四月。高校二年の始業式。
 橋本大輝(はしもと・だいき)は、新しいクラスの席に腰を下ろしていた。特に興奮も緊張もない。ただ「また一年が始まるのか」と億劫な思いが、胸の奥にかすかな溝をつくるような感覚。それが彼にとっての当たり前だった。

 「次は……橋本大輝、いるか?」

 出欠を取る声に、橋本は黙って手を挙げる。担任は今年から本校に赴任したという男性教師――小山陽介(こやま・ようすけ)、年齢は三十歳くらいだろう。短い髪と細い体躯のわりに、目が妙に大きい。全体的に落ち着きがないように見えるが、笑うと無邪気な感じがする。

 「橋本大輝……はい、確認。よろしくな」

 小山は黒板に自分の名前をさらりと書き、「俺は小山。今日からここの担任だ」と簡単に自己紹介をした。続けて彼はこう言った。

 「みんな、これから一年間一緒にやっていくけど、まずは気楽にいこう。学校っていろいろ窮屈なこともあるだろうが、ここにいる間はあまり身構えなくていいからな」

 小山の声はどこか楽しそうだが、橋本にはそれが少し不可解だった。学校が窮屈だと思う教師は少なくないかもしれないが、これほどあけすけに口にする教師は珍しい。クラスの生徒も戸惑い気味で、教室全体がややざわつく。

 「えっと……とりあえず、自己紹介はこのへんでいいよな。じゃ、出席番号順に呼ぶから返事だけしてくれ。あとの時間は自由に過ごしていいから」

 それだけ言うと、小山は淡々と名前を読み上げていく。なんだか拍子抜けするほどあっさりした始業式だった。
 橋本は窓の外を見る。先ほどまで吹いていた風が、急に止んだように感じる。静寂が耳に広がり、自分と教室の間に薄いガラスでもあるような疎外感。どこか居場所のないこの感じは、中学以来ずっと変わらない。

 (担任が誰だろうと、特に関係ないか)

 そう思いながら、彼は手元の教科書を捲ってみる。高校生活はあと二年あるが、新しい友人をつくる気力もとっくに萎えていた。何もかも、面倒くさいのだ。


 始業式から数日後の昼休み。
 橋本は教室を出て、高校の食堂で一人昼食をとることが多い。購買でパンを買い、食堂の隅のテーブルで黙々と食べる。それがルーティンになっているからだ。
 この日もいつもの席で、カツサンドを噛みしめていると、不意に「あれ、橋本だよな?」という声が頭上から降ってきた。顔を上げると、小山がトレーを片手に立っている。買ったばかりらしいうどんが湯気を立てている。

 「先生……どうしてここに」

 教師が食堂で昼を食べるのは珍しくないが、担任が生徒の隣にわざわざ現れると、少しびっくりする。小山は「よいしょ」と言って橋本の向かいに腰を下ろした。

 「職員室が居づらくてな。たまには生徒と同じものを食べようと思っただけさ。まあ、他の先生たちからは『落ち着きがない』って思われてるだろうけど」

 そう言いながら、小山は笑う。うどんの湯気が彼の顔を白く包む。橋本は軽く相槌を打つしかない。すると、小山は箸を手に取る前に、湯気をじっと見つめながら言った。

 「これ、『あったかミスト』って名前をつけるとして、もし橋本がお湯の湯気に名前をつけるならなんて呼ぶ?」

 橋本は急に何を言われているのかわからなくて、まばたきを繰り返す。

 「お湯の……湯気、ですか?」
 「そう。俺はこういう『名前のないもの』に名前をつけるのが好きなんだ。見てみろよ、湯気ってあっという間に消えてしまう儚い存在だろ? だから『あったかミスト』と呼んであげるだけで、ちょっと大切に思えてくる」

 冗談半分かと思いきや、小山の表情は意外に真剣だ。橋本は答えに窮して「いや……わからないです」とだけ返した。
 小山は気を悪くすることもなく、「そっか、気が向いたら考えてみてくれ」と言って、うどんの汁をすすり始める。

 「担任の先生って、大変じゃないんですか?」橋本は気まずさを紛らわすように声を出した。
 「うん、まあ大変だな。だけど、それは仕方ない。逆に言えば、生徒のいろんな顔を見る面白さもあるってことだからな」

 そう言いつつ、小山は箸を止めて、何やら考えるように天井を仰ぐ。それからふいに、足元をすっと伸ばすような仕草をした。机の下でぶつかったのか、小さな金属音が鳴る。

 「あ、ぶつけちゃった。くそ……今の痛みは『床に置き忘れた鉄』とでも呼べるかな。はは、痛ってぇ」

 あまりにもトンチンカンなことを言うので、橋本は思わずクスッと笑いかける。小山はその笑顔を見て、やや嬉しそうに目を細めた。しかし橋本は慌てて表情を引き締める。こんなふうに担任と打ち解ける気はないのだ。
 食事を終えると、小山は「じゃあまたな」と言って早々に立ち去った。橋本は残されたカツサンドを見つめながら、湯気に名前をつけるという奇妙な行為が頭から離れなかった。


 新学期の時間割が落ち着いてくると、小山が担当する国語の授業が始まった。
 国語教師としての小山は、見た目に反してわりとオーソドックスな授業をする。教科書の本文を読んで、要点を解説し、ノートを取らせる。だが、ところどころで突拍子もない例え話を挟むので、クラスメイトたちは最初面食らっていた。

 「この文章で筆者が言いたいことは、『一度失われたものは二度と戻らない』ということかもしれない。たとえば……そうだな。アイスのフタの裏にこびりついたアイス、アレに名前がないのは寂しいだろ? あれは一度フタを外した瞬間にすでに失われたもの、みたいなもんだ。うまくすくい取れないでしょ?」

 生徒たちからクスクス笑いが起きる。呆れる者、興味を持つ者、それぞれだ。橋本は静かにノートを取りつつ、小山を観察した。
 (やっぱりこの人、普通じゃないな)

 そう感じながらも、その“普通じゃない”部分にどこか惹かれる自分がいる。小山は失われやすいものを掬い取ろうとしている――そんな印象を受けるのだ。
 授業が終わると、クラスメイトの何人かが「小山先生って、なんかおもしろいよね」と言い合っているのが聞こえてきた。橋本は自分からその輪に加わることなく、鞄を肩にかけて廊下へ出る。少しでもクラスの雑談から離れていたいのだ。
 すると、廊下の突き当たりに小山が立っているのが見えた。すでに次の授業へ向かうはずの時間なのに、何をしているのだろう。
 近づいてみると、小山は廊下の壁に貼られている掲示プリントを眺めている。生活指導の先生が作ったらしい「規律正しい生活を!」という文言。そこには罰則や注意事項がズラズラと書かれているが、小山は楽しそうにそれを見つめている。

