2024年5月30日 午後11時47分
阿久津はリビングの机に広げた資料の山を前に、深いため息をついた。
手のひらに刻まれた「印」が、じんわりと熱を帯びているように感じる。
この違和感を無視することはできなかった。
河原田の日記や廃マンションの都市伝説を調べるうちに、「影」と「儀式」の関連性が浮かび上がってきた。
そしてその全てが、手のひらの印に集約されているように思えた。
「代償って……一体、何なんだよ。」
阿久津は呟き、思わず頭を抱えた。
その瞬間、不意にスマートフォンの通知音が鳴り響いた。
画面を見ると、差出人不明のメールが一件届いていた。
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件名: 「真実を知りたければ」
本文: 「明日、午前0時、廃マンションの地下室へ来い。印の持ち主として、全てを知る資格がある。」
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「誰が……?」
メールには発信者情報が一切表示されていない。
だが、内容が明確に自分の「印」に触れている以上、無視するわけにはいかなかった。
翌日、午前0時。
阿久津は再び廃マンションの前に立っていた。
夜霧が漂い、空気が重苦しい。
懐中電灯を片手に、足元の音を恐る恐る確認しながら進んだ。
地下への入り口に近づくと、錆びついた鉄扉が薄く開いているのが見えた。
中から冷たい風が吹き出し、不気味なうめき声のような音が響いてくる。
「……これが代償ってやつなのか?」
扉を押し開けると、中は見知らぬ景色になっていた。
以前来た時とは違い、壁には奇妙な紋様が刻まれ、天井からは不自然な黒い染みが垂れている。
阿久津が一歩踏み出したその瞬間――
バタン!
背後の扉が音を立てて閉まった。
「なっ……誰だ!?」
振り返ると、そこには誰もいない。
しかし、背中に何かの視線を感じた。振り向く勇気は出ない。
奥へ進むと、部屋の中央に何かが置かれているのが見えた。
それは古びた木製の箱で、蓋の上には「印」と同じ模様が彫られていた。
阿久津が近づくと、不意に声が響いた。
「触れるな。」
その声は、影のものだった。
「お前はここに来るべきではなかった。」
影は再び姿を現した。
暗闇の中に浮かび上がるその姿は、人間の形をしていながら異様な存在感を放っている。
「……どういう意味だ? 俺は呼ばれたんだ。この印のことを知るために。」
影は静かに首を振った。
「その呼び声に応じた時点で、お前は選択を間違えた。この場所に踏み込むことは、さらなる混乱を招くだけだ。」
阿久津は苛立ちを隠せなかった。
「だったら教えろよ! この印が何なのか、代償って何なのか、全部!」
影は一瞬沈黙し、静かにこう言った。
「お前の持つ印は、均衡を崩す鍵だ。そしてその鍵が開く扉の先には、決して戻れない現実が待っている。」
「戻れない現実……?」
「そうだ。その扉を開くということは、全てを変えるということだ。だが、その代償として、お前の存在は均衡の代わりとなるだろう。」
「俺の存在が……代償に?」
影はそれ以上何も言わず、再び闇の中に消えた。しかし、その言葉は阿久津の心に重くのしかかった。
阿久津は箱を見つめた。
この箱を開ければ全てを知ることができる――だが、同時に全てが終わるかもしれない。
「俺に……本当にそんなことができるのか?」
手のひらに刻まれた印がじんわりと光り始めた。
それはまるで、箱を開けろと誘うような不気味な輝きだった。
「河原田……俺はどうすればいい?」
彼は深呼吸をし、ゆっくりと手を伸ばした。
その手が箱に触れる直前、耳元で低い声が囁いた。
「選べ……。」
その瞬間、箱が勝手に開き、中から黒い光が溢れ出した――。
