九~売りが巧ぁーい。京の九~売りも、ビミビミビーミ。
山深い場所の沼に現れる、ひとりの子供がよく口ずさむ歌詞は、上記のようだと沼近くの山村に住む子供達の間では言い馴らされている。
しかし、実際は違う。
「胡ー瓜が美味ぁーイ。今日の胡ー瓜も、美味美味美味」
しゃくしゃく、と周囲が木々に囲われる暗い沼を眺めながらひとりの子供はそらんじて、片手に持つ瑞々しい野菜をかじる。
するとそこに、いつもなら駆け足でウキウキした風情にこの場へ入って来る同じ年格好をした子供が、何だか陰気な空気をまとい歩いてくるので、沼を見詰めていた少年は近付いてくる子供に向けて口角の片方を上げた。
これは何かあったな。
子供は、今よりもっと幼いときにこの山に迷い込んで泣いていたところを助けてくれた少年が居る沼に、毎日足しげく、もう何年も通い続けている。子供は茅葺き屋根の小さな古びた家に、穏やかな母親と二人山奥で生活しており、器用な母親の手仕事で得る収入の他、食においては、家の前につくった小作りな畑で作物を少しと子供がたまに山の麓の海で漁を手伝い魚をもらうのと、毎朝家の出入り口に――母親は知り合いでニコニコ顔に――子供は「いいひと」と教わる名も顔もわからない誰かがもってきてくれるささやかな大きさの新鮮な野菜と魚がふたつみっつ、といった暮らしをしていた。端から見ればけっして裕福ではないが、現在に満足すればじゅうぶん生きていける衣食住は揃っているし、なにより家族がいれば母親も子供もすこぶる幸せであった。――だが、母の仕上げた綺麗な品を売って米を買うために、山裾の村におりる子供にはときおり、他者の評価がついてまわった。他者といっても、大人は誰も何も言わない。寧ろ笑顔で子供に金銭を支払い、二人を心配して物をやる。要らないことを子供によこしてくるのは、同じ歳の子供の評価だ。
貧しいとか、みすぼらしいとか、そんな揶揄は子供は一切堪えない。満たされているからだ、だが、いっこだけ。
「おめぇ、父ちゃんいねぇんだってなぁ……。だっから、びんぼーなんだよぉ。いくら母ちゃんが美人でも、あんなに細ぇんじゃぁな。たいした力仕事もできん。……せーぜー人様に迷惑かけんよぅに……」
「……はい……」
と、ニヤニヤ話す男の子に子供は聞き取れるか聞き取れないかくらいの声量で返事をすると同時で男の子の話を聞き終わらないうちに走って村を出て行った。よそに出かける際は必ず母親より、失礼がないようにねと柔和に言い聞かされ、そうして笑む母親の眼差しに己に対する申し訳なさを見受けるたび子供は元気よく応えてきた。
何一つ不足はない、ないに等しい、と子供は思ってきたのに、絶対に埋められはしない自分の目を届けていない部分を男の子はわざわざ眼前にみせつけてきた日、外に出て帰りを待っていた母親にあたたかく迎えられた子供は母親の眼を見なかった。行き帰りで笑いと口数の減った子の様子にうすら察した母は、子の細い肩にそっと手を置いて、煮炊きした野菜のお汁があるんだよと微笑み、家の中に促したが、もはや思い決めている子供には優しい母親の一挙手一投足が、父親という未知の存在の不在ゆえにこのようにならざるを得ぬのだと、愛しい母親の様相は父親のせいなのだと……土に足を留めてつい、口にしていた。
「……父さんがいれば、こんな……」
そして、ハッとして、隣の母親を見上げ、
「……陸郎(りくろう)……」
目にしたこともないほど、すべてを悲しい色にして名前を呟く母親の姿に、子供は自分のしでかした事におののき、肩の掌と呼び声を振り切ってとにかく母親から遠ざかっていた。
子供は山道をひた進みながら考える。
心が満ち足りてさえいたら、感じかた、見方ひとつで、物事は素晴らしく変わるのに。
おれは母さんとの生き方に、あたかも不満足だったかのような穴をあけてしまったのだ。
父さんのこと、病にかかった父さんに薬を持ってきてくれた人のこと、その思い出を語る母さんの顔色はどんなときも温もりがありやわらかくて、いとおしそうだったと理解していたにもかかわらず。おれが、かなしい事柄にしてしまった。
とぼとぼと歩む子供の足先は、自然と沼の知り合いのもとに繋がる道筋を辿っていた。
意気消沈した子供が我が身の右側に座ろうとするのを制して定位置である左側に座らせ、沼に訪れた経緯をきいた少年は、きゅうりを食べるのを休んでちょっと難しい、否いっそ簡単すぎて難解な顔をした。
「わかってるなら、帰って、謝れば、お前のお母さんは、許してくれるだろう?」
沼のほとりの草むらに揃えた脚を腕で囲み尻を据える子供は、
「……でも、おれがおれを許せないんだ。母さんが許してくれても」
と膝を取り巻く腕に面を伏せた。
横に立ち居する少年は、やや小首をかしげて漆黒の短い髪を揺らし、反省したい訳だと、金色の双眸をまるくさせ瞬きしないで子供を見詰め、わざという。
「じゃあ、いつお許しがもらえる?」
子供は純粋な声音の質問に聞こえて、膝に回した腕の上に目のみを覗かせ少年に返した。
「すぐには無理だ」
「……じゃ、どれくらい?」
薄暗い森に、背高で華奢な少年の獣に似た形で黄金の丸々したひとみと、濃い緑の着物を着ている蒼白い肌の色彩が強く浮かぶ。少年は子供が見知る子供と少々異なる質の雰囲気があったけれども、子供はまったくおじなかった。どころか、少年の反応に眉根を寄せて目を外し唇を尖らせる。
「……帰れってこと?」
まだまだ、こどもだなあ。と、少年は一度瞼を閉じて開くのを吐息の代わりにして、静かに説く。
「ぼくは、来てもらえてうれしいよ」
座り込んでいる子供の頭に手を差し伸ばして、大切な手付きで撫でる。子供も、初めに生まれ年を尋ねた折「きみといっしょ」と応えた少年は年齢の差はないだろう相手だったが、我を崩さず不思議な空気がある、子供が見知る子供に比べれば異質な少年にされてもちっとも嫌ではなかった、むしろ大人にされているみたいで心地好かった。
「でも、きみのお母さんはどうか。」
