【プロローグ】
月のない夜だった。
東京郊外、そこには大小さまざまなビルが点在するビジネス街と住宅街の境界がある。深夜という時間帯を迎え、周囲の騒音はほとんど聞こえない。人の気配も遠ざかり、ビル群のシルエットが闇に浮かんでいるだけだ。
そんな街の一角にある中層ビルの屋上。鉄柵に囲まれたコンクリート床の上に、一人の若い女性が横たわっている。生命を失った身体は、もう動きそうになかった。血飛沫も目立たないため、何が起こったのか判断しがたいが、その顔は虚ろに宙を見つめている。
その死体を見下ろすように、黒いフードを深くかぶった男が立っていた。ほとんど顔が見えない。声を上げる様子もなく、しばし沈黙。
ビルの上は風が強く、もし月があれば白い光が差し込むのだろうが、この夜は雲が厚く、月さえ見えない。星すらもぼんやりとかすかにしか輝かない。
男はやがて小さく一つ息をつくように見えたが、それ以上何も言わず、フェンスの脇をすり抜けると、そのまま暗闇に姿を消していく。
残されるのは夜の静寂と、動かない死体だけ。
翌日、あるいは数日後、ここに人々の目が集まり、警察の捜査が始まるだろう。しかし今はまだ誰も知らない。世界から切り離された密室のようなこの屋上で、月の光さえない夜がひっそりと深まっていく。
第一章
1
都内の市部、ベッドタウンとして開発が進んだ地域にある十一階建てのマンション。志田聡(しだ さとし)はその十階に家族四人で暮らしている。
夜の十一時を回った頃、彼は自室で机に向かっていた。一応、塾の課題を片付けようという意気込みはあるが、集中力が途切れがちで、ふとスマホを見ては動画サイトを眺めてしまう。
薄く開いているドアの向こう、リビングからは父母がテレビを観る声や笑い声が聞こえてくる。少し離れた部屋では大学生の姉が勉強しているのか、あるいはもう寝ているのか。
姉は成績優秀で、昔から模範的と評されてきた。比較的おとなしい性格ながらも、要領よく物事をこなし、両親の信頼も厚い。聡はというと、特別不良ではないし成績が悪いわけでもないが、“姉ほどではない”と見られることが多かった。
疲れを感じた聡は、窓へ目をやる。夜景を見ても派手さはないが、大通りを通る車のライトが遠く小さく流れていくのがわかる。
――そして向かいのオフィスビルの屋上に、不審な人影を見つけた。
「……あれ、なんだろう」
思わず声に出してしまう。それは人間のシルエットだ。黒い服をまとい、フードを被っているかもしれない。高さ的にはちょうど対面なので、動きはおぼろげながら見える。
しかし、その人物は何をするわけでもなく、ただ佇んでいる。屋上の柵の近くにも寄らず、下界を見下ろしているのかどうかさえ判然としない。
十数分ほど観察していると、その黒い影はふっと姿を消した。やはり非常階段から降りていったのだろうか。
胸に奇妙なざわつきを覚える。「誰だったんだ……?」と問いかけても答えはない。もし自殺志願者なら、もっと派手に身を乗り出すだろうし、何か目的があったのだろうか。
結局、はっきりしたことがわからず、聡は窓から離れた。机に戻ろうとするが、先ほどの光景が頭から離れない。自分の住むマンションと同じか、やや低いくらいの高さのビル。その屋上で深夜にうろつく人影。それは現実離れした光景に思えた。
その夜、勉強にはほとんど手がつかないまま、何となく眠りにつく。頭に漂うのは暗いビルの屋上、そして黒い影のシルエットだ。
2
翌朝、聡はいつもどおり高校へ向かう。都心ほどではないが、そこそこ人通りのある駅から徒歩で十五分ほどに位置する県立高校だ。二年生となった彼は、特に部活には所属せず、ごく無難な学校生活を送っている。
ホームルームが始まり、担任教師が連絡事項を読み上げる。朝の光が差し込む教室は眠気との戦いで、前の席から小さなあくびが聞こえたり、机に突っ伏している生徒も散見される。
1限目の数学が始まると、教壇の先生が「昨日の宿題をやってきた人ー?」と軽いノリで問いかける。周囲が苦笑する中、聡も渋々ノートを開く。昨夜の不審な人影のせいで中途半端にしか進まなかった宿題が、そこにはあった。
昼休みになれば、クラスメイトの何人かは学食へ走り、何人かは購買へパンを買いに行く。聡は弁当を持参しているので、教室で適当に近い席の友人たちと食べる。
「そういや最近、社会科の佐々木先生って人気あるよね」
誰かがそんな話を振る。二十九歳の若さで、わりとイケメン。爽やかな口調と社交的な振る舞いで生徒からは好感度が高い。特に女子生徒から「笑顔がいい」「運動神経よさそう」と評判だ。
実際、佐々木はボルダリングを趣味にしているらしく、休日にクライミングジムに通っていると聞いた。カジュアルでライトな雰囲気なので、生徒も近寄りやすいのだろう。
聡はといえば、佐々木に限らずどの教師とも深い関わりはない。授業を受けるだけの無難な生徒の一人だ。
午後の授業を受け終わり、放課後になると、部活組はグラウンドや体育館へ向かっていく。聡は塾のある日とない日で帰宅時間が変わるが、この日は特に用事もなく、友人と途中まで帰ることにした。
――だが、頭のどこかで、昨夜の人影がちらついている。ぼんやり考えても仕方がないとわかっていながら、その正体を知りたい衝動にかられる。
3
夕方に帰宅すると、リビングからは母が「おかえり」と声をかけてくる。父はまだ会社から帰っていないようだ。姉は大学の課題か何かで出かけているらしく、いない。
しばらくスマホを眺めて時間をつぶし、夜の食卓につく頃には父が帰宅している。四人で食卓を囲むのも久しぶりに思える。
父は「聡、そろそろ進路を考えないとな。大学行くんだろ?」と口にし、母も「そうよ。姉さんみたいに目標があるといいわねえ」と相槌を打つ。姉は苦笑しながら黙っている。
つい食欲をなくしかけた聡は、曖昧に相槌を打って早々に部屋へ引きこもる。
自室のドアを閉め、部屋にある背の高い棚の上部を見上げる。そこには古びた箱があり、小学校の頃から隠し続けているある秘密が入っている。それを思うだけで胸が痛い。
誰も気づいていない罪。自分でも「大したことではない」と思おうとするが、それでも完全に忘れることはできない。
――それは“集金袋事件”。
小学生の頃、同級生たちの集めた給食費か遠足費が入った封筒が紛失するという小さな事件があった。結果的にうやむやなまま終わったが、聡はこっそり“空になった集金袋”を拾っていた。
先生に届ければよかったのだが、事件が大きくなるにつれ、自分が疑われたらどうしようという不安が大きくなり、言い出せずに時機を逸した。そのまま集金袋は家に持ち帰られ、今も棚の上の箱にしまわれている。
――自分以外、誰も知らない罪。だが、それがずっと心を締めつけている。
何気なくスマホを手に取り、ベッドに横になる。結局その夜も勉強が進まず、悶々としたまま眠りについた。
4
それから数日後、塾に行った夜。時刻は22時半を回り、自習室で勉強していた聡は、ふとガラス窓の向こうを見やる。
向かいの古い雑居ビルの非常階段に、また黒い人影が見えたのだ。
――もしかして、あの日見たのと同じ?
その人影は、身軽な動きでパイプやフェンスをよじ登り、屋上へ消えていく。周囲を警戒しているのか、動作は素早く、暗闇に溶け込む。
「行くのか……」
自分でもわからない衝動に突き動かされ、聡は塾を出ると急ぎビルの前へ向かう。ここのビルはだいぶ年季が入っており、使われていないテナントも多い。人気の少ない夜なら、誰もいないのも当然かもしれない。
非常階段の下は街灯が弱く、薄暗い。車が時折通り過ぎるが、人通りはない。聡はそこで待ち伏せするように立ち尽くす。
やがて、金属階段を踏む足音が聞こえ、影が降りてくるのがわかる。心臓が激しく脈打ち、冷や汗がにじむ。
姿を現したのは――学校の社会科教師、佐々木亮一だった。
「……佐々木先生?」
思わず声を上げると、佐々木は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにクールな表情を取り戻す。フードを外すと、確かに昼間見慣れた顔がそこにあった。
「お前……志田か。こんな時間に何してる?」
「先生こそ、何やってるんですか……それって、不法侵入ですよね?」
佐々木は黙り込む。辺りの静寂を破るのは遠くの車の音だけだ。気まずい時間が数秒流れたのち、佐々木は唇をゆがませるように一瞬笑う。
「……こんなところで会うとはな。お前、塾の帰りか?」
その声はいつもの爽やかさとは違い、どこか低く冷たい響きを帯びていた。
第二章
1
翌日、放課後。聡は佐々木に呼び出され、生徒指導室へと足を運んだ。そこは生活指導担当の教師や、ちょっとした面談の際に使われる小部屋。
ドアを閉めると、佐々木はデスクの前に立ち、腕を組む。表情は昨夜と同じ、クールなままだ。
「昨日の夜、あのビルの前で何をしていた?」
先に切り出すのは佐々木。聡は少しムッとして、「先生こそ、不法侵入でしょ」と返す。
「建造物侵入罪、だな。まあ、万引きよりちょっと重いかもしれないけど、大したことじゃないよ。捕まらない限りはね」
このあっけらかんとした態度に、聡は唖然とする。普通ならもう少し取り繕うか叱責されそうなものだが、佐々木は自分が犯罪行為をしているという認識はあれど、さほど気に病んでいる様子はない。
「……夜のビルに登って、何してるんですか」
「見たいから登ってるんだ。俺は昔から、ビルを見るたびに“屋上に何があるのか”気になって仕方なかった。どんなビルでも、下からじゃ屋上の様子はわからないだろう? だったら自分の目で見たいと思うのは自然じゃないか」
子供が無人島を探検したがるのと同じような論法に思える。聡には到底理解しがたい。
「そんな好奇心だけで不法侵入するんですか……先生はボルダリングもやってるんですよね?」
「そうだ。ボルダリングで壁を登ってると、地上の人間が知らない景色を手に入れられる気がする。もっと言えば、神様くらいしか見てない空間ってのがあると思うんだよ。俺たち人間には見えない場所や世界が山ほどある。……知りたいだろう?」
「神様?」
「まあ、信じてるわけじゃないさ。でも俺は昔から“神様は何でも見通しなんじゃないか”と思ったりする。かといって信仰心があるわけでもなく、倫理観を持ってるわけでもない。むしろ“神様がいるなら、こんな人間の善悪なんかどうでもいいはずだろ”って感覚があるんだ」
唐突な神様の話に、聡は困惑する。佐々木が宗教的な思想を持っているとも思えないし、むしろそこに人間の無力さを感じているのだろうか。
「……あのビルの屋上には、死体があるかもと思ったことは?」
「あるかもな。でも、もし見つけたとして通報するかどうかは、そのときの気分次第だ。わざわざ自分が警察沙汰になる必要はないし。罪悪感? そんなもん、誰でもどこかに抱えてるしな」
あまりにもドライな言い方に、聡の背筋が寒くなる。まるで人命を軽視しているようにも聞こえる。ただ、佐々木の言葉には独特の「割り切り」が感じられ、一般的な道徳や宗教観とはかけ離れているが、彼なりの論理があるようでもある。
「もし誰かに見つかったらどうするんですか?」
「逃げる。万が一捕まったら……まあ、そうならないようにやるさ。最悪のときは殺すかもな、なんて冗談だけどな」
冗談にしては笑えない話だ。チャイムが鳴り、次の授業開始を告げる。
「昨日のことは黙ってろ。お前が言いふらしても面倒だからな」
そう言い捨てると、佐々木はひょいといつもの爽やかな笑顔をつくり、足早に部屋を出ていく。
残された聡は混乱したまま、胸の奥がざわついていた。
2
ところが翌日以降も、佐々木は何事もなかったかのように振る舞う。授業中はにこやかで、冗談を交えながら教科書の内容をわかりやすく解説する。女子生徒からの人気は相変わらずだ。
“夜のビルでフードを被って不法侵入する佐々木”と“昼間の爽やか教師の佐々木”――あまりの落差に、聡はどうにも困惑を拭えない。
ある日の夕食時、テレビで「近隣のビルの屋上で死体が発見された」というニュースが流れた。犯行日時はわからないが、被害者は若い女性。警察が捜査中という。
それを見たとき、聡は思わず息を飲んだ。佐々木が言っていた“死体を見つけたらどうするか”という話が頭をよぎる。もしや、佐々木はあの死体を既に見ていたのでは? あるいは本当に殺人事件に関与しているのでは?