 「先生、次の授業始まりますよ」
 「ああ、悪い悪い。いまこれ見てたんだ。“規律正しい生活を”……ほら、こういうのも名前のない概念じゃないか。『規律正しい生活』って具体的になんだ? どこからどこまでが正しいのか、線引きは人によって違うだろう」

 妙なことを言いながら、小山はペンでその掲示を指す。

 「たとえば俺なら、これを『くたびれた怒り』って名づけたくなるな。誰かが怒られ続けて疲れてきたときに生まれる言葉っぽい、と思わないか? いや、ごめん、ちょっと変な発想だよな」

 橋本は言葉を失った。小山はなぜ「名前のないもの」に名づけたがるのか。それも“湯気”や“アイスのフタ裏”など、誰も注目しない些細なものに。
 ただ、ひとつだけ言えるのは、橋本がその行為に対して「嫌悪感を抱かない」ということだ。それどころか、少し羨ましいような気もしていた。


 橋本には、ずっと言葉にできない感情があった。中学の頃、親しかった友人と些細なすれ違いで疎遠になり、それ以来、自分をさらけ出すのが怖くなった。と同時に、どこかで「他人なんて、どうせわかりあえない」とも思うようになったのだ。
 その結果、橋本の高校生活は常に一歩引いた場所にあった。クラスメイトとは当たり障りのない会話しかしないし、部活動にも所属しない。放課後は真っ直ぐ家に帰って、音楽を聴いたり動画を見たりして過ごす。それで不自由はないと思っていた。
 だが――。
 最近、小山と関わるようになってから、心の奥で何かがうずき始めている。自分自身も「何かに名前をつける」ことで、心を動かすことができるのかもしれない。そんな淡い期待が顔を覗かせるのだ。
 けれども、橋本はそれをうまく表現できない。ただ、生徒手帳の余白に走り書きしてみた。「夕方の校舎の匂い=『帰り道の合図』」……など、真似事のような言葉を綴ると、少しだけ気が紛れる。これは小山の影響だろうかと思うと、気恥ずかしさが先に立ってしまう。


 ある日の放課後。橋本はいつものように教室を出て、下駄箱へ向かう階段を降りていた。その時、不意に足の小指を段差に激しくぶつけてしまった。
 「――っ!?」

 激痛が走り、思わずうずくまる。見ると小指の先がじわりと熱をもっている。大声を出すわけにもいかず、少しその場で耐えるしかない。
 すると背後から小山が降りてきた。見かけた橋本の姿に気づいて「大丈夫か?」と駆け寄る。だが次の瞬間、小山はいつもの調子で言った。

 「おっと、それは“急にやってくる暗い稲妻”だな。痛いだろう?」
 「……先生、そんなこと言ってる場合じゃ……」

 涙目になりながら橋本は苦笑する。痛みを抱えた自分にそんなことを言うか、と呆れそうになるが、一方で不思議と痛みが和らぐような気もした。“痛みそのものに名前をつける”という発想が、なぜか橋本の心をくすぐる。
 「急にやってくる暗い稲妻」、確かに形容は的を射ている。あの突然のチクリとした衝撃は、小指を狙い撃つ稲妻のようだ。
 小山は橋本を支えながら階段を降り、廊下の椅子に座らせる。生徒指導室の前にある殺風景な椅子だが、ここに腰掛けると微妙に落ち着かない。

 「大丈夫そうか? しばらく冷やしてみろよ。といっても、保健室に行くほどでもないかもしれないけど、一応念のためにな」
 「……はい。ありがとうございます」

 橋本はうつむきながら答えた。痛みの峠は越えたようだが、まだじわりと熱を持っている小指をかばうように靴を脱ぐ。すると小山は目を細め、まるで宝石でも見るような目つきで小指をちらっと覗き込んだ。

 「ほんとに青くなってるな。……いま君が感じてるその痛み、もし自分で名前をつけるなら何になると思う?」
 「え?」
 「いや、“暗い稲妻”は俺の主観だから、橋本は橋本で別の名前があるかもしれないだろ?」

 橋本は戸惑う。痛みに名前をつけるなんて発想、まともな人ならしない。だが、小山の問いかけには真剣味があった。
 (なんだろう――この感覚、どう表す?)

 「……“か細い槍”とか? 突き刺さるって感じなんで」
 声に出してみると、あまり格好がつかない。恥ずかしくて顔が火照る。
 だが小山は「いいじゃないか、か細い槍か」と頷く。その表情には確かな喜びが見て取れた。

 「橋本、いいネーミングセンスだよ。痛みって意外と無視されがちだけど、本当は名前をつけるに値する主張を持ってるんだ。俺はそう思うんだよね」

 その言葉に、橋本の胸は微かに震えた。自分が何気なく答えた言葉が、小山にとっては価値のあるものだと言われた。単なる“痛み”を特別視することで、一瞬、痛みと友達になれそうな気さえしてくる。
 結局、この日の帰り道で足の痛みはひくどころかじんじんと残ったが、橋本は不思議とその痛みが嫌ではなかった。「か細い槍」という名前がついたからかもしれない、と彼は思った。


 次の日の朝、橋本は小山に「昨日はありがとうございました」とお礼を言おうと職員室を訪ねたが、小山は不在だった。どうやら早めに出張の会議があるらしい。
 少し肩透かしを食らったような気分で教室に戻ると、クラスメイトの数人が喧噪を繰り広げている。ちょっとしたイタズラがエスカレートしたらしく、誰かが怒鳴り、誰かが笑い声を上げる。その輪から外れている橋本は、ただカバンを席に置き、窓の外へ視線を向ける。
 そのとき、急に胸が締め付けられる感覚がした。“自分はこの教室で孤立している”という事実を、改めて思い知らされたからだろう。
 (こんなとき、あの先生ならどうするんだろう)

 小山がいるわけでもないのに、そんなことを考えてしまう。名前のない疎外感を、もし小山ならどんな名前で呼ぶだろう。
 “みぞれの気配”“薄暗いガラス越しの世界”、あるいはもっとトンチンカンな名前かもしれない。
 橋本は、そのどうしようもない居心地の悪さを、一言で言い表せないもどかしさを抱えたまま、ホームルーム開始のチャイムを聞いた。


 放課後、橋本は一人で校内をぶらついていた。足の小指はまだ少し痛むが、歩けないほどではない。自宅に帰っても特にやることはなく、なんとなく職員室を覗いてみようかという気になったのだ。
 廊下を曲がると、隅のゴミ箱の前で小山が立っているのが見えた。右手に何かを持ち、見つめている。
 「先生、何をしてるんですか?」
 「ああ、ブリッジ……いや、橋本か。ちょうどいいところに来た」