今日は、視たくないことを視なければいけない日だと、子供は心身苦くなる。
「きみを探して森の奥に入ったお母さんが、けがをするかもしれない。そうなれば、きっときみは後悔する。」
子供をじっと見澄ます少年の言に珍しく熱がこもっているように子供は感じられ、少年の唇に紡がれる状況以上に胸をひたむきに貫いた。
「自分を許す時間は、お母さんのそばでいいんじゃないか」
「……………」
まさしく腑に落ち、子供はそれこそしたくない、一生どうしようもないあやまちだと歯を噛み締めて立ち上がり、まっすぐ少年と向かい合って頷く子供のジダは、だいぶ離れていて微かだが、陸郎と息子を呼ぶ母親の一声を捉えた。子供は見開いて、少年にありがとうと礼を言い、居ても立ってもいられず、沼と山道を区切る木々に近寄り行く先を覆う枝と木の葉をわけいる直前に子供は立ち止まって、少年を見向きし、河太郎! 今日は忘れたけど、明日は野菜持ってくっからっ! と元気よく叫んで余計な面倒をかけさせてしまった母親の居所に無事を知らせるため無我夢中で駆けた。
少年は掲げた手をおろし、去り行く子供に、ごめんねと小声で謝った。
ごめんね、陸郎。
ごめんね……玉子(たまこ)。
とある山の、奥まった土地。
そこに、玉子というにふさわしく玉のごとき麗しさの少女が両親とともになかよく住んでいた。
少女が両親についていき、ふもとの村に一回姿を現しただけで、美しい見目が人々の噂になった少女は、己の容姿を微塵も気にかけないで母との家事のみならず畑仕事や父との力仕事に精を出し、父親と母親がいる幸福をいっときも忘れず、明るく笑い顔であらゆる『不』を吹き飛ばし、やさしい両親は玉子の底抜けに朗々とした前向きさに救われながら、三人で慎ましい生活を送っていた。
往々にして類い稀な美貌の玉子を見に赴く少年や青年の男子は多く、常は玉子も人が好きであるので笑顔で接するのであるけれども、なかには悪口を投げてくる者もいた。玉子は矛先が自分ではなく親に向いた時に限り、相手を冷静に言い負かした、無論暴力で玉子に勝とうとした輩も少数あったが、玉子が幼少から培い細身な肉体に備わった揺るぎない筋肉は男子を上回り本気になれば骨がおれてしかる強さであって男子は太刀打ち出来ず、日を改めて性懲りもなく足を運ぶなり正論に謝して仲直りするなりした。玉子は活発で要領が良く、一日の済ませるべき事をし遂げて時間が空いたら、同じ山だがいくらか距離のある沼に棲む河童に会いに出掛けていた。
きっかけは玉子の気を引きたい男の子が、ナイショだよと男の子が見たドジな河童の話を伝え聞かせたことだった。
活発な玉子は、河童に胸を弾ませ、二人で行こうよと提案する男の子に、女だから心配してくれてるんだね。やさしいなあと解釈してほほえみ「ダイジョウブダイジョウブ!」柔く華奢な手でぽんぽんと男の子の肩を叩き、ありがとうっじゃあね~と笑って手を振り一目散に慣れた山のみちを軽々走り抜けた。そうして、目的の地で、玉子は出会った。
自分の腹の高さの身丈で、色濃い緑色の体、頭には皿があり、真ん丸の金色のくりくりした目に、黄色いおおきな嘴、水掻きのついた両足で立って、水掻きのついた両手を振って、背中に自身の体駆と大差ない甲羅を背負い歩く、河童らしい河童に。
木陰より覗き見ていた玉子は、河童が何もない地面で躓いて転びそうになった瞬間、慌てて飛び出して甲羅を両手で掴みからだを支えていた。ふだんは大人よりも強い河童が、皿の水を溢してしまうと子供でも敵うほど衰弱するらしいと知っている。ぽた、となめらかな皿を滑り一滴零れ落ちて玉子はドキリとするが、倒れないことを不可思議がりあたりを見回す河童はふと振り向いて、ひどく驚き玉子の手をはなれて玉子と向き合う格好で草に尻餅をついた。
河童は双手を皿に置いて頭をかばうようにもともと小柄な総身がもっと縮こまり、玉子の目にも明らかにガタガタ震えていた。
「いっいじめないでえっ。ボ、ボク、なんにも、してないよ、おねがいだから」
いじめないで、の一言に玉子は察してもひと先ず複雑さと怒りを置いた。
恐怖を薄めさせようと、笑み笑み、声を掛ける。
「ダイジョウブ。ごめんなさい、いきなり。私は、あなたに会いに来たの。名前は、玉子です。あなたのお名前は? ケガしてない?」
河童はどれだけ物腰が穏和でも人間が恐ろしいことを何度も体験してきた。しかれど、河童の正面にいる人間ははじめて、河童の名前を問うてきて、河童は頭に手を触れさせたままではあるが玉子としっかり目と目を合わせて返事をした。
「……ぼく、カワタロウ。タマコ。けが、してないよ。」
「ほんとう? よかった~!」
玉子は河童が自分を信じて会話をしてくれたこと、寸前で引き留めたとはいえ傷ついていなかったこと、どちらにもほっとして歓喜した。
河童は玉子の屈託ない笑み顔に、胸で七色の宝石がきらめくようなあたたかさを覚えて、つぶらなまなこを輝かせ、純粋な気持ちでたずねる。
「……タマコ。いいひと?」
う~ん、と対する玉子はしかめ面で頭を捻る。前進を志し苦難にもさっぱりした答えを見いだして何事かに望みを繋ぐのが玉子の頼みだったがこればかりはすんなり首を縦にふれない。悪事は、誓って無い。ただ、何がわるいかがそれぞれ違うために、玉子は玉子の常識の範囲で悪いことをしていないからといって他人にしてみたらどうかとか心底善良かとかんがみると了と応えられなかった。
「自分でいいひとっていえないね。でも、カワタロウを怖がらせるひとじゃないのはゼッタイだよ!」
玉子はカワタロウと見合い、確信をもって二言目を言い切った。
「いいひとだ! タマコはいいひとー!」
カワタロウはにっこりして大喜びで腰をあげ飛びはねる。
「いや、いいひと……」
否定しようとした玉子は小躍りするカワタロウのあまりにも嬉しげな様相に、水をさすことになるかと口を閉ざし、白い歯をあらわに頬笑んだ。
