。
あの時の大人に再び会って、お礼と想いを言いたくて。
諦めきれなかった結果が、今回の小学校不法侵入未遂に繋がってしまった。
紅葉の本心を聞いて、狩屋は首をすくめる。
「恋する乙女は最強だな」
「えへへ」
「ちなみに褒めてねえぞ」
「えっ」
照れ笑いをしていた紅葉はひゅっと現実に連れ戻された。あの時の大人の話をしていると、どうにも頬が緩んでしまう。表情を引き締めていると、狩屋が椅子をぎし、と鳴らした。身体を前のめりにして、紅葉を見据えてくる。
「どんな話でも、一度は聞き入れる。それがどんなに意味不明で不可思議でもな」
それは、めんどくせえめんどくせえと言っている人とは思えないほど、温もりがあるものだった。
「本当ですか?」
「ほんと」
狩屋の声は、子守唄だった。思わずその胸に抱かれて眠りたくなるような、ぬくい声。冷たさはあれど、その冷たさが心地良い。
日差しのせいだろうか。あつい。
と、紅葉はジャケットごと裾を捲った。そしてまた、頭を下げる。
「ありがとうございます。次からはネットではなく、直接探しに行きますね」
「だめだっつうの。なんでそうなる」
「いいじゃないですか。これからは罪を犯しませんから」
「今までは犯してたのかよ」
「まさか。未遂です」
「お縄につくなよ。この学校から犯罪者を排出せんでくれ」
「善処します!」
紅葉は元気に返事をした。勢い良く立ち上がって、バランスの悪い敬礼をしている。そのせいで埃が舞い、ふたりは咳き込んだ。太陽の光が小さな窓から降り注いで、埃がきらきら輝いた。
▽
「もう帰っていいぞ」
「はーい」
「伸ばすな」
「はい」
頷いた紅葉のほうへ、狩屋はおもむろに腕を伸ばす。それからびよーんと、紅葉の頬を引っ張った。
「いいか」
と、狩屋の気だるげだった眼光が鋭くなる。
「身体はひとつだけ。魂もひとつだけだ。それを無駄にするような行為は、俺の目が黒いうちはやらせねえからな」
「……ふあい」
頬を引っ張られたままの紅葉は、間の抜けた返事をした。
「ほんとに反省してんのか、この口は」
「しへまふ」
「なんて?」
「し・て・ま・す」
ゆっくりと、頬を引っ張られながらも紅葉は答えた。
「今度こそ、帰って良し」
「はい」
失礼しました。
と、紅葉は頭を下げて生徒指導室を出た。頭に埃を被ったままの姿でも、見た目が高嶺の花であることは変わらず、しゃんとした背筋のままで正門へ向かう。
ひとり生徒指導室に残った狩屋は、タバコを一本取り出して、口にくわえた。
「恋しちまうと、そんなに魅力的に見えるものなのかねえ」
火のついていない煙草をくわえたまま、狩屋は椅子に座り込み、背もたれに全体重を預けた。誰かほかの教員が目撃したら即叱られそうな、四肢を投げ出した、だらーんとした格好だった。
「なあ、どう思う?」
面倒くささを全面に醸し出している狩屋の左肩が、少し下がった。くわえた煙草にライターで火を付け、煙をくゆらせる。それは風ではないなにかに影響されて、蛇のような形を作っていた。
「あんたらは、どう思うよ」
なにもない場所を見つめる狩屋。その瞳に写っているものがなんなのか知っているのは、この学校でひとり、ここにいる怠惰な教師だけだった。
「まさか、あの時のガキが教え子になるとはな」
狩屋は呟き、右腕に視線を落とした。シャツの裾を捲り、血管の浮き出た肌があらわになる。そこには穴が──オオカミに噛まれたような、無数の傷痕があった。
開かれた窓からは、正門から校外へ出る紅葉の、おかしなリズムの鼻歌が聴こえてくる。それは紅葉が、虚空を殴る大人を見た時に歌っていた、彼女のオリジナル曲だった。
なにもないところに殴りかかっている大人を見れば、子供は迷わず防犯ブザーに手をかけるだろう。だが、頭巾紅葉という子供は、防犯ブザーの紐を引っ張らなかった。彼女の小さな頭のなかでは警報アラームがうるさいぐらいに鳴り響いているというのに、決して紐を引き抜こうとはしなかった。紅葉の耳に入ってくる音は、カラスの鳴き声とアブラゼミのジリジリジリとした鳴き声。そして、目の前でなにもない虚空を殴りつけている大人が発している、微かな声のみだった。
