『シップ、起きてる?』
真っ暗な部屋の中で、テキストでそう表示されたスマホの液晶だけが光ってる。
バイブレーションと煌々と明かりを放つそれだけで、私を覚醒させるには十分だった。
普段、自分以外の音がするはずもないこの家で、少しの振動は大きな目覚まし音になり得た。
熟睡していた体が突然起き上がったものだから、心臓が早鐘をうつ。
メッセージを改めて読んだあと、真っ暗な部屋を見渡す。締め切ったカーテンからも暗闇しか見えない。
昼寝のつもりがもう夜になってしまっていたらしい。こういう時は時間感覚が狂うから、現状を飲み込むのに時間がかかる。

連絡を寄越していたのは顔も見たことがないネット上の友人、”ハロ”だ。
私をシップと呼んだのも、私がネット上で使っているハンドルネームが『ship』であるからに他ならず、
今ではこの名の方が自分自身に馴染んでいるとさえ思っている。本当の名前を名乗る機会の方が少ない。
私は液晶の左上に表示された時刻と、ハロからきたメッセージを交互に確認する。
今は夜の10時だ。彼とオンラインでゲームをする約束をしていたのに、もう1時間も過ぎてしまっている。
『ごめん。寝てました』
潔く現状をチャットで伝えた。
重要な約束でもなかったはずだから、嘘をつく意味もない。
「寝てただけならよかったよ」
すぐにそう返事がきた。
『他のみんなともう遊んでますか?』
そうメッセージを送りながらベッドから立ち上がる。ちょうどよく部屋の照明をつけるためのリモコンを踏みつけバランスを崩して尻餅をついた。その拍子に詰みあがった書籍やゴミが雪崩を起こしたが、私はノーリアクションのまま踏んづけたリモコンを拾い上げ、部屋を明るくした。
「ううん、それどころじゃないんだ」
『何かあったんですか?とりあえずボイスチャットに入りますね』
私は再び立ち上がりながらからのペットボトルやゴミでいっぱいのデスクに向かい、スリープさせていたPCを起動させた。
その傍ら、スマートフォンで友人たちの通話状況を確認する。いつもなら4、5人が集まっているはずのボイスチャットは、1人もオンラインになっていなかった。
「あれ…」
思わず声がもれる。
そう呟いたのも束の間、私のメッセージを確認したのか、やり取りをしていた『ハロ』のアイコンがボイスチャットに表示された。多分私を待っているのだ。急いでヘッドフォンを装着してボイスチャットへ入った。
「遅れてすいません。昼からずっと寝てました」
寝起きのかすれた声がひとりの部屋でモニターに向かって話している。
喉が渇いていたので、飲みかけのペットボトルを開けて残りの水を全て流し込んだ。
「ああ、全然。そんなことだろうとは思ってたし」
ハロはそう言う。なんとなく彼の雰囲気が“いつも通りではない“ことが感じ取れた。

私やハロ、そして普段ここに集まる者たちはだいたい自堕落で、そして変化を嫌っていた。いつも同じ時間に集まり朝まで遊ぶ。メンバーの中には自分と同じ大学生がほとんどだが、昼間はサラリーマンをしている社会人もいる。誰も彼もこのボイスチャットに集まって、日常や自分の近況の話などはせずにゲームの話ばかりをしていた。付き合いが始まって2年ほど経つが、真面目な話はしないグループだったのだ。そもそも、誰とも会ったこともないし、やはりオフ会などといった面倒なことをやりたがる人間はメンバーの中にはいなかった。口籠るハロに適当に相槌を打ちながら、私が寝ていた間のログを読み返す。どうやら一度は数人がここに集まったようだが、今は解散したらしい。

20時56分、とあるファイルがメンバーのひとりから送信されてきている。

「あっ」
思わず声が漏れた。
送信されてきていたデータのファイル名は『2007-sanaka.MOV』。動画だ。

「シップ、聞いてる?とにかく今連絡がとれるのはお前とフタさんと俺しかいなくて…あ、もしかしてお前チャット欄読み返してる?その、そこにアップされてる動画、絶対見るなよ」
「え?ああ」
ハロの方が遅かった。既にこちらではその動画を読み込んで、ダウンロードが完了していた。ほぼ反射的にダブルクリックをすると、動画ファイルは再生の準備をはじめた。普段からSNSにしがみついているネット中毒者に対して、ハロの制止などなんの効力もない。
「ごめん、僕もうダウンロードしちゃって」
ダブルクリックしたファイルは動画再生画面へと切り替わり自動的に再生されようとしていた。
「止めろ!」
ハロの大声が動画の1秒目を掻き消した。私はハロの声に驚いて半ば飛び跳ねる形で動画を止める形になった。飛び跳ねた拍子に、動画のタイムコードを大きく動かしてしまう。静止した映像の画面には、画面いっぱいに写り込んだ少女の顔がブレて半分だけ映ったところだった。私はしばらくその顔と見つめあう。

「みんなそれ見て、様子がおかしくなったんだ」

ハロは静かにそう言った。
真っ黒な少女の目が私を見ていた。食い入るようにモニターに近づく。
青いワンピース、夏の空、蝉の鳴き声が脳内で鳴り響いた。