「怖い話なら一つだけあるよ」
そう言ってわたしに話を聞かせてくれたのは、不動産会社で働く田代さんという男性だ。
彼とは関西地方にあるバーで知り合った。いつものようにわたしが「怖い話はないですか」と尋ねると、彼はしばらく視線を漂わせたあと、思い出したように言った。
「T町にSっていう宗教団体の施設があるのを知ってるか」
田代さんが名前を挙げたSという宗教団体には聞き覚えがあった。
一九四〇年代頃に成立し、現在も関西地方を中心に活動している仏教系の新興宗教だ。S施設ができたのは一九八〇年代の半ば頃。地元住民の反対を押し切って建てられたらしい。
「その宗教施設でアルバイトしたことがあるんだ」
この話は彼が一九九〇年代に体験した出来事だという。
田代さんは高校を卒業したあと、大学には行かず、かといって就職するわけでもなく、ただ自堕落な生活を送っていた。アルバイトを始めてみても、元来のサボり癖のせいで一か月も続かない。親の財布から金を盗んだり、友人から借金をしたりしながらダラダラと過ごす日々。
「このままだとダメ人間になるな、って危機感は常に頭の片隅にあったよ」
しかし一念発起して何かをする気にはなれなかった。
高校時代の先輩からアルバイトの話を持ちかけられたのは、そんなときだった。
「割のいいアルバイトがあるんだけど、やってみないか」
「犯罪系は無理っすよ」
田代さんがそう言うと先輩は首を振った。
「国道沿いにS教の施設があるだろ。あそこの警備だよ」
先輩の話によると、S施設に一週間泊まり込み、夜中の十二時と三時に施設内の見回りをするだけで十万円がもらえるらしい。
「正直ちょっと怪しいなとは思ったよ。でも金がなかったから結局、引き受けることにしたんだ」
数日後、田代さんがS施設に行くと、小山さんという中年の男がS施設の敷地の前で出迎えてくれた。紺色の作務衣を着た、やたらにニコニコした男だった。
「来てくれてありがとね。ついこの間、アルバイトの子が飛んじゃって困ってたんだ。案内するからついて来て」
大きな楼門をくぐると、青い葉を茂らせた木々が立ち並ぶ石畳の道が伸びており、その先には大きな広場があった。広場には参拝客だけでなく、清掃を行う作務衣姿の信者もいる。
広場の奥の石段の上には巨大な拝殿がそびえ立っていた。日光を反射して輝く立派な瓦屋根や、きらびやかな装飾が施された柱。その豪勢な佇まいに田代さんは圧倒された。
「寺って言うより、もはや城だった。めちゃくちゃ儲かってるんだなって思ったのを覚えてるよ」
小山さんは「こっちこっち」と言って本堂とは別の方向へ歩いてゆく。
色鮮やかな鯉が泳ぐ池のそばを通り過ぎ、S施設の敷地をぐるりと囲う塀に沿ってしばらく歩く。敷地の端に粗末なプレハブ小屋があった。
扉を開けた先には、洗面台とトイレがついているだけの六畳ほどの畳敷きの部屋が広がっている。
「ここっすか」
田代さんは思わず訊いた。さっき見た拝殿にくらべると笑ってしまうほど貧相だ。
「テレビも冷蔵庫もあるし、不便はないよ」
小山さんが部屋の隅にある冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には水の入ったペットボトルがぎっしり詰まっていた。
「水は自由に飲んでいいから」
小山さんは微笑みながら田代さんにペットボトルを差し出した。ペットボトルにはラベルがついていなかった。
田代さんはペットボトルに口をつける。が、すぐに口を離した。
ひどく生臭いにおいがした。
「日中は施設の外に出てもいいけど、夜中の十二時から翌朝の七時までの間は小屋の中にいてね。見回りは夜中の十二時と三時の二回。塀に沿って敷地内を一周ぐるっと見回る」
「それだけっすか」
「それだけ。僕は施設の中にいるから、何かあったら無線機で連絡して」
