*
それは春江さんが小学三年生の頃に体験したことだから、一九八〇年代のはじめ頃の話だ。
当時はまだ父親が存命で、毎年夏休みと正月休みには父方の祖母の家に遊びに行くのが恒例となっていた。
祖母の家は隣県にあった。二階建ての古い木造家屋でとても大きい。
周囲にも大きくて古い家はあったが、祖母の家はその中でもひときわ目立っていた。
きけば父方の家系は江戸時代から代々医者を輩出するような立派な家系だったらしい。そのため蔵の中には達筆な文字で書かれた医学書や、薬を種類ごとに収納するための引き出しがたくさんついた百味箪笥、百年近く前に使われていたという医療器具なんかが雑に放り込まれていた。
家の中に部屋がいくつもあり、どれだけ手を伸ばしても届きそうにないほど高い天井には、黒光りする太い梁が何本も張り渡してある。綺麗に整備された庭には池もあったし小川も流れていた。
とにかくものすごい豪邸だったのだという。
家の前にははるか遠くまで広がる田園風景があり、その向こうには巨大な壁を思わせる山がまるで立ちふさがるようにしてそびえている。
地元の子供たちはよそから来た春江さんにも優しかった。彼らに混じって畑の中を駆け回ったり、川に飛びこんだり、ときには祖母の家の中でかくれんぼをしたり。春江さんの地元の子たちは、男の子は男の子同士、女の子は女の子同士といった具合に男女で別れて遊んでいたが、その地域の子供たちは男女の区別なく遊んでいた。
夏の黄金色の日差しを反射してきらめく青い稲の葉や、指の間を素早くすり抜けてゆく川魚の感触、夜になると鼻をつままれてもわからないほどの暗闇に包まれる田んぼと、その闇の中で光る蛍の群れ。
川も田んぼもない海辺の下町の小さな家で生まれ育った春江さんにとっては、なにもかもが新鮮だった。
春江さんは年二回の帰省が楽しみで仕方がなかった。
友達と遊べるということもあったが、やはりいちばんの楽しみは祖母に会えるということだった。
祖母は楽観的な明るい人だった。近所の人たちからはヨシさんと呼ばれ、線香とおしろいの匂いがして、華奢な肩を揺らしながらよく笑っていた。
春江さんはそんな祖母が大好きだった。
あの日、春江さんは祖母の家の縁側にいた。窓から赤い夕日が差し込んでいたので夕方頃だったと思う。
帰省してから数日が経っていた。
その年に帰省したのは父親と春江さんの二人だけだった。あとで聞いたところによると、その当時、彼女の両親は離婚の話し合いをしていたそうだ。春江さんの前ではそんなことはおくびにも出さなかったが、二人の関係は修復できない段階まできていた。
祖母もそのことを知っていたらしい。蚊帳の外の春江さんだけが、来られなかった母親のことをかわいそうに思いながら祖母の家で過ごしていた。
縁側の端にはオルガンが置いてあった。こげ茶色で角ばった形。埃で白くなったペダルの片方は壊れ、鍵盤の蓋は取れてなくなっていた。
オルガンの上には木彫りの小さな仏像がずらりと並んでいる。
祖母の家には仏像がたくさんあった。居間はもちろん仏間や床の間、トイレ、父親が子供の頃に使っていたという部屋にも。
そして居間の柱の中にも目を閉じて微笑むミニチュアの仏像がいた。柱の一部をくり抜いて、その中に仏像を安置してあるのだ。
幼い頃はなんとも思わなかったけれど、いまになって思い返してみると変な家だったわね、と春江さんは語った。
仏像はすべて、四十代の頃に急逝した祖父が彫ったものらしい。
仏像づくりが趣味だったというわけではなく、この世を去る数年ほど前から突然、何かに取り憑かれたたように彫りはじめたのだ。
仏間には鉛筆で描かれた祖父の遺影の肖像画が飾られていた。顎が尖り、猛禽類のようなぎょろりとした目をしていた。どこか病んでいるような印象を、子供ながらに受けた。
祖父が急に仏像を彫りはじめた理由を春江さんは知らない。もしかすると祖母や父親は知っていたのかもしれないが、教えてはくれなかったし、春江さんの方も聞こうとも思わなかった。
窓の外から聞こえてくるのは豆腐屋がラッパを鳴らす音と、軒先に飾った風鈴の音。
春江さんはオルガンの前に置かれた椅子に座り、手垢と経年劣化で黄色くなった鍵盤を叩いていた。
家の中には春江さんひとりだけだった。理由は忘れてしまったが祖母と父親は彼女に留守番をさせてどこかに出かけて行った。
