夏休み三日目の朝。今日はスバくんたちと話題の映画を観に行くことになっている。
「泉は本当に行かないの? みんな泉目当てで僕を誘ったんだろうに……」
「そんなことないでしょ、それにスバくんたちうるさくて嫌いなんだもん」
「そんなはっきりと……」
歯に衣着せぬ物言いは、父さんに似ている。
僕にいつも「岳には期待してないんだから、好きなようにやれよ!」と白い歯を見せて言うところとか、気にしいな僕はがっくしくるところだけれど、それを隣で聞いている泉は、尊重されていて羨ましいと思っていたらしいから。
まっすぐに言葉のキャッチボールをできるのは、すごく生きやすそうだ。僕はてんでだめ。いつだって裏読みしてしまって、母さんに「気にし過ぎなのよ」と半ば呆れ顔でなぐさめられるまでが、美園家のデフォルトだ。
泉は行かないというので仕方なく一人で準備をして、スバくんのうちへ向かった。
「おっはよー! いやぁ今日もセミがうるせぇ」
「おはよう。 本当、今年は特にすごいね」
「なー」
今日は県央のさらに市街地まで出なければいけないので、いつものマイチャリではなくバスで行く。乗り慣れないバスに浮ついた心持ちでいると、スバくんには「小学生みたい」と馬鹿にされた。
見渡す限り、田んぼ、田んぼ、山山山、田んぼ、川、というこの町ですらこれだと、大都会東京へ出たら一体僕はどうなってしまうのだろうか。不安がないと言えば大嘘になる。
流れていく田園風景をぼんやり眺めているうちに、バスが目的地に到着し、待ち合わせていた面々と合流した。狭い田舎町なので、僕のクラスメイトとスバくんの友達が友達とか、そういう繋がりでたまに遊ぶ面々だ。
「あれ、やっぱり泉ちゃんはいないかぁ。しょぼーん」
「ご、ごめ……」
「きっもぉ、いっちゃんに手出そうなんてトイレで鏡見てこいやぁ」
「あぁ!? ちょっとモテるからって調子のんな、東京行けばお前だって芋だぞ芋!」
「俺が芋なら、お前はぁ……にんにく?」
どっとその場が沸いたけれど、僕は空気になりたかった。
やっぱり泉目当てだったよねという虚無感と、それを庇ってくれたとわかるスバくんの優しさがイタイ。自分がいたたまれなくて、背中が丸まっていくのがわかる。
大ヒット映画の内容は、あんまり覚えていない。ただ冒頭では死んだ魚の目をしていた女の子が、エンドロール直前には幸せそうに笑っていたから、きっといい映画だったんだと思う。
それから僕たちは近くのファミレスでランチすることになった。
僕の住んでいる近所にはファミレスなんてないから、すごく貴重な体験。つまり注文のシステムがさっぱりわからない。
「スバくん、これが食べたいんだけど……どこに載ってるのかな」
「ん? ああこれ、番号を打ち込めばいいんだよ」
「なるほど」
慣れた手つきでタブレットを操作するスバくん。近所に住んでるはずなのに、やっぱりスバくんはすごい。デートでファミレスよく来るのかな。
「スバルと岳って幼馴染なんだっけ」
さっきスバくんに「にんにく」と言われたツッチーが、僕たちを訝しげに見つめてくる。
「そうだよ。ツッチーとウエも幼馴染なんでしょ」
ウエくんは目を細めて「消したい過去」だなんてふざけてた。この二人はとっても息の合う王道ケンカップルってかんじで、僕はひそかに推している。
そのツッチーが、氷をがりがり噛み砕きながら言った。
「俺らじゃ考えられないキョリ感だよな~お前ら」
ああ……これはまずいかもしれない。いつものパターンだ。
嫌な感じがして、僕がまた空気か透明人間になりたくなったところで、話の方向性が変わるわけじゃない。だって僕はその話の舵を切ることさえできないのだから。
「そりゃそうだろ、岳は俺のこと大好きなんだから」
スバくんに、なっ、と兄弟のように肩を組まれても、僕はやっぱり「うん」としか言えなかった。
僕がもっと上手に、嘘っぽくできれば、きっとこの変な空気にはならないんだ。スバくんは何度も僕にチャンスをくれるけれど、僕は一度だってスバくんへの気持ちをうまく誤魔化せたことがない。
「へ、へえ~? それはどこまで本気……」
ツッチーのそれ以上の追及は、ウエくんが止めてくれた。