小学校の近くにあるこの公園で、不審者の目撃情報はなかったはず。
と、紅葉は極めて冷静なまま目の前の大人を見ていた。黒のまじめそうなシューズに黒のスラックス。白いシャツの上で暴れる紺色のネクタイ。
その大人は、夏なのに長袖のシャツを着ていた。
仕事帰りのサラリーマンだろうかと予想を立てて、紅葉は野良猫の喧嘩でも見ているような気持ちで、大人が虚空を殴る光景を眺めていた。
黄色い帽子がずり落ちてくる。紅葉は汗がしみ込んだ帽子を取って、うちわ代わりにした。
紅葉が防犯ブザーを引かなかった理由は、この大人が不審者ではないと思ったからだ。ほとんど勘だが、確かな自信があった。だからなにもせず──火照った顔を帽子で扇いではいるが──ランドセルを背負ったまま突っ立っている。
アサガオでも観察しているかのように、じぃーと。
「──いっ」
大人が声を発した。思ったよりもその声は高く、透き通っていた。なにが「い」なのかと、紅葉はその大人の観察を続けた。すると、異変が起きていた。
虚空を殴っていた大人の手が赤くなっているのだ。そして、その大人の手首から肘にかけて、長袖シャツには無数の穴が空いていた。そこからは血が、涙のように流れている。下から見ていたからこそわかる、犬のような歯並びの痕が、そこにはあった。
それもひとつではなく、無数に。
「おい。そこのガキ」
気だるげな声が聞こえてきて、紅葉は身体をすくませた。こんなにも冷めきった声は、はじめて聞いたからだ。
「なんですか」
帽子で顔の下半分を隠しながら、紅葉は尋ねた。
「さっさとお家へ帰りな。変な歌なんてうたうなよ。変なものには変なものがくっついてくるんだから」
長い前髪から鋭い視線が送られる。紅葉は小さな声で、
「……はい」
と、答え、言われた通りにお家へ帰った。寄り道せずに、まっすぐ帰った。
自分がなにかに襲われ、あの大人に守られていたことに気づいたのは、自宅の玄関の三和土に立って靴を脱いだ時だった。
自室に入ると、紅葉の身体から一気にちからが抜けた。ランドセルが肩から滑り落ち、側面にかけていたナップザックが潰れる。帽子はベッドの上に投げ捨てた。目の前には鏡があって、紅葉はさっき見た光景を脳内で再生した。
スーツのようなものを着た大人が、虚空を殴っていた。
その大人は、いつの間にかたくさんの傷を負っていた。
血が流れても、あの大人は紅葉の前に立ち続けていた。
なぜか、目を離せなかった。
ただ見ていただけなのに、なにかを取られてしまったような感覚。
ただ見ていただけなのに、なにかをもらってしまったような感覚。
紅葉は胸に手を当てて、瞳をとじた。
まぶたの裏にうつったのは、ついさっき鏡で見た、紅潮した自分の頬だった。
その日、小学生である頭巾紅葉は知った。
この世にないものがこの世にはあることを、知った。
一目惚れというものを、知った。
この感情に名前がつくならば、それが初恋であることを、知った。
▽
桜花爛漫。
と言いたいところだが、街路樹の九割が葉桜だった。まだ四月も頭だというのに、花は散っている。花びらは学生たちが歩む通学路を埋め尽くし、薄汚れた桃色の絨毯となっていた。彼ら彼女らのスクールシューズの裏には、数多くの花びらが引っ付いているだろう。
「きゃっち」
と、空から舞い落ちる一枚の小さな花びらを掴む手があった。正確には、掴もうと伸ばした手のひらがあって、掴み損ねた拳があった。
このあたりにあるソメイヨシノの最後の一枚かもしれなかったその花びらは、無惨にも水溜まりの中へ落ちていく。水面がまるく弾け、そこを覗き込んでいる顔を歪めた。
花びらを掴もうとした黒髪の学生は、ひとつため息をついた。見目麗しい黒髪の学生が水溜りを眺めながらため息をつく姿は、その横を通る同じ制服を着た彼ら彼女らの足を止めた。
