「すいません、失礼します」と彼は言う。
背丈が高く、長身痩躯である。
「どうかされましたか?」猪塚がいった。
その返答は理解し難いものである。
「僕がいたらどうでしたか」
*
「蛙さん、蛙さんしっかりしてくださいよ」
右肩を数回叩いた美麗の表情は異様に強張っていた。
「よかった目覚めて」
ふうと安堵の息を漏らす。
しっかりしなければ、漸く意識を
正常に保つことができた。どこかからか
こんな声が聞こえてきた。再び聞こえてきた。
その声は頭の中に直接向けられる。
「ろせ、のろいーころせー」
言葉の方角に体を向ける。
こちらの方向だろう。
「ろいーころせー」
周りをすり抜けるようにそちらに向かう。
急足でそちらへ向かう。
石神は祈るようにその場所で膝をつき、
何かを祈っている。ここは織本弥勒が言っていた。
ひみつきちであるだろう。この場所は子供しか
入れない。そんな場所に身を縮めて
入っているのだろうか。そこでその言葉を繰り返す。
のろい、ころせと。
私は躊躇なく彼をその場から遠ざけようと
彼の脇の下を両手で掴んで引く。
だが彼の体は一向に動かない。おい、石神、石神。
何者かに引っ張られているような力が彼に働く。
「のろいーころせー」
その言葉が徐々に大きくなっていく。
「のろいーころせー」
体を再び引っ張る。引っ張っていく。
次第に体が後ろに倒れ込み、
影で隠れていた彼の頭部を見る。
「のろいーころせ」
大きく腫れ上がった彼の頭、その姿を一同が見る。
「え、なんですか、これ」低く曇った声で彼女は言う。市役所の彼は驚きのあまりに声が出なかったのだろう。
その膨らみは限度を超えて膨れ上がり、
赤く爛れる。そんな彼が振り向いた。
私に気がついたのか、彼は言う。
「ああ、蛙さん、こわずさんねすよね」
徐々に口角が上がり笑みを浮かべる。
それが妙に奇妙で鳥肌が立つ。
「あれれれれれれれはなああんですか」
支離滅裂な言動を放つ。
私は敢えて冷静を保ち、それを推測する。
彼はやがて力が抜けたようでその場に倒れ込んだ。 前方向に。
はあ、はあ、とかあらい息遣いから
徐々に息が穏やかになっていく。
大丈夫か?と彼に近寄った。
はあ、
「おい、返事してくれ」
はあはあ、
「いやいや、大丈夫です」と彼は生唾を飲み、
穏やかに応えた。
心配のボルテージが一気に下がっていき、
ため息をひとつ。そんな最中、
こんなことを彼は言い出した。
「すいません、ご迷惑を」と添えた後、
「彼の人生に踏み込んでしまいました」
*
彼は両腕の力でゆっくりとその空間から抜けた。
腫れも治ってゆっくりではあるが落ち着きが見えた。
よいしょと起き上がり、彼はその場に座り込んだ。
「彼は生きたかったんだと思います」
まず一言目にそんな言葉を駆り出した。
その次の言葉に驚きを覚えた。
「彼は小学五年生の時に亡くなっていたんです」
そんなことはありえないと声を漏らす。
動画も何もかも、あれは何だったんだ。
全くの別人であるのか、それとも幻影?
「それと僕、思ったんですけど、
送られてきたものの中で変な点があって」
変な点?というとどういうことだ。
どう言ったことなのか。
「よくよく考えたら、あの中の人物たち、
ゆりぴいだけが赤の他人であることに気がつきました」
赤の他人、であるならひみつきちでの集会はゆりぴいを除く石神、織本、梁瀬、Jency、橋元の5人である。
石神が続ける。
「彼の記憶を探ると音源で聴いた彼ら彼女らの
景色が浮かび上がったんですちゃんと。
作られた映画じゃなくて、記憶の映像なんですよ。
何を言ってるのかさっぱりだと思うんですけど、
これは映像による呪いではなく、
彼がいたはずの世界における、なんて言うんでしょう」
勘が鋭いのか、私は気がついた。
「要するに、こういうとですね、
彼が生きていたら亡くなった人は生きていた、
ということ」
となると、こういうことになる。
「そうだ、君」
市役所の彼に問いかける。
「はい」
「そこで置き去り事件があったって」
「ええ、はい」
私はごくりと唾を飲み、それを聞いた。
「その置き去りにした人物って」
彼はここまできたらとその名前を言った。
少し彼は頭で考えていたようだ。
「増沢・・」
まさか、まさか。
「百合枝という人物です」
ゆりぴい、そう名前をつけるのも考えられる。
しかし、考えられないものがある。
なぜ、投稿されたのか。何故、
その発端に投稿されたのか。
これも、まさか。まさか現実ではないのだろうか。
そうだ。骨、骨。誰の骨を持っていたのか。
ということは、その骨はもしかしたら。
そんなことをひたすら考えていると
市役所の彼がこう言った。
「子供が亡くなったんです。それも何人も何人も」
何人も、何人も。
一体どういうことだ。それをまた彼に問う。
「スピリチュアル的な話、まあ、蛙さんには
大好物でしょう。そんなことがひとつあるので
お話ししても」
私はこくりとうなずいた。
