すべて嘘ですから

 洋平がまだ小学校に上がる前のことだから今から四十年くらい前でしょうか。
 旦那と離婚した私は洋平を連れて関西地方にある〇〇アパート(筆者注。Yアパートの正式名称。以下、Yアパートと呼ぶ)に引っ越しました。
 ボロボロの木造二階建て。そのあたりは市営住宅や長屋の立ち並ぶ場所でしたが、Yアパートはその中でもちょっと近寄りがたい感じの見た目です。狭いワンルームで壁が薄く、常に下水の臭いがしていました。
 正直こんな場所には住みたくないって思いましたが、旦那が養育費を一切払わないダメ男だったので泣く泣く住むことに。
 Yアパートに住んでいるのは元気な人たちばかり……、というか元気すぎるくらい?!
 当時まったくお金がなかった私は、昼はパートで、夜はクラブで働いていました。だから帰りが深夜や早朝になることがよくあったんですが、部屋の電気がずっとついているんですよね。それも一部屋だけじゃなくて何部屋も。常に生活音が聞こえていて、いつ寝てるのかなって感じ。
 それに単身世帯が多いはずなのに、やたらに人の出入りが多い。若い男女やスーツの人なんかが頻繁にYアパートを訪れていました。
 今になって思うと麻薬か何かを売りさばく犯罪者集団のアジトだったのかもと思ってみたり。……ってそんなわけないか(苦笑)
 あと住人同士の仲がやたらに良いんですよね。
 あの当時は今よりも近所付き合いが濃厚でしたが、それでも異様だったように思います。
 二階に住む若い女の子が、隣の一人暮らしのおじさんの部屋に上がり込むのを見た時は、ぞっとしました。いくら住人同士の仲が良いからって、そんなの変ですよね?!
 泥沼離婚のせいで擦れていた私は、あの人たちの輪の中に入ることができませんでした。(そもそもあまり家にいる時間がなかったので、顔を合わせることもほとんどありませんでしたが。)

 私たち親子が住んでいたのは一階の角部屋です。知り合いの不動産屋さんが紹介してくれた格安の部屋でした。何かの事件があったせいでほかの部屋よりも安くなっていました。ちなみに事件の内容は聞きませんでした。怖いから(笑)
 洋平は新しい部屋に引っ越せて嬉しいのか、いつも部屋の中でぴょんぴょんジャンプしていました。隣の人からクレームが来るんじゃないかとヒヤヒヤしていたのを覚えています。
 ただ自分の部屋がないのが嫌なのか、洋平は部屋の隅に段ボールの小屋をつくっていました。着替えの時や、ご機嫌斜めの時はよくそこに立て籠もっていました。

 部屋が狭いのは仕方がないと諦めていましたが、家鳴りがひどいのは結構つらかったですね。木が軋む音(というより、ボギッとかギギッみたいな、完全に折れたような音?)や何かを引きずっているような音が夜中になると聞こえるんです。
 怖がりの私はこの音に慣れるのにずいぶん時間がかかりましたね(汗)
 洋平はまったく怖がっている様子がありませんでした。むしろ引きずる音が聞こえるたびに、
 「うんととしょ、どっといしょ!」
 と、かけ声をあげていました。
 その当時、洋平が好きだった『おおきなかぶ』という絵本に出てくる「うんとこしょ、どっこいしょ!」というセリフを真似しているんです。
 引きずるような音を聞いて、おおきなかぶを運ぶおじいさんたちの様子を連想していたのかな?

