わたしは田代さんにこの話を聞かせてもらったあと、過去に別の人から聞かせてもらった、とある二つの話を思い出した。
 これらは不気味な話ではあるが、怪現象が起こるわけでも幽霊が出てくるわけでもないので、サイトに掲載することを控えていた。しかし田代さんの話を聞いたあとに読み返してみると、何かしらの関連がありそうな気がしたので、こちらに掲載することにした。


 この体験談を聞かせてくれたのは、直美さんという当時四十代の女性だ。彼女が大学一年生の頃だから、一九七〇年代後半の話だ。
 彼女は「怖いって言うか、変な男の人の話ならあるけど……」と前置きをしてから話をはじめた。

 「大学ではテニスサークルに所属していたわ」
 テニスなんてすこしも興味がなかった直美さんが、そのサークルに入ったのにはわけがある。
 「ひとつ上の学年の、向井先輩に一目惚れをしたの」
 彫りの深い端正な顔立ちに、誰とでも分け隔てなく接する明るい性格。そのうえ頭も運動神経も良いので、男女ともに人気がある。向井先輩はまさに大学のスターだった。
 「すこしでも向井先輩に気に入られたくて、とにかく必死にアピールしたわ」
 その甲斐あってか、サークルの飲み会の帰り道、向井先輩は「俺の部屋に来ないか」と直美さんを誘ってくれた。
 「いまになって思うと、何人もいる女の子たちの一人としてしか見られていなかったんだと思う。でもそのときは飛び上がるほど嬉しかった」
 向井先輩が住んでいたのは駅から十五分ほど歩いた場所にあるYアパートだった。古い木造二階建てのアパートに、直美さんはすこし面食らった。てっきりもっといいところに住んでいると思っていたのだ。
 「本当に陰気だったの。空気が澱んでるっていうか、湿気てるって言うか」
 玄関を入ってすぐに居間がある狭いワンルームの部屋だった。綺麗に整頓されてはいたが、うっすらと下水の臭いが漂っていた。それに家鳴りもひどい。太い木の枝をへし折るような音が頻繁に鳴る。部屋の隅は雨漏りがしているのか、青いバケツが置いてあった。
 憧れの向井先輩の部屋だというのに居心地が悪い。直美さんは夢から覚めたような気分だった。
 浮かない表情を浮かべる直美さんの顔を向井先輩がのぞきこむ。
 「何か飲む?」
 「いただきます」
 向井先輩は台所に行って飲み物を入れてきてくれた。
 直美さんは差し出されたマグカップを受け取る。
 一口飲むと、とろりとした生臭い味が口の中に広がった。
 直美さんは思わず咳き込んだ。
 「何ですかこれ」
 「何って、あれだけど」
 先輩は部屋の隅に顔を向ける。
 彼の視線の先には青いバケツがあった。バケツには、天井から滴り落ちた茶色い水が溜まっていた。
 直美さんは手に持った黒いマグカップに視線を落とした。液体の表面には直美さんの顔が映りこんでいる。
 「悪い冗談はやめてください」
 「冗談なんかじゃないよ。調子が良くなるからきみにも飲んでほしくてさ」
 その言葉に直美さんは心底腹が立った。
 向井先輩に悪質なドッキリを仕掛けられたと思ったのだ。あとでこの件を、サークルの仲間たちに笑い話として披露されるのだと。
 そして何よりも恋心をもてあそばれたことが悔しかった。
 「わたし帰ります」
 マグカップを向井先輩に投げつける。直美さんは鞄を持って立ちあがった。
 「ちょっと待って、飲めばわかるから。飲めばわかるから」と言って引き止めてくる向井先輩を振り払い、直美さんはYアパートをあとにした。
 「誰にも言えなかったわ。自分の恥をさらすみたいで。サークルに行くのも嫌になって、やめちゃった」
 それからしばらくして、向井先輩は大学に来なくなった。同時期に、何人かの女子生徒も大学をやめたらしい。彼女たちは向井先輩の部屋に頻繁に出入りしていたという噂があった。
 彼らの間に何があったのか、彼らがその後どうなったのか、直美さんは知らない。

 「バケツに入っていた液体を飲んで、お腹を壊さなかったのですか」というわたしの問いに、直美さんは首を振った。
 「お腹は壊さなかった。だけど次の日にひどい倦怠感と体の痺れに襲われたわ」
 症状は重く、布団から起き上がることすらできなかった。一日中、耳鳴りがするうえに、電気を流されたような痺れが絶えず体を走る。気が狂いそうなほどつらかったと彼女は言う。
 「わたし、三十代の頃にうつ病を患って抗うつ薬を飲んでいたの。でも自己判断で服薬を中止しちゃって。そしたら離脱症状が出た」
 離脱症状とは、薬物やアルコールなどの依存性のあるものを急に止めたり減らしたりすることによって起こる体の不調のことである。
 そのときの離脱症状は、液体を飲んだあとに出た症状によく似ていた。