雪ノ宮で石を投げれば、その半分近くは妖怪に当たる。遥か昔から妖怪はこの国に住んでいて、人間も彼らを当たり前の存在と認識して共に暮らしている。

 ところが、国境を越えれば事情は変わった。異国の者にとって妖怪は未知の危険生物であり、人間よりも下等な動植物や器物であり、研究や実験の材料であり、見世物だった。ほとんどの妖怪は人間よりも遥かに強力であり、妖怪に不慣れな異国の者が武器を構えて現れても一捻りできる。しかし、不意を突かれたり国内に協力者がいたりすればどうなるか分からない。物好きな人間はいつの時代のどこにでもいるもので、薬の材料になるだとか、不老不死になれるだとか、そういう話を聞くと妖怪に手を出す者がいた。

 とはいえ結局妖怪の方が強い。そのため、そのような被害に遭い異国へモノとして出品されるような者は、一人の妖怪が一生のうちに片手で数えられるくらい目にするかしないかという程度である。異国へ出かけて何らかの事件に巻き込まれる人間よりもずっと少ない。

 燈華のことが心配だ、と茉莉の顔に書いてある。甘言に釣られてどこかへ連れて行かれてしまうのではないか。そんな気持ちが見るだけで分かるほど表情に現れていた。茉莉の大袈裟なくらい深刻そうな顔に、燈華はそれは杞憂だと答える。雪成はきっと、親友殿にこんな顔をさせる人ではない。

「な、ならないと思うよ。鼬……貂なんて特別面白い妖怪じゃないもの。それに、あの人はそんなことできないと思うから」
「信用してるんだね、その人間のこと。本当に、大丈夫? もしその人間がおかしいことをしようとしてたらすぐわたしに教えてね。きっと助けに行くから」
「ありがとう茉莉」
「そっか、坂の上にいる人間なんだ。うん。それには驚いたけど、住む世界が違うからって不安になることないよ。相手を思う気持ちが互いにあれば、そういうのって関係ないと思う。文屋乃先生の話で、前にそんなのがあった気もするし。私、燈華を応援するってこの間言ったもん。変な人間じゃないなら、不安に思うことなんてないんじゃないかな。その人間も、燈華にそんな顔してほしくないと思うよ」

 茉莉は両手で燈華の頬を摘まんで、半ば強引に口角を上げさせた。

「一緒に笑っていれば、そのうち気持ちも分かるはずだよ」
「うん。……うん?」

 人間の姿の茉莉の向こう。遊んでいる子供達の近くにこの場にふさわしくない人影が見えた。怪訝な声を出した燈華につられて、茉莉は振り返る。

 かくれんぼをしている子供達の間を、仕事着の神社の人間が歩いていた。茂みを覗き込み、そこに隠れていた子供に文句を言われている。

「神社の人だ。どうして仕事着でこんなところに? 今日この辺でお祭りとかお祓いとかやる予定ないはずだよね」
「私この間坂の上の高級住宅街でも見たよ」
「えぇっ。じゃあ、何かあったのかな。……稲守先生も、最近休みがちなんだよね。燈華はお店で先生に会ってない?」
「ここ数日は来てないかな」

 遥か昔、現在存命の妖怪の中で最年長の者が生まれるよりもずっと昔。この地に人間や妖怪、その他の生き物が暮らすよりも前。雪ノ宮の地を生み出し整えたという伝説が残る神々。彼らが実際に存在していて、この土地を創ったのか、その真偽は誰にも分からない。

 しかし、人々は気が付いた時には神々を祀っていた。神々の存在を認識することはできないが、土地や物事に宿る守護者として、国を守る要として、祈りを捧げる対象として、見えない隣人として、皆の心の拠り所になっている。そんな神々を祀る建物を神社と呼んだ。