鍵盤を叩くとオルガンの上の仏像がブルブル震える。それが面白くてわざと強めに弾いた。蒸し暑い家の中に、音楽の授業で習ったばかりの曲が響いている。
男の声が聞こえたのはそんなときだった。
「すみませーん」
高くて間延びした、舌足らずな男の声だった。
春江さんは思わず玄関の方を振り返った。といっても彼女のいる場所からは玄関の様子は見えないが。
「すみませーん」
また聞こえた。声の調子も大きさもさっきとまったく同じ。まるでレコードを再生しているかのようだった。
「すみませーん」
春江さんはそろそろと立ちあがった。なんだか様子が変だと思った。
その当時は、近所付き合いが希薄な現代と違って、近所同士が家族のような密接なつながりを持っていた。それに防犯意識もそれほど高くなかったので、玄関の鍵は基本的に開けっ放しだった。
だから近所の人ならば勝手に玄関の戸を開けて上がり込んでくるのが常だった。仮にセールスの人や何かの業者などの外部の人間だったとしても、ふつうは名乗るはずだ。
それなのに男は戸を開けるでもなく名を名乗るでもなく、ただ呼びかけるだけ。
子供心に違和感を覚えながら春江さんは玄関に向かった。居留守を使った方がいいのではないか、という考えがちらりと頭をよぎった。けれどさっきまで弾いていたピアノの音は玄関の男にも聞こえていたはずだから無駄だろう、とすぐに思い直した。
障子戸を開けて居間から出る。まっすぐ伸びる黒い板張りの廊下の先に玄関がある。
玄関の扉は開いていて網戸だけが閉まっていた。
網戸の向こうに左半身だけの男がいた。
男はなぜか玄関扉の陰に体の右半身を隠すようにして立っていた。
六十代後半くらいだろうか。白いワイシャツにグレーのズボン。頭は禿げあがり、側頭部にだけ白い髪がほんのすこしだけ残っている。
男は満面の笑みを浮かべていた。いや、笑っているというよりも、歯をむき出しにしているという方が正しい。目がまったく笑っていなかったからだ。
猿回しの猿のようだった、と春江さんは回想する。
笑顔の意味も知らないまま、愛嬌を振りまくためだけに歯をむき出しにしている猿。
その笑顔を見た途端、春江さんの体は硬直した。見るからに異様だ。
「すみませーん」
食いしばった歯の隙間から高い声が漏れた。男の唇は動いていない。舌だけを動かして喉から声を絞り出している。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
春江さんはぎくりと肩を震わせた。
男は相変わらず笑顔を浮かべたまま微動だにしない。黒目だけがすこしだけ左に寄って、春江さんの方を向いている。
男のうしろに見える空は真っ赤だった。夕日に照らされた男の肌も赤く染まっている。まるで頭から血をかぶったかのようだ。
春江さんは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
どうしよう、と男の顔を見ながら考える。この男は、いま家に春江さん一人しかいないことを知っているのだろうか。もしかして祖母と父親が出かけたタイミングを見計らって訪ねてきたのだろうか。
二人を隔てているのはあの薄っぺらい、たった一枚の網戸だけだ。男が網戸を蹴破って侵入してくる場面を想像して鳥肌が立った。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
気がつくと春江さんは首を横に激しく振っていた。
「いっ、いませ……いませんっ」
どもりながらも、かすれた声をなんとか絞り出した。
固唾を吞みながら男を見つめる。
男もまた笑顔のまま春江さんを見つめ返す。
気の遠くなるような時間。周囲は死んだように静まり返り、自分の浅い呼吸の音まで聞こえるほどだった。
心の中で何度も父親と祖母を呼んだ。いますぐに帰ってきて、と。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
男が言う。同じ調子、同じ大きさ、同じ速さで。
限界だった。
春江さんは男に背を向けて走り出した。
「お父さん、変な人がいる!」
一人ではないということをアピールするためにそう叫んだ。
廊下の突き当りにある階段を駆け上がる。
玄関を振り返ることはできなかった。もしもあの男が追いかてくる姿を見てしまったら、きっと自分は腰を抜かすだろう思った。