玉子とカワタロウは、お互いについての色々な内容を交わした。特別、カワタロウが『鉄は苦手』だったり『妙薬をつくれ』たり自分自身に関することを玉子に説くと、玉子は真面目に耳を傾け、苦手ならば二度とせず、好きならばずっと繰り返し、得意ならば本心で褒めちぎった。カワタロウは真摯な玉子に、どんどん心を開いていった。
己の決め事をし終えた玉子が連日、沼に足を延ばしている事実はあっという間にみなに周知されたが、河童と会っていると気色悪がられても玉子はニコニコ顔でうんと返答してどこ吹く風であった。カワタロウを慮るなら言わないほうが確実に安全だったけれども、沼の在処は誰もが知るところ、隠したとてどのみち明白になる事実だ、憚ってもカワタロウの役にはたてない、したらば何故か目立つ私がカワタロウを好きであるとおおっぴらにしたほうがいいと玉子は判断した。
――無論、カワタロウと日がな一日居られない玉子は、自分に構う他者の評価は度外視しながらも完全に切り離さず別物の重大さでもって他者の態度を受け止めカワタロウの身を案じた。ほんに遠慮するのなら、強欲な悪者の振りで乱暴者として沼に近づかせないなど演じたら安心なはずだが、いいひとといってくれたカワタロウにいいひとのまま好かれていたい玉子には実行出来なかった。玉子は、自覚していなかった。玉子がそのような真似をしなくても、カワタロウを侮蔑した人間を見遣る美麗な玉子の眼差しが、よもや、カワタロウをいじめた人間ではあるまいかととてつもない虚の怒りに充ち、恐れ戦かせていることを。
「カワタロウ! きゅうりの唄をつくったよ~」
しゃく、ときゅうりを嘴で食むカワタロウは円い眼眸をまばたきさせないで小首を傾げた。
「キュウリのウタ?」
「うんっ。家の畑で採れた野菜の中でも、きゅうりをすんごくおいしそうに食べてくれるから」
カワタロウは玉子が何時もお土産に携えて来ておのれにくれる只今はかじりかけのきゅうりを見、玉子に目を向けて紡ぐ。
「ボク、キュウリだいすきだけど……タマコと、タマコのオカアサンと、タマコのオトウサンがそだてたキュウリがいちばんだいすき! おいしいよー」
諸手をあげて満面の笑みで嬉しがるカワタロウに、玉子はどうしようもなく心をほぐされて爽やかに朗笑した。手塩にかけて生育した野菜を、食べてもらいたいカワタロウに褒めてもらえて、こんなに喜ばしいことはなかった。
「……あ~…。それでは、おききください。キュウリの唄。」
玉子とカワタロウはひとしきり笑い、頃合いを見計らって玉子が姿勢を正し胸を張って主張する。
「あっ、はいっ!」
カワタロウも玉子の所作に倣い、きゅうりを抱きつつ甲羅の背筋を伸ばして集中した。
「きゅ~うりがウマァ~イ。今日のきゅ~うりも、美味美味美味!」
自信満々に歌い上げてはにかむ玉子の詞と節の鈍さは破滅的であった。
「きゅーりが、うまーい。きょーうのきゅーうりも、ビミビミビミッ!」
だが技巧で判じず純粋無垢に、大好きなものの唄を考えて聞かせてくれた玉子にひとみをキラキラさせて感激しきりの観客のカワタロウが舌足らずではありつつも復唱したことで二者による控えめなお披露目会は大いに盛りあがったのだった。
数年の時間が経ち、玉子はすっかり美女の齢になった。変化したのは外見で、中身は不変の童子だ。既にあらかた完成していた玉子の精神は子供の時分から保たれていた。姿容の成長に伴い、玉子を異性に扱う対象は老若いりまじり、また未だからかいで『河童の嫁』と放られようが玉子にとってはそれほどカワタロウと私は仲が良いのかとうれしはずかしの名句であった。外見とさらに一点、男性に力量で優れても、大人と見なされている玉子は時たま、高く止まっているやおれを見ろや身に覚えのないいわれの憎悪が動機に武器で攻撃された機もあって、父親と母親に要らない心配と秘密にしどうにか未然に防いでいるが、これからも同様かは玉子は決め切れなかった――だったのだ、ちょうど。
「恥ずかしくねえ? ……まあ、頭で勝てんからって鍬使う奴に言っても無駄だかな。」
その年、遠くの里から一人身で村に満身創痍で辿り着いて移り住む青年、海介と、その日、その時、玉子が出会い、のちの息子、陸郎に繋がるすべてが始まるまでは。
食べるものを調達しに山の入り口で自生する山菜を取りに行く途中でいさかいを聞き付けた海介は、男が人に鍬を振りおろすのを止めに入った。海介は玉子と同じく天下一品で異な容貌の端麗さが相乗し、息も絶え絶えであった事情を語らない海介の進んで人と関わりを持たぬ風が、礼儀正しく人懐こい玉子よりもいっそう印象に拍車をかけて浮世離れしている青年だった。
実をいえば、幼少は生まれ育った里で父母と仲睦まじく平穏な暮らしをしていたが、俗に染まらない形姿が高値で売れると目論み深夜家に押し入った賊に襲われ、親は二人とも生きろと海介に言い残して命を奪われ、祖父の形見と三人で大事にしてきた刀の重さをものともせず怒る幼き海介は達者な腕とさばきで五人の賊を斬り殺した。海介は両親を丁重に葬りたかったけれども、急ごしらえの墓では到底善なる二人にそぐわないし息苦しかろうと思ったけれども、血を流す二人の身体を綺麗にするいとまも無く、泣きながら母と父を引き摺って海が望める家の庭の土に眠らせた。そして海介は、祖父の形見を唯一の御供に着の身着のまま夜が明けないうちに里を抜けた。里の住人は皆いいひとばかりだったが、最初は半信半疑でもじきに賊を返り討ちにした童が恐ろしくなるかもしれない、それでも人道にもとるとそんな自分をかなぐり捨ててきっと温かく受け入れてくれることを選んでくれるだろう、海介は解っていたがひとの優しさを受ける人殺しの自分を自分が受容できず、各地を渡り歩いていた。途上で風采を理由に立ち合った経験は数多ある、目的は生きることだけ、自分には自分が生きる意味は見出だせない、かといって自害するのは大好きな両親の願いを違える、ひとの道にまざり歩くふりをして息をする海介はえてしてひとに助けられ厚意に報いるためにひとの傍らに居付き、いよいよ目立ちが悪く作用してきたらひとの道筋を外れ、獣の道筋に立ち返る。反復する流れには、海介に想いを寄せた女の子たちがおり、海介はひとが嫌いな訳ではなかったけれど争いが絶えない身の上を鑑みれば連れることは論外で、それに、海介はひとを守り護ることにも限界があった、そもそも海介は死にたかった。守れるのは今日この瞬間のみ、護れるのは今日この己が身のみ、でなければ父と母をみすみす死なせようか! ひとをまもれる力があるなら、誰も息を絶やさないはずであった。海介は、ひととの先、未来を積極的に想像できない自分は、生きる素質に欠けていると思い定めていた。