「あれが掴めれば、なにかが起こると思ったのですけれど。まあ、仕方ないですね」
ひとりごち、素早く気持ちを切り替えた黒髪の学生は、鼻歌まじりに通学路を進んだ。その歩みはだんだん早くなり、疾走へと変わった。
立ち止まっている同じ制服を着た彼ら彼女らを追い越して、黒髪の学生は己がこの春から勉学に励む場所──菊之花高校へ向かう。足取りは軽く、そして素早かった。だからあっという間に、黒髪の学生は菊之花高校の正門に着いた。
そして、誰かへの宣誓を始めるかのように、黒髪の学生は背筋を伸ばした。彼女は瞳をらんらんさせて、肩で息をしている。
「さあ、やってきましたよ」
恋焦がれた相手に出会った時のように、黒髪の学生は笑った。なにもないところで笑うのは不審ではあるが、それが良しとされる容姿を持っているのが彼女という人間だった。そして黒髪の学生は、小さな声で、ここにはいない誰かに向かって語りかける。
「四月といえば『出会い』ですけれど、ぶっちゃけ本人にとっては出会いたくないという場合がありますよね。
誰かにとっては運命の出会いでも、誰かにとってはただの偶然かもしれない。
わたしにとっては運命でも、あなたにとってはただの偶然だったのでしょう。
街中で肩と肩がぶつかったとき、当事者同士がなにを思うかはその者たち次第。恋が始まる合図かと思う者もいれば、喧嘩が始まる合図だと思う者もいます。
あの時の虚空は、あなたにとっての喧嘩相手だったのでしょう。あの時の虚空がなんだったのか、わたしは考えました。ですがどう頭をひねっても、どんな本を読んでも、答えはひとつ。
『この世のものではないなにか』
あなたの横顔を思い出せないくらいに、わたしはあなたのことを考え尽くして、思い出はきれいなものになりました。
なんにしろ、『出会い』であることに変わりはありません。
ヒトとヒトとの出会い。
立派なものじゃあないですか。おめでたいことじゃあないですか。良縁でも悪縁でも、繋がることは孤独よりもましだと思うのです。わたしはあなたと縁を繋げたい。
……のですけれど、どうすれば良いのかわかりません。わたしとあなたの接点はあの時の虚空のみです。
ゆえに、わたしは探します。
あなたに会うために、虚空にいる存在を探します。
出会いたいものが、縁を紡ぎたい相手が、生きている人間だとは限りません。わたしが出会いたいのは、この世には生きていないものたちです。
あなたはそちら側のヒトなのでしょう? ならばわたしも、そちら側にゆきます。
そのために、わたしはここに来たのです」
黒髪をなびかせる学生──頭巾紅葉は、空中にあるなにもない場所を。
虚空を、みつめた。
▽
「春っていうのは暖かくなるがゆえにいろんなものの行動力が強くなる。紳士の活動は活発になり、淑女の会話は毒が増し、耳に突き刺さる子供の声は一オクターブ高くなる」
入学式のあと、紅葉は教室で担任教師である狩屋独活の話を聞いていた。真ん中の列の真ん中の席──つまりは狩屋の真正面にいるにも関わらず、頬杖をついてそっぽを向きながら話を聞いていた。
否、聞いてはいなかった。
紅葉の頭のなかは、あの大人のことと虚空の存在のことでいっぱいだった。だが紅葉が耳を傾けていなくても狩屋の話は進んでいく。
くどくどと長い話も終盤に差し掛かった頃、ようやく紅葉の意識は狩屋に向けられた。
「──お前らのなかには自己紹介で大失敗してサムくなっているやつもいるだろうが、どうかめげずに明日からも通学してくれ。小学校一年生くらいの時には大人に見えた高校生だって、所詮はまだ子供だからな。ここから巻き返せ」
だるそうにゆっくり喋る狩屋の話は、文章にしてたった数行聞いただけでも、入学式においての校長の話よりもつまらないものだった。耳の中を右から左へ、滞りなく流れていく。
紅葉の頭のなかは、再びあの大人のことでいっぱいになった。だから、