「どうしたの、聡。ごはん食べないの?」
母の声で我に返り、箸を動かす。だが味がしない。食後、早々に部屋へ戻り、棚の上にある箱を見つめる。自分が抱える小さな“罪”と比べ、殺人事件は桁違いに重いが、なぜか共通する不気味さが胸をかき乱す。
――誰も知らない罪。誰も覚えていない罪。
しかし、それでも罪は罪。佐々木の言葉を思い返すと、まるで人間の倫理観なんて紙一重で崩れると思わせられる。もし神様がいるなら、そこで起きているすべてを見ているのか。だが、見ていたからといって救いがあるわけでもないのではないか――そんなふうに考えてしまう。
3
数日後、学校に警察が来たという噂が広まる。どうやらあの殺人事件について、近隣の学校を回って聞き込みしているらしい。中には「佐々木先生が疑われてるのでは?」という物騒な話も飛び交う。
実際、放課後になると「警察が職員室に来て佐々木先生に話を聞いてた」などという証言も耳に入ってくる。
聡は胸騒ぎを覚えながら下校する。もし佐々木が逮捕されれば、不法侵入の事実も含めてすべて明るみに出るかもしれない。自分が夜の現場を目撃したことも問われるかもしれない。
やきもきしながら数日を過ごすと、今度は佐々木本人から事の次第を聞く機会が訪れた。ある日の昼休み、廊下でひょいと呼び止められたのだ。
「志田、ちょっと来い」
人気のない準備室に入り、佐々木が自嘲するように笑う。
「俺、殺人犯だと思われてるらしいぞ?」
「やっぱり警察が……」
「いや、形式的な聞き取りだよ。実は、昔俺がバイトしていたビルで、免許証を落としていたんだ。学生時代、あのビルの管理補助をしててな。雑用とか夜の施錠確認とか。それが今回の事件現場と同じビルでさ」
「同じビル……」
「そこに残ってた免許証が俺の名前でな。もう何年も前だから色が完全に褪せてたけど、警察も念のため“お前が犯人か?”って疑うわけだ」
そう言って、佐々木は苦笑を浮かべている。
「でもまあ、何年も前の免許証だし、状況的に関与の証拠もないから、ただの形式確認だったよ。お前が心配するようなことはない」
聡はほっとする半面、まだ何か釈然としないものが残る。実際、佐々木が夜な夜なビルに侵入しているのは事実だし、それがバレたら大問題になるのではないか。
「先生はそれ、隠さなくていいんですか……?」
「警察はすでに俺の話を聞いて“まあ時期的に違うね”という結論らしい。大昔の免許証が見つかっただけで、直接の証拠にもならないし。俺が殺したわけじゃないから安心しろ」
あっけらかんとした態度。
「……先生、本当に無関係ですよね?」
佐々木はわずかに目を細める。
「信じるかどうかはお前次第だ。ただ、俺は“見ただけで満足する”タイプだからな。殺すならもっと別の方法を取るさ」
何を根拠に“満足”というのか。夜のビルを覗く動機は純粋な好奇心としか聞いていないが、底知れない思いがあるのだろう。
「俺は神様がすべて見てるんだろうと思う。でも、だからといって悪事をしないわけじゃない。人間には知り得ない世界がたくさんあるし、神様がそれを見ているからって、別にそれが罪の裁きになるとは限らない……そんな感覚があるんだ」
その言葉に、聡は一瞬言葉を失う。とても倫理的とは言えないが、同時に宗教的な罰を恐れていない様子も伝わってくる。むしろ“人間ごときが何をわかる”という唯物的な見方が根底にあるように思える。
――佐々木という人物は、やはり掴みどころがない。
呼び出しはそこで終了し、聡は廊下へ出る。外の世界はいつも通り、生徒たちが部活や雑談で賑わっている。まるで何事もないかのような日常の風景に、なぜか強烈な違和感を覚える。
4
放課後、聡は帰宅して部屋にこもる。棚の上の箱を取り出し、蓋を開けてみる。そこには、小学校名が印字された集金袋が入っている。すっかり黄ばんで、端が少し破れている。
――あのとき、これを先生に渡していれば、クラスメイトのAが疑われることもなかったかもしれない。
実際、Aはその後“誤解だった”と判明したらしいが、一時期いじめに近い冷ややかな扱いを受けていたと聞く。事件そのものも、転校した子が犯人扱いされうやむやに終わった。
聡の罪は“誰にも知られないまま”、こうして風化している。けれど、罪の意識だけはいつまでも残る。それが実際に誰かを傷つけたかどうかは、もう曖昧なのに、自分だけが苦しんでいる。
――もし佐々木なら、この袋を夜のビルへ持っていって、簡単に捨ててしまうかもしれない。
聡はそう思うと同時に、その考えに戦慄する。佐々木のような割り切り方ができれば気が楽なのか、それとも自分には到底できないことなのか。
夜、食卓で姉が「最近バイト忙しい」とか「大学のゼミがどうの」と話しているのを上の空で聞きながら、聡は心の奥で、屋上の風に吹かれた集金袋のイメージを想像してしまう。
第三章
1
ある日の昼休み、渡り廊下で窓外を見ながらぼんやりしていると、佐々木が通りかかった。相変わらずニコニコした笑顔を浮かべている。
「どうした、志田。今日は随分と眠そうだな」
「……夜、あんまり眠れなくて」
「夜更かしはいかんな。俺なんかは夜の散歩が好きでね。ビルの上、あるいは川沿いの土手を歩いたりする。夜空を見てると、“神様は案外ここにいるのかもな”って気分になる」
さらりと言ってのける。宗教関係の話ではないらしいが、聡はやはり引っかかる。
「先生、神様信じてるんですか?」
「どうだろうな。信じてるというか、“神様しか見えない場所”がきっとあると思ってる。人間ごときじゃ知り得ないことが、この世界にはたくさんある。たとえばビルの屋上も、人間はあまり意識しないだろ? でも神様なら上空から全部見てるんじゃないか。……そう考えると、俺はむしろ神様に対して皮肉を感じるんだ」
「皮肉?」
「そう。もし神がすべてを知っているなら、こんな人間の小さな善悪なんてどうでもいいだろう。戦争や犯罪なんて昔からあるし、そこで死んでいく人間を“ただ見るだけ”かもしれない。それが神という存在なら、いっそいないも同然じゃないか?」
あまりにも独特な理屈に、聡はうまく返せない。
「でも先生、それなら神様がいるとかいないとか、同じことじゃ……」
「そうだな。結局、神様がいようがいまいが、俺たちの行動は変わらない。罪を犯す人間は犯すし、清く生きる人間は生きる。だから俺も“神様に怒られるから夜に不法侵入しません”なんて、思ったことはないよ」
そこまで言って、佐々木は少しだけ笑みを消す。
「でも、神様が“見ている”って想像するのは、ちょっとゾクゾクするだろ? 俺たちが何をしていても、あの屋上に何が転がっていても、神様だけが全部見て知っている。人間が全部を知るのは無理だしな」
思わず背筋がぞくりとする。人間には見えない場所を、神が見ている。それはロマンチックでもあり、不気味でもある。
「だから俺は、夜のビルに行く。人の目は届かなくても、もし神様がいるなら見ているのかもしれないから。その場所を“確かめ”たいんだ」
佐々木の言葉にはどこか危うい魅力がある。まるで宗教的なカリスマというより、唯物論者が逆に神の存在を皮肉に利用しているかのような印象だ。
「でも、先生。そもそも法的には違反……」
「知ってるさ。俺がやってることは不法侵入、まさしく犯罪だ。でも、神様に怒られるより先に警察に捕まるほうが怖いよ。現実ってのはそんなもんだろ?」
言い捨てるように笑うと、佐々木は「じゃあ午後の授業、遅れんなよ」と言って教室のほうへ歩き去る。
その背中を見送りながら、聡は心の動揺を隠せない。神様云々の話は、ともすれば陳腐に感じるかもしれないが、佐々木が口にすると妙な説得力がある。彼の中で“夜の屋上”と“神様”が密接につながっているらしい。
2
それから数日間、聡は佐々木の言動を意識的に観察してみた。授業中の佐々木は相変わらず分かりやすい講義をしつつ、生徒と雑談を交え、クラスの人気教師として慕われている。
しかし放課後になると、佐々木は部活動を持たない分どこか影があり、時折「出かけてくる」と言い残して職員室を後にする。その行き先は推測するまでもなく、夜のビルの屋上だろう。
殺人事件の捜査はまだ続いており、佐々木が疑われた形跡はあるものの決定的ではなく、警察も深追いはしていない。
ある夕方、下校途中の聡はふと空を見上げる。ビルの上は見えない。もしそこに佐々木がいるのなら、彼の目にはどんな世界が映っているのだろう。誰も気づかない場所で、誰も想像しないものを見ている……そんなイメージが頭に浮かぶ。
家に帰り、夕飯の席で家族と他愛ない会話をしながらも、心の中では“夜、あのビルに行ったらどうなるんだろう”という好奇心が拭えない。それは恐怖とも隣り合わせだが、同時に“自分も見てみたい”という気持ちがわずかに芽生えている。
――あの日、塾帰りに古いビルで佐々木と鉢合わせしたときの動揺が、いつの間にか“興味”に変わりつつある。自分でも気づかぬうちに、背徳感に引き寄せられているのかもしれない。
深夜、布団に入ってもその思いがくすぶり、なかなか寝付けない。どこかで自分自身を責める。「俺はこんな危ない真似をしたら駄目だ。警察沙汰になったら家族にも迷惑がかかるし、佐々木だって教師だろうに……」と。
それでも、翌日を迎えても心のざわつきは消えない。
3
ある日、佐々木がひょんなタイミングで聡に声をかけた。放課後の昇降口、靴箱で靴を履き替えているときだ。
「今日は塾か?」
「はい、21時ぐらいまで自習して、それから帰ります」
「そうか。じゃあ、22時半ぐらいに駅前のコンビニで待ち合わせないか?」
唐突な誘い。嫌な予感がする。
「……もしかして、またビルに行くんですか」
「もしお前が怖いなら来なくていい。俺はこのあとちょっと用事を済ませてから、別のビルの屋上を覗きに行く予定なんだ。せっかくだし一緒に来るか?」
笑顔の裏にある冷淡さを感じる。この男は本気で誘っている。
「不法侵入ですよ……」
「知ってる。だから断るなら断れ。ただ、お前も少し“見たい”って思ってるんじゃないのか?」
その言葉に、聡は反論できなかった。確かに少なからず好奇心はある。人間が普段立ち入らない闇の空間と、神様しか見ていないかもしれない世界。
結局、その日は曖昧にうなずき、別れてしまう。自分の中で「行くな」「いや行きたい」という気持ちが攻め合ったまま、塾へ向かった。
夜、21時半を回るころ、塾を出てコンビニへ向かう足が重い。行きたくなければ帰ればいいのに、なぜか身体がそちらへ動いてしまう。
コンビニの前に立つと、ちょうど佐々木が黒いフードパーカーを着て現れた。スポーツバッグを肩に掛け、まるで日常の延長のような軽い足取り。
「やあ、来たんだな」
「……はい」
「じゃあ、行こうか。面白いビルがあるんだ」