男子が助けるくらいの目に遭ったことのなかった玉子は、男が海介の手に鍬を預けていずこかに帰っていってすぐ、一身を挺して仲裁してくれた海介に近寄り傷付いていないことを訊いて、よかった~ありがとう! と安心し笑みを浮かべた。海介は村で見掛けない玉子に以後まみえることは無いかと考えつつ、短く応じた。玉子は海介の言下に、キミみたいに強くなって、次は私がキミをまもるね! じゃあねっありがとう~と打ち笑んで掌をひらひらゆらし森の入口から奥方へ疾走してあっという間に見えなくなった玉子に、海介は呆気にとられた。
女の子に、自分をまもると言われた記憶はない。
約束じゃなく儀礼な挨拶であっても、海介はなんだかおかしくて微笑していた。だが、玉子は海介が刀を操れるとは存ざないのかもしれない、だとすれば当然だと海介は即座に笑いを引っ込めた。
玉子は沼のカワタロウを訪ねると海介との一件を落ち着いた笑み顔で、今日体を張って助けてくれたひとが居て、無傷でよかったけれど一歩間違えば危ないことをさせてしまったので自分も彼をまもれるほど強くなりたいとカワタロウに告げた。玉子が手渡した大好物の野菜に口をつけず耳を傾けていたカワタロウは、いつにも増して静かに強かに煌めいている玉子の澄んだ目に見入り、聴き終えたらうずうずして野菜を握る手を高らかに「がんばれっ、タマコー!」と全力で応援した。「うんっ! がんばる! カワタロウー!」玉子も嬉々として、カワタロウをゆうに超す大声で呼応し、大切な友人の名前に誓った。
故あって師事する人物を捜していた玉子は、月に一度、山の下手の港に停泊する船の客に柔術の玄人がいるらしいと友達に聞き及び、国を行き来していて定期で一週間村外れの家に独り住む当の男が戻るたびに熱心に頼み込み、礼節は弁えているもののあまりのしつこさと、キミがわざわざ守らなくても誰かがキミを守ってくれるとの男の質問に、はい。誰かをまもってくれる人をまもれるひとに、私は、そういうひとをまもれるように先生の柔術を学びたいんです! とまもるが連続する半ば言葉遊びだが渾身の答で男の心を折らせて、呑み込みのはやい玉子は、一ヶ月に一週間、時間にして六週間、期間にして半年で術を教わり、体得した。師が留守にしているあいだ指南してもらった柔術の訓練に真剣に取り組む玉子は、カワタロウと日常であったことをとても楽しく話し合う時も、森に食糧を調達に行く海介が目に留まり一度お礼に大量の野菜を渡してから頑なに畑仕事を手伝う海介と作業している時も、カワタロウと交友する自分を温厚に見守り「カワタロちゃん」の愛称で言う父親と母親が、まもるひとになりたいと柔術を極めようとしていると知りカワタロちゃんのためだろうかと心中で声援を送る時も、いかなる平常の時も、基礎の動きを取り入れるなど常々精神と肉体を鍛え抜き、努力を結実させた。
昼間に異変を察して、夜更けに村と道程を隔てた人気のない林道に足を向けた海介は、予想ぴったりに浪人に行き会わせたが、何故か玉子と玉子の師匠が参入し、戸惑う海介を置いて術技を用い襲撃した三人を撃退した。
海介がとみに驚いたのは、日頃鍛練していた玉子がまさか実戦に躍り出てきた意想外で、過日の「キミみたいに強くなって、次は私がキミをまもるね!」という言葉と行動をもっと重大に受け止めていなければならなかったと海介は悔い、幸運にも傷を負わなかった玉子に謝った。
「……すまない。お前を、巻き込んじまった……!」
ほうぼうで由の大小いかんなく、帯刀する者の目当てになり打ち合いをしてきたゆえんか、不必要に名の知られている海介の加勢に追い返されたとなれば、年も性別も関係なく相応の力がある仲間だと今後付け狙われるかもしれない。海介は玉子のような女の子を見聞きした試しはない。
女の子をまもるのが本来のオレの立場だと、海介は思唯している。
しかし、異性ということと意思を軽んじた結果が引き起こしたのだ、玉子の傍らでふりかかる危害を防ごうとしてこのまま留まればみんなに被害が出るやも知れない、しかし、無理矢理自分と放浪はさせられない、まもれない――玉子と玉子の面前で苦悶の面立ちになる海介の優美な肩に玉子は双手を緩やかに置いた。
「いや、キミをまもりたいっていう私の都合に巻きこんだんだ、キミを。……お昼、私はぜんぜんきづけてなくて、先生があのひとたちは今晩キミを襲う気だって教えてくれてね。キミのこともきいたよ。いっとき、先生の国にいたって」
玉子に素性は一切明かしていなかった海介は玉子の――己を除いた人間のきれいな手を咄嗟に退けようとしたが、肩を掴む玉子の掌は力強く海介をその場に縫い止め、身動ぎしかさせなかった。
「キミとわたし、友達だよね? だから、友達をまもりたいから、わたし、キミについていく!」
玉子は「友達だよね?」だけ自信なげに口にして熱く宣言しながら、詳しい事情は知らないが、相手を死なせない変わり者と有名で独を貫く海介の生を想うと知ったかぶって勝手に泣いてはいけないと自制するも、目と目を合わせている両眼より滂沱の涙を流していた。玉子と農作業をする海介は、誠実で世間ずれしていなくて、余裕で玉子が持ち運べる桶を無理してでも運ぼうとする、律儀でやさしい、ひとといるのが普通の青年だとしか、玉子には思えなかった。