僕はただ目の前にあるグラスの中のオレンジジュースを、くるくるストローでかき回しているだけ。ずっとそう。僕はスバくんへの気持ちを、真剣にも、笑いごとにもできない。ずっとこうして、混ぜているだけ。
「だけど岳も大学は東京行くって言うし、そしたら俺のことなんて忘れちゃうんだろうなぁ~」
スバくんに顔を覗き込まれると、心臓がぎくりと逸る。
「岳、東京の大学行くの!? えーっめっちゃうらやましい!」
ツッチーがうらやましがるほど、輝かしい夢や希望があるわけじゃない。僕はただここから、この人から逃れたいだけだ。
「受かれば、だけど……」
「東京いいなぁ。てか一人暮らしがまずうらやまだわ」
「女の子連れ込み放題じゃん!」
「でも泉ちゃんに見慣れてたら、女の好みえぐそうではある」
「いやいや、岳はそっちじゃないもんな?」
その一言に、しんっと静まり返るテーブル。空気がとてつもなく重い。
――どうして、そんなことスバくんが言うんだよ。
その僕の気持ちは、やっぱり声にならなかった。できなかった。
笑って誤魔化したい。楽しい夏休みのひと時にしたい。泉がいないのに僕を誘ってくれたツッチーとウエくんに、変な空気を押し付けたくない。
けれど僕はいつもと同じように、なにもできない。惨めな恩知らずで消えたくなる。
「おひやおもちしましたぁ」
ガツン、という強烈な音をたて、目の前に水の入ったグラスが置かれた。びくっと震えたのは、きっと僕だけじゃなかったと思う。ツッチーも声にならない声をあげたのがわかったから。
「お冷もうありま……」
店員さんへそう告げようと、顔をあげたんだ。
薄ら氷のようにぴしっと張りつめた瞳に憎悪が滲んで見えるのは、きっと僕らがうるさかったからだ。店の迷惑ですという意思表示に他ならない。まさか守ってくれただなんて、おこがましい期待をしちゃだめだ。
「……こみなと、くん……」
なのにどうして、僕の声は震えてしまったんだろう。喉元が焼けそうにひりひりする。
バス停前で、スバくんたちとは別れた。
僕はそのベンチで、バスではなく人を待っている。
「岳さん、すんません。暑かったでしょ」
小湊くんこそ、暑い中小走りできてくれたじゃん。たまらず僕は、さっき買ったばかりの麦茶を彼に渡した。
「えっいいですよ、岳さんのでしょ?」
「……ううん、いい。また熱中症になられても困るし」
僕ってやつは、かわいくないな。ツンデレが許されるのはかわいい子だけだと、BLで散々履修しているっていうのに。
「ふふっ……じゃあ、いただきます」
けれど小湊くんには、この微妙な気持ちまでまるっとお見通しな気がする。余裕たっぷりの笑みで言われたら、逆にこっちが恥ずかしくなるじゃん……。
小湊くんは、僕らが会計を済ませたところで、わざわざレジに顔を出してくれた。あと三十分でバイトが終わるから、待っててほしいと呼び止めてくれたのだ。
スバくんのアレはいつものことだし、ツッチーとウエくんも、小湊くんのおひや騒動ですっかり忘れたような空気にしてくれていた。だけど僕はもう、きつかった。小湊くんに間違いなく救われてしまった。
「あの、さっきさ……ありがとうね」
「んー? なにが?」
「えっと、いや、いいや。とにかく僕は救われたので、ありがとう、で……」
一番日差しが強い時間帯に差し掛かり、さすがに日よけの下でも耐えられない暑さになってきていた。田舎へ帰るバスは本数が少ないので、さっき見送った次は一時間後。これ以上、労働終わりの彼を付き合わせるわけにはいかない。お礼も言えたし、と僕がベンチを立とうとしたときだ。
小湊くんの大きな手に手首を掴まれ、簡単に引き戻される。
「どこ行くの」
「ど、どこって、僕はどこも行きませんけど……」
「じゃあなんで立ったの?」
「だって暑いでしょ、そろそろ小湊くんをお見送りしようと」
「えーやだ。俺まだ帰りませんよ」
やだ、って? えっと……なに? それは三十度越えの暑さのなか、僕とこのベンチに座っていたいということでしょうか? そんなことあるわけない、もしや小湊くん、もうすでに熱中症の予兆が出ているとか? 意識が混濁するとかって聞くし、そういうのじゃ……
「ちがうわ、俺はまだ岳さんと話したいの」
「ち、ちがうんだぁ……」
僕のほうがくらくらしてくるよ……。この子、いったいなんなんだ? ひょっとしてスバくんみたいに、僕をおちょくって楽しんでる?
