北方の姫は氷の皇帝に牙を剥く

「どうしてここに笛の嬢ちゃんがいるのか説明してくれな、おいら達気になって仕事どころじゃないんや」

続いて残り二匹のイタチも、ヨミの左肩と頭の上に飛び乗った。やはり重さは感じないが、彼らのふわふわとした体毛が頬や首に触れてこそばゆい。

むずむずするのを堪えているヨミをよそに、精霊たちは尻尾を右へ左へと振りながらジウォンに向かって口々に言う。

「そうだ。これはどういうことだ? 何かあったのか? 星が降るのか?」

「ついに男気見せたの~? やるねぇジウォン~」

「全部話さんと、おいら達なにもやらへんで~」

からかい口調の精霊たちに、ジウォンは身体を震わせながら顔を真っ赤に染めあげる。

「ヨミはいつも手伝ってくれてるの! お前達に会わせると面倒だから会わせなかっただけだ! 僕とヨミの間にはなにもない! 全然何にもないんだから!!」

「……それ、自分で言ってて悲しくならないか?」

精霊たちは若干引き気味になりながら、ジウォンの言葉に心底哀れむような瞳を向ける。

「うるさいよ!!」

彼は怒鳴りながら精霊たちの首根を持ってヨミの身体から引き剥がしていく。しかしいつも温厚な彼がここまで腹を立てるのは珍しい。

三匹とも剥がし終えたジウォンは、後ろ足だけで地面に立つ彼らを指さし命令した。

「早く仕事を終わらせて!」

「ちっ。わかったよ。うるさいな」

「つまらんなぁ~。やっぱへたれ男はへたれ男のままなんかぁ~」

「そんなんじゃいつか誰かに奪われて、一生独り身だよ~」

三匹の精霊たちは文句を言いながら、つむじ風に乗って姿を消した。どうやら持ち場に戻ったらしい。

ジウォンは大きな息を一つつき、ヨミの顔を見て苦笑いを浮かべる。

「ごめんね、ヨミ。あいつら、時々仕事の手伝いをして貰ってる精霊たちなんだけど、ちょっと興味旺盛でさ。あいつらの言ったこと、あんまり気にしないでいいから」

「大丈夫だよ。でもジウォン、好きな子なんていたんだね」

ヨミの言葉に、ジウォンは突然顔を真っ赤にして「へっ!?」と頓狂な声を上げた。

「あっ、いや、まあ一応僕にもそういう子はいるけど、でもまだ時期じゃないっていうか……」

「ふーん」

耳まで染まった彼の顔を、ヨミはじっと見つめた。

幼いころは女に間違えられる程だった彼の身体は、成長してからも線が細く、表情も柔らかな印象だ。

本人はもう少し男らしくなりたいと言い続けているが、これはこれで女に好かれそうな顔だとヨミは思う。

「ジウォンなら大丈夫でしょ。さっきの精霊たちも言ってた通り他の人に取られるかもしれないし、思い切って告白した方が良いんじゃない? あたし、応援するよ!」

それは心からの声援だった。しかし何故かジウォンは、悲しげな顔をして肩を落とす。

「……ありがとう」

「あれ、ジウォン? どしたの?」

首を傾げるヨミに、ジウォンは「なんでもないよ」と首を振った。しかしその顔に浮かぶのは暗く沈んだ表情である。

「大丈夫だから……。あっ、僕、商品の毛糸と干し肉持ってこないと……」

ジウォンはふらふらとおぼつかない足取りで家の方へと向かっていく。

どう考えても何か思う所があるのだろうが、彼自身が言おうとしないのでそれ以上追求しないことにした。

「待ってよジウォン! あたしも手伝うからー!」

ヨミは気を取り直し、先に行ってしまった彼の背中を追いかけた。

「馬が十に、羊が十五……。加工品は二十ずつ……。……うん、今日はこれくらいでいいかな」

ヨミとジウォン、そして三匹の精霊たちが集めてきた品物が、ずらりと家の前に並ぶ。ジウォンはそれぞれの数を数え終え、軽く頷いた。

「じゃあ行こうか」

精霊たちに礼代わりの干し肉を渡したジウォンは、荷台を取り付けた馬の上に飛び乗った。

ヨミも羊を引く紐を持って馬に跨がると、手綱を引いて出発する。

どこまでも続く緑の草原を、ヨミとジウォンは馬や羊たちと共に進んで行った。

大気は真上を目指して登り始めた太陽に暖められて、いつの間にか肌寒さも消えている。

不意に白い龍の精霊が突風と共に二人の頭上を駆けぬけて、やがて遠くの空へと消えていった。

その雄大な姿を、ヨミは目を細めて眺めていた。

人と、精霊と、この大地。ナランの地に息づくすべての者が、関わり合いながら生きている。

それを実感する度に、人は自然の一部なのだと自覚する。

「でも、ヨミも偉いよね。今の僕たちの最大の取引相手は蒼龍国なのにこうして手伝ってくれてるんだから。嫌いでしょ? 蒼龍国のこと。前首長たちの事もあるし……」

隣を歩くジウォンが、取引用の馬を繫ぐ紐を引きつつヨミに尋ねる。

蒼龍国は、ナランの南に位置する大きな国だ。

皇帝と呼ばれる長を中心に、定住して大地を切り開き、農耕をする人間たちが住んでいる。

自分たちを自然から切り離した所為で、自然の象徴である精霊たちは彼らの元から姿を消した。以来人の力だけで生きていこうとする蒼龍国の人々の生活は、ナランの民のそれとは真逆のもの。そんな生活のどこが良いのか、ヨミは全く理解できない。

