「隼人、また自己ベスト出したんだって?」
 4月のとある水曜日の昼下がり、磯崎隼人の席に彼の友達、佐野誠が遊びに来ていた。
「いや、自己ベストっつっても俺は納得いってないんだよな…」
「そんなこと言うなってー、実際お前は白ヶ丘高校陸上部の絶対的エースって囁かれてるわけじゃんか!しかも将来はアスリートになるだとか」
 誠が目を輝かせながらそう言ってくる。
「俺自身はそこまでアスリートになりたいわけじゃないけど、まあ周りが期待してくれてるんならその道に進むのもアリなのかもな」
 隼人は半ば棒読みでそう答える。
「絶対そうした方がいいぜー」
 キーンコーン…
 そんな会話をしていると昼休み終了を告げるチャイムが鳴る。
「そんじゃ今日の部活でな!」
 そう言い残して誠は自分の席へと帰っていく。
 アスリート。確かに魅力的ではあるけれど、自分とは遠い存在だと思っていた。面白そうな職業なんて調べればいくらでもあるだろうし、アスリートに留まるのは勿体無いような気さえした。
 しかし、そんな隼人の気持ちなんて誰も知らない。周りの大人達や友達は、隼人が将来スポーツアスリートになると期待の眼差しを向け続ける。最近の言葉を借りて言うならば、レールが敷かれた人生というやつだ。
「よーし授業始めるぞー」
 そんなことを考えている内に先生が教室に入って来たので、隼人は思考を辞めることにした。

 授業、部活を終えて放課後。
「なあ誠、コンビニでアイスでも買わないか?」
 隼人は帰りの支度をしている誠にそう声をかける。
「悪い、俺今日塾なんだよ」
「高校二年の春から勉強頑張ってるのか、偉いな」
 隼人は学校から出された課題しか取り組まないタイプだったので、純粋に感動していた。
「行かねーと親に怒られちまうんだ。全然偉くなんてねーさ。じゃあまた明日な!」
 誠は足早に帰ってしまった。今日は一人で帰るか…
 そう思い隼人は帰路につく。友達と他愛のない会話をしながら帰るのももちろん楽しいのだが、こうして一人でのんびり歩くのも悪くはないと思った。
「あれ?」
 いつもと同じ帰り道の見慣れた景色に、ちょっとした違和感を覚える。 
 桜が咲き始めている公園の大きな木の下に、この辺りでは見かけない少女が佇んでいた。
「あれ誰だろ」
 普段なら素通りしただろう。だが今回ばかりはそうはいかない。だって、その少女が涙を流していたから。
 いきなり声をかけたら不審者になるだろうか。多少の心配はあったものの、隼人は意を決して公園に向かった。
「…あの、どうしたんですか?もしかして迷子とか…」
 隼人が声をかけると、少女はビクンと体を震わせて一歩後ずさりをした。
 そして振り向いた少女と目が合った。
 長い黒髪に水色がかった瞳、背丈から察するに同い年に見える少女に対して「迷子?」というのは失礼だったかもしれないと後悔する。
「え?あっ…」
 突然声をかけてしまったので少女はひどく狼狽していた。
「迷子とかではないんですけど、ちょっと動揺していて…」
「えっと、大丈夫…ですか?」
 訊ねると少女は俯いてしまった。自分から声をかけたにも関わらず会話のネタが全然見つからない。
「本当にこんなことってあるんだ…」
 消え入りそうな声で少女は呟いた。
「あ、いや何でもないです!ちょっと人と話すのが久しぶりで、緊張してるみたいです…」
 見るからに焦りまくっている彼女。確かに、他人と話し慣れていないような様子ではあった。
「そ、そうなんだ?」
「あ、あの、私最近引っ越して来た者なんです。ここで出会えたのも何かの縁なので、名前聞いても良いですか?」
 急な話題変更に少しだけ戸惑う。
「俺は磯崎隼人。高校2年、よろしく!」
 人と話慣れていないらしい彼女のためにも、隼人はできるだけ明るい口調で自分の名を告げた。
「同い年だね!私、滝野花怜って言います。よろしくね磯崎くん!」
 直感の通り、やはり同い年だったようだ。砕けた口調で話すようになってくれて何だか安心する。
「えっと、滝野さん?元気になってくれたようで良かったよ」
「ありがとうね磯崎くん!あと私のことは呼び捨てで良いよ」
 あまり同級生の女子を呼び捨てしたことはないので正直緊張する。
「じゃあ…滝野は白ヶ丘?」
「え?」
「いや、その通ってる高校。同い年って言ってたし」
 少しばかり沈黙が訪れる。もしや聞いてはいけない事情があるのだろうか?