小山さんはにっこりと笑う。
なんておいしい仕事なんだろう、と田代さんは思った。
その日の深夜零時。田代さんはさっそく見回りに出た。
外は真っ黒な闇に包まれていた。広場には街灯があるが、田代さんがいる場所にはその光は届かない。これだけ暗いと近くに人が立っていても気がつかないだろう。
懐中電灯の丸い灯りだけを頼りに、塀伝いに進んでゆく。
敷地内にはたくさんの桜の木が植えられていた。春には桜が満開になり美しい景色が見られるらしい。しかし残念ながらいまは夏の終わり。鬱蒼とした葉がぬるい風に吹かれて気だるげに揺られるばかりだ。
拝殿の明かりは消えている。昼間は信者たちの読経の声が聞こえていたが、いまは静まり返っている。
懐中電灯の光に寄ってくる蛾に辟易しながら、田代さんは塀に沿って敷地内を一周した。
「夜になると楼門は閉められるし、塀は俺の身長よりも高いから不審者なんて入って来ようがない」
当然、何事もなく見回りは終わる。一周するのにかかった時間は三十分弱だった。
小屋に戻った田代さんは仮眠を取ろうと、三時に目覚まし時計のアラームをセットして横になった。
小屋の外からは国道を走る車の音。それに小屋が古いのかミシミシと木が軋むような音まで聞こえてくる。うるさいなと思いながら目を瞑っているうちに、いつしか眠ってしまった。
「変な夢を見たんだ」
ふと気がつくと田代さんは闇の中で一心不乱に土を掘っていた。湿った土の匂いが鼻をつく。背中にも、シャベルを握った手にもじっとりと汗がにじんでいる。
青白い月明かりに照らされた足元には田代さんが掘った穴がある。まだ掘り始めて間もないらしく、小さくて浅い。
ここがどこなのか、なぜ掘るのか、何が埋まっているのか。何もわからない。
それでもひたすら穴を掘りつづける。穴は次第に大きくなり、腕の筋肉が引きつり始める。けれど穴を掘ることはやめられない。
目覚まし時計のアラームで目を覚ました。
飛び起きて周囲を確認する。見慣れない景色に一瞬、頭が混乱したがすぐにプレハブ小屋に泊まっていたことを思い出した。
たいして暑くもないのに全身に汗をかいていた。まだ鼻の奥に湿った土の匂いがこびりついている。眠っている間に拳を握りしめていたのか、両手の筋肉がひどく強張っていた。
まるで本当に穴を掘っていたかのようだ。
「このときはリアルな夢だなとしか思わなかった。でもさ、この夜以降、毎日同じ夢を見るようになったんだ」
小屋で寝ると必ずあの夢を見る。夢の中で田代さんは一心不乱に穴を掘る。
同じ夢を何度も見るというのは気味が悪いが怖いとは思わなかった。問題なのは、妙にリアリティのある夢であるため、まったく眠った気になれないということだった。
そこで田代さんは生活リズムを変えることにした。日中は家で眠り、夜は小屋の中でテレビを見たり漫画を読んだりして時間をつぶした。当時はスマートフォンなどなかった時代。夜はおそろしく退屈だったが仕方ない。
「六日目の夜。深夜番組を見てたときのことだった」
小屋の外で音が聞こえたような気がした。
横になっていた田代さんは、テレビ画面から目を離して上体を起こした。
──ずっ。
バラエティ番組の笑い声に混じってかすかに聞こえる。車の音でも木が軋む音でもない。
田代さんはテレビを消して耳を澄ませた。
──ずっ、ずっ。
重いものを引きずるような音。
小屋の外、それも壁一枚隔てたすぐそばから、その音は聞こえた。
音は小屋の周りをゆっくり回っているようだった。
窓の向こうで、何かが動いた。
男の横顔が見えた。デコボコしたすりガラスのせいで、その横顔は歪に潰れている。
男はうつむきながら一歩一歩、踏みしめるようにして歩いている。
──ずっ、ずずっ、ずっ。
どうやらこの男が何かを引きずりながら歩いているらしい。