そう言って歩き出す佐々木。聡は無言でついていく。胸の鼓動が早い。夜道は閑散としており、街灯が等間隔に道を照らしている。数十分ほど歩いた先にそびえるのは、先日まで聡が知らなかった中型ビルだ。
表口はシャッターが下りているが、非常階段の扉がやや乱雑に扱われているらしく、鍵の閉め方が甘い。佐々木がそれを器用に開ける。
「おいおい……ガチで不法侵入じゃないですか」
「そうだな。でも誰も困らないだろ? 警備会社が巡回してないか確認してから行くから、そうそうバレない。まあ、見つかったら逃げるんだよ」
軽々しく言い放ち、非常階段を上がっていく佐々木。聡は足が震えるのを感じながらも、あとに続く。
4
暗い金属階段を何階分も登った末、屋上に出ると、想像以上の風が吹き抜けてきた。目の前には街の夜景が広がり、下には車のライトが小さく流れている。
「すご……」
思わず口に出る。地上とは別世界のような静けさがある。人の気配などほとんどなく、ビルとビルの隙間に挟まれた闇が底知れず広がっている。
佐々木はバッグから何かを取り出す。色あせたシャツだ。
「これ、昔よく着てたやつだけど、ボロボロになって着られなくなった。捨てるのは惜しいような気がしてね」
シャツを広げると、生地の一部が穴が開いているのがわかる。
「ここで置いていくのか……?」
「そう。不法投棄だな」と、佐々木は悪びれもせず言う。「でも屋上って、誰も来ないし、神様しか見てないかもしれないだろう? だからこういう“いらないもの”を放置するには都合がいい」
確かに危険物でもなさそうだが、倫理的には問題しかない。
「もしそれ見つかったら……」
「ビルの管理人が処分するかもしれないし、そのまま風で飛ばされるかもしれない。いつかどこかへいくかもね。俺には関係ないさ」
そう言って、シャツをコンクリート床に放る。夜風に端が揺れて、ペラリと音を立てる。
「人間が何をしたって、神様は文句言わないだろう。結局、見ているだけで何もしない。……ある意味、誰も見ていないのと同じかもしれないな」
聡はこの行為を目撃して複雑な気持ちになる。確かにビルの屋上はほとんど“人の目”が届かない空間だ。しかし、そこに“神様”がいると想像する一方で、それを免罪符にもしているように見える佐々木の姿勢に、言いしれぬ不安を感じる。
「先生は……なんで神様がそこまで見ていると思うんですか」
「わからない。ただ、そう思うと面白い。人間ってちっぽけで、知らないことばかりだ。善悪とか罰とか、実はそれほど大した問題じゃないんじゃないかと思えてくる。神様がいても救ってくれないし、罰もしないのなら、いないのと同じだろう。だけど“見ている”という発想がゾクゾクする。矛盾してるかもしれないけどね」
彼は笑うが、その笑いが冷たくも寂しげにも見える。
しばらく二人は黙って夜景を眺める。遠くで電車の音がかすかに響き、足元にはビル風が渦を巻く。
やがて佐々木が動く。「そろそろ戻るか。お前も怖いだろ? もし警備員が来たら面倒だし」
聡はこわばった表情でうなずく。確かにいつ誰かが来るかわからない。警備カメラに映る可能性だってある。背徳感とスリルを抱えつつ、二人は非常階段を下りる。
こうして聡は、人生で初めて教師と一緒に不法侵入の現場を経験するという、信じがたい体験をしてしまった。
第四章
1
夜のビルから抜け出し、駅まで戻る道すがら、聡の頭は混乱していた。あれほど危ない行為だとわかっていながら、自分は結局ついていってしまった。
「先生、これ、もし見つかったら本当に……」
「捕まるかもな。でも、そうならないようにやってるつもりだ。まあ、万が一俺が捕まっても、お前が捕まらなきゃいいんじゃないか? そのときはお前はさっさと逃げろ」
他人事のように言われ、聡は苛立ちを覚える。しかし同時に、どこか「それもそうか」と納得しそうな自分がいて嫌になる。
「これって、罪ですよね……」
「そうだな。法を犯してるからな。罪悪感はないとは言わないが、そんなに重く考えてない。誰かを物理的に傷つけてるわけじゃないしな」
佐々木はさらりと答える。その軽さに、聡は改めて衝撃を受ける。
――だが、自分もまた、誰も傷ついていないはずの罪を抱えて苦しんでいる。もし佐々木のように割り切ることができたら、もっと楽なのかもしれない。
「……先生、なんでそこまで強くいられるんですか? 普通は罪を犯したら不安とか、誰かに知られたらどうしようとか思うじゃないですか」
「強い? 俺はただ、逃げたり隠れたりするだけだよ。実際、不法侵入は警察にバレたら面倒だしな。でも、それと“罪”とはまた別の問題だろ? 俺自身は“これくらい”と思っている。その価値観が、お前とは違うってだけじゃないか」
聡は返す言葉を見つけられない。佐々木の中では、ビルの屋上への侵入はあくまで個人的な行動原理にすぎず、社会的に大きな悪だという自覚は希薄だ。むしろ神様や人間の限界を皮肉るように、その行為自体を肯定している節がある。
「神様だって、俺を罰しやしないだろ。むしろ見て笑ってるかもしれないね」
佐々木がくつくつ笑う。結局、その夜は何事もなく解散し、聡は帰路につく。
自宅に着いても胸のざわめきは消えない。ベッドに横たわり、天井を見つめる。自分が触れてしまった“違法行為”と、その背後にある佐々木の不可解な価値観。
棚の上の箱の存在が頭をかすめる。あの集金袋を佐々木に託したら、自分は楽になるのだろうか――そう思い始める自分が怖かった。
2
翌日、放課後に塾へ向かう道で、小学校時代の友人に偶然出くわした。違う高校へ行っているが、同じ塾を使い始めたらしい。
「久しぶり。元気だった?」
「まあね。お前、こっちの塾来てたんだな」
軽く会話が弾む中で、小学校時代の話題が出る。運動会での失敗談や、遠足で先生に怒られた思い出などを懐かしむうちに、ふと集金袋事件のことを口にする。
「ああ、あったよねえ、あれ。ちょっとした騒ぎになったけど、結局“犯人”は誰だったんだ?」
「なんか、よくわからないまま終わったような……。確か転校した子が怪しいって噂になってた気がする。Aが疑われてたけど無実だったとか」
「そうそう。途中でお金も戻ったとか、あやふやな感じだったよね。もう詳しく覚えてないけど」
友人はあっけらかんと語るが、聡には胸の奥をえぐられるような感覚があった。自分だけが拾った空の集金袋をずっと隠しているなんて、彼らは夢にも思っていない。
そして、その事件によって誰かが深刻な被害を受けたわけでもないらしい。Aに対する誤解もいつの間にか解け、最終的には大きな問題にならずに終わったとか。
「みんな、もう忘れてるんだろうな……」
友人の言葉が虚しく響く。聡にとってはずっと消えない罪悪感なのに、周囲はすでに過去のどうでもいい出来事として扱っている。
塾のロビーを出るころ、夜風に吹かれながら改めて考える。自分はなぜ、ここまで罪悪感を抱き続けるのか。何も失われていないのなら、もう手放せばいいのではないか。
しかし、それができないから苦しんでいる。まるで存在しないはずの鎖に自分を縛っているような気がする。
3
数日後、学校ではまた「警察が来てるらしい」という噂が立った。殺人事件の捜査が進んでいるのか、関係者への聞き取りを続けているようだ。
放課後の校内に警察の姿が見え、職員室へと通されていく。その後ろ姿を廊下から見て、聡は身構える。もしまた佐々木が怪しまれたらどうしよう。自分の夜の同行がバレたら……。
結論から言えば、今回も大きな問題にはならなかったらしい。例の免許証の件は時期が古いことが決定打となっており、佐々木のアリバイや行動も特に問題なし。あくまで「事件当時、怪しい人物はいなかったか」といった形式的な確認だったという。
放課後、廊下で佐々木に会うと、彼は人差し指を立てて小さく笑う。
「警察、まだ粘ってるみたいだけど、俺を本格的に疑う材料はないんだよ。免許証が古すぎるからな」
「免許証、そんなに色褪せてるんですか?」
「そう。俺も見せてもらったけど、写真がほとんど判別できないくらい。文字もかすれかけててね。でも俺の名前だけはギリギリ読める。そのせいで一応疑われただけだよ」
それ以上の会話をする暇もなく、佐々木は職員室へ戻る。聡は安心したような、拍子抜けしたような気分を抱えながら帰宅の途につく。
――しかし、内心では「本当にこのままでいいのか」との葛藤が消えない。佐々木の言い分は一貫して「罪は罪でも大したことはない」というスタンス。そこに神様の存在を仄めかしつつも、自分の行動を正当化しているように思える。
“俺は夜のビルで人知れず何かを見ている。神様が見ていても、罰を下すわけじゃない。だったら自分の興味を貫くだけでいい。”
そういう割り切りを、聡はうらやましいと感じる反面、恐ろしいとも思っていた。
4
自室に戻った聡は、例の箱を開け、古びた集金袋を手に取る。端が破れて黄ばんだ紙の質感。かつてはこれにお金が入っていたはずなのに、今は空っぽ。
――こんなもの、一体なんの意味があるんだろう。
周囲はもう忘れている。それでも自分だけが“罪”だと思い込んで手放せない。それこそが罪悪感の正体なのかもしれない。
もし佐々木にこの袋を渡したら、彼はきっと夜のビルへ持っていって放置するだろう。不法投棄だと笑いながら。それは罪を捨てる行為か、あるいは罪から逃げる行為か――わからない。
考え込んでいると、スマホの画面にメッセージが届く。友人からのたわいない誘いだ。しばらく部活の連中とご飯に行かないかという話。
だが、今の気分では乗れそうにない。曖昧に断り、布団に倒れ込む。夜風が窓の隙間から吹き込み、カーテンを揺らす。
――誰からも糾弾されない罪。それでも自分は苦しい。佐々木のように「大したことじゃない」と開き直れたら、どんなに楽だろう。
いつしか聡は浅い眠りに落ち、屋上の闇と集金袋の夢を見る。
第五章
1
ある土曜の午後、佐々木から「ちょっと話したいことがある」とメッセージが来た。場所は学校近くの公園。夕暮れ時、子どもたちの遊びもひと段落し、がらんとしたブランコと滑り台だけが静かに佇んでいる。
「どうしたんですか、急に」
「お前に確認したいことがあってな。もし俺が“犯人”だったら、お前はどうする?」
佐々木はベンチに腰掛け、膝に肘をついて聡を見上げる。
「え……先生、それ、本気で言ってるんですか」
「誰も俺を捕まえられない。警察は証拠を持ってないから。けど、もしお前だけが俺の罪を知ったら……どうする?」
その瞳には冗談めいた光も見えるが、一方で突き刺さるような鋭さを感じる。
「……本当に先生があの事件の犯人だったら、俺は……」
「警察に言うのか? あるいは黙っているのか? 神様が見てるから正義を全うするというわけでもないだろ。どっちが正解かなんてわからない」
聡は答えに詰まる。もし佐々木が実際に殺人を犯していたら、自分はその事実を抱えきれるのか? 警察に通報する勇気があるのか?
