八歳になる年の夏、俺は花火大会の会場で見事迷子になった。
気がついたら目の前にいるのは、チョコバナナ屋のおっちゃんだけ。父さんも母さんもいない。頼みの綱のおっちゃんも、てんやわんやでたぶん俺のこと見えてなかったんだと思う。屋台に並ぶ大人たちの視線が痛くて、俺は一人駆け出した。
歩いても歩いても、父さんも母さんもいない。すれ違う大人たちに、俺は見えてなかった。勝手に溢れてくる涙で余計にみじめな気持になった。ひょっとしてこのまま、自分は誰にも見えない子になっちゃうのかも……なんて不安になっていたとき、目の覚めるようなオレンジ色のTシャツが目の前に立ってた。
「ねえ、君も迷子?」
その男の子は、俺をなお追い詰めてきた。
「迷子になったら動いたらダメなんだよ!」
……俺の絶望ったらない。だってもうかなり歩いてきてしまった。振り返ってもチョコバナナ屋なんて見えやしなかった。
大泣きする俺の手を取って、オレンジの子は言った。
「だいじょうぶ! 僕とここで一緒に待ってよ。絶対お母さんが迎えにきてくれるから、そしたら迷子をホゴしてくれるところに連れて行ってもらおうね!」
全然知らない子だけど、俺はこの子に頼るしかなかった。それに不思議とこの子が言うだいじょうぶは、本当に大丈夫な気がしたんだ。
「ハーフなの? イズミ……妹の持ってるお人形さんにそっくりだよ」
「おばあちゃんがフランス人だから……クォーター」
「クォーター!? なぁにそれ!? かっこいい!」
別にヒーロー名じゃないけどなって思いながら、俺はたしかちょっと照れくさくなった。
そのオレンジの彼は、俺のことを「ハチくん」って呼んだ。英語のeightじゃないよって思ってたけど、なんか嬉しそうだし、まあいっかって。後にも先にも、ハチなんて呼ばれたのはあれが初めてだったけど。
「僕はガクだよ! がっくしのガク!」
「がっくし?」
「がっくしだよ、うーんと……今の僕たちの気持ちみたいな? せっかく花火大会来たのに迷子になってがっくし~」
「ああ……しゅんとするみたいな気持ち?」
「そうそう! そんなかんじ!」
歯抜け笑顔でにかって笑われて、全然しゅんとしてないじゃんっておもしろかった。
そのあとすぐにガクくんのお母さんたちが見つけてくれて、俺は無事迷子センターに届けられたわけだけど。ガクくんはその瞬間、なにかの糸が切れたように、わあわあ泣きだしたんだ。
あっそっか、俺があんなに泣いてたから。ガクくんは我慢して笑っててくれたんだと、そのとき初めて気がついた。
「ガクくん、ありがとうね。本当にありがとう」
「ふぇ? どうして? 僕のほうがありがとうだよ! ハチくん、一緒に花火見てくれてありがとう!」
そのときの泣きっ面の笑顔は、甘くてとろけそうで、うれしいのにくるしい変な気持ちになった。胸がぎゅうってした。また会いたいな、また遊びたい、ガクくんはどこに住んでるのかな、どんなゲームが好きかなってぐるぐる考えてたら、今度はうちの親が迎えにきた。
がきんちょだった俺はそれに安心してやっぱり大泣きしちゃって、少し落ち着いてからガクくんにもう一度お礼を言おうと振り返ったら、そこにもうガクくんはいなかったんだ。
また遊ぼうって、言えなかった。ありがとうも、バイバイすら言えなかった。
俺はそのあと、ずっと泣きじゃくっていたらしい。自分でもあんまり覚えていないくらい。
それから俺は、毎年西町の花火大会に行った。オレンジ色のTシャツと、とろけそうなふにゃっとした笑顔を探した。けど当然、見つからなかった。この世に運命なんてないって思った。考えてみれば夏休み中だし、親戚の家に遊びにきてたとか、そういう可能性だってあったわけで。でも俺は、どうしても、ガクくんを忘れられなかった。
「なあ知ってる? A組の美園泉! 超~っかわいいんだって!」
「しらね」
クラスメイトのテンションがうざかったのもあるし、そもそも興味もなかったけれど、俺はその「イズミ」って名前が引っかかってた。数少ないガクくんの情報の一つ。妹の名前は「イズミ」。
