薄暗い病室。

蛍光灯の明かりがチカチカと瞬き、薬品の匂いが漂う中、白衣を着た女性がカルテを片手に、ベッドに横たわる阿久津を見下ろしていた。

彼は無表情のまま、虚空を見つめている。


「阿久津さん、やっぱり同じことしか言いませんね。」


女性の隣にはもう一人、白衣を着た男性が立っている。

彼は腕を組み、少し苛立ちを滲ませた表情で言った。


「地図にはない場所だとか、行方不明者だとか、廃マンションだとか……。影だとか、途中からは『世界が歪んでいく』とか言い出して、何が何だか意味が分からない。」


男性が深いため息をつくと、女性は冷静な声で応じた。


「まあ、目の前で仲間が死んでるんです。しかも無惨に。ショックで精神が崩壊してしまったんでしょうね。」


その言葉に、男性は苦笑を浮かべた。


「はあ?何言ってんだ。彼が殺したんじゃないか。」


女性の声が鋭く響く。


「でも、目撃証言がない以上、すべては彼の話に頼るしかないでしょう?警察もそう結論付けようとしてるみたいです。」



阿久津はぼんやりとした意識の中で、繰り返される記憶に囚われていた。

廃墟のマンション、赤い扉、蠢く影――すべてが鮮明でありながら、不確かだった。


「俺は……違う……選択したはずなんだ……。」


微かに声を漏らすと、看護師が近寄り、彼の腕に注射を打った。


「落ち着いてくださいね、阿久津さん。」


だが彼の中では、現実と虚構の境界が完全に崩れていた。

自分が何をしたのか、本当に起きたことなのか、それとも想像の産物なのかさえわからない。




病院の外では、先ほどの二人が再び話を続けていた。


「でもさ、結局あの話って全部、彼の妄想だったってことでいいのか?」


男性が煙草に火をつけながら尋ねると、女性はカルテをパラパラとめくりながら答えた。


「ええ、まあ……解離性同一性障害と診断されてるわね。自分で手にかけた事実を認めたくなくて、妄想の中で別のストーリーを作り上げたんでしょう。」


「しかし……。」


男性は口を閉ざし、煙を吐き出す。その目には、どこか釈然としないものが浮かんでいた。


「それにしても、彼が話してた“地図にない場所”だとか、“赤い扉”だとか……妙に詳細だったよな。」


女性は短く笑いながら首を振った。


「聞き込みしても、そんな場所は存在しなかった。廃マンションなんてただの噂だし、行方不明者の件も未解決のまま。それでもあの様子を見てたら、本人の中では完全に現実なんでしょうね。」




病室に戻ると、阿久津は鏡の中の自分をじっと見つめていた。

目の前の自分は、確かに自分だった。だが、その目の奥には、別の“何か”が潜んでいる気がした。


「俺じゃない……俺じゃないんだ……。」


だが、鏡の中の自分がゆっくりと笑みを浮かべた気がして、阿久津は目を閉じた。