いちばん手前にある部屋に転がり込んだ。
戸を閉めて両手で自分の口を押さえる。といっても障子戸なので鍵もなく、階段を上がってこられたら終わりだ。
障子に耳をつけて外の様子をうかがう。階下からは物音ひとつしない。
諦めて帰ったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。けれど、もしも男があの笑顔を浮かべたまま部屋の前に立っていたらと思うと、どうしても障子戸を開けることはできなかった。
どのくらいそうしていただろうか。
カラカラという音が階下から聞こえてきた。網戸を開ける音だ。それと、何かを話しながら笑う祖母と父親の声。
緊張でこわばった体が急速にほぐれていくのを感じる。
「おばあちゃん、お父さん」
階下に呼びかける。
廊下を歩く音がして、おばあちゃんの声が聞こえた。
「あら春ちゃん、二階にいたの。遅くなってごめんね。いまご飯つくるからね」
「おばあちゃん、こっち来て、ここ開けて」
二人の声を聞いてほっとはしたが、障子戸を自分で開けるのも、一人で薄暗い階段を降りるのも怖かった。
「どうしたの、春ちゃん」
障子戸が開かれる。祖母のきょとんとした顔があった。
「おばあちゃん」
春江さんは祖母の胸に飛びこんだ。線香とおしろいの匂いが鼻をかすめる。抱きつきながら廊下に目をやったが、あの男の姿はどこにもなかった。
「変な男の人が来たの」
そう言って、先ほどの男の話を祖母に聞かせる。
話を聞き終えた祖母は「おかしな人もいるものね」と言って眉をひそめた。
春江さんは祖母と手をつないで階段を降りた。
夕食を終えた頃には、あの男の恐怖はすっかり消えていた。
その日の夜、春江さんは一人で風呂に入った。風呂は屋内ではなく庭の端にあった。真っ暗な庭を横切るとき、あの男がいるのではないかと緊張したが、杞憂だった。
服を脱いで浴室に入る。湯気がもうもうと立ちこめ、四角い窓の向こうからはチチチチチとコウモリの鳴き声が聞こえる。
祖母の家の風呂はボイラーに薪をくべて湯を温めるタイプのものだった。現代の風呂とは違ってお湯を均一に温めることができないため、湯船の下が冷たく、上は火傷しそうなほど熱い。だから入る前に、湯かき棒と呼ばれる、スキーストックに似た形状の棒で、適温になるまで湯をかき混ぜる必要があった。
春江さんが湯をかき混ぜていると声が聞こえた。
「すみませーん」
あの男の声だった。
春江さんはぎくりと体をこわばらせた。湯かき棒を湯船に突っ込んだ姿勢のまま、おそるおそる顔を上げる。
風呂場の窓の向こうに男の顔があった。でこぼこしたすりガラスのせいで歪ににじんでいる。けれど歯をむき出しにして笑顔を浮かべているのはわかった。
春江さんの喉から「ひっ」と引きつったような悲鳴が漏れる。
「すみませーん」
窓越しのくぐもった声。単調で何の感情も読み取れない声。
寒くもないのに体の震えが止まらなかった。
ここは密室で、しかもいまの春江さんは丸腰だ。夕方に感じたよりもずっと大きな恐怖が彼女を襲った。
大声を出せば父親や祖母は駆けつけてくれるだろうか。それとも男がここにやって来るのが早いだろうか。自分はどうなるのだろう。首を絞められるのだろうか、包丁で刺されるのだろうか。
ほんの一瞬の間にいろいろな考えが頭の中を駆け巡った。
春江さんは意を決して息を大きく吸い込んだ。叫び声をあげて助けを求めることにしたのだ。男を刺激してしまうリスクはあったが、この状況で男と対峙しつづけることの方が恐ろしかったのだ。
喉から悲鳴がほとばしりかけた瞬間。
湯かき棒が勢いよく引っ張られた。
「あっ」と叫ぶ間もなく春江さんの体は前のめりに倒れる。
目の前に浴槽の縁があった。
鈍い音とともに春江さんの額に衝撃が走る。
頭から湯船に落ちた。
湯かき棒と一緒に春江さんの体はぐいぐいと湯船の底に引っ張られる。細い紐のようなものが手に巻きついているせいで、湯かき棒を手放すことができない。
春江さんは体をばたつかせた。
パニックになっているせいで冷たいのかも熱いのかもわからない。無数の紐が腕や体に絡みついてくる。
浴槽がこんなに深いはずがないのに、足先まで湯船に沈んでいる。
視界は真っ暗で何も見えない。肺から空気が抜けていくのがわかる。
息が苦しい。心臓が痛いほど激しく脈打っている。
もう駄目だと思った。
春江さんの意識は遠のいていった。
