2024年5月27日 午後9時00分


阿久津は部屋の中央で黒い液体が奇妙な模様を形作る様子を目の当たりにしながら、必死に息を整えようとしていた。

河原田が突然消えた瞬間の衝撃が、まだ身体を硬直させていた。


「河原田……どこに行ったんだ……?」


声を震わせながら周囲を見回す。

だが、答えはどこにもない。

ただ、祭壇を覆う黒い霧が徐々に薄れ、代わりに部屋の壁や天井に奇妙な影が浮かび上がってきた。

それは人影のようでもあり、無数の目がこちらを見つめているようにも見える、不安定な形状だった。


阿久津は恐怖に耐えながら祭壇に近づいた。

消えた河原田の痕跡を探すために、床の模様や祭壇の上を調べるが、目に見えるものは何もなかった。

ただ、先ほどの黒い液体が形作っていた模様が不自然に崩れ、そこに一冊の古びたノートが現れていた。


「これ……河原田が持っていたものか?」


阿久津は慎重にノートを拾い上げた。

それは驚くほど冷たく、手に取った瞬間、低い囁き声が頭の中に響き渡った。


『戻るな……逃げるな……代償は続く……』


思わずノートを放り出しそうになったが、気を強く持ってそれを開いた。

中には、不可解な文字とシンボルがぎっしりと書き込まれていた。

その中の一つのページには、見覚えのある地図が描かれていた。

それは、杉山町の地図で、廃マンションが赤い印で示されていた。


「やっぱり……この場所がすべての中心なのか……」


阿久津はノートを持って立ち上がったが、その瞬間、背後から何かが動く気配を感じた。


振り返ると、部屋の隅に置かれた鏡が異様に歪み始めていた。

鏡の中の自分の姿が徐々に薄れ、代わりに見知らぬ風景が映り込んでいた。

その風景は、どこか見覚えがあった。マンションの廊下のようだったが、光が薄暗く、不気味な雰囲気を放っていた。

そして、廊下の奥から何かがゆっくりと近づいてくる。


「やめろ……見るな……」


頭の中に響く声が強くなり、阿久津は鏡から目を離そうとしたが、その時、鏡の中の影が不自然に近づいてきた。

それは、河原田の姿だった。


「河原田……お前なのか?」


しかし、鏡の中の河原田は何も答えず、不自然に歪んだ笑みを浮かべていた。

その瞳は黒い霧に覆われ、まるで別人のようだった。


____戻ってくるな


突然、部屋全体が暗闇に包まれ、阿久津は何も見えなくなった。

耳元には無数の囁き声が聞こえ、その内容は断片的で理解できなかった。



____……代償……引き継ぐ……

____……封じられた……門……

____……逃げられない……



阿久津は耳を塞ぎながら叫び声を上げたが、その声も囁きにかき消された。

やがて、暗闇が薄れた時、阿久津は再び祭壇の部屋に立っていた。

しかし、部屋の様子は大きく変わっていた。壁や天井には無数の爪痕のような傷が刻まれ、黒い霧が床全体を覆っていた。

そして、中央には先ほどのノートが再び置かれていた。その隣には、河原田が持っていたペンダントが転がっていた。


「……まだ終わっていないのか……」


阿久津は震える手でノートとペンダントを拾い上げ、部屋から飛び出した。



カメラには阿久津が部屋を飛び出す様子が映っていた。しかし、廊下を走る彼の後ろには、不自然な影がつきまとっていた。

それは人型のようでいて、形を固定できない何かだった。

映像が一瞬途切れ、次に映ったのはマンションの外に立つ阿久津の姿だった。

彼は息を切らしながらマンションを見上げ、その顔は青ざめていた。


「……これ以上深入りするのは……無理だ……」


そう呟くと、彼はその場を去った。しかし、カメラが捉えた最後の映像には、マンションの窓に無数の影が浮かび上がり、こちらをじっと見つめていた。