山深い場所の沼に現れる、ひとりの子供がよく口ずさむ歌詞は、上記のようだと沼近くの山村に住む子供達の間では言い馴らされている。
しかし、実際は違う。
「胡ー瓜が美味ぁーイ。今日の胡ー瓜も、美味美味美味」
しゃくしゃく、と周囲が木々に囲われる暗い沼を眺めながらひとりの子供はそらんじて、片手に持つ瑞々しい野菜をかじる。
するとそこに、いつもなら駆け足でウキウキした風情にこの場へ入って来る同じ年格好をした子供が、何だか陰気な空気をまとい歩いてくるので、沼を見詰めていた少年は近付いてくる子供に向けて口角の片方を上げた。
これは何かあったな。
子供は、今よりもっと幼いときにこの山に迷い込んで泣いていたところを助けてくれた少年が居る沼に、毎日足しげく、もう何年も通い続けている。子供は茅葺き屋根の小さな古びた家に、穏やかな母親と二人山奥で生活しており、器用な母親の手仕事で得る収入の他、食においては、家の前につくった小作りな畑で作物を少しと子供がたまに山の麓の海で漁を手伝い魚をもらうのと、毎朝家の出入り口に――母親は知り合いでニコニコ顔に――子供は「いいひと」と教わる名も顔もわからない誰かがもってきてくれるささやかな大きさの新鮮な野菜と魚がふたつみっつ、といった暮らしをしていた。端から見ればけっして裕福ではないが、現在に満足すればじゅうぶん生きていける衣食住は揃っているし、なにより家族がいれば母親も子供もすこぶる幸せであった。――だが、母の仕上げた綺麗な品を売って米を買うために、山裾の村におりる子供にはときおり、他者の評価がついてまわった。他者といっても、大人は誰も何も言わない。寧ろ笑顔で子供に金銭を支払い、二人を心配して物をやる。要らないことを子供によこしてくるのは、同じ歳の子供の評価だ。
貧しいとか、みすぼらしいとか、そんな揶揄は子供は一切堪えない。満たされているからだ、だが、いっこだけ。
「おめぇ、父ちゃんいねぇんだってなぁ……。だっから、びんぼーなんだよぉ。いくら母ちゃんが美人でも、あんなに細ぇんじゃぁな。たいした力仕事もできん。……せーぜー人様に迷惑かけんよぅに……」
「……はい……」
と、ニヤニヤ話す男の子に子供は聞き取れるか聞き取れないかくらいの声量で返事をすると同時で男の子の話を聞き終わらないうちに走って村を出て行った。よそに出かける際は必ず母親より、失礼がないようにねと柔和に言い聞かされ、そうして笑む母親の眼差しに己に対する申し訳なさを見受けるたび子供は元気よく応えてきた。
何一つ不足はない、ないに等しい、と子供は思ってきたのに、絶対に埋められはしない自分の目を届けていない部分を男の子はわざわざ眼前にみせつけてきた日、外に出て帰りを待っていた母親にあたたかく迎えられた子供は母親の眼を見なかった。行き帰りで笑いと口数の減った子の様子にうすら察した母は、子の細い肩にそっと手を置いて、煮炊きした野菜のお汁があるんだよと微笑み、家の中に促したが、もはや思い決めている子供には優しい母親の一挙手一投足が、父親という未知の存在の不在ゆえにこのようにならざるを得ぬのだと、愛しい母親の様相は父親のせいなのだと……土に足を留めてつい、口にしていた。
「……父さんがいれば、こんな……」
そして、ハッとして、隣の母親を見上げ、
「……陸郎(りくろう)……」
目にしたこともないほど、すべてを悲しい色にして名前を呟く母親の姿に、子供は自分のしでかした事におののき、肩の掌と呼び声を振り切ってとにかく母親から遠ざかっていた。
子供は山道をひた進みながら考える。
心が満ち足りてさえいたら、感じかた、見方ひとつで、物事は素晴らしく変わるのに。
おれは母さんとの生き方に、あたかも不満足だったかのような穴をあけてしまったのだ。
父さんのこと、病にかかった父さんに薬を持ってきてくれた人のこと、その思い出を語る母さんの顔色はどんなときも温もりがありやわらかくて、いとおしそうだったと理解していたにもかかわらず。おれが、かなしい事柄にしてしまった。
とぼとぼと歩む子供の足先は、自然と沼の知り合いのもとに繋がる道筋を辿っていた。
意気消沈した子供が我が身の右側に座ろうとするのを制して定位置である左側に座らせ、沼に訪れた経緯をきいた少年は、きゅうりを食べるのを休んでちょっと難しい、否いっそ簡単すぎて難解な顔をした。
「わかってるなら、帰って、謝れば、お前のお母さんは、許してくれるだろう?」
沼のほとりの草むらに揃えた脚を腕で囲み尻を据える子供は、
「……でも、おれがおれを許せないんだ。母さんが許してくれても」
と膝を取り巻く腕に面を伏せた。
横に立ち居する少年は、やや小首をかしげて漆黒の短い髪を揺らし、反省したい訳だと、金色の双眸をまるくさせ瞬きしないで子供を見詰め、わざという。
「じゃあ、いつお許しがもらえる?」
子供は純粋な声音の質問に聞こえて、膝に回した腕の上に目のみを覗かせ少年に返した。
「すぐには無理だ」
「……じゃ、どれくらい?」
薄暗い森に、背高で華奢な少年の獣に似た形で黄金の丸々したひとみと、濃い緑の着物を着ている蒼白い肌の色彩が強く浮かぶ。少年は子供が見知る子供と少々異なる質の雰囲気があったけれども、子供はまったくおじなかった。どころか、少年の反応に眉根を寄せて目を外し唇を尖らせる。
「……帰れってこと?」
まだまだ、こどもだなあ。と、少年は一度瞼を閉じて開くのを吐息の代わりにして、静かに説く。
「ぼくは、来てもらえてうれしいよ」
座り込んでいる子供の頭に手を差し伸ばして、大切な手付きで撫でる。子供も、初めに生まれ年を尋ねた折「きみといっしょ」と応えた少年は年齢の差はないだろう相手だったが、我を崩さず不思議な空気がある、子供が見知る子供に比べれば異質な少年にされてもちっとも嫌ではなかった、むしろ大人にされているみたいで心地好かった。
「でも、きみのお母さんはどうか。」
