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9月5日(水)午後4時28分

 私、早坂奈緒が初めて発した言葉は『ママ』でも『パパ』でもなく『ごめんなさい』だった。

 私が普通の家庭に生まれ、平凡に育っていたのなら『まんま』とか『ブーブー』とか皆と同じように笑顔で話していたのだろう。

 残念だけど私がそんな言葉を楽しそうに話している姿を想像することができない。
 私の人生は、常に痛みと共にあった。

 幼い頃の記憶を思い出そうとすると、いつも決まって私を殴る父の姿とそれを陰から見ている母の姿が頭に浮かぶ。
 家族で過ごした楽しい思い出なんて1つもない。

 私の何がそんなに気に食わないのだろうか。暴力を振るうだけなら私なんて産まなきゃよかったのに。
 私は、ただただ理不尽な暴力から耐える日常を送っていた。

 忘れたくても忘れられない出来事がある。
 あれは私が4歳だった頃。

 その日は、仕事から帰ってきた父の機嫌がほんの少しだけ悪かった。
 他人がその時の父を見たら「機嫌が悪いようには見えないですね」と言うぐらいほんの少しだけだ。

 しかし、両親の顔色を窺って育った私は、4歳にして親の表情を見ただけでその小さな変化が分かるようになっていた。
 私にとっては命に関わることだったから。

 父は、機嫌が良い時は暴力を振るわなかった。
 だが、機嫌が悪い時は物に当たるだけでは飽き足らず、私を殴ったり蹴ったり、気が収まるまで永遠にそれが続いた。

 できる限り父を刺激しないようにしよう。
 心の中でそう自分に言い聞かせ、夕飯の時間になった。

 早坂家は、食事中に会話がほとんど無い。
 私は、父の機嫌を損ねないように黙々とご飯を食べていた。母はそんな私を見ても何も言わない。見て見ぬふりだ。

 私が何もしなければ父が暴力を振るう理由はない。
 そう思っていたのだが、突然父がガンッ、と音を立て箸をテーブルの上に置いた。

 どうやらご飯茶碗と箸が当たる僅かな音が気に入らなかったらしい。
 父が人を殺すような目で私を睨みながら立ち上がると、無言で熱々の味噌汁を投げつけてきた。

 私は火傷を負い、しばらくお風呂に浸かるのも痛かった。
 なにより辛かったのは、そんな私を見ても母が何も言ってくれなかったことだ。

 他にも父には色々された。
 寝ている時に腹を思いっきり踏まれたり、首を絞められたこともある。お風呂に顔を沈められ、助けを求めても水面から顔を出してもらえなかった。

 家にいて心が休まる時なんて1度もなかった。

 殴る蹴るなどの暴力は日常茶飯事で、主に腹や胸を中心に狙われた。
 なぜお腹ばかり殴るのかと父に訊くと「服を着ていれば隠れるからだ」と答えた。
 父は、自分が娘に暴力を振るっているということを村の人に知られたくなかったのだろう。

 だったら最初から暴力なんてしなければいいのに。

 そんな暴力が当たり前な生活を送っていたので、私は人の表情を見ただけでその人が何を考えているのか分かるようになった。

 喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどといった人間が本来持つであろう喜怒哀楽という感情が私からは欠落していた。
 私の中は空っぽだった。

 しかし、そんな私にも転機が訪れる。凛花との出会いだ。
 村に1つだけある学校に通い始めて1年が経ち、2度目の桜が咲く季節。私は、同年代の凛花と出会った。

 凛花のことは村で何度か見かけていたが、話をするのはほとんど初めてに近かった。
 凛花は、何も知らない私に優しく色々なことを教えてくれた。

 お菓子の美味しさ、プリンの美味しさ、人とお喋りをする楽しさ、一緒に猫と遊んだこともあった。

 凛花は、私の狭い世界を広げてくれた。
 絶望でいっぱいになっていた私の心を救ってくれたのだ。

 凛花は、私にとってたった1人の大切な親友だ。
 だけど、時々闇の部分の私が顔を覗かせる瞬間がある。

 普通の家に生まれ、両親からたくさんの愛情を注いでもらって育った凛花のことが羨ましいと思ってしまうのだ。
 私も普通の家に生まれたかった。普通に憧れていた。もし私が凛花の家に生まれていたのなら。

 子供は親を選べない。
 生まれた瞬間から私の父親は国竹で、母親は拓海だ。その事実はどうやったって変わることは無い。

 一生私は国竹から逃れることが出来ないのだろうか?
 そう思うと怖くて夜も眠れない。いつか安心して寝られる日が来ればいいな。