数日後、予定通りカイヌキの儀式が再開されることになりました。会議室には、私と中島さん、そして前回と同じような関係者が集まっています。ただ、なぜか前回よりも空気が重くなっているように感じました。

――黒田さん

打ち合わせの話もうわの空の中、私は志願者の席に静かに座る黒田さんのことが気になって仕方ありませんでした。

その黒田さんは、スーツ姿で微動だにしていません。決まりで志願者に声をかけることはできませんし、そもそも志願者はアイマスクにイヤーパッドをつけてます。私がどんなに眼差しを向けたとしても、黒田さんが気づくことはないようでした。

そのもどかしさに気持ちが落ちつかないまま、カイヌキの準備に入ります。手順は前回と変わりませんから、淡々とした流れの中、中島さんとは一言も会話することなく終わらせました。

その間、私は黒田さんが志願者になると決めた気持ちをひたすら考えていました。

黒田さんは、なぜ志願者になったのでしょうか。志願者になれば、そこで人生が終わるのはわかっているはずです。

にもかかわらず、奥さんに化けた悪霊と同化することを選択した裏に、どんな理由があったのでしょうか。

もちろん、私にはその理由を知ることはできません。私にできることは、たとえ納得できなかったとしても、黒田さんの最後を見守ることぐらいしかないのでしょう。

館内の照明が消え、うっすらと非常口を示す看板の明かりだけが仄かに滲んでいきます。法螺貝の音が静寂を切り裂き、御札を掲げたところで二回目となるカイヌキの儀式が始まりました。

――黒田さん、本当によかったんですか?

特段の変化もなく順調に儀式が進む中、背後に感じる黒田さんの気配に問いかけます。アイマスクとイヤーパッドを取った黒田さんの表情は、いつもの険しいままでした。その眼差しからも、黒田さんがなにを想っているのかはわかりませんでした。

ゆっくりと、でも確実に店内を一周した後、いよいよ目的地となるエレベーター前の広場にたどり着きました。

「絶対に余計な真似はするなよ。黒田は、自分の意志であそこにいるんだからな」

段々とお経のような声が加速していく中、ステージの中央に立つように前に出た志願者たちを横目に、中島さんが耳もとでささやいてきました。

「本当にいいんですか? 黒田さんは奥さんに会うわけではないんですよ」

「そうだとしても、全ては黒田が決めたことだ。俺達がなにかを言う必要はない」

揺れ動く私の気持ちを一刀両断するように、中島さんが強い口調で釘を刺してきました。

「しかし――」

なおも反論したい気持ちがたかぶる中、太鼓と鈴の音が最高潮に達していきました。この状況が前回と同じようだとすれば、いよいよあの悪霊が登場してくることになります。

――黒田さん!

中島さんに引きずられるようにその場から連れ出された私は、ただ黒田さんを見守ることしかできませんでした。既に黒田さんは他の志願者と同じように御札を自ら破り、なにもない闇を黙って睨みつけていました。

その姿に、もうどうすることもできないとわかった私は、御札を持つ手を片手だけ外しました。黒田さんの奥さんに会いたいという気持ちは、私も痛いほどわかります。同じような過去を持つ者同士、私に気をつかってくれていた黒田さんだからこそ、その最後はきちんと見届けることにしました。

そんな私の気持ちに気づいたのかはわかりません。闇を飲み込むどす黒い霧をまとったなにかが近づいてくる中、ほんの一瞬だけ黒田さんが私に眼差しを向けてきました。

『人生はな、どれだけ長く生きるかということよりも、良くも悪くも自分が下した決断に納得できるかが重要だ』

その向けられた眼差しに、かつて黒田さんからかけられた言葉が脳裏に蘇りました。その真意はわかりませんでしたが、今この瞬間の黒田さんを見てわかったような気がしました。

黒田さんは、自分のせいで奥さんを亡くしたと思いながら生きてきたと思います。その後悔と懺悔を抱えながら、残された子供二人を育てあげてきました。

そして、親としての役目を果たした後、残りの人生とカイヌキの儀式で志願者になることを天秤にかけ、自分なりに納得いく決断を下したのだと思います。

その黒田さんの悲痛な想いに触れた瞬間、志願者として選ばれることを必死に願う黒田さんの姿に、胸の奥が苦しくなっていました。黒田さんは、たとえ悪霊によるまやかしだったとしても、自分の残りの人生を捨てて奥さんと再会する道を選んだわけですから、その眼差しには鬼気迫るものがありました。

やがて、どす黒い霧をまとった悪霊が、ゆっくりと黒田さんに近づいていきました。と同時に、お経のような声はクライマックスを迎え、黒田さん以外の志願者たちは恐怖に顔を歪めながら錯乱し始めました。

――黒田さん……

どす黒い霧をまとった悪霊が黒田さんの前に立った時でした。

それまで険しい表情を崩さなかった黒田さんの顔に、まるで力が抜けるかのような笑みが広がっていきました。

その光景は、かつて中島さんが言っていた通り、まさに虎が猫になった瞬間でもありました。

そして、猫になった顔に一筋の光が流れ落ちていくと、両腕を震わせながら悪霊を受け入れるように抱きしめました。

――黒田さん、本当に奥さんに会いたかったんですね

猫になった顔に満面の笑みを浮かべた黒田さんを見て、私の中でようやく答えが見えた気がしました。

黒田さんにとって、カイヌキの儀式はきっかけでしかなかったと思います。儀式の中身が、悪霊と同化するということも関係なかったことでしょう。

黒田さんは、ただ会いたかっただけだと思います。

残された人生を終わらせることになるとしても、黒田さんは奥さんにもう一度会うことができるのなら、たとえどんな方法だったとしてもかまわなかったんだと思います。

それが、黒田さんが志願者になった理由なのでしょう。うまくは言えませんが、それが黒田さんの下した決断だということだと思います。

やがて、どす黒い霧が黒田さんを包みこむと、黒田さんは糸が切れたように崩れ落ちました。と同時に、黒田さんの顔に御札が貼られたところで、カイヌキの儀式は終わりを迎えました。

安全が確認された後、そっと黒田さんに近寄ると、黒田さんは本当に幸せそうな笑みを浮かべたまま目を閉じていました。

そして、私が知る限り、黒田さんはその後二度と目を覚ますことはありませんでした。