美麗も石神も熱心にその話の続きを待つ。
「ここは昔、わらべころがしっていう
伝承が生まれた場所でもあるんです」
童転がし?と、頭で反芻する。
何が起きた場所であるのだろうか。
「続けますね、ここは江戸時代にまあ、
賑わっていたんですよ。こう、お店とかも並んでいて。そんななか、疫病が流行ったようです。
その疫病は瞬く間に広がっていったようで、
日によっては10人、多い時で50人が
無くなっていたそうです。なんの病気だかは
覚えてないんですけど。とにかく、
その不景気に追いやられ、子供達を生贄にしよう、
なんて政府の用人がこの砂場のあった場所に
たくさんの子供を生き埋めにしたと言われております。戦時中にもここは何か曰くがあったそうな」
彼はかなり詳しい。それを疑問に思った。
そうだ、彼の名前を聞いていなかった。
それを問う。
「私、後藤と申します」
お互いにあ、と声を漏らす。驚きに満ちた両者共々。
「あなたがあの」
それでも疑問が芽生える。彼は不動産業者で
あったはずだ。人違い?人違いにも程がある。
彼は観念したようにそれを見越していった。
「うそ、ついてました。本当は市役所の人間です。
趣味でああいった心霊、事故物件を探しているんです。すいませんでした。後藤です。
改めてよろしくお願いします」
怒りの矛先などはないため、二度頷いた。
少し胸の痼が掃けたような気がすると同時に、
この場所が極めて危険な曰くつきの
場所であることを再び肝に銘じる。
ゆりぴいが見たとされるあの映像は確か、
赤ん坊であったはず。しかしながら皆が皆。
増沢の存在を知っている。おかしい。
では彼はいつ亡くなったのであろうか。
とはいえ大人になった彼の記憶は誰も存在しえない。そう言い切れるのはやはり、彼は早い段階で
亡くなっているということ。何故なら彼は、彼は。
幼いままのその状態でこちらを見ている。
その場所にいるのだ。じっと見ている。
*
「とにかく、石神に彼の霊体が乗り移ったって
ことでいいのか」と彼に投げかける。
おそらく推測の通りであろう。
石神の目はまるで凶変し、虚ろな目をしている。
しかし、どうだ。彼はしばらく一点を見つめたのち、
予想だにしない言葉を吐いた。
「僕は殺されたんだ、僕だ。僕は殺されたんだ。
ここで」
記憶が錯綜する。また、またひとつ錯綜していく。
入り混じる記憶の中、前髪を束ね、
燃え盛る景色を見た。汚臭がし、血生臭い。
そこでただ身動きも取れずに踠く、足掻く。
どう手足を動かしてもそれはまるで阻まれるようにただひたすらに声にならない声を出す。
たすけて、とその声や、痛い、あつい、などの声。
向い側には笑う長身痩躯な武士がいる。たすけて、たすけて。髷を束ね、ひたすらに祈る。ここから出して。
出してほしい。
この煮えたぎる世界から私を救ってほしい。
そんな思いでひたすらにただひたすらに。
次第に衣服に火の粉が飛んでくる。あつい、あつい。
その記憶ではない。これじゃない。これじゃない。
まるで脳内を弄られるように視界が歪む。
額が熱くなる。爛れるように熱くなる。
「石神、石神」と必死に呼びかける声。
蛙が必死に大声をあげ、こちらを呼びかけている。
これじゃない、これじゃない。この記憶じゃない。
というか、これは俺じゃない。俺じゃないんだ。
あぁ、思わず吐き気を催した。気分を害する。
助けてくれ。ああ、頭も痛い。
強く、強く、振動を打つ。
いつも打たれていた、どんなことでもいつも、
いつも殴られていた。僕が何をしたって言うんだ。
またも、一回二回、三回と。
激しく胸が痛む。激しく、ただ激しく。
痛い、痛い。打たないで。
徐々に砂が被されていく。息が苦しいよって
ただ声を出す。ママの声を思い出して安心しようと
試みる。ママの声?思い出せない。思い出せないよ。
あのお姉さん。困った時は相談してね、
そう言ってくれたお姉さんの声。
しばらくお待ちください、しばらくお待ちください、
しばらくお待ちください。
そうだ、じゃあみんな。みんな死んじまえばいいのに。僕の好きな映画、みんなを殺しちゃえばいいんだ。
(霞んでいる視界、ぼやけている)最後に、
友達になれたあの子たちに、あの子たちに、
あの子たちの未来を想像してそれを映像にしよう。
そうだ。その時思いついたもの、
思いついたものを形にするんだ。
ねえ、なんだっけ、なんだっけ、石神くん、、、
正気を取り戻す。息遣いが荒くなっていく。
彼の記憶、彼の思っていたことを体感したとでも
言うのか。徐々に汗が滴っていく。
しばらくお待ちくださいとはそういったこと
だったのか。児童相談所、虐待に対する
電話も対応されず、心許ない気持ちに駆られた。
あの子たち、と指すのは我々のことであろうか、
ひみつきちにいた、当時の私たち。
強く悪寒がしたあとに子供の声でこう聞こえた。
確かにはっきりとこう聞いた。
僕のことを思い出してくれてありがとう。
その代わりに一人だけ、