「では、解散」
という一言を聞き逃した。
気づけば、教室にいる生徒たちは立ち上がって好き勝手に移動していた。もうすでにいくつかのグループができており、帰り道にファミレス行こうぜ。いやいやそこはカラオケだろ。いいやファミレス。などという呑気な話し声が、紅葉の耳に入ってくる。
紅葉の席だけが透明な水に落ちた墨のように目立っていた。紅葉はそういう『輪』に属するタイプではなく……。否、属せるタイプではなかった。
「ねえ、頭巾さん」
ひとりの女子生徒が遠くから声をかけてきた。
「頭巾さんもカラオケ行かない?」
「いえ。わたしは遠慮いたします」
紅葉は即答した。そして、何事もなかったかのように前を見据えた。その視界の端には、狩屋にちょっかいを出す生徒がいた。狩屋は至極だるそうに、あしらうことすらせず、されるがままになっていた。
「駄目だった。やっぱり高嶺の花だね」
話しかけてきた女子生徒の、大して落胆していないような声音が聞こえてくる。
頭巾紅葉という人間は高嶺の花だった。なぜか、周りから高貴な人間と思われている。それはまっすぐな黒髪につり気味の大きな眼。太り過ぎず痩せ過ぎずのちょうど良い体型に、お淑やかな口調や動作など。すべてが整っている容姿から勝手に連想されたものであり、いろいろな外的要素が相まって、紅葉は中学時代から男女問わず高嶺の花として扱われていた。
告白された数は優に三桁を突破していた。しかしそのすべてを、紅葉は拒絶している。なぜならば、彼女は小学校一年生の時に出会ったあの大人に一目惚れという名の初恋を捧げ、それを今なお継続して想い続けているからだ。
思い出が擦り切れるほど毎日のようにあの時の大人のことを考え、今もあの公園にたびたび通っている。カラスが鳴きアブラゼミが多く生息する、遊具もなにもない公園に。
がやがやとした話し声をくぐるようにして、紅葉は教室から出ようと立ち上がった。今日も公園へ、あの大人を探しに行くためだ。
「あ、そこのやつちょっと待て」
だがしかし、それは狩屋の一言で阻止された。
▽
「えーっと……名前なんだっけなあ、赤ずきんみたいなやつ」
担任教師は入学までに自クラスの生徒の名前くらい覚えておくものじゃあないのか。
と、紅葉は静かに激昂した。
それは求め過ぎと捉えることもできるが、紅葉にとってはそれは当たり前の、彼女のなかでは一般常識と言えるものだった。
担任教師は自分のクラス全員の顔と名前が一致しているもの。
そういう固定概念がへばりついている。だからちょっとした嫌味を込めて、紅葉は──
「なにかごようですか? 狩人さん」
なんていう、失礼極まりないことを言い放った。
担任教師の名前くらい覚えておけよ。
と言われることは、紅葉の頭のなかには入っていない。担任教師の名前など、とっくに覚えていた。だからこれは、ちょっとした『おあそび』だ。
教室が静寂に包まれる。
狩屋は一拍おいて、
「いろいろと違う」
とだるそうに首を横に振った。至極面倒くさい奴に当たった、とでも言いたげな表情だった。
直前まで狩屋にちょっかいを出していた生徒の姿はなく、教師専用のしっかりした机には無数の書類が広がっていた。
周りからは静かな嘲笑が聞こえたが、ほとんどは高嶺の花が発した稀に見る冗談と捉え、その思考もどこかのグループが放った馬鹿みたいな笑い声でかき消された。
紅葉は依然として態度を変えず、おおよそ目上の人に対する対応ではないままの状態で、
「わたしの名前は頭巾紅葉ですよ。ず・き・ん・こ・う・よ・う。わかりますか? よく混ざりに混ざって『赤ずきん』と呼ばれることもありますが、わたしとしては不服以外のなにものでもありません。是非とも『頭巾』とお呼びくださいな」
肘掛け付きの椅子に身体を任せている狩屋に近づきつつ、名乗りをあげた。
「すまんな。ちなみに先生は狩屋独活だよ。か・り・や・う・ど」
「知っていますよ」
