次に目を覚ましたときも、春江さんは居間にいた。
窓からは赤い夕日が差し込み、軒先に飾った風鈴が涼しい音を鳴らしている。家の中に人の気配はない。
体中が汗でびっしょりだった。いまさっき水から上がったかのように呼吸が浅くなっている。
春江さんは自分の体に目を落とした。髪の毛などどこにもない。けれど絡みついていた感触だけははっきりと残っている。
夢にしてはあまりにも生々しい。心臓がまだドキドキしている。
こんな入れ子構造の夢を見たのは初めてだった。いまのこの状況も夢ではないかと勘繰ってしまう。またあの男が来るのではないか、と。
そのとき玄関の方から足音が聞こえた。
春江さんは体をこわばらせた。
「やだあ」
祖母の声だった。驚いたような困ったような感情を含んでいる。
春江さんは立ちあがって居間から転がり出た。
「おばあちゃん!」
春江さんは裸足のまま玄関にいた祖母に飛びついた。線香とおしろいの匂い。
「あら春ちゃん、起きたのね。汗びっしょりじゃない」
祖母の柔らかい手が春江さんの頭をなでる。それだけで恐怖が溶けていく。
「おばあちゃん、どこ行ってたの?」
「ちょっとご近所さんに用があったの。一人にしてごめんね。それより春ちゃん、おかしな人が来なかった?」
「どうして?」
あの男のことを思い出して、春江さんの心臓が跳ねる。
「ほら見て、これ」と言って祖母が網戸を指さす。
網戸には黒っぽい汚れが付いている。
よく見るとそれは蛾の死骸だった。
何者かが蛾を網戸にこすりつけるようにして殺したらしい。押し出されたところてんみたいになった蛾は、黒っぽい体液を滴らせながら死んでいる。網戸についた鱗粉が夕日を浴びてきらきらと光っているせいで、よりいっそう不気味な印象を受ける。
網戸のそばの地面──夢の中で男が立っていた場所──には、黄土色やオレンジや黒色の翅が何枚も落ちていた。殺されたのは一匹や二匹ではないらしい。
「かわいそうなことするわねえ。近所の子のイタズラかしら」
祖母は困ったように眉をひそめる。
「あの男の人がやったのかも」
「男の人?」
春江さんは夢のことを祖母に話した。ただの夢であるとわかってはいたが、それでも話さずにはいられなかった。
話を聞いている祖母の顔がどんどん険しくなっていくのがわかった。
「その話は本当なの?」
祖母が訊く。いつもの優しい笑顔ではなく真剣な表情を浮かべている。春江さんの両肩をつかむ指先には強い力が込められている。
春江さんがうなずくと祖母は一瞬、泣きそうな顔になり、そのあとで春江さんの小さな体をぎゅっと抱きしめた。祖母の口から深いため息が漏れた。
そんな祖母の姿を見るのは初めてだった。
祖母はその後、何事もなかったかのように振舞った。春江さんと一緒に夕食をつくり、友人の家から帰ってきた父親と三人で夕食をとった。
その夜、春江さんは風呂には入らなかった。なんだか熱っぽいと嘘をついた。風呂に入るとまた怖い目にあいそうな気がしたからだ。
祖母も父親も無理に入れとは言わなかった。
むしろ祖母の方は過剰なまでに春江さんを心配した。大丈夫だからと言う春江さんをなかば強引に布団に横たえ、体に不調はないかとしきりに尋ねた。春江さんが寝付くまで祖母は彼女のそばにいた。祖母に対してすこしだけ申し訳ない気持ちになった。
春江さんが目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。隣に敷いてある布団に祖母の姿はない。時計を見るとまだ真夜中だった。
春江さんは障子戸を開けて祖母の寝室を出た。喉が渇いていた。階段を降りて台所に向かう。
廊下を歩いていると居間から明かりが漏れていることに気がついた。祖母と父親が話す声が漏れ聞こえてくる。
二人の声はいつもと違っていた。どこか切羽詰まっているような、感情をおさえて小声で話しているような印象を受ける。ときおり祖母が鼻をすする音も聞こえる。
春江さんは薄く開いた障子戸の隙間から中を覗いた。