それは春江さんが小学三年生の頃に体験したことだから、一九八〇年代のはじめ頃の話だ。
当時はまだ父親が存命で、毎年夏休みと正月休みには父方の祖母の家に遊びに行くのが恒例となっていた。
祖母の家は隣県にあった。二階建ての古い木造家屋でとても大きい。
周囲にも大きくて古い家はあったが、祖母の家はその中でもひときわ目立っていた。
きけば父方の家系は江戸時代から代々医者を輩出するような立派な家系だったらしい。そのため蔵の中には達筆な文字で書かれた医学書や、薬を種類ごとに収納するための引き出しがたくさんついた百味箪笥、百年近く前に使われていたという医療器具なんかが雑に放り込まれていた。
家の中に部屋がいくつもあり、どれだけ手を伸ばしても届きそうにないほど高い天井には、黒光りする太い梁が何本も張り渡してある。綺麗に整備された庭には池もあったし小川も流れていた。
とにかくものすごい豪邸だったのだという。
家の前にははるか遠くまで広がる田園風景があり、その向こうには巨大な壁を思わせる山がまるで立ちふさがるようにしてそびえている。
地元の子供たちはよそから来た春江さんにも優しかった。彼らに混じって畑の中を駆け回ったり、川に飛びこんだり、ときには祖母の家の中でかくれんぼをしたり。春江さんの地元の子たちは、男の子は男の子同士、女の子は女の子同士といった具合に男女で別れて遊んでいたが、その地域の子供たちは男女の区別なく遊んでいた。
夏の黄金色の日差しを反射してきらめく青い稲の葉や、指の間を素早くすり抜けてゆく川魚の感触、夜になると鼻をつままれてもわからないほどの暗闇に包まれる田んぼと、その闇の中で光る蛍の群れ。
川も田んぼもない海辺の下町の小さな家で生まれ育った春江さんにとっては、なにもかもが新鮮だった。
春江さんは年二回の帰省が楽しみで仕方がなかった。
友達と遊べるということもあったが、やはりいちばんの楽しみは祖母に会えるということだった。
祖母は楽観的な明るい人だった。近所の人たちからはヨシさんと呼ばれ、線香とおしろいの匂いがして、華奢な肩を揺らしながらよく笑っていた。
春江さんはそんな祖母が大好きだった。
あの日、春江さんは祖母の家の縁側にいた。窓から赤い夕日が差し込んでいたので夕方頃だったと思う。
帰省してから数日が経っていた。
その年に帰省したのは父親と春江さんの二人だけだった。あとで聞いたところによると、その当時、彼女の両親は離婚の話し合いをしていたそうだ。春江さんの前ではそんなことはおくびにも出さなかったが、二人の関係は修復できない段階まできていた。
祖母もそのことを知っていたらしい。蚊帳の外の春江さんだけが、来られなかった母親のことをかわいそうに思いながら祖母の家で過ごしていた。
縁側の端にはオルガンが置いてあった。こげ茶色で角ばった形。埃で白くなったペダルの片方は壊れ、鍵盤の蓋は取れてなくなっていた。
オルガンの上には木彫りの小さな仏像がずらりと並んでいる。
祖母の家には仏像がたくさんあった。居間はもちろん仏間や床の間、トイレ、父親が子供の頃に使っていたという部屋にも。
そして居間の柱の中にも目を閉じて微笑むミニチュアの仏像がいた。柱の一部をくり抜いて、その中に仏像を安置してあるのだ。
幼い頃はなんとも思わなかったけれど、いまになって思い返してみると変な家だったわね、と春江さんは語った。
仏像はすべて、四十代の頃に急逝した祖父が彫ったものらしい。
仏像づくりが趣味だったというわけではなく、この世を去る数年ほど前から突然、何かに取り憑かれたたように彫りはじめたのだ。
仏間には鉛筆で描かれた祖父の遺影の肖像画が飾られていた。顎が尖り、猛禽類のようなぎょろりとした目をしていた。どこか病んでいるような印象を、子供ながらに受けた。
祖父が急に仏像を彫りはじめた理由を春江さんは知らない。もしかすると祖母や父親は知っていたのかもしれないが、教えてはくれなかったし、春江さんの方も聞こうとも思わなかった。
窓の外から聞こえてくるのは豆腐屋がラッパを鳴らす音と、軒先に飾った風鈴の音。
春江さんはオルガンの前に置かれた椅子に座り、手垢と経年劣化で黄色くなった鍵盤を叩いていた。
家の中には春江さんひとりだけだった。理由は忘れてしまったが祖母と父親は彼女に留守番をさせてどこかに出かけて行った。