悪びれもせず、紅葉はスクールバッグがかかった肩をすくめる。
「それで、なんのようですか狩屋センセ。書類の不備でもありましたか」
紅葉は、机の上に広がっている紙の束を見て言った。
「いやいや。お前に届け物があったんでな」
「届け物ですか」
高嶺の花として学校という場所に君臨し続けていた紅葉は、またか、といったような表情を浮かべる。教師経由でなにかがプレゼントされることは珍しいことではなかったが、大抵そのプレゼントは扱いに困るもので、毎回、持て余していた。中学時代の貰い物(ダンボール五つ分)をすべて捨てたのは、比較的新しい記憶だった。
狩屋はだるそうだった気配を消し、不気味なほどまでに爽やかな笑みを浮かべて立ち上がった。ふたりの顔の距離が缶コーヒーひとつ分になり、周りからひっそりと黄色い声が発せられる。狩屋とは身長差があるため、近づくにつれ紅葉は己のおとがいを上げなくてはいけなかった。その動作に、またもや黄色い声があがる。
「どんな届け物ですか?」
「説教の届け物だ」
間髪入れずに聞かされた言葉に、
「丁重にお断りさせていただきます」
と紅葉は微笑んだ。そんなことをされる覚えがなかったからだ。紅葉は、高嶺の花の優等生として名を馳せてきた。説教とは無縁の人生で、褒められることはあっても叱られることはほとんどなかった。
一歩後ろに下がり、そのまま背中を向け教室から出ようとする紅葉。だが──
「逃がさんぞ」
あっけなく、狩屋に首根っこを掴まれてしまった。そしてそのまま引っ張られ、あっという間に生徒指導室と書かれた看板を引っ提げた教室の中に連れ込まれた。
紅葉は、生まれてはじめて教師から『指導』されることになったのだ。
▽
「……センセ、ジャケットは?」
「脱いだ」
早着替えとはこのことか。
と、紅葉は、ジャケットを脱ぎ紺色のネクタイの先を胸ポケットに入れた狩屋の姿を観察する。汗はかいていないが、この陽気であのかっちりとしたスーツのままではさぞかし暑かったのだろう。ネクタイは緩めている。しかし袖を捲ることはなく、薄いストライプが入った白い布地が彼の腕を覆い、窓からの陽光で細い線がきらめいていた。
「それで、わたしはなんの説教をされるのですか?」
紅葉は率直な疑問を呈した。お茶目に首も傾げたが、なぜか、狩屋も首を傾げた。
お互いに、鏡のように首を傾げるふたりは、そのままの状態で生徒指導室の床に突っ立っていた。
向かい合わせに置いてある机と椅子には埃が溜まっている。首を傾げていても埒が明かないと思った紅葉は、手で埃を払ってから椅子に座った。同じタイミングで真正面に、狩屋が神妙な面持ちのまま座る。
「本当に、身に覚えはないのか」
「ないですよ。それよりも──」
紅葉は薄暗い辺りを見渡す。
「カツ丼が食べたくなりますね」
「お腹空いたよな。だが我慢だ」
生徒指導室の雰囲気は完全に取調室だった。実際には行ったことがないとしても、テレビでは何度も見ている。それは灰色の世界で、薄暗く、埃っぽく、子供の勉強机の上にありそうな電気スタンドがひとつあるだけの場所。四方を塞がれ、身動きができずにいるのはとてつもないストレスが伴うだろう。
と、紅葉は刑事ドラマのなかに入った気分になりながら空想した。
空想すればするほど、カツ丼が欲しくなった。ちなみに、本物の取り調べでカツ丼が出ないことを、紅葉はちゃんと知っている。
「わるいとは思ってるよ。だが飯を食ってる場合じゃあねえ。お前、もしかしたら退学になるかもしれないんだからな」
「え」
思わず、紅葉の声がひっくり返った。
「まあ、それは最悪の場合だが」
狩屋は紅葉を落ち着かせるように、静かに告げる。それがかえって不安を煽り、紅葉の頭のなかには先を輪っかにした縄をせっせと吊り下げている己の姿の幻をみた。学生の身である紅葉には『退学』という言葉が『死』同様にみえたのだ。
せっかく頑張って勉強して入試に受かったのになぜ?