「……わからないです」
正直にそう答えると、佐々木は小さく微笑んで、「まあ、実際には俺は犯人じゃないけどな」と肩をすくめる。
「不法侵入程度でも、お前はビビってる。なら殺人なんてもっと恐ろしい罪だ。だが、やった人間はやってしまうんだよ。神様が見ていようと、あるいは見ていまいと、変わらない。人間は勝手なもんだ」
説教臭いというよりは、達観したような物言い。聡は反発を覚えつつも、それが一理あると感じる。
「先生は……その、罪悪感とか、まったく感じないわけじゃないんですよね?」
「感じるさ。夜のビルに侵入して、誰かが嫌な思いをするかもしれない。注意されたら逃げる。それも卑怯かもしれない。でも、だからって俺はやめない。神様が見てても止めない。これが俺のやり方だ」
そこには強烈な裏表を感じる。昼の佐々木は爽やか教師として生徒に接し、夜の佐々木は法を犯してでも屋上を覗き、人間の知らない世界をのぞく。
そしてその根底には、神様は何でも見ているけれど、別に救いもしないし罰もしない、という唯物的な虚無観が横たわっているかのようだ。
「志田、お前も何か抱えてるんだろ? “誰も知らない罪”があるって顔してる」
ギクリとする。まさか自分が集金袋を隠していることまで気づいているのか? いや、そこまで知っているはずはない。ただ、佐々木は鋭い観察眼で聡の内面を見透かしているようだ。
「……あるかもしれません。でも、誰にも言えない」
「そうか。だったら俺に預けてみるか? 夜のビルに捨ててきてやるよ。“不法投棄”ってやつだな、俺は慣れてるから」
冗談とも本気ともつかない誘いに、聡は言葉を失う。それは一見、乱暴な解決策だが、今の自分にはどこか魅力的な響きもある。罪の象徴を他人に預けて捨ててもらう――そんな選択肢が浮かぶだけで、胸がざわつく。
公園の夕暮れの空気が冷たく、ブランコのチェーンが風でかすかに揺れる音がする。誰もいない世界で、二人だけが話をしている。まるで神様が気まぐれに見下ろす舞台のようだ。
2
ある日の夕飯時、テレビのニュースが殺人事件の続報を報じていた。
《先月、ビルの屋上で発見された若い女性の遺体について、警視庁は被害者の交際相手の男性を逮捕したと発表……》
被疑者は逃亡していたが、ようやく身柄を確保されたらしい。怨恨関係のトラブルとの見方が強いという。
それを見て聡は安堵する。少なくとも、佐々木が犯人ではないのがはっきりした。これで警察の捜査も一段落するだろう。
翌日、学校でもそのニュースが話題になり、「まさか佐々木先生が犯人じゃないってわかったし、やっぱよかったよね」などと言う生徒もいる。佐々木本人は「ああ、俺は無実だよ」と冗談めかして笑っている。
――しかし、だからといって佐々木の夜の行為が消えるわけではない。彼はこれからもビルに忍び込むのだろう。法を犯しているという罪悪感を抱えながら、しかし彼なりにそれを“たいしたことない”と受け流す。
“神様だけが屋上を見ている”――その言葉を思い出すと、胸に妙な空洞が生まれる。人間社会の善悪は、所詮地上の理屈でしかないのかもしれない。ビルの上の世界を神様が見ていても、介入もしないし、罰もしない。
何とも言えない割り切れなさを抱えながら、放課後の中庭を歩くと、案の定佐々木が向こうから声をかけてきた。
「どうだ、安心したか? もう俺を殺人犯だなんて疑わないだろう」
「はい……まあ、そうですね」
「ちょっとは寂しい気もするけどな。もし本当に俺が犯人で、神様もそれを見ているのに誰も止めなかったなら、それはそれで面白いと思わないか?」
なんてことを口にする。聡は「いや、まったく面白くないですよ」と否定するが、佐々木は変わらず飄々としている。
彼の頭の中では、人間の理屈と神様の存在は切り離されているらしい。そこに道徳的な宗教観もなければ、良心に基づく後悔もない。
――唯物論的に見れば、人間の行為など所詮些末なものであり、神様はそこに関与しない。だからこそ彼は夜の不法侵入をやめないのだろう。
3
数日後、聡はある決断をした。自室の棚からあの集金袋を取り出し、箱ごと持ち出す。もし“神様しか見ていない”場所に置いてくれば、自分の中の罪悪感は少しは軽くなるのか――半ば試すような気持ちだった。
学校の廊下で、部活帰りの人波が途切れたタイミングを見計らって、佐々木に声をかける。
「先生、少し時間いいですか」
「なんだ?」
周囲に人がいないことを確認し、聡はカバンから小さな箱を取り出す。中にはあの集金袋が入っている。
「これ、昔から持ってて……捨てられないんです。でも、もし先生が夜のビルの屋上にこれを置いていってくれたら、俺は少し楽になるかもしれません」
震える声で差し出すと、佐々木は目を細めて箱を開け、中をのぞく。破れかけた集金袋を取り出し、裏表を確かめるように指先で触れる。
「ふうん……要は“罪の象徴”ってわけか。これを捨てたいんだな。俺に預けて、夜の屋上に不法投棄しろってことか」
悪びれる様子もなく、ゆっくり箱を閉じる。その仕草に、聡は密かに安堵と怖さを同時に感じる。
「いいのか? 本当にそれで?」
「はい……。自分の手で捨てられなくて。でも、これを先生に預けたら、もう戻せないだろうし」
「戻せない保証はないぞ。神様だけがそれを知ってて、人間の誰かがまた拾うかもしれない。どこかで風に飛ばされて、お前のもとに戻るかもしれないじゃないか」
不吉な冗談のようにも聞こえるが、佐々木なら本気で言いかねない。
「それでも……一度手放してみたいんです。誰にも責められない罪かもしれませんが、俺自身がずっと抱えてるので」
声を絞り出すようにそう告げると、佐々木はふっと小さく笑って箱を受け取った。
「わかった。お前の罪、俺が夜の屋上に捨ててきてやる。ま、こんなのただの紙くずだしな。俺なら簡単に処分できる。……でも、ほんとにいいんだな?」
「はい……お願いします」
それが正しい行為かどうかはわからない。だが、聡にはもうどうしようもなく、この罪を誰かに預けないことには前へ進めない気がした。
廊下の蛍光灯の下、佐々木は箱をカバンに入れ、「じゃあ俺は今日の夜にでも行くかな」と言って踵を返す。
4
家に帰った聡は、棚の上が空になったことに奇妙な感慨を覚える。ずっとそこにあった「罪の象徴」が消えた。それだけで部屋の空気が変わったように感じる。
だが、本当にそれで心は軽くなるのだろうか。佐々木がきちんと捨ててくれる保証はないし、たとえ捨てても罪悪感自体がなくなるとは思えない。
夜の闇が窓の外に広がる。ビルの灯りはまばらで、向かいのビルの屋上が見えない。そこに佐々木がいるのかもしれない。あるいは別のビルを巡っているのかもしれない。
――神様が見ているなら、どうか自分の罪を流し去ってほしい。けれど、神様はそんなことしてくれないだろう。善悪の裁きも救済もしない。ただ静かに見ているだけ。
少しだけ涙が滲む。これでいいのかという葛藤と、長年の重荷を手放す解放感が混ざり合い、何とも言えない感情が込み上げる。
やがて、スマホを握りしめたまま眠りに落ちる。明日からどんな気持ちで過ごせばいいのか、今はまだ全くわからない。
第六章
1
翌日、学校の廊下ですれ違った佐々木は特に何も言わない。まるで集金袋のことなど忘れてしまったかのようだ。ただいつものように軽い挨拶を交わすだけ。
聡は気になって仕方がないが、自分から問いただす勇気もない。もし“捨てられずにまだ持ってる”と言われたらどうしようか。あるいは“ちゃんと置いてきたよ”と言われたら、それはそれで不安だ。
放課後、中庭で佐々木を見かけて思い切って声をかける。
「先生……あの、昨日のアレは……」
「アレって?」ととぼける佐々木。すぐに「ああ、あの紙切れか」と思い出したように頷く。
「夜、適当なビルに行って置いてきたよ。ま、細かい場所は言わないでおく。どうせ不法投棄だからな。そこに神様がいたかどうかは知らんが、もうお前の手元には戻らないんじゃないか?」
そのあっさりした物言いに、聡は複雑な安堵と罪悪感が入り混じった感情を抱く。
「これで、お前は少しは楽になれたのか? 罪が消えたとは限らないだろうけど」
「……正直、まだよくわかりません。でも、ありがとうございます」
佐々木は軽く片手を上げて「どういたしまして」と答え、笑いながら去っていく。朝夕の空気は少しずつ冷え込み、校庭には落ち葉が舞い始めている。
――罪が本当に消えたわけではない。だが、少なくとも自分の手元から“象徴”はなくなった。これをどう受け止めればいいのか。
2
夜、自室のベッドに横になり、天井を見つめながら考える。
――佐々木は、不法侵入を罪とも思わずに繰り返す。神様の存在を皮肉に利用しつつ、夜の屋上を自分の探究の場としている。
――自分は、自分だけが知る罪を、佐々木という他者に預けた。捨ててしまった。それによって心が軽くなったのか、まだわからない。
もし神様が本当にすべてを見通しているのなら、その行為をどう評価するのか。きっと何もしない。何の裁きも救済も与えず、ただ存在し続けるだけ。その意味で、人間には人間の世界があり、その中で善悪や罪を引きずって生きるしかないのだろう。
眠りに落ちる寸前、聡はふと「屋上はどんな場所なのか、いつか自分でも確かめてみるべきかもしれない」と思う。しかし、それは恐怖も伴う選択だ。警察の目を逃れながら、あの闇の空間へ踏み入れ、神様しか見ていない光景を覗くなど、自分にはできるのか。
そんな混乱を抱えながら、瞼が重くなる。夢の中で、闇夜のビルの屋上にシャツや集金袋が散乱していて、風に吹かれてどこかへ飛んでいく光景が浮かぶ。何度振り向いても、それがまた自分の背後に舞い戻ってくるような悪夢だ。
朝になれば、いつもどおりの学校生活が始まる。家庭科の授業で調理実習をし、部活に励むクラスメイトたちの喧噪に混じって過ごす。表面上は平和な日常だ。誰も自分の中の罪に気づいていない。
3
数日後の夕方、帰宅しようと校舎の廊下を歩いていると、中庭のベンチに佐々木の姿を見つけた。日は沈みかけ、赤みを帯びた光が校舎を照らしている。
思わず足を向ける。佐々木はスマホを眺めながらぼんやりしているようだ。隣に腰を下ろすと、彼は微笑みを浮かべた。
「よお。最近、元気そうじゃないか」
「はい、まあ……あの集金袋、やっぱり捨ててくれたんですよね」
「捨てたとも。ビルの屋上に置いてきただけだけどな。いずれ誰かが見つけるか、風に吹かれて飛んでいくか。俺もそれっきり触ってないから知らない」
聡は静かに息をつく。それで本当に終わったのか?
「もし、また戻ってきたら……怖いな」
「かもしれないな。神様がやきまわしをして、お前の罪を再び差し出してくるかもしれない。だけど、そのときはそのときだ。あんまり考えても仕方ないんじゃないか?」
淡々とした物言い。聡は「そうかもしれませんね」と力なく笑う。
「先生、これからも屋上に行くんですか?」
「行くよ。変わらない。俺は神様がどうであれ、ビルの上を見たいし、そこで何が起こってるのかを知りたい。法律的には間違いかもしれないが、善悪は紙一重でしょ。俺にとってはそれが真実だし、それこそが人生の一部なんだ」
「……警察に捕まる可能性とか、懲戒免職になるかもとか、怖くないんですか?」
「そりゃ怖いさ。でもやめられない。恐怖と好奇心は表裏一体なんだ。神様しか見ていない場所に、自分が踏み込むっていう背徳感が俺を駆り立てる」
夕暮れの風が校庭を吹き抜ける。生徒の姿もまばらになり、校舎の窓からは消灯が始まっている。
「志田、お前も何かあればまた俺に預ければいい。不法投棄はお手の物だからな。だけど、それで本当にお前の心が救われるかは別問題だ。最後はお前自身がどう折り合いをつけるかだよ」
聡はうなずきながら、どこか哀しげな気持ちでそれを聞いている。確かに彼は集金袋という物理的象徴を手放したが、罪悪感は完全には消えていない。もっと深いところで、自分が何をすべきか迷っている。
「……神様は、どう思ってるんでしょうね」
唐突にそんな言葉が口をついて出る。
「さあな。神様は笑ってるかもしれないし、怒っているかもしれない。あるいは関心すら持たないかもしれない。人間には知る由もない。ただ、それでいいんじゃないか?」
優しい声でもなく、かといって冷たい声でもない。佐々木はただ事実を語るように答える。
「お前はお前の罪と向き合いながら、それでも生きるしかない。俺も同じだ。ビルの屋上で得たものが正しいのか、神様が見ているのかなんて、どこにも答えはない。曖昧なままでも人は生きていくし、そうするしかないんだよ」
そう言って立ち上がり、「じゃあな」と手を振る。残された聡は、西日に赤く染まる校舎を眺めながら、心にぽっかりと穴が開いたような感覚を抱く。
――罪も、神様も、よくわからない。でも、それでも日常は続いていく。きっと佐々木はまた夜になればビルへ向かうし、私は私でこの先の人生を歩まなければならない。
誰も答えを教えてくれないし、神様はただ見ているだけ。善悪や価値観の答えを誰かが用意してくれるわけではない。
それでも、明日の朝は変わらずやってくる。人々の営みは地上で繰り返され、屋上はほとんど誰も顧みない空間として存在し続ける。そこで生まれる罪も、捨てられる秘密も、すべては曖昧なまま風に揺れる。
4
聡はそのまま帰宅し、いつもどおり夕飯をとって家族と会話を交わす。姉や父母との何気ないやり取りの中で、先日まで抱えていた「集金袋」への執着をふと振り返る。
