なんとなく憂鬱な気持ちになる月曜日。
 出社すると、会社の自動ドアに何十枚とA4サイズの紙が貼られていた。
 書かれているのは、たった一文。

『       さんはどこにいますか?』

 マジックで殴り書きしたような大きな字に、気味悪さを覚えた。

「質が悪いいたずらよね。本当に嫌な世の中になったわ。紙代も値上がりしてるのにもったいない。会社(うち)にくれれば喜んで使うのに」

 先輩の奥山(おくやま)さんは文句を言いながら、お湯で濡らした雑巾で貼り紙を拭く。私はゴムベラで柔らかくなった貼り紙を剥がしていく。これが時間がかかる。どんな糊を使ったのか知らないけど、細かく千切れるだけ。ぜんぜん綺麗に剥がれる気配がない。
 今が四月で良かった。夏だったら熱中症で倒れそうだし、冬だったら風邪をひきかねない。

「社長に防犯カメラ付けてもらえるよう、また頼みませんか?」

 会社の近くには大きな公園がある。そこで飲む人が多く、会社の敷地にはたびたびアルコールの空き缶や、おつまみのゴミが捨てられている。それを片付けるのは私たち事務員だ。
 防犯カメラを付けたら不法投棄の抑止力になるのでは、と前々から訴えているけど、社長は聞き入れてくれない。

「そうよね、これなら社長も首を縦に振ってくれるそうよね」

 玄関は会社の顔だ、と社長は主張している。だから玄関掃除は朝と夕方の二回目するし、毎週月曜日は自動ドアのガラスも手が届く範囲で拭いている。レース模様の自動ドアのガラスは特注で、社長の自慢だ。
 貼り紙はなんとか剥げたけど、自慢のガラスには糊の跡がべったりと残っている。

「新しい模様みたいですね」

 私がそう言うと、奥山さんは吹き出した。
 もちろん社長は激怒し、警察に被害届を出した。ただ会社にも周囲にも防犯カメラは設置されていない。
 金曜日、最後に会社を出たのは斎藤課長と営業の西田さん。その時は何もなかったという。
 この辺りは夜になると人通りが少なくなる。土日を挟んだ以上、犯人は見つからないだろうな、という空気が社内に流れている。

「奥山さん、(てら)()さん、ちょっと来てくれ」

 噂をすれば事務所にいる社長が窓を開けて、私たちを呼んでいる。

「もう! 自慢の自動ドアなんだから、手伝ってくれてもいいのに――行きましょ、(あや)()ちゃん」

 奥山さんは他の社員がいない時だけ、私のことを名前で呼ぶ。

「はい」

 奥山さんの後を追いかけようとした時だった。

「――」

 誰かに名前を呼ばれた気がした。

「え?」

 振り返る。もちろん誰もいない。

「彩奈ちゃん、どうしたの?」
「なんでもないです」

 気のせい。
 そう、気のせい。ただでさえ憂鬱な月曜日なのに、しなくてもいい肉体労働をしたから。
 そう結論づけて、社内に入った。



「ナさんはどこにいますか!」
「どこですか?」
「探されてますよ」

 翌朝、会社近くで楽しそうにはしゃぐ男子小学生たちとすれ違った。子供たちがやって来た方を見れば、民家のブロック塀一杯に、

『     ナさんはどこにいますか?』

と書かれたあの紙が貼られていた。昨日と違って一文字追加されていた。
 翌日の水曜日。会社の最寄り駅で降りると、駅前にあるベンチの近くにちょっとした人だかりができていた。

『    ヤナさんはどこにいますか?』

 あの貼り紙だった。ベンチを覆うように、べったりと貼られている。

「何アレー」
「キモチワルー」

 二人組の女子高生が笑いながら写真を撮っていく。
 奥山さんの言葉じゃないけど、本当にもったいない。
 木曜日には、アパート最寄り駅の改札横の壁に貼られていた。気味が悪いのにすっかり見慣れてしまい、やっぱりね、なんて思ってしまう。
 一文字増えて、