という気持ちもあった。
紅葉はますますわけがわからなくなった。自分が一体なにをしたというのだろうか。入学して一日も経っていないのに。
「先生もまだ教えきっていない教え子を退学にしたくはない。お前だって入学して早々なんて嫌だろ? そうならないためにも、今日、お前が学校に来る前になにをしたか教えてくれ」
「わかりました」
紅葉はひとつ息を吐いて、今朝の出来事を頭のなかにイメージする。そしてそれを、そのまま口に出した。
「起床。朝食。歯磨き。身支度。休憩。携帯を確認。出発。小学校へゴー」
「待て」
調子良く、指折り数えていっていた紅葉を止める狩屋。彼は頭を抱えていた。
「それだよ」
「どれです?」
紅葉はまた首を傾げた。狩屋の言葉の意図がわからないのだ。まじでどれ? と混乱のなかにいる。
「なんで入学式の前に小学校に行くんだよ」
「なんでって……」
紅葉は目をぱちくりさせた。
「行きたかったからです」
「内実を言え」
ぺちん、と狩屋は紅葉の額を叩いた。
絶対赤くなってる。
と思いながらも、紅葉は入学式の前に小学校に行ったわけを話す。
「この世のものではない存在──トイレの花子さんに会いに行こうとしたのです。今はあの小学校でご活躍されているそうなので。
って怪訝そうな顔をしないでくださいわたしは正気です」
狩屋は、「カウンセラーを紹介したほうがいいのか?」と頭を悩ませているようだった。実際、そう呟いていた。だがそれも仕方のないことだった。もし、紅葉を中学時代から知る同級生やら先輩やら後輩やらが訊いていたら、鼻で笑うだろう。
ご冗談を。
と箸にも棒にも掛からない態度を取られるか、狩屋のように精神的な異常を考えられるかの、二択だ。そんな彼を落ち着かせようと、紅葉は弁解する。
「いや、あのですね。彼女と会えるのは今日しかなかったんですよ。もうすぐ引っ越すそうなので、最後のチャンスだったんですよ。そりゃあ、会う機会なんてまだあるかもしれませんけれど、もし次に引っ越す場所があの世だったら詰みでしょう? あの世なんて、わたし、いけません」
身振り手振りを加えて必死に話したが、狩屋は頭を抱えたままだった。
「そんなに会いたかったんだな。花子さんに……。わかったよ」
「はい?」
紅葉には、自分がおかしなことを言っている自覚があった。いつもなら、「わかったよ」だなんて共感するような返答はこない。思っていたものとは異なっていた狩屋の言葉に戸惑いつつも、紅葉は改めて、
「はい、そうです。会いたかったんです」
と笑みを浮かべながら返事をした。高嶺の花と言われている理由は、紅葉の笑顔にもある。それは、雨上がりに咲いた花のような初々しさを、しみじみと感じさせるものだった。
▽
頭を抱えることをやめると、狩屋は面倒くさそうに机に片肘をついた。
「まさか。中学時代から有名な高嶺の花が重度のオカルトマニアだったとはな」
「違いますよ。トイレの花子さんはあくまでもきっかけで、私の目的はその先にあります」
「そっか。でもな。高校生が朝っぱらの通学時間に堂々と小学校に入るなっての。あの小学校からクレームがきたわ。『おたくはどういう教育なさってるの』って…………。知らねえよ。まだ教育してねえよ。新入生だよ。けっ」
紅葉以外誰もいないのを良いことに、狩屋は『先生』であることを忘れたかのように呟く。そして、うーっと、低い声で唸った。オオカミのようだった。怒りモードから打って変わって愚痴モードだ。けれどもそれも数秒間愚痴っただけで落ち着きを取り戻せたのか、狩屋はひとつため息をついてから、再び口を開く。
「まあ。一回目ってことと未遂ってので、今日はお咎め無しだが……次はねえぞ」
「無慈悲ですね」
「無断で小学校の敷地に入ろうとした高校生であるお前はただの不審者なんだよ。慈悲なんてあると思うな……、ったく。めんどくせえ」
とうとう言った「めんどくせえ」という言葉に、紅葉は内心微笑む。こんなにも『めんどくせえ』という言葉が似合う人もなかなかいない。だが、面倒だといっているわりには、ボタンはちゃんと一番上まで閉じているし、シャツのはみ出し等もない。長い前髪と時折鋭くなる眼だけが、彼から怠さや惰性を感じさせる要素だった。
「っていうかさ。花子さんってつまり、そういうことだよな? この状況で嘘吐いたら先生怒るぞ」
「嘘じゃないですよ。だって連絡とったことありますもの」
紅葉は、自分ができる一番の良い笑顔で言った。
「うっわあ。いーい笑顔ね」
それは狩屋にもひしひしと伝わったらしいが、なぜか露骨に顔をしかめてきた。紅葉はそんな狩屋の様子を見てもなお、うきうきと話を進めた。