鍵盤を叩くとオルガンの上の仏像がブルブル震える。それが面白くてわざと強めに弾いた。蒸し暑い家の中に、音楽の授業で習ったばかりの曲が響いている。
男の声が聞こえたのはそんなときだった。
「すみませーん」
高くて間延びした、舌足らずな男の声だった。
春江さんは思わず玄関の方を振り返った。といっても彼女のいる場所からは玄関の様子は見えないが。
「すみませーん」
また聞こえた。声の調子も大きさもさっきとまったく同じ。まるでレコードを再生しているかのようだった。
「すみませーん」
春江さんはそろそろと立ちあがった。なんだか様子が変だと思った。
その当時は、近所付き合いが希薄な現代と違って、近所同士が家族のような密接なつながりを持っていた。それに防犯意識もそれほど高くなかったので、玄関の鍵は基本的に開けっ放しだった。
だから近所の人ならば勝手に玄関の戸を開けて上がり込んでくるのが常だった。仮にセールスの人や何かの業者などの外部の人間だったとしても、ふつうは名乗るはずだ。
それなのに男は戸を開けるでもなく名を名乗るでもなく、ただ呼びかけるだけ。
子供心に違和感を覚えながら春江さんは玄関に向かった。居留守を使った方がいいのではないか、という考えがちらりと頭をよぎった。けれどさっきまで弾いていたピアノの音は玄関の男にも聞こえていたはずだから無駄だろう、とすぐに思い直した。
障子戸を開けて居間から出る。まっすぐ伸びる黒い板張りの廊下の先に玄関がある。
玄関の扉は開いていて網戸だけが閉まっていた。
網戸の向こうに左半身だけの男がいた。
男はなぜか玄関扉の陰に体の右半身を隠すようにして立っていた。
六十代後半くらいだろうか。白いワイシャツにグレーのズボン。頭は禿げあがり、側頭部にだけ白い髪がほんのすこしだけ残っている。
男は満面の笑みを浮かべていた。いや、笑っているというよりも、歯をむき出しにしているという方が正しい。目がまったく笑っていなかったからだ。
猿回しの猿のようだった、と春江さんは回想する。
笑顔の意味も知らないまま、愛嬌を振りまくためだけに歯をむき出しにしている猿。
その笑顔を見た途端、春江さんの体は硬直した。見るからに異様だ。
「すみませーん」
食いしばった歯の隙間から高い声が漏れた。男の唇は動いていない。舌だけを動かして喉から声を絞り出している。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
春江さんはぎくりと肩を震わせた。
男は相変わらず笑顔を浮かべたまま微動だにしない。黒目だけがすこしだけ左に寄って、春江さんの方を向いている。
男のうしろに見える空は真っ赤だった。夕日に照らされた男の肌も赤く染まっている。まるで頭から血をかぶったかのようだ。
春江さんは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
どうしよう、と男の顔を見ながら考える。この男は、いま家に春江さん一人しかいないことを知っているのだろうか。もしかして祖母と父親が出かけたタイミングを見計らって訪ねてきたのだろうか。
二人を隔てているのはあの薄っぺらい、たった一枚の網戸だけだ。男が網戸を蹴破って侵入してくる場面を想像して鳥肌が立った。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
気がつくと春江さんは首を横に激しく振っていた。
「いっ、いませ……いませんっ」
どもりながらも、かすれた声をなんとか絞り出した。
固唾を吞みながら男を見つめる。
男もまた笑顔のまま春江さんを見つめ返す。
気の遠くなるような時間。周囲は死んだように静まり返り、自分の浅い呼吸の音まで聞こえるほどだった。
心の中で何度も父親と祖母を呼んだ。いますぐに帰ってきて、と。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
男が言う。同じ調子、同じ大きさ、同じ速さで。
限界だった。
春江さんは男に背を向けて走り出した。
「お父さん、変な人がいる!」
一人ではないということをアピールするためにそう叫んだ。
廊下の突き当りにある階段を駆け上がる。
玄関を振り返ることはできなかった。もしもあの男が追いかてくる姿を見てしまったら、きっと自分は腰を抜かすだろう思った。
いちばん手前にある部屋に転がり込んだ。