――もう手元にはない。それでも、完全に忘れられるわけでもない。時々思い出すだろう。そのとき胸が痛むかもしれない。
神様が見ているかどうかはわからない。でも、それでも生きていく。
夜、窓の外のビル群を眺める。屋上には何があるのか見えない。そこに佐々木がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。闇の奥で、風が何かを揺らしているかもしれない。
だけど、それは自分とは直接関係のない景色だ。少なくとも表面的にはそう見える。
罪悪感は消えずとも、世界は続く。人間には見えない場所を神様が見ていたとしても、神様が救ってくれるわけじゃない。結局、彼と同じように「自分で折り合いをつけるしかない」のだ。
――それこそが、最初から最後まで曖昧な現実。
布団に潜り、深呼吸をする。いつか、もしまた罪が戻ってきたら、そのときどうするかはわからない。だが、少なくとも今はほんの少しだけ心が軽くなったように思えた。
(了)
月のない夜だった。
東京郊外、そこには大小さまざまなビルが点在するビジネス街と住宅街の境界がある。深夜という時間帯を迎え、周囲の騒音はほとんど聞こえない。人の気配も遠ざかり、ビル群のシルエットが闇に浮かんでいるだけだ。
そんな街の一角にある中層ビルの屋上。鉄柵に囲まれたコンクリート床の上に、一人の若い女性が横たわっている。生命を失った身体は、もう動きそうになかった。血飛沫も目立たないため、何が起こったのか判断しがたいが、その顔は虚ろに宙を見つめている。
その死体を見下ろすように、黒いフードを深くかぶった男が立っていた。ほとんど顔が見えない。声を上げる様子もなく、しばし沈黙。
ビルの上は風が強く、もし月があれば白い光が差し込むのだろうが、この夜は雲が厚く、月さえ見えない。星すらもぼんやりとかすかにしか輝かない。
男はやがて小さく一つ息をつくように見えたが、それ以上何も言わず、フェンスの脇をすり抜けると、そのまま暗闇に姿を消していく。
残されるのは夜の静寂と、動かない死体だけ。
翌日、あるいは数日後、ここに人々の目が集まり、警察の捜査が始まるだろう。しかし今はまだ誰も知らない。世界から切り離された密室のようなこの屋上で、月の光さえない夜がひっそりと深まっていく。
第一章
1
都内の市部、ベッドタウンとして開発が進んだ地域にある十一階建てのマンション。志田聡(しだ さとし)はその十階に家族四人で暮らしている。
夜の十一時を回った頃、彼は自室で机に向かっていた。一応、塾の課題を片付けようという意気込みはあるが、集中力が途切れがちで、ふとスマホを見ては動画サイトを眺めてしまう。
薄く開いているドアの向こう、リビングからは父母がテレビを観る声や笑い声が聞こえてくる。少し離れた部屋では大学生の姉が勉強しているのか、あるいはもう寝ているのか。
姉は成績優秀で、昔から模範的と評されてきた。比較的おとなしい性格ながらも、要領よく物事をこなし、両親の信頼も厚い。聡はというと、特別不良ではないし成績が悪いわけでもないが、“姉ほどではない”と見られることが多かった。
疲れを感じた聡は、窓へ目をやる。夜景を見ても派手さはないが、大通りを通る車のライトが遠く小さく流れていくのがわかる。
――そして向かいのオフィスビルの屋上に、不審な人影を見つけた。
「……あれ、なんだろう」
思わず声に出してしまう。それは人間のシルエットだ。黒い服をまとい、フードを被っているかもしれない。高さ的にはちょうど対面なので、動きはおぼろげながら見える。
しかし、その人物は何をするわけでもなく、ただ佇んでいる。屋上の柵の近くにも寄らず、下界を見下ろしているのかどうかさえ判然としない。
十数分ほど観察していると、その黒い影はふっと姿を消した。やはり非常階段から降りていったのだろうか。
胸に奇妙なざわつきを覚える。「誰だったんだ……?」と問いかけても答えはない。もし自殺志願者なら、もっと派手に身を乗り出すだろうし、何か目的があったのだろうか。
結局、はっきりしたことがわからず、聡は窓から離れた。机に戻ろうとするが、先ほどの光景が頭から離れない。自分の住むマンションと同じか、やや低いくらいの高さのビル。その屋上で深夜にうろつく人影。それは現実離れした光景に思えた。
その夜、勉強にはほとんど手がつかないまま、何となく眠りにつく。頭に漂うのは暗いビルの屋上、そして黒い影のシルエットだ。
2
翌朝、聡はいつもどおり高校へ向かう。都心ほどではないが、そこそこ人通りのある駅から徒歩で十五分ほどに位置する県立高校だ。二年生となった彼は、特に部活には所属せず、ごく無難な学校生活を送っている。
ホームルームが始まり、担任教師が連絡事項を読み上げる。朝の光が差し込む教室は眠気との戦いで、前の席から小さなあくびが聞こえたり、机に突っ伏している生徒も散見される。
1限目の数学が始まると、教壇の先生が「昨日の宿題をやってきた人ー?」と軽いノリで問いかける。周囲が苦笑する中、聡も渋々ノートを開く。昨夜の不審な人影のせいで中途半端にしか進まなかった宿題が、そこにはあった。
昼休みになれば、クラスメイトの何人かは学食へ走り、何人かは購買へパンを買いに行く。聡は弁当を持参しているので、教室で適当に近い席の友人たちと食べる。
「そういや最近、社会科の佐々木先生って人気あるよね」
誰かがそんな話を振る。二十九歳の若さで、わりとイケメン。爽やかな口調と社交的な振る舞いで生徒からは好感度が高い。特に女子生徒から「笑顔がいい」「運動神経よさそう」と評判だ。
実際、佐々木はボルダリングを趣味にしているらしく、休日にクライミングジムに通っていると聞いた。カジュアルでライトな雰囲気なので、生徒も近寄りやすいのだろう。
聡はといえば、佐々木に限らずどの教師とも深い関わりはない。授業を受けるだけの無難な生徒の一人だ。
午後の授業を受け終わり、放課後になると、部活組はグラウンドや体育館へ向かっていく。聡は塾のある日とない日で帰宅時間が変わるが、この日は特に用事もなく、友人と途中まで帰ることにした。
――だが、頭のどこかで、昨夜の人影がちらついている。ぼんやり考えても仕方がないとわかっていながら、その正体を知りたい衝動にかられる。
3
夕方に帰宅すると、リビングからは母が「おかえり」と声をかけてくる。父はまだ会社から帰っていないようだ。姉は大学の課題か何かで出かけているらしく、いない。
しばらくスマホを眺めて時間をつぶし、夜の食卓につく頃には父が帰宅している。四人で食卓を囲むのも久しぶりに思える。
父は「聡、そろそろ進路を考えないとな。大学行くんだろ?」と口にし、母も「そうよ。姉さんみたいに目標があるといいわねえ」と相槌を打つ。姉は苦笑しながら黙っている。
つい食欲をなくしかけた聡は、曖昧に相槌を打って早々に部屋へ引きこもる。
自室のドアを閉め、部屋にある背の高い棚の上部を見上げる。そこには古びた箱があり、小学校の頃から隠し続けているある秘密が入っている。それを思うだけで胸が痛い。
誰も気づいていない罪。自分でも「大したことではない」と思おうとするが、それでも完全に忘れることはできない。
――それは“集金袋事件”。
小学生の頃、同級生たちの集めた給食費か遠足費が入った封筒が紛失するという小さな事件があった。結果的にうやむやなまま終わったが、聡はこっそり“空になった集金袋”を拾っていた。
先生に届ければよかったのだが、事件が大きくなるにつれ、自分が疑われたらどうしようという不安が大きくなり、言い出せずに時機を逸した。そのまま集金袋は家に持ち帰られ、今も棚の上の箱にしまわれている。
――自分以外、誰も知らない罪。だが、それがずっと心を締めつけている。
何気なくスマホを手に取り、ベッドに横になる。結局その夜も勉強が進まず、悶々としたまま眠りについた。
4
それから数日後、塾に行った夜。時刻は22時半を回り、自習室で勉強していた聡は、ふとガラス窓の向こうを見やる。
向かいの古い雑居ビルの非常階段に、また黒い人影が見えたのだ。
――もしかして、あの日見たのと同じ?
その人影は、身軽な動きでパイプやフェンスをよじ登り、屋上へ消えていく。周囲を警戒しているのか、動作は素早く、暗闇に溶け込む。
「行くのか……」
自分でもわからない衝動に突き動かされ、聡は塾を出ると急ぎビルの前へ向かう。ここのビルはだいぶ年季が入っており、使われていないテナントも多い。人気の少ない夜なら、誰もいないのも当然かもしれない。
非常階段の下は街灯が弱く、薄暗い。車が時折通り過ぎるが、人通りはない。聡はそこで待ち伏せするように立ち尽くす。
やがて、金属階段を踏む足音が聞こえ、影が降りてくるのがわかる。心臓が激しく脈打ち、冷や汗がにじむ。
姿を現したのは――学校の社会科教師、佐々木亮一だった。
「……佐々木先生?」
思わず声を上げると、佐々木は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにクールな表情を取り戻す。フードを外すと、確かに昼間見慣れた顔がそこにあった。
「お前……志田か。こんな時間に何してる?」
「先生こそ、何やってるんですか……それって、不法侵入ですよね?」
佐々木は黙り込む。辺りの静寂を破るのは遠くの車の音だけだ。気まずい時間が数秒流れたのち、佐々木は唇をゆがませるように一瞬笑う。
「……こんなところで会うとはな。お前、塾の帰りか?」
その声はいつもの爽やかさとは違い、どこか低く冷たい響きを帯びていた。
第二章
1
翌日、放課後。聡は佐々木に呼び出され、生徒指導室へと足を運んだ。そこは生活指導担当の教師や、ちょっとした面談の際に使われる小部屋。
ドアを閉めると、佐々木はデスクの前に立ち、腕を組む。表情は昨夜と同じ、クールなままだ。
「昨日の夜、あのビルの前で何をしていた?」
先に切り出すのは佐々木。聡は少しムッとして、「先生こそ、不法侵入でしょ」と返す。
「建造物侵入罪、だな。まあ、万引きよりちょっと重いかもしれないけど、大したことじゃないよ。捕まらない限りはね」
このあっけらかんとした態度に、聡は唖然とする。普通ならもう少し取り繕うか叱責されそうなものだが、佐々木は自分が犯罪行為をしているという認識はあれど、さほど気に病んでいる様子はない。
「……夜のビルに登って、何してるんですか」
「見たいから登ってるんだ。俺は昔から、ビルを見るたびに“屋上に何があるのか”気になって仕方なかった。どんなビルでも、下からじゃ屋上の様子はわからないだろう? だったら自分の目で見たいと思うのは自然じゃないか」
子供が無人島を探検したがるのと同じような論法に思える。聡には到底理解しがたい。
「そんな好奇心だけで不法侵入するんですか……先生はボルダリングもやってるんですよね?」
「そうだ。ボルダリングで壁を登ってると、地上の人間が知らない景色を手に入れられる気がする。もっと言えば、神様くらいしか見てない空間ってのがあると思うんだよ。俺たち人間には見えない場所や世界が山ほどある。……知りたいだろう?」
「神様?」
「まあ、信じてるわけじゃないさ。でも俺は昔から“神様は何でも見通しなんじゃないか”と思ったりする。かといって信仰心があるわけでもなく、倫理観を持ってるわけでもない。むしろ“神様がいるなら、こんな人間の善悪なんかどうでもいいはずだろ”って感覚があるんだ」
唐突な神様の話に、聡は困惑する。佐々木が宗教的な思想を持っているとも思えないし、むしろそこに人間の無力さを感じているのだろうか。
「……あのビルの屋上には、死体があるかもと思ったことは?」
「あるかもな。でも、もし見つけたとして通報するかどうかは、そのときの気分次第だ。わざわざ自分が警察沙汰になる必要はないし。罪悪感? そんなもん、誰でもどこかに抱えてるしな」
あまりにもドライな言い方に、聡の背筋が寒くなる。まるで人命を軽視しているようにも聞こえる。ただ、佐々木の言葉には独特の「割り切り」が感じられ、一般的な道徳や宗教観とはかけ離れているが、彼なりの論理があるようでもある。
「もし誰かに見つかったらどうするんですか?」
「逃げる。万が一捕まったら……まあ、そうならないようにやるさ。最悪のときは殺すかもな、なんて冗談だけどな」
冗談にしては笑えない話だ。チャイムが鳴り、次の授業開始を告げる。
「昨日のことは黙ってろ。お前が言いふらしても面倒だからな」
そう言い捨てると、佐々木はひょいといつもの爽やかな笑顔をつくり、足早に部屋を出ていく。
残された聡は混乱したまま、胸の奥がざわついていた。
2
ところが翌日以降も、佐々木は何事もなかったかのように振る舞う。授業中はにこやかで、冗談を交えながら教科書の内容をわかりやすく解説する。女子生徒からの人気は相変わらずだ。
“夜のビルでフードを被って不法侵入する佐々木”と“昼間の爽やか教師の佐々木”――あまりの落差に、聡はどうにも困惑を拭えない。
ある日の夕食時、テレビで「近隣のビルの屋上で死体が発見された」というニュースが流れた。犯行日時はわからないが、被害者は若い女性。警察が捜査中という。
それを見たとき、聡は思わず息を飲んだ。佐々木が言っていた“死体を見つけたらどうするか”という話が頭をよぎる。もしや、佐々木はあの死体を既に見ていたのでは? あるいは本当に殺人事件に関与しているのでは?