「センセはあの世って知ってますか?」
「知ってる」
「なら話は早いです。それはですね──」
紅葉はこの話を、ほとんどしたことがなかった。する機会がなかった。
今が絶好のチャンス。
と、狩屋が面倒くさがっていなくなってしまわないうちに、今まで抱えていたものをどさりと机の上に置くような気分で、話を切り出した。
「あの世とは、大多数が首を傾げる物語のなかだけの未知の世界。
幽霊や妖怪、神様など、みえざるものや生きていない者が住む世界。
そんなあの世とここ──菊之花高校は繋がっているんですよ。嘘だって思うでしょう? それがなんと事実っぽいのです。
わたしがここに入った理由はコレです。
偏差値とか推薦とか度外視して入試を頑張れたのもこれが理由なのですよ。
小さい頃からそういうのに興味がありましてね。『いつか本物に会いたいなあ』と、子供ながらにいろいろと考えていたんですよ。ですがまあ、いろいろ調べていくとわかるんですけれども、あの世って、素人が手を出しちゃあいけないんですよね。
『本物』がありますから。その分野においては偽物であるわたしは到底、手が出せません。それは常人であるわたしとは無縁の世界で、みえない世界なんですよ。
ですが。
わたしは諦められませんでした。諦めませんでした。
ですから、偶然ネットで知り合った花子さんに、どうしても、会いたかったのです。
あの世と繋がる、貴重なチャンスだったんです。それでですね──」
「待て。ネット? ……お前、ネットで花子さんと知り合って小学校に呼ばれたのか?」
狩屋は紅葉の話の、おかしな箇所を指摘した。
あの世だの『本物』だのを差し置いて、話を遮り、『ネットで知り合った』ということを気にした。それには紅葉も動揺し、滔々と喋っていた口を止める。狩屋がなにを言うかを待っていると、
「それ十中八九……」
紅葉を哀れむような声音で、
「嘘、だろ」
と言った。
「あっ」
立ち止まって考えてみれば、簡単なことだった。すぐにわかることだった。だがそれをせずに突っ走ってしまうのが紅葉という人間の、今の状態だった。そうなってしまうのが、恋というものだった。紅葉は高嶺の花であるまえに、ひとりの恋する少女だったのだ。
「確かに。よく考えてみればそんな簡単に『本物』が見つかるわけない、ですよね。さっき自分で言っていたのに……。ああ、くやしいです。やっと近づけると思ったのに……」
「先生としては、ネットで知り合った人と、そう簡単に、直接会っちゃダメだよ。と、言いたい」
訥々と、狩屋はひとりごちる。
その姿を見て紅葉はやっと、自分がやった過ちを──自分はそれほど過っていると思ってはいないが──自覚はした。
やっちゃったなーって、思いはした。
「ご迷惑をおかけしました」
「ほんとにね」
頭を下げると、机に前髪がくっついた。だが机の上の埃をあまり払っていなかったのを思い出して、紅葉はすぐに頭を上げた。けれどそれももう遅く、紅葉の前髪にはベタついた埃が飾られてしまった。
これは罰だろうか。
と、手櫛で前髪を整えながら紅葉は思う。前髪は命だ。一糸の乱れも許されない──と、中学生の時にクラスにいた子が言っていた。紅葉はその言葉を信じていないが、聞いてからというものの、見映えを気にするようにはなった。
あらかたの埃を取り終えたのち、紅葉はもう一度頭を下げた。今度は埃がつかないように、浅めに下げた。
「狩屋センセ、話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「……急に殊勝になったが、どういうことだ?」
「考えてみてください。あの世だなんだってわめいている奴の相手なんてしたくないでしょう?」
「自覚あったのか」
「ありますよ。だから嬉しかったのです。狩屋センセが、わたしの話を聞いてくれたという事実が」
紅葉の言葉に、目を見開いて驚いている様子の狩屋。紅葉は、なぜ彼が驚くのかがわからなかった。
どうやら紅葉と狩屋のチャンネルはズレているらしい。だが他者とチャンネルが合わないことなんて慣れっこだった。高嶺の花だなんだと言われるようになったのだって、チャンネルが違うからだ。
紅葉は構わず話を進める。胸に手を置いて、祈るように。
「貴重ですよ。馬鹿みたいな戯言同然の話を聞いてくれる人って。最近はほら、みんな片手に携帯ですし……、わたしの話なんて、みんな聞いてくれません」
肩をすくめ、諦めを半分落とし込んだような笑みを浮かべた紅葉。そんな彼女の顔を見て、狩屋は遠慮がちに一本の指を立てた。
「ひとつ、質問いいか?」
「いいですよ」
「なぜお前は、そんなに花子さんに会いたかったんだ」
