「駅伝まであと二ヶ月と少し。この夏にどれだけ走りこめるかで、結果が大きく変わってきます。ですので、走りやすい高地で合宿を行います」

 夏休みに入ると、合宿が始まった。
 去年は三泊四日の合宿だったけど、今年は長距離だけは佐溝先生が手配した合宿所で三週間の合宿だった。
 それで、三年生が二人辞めた。受験勉強のためだった。
『勉強はいつでもできますが、走るのは今しかできないことですよ』
 受験勉強の為に合宿を辞退したいと申し出た先輩たちに、佐溝先生はそう語りかけ、合宿に参加しないなら退部するよう迫った。
 部員は残り八人。三年生が三人と二年生が三人、一年生が二人だった。
 いよいよ、合宿前に西原が言っていたことが現実味を帯びてきた。五木と話していた通り、今年の駅伝で活躍して新入部員を集めないと、来年は人数の問題で走れないかもしれない。

「十月になったらもう追い込むような練習はできません。だから八月は徹底的に追い込みます」

 佐溝先生が宣言した通り、合宿の練習はハードだった。クロスカントリーコースを午前も午後もひたすらに走り込む。四月に戻ったような距離を踏む練習だった。四月と違うのは、僕たちは遥かに速いペースで長い距離を走れるようになっていた。
 夜は筋トレや座学、ミーティングをして就寝。人里離れた山奥で、ただ陸上だけに取組む日々。そこには、彼女とか、友だちとか、勉強とか、そんな陸上以外の要素は何も存在していない。

「おい、相良、起きろ」

 合宿か半分くらい終わった夜、疲れ果てて眠っていたところを五木に起こされた。
 段々と意識がハッキリとしてきて、暗い部屋の中で五木が焦った顔が見えてきた。頭を動かして時計を見ると、まだ朝の三時だった。

「どうしたんだよ……。まだ、夜中じゃん」
「西原がいないんだよ」
「トイレとかじゃないの?」
「三十分前からずっと戻ってこない」

 ハッと身体を起こして、部屋の電気をつける。西原が寝ていたベッドはもぬけの殻となっており、荷物も全て無くなっていた。荷物を持っていくような場所。まさかこんな夜中に練習なんて行くはずがない。それなら、行先は。

「五木。この辺りにバス停ってあったっけ?」
「ここ、電波が入らねえから調べられねえんだよ」
「ロビーに地図がなかったっけ」

 五木と頷き合って、そっと部屋を抜け出しロビーに向かう。電波が入らないけどスマホは懐中電灯代わりになった。合宿所の入口には予想通りこの辺りの地図が載っていて、山道を下ったところにポツンとバス停があるようだった。
 問題はバス停が合宿所から反対方向に二つある。距離は同じくらい。西原はどちらに向かったのか。

「二手に分かれよう」

 合宿所を飛び出した僕たちは反対方向に走りだす。バス停までは走れば十分ほどの距離だ。
 それでも、暗い夜道を慎重に走ったことと、昼間の練習の疲労が溜まっているから倍くらいの時間がかかってしまった。
 すがるような思いでたどり着いたバス停には、3週間分の大きな荷物を抱える人影が見えた。

「西原!」

 声を掛けると人影が立ち上がる。バス停の小さな街灯に照らされた人影は西原だった。

「西原、なんでこんな――」
「悪い、相良。俺、朝イチのバスで帰るわ」

 西原は困ったように笑ってバス停の時刻表を指さした。一日二本だけ走っているバスは後三時間くらいしたらこの場所にやってくるらしい。

「何かあったのか? 僕たちが先生に説明するから……」

 こんな夜中に抜け出すくらいだ。なにか事情があるのかもしれない。それを説明すれば、いくら佐溝先生だってわかってくれるはずだ。
 だけど、西原は力なく首を横に振った。

「何もないよ。ただ、このままここで走ると、何だか壊れちまいそうで」
「どこか、怪我したのか?」
「別に。身体が頑丈なのくらいが俺の取り柄だしな」

 だからここまで練習についてこられた、と西原は自嘲気味に笑う。
 なら、壊れるって何なんだ。尋ねる前に西原が口を開く。

「頭がおかしくなりそうなんだ。高校生っぽいこと全部捨てて陸上だけに打ち込んで。だけど、このままだと俺は駅伝を走れない」

 西原の5000mのタイムはチームで八番目だった。駅伝で走れるのは七人だから、このままじゃ補欠となり、選手として走ることはできない。タイムだけで全てが決まるわけではないけど、タイム差を覆すだけのものを今の西原が持っているかというと。

「走れないことは、別にいいんだ。そういう世界だってのは、わかってるよ。だけど、昨日の練習の時思っちまったんだ。『どうしてこんなに頑張ってるのにダメなんだ。こいつさえいなければ俺が走れるのに』って」

 思わず、西原をじっと見てしまう。無意識のうちにゴクリとつばを飲み込んでいた。
 西原は気のいいやつで、後輩からも慕われていた。この前だって、僕や五木より先に一年生が辞めることを知っていたのは、西原のそういう一面と無関係ではないだろう。
 その西原が、そんなことを考えるなんて。本人から聞いても信じることができなかった。

「このまま続けてたら、本当におかしくなっちまう。昔の佐溝先生みたいに誰かを潰すかもしれない。だから、俺はここまでだ」
「そんな……」

 荷物をバス停のベンチに置いて立ち上がった西原が僕の肩をポンポンと叩く。それは一ヶ月ほど前の黒川先輩と植木先輩のやり取りを思い起こさせた。
 ここまできつい練習を一緒に乗り越えて来たのに、本当にここで終わりなのか。

「あのさ、相良」
「うん」
「今年、悔いが残らないくらいに走れよ。来年はどうなるかわかんないんだから」
「何、言って……」
「多分このチームは、来年まで持たないよ」

 西原の言葉を笑い飛ばすことはできなかった。
 西原がこのまま合宿から去れば、佐溝先生は西原を退部させるだろう。西原だって端からそのつもりだ。
 駅伝で頑張って活躍すれば、陸上部に入りたいという新入生が増えるだろうと思っていた。
 だけど、本当にこんなチームに入りたいと――入ってからも続けてくれる人などいるんだろうか。

「さ、そろそろ合宿所に戻れよ。相良まで佐溝先生から大目玉喰らっちまう。こんなこと言うのは勝手かもしれないけど、俺の分まで頑張ってくれよ」

 そこからどのように合宿所まで戻ったかはよく覚えていない。何か聞きたそうな顔で待っていた五木に「西原は戻ってこない」と伝えたことだけは覚えてる。

 それからは、心を全てシャットアウトした。辛いとか悲しいとか、そんなことを考えないように。ただ、タイムだけと向き合って走り続けた。そうしている間だけは、辞めていった人たちのことを考えなくていいから。

 もう、何のために駅伝を走りたいと思っていたかもわからないけど、ただひたすらに走り続けた。