『   アヤナさんはどこにいますか?』

となっている。
 探されている人と私は同じ名前らしい。奇妙な偶然に少しだけ首筋がぞわりとした。

「……暇そうで羨ましいわ」

 まとわりつくような不安を払拭したくて、そんな嫌味を口にした。



 金曜日。
 アパートと駅の間にあるコンビニの壁一面に、あの貼り紙があった。

『  ダアヤナさんはどこにいますか?』

 増えていく文字は私の名前に近づいていく。それに私の住むアパートにも。
 追いかけられているみたい。
 嫌な考えが脳裏を過ぎり、体中を冷たいものが流れた。
 ぞわっと全身の毛が総毛立つ。心臓がドクドク大きく鳴り、締めつけられるように痛む。
 私は逃げるようにその場を立ち去った。


 
 土曜日。
 目覚めは最悪だった。全身が風邪をひい時のようにだるいし、頭もぼんやりする。
 昨夜はなかなか寝つけなかった。ようやく眠りにつけば、怖いものに追いかけられる夢にうなされて、何度も目が覚めた。
 目覚まし時計を見れば、十時を過ぎていた。重い体を無理やり動かして恐る恐るカーテンを開け、悲鳴を上げそうになった。
 アパートの前の道に、

『 ラダアヤナさんはどこにいますか?』

と書かれた大量の紙がばら撒かれていた。

「なんで! なんなのよこれ……」

 昨日の予感は的中した。新しく入った文字は《ラ》。もし明日《テ》が入ったら、私の名前になる。

「……どうして……どうしよう」

 警察に相談したら、対応してもらえるだろうか?
 でも、『テラダアヤナ』という名前は珍しくない。だからあの貼り紙が《私に対して》だという証拠がない。
 あの紙を書いた誰かは、私のアパートまで知っている。だからここにはいたくない。 
 実家は遠すぎるから、月曜日に出社できなくなる。
 こっちの友達に泊まらせてもらうか。そうでなければ泊まってもらうか。
 でも、もし何かあったら?
 このご時世、手痛い出費になる。だけど、誰かを巻き込むよりはずっと良い。私はしばらくホテルに避難することにした。



 日曜日。
 ホテルの枕は少し高かったけど、すっごく良く眠れた。夢見心地の中で寝返りを打つと、パサリ、と乾いた音がした。

「……ん、なに」

 手繰り寄せると一枚の紙だった。

『テラダアヤナさんはここにいます』

 紙いっぱいに大きく書かれている。

「っ!」

 私は声にならない悲鳴を上げ、飛び起きた。

「……どうして!」

 ホテルに宿泊していることは誰にも言ってない。
 アパートからここまで後をつけてきた?
 でも部屋はオートロック。ドアチェーンもしっかりかけた。チェックインしてからは一歩も部屋の外に出ていない。
 それなのに、なんで。

「テラダアヤナさんはここにいます」

 ふいに金属を擦り合わせるような甲高い声がした。
 部屋の隅に人が立っている。違う。()じゃない。
 影のように真っ黒な何者(・・)かだった。首は異様に長くて、手足は枯れ枝みたいに細い。口らしき空洞は耳近くまで避けている。

「ヒィッ!」

 ベッドの上で後ずさって、すぐに壁にぶつかった。ガチガチと奥歯が鳴る。
 ズル。ズリ。ズルゥ。引きずるような音を立てながら、黒い人はゆっくりと近づいてくる。

「あなたを下さイナ」

 黒い人が覆い被さってくる。
 氷のように冷たく堅い指が首を締めてくる。

「……ヤッ! 離しっ!」

 必死に暴れるけど黒い人はびくともしない。
 指の力がひと際強くなり、私は意識を手放した。 

◆□◆

「西田さん、今少し話してもいい? 今日の寺田さん、ちょっと様子が違うと思わない? 元気が良いっていうか、妙にはしゃいでるっていうか。――やっぱり、そう思うわよね。金曜日は具合が悪いって早退したし……土日の間に何かあったのかしら? 下手に聞いたらハラスメントになりそうだし。……でもね、さっきいつものように彩奈ちゃんって呼んだの。そうしたら、一瞬だけ不思議そうな顔をしたの。あ、私の名前は彩奈なんだ、みたいな……なんでかしら、別人になっちゃったような気がするのよ……」