しかし相反する暮らしの両者に、共通して必要なものがある。

それが、土地だ。

土地が欲しければ、増やせば良い。ただ、増やすにも欲している土地には大抵既に人が住んでいる。

だから人は他者から奪う。奪うために武器を取り、隣国に攻め入るのだ。

そうやって何百年もの昔から、ナランの民と蒼龍国は戦いと休戦を繰り返してきた。発端はナランの南の端、豊かな土壌と川の流れる土地を蒼龍国が奪った事だとナランに伝わる口伝で聞いている。

奪い、奪われ、奪い返してまた奪われる。

繰り返す争いの中で多くの人や精霊たちの血が流れていった。

そして十年前、ヨミが九歳だった頃にも、彼の国との戦が起こった。不意を突かれたように始まった争いで、ナランが奪い返していた土地は再び蒼龍国の手に渡った。多くの命が失われ、そしてヨミの両親もまた、この大地へと還っていった。

胸に抱く黒い感情を隠しつつ、ヨミは努めて自然に笑顔を作る。

「大嫌いだけど、今は休戦中だから。相手の事を知らなきゃどうやって付き合ったら良いのかもわかんないし。首長の妹として当然のことだよ」

勿論、そんな理由は嘘である。本当は今のナランの一番の取引相手が、蒼龍国である事さえ癪に障るのだ。

それでもヨミがジウォンの仕事について蒼龍国に接触する理由は、ひとえに情報収集の為である。

商人達は様々な情報を持っている。市ではそれが、商品と共に取引の場で流れて行くのだ。

それに気付いたヨミは初めてジウォンと市に来て以来、しばしば手伝いという名目でこうしてともにやってきている。勿論身分は隠した上でだ。

お陰でこれまでヨミは、ナランの中だけでは手に入らない様々な情報を得る事ができた。

両親を殺した将軍が皇帝として即位する事を知ったのも、蒼龍国の民衆からはその無表情さから「氷帝」と呼ばれている事を知ったのも、すべて市での事である。

だからジウォンには、それなりに感謝しているのだ。

利用できるものは利用する。たとえそれが幼なじみであっても。

それを苦痛に思う心はあの日にすべて捨て去った。今のヨミは、目的を成し遂げる為に生きている。

「あぁ、もうすぐつくね」

ヨミの思考を露も知らないジウォンは、草原の向こうにいくつもの天幕を見つけて指さした。

ナランと蒼龍国の境、両者の争いの発端となった地が、市の開催場所である。

「蒼龍の人達はもう結構集まってるみたいだ」

白く小さな天幕が横一列に並んでおり、それぞれの入り口の前には様々な商品が並べられている。

ほとんどが蒼龍国の天幕のようで、野菜や米を初め、ヨミの知らない農作物が売られていた。

「この辺りで、準備をするから。ヨミも手伝ってくれる?」

「うん。わかった」

列の一番端に馬をつけたジウォンは、地上に降りて天幕の準備をし始めた。ヨミも続いて馬を下り、敷物を出して荷台の中の織物やら干し肉やらを並べていく。

そしてあらかた準備が終わる頃、一人のがたいのいい中年の男がジウォンの元に近づいてきた。

「よう。今日はお前も来たのか」

「ああ。お久しぶりです」

ジウォンと親しげに話す麻の衣を着た男の顔は、ヨミも良く知っている。

毎回取引で米や野菜を引き換えに羊を買っていく、蒼龍国の話し好きな商人だ。今日も一抱え以上する大きな袋を、後ろに二つほど携えてきている。

「今日も羊ですか?」

ジウォンが訪ねると、男は頷きながら携えた袋を親指で指した。

「分かってるじゃねぇか。毛も肉も、一番良い奴を頼むよ」

ジウォンは男も持ってきた袋の中身を確認し「ありがとうございます」と笑顔を向ける。仕事用でない、普段の笑顔を向けているところを見るに、どうやら良い品物だったらしい。