「ほら、この前借りた漫画の感想もお伝えしたいし」
「えっ本当に読んだの?」
「そりゃ読むでしょう。好きな子に借りたんだから。俺は泣きはしなかったけど」
「そ、そっか、なんかそれはごめ……」
「でも岳さんはきっとここのシーンで泣いたんだろうなって思いながら読んだら楽しかったよ」
………それは、ナイ。くしゃっとした五歳児みたいな笑顔に、小湊くんは大丈夫、と前に泉に鼻で笑われたことを思い出した。
今なら僕もそう思う。この子は、そういう子じゃない。
「そうだ。俺んち来ませんか? 漫画返すし」
そうは思っているけれど、漫画を人質にとるのは、ちょっとずるいんじゃないか?
小湊くんのお宅は、駅から徒歩十分ほどの閑静な住宅街に建っていた。
僕んちみたいな昔ながらの瓦屋根じゃなくて、四角いお家だ。おしゃれだし頑丈そうでうらやましい。
「お、お邪魔します」
「大丈夫ですよ、この時間は誰もいませんから」
「あっ……ソウデスカ」
漫画という人質に甘んじてここまでついて来てしまったが、これで本当によかったのだろうか。
せめて自分の恋愛対象は男だと言ってからでないと、なんだか卑怯な気がする。彼は僕を、男友達の一人としてここへ招いてくれたのかもしれないのに。
「あの、ごめん。小湊くん。家に上がる前に言っておかないといけないことがあって」
「なんですか? あ、水虫とか?」
「ちっがうよ!!」
「えー、じゃあなに?」
くだけた表情の彼が、僕の独白を聞いたらどんな顔になるのだろうか。引きつった笑みも、無理に明るく振る舞ってくれる様子も、なんとなく想像できてしまってつらい。
「……僕は、あの、男の人が恋愛対象なんです」
スバくんにしか言ったことのない、僕の本当のこと。
ついさっきのスバくんの笑い声が、頭のなかに響いて痛くなる。立っているのがやっとなくらい、目の前がぐらぐらしている。
「えー……? 知って、ます」
「……へ?」
「見てればわかります」
「見てればって、僕、そんなにわかりやすく小湊くんに接しちゃってたかな……ごめんね、きもちわ、」
「なにいってんの」
強く腕を引かれ、とうとう僕は小湊家へ足を踏み入れてしまった。体幹激よわな自分を呪いたい。
「気持ち悪いとか、言わないでよ。俺は岳さんが好きなのに」
「……す……?」
す、き。
すき。
心の中で、何度も繰り返してみる。
「すき……?」
口に出した途端、どっと心臓が壊れそうなほど暴れ出した。
思わず口からコンニチハしちゃいそうで、慌てて両手で口を塞ぐ。絶対ないと思うけど、あったらどうしようと不安になるくらいには、今僕の心臓は持ち主の言うことを聞いてくれていない。
「まだわかってくれないの」
中学の頃の家庭教師の先生にも言われたな。「何度言えばわかってくれるの」って。そういえばさっきも「好きな子から借りた」とか言ってた気がする。僕の頭って本当に回路がめちゃくちゃに作られてるんだよなぁ……。
「でもそんなの、ありえない……」
その頭で考えたってわかる。僕が誰かに一方的な好意を抱かれることなんて、あるわけがない。まして相手はこの小湊くんだ。
彼は呆れたようなため息を一つ吐いて、僕を部屋の中へと引っ張っていく。
すでに冷房のついていた小湊くんの部屋は、火照った体によく効く。熱が冷めてやっと少し冷静になれそうだ。
「タイマーつけてバイト行くんだ。こんなことしてるから暑さに弱くなるのかもね」
がらがらと勉強机の椅子を引いて持ってきてくれた小湊くんは、それに僕を座らせてくれる。対して彼は、その僕の前にあぐらをかいて座った。
もうお願いだから、これ以上は勘弁してほしい。そんなに僕を大切に扱わないでくれと、慌てて椅子から立ち上がろうとしたんだ。
「っわ!」
「いっ……た、いけど……まいっか?」
「よよよよくないっ! ごめんねすぐ退くから!」
ちょうど椅子のローラー部分に足の指を巻き込まれてしまい、僕はバランスを崩して綺麗に小湊くんの膝の上にのっかってしまった。最低最低最低。僕って本当にもう……本当にもうしか言えない。
「どかしてよぉ……」
精一杯情けない声で懇願してみても、小湊くんは動じない。それどころか腰のあたりを掴んで、絶対離さないぞという気概すら感じる。
「ちょうどいいよ、これなら岳さんも言い逃れできない。俺の気持ち、ちゃんとわかってもらえる」
「こ、こわぁ……」
天下のアルファ様になんてことを、と後悔する気持ちよりも、とにかく腰の手を早く離してほしいという切望のほうがずっとずっと大きい。
小湊くんにとっては日常的スキンシップでも、僕の人生ではありえないことなのに。小湊くんはしらんぷりして、澄んだ瞳に哀れな僕を映す。顔を綻ばせて、憐れな僕を見つめてる。
……もう、心臓つらい……。
「俺ね、勤労学生なの。今日のファミレスと本屋でバイトしてる。M高の近くの本屋、よく来るよね?」
「ああ、うん……あっ!? だから知ってるの!?」
「ピンポーン」
待って、ちょっと、そんなのはどうかと思う。はにかんだ顔してもゼッタイダメ。お客様の趣味嗜好をスマホにメモるなんて言語道断だろ?
