「ここまでよく頑張ってきました。今から駅伝の区間を発表します」

 十月、駅伝まであと三週間。練習を終えるとミーティングのためにグラウンドで円になり、佐溝先生が僕たちを見渡した。
 西原が退部した後は、誰も辞めなかった。誰ひとり欠けても駅伝に出られなくなる状況で、植木先輩が皆を支えてきた。
 長距離パートに残る七人全員が、選手として駅伝を走ることになる。
 植木先輩がエース区間の10kmで、五木と僕がその次に長い区間である8kmを走ることになった。
 あれだけ憧れていたはずの舞台に、チームの主力として走ることになるはずなのに、何の感慨もわかなかった。
 佐溝先生が各区間の特徴や走り方を説明するのを淡々と受け止める。
 ここに辿り着くために、佐溝先生が導くままに何もかも捨ててきた。身体を、心を、ただ走るためだけに最適化してきた。

「今日の時点で説明は以上ですが、何か質問はありますか?」
「一つ、よろしいですか?」

 植木先輩が手を挙げる。
 部員が減って大変な時も、植木先輩は長距離パート長として部を鼓舞し続けた。
 七人で踏みとどまったのも、植木先輩が果たした役割が大きいと思う。

「どうぞ」
「佐溝先生は、この駅伝で何を目指しますか?」

 植木先輩は真っすぐ佐溝先生を見ている。
 佐溝先生は微笑みを浮かべてその質問を受け止めた。

「優勝です」

 迷いなく言いきった。
 半年前なら、その言葉を信じることはできなかったと思う。チームの指揮を上げるためにカマしてると思っただろう。
 だけど今は迷いなくその言葉に頷くことができた。頷くことができるくらい、走る以外のことを棄ててきた。

「すみません。聞き方を変えます。先生は何のために優勝を目指すんですか」

 佐溝先生は今度は小さく顎に手をあてた。
 僅かな間、時が止まる。佐溝先生がこんな風に考え込む姿を見るのは初めてかもしれない。
 やがて、元の姿勢に戻った佐溝先生は笑っていた。
 その笑みに、薄ら寒さを感じた。それは、しばらく感じることの無かった有機的な感情だった。

「復讐ですよ」

 有機的な感情に引きずられるように息を呑む。
 佐溝先生は相変わらず笑っていた。

「別に隠してませんし、皆さんも僕の過去は知ってるでしょう。これは、僕を追放した陸上界への復讐なんです。僕のやり方は間違ってなかったと、叩きつけてやりたいとずっと思ってました」

 走る以外のことは全て切り捨ててきたつもりだった。
 だけど、佐溝先生の言葉に思わず拳に力が入る。そんなことの為に、みんなは、西原は、部活を辞めていったのか。
 その為に、僕たちは全てを切り捨てて走ってきたのか。
 ああ、そっか。一年生が退部していった時に「またか」としか感じていなかった僕にも、まだこんな感情が残っていたんだ。

「正直に答えていただきありがとうございます。よくわかりました」
「これで満足ですか。植木君?」
「あと一つだけ」

 そう答えて一歩前に出た植木先輩は、佐溝先輩に背を向けると僕たちに深々と頭を下げた。突然の植木先輩の行為に戸惑っている間も、植木先輩は頭を下げ続けた。
 十秒くらい頭を下げ続けてから顔を上げた植木先輩は、ぎゅっと口元を引き締めて、佐溝先輩に向き直る。

「俺は今日、陸上部を退部します」

 意味が分からなかった。なんで、ここまできて。それも、植木先輩が。

「なるほど。それが、君の復讐ですか」

 佐溝先生は微かに目を細めて、植木先輩をじっと見る。

「黒川や菊池と約束したんです。お前らの悔しさは俺が晴らすって」

 退部した黒川先輩が部室に現れたとき、植木先輩は確かにそう伝えていた。
 その時は、走れなくなった黒川先輩の分まで植木先輩が走るってことかと思っていた。
 だけど、そうじゃなかった。

「黒川から先生の過去に何があったか聞いた時、先生が何を目指しているかわかりました」
「それでも、君は部員を鼓舞し続けた」

 佐溝先生の言葉に頷いた植木先輩は、ちらりと僕たちの方を振り返った。

「黒川たちの悔しさを晴らすには、駅伝で優勝できるかもって先生に思わせたところで、全て狂わせてやる必要があると思ったので」
「そのために後輩たちを利用した。植木君、君も大概狂ってますね」
「責任は取ります。俺はもう、二度と陸上競技に関わりません」

 そんなこと、僕たちは望んでいない。
 だけど、何を伝えればいいかわからなかった。何も考えずに走ってきた僕には、目の前で繰り広げられている出来事は感情も理解も追いつかせることができなかった。
 腕を組んだ佐溝先生は軽く目を閉じて小さく息をつく。

「僕には目の前の優勝よりも友情なんてものを優先する君の気持ちはわかりません。ですが、いいですよ。どのみち、僕に退部を引き留める権限はありませんから」

 待ってくれ。引き留めてくれ。そうしないと僕たちは駅伝を走れない。
 そう思った瞬間、黒川先輩や西原たちの顔が思い浮かぶ。
『このまま続けてたら、本当におかしくなっちまう。昔の佐溝先生みたいに誰かを潰すかもしれない。だから、俺はここまでだ』
 合宿の日の西原の言葉が蘇る。
 ああ、そっか。今更そんなことを願う資格なんて、僕たちはとっくに失っているのか。
 この人についていく間に、僕もとっくに狂っていたんだ。

「悪い。俺のことはどれだけ恨んでくれても構わない。個人種目でお前たちが活躍する姿を楽しみにしてる」

 植木先輩は僕たちに向き直ると、もう一度深々と頭を下げた。そして、二度と振り返ることなく去っていく。
 僕たち六人と佐溝先生は取り残された。駅伝までは後三週間。どうあがいても出場は難しい。仮に一人選手を連れてきて出場できたとして、エースだった植木先輩なしでは大した成績も見通せない。
 こうなってもなお、成績のことなんて考えてる自分に笑ってしまう。

「さて、どうやらここまでのようですね」
「ここまでって、そんなあっさり……!」

 五木が佐溝先生に詰め寄ってその胸倉をつかみ上げた。西原が辞めたあと、五木は西原の分まで頑張ると練習に打ち込んできた。それ以外のすべてを切り捨てて。

「やめておきなさい」
「俺は、俺たちは何のために、ここまでっ……!」
「君たちにはまだこの先も走ることができる道が続いています。僕なんかのために、こんなところでみすみす潰したくないでしょう?」

 一瞬怯んだ五木の手を払いのけると、佐溝先生は僕たちの前に立った。
 その瞳はどこか観念したような、それでいて清々したような色味を帯びていた。
 本当にこれで終わりなんだ。全身から力が抜け落ちていく。

「今更、僕が何を言ったって耳を貸したくないかもしれません。ですが、最後に一つだけ――」