正式にコーチに就任した佐溝先生がまず僕らに課したメニューは、走る理由を考える必要がないほどの走り込みだった。
ペース走や15km以上のジョギングなど、スピードよりひたすら長い距離を走ることを優先され、練習が終わる頃には歩くのも億劫になるくらいだった。
ただ、少しずつ身体が走ることに洗練されていく感覚があった。同じ練習をしても、昨日より今日の方が楽になる感じ。成長している実感があるから、しんどい練習でもなんとか耐えることができた。
「これを乗り切れば、きっと俺たちは強くなれる」
そんな植木先輩の言葉も僕たちを支えてくれた。僕たちは一丸となって佐溝先生のメニューに食らいつき、春休み明けに五木が言ってた「駅伝で大活躍しちまうかも」が現実味を帯びた気がした。
練習が終わればいつもくたくたでへろへろで、でも明日成長している自分が楽しみで、いつとどこかでソワソワして、ワクワクしてた。
それに、初日から厳しい言葉を投げかけてきた佐溝先生だったけど、翌日からは穏やかな先生に戻っていた。
「無理する必要はありませんよ。怪我をしてもいけませんからね」
ハードなメニューだったから、練習についていけなくなる部員も出てきたけど、佐溝先生はそんな部員に優しく笑いかけていた。
もしかしたら、初日の厳しい言葉は、歳が近い僕たちに舐められないようにするための“カマシ”だったのかもしれない。初日に西原が感じたという違和感も、佐溝先生に向けたものというより、コーチが練習を見ているという慣れない環境のせいだったのかもしれない。
「この連休をどう過ごすか。十月の駅伝まで効いてくるポイントとなりますから、頑張っていきましょう」
ゴールデンウィークに入ると、練習は午前午後の二部練になった。それも、毎日休みなし。
強くなっている実感がなければ、とても練習についていけなかったと思う。逆に言えば、四月からの一ヶ月でちゃんと伸びている実感があるから、しんどいと思いつつ練習を続けることができた。
まあ、休日だからって、どこかに一緒に出掛けるような彼女もいないのだけど。
「あの、佐溝先生。俺、明日の練習、休みます」
ゴールデンウィークも中盤に差し掛かった頃、練習後に三年生の黒川先輩が申し出た。ニコニコとデレデレが合わさったような黒川先輩の笑みに僕たちは何となく事情を察する。
「どうかしましたか?」
「実は明日、彼女が遊びに来るんです」
黒川先輩は中学時代の同級生と付き合っていて、彼女は親の仕事の都合で高校入学と同時に隣の県で暮らしているらしい。去年、デート中の黒川先輩に出くわしたことがあるけど、普段は厳つい雰囲気のある先輩がデレデレだった。
「正月以来会えてなかったんで、久しぶりで。だから、すみませんけど」
軽く頭を下げる黒川先輩を数秒見つめた佐溝先生はふっと笑みをこぼした。
「わかりました。それなら来なくていいですよ」
「ほんとすみません。その分、明後日は頑張りますんで!」
「いえ、来なくていいです」
それまで明るかった空気が、佐溝先生の念押しのような言葉にザワリとする。佐溝先生は笑っているけど、その声は氷のように冷たい。何かがおかしい。
「えっと……?」
「もう来なくていい、と言ったんです」
首を傾げる黒川先輩に佐溝先生が畳みかけた。
「練習より恋人を優先するような人は、僕のチームには必要ありません。どうぞ彼女といくらでも仲良く過ごしてください」
「ま、待ってくださいよ! 一日休んだくらいで……!」
「一日休むと、取り戻すのに三日かかると言います。『一日休んだくらい』なんて思っている時点で、君には走る資格はありません」
空気がピリピリとひりつく。突然の豹変に初日には前に出た植木先輩も何も言えないようだった。そんな中、佐溝先生が黒川先輩に詰めよった。
「だいたい、黒川君は練習中も足が痛いとか、腰が痛いとか言って途中でメニューを辞めることが多かったですよね。そういう自分に甘い人は、長距離に向いてないんですよ」
その言葉にゾワリとした。メニューを途中で抜ける人を笑って受け入れて何も言わないのは、優しさだと思っていた。
違う。その時点で、佐溝先生の中で切り捨てられていたんだ。だから厳しいことも言われない。優しさの裏返しは、厳しさではなく"無関心"。
「何か、言いたいことはありますか?」
口調だけは穏やかなままだった。でも、その問いかけには、最後通牒のような冷たさしか含んでいない。
「……いえ、なにもありません」
翌日、黒川先輩は練習に来なかった。
その翌日も、さらに次の日も。ゴールデンウィークが終わってからも黒川先輩が陸上部に顔を出すことはなかった。
