──あたしは怖い体験をしてないのかって?
そういうのはまったく……あ、ちがう。ひとつだけあった。
雅ちゃんが辞めるすこし前のことだったと思う。
閉店作業をしてたのね。そのとき店にはあたしとママだけで、ママはカウンターで売り上げの計算をしていて、あたしは店の後片付けをしていた。ママは計算をしているときに話しかけるとキレるから二人とも無言よ。レコードも消されてて作業する音だけが響いてた。
しばらく作業をしてたら急におしっこに行きたくなって、あたしはトイレに向かった。
トイレの扉を開けると、人がいた。
トイレは一人しか入れない狭い個室なの。扉を開けると正面に鏡がついた洗面台があって、右手に便座がある。
その便座の前に、男がこちらに背中を向けて立ってた。
白のワイシャツにグレーのズボンを履いた男。サザエさんの波平みたいな禿げ方をしてた。
一瞬、おしっこしてるところに入っちゃったのかと思って焦ったわ。でもすぐに違うって気づいた。両手を体の脇に垂らして、ふつうに直立してたからね。そんな恰好じゃさすがに無理でしょ。
だから酔っぱらった客が帰りそびれたんだって思って、声をかけたの。
「お客さん、もう閉店ですよ」
ふつうなら振り返ったり返事したりするもんでしょ。でも男は無反応だった。まるであたしの声が聞こえなかったみたいに。
苛ついたあたしは男に近づいて肩を叩こうと手を伸ばしたの。
その瞬間、トイレの中に男の甲高い声が響いた。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
歯を食いしばりながら喉から声を絞り出しているような、不自然な喋り方だったわ。
あたし、ぎょっとして男の肩に手を伸ばした状態で固まっちゃった。インコが人の言葉を喋るみたいにさ、人間じゃない何かが人の言葉を真似しているような感じだった。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
また男が訊いてきた。
「そんな人、うちにはいませんけど……」
あたしが答えると、男はこちらに振り返った。
異様な顔だった。
男の顔のパーツは顔の下半分に集まってた。両目は頬の位置にあって、鼻と口は顎にあった。
溶けたチョコレート菓子みたいだった。
男の食いしばった歯の隙間から声が漏れた。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
覚えてるのはそこまで。
次に気がついたら、あたしは洗面台に顔を突っ込んでた。蛇口からは勢いよく水が流れ出てて、顔も髪もびしょ濡れだった。イヤリングの片方が無くなってたから、たぶん排水口に落ちたんだと思う。
顔をあげた拍子に蛇口に頭を打ちつけたわ。鼻の中に水が入ったみたいで痛かった。
慌てて便座の方を見たんだけど、男の姿はどこにもなかった。
怖いって感情よりも困惑の方が大きかったかな。だって気がついたら洗面台に顔を突っ込んでたのよ。普通に生きてたらそんな経験しないじゃない。
わけがわかんないままトイレから出たら、ちょうどママが計算を終えたところだった。ママはびしょ濡れのあたしを見て目を丸くした。
あんたどうしたの、って訊かれたけど答えられなかったわ。ママはこういう話は嫌いだし、さっきの話をしたところで、頭がおかしくなったって思われるのがオチでしょ。だから適当に話をはぐらかした。
……話してみて気がついたんだけど、これっておかしくない?
だってあたしがトイレに入ってたとき、店は無音だったのよ。いくら計算に集中してたからって、あたしが男と話してた声が聞こえなかったなんて変よ。
わざと無視してたのかな。
それともあたしが夢を見ていたとか。もしそうだとしたら、どこからどこまでが夢だったんだろ。あんなにはっきり覚えてるのに。
──お化けを見たのによく店をやめなかったなって?
昔からお化けよりも人の方が怖いって感じだったし。目の前でママが刺されるところを見たせいで、よけいにそう思うようになっちゃったかな。
そういうのはまったく……あ、ちがう。ひとつだけあった。
雅ちゃんが辞めるすこし前のことだったと思う。
閉店作業をしてたのね。そのとき店にはあたしとママだけで、ママはカウンターで売り上げの計算をしていて、あたしは店の後片付けをしていた。ママは計算をしているときに話しかけるとキレるから二人とも無言よ。レコードも消されてて作業する音だけが響いてた。
しばらく作業をしてたら急におしっこに行きたくなって、あたしはトイレに向かった。
トイレの扉を開けると、人がいた。
トイレは一人しか入れない狭い個室なの。扉を開けると正面に鏡がついた洗面台があって、右手に便座がある。
その便座の前に、男がこちらに背中を向けて立ってた。
白のワイシャツにグレーのズボンを履いた男。サザエさんの波平みたいな禿げ方をしてた。
一瞬、おしっこしてるところに入っちゃったのかと思って焦ったわ。でもすぐに違うって気づいた。両手を体の脇に垂らして、ふつうに直立してたからね。そんな恰好じゃさすがに無理でしょ。
だから酔っぱらった客が帰りそびれたんだって思って、声をかけたの。
「お客さん、もう閉店ですよ」
ふつうなら振り返ったり返事したりするもんでしょ。でも男は無反応だった。まるであたしの声が聞こえなかったみたいに。
苛ついたあたしは男に近づいて肩を叩こうと手を伸ばしたの。
その瞬間、トイレの中に男の甲高い声が響いた。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
歯を食いしばりながら喉から声を絞り出しているような、不自然な喋り方だったわ。
あたし、ぎょっとして男の肩に手を伸ばした状態で固まっちゃった。インコが人の言葉を喋るみたいにさ、人間じゃない何かが人の言葉を真似しているような感じだった。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
また男が訊いてきた。
「そんな人、うちにはいませんけど……」
あたしが答えると、男はこちらに振り返った。
異様な顔だった。
男の顔のパーツは顔の下半分に集まってた。両目は頬の位置にあって、鼻と口は顎にあった。
溶けたチョコレート菓子みたいだった。
男の食いしばった歯の隙間から声が漏れた。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
覚えてるのはそこまで。
次に気がついたら、あたしは洗面台に顔を突っ込んでた。蛇口からは勢いよく水が流れ出てて、顔も髪もびしょ濡れだった。イヤリングの片方が無くなってたから、たぶん排水口に落ちたんだと思う。
顔をあげた拍子に蛇口に頭を打ちつけたわ。鼻の中に水が入ったみたいで痛かった。
慌てて便座の方を見たんだけど、男の姿はどこにもなかった。
怖いって感情よりも困惑の方が大きかったかな。だって気がついたら洗面台に顔を突っ込んでたのよ。普通に生きてたらそんな経験しないじゃない。
わけがわかんないままトイレから出たら、ちょうどママが計算を終えたところだった。ママはびしょ濡れのあたしを見て目を丸くした。
あんたどうしたの、って訊かれたけど答えられなかったわ。ママはこういう話は嫌いだし、さっきの話をしたところで、頭がおかしくなったって思われるのがオチでしょ。だから適当に話をはぐらかした。
……話してみて気がついたんだけど、これっておかしくない?
だってあたしがトイレに入ってたとき、店は無音だったのよ。いくら計算に集中してたからって、あたしが男と話してた声が聞こえなかったなんて変よ。
わざと無視してたのかな。
それともあたしが夢を見ていたとか。もしそうだとしたら、どこからどこまでが夢だったんだろ。あんなにはっきり覚えてるのに。
──お化けを見たのによく店をやめなかったなって?
昔からお化けよりも人の方が怖いって感じだったし。目の前でママが刺されるところを見たせいで、よけいにそう思うようになっちゃったかな。