「あーえっと…私訳あって隣町の高校に通ってるんだ」
 驚いた。同時に、隣町の高校に通うほどの訳とは何なのかの好奇心も湧いて来た。だが初対面だし訊きすぎるのもマズイだろう。
「そうなんだ。まあ色々事情はあるよな」
「そういうこと!まあ私はとりあえず大丈夫だよ!」
「大丈夫そう?なら良かった」
 一緒にいたところで何かできるわけでもないので、隼人はそう言って家に帰った。

「あら隼人、ちょっと遅かったわね」
 家に着くと夕飯を作っている母親が話しかけてきた。
「まあちょっと用事があってね」
 突っ込まれても面倒なので、滝野との出会いの話は伏せておくことにした。
「それでね隼人、見せたいものがあるのよ〜!」
 隼人の頭に嫌な予感が浮かんだ。母親が「見せたいものがある」といった時にろくな物を見せられた記憶がなかったのだ。
「アスリートへの第一歩!春のスポーツ合宿…?」
 母親から渡されたチラシにでかでかと書いてある文字を声に出す。どうやら若者を対象とした市の企画らしい。
「アスリートへの第一歩ってこんなの隼人にピッタリじゃない!ぜひ出ましょ!」
 あぁ、またそういう話か…
 母親がこうしたチラシを見せてくるのは初めてではなかった。息子の夢を応援したいという思いで提案してくれているが、まだ夢が定まりきっていない隼人にとってはそれがプレッシャーになっていた。
「分かった。考えとくよ」
 いつも通りテキトーに空返事をする。いつもならこれで話は終わっていた。
「あんた、もう高校二年なんだしそろそろ将来のこと考え始めたらどうなの?」
 母親が声色を変える。面倒な話に発展する未来が見えてしまった。
「だから分かったって!…宿題あるから部屋戻るわ」
 強引に話を終えて部屋に戻った。
 夢を押し付けてくる母親。それを受け流してずっと夢から逃げ続けている隼人。
「俺は、いつになったら変われるんだろうな…」
 電気もつけずに、薄暗い部屋の中で呟く。きっと、本当に自分がやりたいと思えるようなことに出会えれば、ちゃんと向き合うことができるのだろう。どこか他人事な思考を巡らせながら部屋の窓を開けて外を見つめる。薄紅色の桜が目に入った。
「そういえば…」
 桜を見ていると滝野のことを思い出した。
 どうして彼女はあの木の下で涙を流していたのか。引っ越して来て慣れない土地だから泣いていたのか。でもなんだか、別の理由があるような気がしてならない。そして一つのことに思い至る。
「明日もあの場所に行けば何か分かるかもしれない!」

 隼人はその翌日、忙しない気持ちで過ごしていた。
「今日は塾無しなんだ!隼人一緒に帰ろーぜ!」
 放課後、機嫌が良さそうな誠が話しかけてきた。
「悪い、今日は俺が用事あるんだよね」
「うわーまじか!まあ仕方ない。また明日な!」
 手を振りながら誠を見送る。隼人も帰る準備をする。
 誠の提案を断ってまで行きたかった場所。それは例の公園だ。滝野花怜と名乗る少女。昨日あの場所にいたのは偶然なのかもしれないし、何か目的があったのかもしれない。何も分からないが、隼人はあの不思議な出会いが偶然だとは思えなかった。
 歩を進めて例の公園に辿り着く。
「あ」
 同じ木の下に佇む滝野を見つけたのと滝野が隼人の存在に気づいたのは同時だった。二人の視線が交差する。
「あー磯崎くん、今日も来てくれたの?嬉しいな!」
 昨日より遥かに元気いっぱいな様子で近づいてきたので隼人は少し面食らう。でもこうして喜ばれると悪い気はしない。
「もしかして今日もいるかもと思ったら本当にいたね。この公園好きなの?」
 昨日は初対面だったため緊張したが、今日は自分から話題を振ることができた。
「まあそうだね。思い出深いというか、ここに私の原点があるっていうか…」
 昨日から感じていることだが、滝野との会話はどこかフワフワしている。現実離れした不思議な雰囲気があるのだ。だが、隼人はこんな雰囲気が嫌いではなかった。
「そうだ!磯崎君にお願いがあるの!」
 滝野が何かを閃いたかのように顔を上げる。
「え、お願い?」
「うん、私この街のこと何も知らないからさ、案内して欲しいんだ」
