男は、所帯があった。女は独身だと想っていた。それくらいタイプだった。東京から出張でやってきていた。爽やかな笑顔で、女の仕事をフォローしてくれて、夜の街へでかけた。
「あなたってすごく端正な横顔だわ」
 女がそういうと、ほがらかに男は
「ぼくなんかもうおじさんですよ。若いあなたからしたら。社交辞令ですか」
 と白い歯をみせて大きく笑った。
「アルパチーノに似てるわ、とっても」
 おんなはそういうと自分の手に視線をおとした。
「わたしDog Day Afternoonnのアルパチーノ先週末にみたわ。そうして今日、あなたが現れたから、びっくりしちゃった」
 と微笑んだ。男は
「無計画に銀行強盗とか一緒にして、逃げようか」
 と、ささやいた。
「いいわね」
 とおんなはほほえんだ。
「すべての生活をほおりなげてきみと、一緒に、水平線にむかって、ドライブしたよ」
 とつげた。おんなはいきなり首筋にキスをした。そうして男の胸にもたれかかった。男には二歳になる男の子と、大学心理学教室に勤務する妻がいると、二杯目のカクテルを飲みながら語った。女は、フローズンストロベリーというほんのりと甘いカクテルを飲みながら、そう語る男の唇をみていた。そんなとき、突然、わき腹が痛んだ。
「お腹が痛い」
 女がそういうと、男は、
「どれどれ」
 といって女のわき腹に手を伸ばした。女は、
「おなか冷やしたかな」
 と、やさしげに微笑んだがそのうち脂汗がでてきた。男は、
「もしかしたら、僕のここの奥がきゅんとした瞬間に、君のわき腹が痛んだから、妻が、いやがらせをしたのかもしれない」
 とつげて、より女の肩をぎゅっと抱いた。女は、男の胸に顔をうずめて、泣いた。
「こんなにすきになっちゃたんだもの。もうどうしようもないわ」
 男は、じっと、そんな女を無言でみているだけだった。だけれども、女の苦痛がおさまると、ホテルへ女を誘った。男のほうが半ば強引に、関係をもち、女は、
「もっとはやく出会いたかったわ」
 と耳元でささやいた。男は、窓をみて、
「あいつでよった」
 と窓の外を指差した。おんながそちらのほうをみると、くたびれた中年女の顔が窓ガラスに映っていた。女はこのひとが奥さんかあ、と、がっかりしたような気持ちもした。所帯やつれしているというのだろうか。トイレットペーパーをぶらさげてドラッグストアーからでてきている帰り道に会うおんなたちとそう違いはなかった。想像とは全然違っていた。男の口から語られた妻は、ボブのショートヘアに赤い口紅が似合い、ルマンの靴をはいて流行りの服をおしゃれに着こなしていてさっそうと、教壇にたっていそうなCIA女性心理教室の先日図書館で読んだ本のひとに似ている感じをイメージしていたのに、このような、白い顔がむくんだような、やつれきった中年女が、妻だったのかーと、逆に、強い嫉妬心がわいてきたような気もしたし、男は、うそつきのようなきもちもした。
「また、おいかけてきたの?」
 とおんなはかまをかけた。こんなに男前でアグレッシブな彼だもの。たくさんの浮世を流しているのかもしれない。男は、そんな女を見下ろすようにみて、
「あいつを怒らせると、君の命が危ない。五分以内にここから立ち去ってくれないか」
 と声を出さないで、あいしてる、と、その顔に、背をむけていった瞬間に、目の前に、あの顔がふたりのあいだに浮かび上がった。女は、
「シャワーを浴びさせて」
というと、さっさとバスルームへ消えた。浮上している妻の顔を男はみていた。

女はシャワーを浴びていた。心が氷のように冷たくなった。男は、ちっとも愛していない。そんな気もしたし、いやいや、ほんとうに身に危険があるので五分以内に立ち去らなければ、命をとられるような気持ちもして、ぱぱっと洋服を着て、バスルームからでると、ちょっと振り向いた。そうしたら、本妻がこちらをみてにやりと笑った。その口からもう血を流していた。女は目を見開いた。男は、目を見開いたまま、動かなかった。首から流血していた。女は、さっきまで愛した人が、もう、亡骸になってしまって、哀しいとおもった。生暖かい体温が体を包み込んだ。そうして、瀕死の重傷ならば、助けられるのならば、助けたいと考えた。だけど、その一瞬が命とりで、本妻の首は、ひゅーんと飛んできて、女の首筋にがぶりと食いつくと、女はその力に振り回されるように、宙に浮かんで、そうして、男とおんなじように首から血を流して動かなくなった。本妻は満足げに微笑んで、にやりと笑って、ガラス窓をすり抜けて、夜の空に消えていった。