 そう言うと、小山は右手に持った小さなプラスチックのふたを掲げる。学校給食用の牛乳パックのキャップらしい。切り離した後で捨てられかけていたのを拾ったようだ。

 「これ、名前がないんだよな。“牛乳キャップ”って言うのが正しい名称かもしれないけど、実際はこいつ、パック本体とは別の存在じゃないか。見ろ、内側には牛乳がほんの少しだけ残ってる」
 「はあ……」
 「俺はこれを“ミルクの墓守”と呼ぼうと思う。パックから切り離された後も、最後の一滴を守ってるように見えるんだ」

 橋本は吹き出しそうになるが、同時に納得する部分もある。確かに、このキャップには何の役割もないようでいて、一滴を守り続けている気がしなくもない。
 小山はゴミ箱に捨てられたキャップを見下ろし、さらに言葉を続ける。

 「人間も、こんなふうに役割を終えたと思ったものが、実は大事な一滴を抱えていることがある。……そう思わないか?」

 唐突な問いに、橋本は答えに詰まる。けれど、小山の言いたいことはなんとなく理解できる気がした。

 「……先生は、どうしてそんな名前をつけるんですか。意義とかあるんですか」
 「あるかどうかは、俺にもわからない。ただ、名前をつけた瞬間にそいつが急に“必要なもの”に見えてくる。俺はそういう感覚が好きなんだよね。自己満足かもしれないけどな」

 小山は笑いながらキャップをそっとゴミ箱に戻した。結局は捨てるのだが、そこにかけた“名前”という魔法だけは残るのだろう。
 橋本は思わず呟く。

 「“ミルクの墓守”、なんかいいですね。無意味かもしれないけど、不思議な温かさを感じるっていうか……」
 「だろ? 君ならわかってくれると思ったよ」

 そのやりとりが、橋本の胸をじんわりと満たしていく。人間関係という複雑なものは避けてきたはずなのに、小山の存在だけはなぜか心に染み込んでくるのが不思議だった。


 次の日、橋本は登校するときから少し気分が重かった。昨日の帰り道に、母親から電話があり、祖母の体調が優れないという話を聞いたからだ。それなりに親しい祖母だけに、もしものことを考えると心がざわつく。
 教室に入り、自分の席についても落ち着かない。クラスメイトが楽しそうに雑談しているのが遠い世界の出来事のように感じる。
 そんなとき、小山がホームルームの最初にやってきて、「今日は暑いな」と教室の窓を開け始めた。四月とはいえ真夏日が近づいているのか、生温い風が吹き込む。
 小山はふと天井を見上げ、エアコンの吹き出し口を見つめた。

 「この教室、全体に“なんとも言えない空気”が漂ってるな。名前をつけるとしたらなんだろう。“いびつな微熱”ってとこか?」

 生徒たちは「何言ってるの?」と眉をひそめたり、クスクス笑ったりしている。だが、橋本はピクリと耳をそば立てた。「なんとも言えない空気」に名前をつける感性――それは小山の真骨頂だろう。
 小山は笑いながら、エアコンのリモコンを操作し、「ごめんな、ここ最近調整がうまくいってないらしい」と謝罪めいて言葉を継ぐ。
 ホームルームが終わると、橋本は廊下に出て小山を待ち構えた。普段ならそんなことはしないのだが、気がつけば足が勝手に動いていた。

 「先生、さっき言った“いびつな微熱”って、どういう意味なんですか?」
 「ああ、気になる? うーん、どう言ったらいいかな……単純に、蒸し暑いのに温度設定が中途半端で、体がだるくなる感じ? それを人に例えると、なんとなく熱があるような、ないような――そんな状態って言うのかな」

 言葉を選ぶ小山は、少し苦しそうにも見える。そして続けた。

 「もともと俺は、自分の中にある“いびつな微熱”みたいな感情をずっと抱えててさ。誰にも言えないけど、なんか微妙に心が晴れない時期があったんだよ。だから教室の空気を見ると、そういうものを感じるんだ」

 その口ぶりに、橋本ははっとする。小山自身も、名前のないモヤモヤを抱えてきたということか。

 「先生の中にある、その“いびつな微熱”って……消えたんですか?」
 小山は苦笑するように肩をすくめた。

 「完全には消えないね。だけど、少しずつ薄くなってるとは思う。名前をつけることで、そいつに向き合う勇気が出るっていうか……変な話だけどな」

 橋本は何も言えなくなる。自分も似たような“名前のない不安”をずっと胸に抱えている。それが小山の言う“いびつな微熱”のようなものだとしたら、これから自分にできることはあるのだろうか。
 ホームルーム後の慌ただしい廊下で、二人はしばらく立ち尽くしていた。


 その週の金曜、放課後。橋本は小山に言われて、ちょっとした雑用を手伝うことになった。「ホームルームの資料をコピーして、ホチキスで留めるだけだから」という気軽な依頼だ。
 資料室でコピー機を回していると、小山が「あ、そうだ」と言って自分の鞄の中を探り始める。

 「橋本、これ見てくれないか?」

 出てきたのは、一枚のメモ紙だった。そこには走り書きのような文字が並んでいる。「きらきら水滴」「大きくなり損ねた風船」「寝入りばなの違和感」……何やら抽象的で意味不明な単語が並んでいる。
 橋本はそれを一瞥して、「なんですか、これ」と首をかしげる。

 「自分の感情に名前をつけてみたんだよ。最近、心のどこかで停滞しているものを感じてね。ほら、火曜日に『いびつな微熱』って言っただろ? ああいうのを定期的に書き留めてるんだ。すると、少しは整理できるかなと思ってさ」

 小山は恥ずかしそうに笑うが、その目は真剣だ。
 橋本は「寝入りばなの違和感……?」と声に出してみる。何となく想像はつく。夜、眠る直前に突然押し寄せる不安や過去の後悔。それを小山はそう呼んでいるらしい。
 コピー機からプリントが山積みに出てきた音に、二人は我に返る。小山はメモをいったん引っ込め、「読んでくれてありがとう」とだけ言った。

 「先生、そういうのって効果あるんですか? その……感情に名前をつけると落ち着くんですか?」
 「うん、俺には効果がある。たとえば『寝入りばなの違和感』って名づけることで、“ああ、また来たな、あの感じ”と自覚できる。それを知らないままいるよりは、ずっとマシなんだよ。自分を客観視できるっていうのかな」

 橋本は少し考える。“名前をつける”のは単なる遊びではなく、むしろ「自分の気持ちを整理する行為」なのかもしれない。
 「でも、橋本はそういうの興味ないかもしれないな。ごめんな、押しつけがましくて」

 小山が目を伏せるので、橋本は首を横に振った。

 「いえ、そんなことないです。実は、ちょっとだけ……真似してみたい気もします」

 その言葉を聞いた小山は、安堵したように笑みを浮かべる。橋本自身、素直に「興味がある」と口にして驚いていたが、すでに心のどこかでこの行為に惹かれているのは否定できなかった。


 週明けの月曜日。
 橋本はいつも通り家を出て、最寄り駅まで歩いていた。朝日が昇る前の微妙な時間帯で、空気は少し霞んでいる。この霞をなんと呼べばいいのか――ふと立ち止まって考えてしまう。

 (小山先生のやり方で言うなら、この淡い霧みたいな感じをなんて呼べばいいんだ?)