祖母の丸い背中が見えた。祖母は泣いているようで背中が小刻みに揺れている。父親は机に両肘をついてうなだれていた。父親の掌の中には木彫りの仏像があった。
深夜のバラエティ番組の大げさな笑い声が、湿った居間にむなしく響いていた。
「何をやっても無駄なんだ」
父親が吐き捨てるように言った。
翌日以降、やはり祖母は何事もなかったかのように振舞った。けれどいまになって思い返してみると、様子はおかしかったのだと春江さんは語った。
祖母は春江さんがどんなわがままを言っても許してくれた。父親と三人で町に出て、普段は買ってもらえないような高いおもちゃをいくつも買ってくれた。生まれてはじめてチョコレートパフェを食べたのも、このときだった。
祖母の家を発つとき、祖母は春江さんを思いっきり抱きしめた。あまりにも力が強くて息が苦しいほどだった。
祖母はしばらくの間そうしたあと、春江さんの頭をなでながら言った。
「元気でね」
いつもは「また来年」とか「また来てね」とか言うのに、そのときだけはなぜか「元気でね」だった。色素の薄い祖母の目には涙がにじんでいた。
祖母は父親と春江さんを乗せた車が見えなくなるまで手を振り続けていた。
それからいくらも経たないうちに祖母は亡くなった。急性心不全による肺水腫が原因だった。あの広い家の中で亡くなっているのを近所の人が発見した。
家の中は整理され、相続や財産に関する書類、遺書などが綺麗にまとめられていた。まるで自分の死期を悟っていたかのようだった。
祖母の葬式には両親と参列したらしいが、覚えているのは庭の池の縁にしゃがんで水面を見つめていたことだけだ。おそらくよほどショックだったのだろう。そのときのことは記憶から消されている。
間もなくして、父親も祖母のあとを追うように亡くなった。
死因は溺死だった。父親の乗った車が川に水没しているのを近所の人が発見した。離婚を苦にしたことによる自殺だろう、と警察は結論づけた。
享年三十三歳。あまりにも早すぎる死だった。
窓からは赤い夕日が差し込み、軒先に飾った風鈴が涼しい音を鳴らしている。家の中に人の気配はない。
体中が汗でびっしょりだった。いまさっき水から上がったかのように呼吸が浅くなっている。
春江さんは自分の体に目を落とした。髪の毛などどこにもない。けれど絡みついていた感触だけははっきりと残っている。
夢にしてはあまりにも生々しい。心臓がまだドキドキしている。
こんな入れ子構造の夢を見たのは初めてだった。いまのこの状況も夢ではないかと勘繰ってしまう。またあの男が来るのではないか、と。
そのとき玄関の方から足音が聞こえた。
春江さんは体をこわばらせた。
「やだあ」
祖母の声だった。驚いたような困ったような感情を含んでいる。
春江さんは立ちあがって居間から転がり出た。
「おばあちゃん!」
春江さんは裸足のまま玄関にいた祖母に飛びついた。線香とおしろいの匂い。
「あら春ちゃん、起きたのね。汗びっしょりじゃない」
祖母の柔らかい手が春江さんの頭をなでる。それだけで恐怖が溶けていく。
「おばあちゃん、どこ行ってたの?」
「ちょっとご近所さんに用があったの。一人にしてごめんね。それより春ちゃん、おかしな人が来なかった?」
「どうして?」
あの男のことを思い出して、春江さんの心臓が跳ねる。
「ほら見て、これ」と言って祖母が網戸を指さす。
網戸には黒っぽい汚れが付いている。
よく見るとそれは蛾の死骸だった。
何者かが蛾を網戸にこすりつけるようにして殺したらしい。押し出されたところてんみたいになった蛾は、黒っぽい体液を滴らせながら死んでいる。網戸についた鱗粉が夕日を浴びてきらきらと光っているせいで、よりいっそう不気味な印象を受ける。
網戸のそばの地面──夢の中で男が立っていた場所──には、黄土色やオレンジや黒色の翅が何枚も落ちていた。殺されたのは一匹や二匹ではないらしい。
「かわいそうなことするわねえ。近所の子のイタズラかしら」