めずらしい名前じゃないし、まあないと思った。でも彼女が時折見せる笑い方に面影がないとも言えず、探りを入れてみればすぐにわかった。双子のお兄さんがいて、そのお兄さんの名前は「ガク」。地元の高校に通ってるってこと。
「すんげえ地味なの! 双子なのに全然似てなくてさぁ」
同中だったらしい男子はそう言って笑ってた。
地味……ではなくないか? あの日の目の覚めるようなオレンジ色が、にかっと笑った歯抜けの笑顔が、目に焼きついて離れない。ガクくんは優しくて強くてしっかり者の俺のヒーローだ。地味というか優等生タイプだろって思ってた。
美園さんの地元は割れてたから、ある日俺は彼女を尾行した。ガクくんかどうか、この目で見たほうが早いと思ったんだ。
「ねえ、やめてよ。なに? 小湊くんそんなことするタイプなの?」
……一瞬でバレた。さすが町のアイドル。警戒心が尋常じゃない。
「美園さんのお兄さん……ガクさんに会わせて欲しいんだけど」
「ぜっったいイヤ! どうせおにぃのこと馬鹿にするんで……」
「そうじゃなくて!」
幸にして美園さんは、お兄さんの迷子事件を覚えていた。つまりここで確定したわけだ。彼女がガクくんの妹だってことが。
やっと……やっと会える。
あの日言いそびれたこと、ずっと抱えてきたむずがゆい気持ち、大きくなったガクくん。俺の興奮とは正反対に、美園さんの目は死んでた。
「本気……? だってあんなのほんの一瞬……しかも何年前の話よ……?」
「本気だよ、俺あの日ガクくんが着てた服の色も覚えてるもん」
「こ、こわぁ……」
まあ、そうだよな。俺も俺がこわいよ。けどあの日からずっと、ガクくんのことが頭から離れなかった。どうして繋いだ手を離してしまったんだろう、せめて住んでる場所くらい聞いとけよって何度も何度も後悔したんだ。
「……駅前の本屋によく寄ってる」
「え?」
「おにぃからしたら怖すぎだし、あたしも完全に小湊くん信用したわけじゃないから、紹介は無理。怖いもんアンタ」
……うん、たしかに似てないな。ガクくんはこんな冷めた目絶対しない。
俺はそれから毎日本屋に通った。けれどガクくんは来なかった。なのでしかたなく、家から近いわけでもないけど、そこでバイトを始めることにした。
ある日、いつも見かけるオタクの手本みたいな男の子のレジにあたったときだ。
「カバーおかけします……」
「け、けっこうです」
すげえ食い気味ぃ……。会計の終わった三冊の漫画を揃えて、男の子に渡そうととしたときだ。
半裸……いやほぼ全裸で赤面する男の表紙を見て、彼は口元を緩ませてた。目がとろんとしていて、えっと一瞬息を呑んだ。
「ガ……っ」
「す、すすみませんっ! 失礼しました!」
な、なにが? 一瞬のうちに男の子は漫画を奪い取り、走り去った。
「あれ……?」
ガクくん、俺は彼に向かってそう口走りそうになってた。
すげえ地味なんだよ、といつか笑ってた同級生の声が頭に響く。
「地味っつかあれは……オタク……」
あの子なら、何度もこの本屋で見掛けてた。
あれがガクくん? あの? 俺のヒーロー? がらがらとなにもかも崩れる音がした。
人を見た目で判断なんてしていない。ただ俺の思い描いてきた成長したガクくんと、あまりに違っただけだ。頼もしいしっかり者の優等生を思い描いてただけだ。それがオタクになってたってだけで……。
崩れ去る音とともに、胸に渦巻く妙な気持ちは日に日に増幅していった。
ガクくんは人の顔を見ない。まじで目が合わない。身長差もあるけど、それでもありえないくらい目が合わない。王子様みたい、高嶺の花なんて言われてきた俺にとって、それはめずらしいことだったし、何よりあの日、ガクくんは俺の瞳の色を褒めてくれたんだ。
花火より綺麗だねって。
だから目が合えばきっと気づいてくれるって思ってたのに。全然こっち見ない。ずーっと、やらしい漫画しか目に映ってない。