 桜はもう散ってしまい、かすかに緑が芽吹き始めた木々。その辺りからじんわりと立ち上がる空気が、ゆらゆらと揺れている。
 橋本は思いつきで、それを「ふらり」と呼んでみた。なんとなく、眠気の名残で足元がふらつく感覚と、霞んだ空気が合わさったイメージからだ。

 「……バカバカしいかな」

 照れくささがある。誰にも聞かれていないのに、声が裏返りそうだ。しかし、口に出した瞬間、霞んだ空気がほんの少し愛おしいものに思えてくる。
 電車に乗り、学校へ着く頃には「ふらり」という言葉は頭の中でさまざまに形を変えていた。もし小山が聞いたら、「いいね、その名前」と言ってくれるだろうか。
 同時に、橋本は一抹の不安を覚える。自分はこんなことをしていて大丈夫なのか――周囲から見れば滑稽かもしれない。でも、心の揺れを確かめるにはこうするしかない気がした。


 小山は、国語の授業の合間にも雑談を挟むことがある。生徒からすれば息抜きにちょうどいいが、橋本はそこに注目するようになっていた。
 あるとき、小山はこう尋ねた。

 「最近、何か“名前のないもの”を見つけたやつ、いるか? 俺は昨日、帰り道で突如現れた『道路の真ん中を横切る小さな紙くず』を“迷子の訪問客”って名づけてみたんだけど……」

 クラスは「なんのこっちゃ」と失笑交じりの反応。だが、一人の女子生徒が「紙くずとか拾わないんですか?」と冷ややかに言うと、小山は「拾ったよ。捨てたあとで名前つけたんだ」と慌てたように補足する。
 生徒たちから「先生って変わってるー」と笑われつつも、小山は気にしていない様子。
 橋本は、そんな小山の振る舞いに羨望さえ感じていた。周囲から“変わってる”と言われても動じない強さがある。自分は他人の評価を過剰に気にして、壁を作ってきたというのに。
 だが、その日の放課後。橋本が廊下で小山を見かけたとき、彼の笑顔にはどこか影があった。誰もいないところで、一瞬寂しそうな顔をするのを橋本は見逃さなかった。

 (先生だって、やっぱり完璧じゃない。自分の思いを支えられない瞬間もあるのか)

 それが人間らしいといえばそうなのだが、橋本は無性に気になってしまう。自分が名前をつけて喜んでいるように、小山もまた何かを必死に掴もうとしているのかもしれない。


 翌日、小山は橋本を廊下で呼び止めた。昼休みのことだ。

 「橋本、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。図書室に来てくれないか?」

 橋本は「はい」とだけ答え、小山の後を追う。図書室は昼休みでも人が少なく、静寂に包まれている。小山は奥の机に鞄を置き、椅子を二つ並べて座った。
 「何の用ですか?」と尋ねると、小山は少し困った顔をして、メモ帳を取り出す。

 「実はな……最近、自分の中にある感情を言葉にしてみようとしても、しっくりくる名前が見つからないんだ。どれも違う、という感じがして」
 「名前が見つからない、というのは?」
 「そう。以前は『いびつな微熱』とか『寝入りばなの違和感』とか、適当につけてそれなりに納得してたんだけど、最近はそれじゃ追いつかなくなってきた。どうにも深いところで引っかかってるような感覚があってね」

 橋本は意外だった。小山なら、どんなモヤモヤでも軽々と命名してしまいそうなのに。
 「それで……俺に何を手伝えと?」
 「うん、もし橋本が自分の中にある『わだかまり』とか『言葉にできないもの』を名前にするとしたら、どんな感じで考えるのか教えてほしいんだ。いや、無茶なお願いだよな。でも、もしかしたら俺とは違う視点があるかもしれないと思って」

 橋本は思わず笑ってしまいそうになる。あの小山が、自分に助けを求めるなんて。だけど、本人は真剣だ。
 「わかりました。正直、まだあまり慣れてないんですけど、ちょっと考えてみます」

 橋本もまた、自分の感情を言葉にするのは苦手だ。だが、小山への恩返しというか、彼の不器用な優しさに少しでも貢献したい気持ちもある。
 図書室の一角で二人はノートを広げ、ペンを持って互いに黙り込んだ。しばらくして、小山が「すまん、やっぱり難しいよな」とつぶやく。

 「先生は、どんな感情を言葉にできてないんですか? 寂しさ? 不安?」
 「どちらかというと、『空虚』に近い感じかな。だけど、それとも違うんだ……何か足りないようで、何か余計なものを抱えてるような……」

 橋本は考える。“何か足りなくて、何か余計なものを抱えている”――それは、まさに自分がずっと感じていた感覚でもある。
 (俺も同じかもしれない、先生と。名前がほしいけど見つからないもやもや……)

 紙にペン先を当てて、彼はゆっくりと書き始める。


 橋本の手が動く。頭の中でイメージした言葉をそのまま書いてみる。

 「“濡れた傘を握りしめたままの手”……どうでしょうか」

 彼が口にすると、小山は覗き込んで「おお」と声を上げる。

 「なぜそれ?」
 「なんか、いらないのに捨てられないものをずっと握ってる感じ……でもそれがないと、雨に濡れるかもしれなくて怖いっていうか……」

 言いながら、橋本は顔を赤らめる。自分で言っていても、相当恥ずかしい比喩だと思う。
 ところが、小山は深く頷く。

 「すごくわかる。『濡れた傘を握りしめたままの手』か……なるほど。たしかに、それが俺の感情に近い気がするな。何かを手放したいけど手放せない状態。だけど、持っているとずっと濡れた感触がつきまとう、みたいな……」

 小山は何度もその言葉を呟き、自分のノートに書き留めた。そうするうちに少しずつ表情が和らいでいくのがわかる。
 「橋本、ありがとう。助かったよ。……やっぱり人の視点って面白いもんだな。同じものを見ても、俺とは違う名前が浮かぶものだ」
 「いえ、僕はただ……」

