二〇〇〇年代後半、春。
 ゴールデンウィークが始まる直前、誠くんのクラスに転校生がやって来るという噂が流れた。同じクラスの男の子の家に、東京から引っ越してきたという夫婦があいさつに来たらしいのだ。夫婦は彼と同い年の子供を連れていた。
 この話にクラスメートたちは色めき立った。
 東京からやって来る時季外れの転校生、というのももちろんあった。けれど一番の理由は、転校生が引っ越してきた家というのが、近所で“蛾ハウス”と呼ばれている家だったからだ。
 その家の外壁にはいつも夥しい数の蛾が張りついている。指先に乗るくらいの小さなものから、誠くんの掌ぐらいの大きなものまで。だから蛾ハウス。安直なネーミングだ。
 誠くんの住んでいる地域は、いわゆる下町と呼ばれるような場所で、近くに山や川などの自然はない。それなのに山でしか見かけないような巨大な蛾が、蛾ハウスには何匹もいる。その理由は誰も知らない。
 長らく空き家だったその家に引っ越してきた男の子がどんな顔をしているのか、クラスメートたちは噂し合った。
 ゴールデンウィーク明け。はたして転校生は誠くんのクラスにやって来た。
 竜一という名前の色の白い男の子だった。彼はアナウンサーのような訛りのない標準語でぼそぼそと自己紹介をした。
 クラスメートたちはさっそく竜一くんを取り囲んだ。
 「どこから来たのか」「本当にあの家に住んでいるのか」「家の中はどうなっているのか」だとかいったことを興奮気味に質問する。
 竜一くんの方は人と話すことにあまり慣れていないのか、ぽつりぽつりとしか答えない。誠くんはその輪に入っていなかったので、竜一くんが具体的にどんな答えを返していたのかはわからない。けれどいまひとつ盛り上がっていないことはたしかだった。
 竜一くんはありふれた顔立ちで内向的。勉強やスポーツが得意なわけでもない。そのため一週間が経った頃には、彼に話しかける子はいなくなった。彼は教室の隅でぽつんと本を読んでいた。
 誠くんは竜一くんに話しかけてみた。誠くん自身も内向的な性格で、友達が少なかったのでシンパシーを感じたのだという。
 話してみると二人は意外と馬が合った。おとなしいもの同士、何か惹かれ合うものがあったのかもしれない。友達になるのに、そう時間はかからなかった。
 二人は放課後、校庭で遊んだ。休日には誠くんの家に竜一くんを招くこともあった。けれど竜一くんの家にはなかなか呼んでもらえなかった。友達を家にあげてはいけない、と両親からきつく言われているのだと竜一くんは言った。
 正直言うと誠くんは、蛾ハウスに入ってみたいと思っていたので、すこし残念な気持ちだった。
 しかしある日、思いがけず竜一くんの家にあがる機会がおとずれる。
 誠くんが家の鍵を忘れてしまったのだ。気がついたのは放課後だった。いつもなら母親が仕事から帰ってくるまで、校庭で竜一くんと遊ぶのだが、あいにくその日は光化学スモッグ注意報が発令されていた。
 注意報が出ているときは外で遊んではいけない、と先生から言われている。どうしようかと途方に暮れていると、竜一くんが言った。
 「うちで遊ぶ?」
 「いいの?」
 「親が帰ってくるまでならいいよ」
 そういうわけで誠くんは彼の家にお邪魔することになった。

 竜一くんの家は小さな二階建ての一軒家だった。
 門扉があり、短い石畳のアプローチの先に木製の玄関扉がある。扉のわきには竜一くんの自転車が置いてあった。
 外壁にはあいかわらず何匹もの蛾が張りついている。黒くて細長い翅をもつ蛾や、茶色い縞模様の翅をもつ蛾、毛がびっしり生えた肉厚な胴体を小刻みに震わせているものもいる。目玉模様の翅をもつ蛾のせいで、人間の目に見つめられているような居心地の悪さを覚える。
 頭上を飛び回る蛾に首をすくめながら、誠くんは玄関扉をくぐった。