今日は、視たくないことを視なければいけない日だと、子供は心身苦くなる。
「きみを探して森の奥に入ったお母さんが、けがをするかもしれない。そうなれば、きっときみは後悔する。」
子供をじっと見澄ます少年の言に珍しく熱がこもっているように子供は感じられ、少年の唇に紡がれる状況以上に胸をひたむきに貫いた。
「自分を許す時間は、お母さんのそばでいいんじゃないか」
「……………」
まさしく腑に落ち、子供はそれこそしたくない、一生どうしようもないあやまちだと歯を噛み締めて立ち上がり、まっすぐ少年と向かい合って頷く子供のジダは、だいぶ離れていて微かだが、陸郎と息子を呼ぶ母親の一声を捉えた。子供は見開いて、少年にありがとうと礼を言い、居ても立ってもいられず、沼と山道を区切る木々に近寄り行く先を覆う枝と木の葉をわけいる直前に子供は立ち止まって、少年を見向きし、河太郎! 今日は忘れたけど、明日は野菜持ってくっからっ! と元気よく叫んで余計な面倒をかけさせてしまった母親の居所に無事を知らせるため無我夢中で駆けた。
少年は掲げた手をおろし、去り行く子供に、ごめんねと小声で謝った。
ごめんね、陸郎。
ごめんね……玉子(たまこ)。
とある山の、奥まった土地。
そこに、玉子というにふさわしく玉のごとき麗しさの少女が両親とともになかよく住んでいた。
少女が両親についていき、ふもとの村に一回姿を現しただけで、美しい見目が人々の噂になった少女は、己の容姿を微塵も気にかけないで母との家事のみならず畑仕事や父との力仕事に精を出し、父親と母親がいる幸福をいっときも忘れず、明るく笑い顔であらゆる『不』を吹き飛ばし、やさしい両親は玉子の底抜けに朗々とした前向きさに救われながら、三人で慎ましい生活を送っていた。
往々にして類い稀な美貌の玉子を見に赴く少年や青年の男子は多く、常は玉子も人が好きであるので笑顔で接するのであるけれども、なかには悪口を投げてくる者もいた。玉子は矛先が自分ではなく親に向いた時に限り、相手を冷静に言い負かした、無論暴力で玉子に勝とうとした輩も少数あったが、玉子が幼少から培い細身な肉体に備わった揺るぎない筋肉は男子を上回り本気になれば骨がおれてしかる強さであって男子は太刀打ち出来ず、日を改めて性懲りもなく足を運ぶなり正論に謝して仲直りするなりした。玉子は活発で要領が良く、一日の済ませるべき事をし遂げて時間が空いたら、同じ山だがいくらか距離のある沼に棲む河童に会いに出掛けていた。
きっかけは玉子の気を引きたい男の子が、ナイショだよと男の子が見たドジな河童の話を伝え聞かせたことだった。
活発な玉子は、河童に胸を弾ませ、二人で行こうよと提案する男の子に、女だから心配してくれてるんだね。やさしいなあと解釈してほほえみ「ダイジョウブダイジョウブ!」柔く華奢な手でぽんぽんと男の子の肩を叩き、ありがとうっじゃあね~と笑って手を振り一目散に慣れた山のみちを軽々走り抜けた。そうして、目的の地で、玉子は出会った。
自分の腹の高さの身丈で、色濃い緑色の体、頭には皿があり、真ん丸の金色のくりくりした目に、黄色いおおきな嘴、水掻きのついた両足で立って、水掻きのついた両手を振って、背中に自身の体駆と大差ない甲羅を背負い歩く、河童らしい河童に。
木陰より覗き見ていた玉子は、河童が何もない地面で躓いて転びそうになった瞬間、慌てて飛び出して甲羅を両手で掴みからだを支えていた。ふだんは大人よりも強い河童が、皿の水を溢してしまうと子供でも敵うほど衰弱するらしいと知っている。ぽた、となめらかな皿を滑り一滴零れ落ちて玉子はドキリとするが、倒れないことを不可思議がりあたりを見回す河童はふと振り向いて、ひどく驚き玉子の手をはなれて玉子と向き合う格好で草に尻餅をついた。
河童は双手を皿に置いて頭をかばうようにもともと小柄な総身がもっと縮こまり、玉子の目にも明らかにガタガタ震えていた。
「いっいじめないでえっ。ボ、ボク、なんにも、してないよ、おねがいだから」
いじめないで、の一言に玉子は察してもひと先ず複雑さと怒りを置いた。
恐怖を薄めさせようと、笑み笑み、声を掛ける。
「ダイジョウブ。ごめんなさい、いきなり。私は、あなたに会いに来たの。名前は、玉子です。あなたのお名前は? ケガしてない?」
河童はどれだけ物腰が穏和でも人間が恐ろしいことを何度も体験してきた。しかれど、河童の正面にいる人間ははじめて、河童の名前を問うてきて、河童は頭に手を触れさせたままではあるが玉子としっかり目と目を合わせて返事をした。
「……ぼく、カワタロウ。タマコ。けが、してないよ。」
「ほんとう? よかった~!」
玉子は河童が自分を信じて会話をしてくれたこと、寸前で引き留めたとはいえ傷ついていなかったこと、どちらにもほっとして歓喜した。
河童は玉子の屈託ない笑み顔に、胸で七色の宝石がきらめくようなあたたかさを覚えて、つぶらなまなこを輝かせ、純粋な気持ちでたずねる。
「……タマコ。いいひと?」
う~ん、と対する玉子はしかめ面で頭を捻る。前進を志し苦難にもさっぱりした答えを見いだして何事かに望みを繋ぐのが玉子の頼みだったがこればかりはすんなり首を縦にふれない。悪事は、誓って無い。ただ、何がわるいかがそれぞれ違うために、玉子は玉子の常識の範囲で悪いことをしていないからといって他人にしてみたらどうかとか心底善良かとかんがみると了と応えられなかった。
「自分でいいひとっていえないね。でも、カワタロウを怖がらせるひとじゃないのはゼッタイだよ!」
玉子はカワタロウと見合い、確信をもって二言目を言い切った。
「いいひとだ! タマコはいいひとー!」
カワタロウはにっこりして大喜びで腰をあげ飛びはねる。
「いや、いいひと……」
否定しようとした玉子は小躍りするカワタロウのあまりにも嬉しげな様相に、水をさすことになるかと口を閉ざし、白い歯をあらわに頬笑んだ。