祖母は困ったように眉をひそめる。
「あの男の人がやったのかも」
「男の人?」
春江さんは夢のことを祖母に話した。ただの夢であるとわかってはいたが、それでも話さずにはいられなかった。
話を聞いている祖母の顔がどんどん険しくなっていくのがわかった。
「その話は本当なの?」
祖母が訊く。いつもの優しい笑顔ではなく真剣な表情を浮かべている。春江さんの両肩をつかむ指先には強い力が込められている。
春江さんがうなずくと祖母は一瞬、泣きそうな顔になり、そのあとで春江さんの小さな体をぎゅっと抱きしめた。祖母の口から深いため息が漏れた。
そんな祖母の姿を見るのは初めてだった。
祖母はその後、何事もなかったかのように振舞った。春江さんと一緒に夕食をつくり、友人の家から帰ってきた父親と三人で夕食をとった。
その夜、春江さんは風呂には入らなかった。なんだか熱っぽいと嘘をついた。風呂に入るとまた怖い目にあいそうな気がしたからだ。
祖母も父親も無理に入れとは言わなかった。
むしろ祖母の方は過剰なまでに春江さんを心配した。大丈夫だからと言う春江さんをなかば強引に布団に横たえ、体に不調はないかとしきりに尋ねた。春江さんが寝付くまで祖母は彼女のそばにいた。祖母に対してすこしだけ申し訳ない気持ちになった。
春江さんが目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。隣に敷いてある布団に祖母の姿はない。時計を見るとまだ真夜中だった。
春江さんは障子戸を開けて祖母の寝室を出た。喉が渇いていた。階段を降りて台所に向かう。
廊下を歩いていると居間から明かりが漏れていることに気がついた。祖母と父親が話す声が漏れ聞こえてくる。
二人の声はいつもと違っていた。どこか切羽詰まっているような、感情をおさえて小声で話しているような印象を受ける。ときおり祖母が鼻をすする音も聞こえる。
春江さんは薄く開いた障子戸の隙間から中を覗いた。
祖母の丸い背中が見えた。祖母は泣いているようで背中が小刻みに揺れている。父親は机に両肘をついてうなだれていた。父親の掌の中には木彫りの仏像があった。
深夜のバラエティ番組の大げさな笑い声が、湿った居間にむなしく響いていた。
「何をやっても無駄なんだ」
父親が吐き捨てるように言った。
翌日以降、やはり祖母は何事もなかったかのように振舞った。けれどいまになって思い返してみると、様子はおかしかったのだと春江さんは語った。
祖母は春江さんがどんなわがままを言っても許してくれた。父親と三人で町に出て、普段は買ってもらえないような高いおもちゃをいくつも買ってくれた。生まれてはじめてチョコレートパフェを食べたのも、このときだった。
祖母の家を発つとき、祖母は春江さんを思いっきり抱きしめた。あまりにも力が強くて息が苦しいほどだった。
祖母はしばらくの間そうしたあと、春江さんの頭をなでながら言った。
「元気でね」
いつもは「また来年」とか「また来てね」とか言うのに、そのときだけはなぜか「元気でね」だった。色素の薄い祖母の目には涙がにじんでいた。
祖母は父親と春江さんを乗せた車が見えなくなるまで手を振り続けていた。
それからいくらも経たないうちに祖母は亡くなった。急性心不全による肺水腫が原因だった。あの広い家の中で亡くなっているのを近所の人が発見した。
家の中は整理され、相続や財産に関する書類、遺書などが綺麗にまとめられていた。まるで自分の死期を悟っていたかのようだった。
祖母の葬式には両親と参列したらしいが、覚えているのは庭の池の縁にしゃがんで水面を見つめていたことだけだ。おそらくよほどショックだったのだろう。そのときのことは記憶から消されている。
間もなくして、父親も祖母のあとを追うように亡くなった。
死因は溺死だった。父親の乗った車が川に水没しているのを近所の人が発見した。離婚を苦にしたことによる自殺だろう、と警察は結論づけた。
享年三十三歳。あまりにも早すぎる死だった。