 なるほどと思った。確かに滝野が引っ越してきたばかりというのなら案内する必要があるかもしれない。幸い今日はこの後の予定は無いし、何よりも不思議な魅力がある滝野と共に過ごしてみたいという好奇心もあった。
「俺でよければ案内させてよ」
 こうして隼人と滝野は街を回った。最初は街一番の商店街に来た。
「ここが一番大きな商店街だよ」
「えーすごい!大きいとこだね。中入ってみて良い?」
 そして次にスーパーマーケットや公民館、広場など色々な所に行った。その度に滝野が豊かな表情を見せてくれるので、隼人自身もそれなりに楽しんでいた。
「最後に見せたいのが、ここなんだ」
 そこは隼人のお気に入りスポット、白丘橋だった。アーチ状の橋から見える川が、沈みかかっている太陽の淡い光を反射してオレンジ色に染まっている。
「ちょうど夕方に来るとめっちゃ良い景色なんだよね。俺、疲れた時はいつもここに来て休んでるんだ」
 そう言って隣を見ると、滝野は感慨深げな表情で夕日を眺めていた。
「すごく…綺麗だね」
 まさかこんなにも感動してもらえるとは。誰かと一緒に白丘橋にきたのは初めてのことだったため、正直喜んでもらえるかどうか不安だったのだ。
「…ねえ隼人くん」
 聞き間違いかと思い、ふと滝野の方に首を傾ける。今まで名字で呼ばれていたのが急に名前呼びになった。どういう意図か分からなかったが、距離が近づいてきた証拠と思って素直に喜び、受け入れた。
「どうしたの、花怜?」
 そして、隼人も名前で呼んでみた。何となくではあるが、花怜がそうして欲しそうに見えたのだ。
「私には夢があるんだ」
「夢?」
「私、小さい頃から写真を撮るのが好きでね。自分が撮った写真で人を喜ばせるのが夢なんだ」
 何故このタイミングで夢の話が出てきたのか分からなかったが、きっと花怜なりの意図があるのだろう。そして純粋に素敵な夢だと思った。
「すげえよ花怜。そんな素敵な夢があるなんて」
 写真を撮ることでどれだけの人を笑顔にできるのかは正直分からない。それでも、その無垢な夢は何よりも美しいもののように見えて…
「隼人くん、どうして泣いてるの?」
 気づけば視界がぼやけていた。何故だろう。この気持ちはずっと自分の中に留めておこうと決めたのに。それなのに、なんだか無性に話したくなった。
「俺さ、陸上やってて、エースって言われてるんだ。それ自体は誇らしいことだと思うけど、周りの人はみんな俺が将来アスリートになるのを期待してて」
 花怜は静かに頷きながら聞いていた。
「流されるままにアスリートになるのが俺の人生なんだと思ってたんだ。他にやりたいことがあるわけでもないし。でも、花怜の夢の話を聞いて、やっぱり自分の夢に向き合わなきゃなって思ったんだ」
 こうして誰かに本音を話すことがあっただろうか。レールを敷いてくる親にも先生にも、怖くて何も言い返すことは無かった。いや、怖いというよりも面倒だったのだろう。将来の話が複雑にならないように隼人はずっと本音から逃げてきた。
「難しいことは分かんないけどさ」
 花怜の視線が夕日から隼人の方へ移る。
「…人生、何とかなるもんだよ」
 他の人が聞いたら無責任に聞こえるかもしれない。だが、今の隼人にとってはその無責任さがなんだか救いのように感じられた。
「…ありがとう花怜。出会って二日目の男の夢の話なんて聞いてくれて」
「私も夢の話聞いてもらったからおあいこだよ」
 花怜ははにかんでそう応える。一瞬、心臓の高鳴りを覚えた。
 自分の身の上話を真摯に聞いてくれた、そんな花怜の力になりたいと思った。だから、花怜の目を真っ直ぐに見て自分の思いを伝える。
「なあ花怜。君のその夢、手伝わせてくれないか?」
 花怜は目を見開いて驚いていた。
「写真撮るのにどれだけの助けが必要かは分からないけど、せっかくだしさ、何か手伝わせてよ」
 なんだか恥ずかしくなって、後半は消え入るような声量になってしまった。もしかしたら邪魔だっただろうか。まだ出会って二日目なのに距離を縮め過ぎたか。色々と考えていると花怜は口を開いた。
「…いいの?」
 夕日が当たる花怜の表情がとても輝いて見えた。