「どうしたの、聡。ごはん食べないの?」
母の声で我に返り、箸を動かす。だが味がしない。食後、早々に部屋へ戻り、棚の上にある箱を見つめる。自分が抱える小さな“罪”と比べ、殺人事件は桁違いに重いが、なぜか共通する不気味さが胸をかき乱す。
――誰も知らない罪。誰も覚えていない罪。
しかし、それでも罪は罪。佐々木の言葉を思い返すと、まるで人間の倫理観なんて紙一重で崩れると思わせられる。もし神様がいるなら、そこで起きているすべてを見ているのか。だが、見ていたからといって救いがあるわけでもないのではないか――そんなふうに考えてしまう。
3
数日後、学校に警察が来たという噂が広まる。どうやらあの殺人事件について、近隣の学校を回って聞き込みしているらしい。中には「佐々木先生が疑われてるのでは?」という物騒な話も飛び交う。
実際、放課後になると「警察が職員室に来て佐々木先生に話を聞いてた」などという証言も耳に入ってくる。
聡は胸騒ぎを覚えながら下校する。もし佐々木が逮捕されれば、不法侵入の事実も含めてすべて明るみに出るかもしれない。自分が夜の現場を目撃したことも問われるかもしれない。
やきもきしながら数日を過ごすと、今度は佐々木本人から事の次第を聞く機会が訪れた。ある日の昼休み、廊下でひょいと呼び止められたのだ。
「志田、ちょっと来い」
人気のない準備室に入り、佐々木が自嘲するように笑う。
「俺、殺人犯だと思われてるらしいぞ?」
「やっぱり警察が……」
「いや、形式的な聞き取りだよ。実は、昔俺がバイトしていたビルで、免許証を落としていたんだ。学生時代、あのビルの管理補助をしててな。雑用とか夜の施錠確認とか。それが今回の事件現場と同じビルでさ」
「同じビル……」
「そこに残ってた免許証が俺の名前でな。もう何年も前だから色が完全に褪せてたけど、警察も念のため“お前が犯人か?”って疑うわけだ」
そう言って、佐々木は苦笑を浮かべている。
「でもまあ、何年も前の免許証だし、状況的に関与の証拠もないから、ただの形式確認だったよ。お前が心配するようなことはない」
聡はほっとする半面、まだ何か釈然としないものが残る。実際、佐々木が夜な夜なビルに侵入しているのは事実だし、それがバレたら大問題になるのではないか。
「先生はそれ、隠さなくていいんですか……?」
「警察はすでに俺の話を聞いて“まあ時期的に違うね”という結論らしい。大昔の免許証が見つかっただけで、直接の証拠にもならないし。俺が殺したわけじゃないから安心しろ」
あっけらかんとした態度。
「……先生、本当に無関係ですよね?」
佐々木はわずかに目を細める。
「信じるかどうかはお前次第だ。ただ、俺は“見ただけで満足する”タイプだからな。殺すならもっと別の方法を取るさ」
何を根拠に“満足”というのか。夜のビルを覗く動機は純粋な好奇心としか聞いていないが、底知れない思いがあるのだろう。
「俺は神様がすべて見てるんだろうと思う。でも、だからといって悪事をしないわけじゃない。人間には知り得ない世界がたくさんあるし、神様がそれを見ているからって、別にそれが罪の裁きになるとは限らない……そんな感覚があるんだ」
その言葉に、聡は一瞬言葉を失う。とても倫理的とは言えないが、同時に宗教的な罰を恐れていない様子も伝わってくる。むしろ“人間ごときが何をわかる”という唯物的な見方が根底にあるように思える。
――佐々木という人物は、やはり掴みどころがない。
呼び出しはそこで終了し、聡は廊下へ出る。外の世界はいつも通り、生徒たちが部活や雑談で賑わっている。まるで何事もないかのような日常の風景に、なぜか強烈な違和感を覚える。
4
放課後、聡は帰宅して部屋にこもる。棚の上の箱を取り出し、蓋を開けてみる。そこには、小学校名が印字された集金袋が入っている。すっかり黄ばんで、端が少し破れている。
――あのとき、これを先生に渡していれば、クラスメイトのAが疑われることもなかったかもしれない。
実際、Aはその後“誤解だった”と判明したらしいが、一時期いじめに近い冷ややかな扱いを受けていたと聞く。事件そのものも、転校した子が犯人扱いされうやむやに終わった。
聡の罪は“誰にも知られないまま”、こうして風化している。けれど、罪の意識だけはいつまでも残る。それが実際に誰かを傷つけたかどうかは、もう曖昧なのに、自分だけが苦しんでいる。
――もし佐々木なら、この袋を夜のビルへ持っていって、簡単に捨ててしまうかもしれない。
聡はそう思うと同時に、その考えに戦慄する。佐々木のような割り切り方ができれば気が楽なのか、それとも自分には到底できないことなのか。
夜、食卓で姉が「最近バイト忙しい」とか「大学のゼミがどうの」と話しているのを上の空で聞きながら、聡は心の奥で、屋上の風に吹かれた集金袋のイメージを想像してしまう。
第三章
1
ある日の昼休み、渡り廊下で窓外を見ながらぼんやりしていると、佐々木が通りかかった。相変わらずニコニコした笑顔を浮かべている。
「どうした、志田。今日は随分と眠そうだな」
「……夜、あんまり眠れなくて」
「夜更かしはいかんな。俺なんかは夜の散歩が好きでね。ビルの上、あるいは川沿いの土手を歩いたりする。夜空を見てると、“神様は案外ここにいるのかもな”って気分になる」
さらりと言ってのける。宗教関係の話ではないらしいが、聡はやはり引っかかる。
「先生、神様信じてるんですか?」
「どうだろうな。信じてるというか、“神様しか見えない場所”がきっとあると思ってる。人間ごときじゃ知り得ないことが、この世界にはたくさんある。たとえばビルの屋上も、人間はあまり意識しないだろ? でも神様なら上空から全部見てるんじゃないか。……そう考えると、俺はむしろ神様に対して皮肉を感じるんだ」
「皮肉?」
「そう。もし神がすべてを知っているなら、こんな人間の小さな善悪なんてどうでもいいだろう。戦争や犯罪なんて昔からあるし、そこで死んでいく人間を“ただ見るだけ”かもしれない。それが神という存在なら、いっそいないも同然じゃないか?」
あまりにも独特な理屈に、聡はうまく返せない。
「でも先生、それなら神様がいるとかいないとか、同じことじゃ……」
「そうだな。結局、神様がいようがいまいが、俺たちの行動は変わらない。罪を犯す人間は犯すし、清く生きる人間は生きる。だから俺も“神様に怒られるから夜に不法侵入しません”なんて、思ったことはないよ」
そこまで言って、佐々木は少しだけ笑みを消す。
「でも、神様が“見ている”って想像するのは、ちょっとゾクゾクするだろ? 俺たちが何をしていても、あの屋上に何が転がっていても、神様だけが全部見て知っている。人間が全部を知るのは無理だしな」
思わず背筋がぞくりとする。人間には見えない場所を、神が見ている。それはロマンチックでもあり、不気味でもある。
「だから俺は、夜のビルに行く。人の目は届かなくても、もし神様がいるなら見ているのかもしれないから。その場所を“確かめ”たいんだ」
佐々木の言葉にはどこか危うい魅力がある。まるで宗教的なカリスマというより、唯物論者が逆に神の存在を皮肉に利用しているかのような印象だ。
「でも、先生。そもそも法的には違反……」
「知ってるさ。俺がやってることは不法侵入、まさしく犯罪だ。でも、神様に怒られるより先に警察に捕まるほうが怖いよ。現実ってのはそんなもんだろ?」
言い捨てるように笑うと、佐々木は「じゃあ午後の授業、遅れんなよ」と言って教室のほうへ歩き去る。
その背中を見送りながら、聡は心の動揺を隠せない。神様云々の話は、ともすれば陳腐に感じるかもしれないが、佐々木が口にすると妙な説得力がある。彼の中で“夜の屋上”と“神様”が密接につながっているらしい。
2
それから数日間、聡は佐々木の言動を意識的に観察してみた。授業中の佐々木は相変わらず分かりやすい講義をしつつ、生徒と雑談を交え、クラスの人気教師として慕われている。
しかし放課後になると、佐々木は部活動を持たない分どこか影があり、時折「出かけてくる」と言い残して職員室を後にする。その行き先は推測するまでもなく、夜のビルの屋上だろう。
殺人事件の捜査はまだ続いており、佐々木が疑われた形跡はあるものの決定的ではなく、警察も深追いはしていない。
ある夕方、下校途中の聡はふと空を見上げる。ビルの上は見えない。もしそこに佐々木がいるのなら、彼の目にはどんな世界が映っているのだろう。誰も気づかない場所で、誰も想像しないものを見ている……そんなイメージが頭に浮かぶ。
家に帰り、夕飯の席で家族と他愛ない会話をしながらも、心の中では“夜、あのビルに行ったらどうなるんだろう”という好奇心が拭えない。それは恐怖とも隣り合わせだが、同時に“自分も見てみたい”という気持ちがわずかに芽生えている。
――あの日、塾帰りに古いビルで佐々木と鉢合わせしたときの動揺が、いつの間にか“興味”に変わりつつある。自分でも気づかぬうちに、背徳感に引き寄せられているのかもしれない。
深夜、布団に入ってもその思いがくすぶり、なかなか寝付けない。どこかで自分自身を責める。「俺はこんな危ない真似をしたら駄目だ。警察沙汰になったら家族にも迷惑がかかるし、佐々木だって教師だろうに……」と。
それでも、翌日を迎えても心のざわつきは消えない。
3
ある日、佐々木がひょんなタイミングで聡に声をかけた。放課後の昇降口、靴箱で靴を履き替えているときだ。
「今日は塾か?」
「はい、21時ぐらいまで自習して、それから帰ります」
「そうか。じゃあ、22時半ぐらいに駅前のコンビニで待ち合わせないか?」
唐突な誘い。嫌な予感がする。
「……もしかして、またビルに行くんですか」
「もしお前が怖いなら来なくていい。俺はこのあとちょっと用事を済ませてから、別のビルの屋上を覗きに行く予定なんだ。せっかくだし一緒に来るか?」
笑顔の裏にある冷淡さを感じる。この男は本気で誘っている。
「不法侵入ですよ……」
「知ってる。だから断るなら断れ。ただ、お前も少し“見たい”って思ってるんじゃないのか?」
その言葉に、聡は反論できなかった。確かに少なからず好奇心はある。人間が普段立ち入らない闇の空間と、神様しか見ていないかもしれない世界。
結局、その日は曖昧にうなずき、別れてしまう。自分の中で「行くな」「いや行きたい」という気持ちが攻め合ったまま、塾へ向かった。
夜、21時半を回るころ、塾を出てコンビニへ向かう足が重い。行きたくなければ帰ればいいのに、なぜか身体がそちらへ動いてしまう。
コンビニの前に立つと、ちょうど佐々木が黒いフードパーカーを着て現れた。スポーツバッグを肩に掛け、まるで日常の延長のような軽い足取り。
「やあ、来たんだな」
「……はい」
「じゃあ、行こうか。面白いビルがあるんだ」