ペース走や15km以上のジョギングなど、スピードよりひたすら長い距離を走ることを優先され、練習が終わる頃には歩くのも億劫になるくらいだった。
ただ、少しずつ身体が走ることに洗練されていく感覚があった。同じ練習をしても、昨日より今日の方が楽になる感じ。成長している実感があるから、しんどい練習でもなんとか耐えることができた。
「これを乗り切れば、きっと俺たちは強くなれる」
そんな植木先輩の言葉も僕たちを支えてくれた。僕たちは一丸となって佐溝先生のメニューに食らいつき、春休み明けに五木が言ってた「駅伝で大活躍しちまうかも」が現実味を帯びた気がした。
練習が終わればいつもくたくたでへろへろで、でも明日成長している自分が楽しみで、いつとどこかでソワソワして、ワクワクしてた。
それに、初日から厳しい言葉を投げかけてきた佐溝先生だったけど、翌日からは穏やかな先生に戻っていた。
「無理する必要はありませんよ。怪我をしてもいけませんからね」
ハードなメニューだったから、練習についていけなくなる部員も出てきたけど、佐溝先生はそんな部員に優しく笑いかけていた。
もしかしたら、初日の厳しい言葉は、歳が近い僕たちに舐められないようにするための“カマシ”だったのかもしれない。初日に西原が感じたという違和感も、佐溝先生に向けたものというより、コーチが練習を見ているという慣れない環境のせいだったのかもしれない。
「この連休をどう過ごすか。十月の駅伝まで効いてくるポイントとなりますから、頑張っていきましょう」
ゴールデンウィークに入ると、練習は午前午後の二部練になった。それも、毎日休みなし。
強くなっている実感がなければ、とても練習についていけなかったと思う。逆に言えば、四月からの一ヶ月でちゃんと伸びている実感があるから、しんどいと思いつつ練習を続けることができた。
まあ、休日だからって、どこかに一緒に出掛けるような彼女もいないのだけど。
「あの、佐溝先生。俺、明日の練習、休みます」
ゴールデンウィークも中盤に差し掛かった頃、練習後に三年生の黒川先輩が申し出た。ニコニコとデレデレが合わさったような黒川先輩の笑みに僕たちは何となく事情を察する。
「どうかしましたか?」
「実は明日、彼女が遊びに来るんです」
黒川先輩は中学時代の同級生と付き合っていて、彼女は親の仕事の都合で高校入学と同時に隣の県で暮らしているらしい。去年、デート中の黒川先輩に出くわしたことがあるけど、普段は厳つい雰囲気のある先輩がデレデレだった。
「正月以来会えてなかったんで、久しぶりで。だから、すみませんけど」
軽く頭を下げる黒川先輩を数秒見つめた佐溝先生はふっと笑みをこぼした。
「わかりました。それなら来なくていいですよ」
「ほんとすみません。その分、明後日は頑張りますんで!」
「いえ、来なくていいです」
それまで明るかった空気が、佐溝先生の念押しのような言葉にザワリとする。佐溝先生は笑っているけど、その声は氷のように冷たい。何かがおかしい。
「えっと……?」
「もう来なくていい、と言ったんです」
首を傾げる黒川先輩に佐溝先生が畳みかけた。
「練習より恋人を優先するような人は、僕のチームには必要ありません。どうぞ彼女といくらでも仲良く過ごしてください」
「ま、待ってくださいよ! 一日休んだくらいで……!」
「一日休むと、取り戻すのに三日かかると言います。『一日休んだくらい』なんて思っている時点で、君には走る資格はありません」
空気がピリピリとひりつく。突然の豹変に初日には前に出た植木先輩も何も言えないようだった。そんな中、佐溝先生が黒川先輩に詰めよった。
「だいたい、黒川君は練習中も足が痛いとか、腰が痛いとか言って途中でメニューを辞めることが多かったですよね。そういう自分に甘い人は、長距離に向いてないんですよ」
その言葉にゾワリとした。メニューを途中で抜ける人を笑って受け入れて何も言わないのは、優しさだと思っていた。
違う。その時点で、佐溝先生の中で切り捨てられていたんだ。だから厳しいことも言われない。優しさの裏返しは、厳しさではなく"無関心"。
「何か、言いたいことはありますか?」
口調だけは穏やかなままだった。でも、その問いかけには、最後通牒のような冷たさしか含んでいない。
「……いえ、なにもありません」
翌日、黒川先輩は練習に来なかった。
その翌日も、さらに次の日も。ゴールデンウィークが終わってからも黒川先輩が陸上部に顔を出すことはなかった。