 いや、本音を言えば“自分の感情”を投影しただけ。もし小山が喜んでくれるなら、それでいい。
 ノートに落ちる言葉を見つめながら、橋本は少し胸が軽くなったような気がした。自分の“わからない”感情を、こうして誰かと共有できるとは思わなかったからだ。


 次の週、橋本は自分でも驚くほどに小山との会話が増えていた。廊下や職員室の前で見かけると、自然と足が向くのだ。
 しかし、その一方でクラスメイトとは相変わらず距離があった。廊下で友人同士が楽しそうに笑い合う声を聞くと、胸がきしむ。以前はこんなふうに「疎外感」を意識することはなかったのに、なぜか最近は気になって仕方がない。
 ある放課後、クラスの数人が試験勉強会をするからと教室に残っていた。橋本も何となくその輪に加わるか迷ったが、結局声をかけられない。いつも通りカバンを持って一人で帰ろうとする。
 「橋本、先に帰るの?」とクラスメイトの一人が少し遠慮がちに言う。
 「あ、うん。ちょっと用あるから……」

 嘘をついて逃げるように教室を出る。心のどこかで「本当は混ざってみたい」という気持ちがあるのを知っているからこそ、逃げてしまうのだ。
 廊下に出た瞬間、あの名づけの衝動が湧き上がる。「いまの自分の感情を名づけるとしたら何だろう」。――だけど言葉が出ない。
 小山なら「目を伏せた犬」とか「開かない扉の前に立ち尽くす人」みたいに言うかもしれない。だが、橋本は自分の思いを形にすることに戸惑っていた。
 (このモヤモヤ、何なんだろう。本当はもう少し楽に生きたいのに)

 隠してきたはずの弱い自分を、最近は否応なく自覚させられる。それが苦しかった。


 春の長雨が続く。連日どんよりとした空模様で、窓から見える景色も灰色がかっている。
 放課後、教室を出ようとした橋本は、靴箱の前で小山と出くわした。ビニール傘を持った小山は、外を見ながら「嫌な天気だなあ。でも、これにも名前をつけるとしたら――」と呟く。
 橋本は思わず笑ってしまう。「先生はいつも名前つけてるんですね」と呆れ混じりに言うと、小山は「いや、さすがに毎回じゃないぞ」と返した。
 外へ出ると、しとしと降る雨が制服の袖を濡らし始める。二人は傘をさしながら校門を出た。珍しく同じタイミングで下校するらしい。

 「そういえば、橋本の家はこっち方面か?」
 「はい。先生は?」
 「俺は途中まで同じ方向だ。少し一緒に帰ろうか」

 こんなことは初めてだ。橋本は緊張しつつも、一人じゃない下校が新鮮だった。
 雨の音が道路を叩き、タイヤの水しぶきが遠くで鳴る。小山は傘の下から空を見上げ、「んー」と唸った。

 「この雨の空気、なんだろうな。息が詰まるようでいて、むしろ落ち着く感じがある。“水の呼吸路”って感じかな」
 「……水の呼吸路、ですか」

 聞いていて、橋本は自分も何かを言いたい気持ちになる。彼は少し考えてから口を開く。

 「僕は……『まとわりつく羊毛』かも。湿気が肌にまとわりついて、うっとうしいけど、どこか柔らかいっていう……」
 「いいね。“まとわりつく羊毛”。確かに雨の日はそういう感じするな」

 小山が嬉しそうに応じると、橋本は安堵する。こうして名前をやりとりするだけで、雨の景色が心の風景とリンクしていくような気がした。
 やがて、小山は自分の下宿先に着くという角で足を止める。「じゃ、ここまでな」と言いかけたとき、橋本は思い切って声をかける。

 「先生……あの……。もしよかったら、またこうして話を聞かせてください。自分で名前をつけるの、少し楽しくなってきたんで……」
 小山は驚いたように目を見開いてから、暖かな笑みを返した。

 「もちろん。俺も、橋本の名前のつけ方をもっと聞いてみたいからな。気が向いたときでいいんだ。じゃあ、またな」

 そうして別れたあと、橋本は胸が熱くなるのを感じた。自分から話を続けたいと願うなんて、久しぶりのことだったから。


 その翌週、橋本は母から「おばあちゃんが入院することになった」と連絡を受けた。やはり体調が悪化したらしい。重篤というわけではないが、しばらく様子を見る必要があるようだ。
 家に帰ると、父も急いで支度をしていて「お前も病院へ行くか」と尋ねる。橋本は迷ったが、正直病室の空気が怖い。まだ学校の授業もあるし、「落ち着いたら行く」とだけ言い、足早に自分の部屋へこもった。
 ベッドに横になり、天井をぼんやりと見つめる。祖母との思い出はたくさんあるが、最近はあまり会いに行っていなかった。後悔や心配が入り混じり、胸が苦しくなる。
 (こういう気持ちを、先生ならどう呼ぶんだろう)

 橋本はスマホのメモを開いて、言葉を探す。“やり場のない焦り”“準備不足の罪悪感”“遠ざかる温もり”――どれもしっくりこない。
 結局、ひとつも名前を決められないまま夜が深くなる。かつての自分なら、このまま放置してやり過ごしたはずだ。だが今は、名前をつけたい衝動があるのに、うまくいかない。それが余計につらかった。


 夜通し眠れず、明け方になってスマホをいじっていると、小山からメッセージが届いた。
 「おはよう。眠れなかったのか? 俺も今ちょうど目が覚めた。最近、朝が早いんだよね」
 いつの間にか連絡先を交換していたことを思い出し、橋本は少し驚く。こんな時間にやりとりするなんて初めてだ。
 「実は、祖母が入院して……ちょっと気持ちがモヤモヤしてます」と返信すると、小山からすぐに返事がくる。

 「そっか、それは心配だな。名前をつけてみたか?」

 橋本は思わず苦笑する。この人はやはりブレない。戸惑いつつも、正直に「でも、まったく言葉が浮かばないんです」と打ち込む。
 しばらく待つと、小山から長めのメッセージが届いた。

 「名前が浮かばないのもひとつの名前かもしれない。たとえば『手探りの薄闇』とかさ。無理に言葉にしようとしないで、名前が来るのを待つのもいい。自分の心に向き合う時間は、案外必要なんだよ」

 橋本は胸が熱くなった。自分がどうしようもなくモヤモヤしている気持ちを、“手探りの薄闇”と呼んでくれるその優しさがありがたい。少しだけ、その言葉に救われる気がした。
 結局、翌朝の登校前には「ありがとうございました。ちょっと気が楽になりました」というメッセージを送り、スマホを置いて家を出る。曇天の空の下でも、心は少しだけ光を取り戻したような気がした。