そう言って歩き出す佐々木。聡は無言でついていく。胸の鼓動が早い。夜道は閑散としており、街灯が等間隔に道を照らしている。数十分ほど歩いた先にそびえるのは、先日まで聡が知らなかった中型ビルだ。
表口はシャッターが下りているが、非常階段の扉がやや乱雑に扱われているらしく、鍵の閉め方が甘い。佐々木がそれを器用に開ける。
「おいおい……ガチで不法侵入じゃないですか」
「そうだな。でも誰も困らないだろ? 警備会社が巡回してないか確認してから行くから、そうそうバレない。まあ、見つかったら逃げるんだよ」
軽々しく言い放ち、非常階段を上がっていく佐々木。聡は足が震えるのを感じながらも、あとに続く。
4
暗い金属階段を何階分も登った末、屋上に出ると、想像以上の風が吹き抜けてきた。目の前には街の夜景が広がり、下には車のライトが小さく流れている。
「すご……」
思わず口に出る。地上とは別世界のような静けさがある。人の気配などほとんどなく、ビルとビルの隙間に挟まれた闇が底知れず広がっている。
佐々木はバッグから何かを取り出す。色あせたシャツだ。
「これ、昔よく着てたやつだけど、ボロボロになって着られなくなった。捨てるのは惜しいような気がしてね」
シャツを広げると、生地の一部が穴が開いているのがわかる。
「ここで置いていくのか……?」
「そう。不法投棄だな」と、佐々木は悪びれもせず言う。「でも屋上って、誰も来ないし、神様しか見てないかもしれないだろう? だからこういう“いらないもの”を放置するには都合がいい」
確かに危険物でもなさそうだが、倫理的には問題しかない。
「もしそれ見つかったら……」
「ビルの管理人が処分するかもしれないし、そのまま風で飛ばされるかもしれない。いつかどこかへいくかもね。俺には関係ないさ」
そう言って、シャツをコンクリート床に放る。夜風に端が揺れて、ペラリと音を立てる。
「人間が何をしたって、神様は文句言わないだろう。結局、見ているだけで何もしない。……ある意味、誰も見ていないのと同じかもしれないな」
聡はこの行為を目撃して複雑な気持ちになる。確かにビルの屋上はほとんど“人の目”が届かない空間だ。しかし、そこに“神様”がいると想像する一方で、それを免罪符にもしているように見える佐々木の姿勢に、言いしれぬ不安を感じる。
「先生は……なんで神様がそこまで見ていると思うんですか」
「わからない。ただ、そう思うと面白い。人間ってちっぽけで、知らないことばかりだ。善悪とか罰とか、実はそれほど大した問題じゃないんじゃないかと思えてくる。神様がいても救ってくれないし、罰もしないのなら、いないのと同じだろう。だけど“見ている”という発想がゾクゾクする。矛盾してるかもしれないけどね」
彼は笑うが、その笑いが冷たくも寂しげにも見える。
しばらく二人は黙って夜景を眺める。遠くで電車の音がかすかに響き、足元にはビル風が渦を巻く。
やがて佐々木が動く。「そろそろ戻るか。お前も怖いだろ? もし警備員が来たら面倒だし」
聡はこわばった表情でうなずく。確かにいつ誰かが来るかわからない。警備カメラに映る可能性だってある。背徳感とスリルを抱えつつ、二人は非常階段を下りる。
こうして聡は、人生で初めて教師と一緒に不法侵入の現場を経験するという、信じがたい体験をしてしまった。
第四章
1
夜のビルから抜け出し、駅まで戻る道すがら、聡の頭は混乱していた。あれほど危ない行為だとわかっていながら、自分は結局ついていってしまった。
「先生、これ、もし見つかったら本当に……」
「捕まるかもな。でも、そうならないようにやってるつもりだ。まあ、万が一俺が捕まっても、お前が捕まらなきゃいいんじゃないか? そのときはお前はさっさと逃げろ」
他人事のように言われ、聡は苛立ちを覚える。しかし同時に、どこか「それもそうか」と納得しそうな自分がいて嫌になる。
「これって、罪ですよね……」
「そうだな。法を犯してるからな。罪悪感はないとは言わないが、そんなに重く考えてない。誰かを物理的に傷つけてるわけじゃないしな」
佐々木はさらりと答える。その軽さに、聡は改めて衝撃を受ける。
――だが、自分もまた、誰も傷ついていないはずの罪を抱えて苦しんでいる。もし佐々木のように割り切ることができたら、もっと楽なのかもしれない。
「……先生、なんでそこまで強くいられるんですか? 普通は罪を犯したら不安とか、誰かに知られたらどうしようとか思うじゃないですか」
「強い? 俺はただ、逃げたり隠れたりするだけだよ。実際、不法侵入は警察にバレたら面倒だしな。でも、それと“罪”とはまた別の問題だろ? 俺自身は“これくらい”と思っている。その価値観が、お前とは違うってだけじゃないか」
聡は返す言葉を見つけられない。佐々木の中では、ビルの屋上への侵入はあくまで個人的な行動原理にすぎず、社会的に大きな悪だという自覚は希薄だ。むしろ神様や人間の限界を皮肉るように、その行為自体を肯定している節がある。
「神様だって、俺を罰しやしないだろ。むしろ見て笑ってるかもしれないね」
佐々木がくつくつ笑う。結局、その夜は何事もなく解散し、聡は帰路につく。
自宅に着いても胸のざわめきは消えない。ベッドに横たわり、天井を見つめる。自分が触れてしまった“違法行為”と、その背後にある佐々木の不可解な価値観。
棚の上の箱の存在が頭をかすめる。あの集金袋を佐々木に託したら、自分は楽になるのだろうか――そう思い始める自分が怖かった。
2
翌日、放課後に塾へ向かう道で、小学校時代の友人に偶然出くわした。違う高校へ行っているが、同じ塾を使い始めたらしい。
「久しぶり。元気だった?」
「まあね。お前、こっちの塾来てたんだな」
軽く会話が弾む中で、小学校時代の話題が出る。運動会での失敗談や、遠足で先生に怒られた思い出などを懐かしむうちに、ふと集金袋事件のことを口にする。
「ああ、あったよねえ、あれ。ちょっとした騒ぎになったけど、結局“犯人”は誰だったんだ?」
「なんか、よくわからないまま終わったような……。確か転校した子が怪しいって噂になってた気がする。Aが疑われてたけど無実だったとか」
「そうそう。途中でお金も戻ったとか、あやふやな感じだったよね。もう詳しく覚えてないけど」
友人はあっけらかんと語るが、聡には胸の奥をえぐられるような感覚があった。自分だけが拾った空の集金袋をずっと隠しているなんて、彼らは夢にも思っていない。
そして、その事件によって誰かが深刻な被害を受けたわけでもないらしい。Aに対する誤解もいつの間にか解け、最終的には大きな問題にならずに終わったとか。
「みんな、もう忘れてるんだろうな……」
友人の言葉が虚しく響く。聡にとってはずっと消えない罪悪感なのに、周囲はすでに過去のどうでもいい出来事として扱っている。
塾のロビーを出るころ、夜風に吹かれながら改めて考える。自分はなぜ、ここまで罪悪感を抱き続けるのか。何も失われていないのなら、もう手放せばいいのではないか。
しかし、それができないから苦しんでいる。まるで存在しないはずの鎖に自分を縛っているような気がする。
3
数日後、学校ではまた「警察が来てるらしい」という噂が立った。殺人事件の捜査が進んでいるのか、関係者への聞き取りを続けているようだ。
放課後の校内に警察の姿が見え、職員室へと通されていく。その後ろ姿を廊下から見て、聡は身構える。もしまた佐々木が怪しまれたらどうしよう。自分の夜の同行がバレたら……。
結論から言えば、今回も大きな問題にはならなかったらしい。例の免許証の件は時期が古いことが決定打となっており、佐々木のアリバイや行動も特に問題なし。あくまで「事件当時、怪しい人物はいなかったか」といった形式的な確認だったという。
放課後、廊下で佐々木に会うと、彼は人差し指を立てて小さく笑う。
「警察、まだ粘ってるみたいだけど、俺を本格的に疑う材料はないんだよ。免許証が古すぎるからな」
「免許証、そんなに色褪せてるんですか?」
「そう。俺も見せてもらったけど、写真がほとんど判別できないくらい。文字もかすれかけててね。でも俺の名前だけはギリギリ読める。そのせいで一応疑われただけだよ」
それ以上の会話をする暇もなく、佐々木は職員室へ戻る。聡は安心したような、拍子抜けしたような気分を抱えながら帰宅の途につく。
――しかし、内心では「本当にこのままでいいのか」との葛藤が消えない。佐々木の言い分は一貫して「罪は罪でも大したことはない」というスタンス。そこに神様の存在を仄めかしつつも、自分の行動を正当化しているように思える。
“俺は夜のビルで人知れず何かを見ている。神様が見ていても、罰を下すわけじゃない。だったら自分の興味を貫くだけでいい。”
そういう割り切りを、聡はうらやましいと感じる反面、恐ろしいとも思っていた。
4
自室に戻った聡は、例の箱を開け、古びた集金袋を手に取る。端が破れて黄ばんだ紙の質感。かつてはこれにお金が入っていたはずなのに、今は空っぽ。
――こんなもの、一体なんの意味があるんだろう。
周囲はもう忘れている。それでも自分だけが“罪”だと思い込んで手放せない。それこそが罪悪感の正体なのかもしれない。
もし佐々木にこの袋を渡したら、彼はきっと夜のビルへ持っていって放置するだろう。不法投棄だと笑いながら。それは罪を捨てる行為か、あるいは罪から逃げる行為か――わからない。
考え込んでいると、スマホの画面にメッセージが届く。友人からのたわいない誘いだ。しばらく部活の連中とご飯に行かないかという話。
だが、今の気分では乗れそうにない。曖昧に断り、布団に倒れ込む。夜風が窓の隙間から吹き込み、カーテンを揺らす。
――誰からも糾弾されない罪。それでも自分は苦しい。佐々木のように「大したことじゃない」と開き直れたら、どんなに楽だろう。
いつしか聡は浅い眠りに落ち、屋上の闇と集金袋の夢を見る。
第五章
1
ある土曜の午後、佐々木から「ちょっと話したいことがある」とメッセージが来た。場所は学校近くの公園。夕暮れ時、子どもたちの遊びもひと段落し、がらんとしたブランコと滑り台だけが静かに佇んでいる。
「どうしたんですか、急に」
「お前に確認したいことがあってな。もし俺が“犯人”だったら、お前はどうする?」
佐々木はベンチに腰掛け、膝に肘をついて聡を見上げる。
「え……先生、それ、本気で言ってるんですか」
「誰も俺を捕まえられない。警察は証拠を持ってないから。けど、もしお前だけが俺の罪を知ったら……どうする?」
その瞳には冗談めいた光も見えるが、一方で突き刺さるような鋭さを感じる。
「……本当に先生があの事件の犯人だったら、俺は……」
「警察に言うのか? あるいは黙っているのか? 神様が見てるから正義を全うするというわけでもないだろ。どっちが正解かなんてわからない」
聡は答えに詰まる。もし佐々木が実際に殺人を犯していたら、自分はその事実を抱えきれるのか? 警察に通報する勇気があるのか?
