高い鈴の音が聞こえて春江さんは瞼を開いた。
視界の中に高い天井と黒光りする梁がある。見慣れた祖母の家の天井だ。
春江さんは飛び上がるようにして上体を起こした。
縁側の窓からは赤い夕日が差し込んでいる。豆腐屋のラッパの音と軒先に飾った風鈴の音。さっき聞いたのはこの風鈴の音だとわかった。居間はがらんとしている。祖母や父親の気配はなく、家にいるのは彼女一人だけらしい。
春江さんは額に手を当てた。痛みはない。たんこぶもできていない。
そこでようやくほっとため息をついた。
どうやらいつの間にか昼寝をしてしまっていたらしい。それで変な夢を見たのだ。
速かった心臓の鼓動も次第に落ち着いてきた。喉がカラカラだった。台所に行こうと立ち上がりかけた途端。
「すみませーん」
聞き覚えのある声が玄関から聞こえた。
心臓を冷たい手で鷲づかみにされたようだった。
恐怖で体が凍りついた。額を伝う汗をぬぐうことすらせずに玄関のある方向を見つめる。
「すみませーん」
緊張で張り詰めたこの状況には似つかわしくないほど間延びした声。
春江さんは膝を抱えて小さくなった。すこしでも音を立てたら、あの男に気づかれるかもしれないと思うとたまらなく怖かったのだ。だから逃げることも隠れることもできず、ただ小さくなって気配を消すことしかできなかった。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
男の声は春江さんを追い詰めるように何度も何度も繰り返される。耳をふさぎたかったが、もしもあの男が網戸を開ける音を聞き逃してしまったらと思うと、できなかった。
気の遠くなるような時間だったという。
しばらく経った頃、男の声がぴたりと止んだ。
カラカラと網戸を開ける音が聞こえた。それと、何かを話しながら笑う祖母と父親の声。
緊張でこわばった体が急速にほぐれていくのを感じる。
春江さんはおそるおそる立ちあがった。
廊下を歩く音がして、祖母が居間に入ってきた。
「おばあちゃん!」
春江さんは祖母に飛びついた。線香とおしろいの匂いが緊張をほぐしてくれる。
「春ちゃん、一人でお留守番させてごめんね。いまご飯つくるからね」
「さっき変な人が来たの」
そう言って春江さんがあの男の話をすると、祖母は「おかしな人もいるものね」と言って眉をひそめた。
その夜、春江さんは祖母と一緒に風呂に入ると駄々をこねた。昼に見た夢の通りに男が訪ねてきたのだから、風呂場でも同じことが起こるのではないかと思ったのだ。
祖母と手をつないで庭を横切る。真っ暗な夜空に満天の星。氷玉のような月から降り注ぐ光が、小川の水面に反射してきらめいている。夏の夜の庭には美しい光景が広がっている。
しかし春江さんはそれどころではなかった。
星を指さして「綺麗ね」と笑う祖母に生返事をしつつ庭の闇に目を走らせる。
木々の間や生垣の陰から、いまにも男が飛び出してくるのではないかという不安に駆られる。
浴室に入ってもその不安は消えなかった。
湯船につかりながら窓に目をやる。すりガラスの向こうには黒い闇があるだけで男の姿はない。それでも何度も確認してしまう。
祖母に「窓に何かあるの?」と聞かれたが、「なんでもない」とごまかした。口にすると、あの男がこちらに来てしまうような気がした。
祖母は浴室の床に座って髪を洗っている。
湯船の中から、ぽこんと泡がひとつ浮かんではじけた。
春江さんは反射的にお湯の中に目を向ける。
また泡がひとつはじけた。
なんだろうと思っている間にも泡は次々と現れた。ぼこんぼこんと浮かんでは消える。誰かが湯船の底で空気を吐き出しているみたいだった。
いくつもの泡がはじけて水面が揺れる。まるで沸騰したお湯のようだ。
春江さんは思わず浴槽に背中をくっつけた。何が起こっているのかわからなかった。
