16.平将門

平将門(延喜3年〈903年〉? - 天慶3年2月14日〈940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族。第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の子で鎮守府将軍である平良将の子。

下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがて関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗し「新皇」を自称。東国の独立を標榜し朱雀天皇の朝敵となったが、即位後僅か2ヵ月足らずで藤原秀郷・平貞盛らによって討伐された(平将門の乱)。

(中略)

言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て

将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて。

と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。

また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが、東京都千代田区大手町にある将門塚である。この首塚には移転などの計画があると、事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

戸黒さんのメモ)
└そのほか平将門由来の場所を確認
└延命院の胴塚、國王神社、北山稲荷大明神、大手神社