退部した黒川先輩が練習後の部室に現れたのは、地方大会が終わった六月の終盤だった。

「黒川先輩!?」

 昔と同じように何食わぬ顔で部室に入ってきた黒川先輩は、思わず声をあげてしまった僕に人差し指を立てて静かにするよう促した。
 ちらりと部室の外の様子を伺っている。当然かもしれないけど、佐溝先生には見られたくないんだろう。

「総体お疲れさん。大活躍だったじゃねえか」

 ニッと笑った黒川先輩は、県予選で決勝に進んだ五木や僕、先週地方大会を走った――残念ながら決勝に一歩届かなかった――植木先輩に順に視線を送る。
 一応頭を下げてみるけど、そんなことを言うために黒川先輩がわざわざ部室に来たわけではないことは明らかだ。

「残ってるのは長距離パートだけだな。まあ、毎日遅くまでよく頑張ることで」
「黒川。わざわざそんなこと言いに来たのか?」

 植木先輩の視線が鋭く黒川先輩を射抜く。
 まさか、と黒川先輩は大仰に両手を広げてみせた。

「お前ら、いつまであんなコーチの下で走ってるんだよ」
「最初は何て先生だと思いましたけど、結果はちゃんと出てます」

 五木が一歩前に進み出る。
 そんな五木に呆れたような視線を送った黒川先輩はポケットからスマホを取り出して操作する。辞めた人も残ったままの長距離パートのSNSのグループチャットにメッセージが送られてきた。何かの記事のようだ。

「佐溝は正真正銘のクズだ。あんな奴の下で走ってたら、お前らまでクズになるぞ」

 黒川先輩が送ってきた記事は、数年前のスポーツニュースだった。
『一年生から主力としてチームを牽引した佐溝圭介だったが、三年生に上がって以降は公式大会に出場していない。佐溝は自分にも他人にも厳しいことで有名だが、シードを逃した二年の駅伝以降はより一層苛烈になり、精神的に追い込まれた後輩が引退する事態が続いたため――』
 記事が取り上げているの佐溝先生だ。記事に書かれていることが事実なら、大学時代の佐溝先生は陸上部を追われたことになる。悪い意味で腑に落ちた。黒川先輩を退部させ、他の部員が引退するときも引き留める素振りすら見せなかった佐溝先生の姿が記事の内容に重なる。

「なあ、いいのかよ、植木。こんなところで結果出したところで、いつかどこかで汚点になるぞ」

 大きく目を見開いた黒川先輩が植木先輩に詰め寄る。
 いつか、佐溝先生の正体に気づいた人がその過去を暴露するかもしれない。その人がコーチのチームで成績を伸ばした僕たちはあることないこと疑われるのかもしれない。
 どれだけ関係ないと言いはったところで――いや、黒川先輩たちの退部を黙って見送った僕たちは、関係ないなどと言えるのだろうか。

「言いたいことは、それだけか?」
「それだけかって……」

 目の前まで詰め寄ってきていた黒川先輩を、植木先輩は静かに、だけど力強く押し返す。

「俺には俺の目的がある。だから、俺はここにいる」
 
 静かに言い放つ植木先輩に、黒川先輩の拳がギュッと握りしめられる。行き場のない憤りがその拳の先に宿っているようだった。植木先輩の視線はその拳をじっと見ている。まるで、その全てを刻み込もうとしているかのように。

「お前はっ……! それでいいのかよ!」

 なおも詰め寄ろうとする黒川先輩に肩に、ポンと植木先輩の手が置かれる。

「お前の悔しさは、俺が晴らすさ」

 植木先輩の視線は揺らぐことなく黒川先輩をまっすぐ見据える。
 植木先輩は走ることの出来なくなった黒川先輩達の分まで背負って走るつもりなのか。でも、練習やレースでの鬼気迫る様子を思えばそれも納得だった。
 それでも黒川先輩は納得がいかない様子だったけど、やがてハッと息を吸う音が静まり返った部室に大きく響いた。黒川先輩の目が小さく見開かれたかと思うと、その顔に力のない笑みが浮かぶ。

「ああ、そういうことかよ」

 黒川先輩はそっと植木先輩の手を払うと、代わりにさっきまで震わせていた拳を解いてパンパンと植木先輩の肩を叩く。ちらりと部室の僕たちを見渡すと、そのまま背を向けて小さく手を振り部室を出て行った。
 ドアの外からは、初夏の夜の生ぬるい風が部室に入り込んできた。