祖母は気づいていないようで、目を瞑って髪を洗っている。
おばあちゃん、と言いかけたときだった。
ひときわ大きな泡が水面に浮かんだ。
いや、それは泡ではなかった。
人間の顔が水面に浮かんでいた。
若い女の生首だった。灰色の肌に、半開きの口と虚ろな目。黒い髪がとろろ昆布のように水面で揺れている。
春江さんははっと息をのんだ。
また、ざぶんと音がして水面に灰色の塊が浮かんでくる。
年老いた男の顔だった。痩せこけた猿のような顔。腐っているせいか、頬の皮膚がべろりと剥がれて皮下組織が露出している。
恐怖に体が凍りつく。目の前に広がる光景に理解が追いつかなかった。
その間にも生首は次々と浮かんでくる。若い男の生首、皺だらけの老婆の生首、丸々と太った男の生首……。
いくつもの生首が柚子風呂に浮かぶ柚子のごとくひしめき合っている。どれも一様に虚ろな目をしている。
春江さんの胸の前に女の生首がある。それはお湯が揺れるたびに、とんとんと春江さんの胸に当たった。
髪の毛が体に絡みついているのがわかる。
──いますぐここから出ないと。
春江さんはこわばる体を無理やり動かして浴槽のふちに手をかける。
途端に体がお湯の中に引き込まれた。
春江さんは顔までお湯に沈んだ。
体に絡みついた髪の毛が彼女をお湯の底に引き込んでいる。
浴槽をつかんで体を引きあげるが、底に引っ張られる力の方が強い。すぐに鼻までお湯につかってしまう。
「おばあちゃん!」
祖母に助けを求める。しかし祖母は気づいていないのか助けに来てくれない。
春江さんの手が浴槽の縁から離れる。体はどんどん沈んでいく。
藁をもつかむ思いで生首をつかむ。が、つかんだ生首も彼女と一緒に底へ底へと沈んでしまう。
鼻にも口にも水が入ってくる。
底から見上げた水面には、ひしめき合う生首の黒い影。その隙間から蛍光灯の光が差し込んでいる。
春江さんは意識が遠のくのを感じた。
視界の中に高い天井と黒光りする梁がある。見慣れた祖母の家の天井だ。
春江さんは飛び上がるようにして上体を起こした。
縁側の窓からは赤い夕日が差し込んでいる。豆腐屋のラッパの音と軒先に飾った風鈴の音。さっき聞いたのはこの風鈴の音だとわかった。居間はがらんとしている。祖母や父親の気配はなく、家にいるのは彼女一人だけらしい。
春江さんは額に手を当てた。痛みはない。たんこぶもできていない。
そこでようやくほっとため息をついた。
どうやらいつの間にか昼寝をしてしまっていたらしい。それで変な夢を見たのだ。
速かった心臓の鼓動も次第に落ち着いてきた。喉がカラカラだった。台所に行こうと立ち上がりかけた途端。
「すみませーん」
聞き覚えのある声が玄関から聞こえた。
心臓を冷たい手で鷲づかみにされたようだった。
恐怖で体が凍りついた。額を伝う汗をぬぐうことすらせずに玄関のある方向を見つめる。
「すみませーん」
緊張で張り詰めたこの状況には似つかわしくないほど間延びした声。
春江さんは膝を抱えて小さくなった。すこしでも音を立てたら、あの男に気づかれるかもしれないと思うとたまらなく怖かったのだ。だから逃げることも隠れることもできず、ただ小さくなって気配を消すことしかできなかった。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
男の声は春江さんを追い詰めるように何度も何度も繰り返される。耳をふさぎたかったが、もしもあの男が網戸を開ける音を聞き逃してしまったらと思うと、できなかった。
気の遠くなるような時間だったという。
しばらく経った頃、男の声がぴたりと止んだ。
カラカラと網戸を開ける音が聞こえた。それと、何かを話しながら笑う祖母と父親の声。
緊張でこわばった体が急速にほぐれていくのを感じる。
春江さんはおそるおそる立ちあがった。