玉子とカワタロウは、お互いについての色々な内容を交わした。特別、カワタロウが『鉄は苦手』だったり『妙薬をつくれ』たり自分自身に関することを玉子に説くと、玉子は真面目に耳を傾け、苦手ならば二度とせず、好きならばずっと繰り返し、得意ならば本心で褒めちぎった。カワタロウは真摯な玉子に、どんどん心を開いていった。
己の決め事をし終えた玉子が連日、沼に足を延ばしている事実はあっという間にみなに周知されたが、河童と会っていると気色悪がられても玉子はニコニコ顔でうんと返答してどこ吹く風であった。カワタロウを慮るなら言わないほうが確実に安全だったけれども、沼の在処は誰もが知るところ、隠したとてどのみち明白になる事実だ、憚ってもカワタロウの役にはたてない、したらば何故か目立つ私がカワタロウを好きであるとおおっぴらにしたほうがいいと玉子は判断した。
――無論、カワタロウと日がな一日居られない玉子は、自分に構う他者の評価は度外視しながらも完全に切り離さず別物の重大さでもって他者の態度を受け止めカワタロウの身を案じた。ほんに遠慮するのなら、強欲な悪者の振りで乱暴者として沼に近づかせないなど演じたら安心なはずだが、いいひとといってくれたカワタロウにいいひとのまま好かれていたい玉子には実行出来なかった。玉子は、自覚していなかった。玉子がそのような真似をしなくても、カワタロウを侮蔑した人間を見遣る美麗な玉子の眼差しが、よもや、カワタロウをいじめた人間ではあるまいかととてつもない虚の怒りに充ち、恐れ戦かせていることを。
「カワタロウ! きゅうりの唄をつくったよ~」
しゃく、ときゅうりを嘴で食むカワタロウは円い眼眸をまばたきさせないで小首を傾げた。
「キュウリのウタ?」
「うんっ。家の畑で採れた野菜の中でも、きゅうりをすんごくおいしそうに食べてくれるから」
カワタロウは玉子が何時もお土産に携えて来ておのれにくれる只今はかじりかけのきゅうりを見、玉子に目を向けて紡ぐ。
「ボク、キュウリだいすきだけど……タマコと、タマコのオカアサンと、タマコのオトウサンがそだてたキュウリがいちばんだいすき! おいしいよー」
諸手をあげて満面の笑みで嬉しがるカワタロウに、玉子はどうしようもなく心をほぐされて爽やかに朗笑した。手塩にかけて生育した野菜を、食べてもらいたいカワタロウに褒めてもらえて、こんなに喜ばしいことはなかった。
「……あ~…。それでは、おききください。キュウリの唄。」
玉子とカワタロウはひとしきり笑い、頃合いを見計らって玉子が姿勢を正し胸を張って主張する。
「あっ、はいっ!」
カワタロウも玉子の所作に倣い、きゅうりを抱きつつ甲羅の背筋を伸ばして集中した。
「きゅ~うりがウマァ~イ。今日のきゅ~うりも、美味美味美味!」
自信満々に歌い上げてはにかむ玉子の詞と節の鈍さは破滅的であった。
「きゅーりが、うまーい。きょーうのきゅーうりも、ビミビミビミッ!」
だが技巧で判じず純粋無垢に、大好きなものの唄を考えて聞かせてくれた玉子にひとみをキラキラさせて感激しきりの観客のカワタロウが舌足らずではありつつも復唱したことで二者による控えめなお披露目会は大いに盛りあがったのだった。
数年の時間が経ち、玉子はすっかり美女の齢になった。変化したのは外見で、中身は不変の童子だ。既にあらかた完成していた玉子の精神は子供の時分から保たれていた。姿容の成長に伴い、玉子を異性に扱う対象は老若いりまじり、また未だからかいで『河童の嫁』と放られようが玉子にとってはそれほどカワタロウと私は仲が良いのかとうれしはずかしの名句であった。外見とさらに一点、男性に力量で優れても、大人と見なされている玉子は時たま、高く止まっているやおれを見ろや身に覚えのないいわれの憎悪が動機に武器で攻撃された機もあって、父親と母親に要らない心配と秘密にしどうにか未然に防いでいるが、これからも同様かは玉子は決め切れなかった――だったのだ、ちょうど。
「恥ずかしくねえ? ……まあ、頭で勝てんからって鍬使う奴に言っても無駄だかな。」
その年、遠くの里から一人身で村に満身創痍で辿り着いて移り住む青年、海介と、その日、その時、玉子が出会い、のちの息子、陸郎に繋がるすべてが始まるまでは。
食べるものを調達しに山の入り口で自生する山菜を取りに行く途中でいさかいを聞き付けた海介は、男が人に鍬を振りおろすのを止めに入った。海介は玉子と同じく天下一品で異な容貌の端麗さが相乗し、息も絶え絶えであった事情を語らない海介の進んで人と関わりを持たぬ風が、礼儀正しく人懐こい玉子よりもいっそう印象に拍車をかけて浮世離れしている青年だった。
実をいえば、幼少は生まれ育った里で父母と仲睦まじく平穏な暮らしをしていたが、俗に染まらない形姿が高値で売れると目論み深夜家に押し入った賊に襲われ、親は二人とも生きろと海介に言い残して命を奪われ、祖父の形見と三人で大事にしてきた刀の重さをものともせず怒る幼き海介は達者な腕とさばきで五人の賊を斬り殺した。海介は両親を丁重に葬りたかったけれども、急ごしらえの墓では到底善なる二人にそぐわないし息苦しかろうと思ったけれども、血を流す二人の身体を綺麗にするいとまも無く、泣きながら母と父を引き摺って海が望める家の庭の土に眠らせた。そして海介は、祖父の形見を唯一の御供に着の身着のまま夜が明けないうちに里を抜けた。里の住人は皆いいひとばかりだったが、最初は半信半疑でもじきに賊を返り討ちにした童が恐ろしくなるかもしれない、それでも人道にもとるとそんな自分をかなぐり捨ててきっと温かく受け入れてくれることを選んでくれるだろう、海介は解っていたがひとの優しさを受ける人殺しの自分を自分が受容できず、各地を渡り歩いていた。途上で風采を理由に立ち合った経験は数多ある、目的は生きることだけ、自分には自分が生きる意味は見出だせない、かといって自害するのは大好きな両親の願いを違える、ひとの道にまざり歩くふりをして息をする海介はえてしてひとに助けられ厚意に報いるためにひとの傍らに居付き、いよいよ目立ちが悪く作用してきたらひとの道筋を外れ、獣の道筋に立ち返る。反復する流れには、海介に想いを寄せた女の子たちがおり、海介はひとが嫌いな訳ではなかったけれど争いが絶えない身の上を鑑みれば連れることは論外で、それに、海介はひとを守り護ることにも限界があった、そもそも海介は死にたかった。守れるのは今日この瞬間のみ、護れるのは今日この己が身のみ、でなければ父と母をみすみす死なせようか! ひとをまもれる力があるなら、誰も息を絶やさないはずであった。海介は、ひととの先、未来を積極的に想像できない自分は、生きる素質に欠けていると思い定めていた。