「もちろん、そんなの岳さんにだけだよ。当たり前じゃん、他の人はただのお客さんだもん」
「もん、じゃないんだよぉ……!」
「……俺と岳さん、本屋じゃないところでも会ったことあるんだよ」
「え?」
「まあ、それはいっか。きもがられるし」
「えっなに? どこで?」
「とにかくまぁそれで、俺は岳さんを知ってたから。レジにえぐい表紙の漫画持ってきたとき、びっくりしちゃった。男いけるのかって」
「いやいやいや……腐男子っていっても普通に女の子が好きな人のほうが多いと思うよ……?」
僕は偶然そうだっただけで、SNSで繋がっている同志たちも、彼女がいたり結婚している人のほうが断然多い。けれど世間的にはやっぱりそう見えているってことなんだな。
「え、そうなの? そっか……でも岳さんは男が恋愛対象なんだもんね、じゃあセーフだ」
「セーフって、小湊くん、本当にどうかしちゃってるよ。僕みたいなのが君みたいな、例えるならアルファの君がさ」
「アルファ……? ああ、調教のやつか。それはなに、SとかMとは違う属性なの?」
「……ううん、ごめんなんでもないんだ、こっちの話です……」
ついうっかり、いらないことを喋ってしまう。小湊くんといると、僕は僕らしくいられなくなる。
「とろけそうな顔するんだよ岳さん。本屋で漫画を手にするときも、俺にその話してくれるときも」
慈悲深い小湊くんの手が、僕の頭に触れる。まるですごく大事だよって言われてるみたいな優しい触れ方、やめてほしい。
だって僕はそんな価値のある人間でもないし、小湊くんの特殊性癖の琴線に触れたのかもしれないけれど、要するに僕が「ムフッ」とか「グフッ」ってしてるその顔のことだろう?
どう考えても恥ずかしいし、普通にキモいって言ってくれたほうがむしろ安心するまである……。
「あの顔好き。俺にも向けて欲しい」
「な、なに言って……」
「俺も岳さんの好きなものになりたい」
「ちょっ、と、こみなとくん」
「その声もかわいくて好き」
「なっ……なっ!? ちょっともう無理! 限界、くるしい、ギブです、降参降参! 」
「え、なに? 力強い?」
怒涛の攻めに、いよいよ僕は怒りを覚えた。ずるい。経験値が違うんだ。もう少し手加減してほしい。好き好き好き好き、僕には刺激が強すぎる。
どうにか解放された腕から抜け出そうと試みるが、それもあっという間に掴まってしまった。「どこいくの」ってまた言われて、今度は背中に小湊くんの鼓動が響く。
……忙しない心臓、ひょっとして僕だけじゃない……?
「……その……僕はこういうの慣れてないから、あんまり心臓に耐性がない……んです」
自分よりずっと大きな身体に包まれたら、ぽろりと本音を白状してた。顔が見えないこの体勢もちょっと災いしてるかもしれない。
「あぁー……そう……なるほど、俺のこと殺そうとしてんだ、岳さん」
「はあ!? なに馬鹿なこと言って……ん……の」
ついうっかり、小湊くんの腕に抱かれたまま、後ろを振り向いてしまったんだ。すぐそこに顔があること、わかってたのに。
だって変なこと言うから。まるで僕の一言で自分がだめになるみたいな、そんな言い方をするから。
イケメンは、視線一つで人の不安を煽ってくる。じっと見つめられるのは、値踏みされているようで苦手だ。
けれどこの瞬間は、小湊くんの迫るような熱い瞳だけが、信じられるものに思えた。
「ふざけてないよ」
この子、本当に僕なんかのことが好きなんだ……。