 神社組織の構成員は基本的に人間だが、上層部には稲守家のように妖怪の家の出の者が多く所属している。神々がこの地に降り立ってしばらく滞在していた頃、その手助けをするために接触した妖怪がいたとされている。元々の呼ばれ方が喪失してしまうほど昔のことのため真偽は不明だが、そう主張した妖怪達の末裔が代々神職を務める神社は少なくなく、また、そういう神社は決まって規模が大きかった。

 海浜公園をうろついているのは、先生の実家である街で一番古い神社の神職のようだった。一般的な着物よりもずっと古い形の装束に、稲の文様が織り込まれている。先日燈華が見かけた神職は遠かったため装束の柄まで分からなかったが、あの神職も先生の実家の神社の者である可能性がある。

 先生の実家、何かあったのかな。燈華と茉莉は顔を見合わせた。気になるが、仕事中と思われる大人に無邪気に声をかけてはいけないだろう。見合わせた顔を歩き回る神職に向けて、もう一度顔を見合わせる。

「今度店に先生が来たらそれとなく訊いてみるよ」
「わたしも先生が学校に来たら訊いてみる」

 しばらくすると、神職の人間は海浜公園から立ち去った。何かを探しているのか、やや俯き加減で物陰を覗き込みながら。

 よし、喫茶店で何か食べよう。茉莉が言ったのは、神職がいなくなって少ししてからだった。海浜公園で海を眺めることは好きだが、ちょっぴりお腹が空いて来た。ケープでくるんだ燈華を抱き上げて、茉莉はベンチから立ち上がる。

「私お金ないよ。坂の上まで行く人力車代とか結構かかるからやっぱり貯めてて」
「いい。今日もわたしが奢る。これは燈華の恋への投資だから」
「まだ恋かどうか分かってないんだけど」

 権ノ咲海浜公園を出て、運河に沿って内陸へ進んで行く。権ノ咲地区は内陸に向かって大きくへこんだ形になっているため、海と街が他の海辺よりも近かった。二人の行きつけの喫茶店まで、女学生の足でも二十分もかからない。

「自転車に化けられたらもう少し速く進めるんだけど」
「茉莉が自転車になれたとして誰が漕ぐの。私無理だからね」
「わたし自転車持ってなくてさ。憧れるんだ、自転車女学生」
「そう。でも自分が自転車になったら自分は乗れないのよ」

 そして、あははと口を揃えて笑った。

 運河沿いをしばらく歩いていると、人だかりが見えて来た。大通りとの境にある交番の辺りである。

「すみません、何かあったんですか?」

 茉莉が声をかけると、人間の女が「お尋ね者ですって」と答えてくれた。見ると、交番の前の掲示板に真新しい掲示物が貼り出されている。

 曰く、危険な妖怪が現れたと。夜道で不意に襲われた人間や妖怪がいるらしく、負傷者が数人いるそうだった。添えられている犯人と思しき絵は大きな燃える車輪だった。凄まじい速さで走り去ってしまうため、はっきりとした姿が分からないのだという。

「妖怪に襲われるっていうか、車に撥ねられてない!? 怖い! わたし達みたいな小さな妖怪は気を付けなきゃね」
「ぶつかったら大変かもね……」

 怪異課のパトロールは強化しているそうだが、なかなか接触できず難航しているようだった。いるのが分かっていても、遭遇できなければ逮捕も討伐もできない。

 怖いねぇ、と母親に抱かれた小さな子供が呟いた。

片輪車(かたわぐるま)かな。燈華は何だと思う」
「うーん、輪入道(わにゅうどう)かも」

 いずれも燃える車輪の妖怪である。元々は区別なく一つの呼び名だったと言われているが、現在は女の方を片輪車、男の方を輪入道と呼称することが多い。人力車の車夫もとい本体の車輪として仕事をしている片輪車と輪入道の名物夫婦が大通りにいるが、流石にその二人ではないだろうと通行人達は口々に言う。

「ほら、確認したら散った散った。通行の邪魔になるから」

 巡査に言われて、掲示板の前に集まっていた人だかりが分散する。燈華と茉莉も喫茶店へ向かって歩き出した。