田代さんは懐中電灯と無線機を手に、立ち上がった。恐怖はあったが、男に怯えて小屋から出てこないと思われるのは癪だった。
そっと小屋の扉を開ける。
音は小屋を挟んだ向こう側から聞こえてくる。
田代さんは懐中電灯の明かりは点けずに、小屋の陰に隠れて息をひそめた。
男が角を曲がったタイミングで自分も飛び出し、鉢合わせする形にしてやろうと思った。懐中電灯の明かりを相手の顔に向ければ数秒間、目を眩ませることができる。男を追いかけてうしろから声をかけるよりも、不意打ちを食らわせた方が自分が優位に立てる。
男が角を曲がる気配がした。
田代さんは物陰から飛び出した。
懐中電灯の光を向ける──が、男の姿はどこにもなかった。
さっきまで聞こえていた音もぴたりと止んだ。
懐中電灯で周囲を照らしてみるが人影はない。
小屋の周りに生えている木々の陰も確認してみたが、やはりどこにもいない。走り去る足音もなかった。それなのに男は忽然と姿を消した。
しんと静まり返った闇の中に、田代さん一人だけが呆然と立ち尽くしている。
急に怖くなった田代さんは無線機で小山さんに連絡した。
「不審者らしき奴がいたんすけど」と言って、いまさっき自分が見たことを報告する。
「捕まえようと思ったんすけど、いつの間にか消えちゃって……」
『あー』
小山さんが相槌を打つ。どことなく面倒臭そうな様子だった。
『何かを引きずってる人影でしょ? それ、気にしなくていいから』
「えっ?」
『うん、大丈夫だから』
小山さんは無線を切った。
七日目の深夜十二時。田代さんは見回りに出た。
敷地内は相変わらず真っ暗で、国道を走る車の音と木の葉が風に揺れる音しか聞こえない。一人で闇の中を歩いていると、どうしても昨日のことが頭をよぎってしまう。
さっさと終わらせよう。田代さんはそう思いながら足を速めた。
しばらく歩いたときだった。
十メートルほど先の闇の中に、白い影が見えた。
田代さんの膝くらいの高さの小さな白い影が、拝殿の壁の前で蠢いている。
田代さんはおそるおそる近寄って懐中電灯の光を向ける。
ワイシャツを着た中年の男がいた。
男は地面に這いつくばって拝殿の壁を舐めていた。光を向けられても知らん顔で、一心不乱に舌を壁に這わせている。
よく見ると、壁の亀裂から水滴がたらたらと染み出ている。どうやら男はそれをすすっているようだった。
「おい、お前、何やってんだよ」
田代さんは男の肩を揺する。
が、男は田代さんの方を見ようともしない。赤子のように唇をすぼめて、じゅるじゅると壁を吸う。その顔には恍惚とした表情が浮かんでいる。
無理やり壁から引きはがそうとしたが無駄だった。
田代さんは無線機で小山さんに連絡を取った。
小山さんはすぐに駆け付けた。彼のうしろには作務衣を着た信者らしき人も数人いた。
「この人なんすけど……」
田代さんはワイシャツの男を指さした。これだけの人数が集まっているのに、男はまだ壁を舐めている。どろりと濁った彼の目には誰の姿も映っていない。
「ああ、ここもか」と小山さんがため息まじりにつぶやいた。
「ここも?」
「今日はもう見回りはしなくていいよ。小屋に戻って」
「でも……」
「もういいから。お疲れ様」
田代さんは小屋に戻った。
「たしかに気にはなったけどさ、聞ける雰囲気じゃなかったんだ。だから小屋でおとなしく夜が明けるのを待ったよ」
七時になると小山さんがやって来た。彼は申し訳なさそうに笑いながら頭を掻いた。
「お疲れさま。昨日はごめんね」
「あの人、何だったんすか。シャブ中とかっすか」
「うん、まあ」と小山さんは適当にうなずく。その件には触れてほしくないような感じだ。彼は話題を変えるためなのか、わざとらしく咳ばらいをしてから冷蔵庫を開けた。
「田代くん、水飲んでないの?」