 靴箱の上に殺虫剤が何本も置いてあり、廊下の脇には段ボールや不用品が転がっている。やや散らかっていることを除けば、自分の家とたいして変わらないんだな、と思ったのを誠くんは憶えている。
 居間は、誠くんの家の居間よりもやや小さかった。
 部屋の真ん中にテーブルがあり、その周りには三人分の座布団。小さな居間には不釣り合いな大きなテレビが載ったテレビ台には、竜一くんと両親が三人で写っている家族写真が飾られている。
 部屋の隅の本棚の上には固定電話が置いてあった。固定電話のうしろの壁は黒く汚れている。
 近づいてよく見てみるとそれは汚れではなく文字だった。壁に黒いマジックで文字が書いてあるのだ。
 『×月×日××時。飛びこむような音(ドボン)』
 『〇月〇日〇〇時。暴れるような音(バチャバチャ)』
 『△月△日△△時。飛びこむような音(ドボン)』
 『□月□日□□時。跳ねるような音(ピチャッ)』
 詳しくは憶えていないが、そのような文言が小さな文字でびっしりと壁に書かれていた。
 「竜一くん、これなに」
 「ああ」と竜一くんが顔を歪める。
 「留守電のメモ……」
 「留守電?」
 「留守電が入るんだ。ぼくにはよくわからない。お母さんが書いてるから」
 「壁に……?」
 いまならおかしいとわかるのだが、当時の誠くんはとくに違和感を覚えなかった。本人曰く、子供の頃の誠くんはあまり賢くなかったらしい。
 だから、消せるタイプのマジックで書いてあるのかな、くらいのことしか考えなかった。
 二人はさっそくテレビゲームに興じた。一人っ子である竜一くんは、兄弟のいる誠くんとは違ってゲームソフトをたくさん持っていた。父親の会社が倒産する前までは、よく買ってもらっていたらしい。
 しばらく経った頃だった。誠くんは尿意を覚えた。
 「トイレどこ?」
 「扉開けたとこ」と言って竜一くんが指をさす。
 指の先には格子の入ったガラス戸があった。横にスライドして開けるタイプのものだが、なぜかガラス戸の前にはカーテンが張られていた。カーテンといってもカーテンレールがあるわけでもなく、画鋲で雑に留めてあるだけだ。
 ガラス戸を開けた先の部屋にトイレがあった。ランドリールームと脱衣所も兼ねているらしく、部屋には洗濯機と風呂場がある。
 用を足して手を洗っていると風呂場から、ずっ、という音が聞こえた。
 誠くんはタオルで手を拭きつつ風呂場を見る。風呂場の扉は閉まっているので中の様子は確認できない。すりガラスの向こうで白い服を着た影がゆらりと動くのが見えた。
 電気は点いていないが誰かがいるようだ。
 誠くんは居間のガラス戸を開けながら竜一くんに訊いた。
 「風呂場に誰かいるの? いま──」
 「何か聞こえた?」
 誠くんの言葉を先回りするように、竜一くんが訊いてくる。
 「うん、誰かいるっぽい」
 そう答えた途端、竜一くんに腕を引っ張られた。
 誠くんはつんのめる。背後で勢いよくガラス戸が閉められた。
 わけがわからないまま竜一くんに手を引かれてガラス戸の前から引きはがされる。
 「どうしたの、急に」
 「もうゲームは飽きたし二階で遊ぼ」
 竜一くんが言う。あきらかに何かをごまかしているような様子だった。
 ──ずっ。
 また脱衣所の方から音がした。今度はさっきよりもはっきりと。
 何かを引きずるような音と、それに混じって爪で固いものを引っ掻くような、ぎぎっ、という音が聞こえた。
 竜一くんが誠くんの手を強く握る。竜一くんの手は汗ばんでいた。
 点けっぱなしのテレビからはゲームの軽快なBGMが流れている。
 「行こ、早く」
 「でもゲーム途中だよ。セーブしないと」
 「いいから」
 竜一くんが鋭い声で言う。いつになく真剣な表情だ。
 「親いるの? 怒られそうなら僕、帰るけど」
 「親じゃない」
 二人が話している間も、脱衣所からは引きずるような音がしている。向こうにいる誰かにも二人の声は聞こえているはずなのに、声をかけることもなく、同じような動きを繰り返している。