「……わからないです」
正直にそう答えると、佐々木は小さく微笑んで、「まあ、実際には俺は犯人じゃないけどな」と肩をすくめる。
「不法侵入程度でも、お前はビビってる。なら殺人なんてもっと恐ろしい罪だ。だが、やった人間はやってしまうんだよ。神様が見ていようと、あるいは見ていまいと、変わらない。人間は勝手なもんだ」
説教臭いというよりは、達観したような物言い。聡は反発を覚えつつも、それが一理あると感じる。
「先生は……その、罪悪感とか、まったく感じないわけじゃないんですよね?」
「感じるさ。夜のビルに侵入して、誰かが嫌な思いをするかもしれない。注意されたら逃げる。それも卑怯かもしれない。でも、だからって俺はやめない。神様が見てても止めない。これが俺のやり方だ」
そこには強烈な裏表を感じる。昼の佐々木は爽やか教師として生徒に接し、夜の佐々木は法を犯してでも屋上を覗き、人間の知らない世界をのぞく。
そしてその根底には、神様は何でも見ているけれど、別に救いもしないし罰もしない、という唯物的な虚無観が横たわっているかのようだ。
「志田、お前も何か抱えてるんだろ? “誰も知らない罪”があるって顔してる」
ギクリとする。まさか自分が集金袋を隠していることまで気づいているのか? いや、そこまで知っているはずはない。ただ、佐々木は鋭い観察眼で聡の内面を見透かしているようだ。
「……あるかもしれません。でも、誰にも言えない」
「そうか。だったら俺に預けてみるか? 夜のビルに捨ててきてやるよ。“不法投棄”ってやつだな、俺は慣れてるから」
冗談とも本気ともつかない誘いに、聡は言葉を失う。それは一見、乱暴な解決策だが、今の自分にはどこか魅力的な響きもある。罪の象徴を他人に預けて捨ててもらう――そんな選択肢が浮かぶだけで、胸がざわつく。
公園の夕暮れの空気が冷たく、ブランコのチェーンが風でかすかに揺れる音がする。誰もいない世界で、二人だけが話をしている。まるで神様が気まぐれに見下ろす舞台のようだ。
2
ある日の夕飯時、テレビのニュースが殺人事件の続報を報じていた。
《先月、ビルの屋上で発見された若い女性の遺体について、警視庁は被害者の交際相手の男性を逮捕したと発表……》
被疑者は逃亡していたが、ようやく身柄を確保されたらしい。怨恨関係のトラブルとの見方が強いという。
それを見て聡は安堵する。少なくとも、佐々木が犯人ではないのがはっきりした。これで警察の捜査も一段落するだろう。
翌日、学校でもそのニュースが話題になり、「まさか佐々木先生が犯人じゃないってわかったし、やっぱよかったよね」などと言う生徒もいる。佐々木本人は「ああ、俺は無実だよ」と冗談めかして笑っている。
――しかし、だからといって佐々木の夜の行為が消えるわけではない。彼はこれからもビルに忍び込むのだろう。法を犯しているという罪悪感を抱えながら、しかし彼なりにそれを“たいしたことない”と受け流す。
“神様だけが屋上を見ている”――その言葉を思い出すと、胸に妙な空洞が生まれる。人間社会の善悪は、所詮地上の理屈でしかないのかもしれない。ビルの上の世界を神様が見ていても、介入もしないし、罰もしない。
何とも言えない割り切れなさを抱えながら、放課後の中庭を歩くと、案の定佐々木が向こうから声をかけてきた。
「どうだ、安心したか? もう俺を殺人犯だなんて疑わないだろう」
「はい……まあ、そうですね」
「ちょっとは寂しい気もするけどな。もし本当に俺が犯人で、神様もそれを見ているのに誰も止めなかったなら、それはそれで面白いと思わないか?」
なんてことを口にする。聡は「いや、まったく面白くないですよ」と否定するが、佐々木は変わらず飄々としている。
彼の頭の中では、人間の理屈と神様の存在は切り離されているらしい。そこに道徳的な宗教観もなければ、良心に基づく後悔もない。
――唯物論的に見れば、人間の行為など所詮些末なものであり、神様はそこに関与しない。だからこそ彼は夜の不法侵入をやめないのだろう。
3
数日後、聡はある決断をした。自室の棚からあの集金袋を取り出し、箱ごと持ち出す。もし“神様しか見ていない”場所に置いてくれば、自分の中の罪悪感は少しは軽くなるのか――半ば試すような気持ちだった。
学校の廊下で、部活帰りの人波が途切れたタイミングを見計らって、佐々木に声をかける。
「先生、少し時間いいですか」
「なんだ?」
周囲に人がいないことを確認し、聡はカバンから小さな箱を取り出す。中にはあの集金袋が入っている。
「これ、昔から持ってて……捨てられないんです。でも、もし先生が夜のビルの屋上にこれを置いていってくれたら、俺は少し楽になるかもしれません」
震える声で差し出すと、佐々木は目を細めて箱を開け、中をのぞく。破れかけた集金袋を取り出し、裏表を確かめるように指先で触れる。
「ふうん……要は“罪の象徴”ってわけか。これを捨てたいんだな。俺に預けて、夜の屋上に不法投棄しろってことか」
悪びれる様子もなく、ゆっくり箱を閉じる。その仕草に、聡は密かに安堵と怖さを同時に感じる。
「いいのか? 本当にそれで?」
「はい……。自分の手で捨てられなくて。でも、これを先生に預けたら、もう戻せないだろうし」
「戻せない保証はないぞ。神様だけがそれを知ってて、人間の誰かがまた拾うかもしれない。どこかで風に飛ばされて、お前のもとに戻るかもしれないじゃないか」
不吉な冗談のようにも聞こえるが、佐々木なら本気で言いかねない。
「それでも……一度手放してみたいんです。誰にも責められない罪かもしれませんが、俺自身がずっと抱えてるので」
声を絞り出すようにそう告げると、佐々木はふっと小さく笑って箱を受け取った。
「わかった。お前の罪、俺が夜の屋上に捨ててきてやる。ま、こんなのただの紙くずだしな。俺なら簡単に処分できる。……でも、ほんとにいいんだな?」
「はい……お願いします」
それが正しい行為かどうかはわからない。だが、聡にはもうどうしようもなく、この罪を誰かに預けないことには前へ進めない気がした。
廊下の蛍光灯の下、佐々木は箱をカバンに入れ、「じゃあ俺は今日の夜にでも行くかな」と言って踵を返す。
4
家に帰った聡は、棚の上が空になったことに奇妙な感慨を覚える。ずっとそこにあった「罪の象徴」が消えた。それだけで部屋の空気が変わったように感じる。
だが、本当にそれで心は軽くなるのだろうか。佐々木がきちんと捨ててくれる保証はないし、たとえ捨てても罪悪感自体がなくなるとは思えない。
夜の闇が窓の外に広がる。ビルの灯りはまばらで、向かいのビルの屋上が見えない。そこに佐々木がいるのかもしれない。あるいは別のビルを巡っているのかもしれない。
――神様が見ているなら、どうか自分の罪を流し去ってほしい。けれど、神様はそんなことしてくれないだろう。善悪の裁きも救済もしない。ただ静かに見ているだけ。
少しだけ涙が滲む。これでいいのかという葛藤と、長年の重荷を手放す解放感が混ざり合い、何とも言えない感情が込み上げる。
やがて、スマホを握りしめたまま眠りに落ちる。明日からどんな気持ちで過ごせばいいのか、今はまだ全くわからない。
第六章
1
翌日、学校の廊下ですれ違った佐々木は特に何も言わない。まるで集金袋のことなど忘れてしまったかのようだ。ただいつものように軽い挨拶を交わすだけ。
聡は気になって仕方がないが、自分から問いただす勇気もない。もし“捨てられずにまだ持ってる”と言われたらどうしようか。あるいは“ちゃんと置いてきたよ”と言われたら、それはそれで不安だ。
放課後、中庭で佐々木を見かけて思い切って声をかける。
「先生……あの、昨日のアレは……」
「アレって?」ととぼける佐々木。すぐに「ああ、あの紙切れか」と思い出したように頷く。
「夜、適当なビルに行って置いてきたよ。ま、細かい場所は言わないでおく。どうせ不法投棄だからな。そこに神様がいたかどうかは知らんが、もうお前の手元には戻らないんじゃないか?」
そのあっさりした物言いに、聡は複雑な安堵と罪悪感が入り混じった感情を抱く。
「これで、お前は少しは楽になれたのか? 罪が消えたとは限らないだろうけど」
「……正直、まだよくわかりません。でも、ありがとうございます」
佐々木は軽く片手を上げて「どういたしまして」と答え、笑いながら去っていく。朝夕の空気は少しずつ冷え込み、校庭には落ち葉が舞い始めている。
――罪が本当に消えたわけではない。だが、少なくとも自分の手元から“象徴”はなくなった。これをどう受け止めればいいのか。
2
夜、自室のベッドに横になり、天井を見つめながら考える。
――佐々木は、不法侵入を罪とも思わずに繰り返す。神様の存在を皮肉に利用しつつ、夜の屋上を自分の探究の場としている。
――自分は、自分だけが知る罪を、佐々木という他者に預けた。捨ててしまった。それによって心が軽くなったのか、まだわからない。
もし神様が本当にすべてを見通しているのなら、その行為をどう評価するのか。きっと何もしない。何の裁きも救済も与えず、ただ存在し続けるだけ。その意味で、人間には人間の世界があり、その中で善悪や罪を引きずって生きるしかないのだろう。
眠りに落ちる寸前、聡はふと「屋上はどんな場所なのか、いつか自分でも確かめてみるべきかもしれない」と思う。しかし、それは恐怖も伴う選択だ。警察の目を逃れながら、あの闇の空間へ踏み入れ、神様しか見ていない光景を覗くなど、自分にはできるのか。
そんな混乱を抱えながら、瞼が重くなる。夢の中で、闇夜のビルの屋上にシャツや集金袋が散乱していて、風に吹かれてどこかへ飛んでいく光景が浮かぶ。何度振り向いても、それがまた自分の背後に舞い戻ってくるような悪夢だ。
朝になれば、いつもどおりの学校生活が始まる。家庭科の授業で調理実習をし、部活に励むクラスメイトたちの喧噪に混じって過ごす。表面上は平和な日常だ。誰も自分の中の罪に気づいていない。
3
数日後の夕方、帰宅しようと校舎の廊下を歩いていると、中庭のベンチに佐々木の姿を見つけた。日は沈みかけ、赤みを帯びた光が校舎を照らしている。
思わず足を向ける。佐々木はスマホを眺めながらぼんやりしているようだ。隣に腰を下ろすと、彼は微笑みを浮かべた。
「よお。最近、元気そうじゃないか」
「はい、まあ……あの集金袋、やっぱり捨ててくれたんですよね」
「捨てたとも。ビルの屋上に置いてきただけだけどな。いずれ誰かが見つけるか、風に吹かれて飛んでいくか。俺もそれっきり触ってないから知らない」
聡は静かに息をつく。それで本当に終わったのか?
「もし、また戻ってきたら……怖いな」
「かもしれないな。神様がやきまわしをして、お前の罪を再び差し出してくるかもしれない。だけど、そのときはそのときだ。あんまり考えても仕方ないんじゃないか?」
淡々とした物言い。聡は「そうかもしれませんね」と力なく笑う。
「先生、これからも屋上に行くんですか?」
「行くよ。変わらない。俺は神様がどうであれ、ビルの上を見たいし、そこで何が起こってるのかを知りたい。法律的には間違いかもしれないが、善悪は紙一重でしょ。俺にとってはそれが真実だし、それこそが人生の一部なんだ」
「……警察に捕まる可能性とか、懲戒免職になるかもとか、怖くないんですか?」
「そりゃ怖いさ。でもやめられない。恐怖と好奇心は表裏一体なんだ。神様しか見ていない場所に、自分が踏み込むっていう背徳感が俺を駆り立てる」
夕暮れの風が校庭を吹き抜ける。生徒の姿もまばらになり、校舎の窓からは消灯が始まっている。
「志田、お前も何かあればまた俺に預ければいい。不法投棄はお手の物だからな。だけど、それで本当にお前の心が救われるかは別問題だ。最後はお前自身がどう折り合いをつけるかだよ」
聡はうなずきながら、どこか哀しげな気持ちでそれを聞いている。確かに彼は集金袋という物理的象徴を手放したが、罪悪感は完全には消えていない。もっと深いところで、自分が何をすべきか迷っている。
「……神様は、どう思ってるんでしょうね」
唐突にそんな言葉が口をついて出る。
「さあな。神様は笑ってるかもしれないし、怒っているかもしれない。あるいは関心すら持たないかもしれない。人間には知る由もない。ただ、それでいいんじゃないか?」
優しい声でもなく、かといって冷たい声でもない。佐々木はただ事実を語るように答える。
「お前はお前の罪と向き合いながら、それでも生きるしかない。俺も同じだ。ビルの屋上で得たものが正しいのか、神様が見ているのかなんて、どこにも答えはない。曖昧なままでも人は生きていくし、そうするしかないんだよ」
そう言って立ち上がり、「じゃあな」と手を振る。残された聡は、西日に赤く染まる校舎を眺めながら、心にぽっかりと穴が開いたような感覚を抱く。
――罪も、神様も、よくわからない。でも、それでも日常は続いていく。きっと佐々木はまた夜になればビルへ向かうし、私は私でこの先の人生を歩まなければならない。
誰も答えを教えてくれないし、神様はただ見ているだけ。善悪や価値観の答えを誰かが用意してくれるわけではない。
それでも、明日の朝は変わらずやってくる。人々の営みは地上で繰り返され、屋上はほとんど誰も顧みない空間として存在し続ける。そこで生まれる罪も、捨てられる秘密も、すべては曖昧なまま風に揺れる。
4
聡はそのまま帰宅し、いつもどおり夕飯をとって家族と会話を交わす。姉や父母との何気ないやり取りの中で、先日まで抱えていた「集金袋」への執着をふと振り返る。
――もう手元にはない。それでも、完全に忘れられるわけでもない。時々思い出すだろう。そのとき胸が痛むかもしれない。
神様が見ているかどうかはわからない。でも、それでも生きていく。
夜、窓の外のビル群を眺める。屋上には何があるのか見えない。そこに佐々木がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。闇の奥で、風が何かを揺らしているかもしれない。
だけど、それは自分とは直接関係のない景色だ。少なくとも表面的にはそう見える。
罪悪感は消えずとも、世界は続く。人間には見えない場所を神様が見ていたとしても、神様が救ってくれるわけじゃない。結局、彼と同じように「自分で折り合いをつけるしかない」のだ。
――それこそが、最初から最後まで曖昧な現実。
布団に潜り、深呼吸をする。いつか、もしまた罪が戻ってきたら、そのときどうするかはわからない。だが、少なくとも今はほんの少しだけ心が軽くなったように思えた。
(了)