小山さんは田代さんの方を振り返る。冷蔵庫には一週間前に見たときと変わらず、ペットボトルがぎっしりと詰まっていた。
「自分のがあるんで」
田代さんはペットボトルのお茶を見せた。どこから汲んできたのかわからないようなものを飲む気になれなかったので、外の自販機で買ったお茶を持ち込んでいたのだ。
途端に小山さんの顔から笑顔が消えた。「ああそう」と不愛想にうなずく。彼は冷蔵庫から五、六本、水を取り出して、バイト代の入った袋とともに田代さんに渡した。
「これお土産。帰ったら飲んで」
結局、小山さんは昨夜の男については何も教えてくれなかった。
「もらった水は飲まなかったよ。飲まなくて正解だった」
話を終えた田代さんはため息をついた。
「たしかに、衛生的に怖いですよね」
わたしの言葉に、田代さんは「そうじゃなくて」と首を振った。
「あれってバイトじゃなくて、俺をS教に入信させるための罠だったと思うんだよね」
「どういうことですか」
「S施設を出たあと友人の家に寄ったんだ」
田代さんは家まで水を持ち帰るのが面倒だったため、S施設の近くに住んでいる友人の家に置いて行こうと思ったそうだ。彼はバイト代で買った申し訳程度の缶ビールとともに、水を友人に押しつけた。
友人は呆れながらも受け取ってくれた。
「そのあとすぐに、そいつはS教に入信したんだ。たぶんあの水を飲んだせいだ」
友人は田代さんのもとにたびたび現れて入信を迫った。
「あいつ、常に水を持ち歩いていたよ。喉を鳴らして美味そうに飲むんだ」
そのときの友人の目は、あの夜、壁を舐めていた男の目にそっくりだった。
「その水が原因だったとして、S教はどうして田代さんを入信させようとしたのですか?」
「俺の両親が資産家だったからだろ。代々、議員を輩出してるような、いわゆる名家ってやつ。でも宗教が大嫌いで勧誘が来ても、にべもなく断ってた。だから馬鹿息子の俺を取り込んで金を引っ張ろうと思ったんじゃないのか」
そう言ってわたしに話を聞かせてくれたのは、不動産会社で働く田代さんという男性だ。
彼とは関西地方にあるバーで知り合った。いつものようにわたしが「怖い話はないですか」と尋ねると、彼はしばらく視線を漂わせたあと、思い出したように言った。
「T町にSっていう宗教団体の施設があるのを知ってるか」
田代さんが名前を挙げたSという宗教団体には聞き覚えがあった。
一九四〇年代頃に成立し、現在も関西地方を中心に活動している仏教系の新興宗教だ。S施設ができたのは一九八〇年代の半ば頃。地元住民の反対を押し切って建てられたらしい。
「その宗教施設でアルバイトしたことがあるんだ」
この話は彼が一九九〇年代に体験した出来事だという。
田代さんは高校を卒業したあと、大学には行かず、かといって就職するわけでもなく、ただ自堕落な生活を送っていた。アルバイトを始めてみても、元来のサボり癖のせいで一か月も続かない。親の財布から金を盗んだり、友人から借金をしたりしながらダラダラと過ごす日々。
「このままだとダメ人間になるな、って危機感は常に頭の片隅にあったよ」
しかし一念発起して何かをする気にはなれなかった。
高校時代の先輩からアルバイトの話を持ちかけられたのは、そんなときだった。
「割のいいアルバイトがあるんだけど、やってみないか」
「犯罪系は無理っすよ」
田代さんがそう言うと先輩は首を振った。
「国道沿いにS教の施設があるだろ。あそこの警備だよ」
先輩の話によると、S施設に一週間泊まり込み、夜中の十二時と三時に施設内の見回りをするだけで十万円がもらえるらしい。
「正直ちょっと怪しいなとは思ったよ。でも金がなかったから結局、引き受けることにしたんだ」
数日後、田代さんがS施設に行くと、小山さんという中年の男がS施設の敷地の前で出迎えてくれた。紺色の作務衣を着た、やたらにニコニコした男だった。