 祖母の入院以来、橋本は自分の中に湧き上がるさまざまな感情を見つめるようになった。以前は「どうせ言葉にできない」と諦めていたが、今は違う。小山が教えてくれたように、名前を探してみるのだ。
 たとえば、「焦燥感」が強い日には「沈みきらない夕焼け」と書いてみる。少し悲しい気持ちのときには「巻き戻せないテープ」と綴ってみる。まだ恥ずかしさは残るが、不思議と心が軽くなる瞬間がある。

 「もしかして、俺はこういう方法でしか気持ちを表せないのかもしれない……」

 そう思うと、逆に少し希望が芽生えた。“名前をつける”という行為が、自分を動かし始めている。
 ある日、小山が「橋本、最近調子はどうだ?」と声をかけてきた。廊下の片隅で立ち話をしながら、橋本はこのところの“名づけ”の話をした。

 「そっか、やってるんだな。どう? やっぱり少しは楽になる?」
 「はい。もちろん全部がうまくいくわけじゃないです。でも、なんか……いつの間にか書き留めた言葉が、あとになって自分を支えてくれることがあるんです」

 小山は満足げに頷く。その姿に、橋本は一つ疑問が浮かんだ。

 「先生は、どうしてそんなふうに“名前をつける”ことを始めたんですか? 昔からですか?」
 「ああ……最初は、本当に些細なきっかけだった。昔、俺は自分の弱さを認められなくて、でもどうしようもなく苦しかった時期があってさ。何をしても空回りっていうか――だからせめて、身の回りの『名前のないもの』に名前をつけてみた。そしたら、少しだけ世界が近づいてくる気がしたんだ」

 小山の目は少し遠くを見ている。橋本は、それ以上は聞けなかった。教師もまた、かつては自分と同じように苦しんでいたのかもしれない。それを想像すると、胸が痛い。
 (だからこそ、先生はこんなに優しいのかな)

 橋本は小山の表情から、言葉にならない優しさを感じ取った。


 六月に入り、梅雨の真っ只中。橋本は祖母の容態を気にかけつつも、学校生活を続けていた。クラスメイトとの関係は相変わらず薄いが、以前より孤独を感じる回数は減ったように思う。
 ある朝、下駄箱で靴に履き替えていると、小山が声をかけてきた。

 「よう、橋本。最近、クラスはどうだ? うまくやれてる?」
 「……特に変わりないですよ。あんまり話す相手もいないし」
 「そっか。まあ、無理する必要はないけどな。孤独がつらいなら、少しずつでも人と関わってみるのもいいかもしれないぞ」

 小山はそう言いながら、下駄箱の扉を開いて靴を取り出す。すると、何かに気づいたように手を止めた。

 「この下駄箱の底、なんだか捨てられないゴミが溜まってるよな。“中途半端な落とし物”みたいに……」
 見ると、紙屑やボロボロになったタオルの切れ端が奥に引っかかっている。どこか物悲しい風景だ。
 橋本は思わず小さく笑う。

 「“捨てられた居場所”とか、そんな感じですかね」
 「はは、いいね。そうだな、“捨てられた居場所”……。あるいは“居場所を捨てられなかった残骸”かもしれない。名前にすると、なんか切ないけど、ちゃんと存在してるんだって実感するな」

 言葉を交わすうちに、橋本は自分が不安定な仲介者のようだと感じる。小山の名づけセンスに影響されながら、自分なりの表現を模索している。ときどきクラスメイトとの距離も意識するようになり、両方の世界をうろうろしている感じだ。
 (もしかして、俺は“ブリッジ”なのか――なんて、そう呼ばれてもいいのかもしれない)

 ふとそんな考えがよぎり、橋本は自己嫌悪に陥りそうになる。だが、不思議と“名づけ”の行為がそれを和らげてくれる。名前をつけた瞬間、それまでの違和感が少しだけ見通せるようになるからだ。


 六月下旬のある日の放課後。小山は珍しく教室でうなだれていた。何かトラブルがあったのか、職員室で叱責を受けてきたらしい。
 橋本が心配になって声をかけると、「ああ、橋本か……」と力ない声が返ってくる。

 「ちょっとクレームが入ってな。俺の授業が独特すぎて、保護者から『もっと一般的な教え方をしてほしい』って意見が寄せられたらしい。学校も、ある程度は認めてくれてるんだけど、やっぱり度が過ぎるってことで注意されたよ」

 確かに、小山の国語授業は“アイスのフタ裏のアイス”や“牛乳キャップ”などを例に出すユニークなスタイルだ。好きな生徒も多いが、伝統的な指導法を望む保護者層からは批判も出るだろう。
 「先生のやり方は面白いと思うんですけど……」と橋本が言うと、小山は首を振る。

 「俺も、みんなに無理やり押しつけてるわけじゃないんだ。でも、嫌な人にとっては不愉快かもしれないからな。ああ、こんなとき、俺のこの気持ちをなんて呼べばいいかな……“無力な熱意”とか……なんかしっくりこないや」

 今まで“名前をつける”ことで救われてきた小山が、珍しく表現を見失っている。橋本は胸が痛んだ。
 「……僕が考えていいですか」
 「お? 頼もしいな。橋本ならいいのが浮かぶかも」

 教室の机にノートを広げて、橋本はペンを握る。考え込んだ末、こう書いた。

 「“折れかけた矢印”……とか、どうですか。先生の向かう方向性は間違ってないと思うけど、外部の力で少し折れかけてるイメージで」

 書きながら自分でも変な言い回しだと思うが、小山はじっとノートを見つめる。

 「折れかけた矢印、か……。なるほど。方向はあってるけど、確かに力が弱まって曲がっちゃう感じかもな」
 そう呟くと、小山はうっすらと笑った。

 「ありがとう、橋本。なんだか少し肩の力が抜けた。俺も、無理に気負う必要はないのかもしれないな」

 ほんの少しだけだが、小山の表情に明るさが戻る。その変化が橋本には嬉しかった。自分が小山の心を少し支えられたのだと思うと、教師と生徒という垣根を越えて通じ合えた気がする。


 七月も近づき、期末試験が迫る頃、橋本は自分自身の内面が少しずつ変化しているのを感じていた。クラスの会話には依然として積極的に参加しないが、誰かが雑談しているのを聞いても「俺には関係ない」と切り捨てることは減った。
 昼休みには、小山と一緒に食堂で食べることも増えた。以前は相席に緊張していたが、今では当たり前の光景になりつつある。

 「ところで、橋本の祖母さんはどうだ?」
 「まだ入院してますけど、命に別状はないそうです。落ち着いたらお見舞いに行こうと思ってます」
 「そっか。それなら少し安心だな。……名前をつけるってのはこういうときこそ役に立つかもしれないぞ。心配とか不安とか、そういう言葉では表しきれない気持ちがあるだろう?」