戸を閉めて両手で自分の口を押さえる。といっても障子戸なので鍵もなく、階段を上がってこられたら終わりだ。
障子に耳をつけて外の様子をうかがう。階下からは物音ひとつしない。
諦めて帰ったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。けれど、もしも男があの笑顔を浮かべたまま部屋の前に立っていたらと思うと、どうしても障子戸を開けることはできなかった。
どのくらいそうしていただろうか。
カラカラという音が階下から聞こえてきた。網戸を開ける音だ。それと、何かを話しながら笑う祖母と父親の声。
緊張でこわばった体が急速にほぐれていくのを感じる。
「おばあちゃん、お父さん」
階下に呼びかける。
廊下を歩く音がして、おばあちゃんの声が聞こえた。
「あら春ちゃん、二階にいたの。遅くなってごめんね。いまご飯つくるからね」
「おばあちゃん、こっち来て、ここ開けて」
二人の声を聞いてほっとはしたが、障子戸を自分で開けるのも、一人で薄暗い階段を降りるのも怖かった。
「どうしたの、春ちゃん」
障子戸が開かれる。祖母のきょとんとした顔があった。
「おばあちゃん」
春江さんは祖母の胸に飛びこんだ。線香とおしろいの匂いが鼻をかすめる。抱きつきながら廊下に目をやったが、あの男の姿はどこにもなかった。
「変な男の人が来たの」
そう言って、先ほどの男の話を祖母に聞かせる。
話を聞き終えた祖母は「おかしな人もいるものね」と言って眉をひそめた。
春江さんは祖母と手をつないで階段を降りた。
夕食を終えた頃には、あの男の恐怖はすっかり消えていた。
その日の夜、春江さんは一人で風呂に入った。風呂は屋内ではなく庭の端にあった。真っ暗な庭を横切るとき、あの男がいるのではないかと緊張したが、杞憂だった。
服を脱いで浴室に入る。湯気がもうもうと立ちこめ、四角い窓の向こうからはチチチチチとコウモリの鳴き声が聞こえる。
祖母の家の風呂はボイラーに薪をくべて湯を温めるタイプのものだった。現代の風呂とは違ってお湯を均一に温めることができないため、湯船の下が冷たく、上は火傷しそうなほど熱い。だから入る前に、湯かき棒と呼ばれる、スキーストックに似た形状の棒で、適温になるまで湯をかき混ぜる必要があった。
春江さんが湯をかき混ぜていると声が聞こえた。
「すみませーん」
あの男の声だった。
春江さんはぎくりと体をこわばらせた。湯かき棒を湯船に突っ込んだ姿勢のまま、おそるおそる顔を上げる。
風呂場の窓の向こうに男の顔があった。でこぼこしたすりガラスのせいで歪ににじんでいる。けれど歯をむき出しにして笑顔を浮かべているのはわかった。
春江さんの喉から「ひっ」と引きつったような悲鳴が漏れる。
「すみませーん」
窓越しのくぐもった声。単調で何の感情も読み取れない声。
寒くもないのに体の震えが止まらなかった。
ここは密室で、しかもいまの春江さんは丸腰だ。夕方に感じたよりもずっと大きな恐怖が彼女を襲った。
大声を出せば父親や祖母は駆けつけてくれるだろうか。それとも男がここにやって来るのが早いだろうか。自分はどうなるのだろう。首を絞められるのだろうか、包丁で刺されるのだろうか。
ほんの一瞬の間にいろいろな考えが頭の中を駆け巡った。
春江さんは意を決して息を大きく吸い込んだ。叫び声をあげて助けを求めることにしたのだ。男を刺激してしまうリスクはあったが、この状況で男と対峙しつづけることの方が恐ろしかったのだ。
喉から悲鳴がほとばしりかけた瞬間。
湯かき棒が勢いよく引っ張られた。
「あっ」と叫ぶ間もなく春江さんの体は前のめりに倒れる。
目の前に浴槽の縁があった。
鈍い音とともに春江さんの額に衝撃が走る。
頭から湯船に落ちた。
湯かき棒と一緒に春江さんの体はぐいぐいと湯船の底に引っ張られる。細い紐のようなものが手に巻きついているせいで、湯かき棒を手放すことができない。
春江さんは体をばたつかせた。
パニックになっているせいで冷たいのかも熱いのかもわからない。無数の紐が腕や体に絡みついてくる。
浴槽がこんなに深いはずがないのに、足先まで湯船に沈んでいる。
視界は真っ暗で何も見えない。肺から空気が抜けていくのがわかる。
息が苦しい。心臓が痛いほど激しく脈打っている。
もう駄目だと思った。
春江さんの意識は遠のいていった。