 まあそんなこんなで半年ほど親子二人で暮らしていました。
 私は家にいる時間がほとんどなくて、洋平には寂しい思いをたくさんさせちゃったな、と書きながらしんみり。息子よ、グレずに育ってくれてありがとう(笑)

 一年も住んでいるとさすがにYアパートにも慣れてきて、家鳴りの中でも爆睡できるようになっていました。家賃も安いし駅までのアクセスも悪くないので、洋平が大きくなるまではここに住みつづけてもいいかな、なんて思っていました。
 でもある日、引っ越しを決意する事件が起こるんです。

 それは友達の香坂さんがうちに遊びに来たときのことでした。
 彼女は、洋平が保育園でいちばん仲良くしている宏くんのお母さんです。とても優しくて面白い人なので、家族ぐるみでのお付き合いをしていました。
 香坂さんと宏くんがうちに遊びに来るのは初めてのことです。そのせいか洋平は前日から落ち着かない様子。
 「このおもちゃで遊ぶんだ」とか「おかし足りるかな」なんて言いながら歓迎の準備をしていました。

 当日、ノックの音がしたので私と洋平は玄関に飛んでいきました。洋平はその当時に流行っていた特撮ヒーローのおもちゃを手に持ってワクワクした表情を浮かべていました。
 「はやくはやく」と洋平に急かされながら扉を開けると……
 浮かない顔の香坂さんが立っていました。彼女の足のうしろには泣きそうな顔の宏くんが。
 私が「どうしたの?」と聞いたら、香坂さんは「家を出るまでは元気だったんだけど」と首を傾げます。
 「ほら宏、洋平くんと遊ぶんでしょ」
 香坂さんが宏くんの手を引っ張ります。でも宏くんはお尻を突き出して、ぜったいに部屋には入らないぞって感じで踏ん張ります。
 「どうしたのよ。あんた昨日はあんなに楽しみにしてたじゃない」と香坂さん。
 「やだやだ入りたくない。怖い!」
 「何が怖いのよ」
 「だって頭がいっぱい落ちてるもん!」
 私と香坂さんは思わず固まってしまいました。もちろん部屋の中にそんなものはありません。でも宏くんが嘘をついている感じもしないんです。
 「頭がこっちを睨んでるから入れない!」
 顔を見合わせる私と香坂さんをよそに、宏くんが言います。
 すると洋平が宏くんの背中をさすりながら言いました。
 「大丈夫だよ。あいつら噛んだりしないから」
 私は自分の顔が引きつるのを感じました。だってそれって洋平にも見えてるってことでしょう?
 「ねえ洋平、あんたにも見えてるの?」とわたしが聞くと、洋平はうなずきました。
 「部屋の中にいっぱい転がってるよ」
 その言葉を聞いた途端、この部屋に引っ越してきてから始まった洋平の不思議な行動の理由がわかってしまったような気がして、ゾッとしました。
 部屋の中でぴょんぴょん跳ねていたのは嬉しいからじゃなくて、床に落ちている頭を避けるためだったのかな、とか。段ボールの中で着替えるのは、頭に見られないようにするためなのかな、とか。
 もちろんただの想像だけど……。
 あの時のいや~な感じは今でも鮮明に覚えています。

 結局、その日は公園で遊ぶことになりました。
 アパートから離れると宏くんはケロッとした顔で洋平と走り回っていました。
 帰り際、香坂さんは言いづらそうに私に打ち明けてくれました。
 「言おうか迷ったんだけど、あの部屋は引っ越した方がいいと思う」
 「どうして?」
 「何年か前に、あの部屋に寝たきりのお婆さんが放置されていた事件があったの。一命は取り留めたんだけど、そのあと病院で自殺しちゃったそうよ。それからあの部屋に引っ越してくる人が何人かいたんだけど、すぐに病気になったり亡くなったりして……」
 宏が言っていたことが関係あるかはわからないけど、と香坂さんは言いました。

 私たちはそのあとすぐに引っ越しました。
 出費はきつかったけど、引っ越してよかったと思います。今の旦那と結婚できたのは引っ越しをしたおかげですから。(今の旦那とは新しい家の近所の居酒屋で出会いました。)

 以上が私が住んでいた心霊アパートの思い出です。
 私自身が幽霊を見たわけではないけど、あの時は怖すぎて泣きそうでした(笑)
 ちなみにYアパートはすでに取り壊されて、今は大きなお寺ができているそうです。もう生首のお化けはいないのかな?