 橋本は頷く。まさにその通りで、ここ数週間の彼は“言葉にならない不安”を抱えながら生きていた。小山の言うように、それを無理やり「不安」とひとまとめにするのではなく、もっと細かく命名してみたいという思いがある。
 「昨日、病院からの帰り道に考えたんですけど……『残された時間に触れた指先』って書いてみました。なんか、祖母と接するとき、そういう感覚があるんですよね」
 「それは……いい表現だな。すごく刺さるよ。まるで指先が少しだけ未来と過去の狭間に触れてるような……」

 小山が神妙な面持ちで言うので、橋本は少し気恥ずかしくなる。
 同時に、橋本の心に新しい意志が生まれる。
 (いつか、先生にも恩返しがしたい。この人が苦しむときに、俺が言葉を届けてあげたい)

 小山が抱える“折れかけた矢印”を、ちゃんと支えられるような存在になれたら――そう思うと、不思議と力が湧いてくるのだった。


 期末試験が終わると、学校は一気に夏休みモードへ突入する。補習や部活の合宿などで一部の生徒は忙しくなるが、橋本は部活に入っていないので、長期休みに入ると学校へ来る機会が激減する。
 試験最終日の放課後、橋本は昇降口で小山に声をかける。

 「先生、夏休みはどうするんですか? やっぱり部活の顧問とかで忙しいんですか?」
 「いや、俺はそんなに顧問業務もないから、補習を受け持つくらいかな。あとはのんびり過ごす予定。君はどうする?」
 「……祖母のお見舞いに行くのと、家でゴロゴロしてると思います。もし先生が時間あるなら、いろいろ話を聞かせてほしいですけど……ダメですかね?」

 橋本の声は少し上ずっている。友達に遊びを誘うような感覚に近いが、相手は教師である。
 小山は「いいじゃないか」と笑顔になる。

 「俺も話し相手がいないと退屈だから、喜んで付き合うよ。学校でもいいし、外でもいい。じゃあメールで都合のいい日を教えてくれないか?」
 「はい、わかりました」

 こんなふうに、教師と生徒がプライベートに連絡を取り合うのは少し微妙なところかもしれない。だが、橋本はまったく後ろめたさを感じなかった。“名づけ”という共有の趣味――いや、もう少し切実な意味を持つ行為――を通じて、互いに繋がっていると思えたからだ。


 夏休み初日。午前中だけ補習があり、校内は生徒がまばらだ。補習を受ける必要のない橋本は、家で過ごそうかと思っていたが、小山に「少しだけ図書室に顔を出すから来ないか?」と誘われた。
 図書室はクーラーが効いているが、人影はまったくない。外は酷暑で、セミの声が窓ガラスを震わせるように聞こえてくる。
 小山は書棚の脇に腰かけ、いつものメモ帳を取り出す。

 「さて、ここで“名前のないもの”を見つけるとしたら……なんだろう。夏休みの図書室って、独特の匂いがするよな。紙が熱気でむわっとしてるというか……」
 「そうですね。普段は人が多いから意識しないですけど、こう静かだとその匂いが際立ちますね」
 「“熟成された紙のやすらぎ”……いや、ちょっとクサいか。橋本ならどう表す?」

 橋本は立ち上がり、書棚を歩いてまわる。背表紙に覆われた古い本がずらりと並び、そこに夏の湿気が染み込んでいる。自分も言葉を探しながら、指先を本の背に滑らせた。
 「ええと……“沈黙を養う紙たち”とか。沈黙を養う、というのがしっくりくる気がして……」

 口に出すと、恥ずかしさはやはりある。が、小山はそれを聞いて顔をほころばせる。

 「なるほど。たしかに、たくさんのストーリーが詰まってるはずなのに、今は静かに眠ってる感じがするな。『沈黙を養う紙たち』か……いいね」
 「ありがとうございます。まあ、本当にそれが合ってるかどうかはわかりませんけど」

 こうして二人で図書室を回り、名前のないものを探して言葉にする。誰が見たら奇妙な光景かもしれないが、橋本には至福の時間だった。自分の心の動きと本の存在が、同時に立ち上がってくるような感覚。
 夏休み前には感じられなかった解放感が、図書室の涼気とともに橋本の胸を満たしていく。


 図書室を一通り見て回ったあと、小山は机に腰掛けてぽつりと言った。

 「橋本、お前はやっぱりセンスがいい。だけど、俺は今でも『自分の空虚』にちゃんと名前をつけられないでいるんだよな」
 橋本は驚いて振り返る。あれだけ日常の些細なものに名前をつけられる小山が、自分の空虚にだけは名前を与えられずにいる。その事実を改めて聞かされると、胸がざわつく。

 「先生の空虚って、どんな感じなんですか? 前に言ってた“いびつな微熱”とかとは違うんですか」
 「もう少し根深いというか……。俺の幼い頃にあった家族との確執とか、大学時代に失敗したこととか、そういうものが塊になって残ってる。漠然とした孤独感っていうかね」

 小山は笑おうとするが、その表情はどこか痛々しい。
 橋本はノートを開き、ゆっくりとペンを走らせる。しかし、勝手に言葉を押しつけるのは違う気がする。小山の内面を理解せずに名前を投げかけるのは、乱暴だ。
 「先生……。僕は、先生がつけられない名前は、きっと先生自身が探すしかないと思います。でも……もし僕に何かできることがあるなら、言ってください」

 正直、どう言葉を紡ぐべきか迷う。生徒の分際で教師にそんなことを言うのは、おかしいかもしれない。しかし、小山は目を伏せながら小さく頷いた。

 「ありがとう。そうだよな……自分で見つけなきゃいけない。だけど、こうして少し話すだけでも、俺はだいぶ楽になったよ。橋本には変に気を使われずに済むし」
 「気を使う……って、僕はただ、先生みたいに気持ちを整理したいだけですから。変に遠慮しても逆に失礼だと思ってます」

 その言葉に、小山は柔らかく微笑んだ。
 「言葉にならない空虚か……もう少しだけ、俺も探してみるよ。いや、探さないとな」

 橋本は、今まで見たことがないほど穏やかな小山の表情を見て、この人も自分と同じ弱さを持ち、それを少しずつ克服しようとしているのだと感じた。


 夏休みが終わりに近づく頃、祖母の病状は安定し、もう少しで退院できそうだという報せがあった。橋本は病院へ通い、お見舞いの帰りには“名前のない感情”を探す習慣がすっかり身についていた。
 家族とすれ違うことが多い生活でも、祖母が元気になると思うだけで心が軽くなる。「ホッとする安堵」と「言い知れぬ罪悪感」がごちゃ混ぜになった感情を、“未解決の優しさ”と呼んでノートに書き留める。自分がもっと早く祖母を見舞っていれば……という後悔を含んだ、妙な安堵感を表すためだ。
 そんな橋本に対し、小山も少しだけ“空虚”を埋めるヒントを見つけたらしく、「家族と向き合うために、今度実家に帰ってみようと思う」と話してくれた。