 さすがの誠くんも、何かがおかしいことに気がついた。
 「じゃあ誰なの……?」
 「わからない。でもときどき出るんだ」
 「なにそれ。幽霊ってこと?」
 「……たぶん」
 「たぶんって、見たことないの?」
 竜一くんがうなずく。
 「戸を閉めてればこっちには入ってこないから」
 誠くんは脱衣所に目を向けた。カーテンが暗幕のように張ってあるため、中の様子はうかがえない。
 「開けてみようよ」
 「ダメだよ、ぜったいダメ。お母さんにも見ちゃいけないって言われてるし」
 竜一くんが青ざめた顔で首を振る。
 「でも気にならない? もしもお化けがいたら捕まえてやろうよ」
 誠くんは興奮気味に言った。
 その当時、彼の通っていた小学校では『怪談レストラン』というホラーアニメが大流行していた。もちろん誠くんもこのアニメが大好きで、自分も一度でいいからお化けを見てみたいと思っていたのだ。それに蛾ハウスでお化けを見たという話をすれば、クラスのヒーローになれるかもしれない、という打算もあった。
 「お願い、一緒に開けようよ」
 渋る竜一くんに向かって、誠くんは拝むように両掌をすり合わせる。しばらくの説得ののちに、とうとう竜一くんが折れた。
 「わかったよ。でもちょっとだけだからね……」
 及び腰の竜一くんを従えて、誠くんは静かにガラス戸に近寄る。
 ──ずっ、ずずっ、がりっ。
 二人は顔を見合わせた。
 竜一くんは青ざめた顔をしている。誠くんも内心は恐ろしかったが、気取られないように唇を引き結んだ。
 緊張した手でカーテンをめくる。
 すりガラスのせいでよく見えないが、白い影が動いている。
 影はずいぶん小柄なように見えた。身長は誠くんよりもすこし高いくらいだろうか。
 脱衣所の中を行ったり来たりしている。
 誠くんはガラス戸に手をかけて、そっと開いた。
 水が腐ったような臭いが鼻をついた。

 誠くんは女の悲鳴で覚醒した。
 目を開けると、視界の中に見知らぬ女の顔があった。女の背後には見覚えのない景色が広がっている。
 誠くんは上体を起こした。体のふしぶしが固まって、動かすと痛みが走った。
 「竜一っ」
 女が甲高い声で叫ぶ。
 そのときになってようやく誠くんは自分が風呂場の浴槽の中にいたことに気がついた。彼の体の下には竜一くんがいて、とろんとした目で女を見ている。どうやら二人は折り重なるようにして浴槽の中に倒れていたらしい。
 「お母さん……?」
 女は竜一くんを浴槽から助け出すと、誠くんの方を見て、ため息をついた。
 「今日はもう帰りなさい」
 それ以外の言葉はなかった。
 誠くんは逃げるように家を出た。外はすっかり暗くなっていた。自宅に帰ると、門限はとっくに過ぎている、と母からひどく怒られた。

 それからも誠くんと竜一くんは二人でよく遊んだ。けれど竜一くんの家で遊ぶことはそれ以降、一度もなかった。あの日のことが話題に上ることもなかった。なんとなく触れてはいけないような雰囲気だったからだ。
 竜一くんの母親がスナックのママを包丁で刺して逮捕されたのは、それから一年後のことだった。
 竜一くんの父親は会社が倒産したあと、知り合いの伝手をたどってT町に来たのだが、なかなか再就職先が決まらなかった。母親は家族を食べさせるために慣れない土地で懸命に働いた。また三人で再出発できると信じて。
 けれど父親は酒におぼれ、スナックRのママと不倫していた。
 それでカッとなって刺したらしい。
 竜一くんはT町から出ていった。最初の何か月かは文通をしていたが次第に面倒になって、どちらからともなくやめてしまった。
 空き家になったN家は誠くんが高校一年生のときに火事で燃えた。その後、家は取り壊され更地になった。新たに家が建つ気配はいまのところない。