「来てくれてありがとね。ついこの間、アルバイトの子が飛んじゃって困ってたんだ。案内するからついて来て」
大きな楼門をくぐると、青い葉を茂らせた木々が立ち並ぶ石畳の道が伸びており、その先には大きな広場があった。広場には参拝客だけでなく、清掃を行う作務衣姿の信者もいる。
広場の奥の石段の上には巨大な拝殿がそびえ立っていた。日光を反射して輝く立派な瓦屋根や、きらびやかな装飾が施された柱。その豪勢な佇まいに田代さんは圧倒された。
「寺って言うより、もはや城だった。めちゃくちゃ儲かってるんだなって思ったのを覚えてるよ」
小山さんは「こっちこっち」と言って本堂とは別の方向へ歩いてゆく。
色鮮やかな鯉が泳ぐ池のそばを通り過ぎ、S施設の敷地をぐるりと囲う塀に沿ってしばらく歩く。敷地の端に粗末なプレハブ小屋があった。
扉を開けた先には、洗面台とトイレがついているだけの六畳ほどの畳敷きの部屋が広がっている。
「ここっすか」
田代さんは思わず訊いた。さっき見た拝殿にくらべると笑ってしまうほど貧相だ。
「テレビも冷蔵庫もあるし、不便はないよ」
小山さんが部屋の隅にある冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には水の入ったペットボトルがぎっしり詰まっていた。
「水は自由に飲んでいいから」
小山さんは微笑みながら田代さんにペットボトルを差し出した。ペットボトルにはラベルがついていなかった。
田代さんはペットボトルに口をつける。が、すぐに口を離した。
ひどく生臭いにおいがした。
「日中は施設の外に出てもいいけど、夜中の十二時から翌朝の七時までの間は小屋の中にいてね。見回りは夜中の十二時と三時の二回。塀に沿って敷地内を一周ぐるっと見回る」
「それだけっすか」
「それだけ。僕は施設の中にいるから、何かあったら無線機で連絡して」
小山さんはにっこりと笑う。
なんておいしい仕事なんだろう、と田代さんは思った。
その日の深夜零時。田代さんはさっそく見回りに出た。
外は真っ黒な闇に包まれていた。広場には街灯があるが、田代さんがいる場所にはその光は届かない。これだけ暗いと近くに人が立っていても気がつかないだろう。
懐中電灯の丸い灯りだけを頼りに、塀伝いに進んでゆく。
敷地内にはたくさんの桜の木が植えられていた。春には桜が満開になり美しい景色が見られるらしい。しかし残念ながらいまは夏の終わり。鬱蒼とした葉がぬるい風に吹かれて気だるげに揺られるばかりだ。
拝殿の明かりは消えている。昼間は信者たちの読経の声が聞こえていたが、いまは静まり返っている。
懐中電灯の光に寄ってくる蛾に辟易しながら、田代さんは塀に沿って敷地内を一周した。
「夜になると楼門は閉められるし、塀は俺の身長よりも高いから不審者なんて入って来ようがない」
当然、何事もなく見回りは終わる。一周するのにかかった時間は三十分弱だった。
小屋に戻った田代さんは仮眠を取ろうと、三時に目覚まし時計のアラームをセットして横になった。
小屋の外からは国道を走る車の音。それに小屋が古いのかミシミシと木が軋むような音まで聞こえてくる。うるさいなと思いながら目を瞑っているうちに、いつしか眠ってしまった。
「変な夢を見たんだ」
ふと気がつくと田代さんは闇の中で一心不乱に土を掘っていた。湿った土の匂いが鼻をつく。背中にも、シャベルを握った手にもじっとりと汗がにじんでいる。
青白い月明かりに照らされた足元には田代さんが掘った穴がある。まだ掘り始めて間もないらしく、小さくて浅い。
ここがどこなのか、なぜ掘るのか、何が埋まっているのか。何もわからない。
それでもひたすら穴を掘りつづける。穴は次第に大きくなり、腕の筋肉が引きつり始める。けれど穴を掘ることはやめられない。