廊下を歩く音がして、祖母が居間に入ってきた。
「おばあちゃん!」
春江さんは祖母に飛びついた。線香とおしろいの匂いが緊張をほぐしてくれる。
「春ちゃん、一人でお留守番させてごめんね。いまご飯つくるからね」
「さっき変な人が来たの」
そう言って春江さんがあの男の話をすると、祖母は「おかしな人もいるものね」と言って眉をひそめた。
その夜、春江さんは祖母と一緒に風呂に入ると駄々をこねた。昼に見た夢の通りに男が訪ねてきたのだから、風呂場でも同じことが起こるのではないかと思ったのだ。
祖母と手をつないで庭を横切る。真っ暗な夜空に満天の星。氷玉のような月から降り注ぐ光が、小川の水面に反射してきらめいている。夏の夜の庭には美しい光景が広がっている。
しかし春江さんはそれどころではなかった。
星を指さして「綺麗ね」と笑う祖母に生返事をしつつ庭の闇に目を走らせる。
木々の間や生垣の陰から、いまにも男が飛び出してくるのではないかという不安に駆られる。
浴室に入ってもその不安は消えなかった。
湯船につかりながら窓に目をやる。すりガラスの向こうには黒い闇があるだけで男の姿はない。それでも何度も確認してしまう。
祖母に「窓に何かあるの?」と聞かれたが、「なんでもない」とごまかした。口にすると、あの男がこちらに来てしまうような気がした。
祖母は浴室の床に座って髪を洗っている。
湯船の中から、ぽこんと泡がひとつ浮かんではじけた。
春江さんは反射的にお湯の中に目を向ける。
また泡がひとつはじけた。
なんだろうと思っている間にも泡は次々と現れた。ぼこんぼこんと浮かんでは消える。誰かが湯船の底で空気を吐き出しているみたいだった。
いくつもの泡がはじけて水面が揺れる。まるで沸騰したお湯のようだ。
春江さんは思わず浴槽に背中をくっつけた。何が起こっているのかわからなかった。
祖母は気づいていないようで、目を瞑って髪を洗っている。
おばあちゃん、と言いかけたときだった。
ひときわ大きな泡が水面に浮かんだ。
いや、それは泡ではなかった。
人間の顔が水面に浮かんでいた。
若い女の生首だった。灰色の肌に、半開きの口と虚ろな目。黒い髪がとろろ昆布のように水面で揺れている。
春江さんははっと息をのんだ。
また、ざぶんと音がして水面に灰色の塊が浮かんでくる。
年老いた男の顔だった。痩せこけた猿のような顔。腐っているせいか、頬の皮膚がべろりと剥がれて皮下組織が露出している。
恐怖に体が凍りつく。目の前に広がる光景に理解が追いつかなかった。
その間にも生首は次々と浮かんでくる。若い男の生首、皺だらけの老婆の生首、丸々と太った男の生首……。
いくつもの生首が柚子風呂に浮かぶ柚子のごとくひしめき合っている。どれも一様に虚ろな目をしている。
春江さんの胸の前に女の生首がある。それはお湯が揺れるたびに、とんとんと春江さんの胸に当たった。
髪の毛が体に絡みついているのがわかる。
──いますぐここから出ないと。
春江さんはこわばる体を無理やり動かして浴槽のふちに手をかける。
途端に体がお湯の中に引き込まれた。
春江さんは顔までお湯に沈んだ。
体に絡みついた髪の毛が彼女をお湯の底に引き込んでいる。
浴槽をつかんで体を引きあげるが、底に引っ張られる力の方が強い。すぐに鼻までお湯につかってしまう。
「おばあちゃん!」
祖母に助けを求める。しかし祖母は気づいていないのか助けに来てくれない。
春江さんの手が浴槽の縁から離れる。体はどんどん沈んでいく。
藁をもつかむ思いで生首をつかむ。が、つかんだ生首も彼女と一緒に底へ底へと沈んでしまう。
鼻にも口にも水が入ってくる。
底から見上げた水面には、ひしめき合う生首の黒い影。その隙間から蛍光灯の光が差し込んでいる。
春江さんは意識が遠のくのを感じた。