そんな愛おしそうな目するんだな、ガクくん。たとえば彼女……いや彼氏なのか? ができたらガクくんはあの目で相手を見つめるんだ。
……そんなの、やだな。
それから話し掛けるまでに半年以上かかった。俺は高校二年生になってた。
「……これ、東京の大学っすか?」
ある日ガクくんが、珍しくまともな本だけをレジに持ってきた。普段は参考書と赤面男子の漫画がセットなのに。
「あっえっと、ハイ、そうです」
再会して初めて交わした会話は、俺にとってはあまりに残酷だった。
オタク、地味、俺のヒーロー……自分の中で勝手にぐるぐる考えてるうちに、ガクくんはまたここからいなくなろうとしてた。
もう振り向いてこの子がいないのは、嫌だ。
「お願いします一生のお願いです」
「そんなクソデカ感情持ってて、今まで何してたの!?」
なんと蔑まれたっていい。あまり手持ちはないけどお金を払ったっていい。お願いします美園泉様。俺をガクくんに会わせてください……。
「花火、綺麗だったね」
「……うん」
隣にガクくんが……ちがう、岳がいる。俺は彼を岳って呼べるようになったんだ。やっと、ここまできたんだ。
やべ、なんか泣きそう。
がっくしのガク、あの日そう自分を紹介した岳は、俺にはそんなふうに見えなかった。けどあれから何年もかけて、そのがっくしばかりが煮詰められて今の岳になったんだろうなと思うと、俺はどうしようもなく彼を抱きしめたくなる。
あんまり押し過ぎるとぴゃっと逃げられるから、今日はやめとくけどさ。
「岳……今日来てくれてありがとね」
いつも言うんだ。何かするたび言うんだ。僕なんか、僕みたいなのは、おこがましい、ありえない、ごめんね……うんざりするほど自分を否定する。
「そ、そんなの、僕のほうだよ!」
ほら、今もそう。僕なんかと、って顔に書いてある。こんなになりふり構わず好きって伝えても、岳はまだわかってくれない。
「あ……っと……」
ねえ岳。俺はずっと、出会った日からずっとだよ。ずっと特別に思ってきたよ。もっと早く伝えたかった。そばにいたかった。つらくても自分より相手のために笑える君だってこと、俺は知ってるから。支えたかったよ……それこそおこがましいけどさ。
「ん?」
なにか言いたげだった岳の足が、とうとう止まった。振り向くと、めずらしく視線が交わって心臓が躍る。
気を抜けば手を伸ばしたくなるし、触れたくなる。でも岳には小出しにしていかないと、いつかみたいにキレられるから今日はとりあえず、我慢だ。きっともう岳もいっぱいいっぱいだろ。手を繋げただけで俺的にはとてつもない進歩だし。
前髪のカーテンですべて隠されてしまっているけれど、岳の猫目はかなり愛らしい。じゃれつくように笑う瞬間なんて、もう、食べちゃいたいとすら――じゃなくて、どうした。疲れたのか?
「え、瑛人っ……」
「は、はい?」
そんな改まってなんだ、嫌でも背筋が伸びてしまうんですが……?
「あ、あの……」
やっぱり気の迷いでしたとか言われるのかと、戦々恐々としながら岳の顔をのぞきこむ。
「花火、一緒に見てくれてありがとうっ……!」
……油断した。渾身の一撃、くらった。
――ハチくん、一緒に花火見てくれてありがとう!
あの日の岳と、目の前の岳。全然別人みたいなのに、おんなじこと言うんだ。
俺の方がずっとありがとうなのに、ほんとにもう……鼻の奥がつーんとする。
「それは、ずるい」
「え!? ご、ごめ」
「好きだよ」
「なっなに急に、」
「好き。好き好き好き……」
「まって、人増えてきたから……!」
……うんざりするほど岳が岳を否定するなら、うんざりするほど好きだって俺が伝えよう。
いつか、わかってよ、岳。どれだけ自分が愛されてるか。どれだけ自分が小湊瑛人って人間にとって特別な存在なのか。
照れくさそうに俺を咎めたあと、前髪のカーテンの隙間から、とろけそうな瞳が覗く。岳のこの瞳に、やっと俺が映ったんだ。
「……岳ってさ、ゲームなにが好き?」
「げ、ゲーム? あんまりやらないけど……あつ森とか」
「ふっ……ぽいわ」