目覚まし時計のアラームで目を覚ました。
飛び起きて周囲を確認する。見慣れない景色に一瞬、頭が混乱したがすぐにプレハブ小屋に泊まっていたことを思い出した。
たいして暑くもないのに全身に汗をかいていた。まだ鼻の奥に湿った土の匂いがこびりついている。眠っている間に拳を握りしめていたのか、両手の筋肉がひどく強張っていた。
まるで本当に穴を掘っていたかのようだ。
「このときはリアルな夢だなとしか思わなかった。でもさ、この夜以降、毎日同じ夢を見るようになったんだ」
小屋で寝ると必ずあの夢を見る。夢の中で田代さんは一心不乱に穴を掘る。
同じ夢を何度も見るというのは気味が悪いが怖いとは思わなかった。問題なのは、妙にリアリティのある夢であるため、まったく眠った気になれないということだった。
そこで田代さんは生活リズムを変えることにした。日中は家で眠り、夜は小屋の中でテレビを見たり漫画を読んだりして時間をつぶした。当時はスマートフォンなどなかった時代。夜はおそろしく退屈だったが仕方ない。
「六日目の夜。深夜番組を見てたときのことだった」
小屋の外で音が聞こえたような気がした。
横になっていた田代さんは、テレビ画面から目を離して上体を起こした。
──ずっ。
バラエティ番組の笑い声に混じってかすかに聞こえる。車の音でも木が軋む音でもない。
田代さんはテレビを消して耳を澄ませた。
──ずっ、ずっ。
重いものを引きずるような音。
小屋の外、それも壁一枚隔てたすぐそばから、その音は聞こえた。
音は小屋の周りをゆっくり回っているようだった。
窓の向こうで、何かが動いた。
男の横顔が見えた。デコボコしたすりガラスのせいで、その横顔は歪に潰れている。
男はうつむきながら一歩一歩、踏みしめるようにして歩いている。
──ずっ、ずずっ、ずっ。
どうやらこの男が何かを引きずりながら歩いているらしい。
田代さんは懐中電灯と無線機を手に、立ち上がった。恐怖はあったが、男に怯えて小屋から出てこないと思われるのは癪だった。
そっと小屋の扉を開ける。
音は小屋を挟んだ向こう側から聞こえてくる。
田代さんは懐中電灯の明かりは点けずに、小屋の陰に隠れて息をひそめた。
男が角を曲がったタイミングで自分も飛び出し、鉢合わせする形にしてやろうと思った。懐中電灯の明かりを相手の顔に向ければ数秒間、目を眩ませることができる。男を追いかけてうしろから声をかけるよりも、不意打ちを食らわせた方が自分が優位に立てる。
男が角を曲がる気配がした。
田代さんは物陰から飛び出した。
懐中電灯の光を向ける──が、男の姿はどこにもなかった。
さっきまで聞こえていた音もぴたりと止んだ。
懐中電灯で周囲を照らしてみるが人影はない。
小屋の周りに生えている木々の陰も確認してみたが、やはりどこにもいない。走り去る足音もなかった。それなのに男は忽然と姿を消した。
しんと静まり返った闇の中に、田代さん一人だけが呆然と立ち尽くしている。
急に怖くなった田代さんは無線機で小山さんに連絡した。
「不審者らしき奴がいたんすけど」と言って、いまさっき自分が見たことを報告する。
「捕まえようと思ったんすけど、いつの間にか消えちゃって……」
『あー』
小山さんが相槌を打つ。どことなく面倒臭そうな様子だった。
『何かを引きずってる人影でしょ? それ、気にしなくていいから』
「えっ?」
『うん、大丈夫だから』
小山さんは無線を切った。
七日目の深夜十二時。田代さんは見回りに出た。
敷地内は相変わらず真っ暗で、国道を走る車の音と木の葉が風に揺れる音しか聞こえない。一人で闇の中を歩いていると、どうしても昨日のことが頭をよぎってしまう。
さっさと終わらせよう。田代さんはそう思いながら足を速めた。
しばらく歩いたときだった。
十メートルほど先の闇の中に、白い影が見えた。