男子が助けるくらいの目に遭ったことのなかった玉子は、男が海介の手に鍬を預けていずこかに帰っていってすぐ、一身を挺して仲裁してくれた海介に近寄り傷付いていないことを訊いて、よかった~ありがとう! と安心し笑みを浮かべた。海介は村で見掛けない玉子に以後まみえることは無いかと考えつつ、短く応じた。玉子は海介の言下に、キミみたいに強くなって、次は私がキミをまもるね! じゃあねっありがとう~と打ち笑んで掌をひらひらゆらし森の入口から奥方へ疾走してあっという間に見えなくなった玉子に、海介は呆気にとられた。
女の子に、自分をまもると言われた記憶はない。
約束じゃなく儀礼な挨拶であっても、海介はなんだかおかしくて微笑していた。だが、玉子は海介が刀を操れるとは存ざないのかもしれない、だとすれば当然だと海介は即座に笑いを引っ込めた。
玉子は沼のカワタロウを訪ねると海介との一件を落ち着いた笑み顔で、今日体を張って助けてくれたひとが居て、無傷でよかったけれど一歩間違えば危ないことをさせてしまったので自分も彼をまもれるほど強くなりたいとカワタロウに告げた。玉子が手渡した大好物の野菜に口をつけず耳を傾けていたカワタロウは、いつにも増して静かに強かに煌めいている玉子の澄んだ目に見入り、聴き終えたらうずうずして野菜を握る手を高らかに「がんばれっ、タマコー!」と全力で応援した。「うんっ! がんばる! カワタロウー!」玉子も嬉々として、カワタロウをゆうに超す大声で呼応し、大切な友人の名前に誓った。
故あって師事する人物を捜していた玉子は、月に一度、山の下手の港に停泊する船の客に柔術の玄人がいるらしいと友達に聞き及び、国を行き来していて定期で一週間村外れの家に独り住む当の男が戻るたびに熱心に頼み込み、礼節は弁えているもののあまりのしつこさと、キミがわざわざ守らなくても誰かがキミを守ってくれるとの男の質問に、はい。誰かをまもってくれる人をまもれるひとに、私は、そういうひとをまもれるように先生の柔術を学びたいんです! とまもるが連続する半ば言葉遊びだが渾身の答で男の心を折らせて、呑み込みのはやい玉子は、一ヶ月に一週間、時間にして六週間、期間にして半年で術を教わり、体得した。師が留守にしているあいだ指南してもらった柔術の訓練に真剣に取り組む玉子は、カワタロウと日常であったことをとても楽しく話し合う時も、森に食糧を調達に行く海介が目に留まり一度お礼に大量の野菜を渡してから頑なに畑仕事を手伝う海介と作業している時も、カワタロウと交友する自分を温厚に見守り「カワタロちゃん」の愛称で言う父親と母親が、まもるひとになりたいと柔術を極めようとしていると知りカワタロちゃんのためだろうかと心中で声援を送る時も、いかなる平常の時も、基礎の動きを取り入れるなど常々精神と肉体を鍛え抜き、努力を結実させた。
昼間に異変を察して、夜更けに村と道程を隔てた人気のない林道に足を向けた海介は、予想ぴったりに浪人に行き会わせたが、何故か玉子と玉子の師匠が参入し、戸惑う海介を置いて術技を用い襲撃した三人を撃退した。
海介がとみに驚いたのは、日頃鍛練していた玉子がまさか実戦に躍り出てきた意想外で、過日の「キミみたいに強くなって、次は私がキミをまもるね!」という言葉と行動をもっと重大に受け止めていなければならなかったと海介は悔い、幸運にも傷を負わなかった玉子に謝った。
「……すまない。お前を、巻き込んじまった……!」
ほうぼうで由の大小いかんなく、帯刀する者の目当てになり打ち合いをしてきたゆえんか、不必要に名の知られている海介の加勢に追い返されたとなれば、年も性別も関係なく相応の力がある仲間だと今後付け狙われるかもしれない。海介は玉子のような女の子を見聞きした試しはない。
女の子をまもるのが本来のオレの立場だと、海介は思唯している。
しかし、異性ということと意思を軽んじた結果が引き起こしたのだ、玉子の傍らでふりかかる危害を防ごうとしてこのまま留まればみんなに被害が出るやも知れない、しかし、無理矢理自分と放浪はさせられない、まもれない――玉子と玉子の面前で苦悶の面立ちになる海介の優美な肩に玉子は双手を緩やかに置いた。
「いや、キミをまもりたいっていう私の都合に巻きこんだんだ、キミを。……お昼、私はぜんぜんきづけてなくて、先生があのひとたちは今晩キミを襲う気だって教えてくれてね。キミのこともきいたよ。いっとき、先生の国にいたって」
玉子に素性は一切明かしていなかった海介は玉子の――己を除いた人間のきれいな手を咄嗟に退けようとしたが、肩を掴む玉子の掌は力強く海介をその場に縫い止め、身動ぎしかさせなかった。
「キミとわたし、友達だよね? だから、友達をまもりたいから、わたし、キミについていく!」
玉子は「友達だよね?」だけ自信なげに口にして熱く宣言しながら、詳しい事情は知らないが、相手を死なせない変わり者と有名で独を貫く海介の生を想うと知ったかぶって勝手に泣いてはいけないと自制するも、目と目を合わせている両眼より滂沱の涙を流していた。玉子と農作業をする海介は、誠実で世間ずれしていなくて、余裕で玉子が持ち運べる桶を無理してでも運ぼうとする、律儀でやさしい、ひとといるのが普通の青年だとしか、玉子には思えなかった。