「さっきも言いましたが、別に花子さんに会いたいわけじゃあないのです……、花子さんを通して、ある方に会いたいのですよ」
「ある方?」
紅葉は頬を紅潮させていた。あの時の出来事を思い出しているのだ。
「小学校一年生の頃、見えないものに襲われそうになったのです──たぶんですけれど──ですが、とある大人に助けてもらって、わたし、その方に一目惚れしちゃったのです。初恋です。でもなかなか再会できなくて、その方の唯一の手がかりが虚空──この世ならざるものなのです。
わたし、恋をしているのですよ」
悲しみのようなものが紅葉を包み込む。
紅葉は、ちゃんとわかっていた。自分の信じていることが他者に通じないことを。だが紅葉は、そんなことでへこたれる人間ではなかった。あの時の大人にみえている世界が自分にはみえなくとも、誰も自分の話を誰も信じてくれなくても、どうにかして『あっちの世界』と繋がろうと躍起になっていた。
あの時の大人がこの世に存在するのかを確かめたくて。
あの時の大人に再び会って、お礼と想いを言いたくて。
諦めきれなかった結果が、今回の小学校不法侵入未遂に繋がってしまった。
紅葉の本心を聞いて、狩屋は首をすくめる。
「恋する乙女は最強だな」
「えへへ」
「ちなみに褒めてねえぞ」
「えっ」
照れ笑いをしていた紅葉はひゅっと現実に連れ戻された。あの時の大人の話をしていると、どうにも頬が緩んでしまう。表情を引き締めていると、狩屋が椅子をぎし、と鳴らした。身体を前のめりにして、紅葉を見据えてくる。
「どんな話でも、一度は聞き入れる。それがどんなに意味不明で不可思議でもな」
それは、めんどくせえめんどくせえと言っている人とは思えないほど、温もりがあるものだった。
「本当ですか?」
「ほんと」
狩屋の声は、子守唄だった。思わずその胸に抱かれて眠りたくなるような、ぬくい声。冷たさはあれど、その冷たさが心地良い。
日差しのせいだろうか。あつい。
と、紅葉はジャケットごと裾を捲った。そしてまた、頭を下げる。
「ありがとうございます。次からはネットではなく、直接探しに行きますね」
「だめだっつうの。なんでそうなる」
「いいじゃないですか。これからは罪を犯しませんから」
「今までは犯してたのかよ」
「まさか。未遂です」
「お縄につくなよ。この学校から犯罪者を排出せんでくれ」
「善処します!」
紅葉は元気に返事をした。勢い良く立ち上がって、バランスの悪い敬礼をしている。そのせいで埃が舞い、ふたりは咳き込んだ。太陽の光が小さな窓から降り注いで、埃がきらきら輝いた。
▽
「もう帰っていいぞ」
「はーい」
「伸ばすな」
「はい」
頷いた紅葉のほうへ、狩屋はおもむろに腕を伸ばす。それからびよーんと、紅葉の頬を引っ張った。
「いいか」
と、狩屋の気だるげだった眼光が鋭くなる。
「身体はひとつだけ。魂もひとつだけだ。それを無駄にするような行為は、俺の目が黒いうちはやらせねえからな」
「……ふあい」
頬を引っ張られたままの紅葉は、間の抜けた返事をした。
「ほんとに反省してんのか、この口は」
「しへまふ」
「なんて?」
「し・て・ま・す」
ゆっくりと、頬を引っ張られながらも紅葉は答えた。
「今度こそ、帰って良し」
「はい」
失礼しました。
と、紅葉は頭を下げて生徒指導室を出た。頭に埃を被ったままの姿でも、見た目が高嶺の花であることは変わらず、しゃんとした背筋のままで正門へ向かう。
ひとり生徒指導室に残った狩屋は、タバコを一本取り出して、口にくわえた。
「恋しちまうと、そんなに魅力的に見えるものなのかねえ」
火のついていない煙草をくわえたまま、狩屋は椅子に座り込み、背もたれに全体重を預けた。誰かほかの教員が目撃したら即叱られそうな、四肢を投げ出した、だらーんとした格好だった。
「なあ、どう思う?」
面倒くささを全面に醸し出している狩屋の左肩が、少し下がった。くわえた煙草にライターで火を付け、煙をくゆらせる。それは風ではないなにかに影響されて、蛇のような形を作っていた。
「あんたらは、どう思うよ」
なにもない場所を見つめる狩屋。その瞳に写っているものがなんなのか知っているのは、この学校でひとり、ここにいる怠惰な教師だけだった。
「まさか、あの時のガキが教え子になるとはな」
狩屋は呟き、右腕に視線を落とした。シャツの裾を捲り、血管の浮き出た肌があらわになる。そこには穴が──オオカミに噛まれたような、無数の傷痕があった。
開かれた窓からは、正門から校外へ出る紅葉の、おかしなリズムの鼻歌が聴こえてくる。それは紅葉が、虚空を殴る大人を見た時に歌っていた、彼女のオリジナル曲だった。