田代さんの膝くらいの高さの小さな白い影が、拝殿の壁の前で蠢いている。
田代さんはおそるおそる近寄って懐中電灯の光を向ける。
ワイシャツを着た中年の男がいた。
男は地面に這いつくばって拝殿の壁を舐めていた。光を向けられても知らん顔で、一心不乱に舌を壁に這わせている。
よく見ると、壁の亀裂から水滴がたらたらと染み出ている。どうやら男はそれをすすっているようだった。
「おい、お前、何やってんだよ」
田代さんは男の肩を揺する。
が、男は田代さんの方を見ようともしない。赤子のように唇をすぼめて、じゅるじゅると壁を吸う。その顔には恍惚とした表情が浮かんでいる。
無理やり壁から引きはがそうとしたが無駄だった。
田代さんは無線機で小山さんに連絡を取った。
小山さんはすぐに駆け付けた。彼のうしろには作務衣を着た信者らしき人も数人いた。
「この人なんすけど……」
田代さんはワイシャツの男を指さした。これだけの人数が集まっているのに、男はまだ壁を舐めている。どろりと濁った彼の目には誰の姿も映っていない。
「ああ、ここもか」と小山さんがため息まじりにつぶやいた。
「ここも?」
「今日はもう見回りはしなくていいよ。小屋に戻って」
「でも……」
「もういいから。お疲れ様」
田代さんは小屋に戻った。
「たしかに気にはなったけどさ、聞ける雰囲気じゃなかったんだ。だから小屋でおとなしく夜が明けるのを待ったよ」
七時になると小山さんがやって来た。彼は申し訳なさそうに笑いながら頭を掻いた。
「お疲れさま。昨日はごめんね」
「あの人、何だったんすか。シャブ中とかっすか」
「うん、まあ」と小山さんは適当にうなずく。その件には触れてほしくないような感じだ。彼は話題を変えるためなのか、わざとらしく咳ばらいをしてから冷蔵庫を開けた。
「田代くん、水飲んでないの?」
小山さんは田代さんの方を振り返る。冷蔵庫には一週間前に見たときと変わらず、ペットボトルがぎっしりと詰まっていた。
「自分のがあるんで」
田代さんはペットボトルのお茶を見せた。どこから汲んできたのかわからないようなものを飲む気になれなかったので、外の自販機で買ったお茶を持ち込んでいたのだ。
途端に小山さんの顔から笑顔が消えた。「ああそう」と不愛想にうなずく。彼は冷蔵庫から五、六本、水を取り出して、バイト代の入った袋とともに田代さんに渡した。
「これお土産。帰ったら飲んで」
結局、小山さんは昨夜の男については何も教えてくれなかった。
「もらった水は飲まなかったよ。飲まなくて正解だった」
話を終えた田代さんはため息をついた。
「たしかに、衛生的に怖いですよね」
わたしの言葉に、田代さんは「そうじゃなくて」と首を振った。
「あれってバイトじゃなくて、俺をS教に入信させるための罠だったと思うんだよね」
「どういうことですか」
「S施設を出たあと友人の家に寄ったんだ」
田代さんは家まで水を持ち帰るのが面倒だったため、S施設の近くに住んでいる友人の家に置いて行こうと思ったそうだ。彼はバイト代で買った申し訳程度の缶ビールとともに、水を友人に押しつけた。
友人は呆れながらも受け取ってくれた。
「そのあとすぐに、そいつはS教に入信したんだ。たぶんあの水を飲んだせいだ」
友人は田代さんのもとにたびたび現れて入信を迫った。
「あいつ、常に水を持ち歩いていたよ。喉を鳴らして美味そうに飲むんだ」
そのときの友人の目は、あの夜、壁を舐めていた男の目にそっくりだった。
「その水が原因だったとして、S教はどうして田代さんを入信させようとしたのですか?」
「俺の両親が資産家だったからだろ。代々、議員を輩出してるような、いわゆる名家ってやつ。でも宗教が大嫌いで勧誘が来ても、にべもなく断ってた。だから馬鹿息子の俺を取り込んで金を引っ張ろうと思ったんじゃないのか」