 「実は俺、しばらく親と会ってなかったんだ。嫌いってわけじゃないけど、気まずくてさ。だけど、いつまでも逃げてられないから、ちょっと顔を出してみるよ」
 「そうなんですか……きっと、先生なら大丈夫ですよ」

 橋本はそう言いながらも、教師と生徒という関係を越えて小山を応援したい気持ちが強かった。自分が弱かったからこそ、この人の気持ちに少しは寄り添えるかもしれない。
 夏の夕暮れ。蝉の声が弱まり、代わりに秋の虫の音が聞こえ始める時期になっていた。空はまだ赤い。けれど、その奥にじわじわと夜が侵食してきているのを感じる。
 橋本はふと、その空を「優しい橙の裂け目」と名づけた。変化の隙間から秋が覗いているような気がしたからだ。


 二学期が始まると、クラスには何となく「夏休み明け」の浮ついた空気が漂う。友達と遊びに行った話や、部活の合宿での思い出など、橋本には縁遠い話題が飛び交う。
 それでも、橋本は以前のように「自分には関係ない」と突き放す気持ちにはなれなかった。もしかしたら、話を聞いてみるだけでも楽しいかもしれない――そんな気がする。
 ホームルームで小山が教室に入ってくる。休み明けにも関わらず、その表情は少し晴れやかだ。

 「みんな、夏休みはどうだった? 勉強は……まあ、置いといて、面白い経験をしたやつはいるか? 俺は実家に帰って、家族と何年ぶりかに腹を割って話ができたよ。なかなか得がたい体験だった」

 クラスは少しざわつく。教師の個人的な話に戸惑う生徒もいるようだが、橋本は自分だけは知っている。「小山は“空虚”に名前をつけるために、一歩踏み出したのだ」と。
 授業後、小山は橋本に「あとで職員室に来てくれ」と声をかける。放課後、職員室の隅の席で向かい合うと、小山が夏休みの帰省の話をしてくれた。

 「結局、明確な名前はまだ見つからなかったけどな。家族と話してみて、昔のわだかまりが少しだけとけた気がする。空虚は完全には消えないけど、少しずつ形を変えてる……そんな感覚だ」
 「形を変える……」
 「そう。もしかしたら、いつかしっくりくる名前が見つかるかもしれない。『濡れた傘』みたいにね。じわじわと俺の中から余計な水が抜けてくればいいなって思ってるよ」

 その言葉に、橋本はほっとした。一歩踏み出した小山は、少しだけ強くなったのだろう。
 (俺も、いつかはちゃんとクラスに馴染める日が来るのかもしれない)

 そう思うと、不思議と怖くなくなってきた。自分も“名前のない感情”に名前をつけながら、いつか他人と自然に繋がっていける気がする。


 橋本は二学期に入ったある日、ふとクラスメイトの輪の中に飛び込んでみようと思い立った。大げさなことではない。ただ、休み時間に誰かの話へ相槌を打ってみるだけだ。
 実際やってみると、思ったより拒絶されることはなく、むしろ「そうなんだよ」と話を続けてくれる人もいて、拍子抜けするほどスムーズだった。今までの自分がいかに自分から壁を作っていたかを思い知らされる。
 放課後、小山に報告すると、彼は大げさに拍手をしてみせた。

 「おお、それは大きな一歩じゃないか。気持ちの名前をつけてきた成果かもしれないな」
 「そう……かもしれないです。もし、名づけることを知らなかったら、ずっと一人で殻に閉じこもってた気がします」

 橋本は心の底からそう思う。彼の中にあった「名前のない感情」に少しずつ名前を与えることで、自分が何を望んでいるのかが明確になってきたのだ。
 「俺もまだまだ悩みは尽きないけど、橋本を見てると力をもらえるよ。お前が自分なりの言葉を獲得しようとしているのを感じると、俺も頑張ろうって思うからな」

 小山がそう言って微笑む。その笑顔は、かつて橋本が見た“寂しい笑み”とは違う、もっと力強いものだった。
 二人は、廊下から見える窓の向こうで赤く染まる空をじっと見つめる。夏の名残が残る風が吹き抜けるが、もう少しで秋の涼しさがやってくるだろう。
 “名前のないもの”は、まだこの世界にたくさん溢れている。けれども、きっといつか、それらすべてに言葉を与えられるわけじゃない。
 ――それでも、自分なりの名前をつけてみたい。そう思えるようになったのは、小山が“湯気”や“牛乳キャップの残りかす”に名前をつけて、世界を見ていたからだ。


 季節が移り変わり、秋が深まる。橋本は時折、小山と一緒に下校しながら、道端の落ち葉や夕暮れの匂いに名前をつけるようになった。「赤いささやき」「ほろ苦い黄昏」――そんな言葉をノートに綴りながら。
 クラスではまだ“影の薄い生徒”かもしれないが、以前よりは友人の輪に加わることもある。決して派手に盛り上がるタイプではないが、自分の居場所を少しずつ築けている実感がある。
 小山もまた、完全には空虚を埋められないまでも、「時々それに名前をつけてみるんだ。すると、自分の弱さや孤独を抱えていてもいいんだと、開き直れる」と笑うようになった。
 二人の間には特別な呼び名はない。お互い、あだ名で呼び合うわけでもないし、必要以上に親密を装うわけでもない。ただ、“名前のないもの”を一緒に探す仲間として、通じ合う部分があるだけだ。

 ある帰り道、橋本は何気なく小山に尋ねた。

 「先生、もし今の自分自身に名前をつけるなら、何って呼びますか?」
 小山は少し考え込んでから、にやりと笑う。

 「“まだ見ぬ落とし物を抱えてる人”かな。俺は、いつでも何かを失いそうだし、まだ見つけてないものも多いと思ってるから。橋本は?」
 「僕は……“はじまりを探す足音”とか、そういうのですかね。まだスタート地点にも立ってない感じだけど、少しだけ足音が響いてきた気がするんで……」

 どちらも本当にしっくりくる名前かどうかはわからない。それでも、こうして言葉を重ねることで、今日という一日がただ“通り過ぎるだけ”ではなくなる。
 夕暮れの道。アスファルトに伸びる二つの影は、ゆっくりと重なり、また離れていく。いつか別々の道を進む日が来たとしても、そこで見つけた“名前のないもの”を、きっと二人はどこかで思い出すだろう。