そして横にずらりと並べた羊のうち、手前の手綱をとって男の方に手渡した。

「今期一番だと思います。今後ともごひいきに」

「おうよ、ありがと。……それにしても、お前、また奥さん連れてきてんのか?」

「へ!?」

にやにやと笑う男に、ジウォンが頓狂な声を上げた。

ヨミは二人を横目で見つつ、会話にそっと聞き耳を立てる。男がジウォンをからかい始めるのが、雑談開始の合図だった。

「違いますって! いつも言ってるじゃないですか! ヨミはそんなんじゃなくて、ただ手伝いに来てるだけなんですってば!!」

「隠さなくても良いんだって。な、嬢ちゃん?」

こちらに話が飛んでくるのもいつも通り。ヨミは無言でにこりと笑みを返し、一旦その場をやり過ごす。

「ヨミ~! 君もなんとか言ってよ~」

顔を真っ赤にしながら男にからかわれ続けるジウォンを無視して、敷物の上の品物を整頓する振りをしつつ、ヨミは男へ声をかける。

「そんなことより、最近どうですか? そちらでは、何か面白いこととかありません?」

努めて丁寧に、淑やかに、無害そうに。

それが蒼龍国の商人からうまく情報を引き出すコツである。ジウォンからは毎度人が違うと言われるが、そんなのは知ったことではない。

そしてヨミの企み通り、男は「面白いことなぁ」と顎に手を当て考え始めた。

「そういえば、この一年間一切後宮に興味のなかった陛下が、ついに皇后を選んだとかを噂で聞いたぜ」

「えっ、そうなのですか?」

驚いた振りをして、内心ほくそ笑むヨミ。休戦中とはいえ、毎回敵である自分たちにぺらぺらと情報を漏らす蒼龍国の商人達は、考えが甘いのか何なのか。

「ああ。誰とは聞いてないが、どうやら外で見つけてきた女らしい。即位前から無口無表情無関心だった氷帝に思い人なんていたのかとちょっとした話題になってるぜ」

ヨミは「なるほど」と相づちを打ちながら、頭の中に彼の顔を思い浮かべる。

一年前、あの将軍が皇帝として即位した時、ヨミもナランの代表としてトキと共に即位式典に赴いていた。

身体は成長してこそいたものの、あの無慈悲な目や無表情な顔は十年前の記憶と相違なく、女性に惚れ込む姿など微塵も想像できなかった。

むしろ寄ってくる女性は全員剣で斬り捨てるような人間だと思っていたのに、男の情報はヨミの意表を突くものである。

「どんな女の人なんでしょうね? 噂を聞く限り、私なら絶対無理なのに」

「ははは。氷帝は、政治手腕はそれなりなんだが、対人関係は最悪と聞くからな。まあ、本当に皇后を選んだのなら、そのうち式典でもやるだろ。多分嬢ちゃん達のとこの首長も来賓として呼ばれるんじゃないか? 即位式典の時みたいにな」

「あははははは。そうですね~」

その首長の妹を相手に話しているとはつゆ知らず、男は話すだけ話して去って行った。

「ヨミ……。君はほんとに……」

からかわれすぎたからか、げっそりとした顔でジウォンはこちらを横目に睨んでくる。それを笑ってごまかしながら、ヨミは男の言葉を思い返した。

あの皇帝が皇后を、か。もしかするとついに好機が来たのかもしれない。

例えば式典中――全く想像できないが――結婚で緩みきった(かたき)の胸を、自分の剣で一突きするとか。

いずれにせよ、正式に声が掛かるのはまだ先だろうから、計画を練る時間は十分ある。

復讐のことを思いながら、ヨミは洛陽の地の遙か南、蒼龍国の方向を睨むのだった。
太陽が頭の上を通り過ぎる頃、早々に品物を売り終わったヨミとジウォンは物々交換で得た品物とともに、ヨミの家へと戻っていた。

「相変わらずよく売れるよね、ジウォンの品物」

ヨミは取引の様子を思い出しながら、馬上で昼食代わりの干し肉をかじる。

常連の男が帰った後、ジウォンのところには何人もの蒼龍国の商人が列を作り、馬や羊を買っていったのだ。飛ぶように売れるとは、まさにあれを言うのだろう。

ヨミの言葉を聞いたジウォンは、干し肉をかじりながら得意げな顔をした。

「まあね。羊は蒼龍国ではほとんど飼われていないみたいだし。馬は飼われてはいるけど、ナランの馬は格段に質が良いからね。一日で千里の道を走るなんて言われてるみたいだよ。今は宮廷の兵士たちも使ってるらしくて……ほら、丁度あんな風に……」

ジウォンは前方を指さして、「ん?」と首を傾げる。見れば確かに彼が指した先の方から、二人の人間が馬に乗ってやってくる。

隣国では直裾袍と呼ばれる上衣の下に、ゆったりとした脚衣を穿いた二人は、確かに蒼龍国の人間だった。柔らかそうな生地は恐らく絹で、それなりに身分の高い者である事を示している。

彼らはヨミとジウォンに見向きもせずに、二人の横を通り過ぎて行く。その背中を見ながら、ヨミはぼそりと呟いた。

「何で蒼龍の奴らがこんなところにいるんだろ?」

「さあ? というか彼らが来た方向って、今君が住んでる辺りじゃない?」

「……!!」

ヨミは大きく目をみはる。確かに、その先の方角にある家は、自分の家だけだった。

もしかして、蒼龍国の皇帝がまた卑劣な手を使ってナランの首長を殺めようとしているのか。

そんな想像が咄嗟に頭の中に浮かんできて、ヨミは馬の手綱を思い切り引いた。馬は前足をあげて高く啼き、そして全力で駆け始める。

「あ、ちょっと! ヨミ!」

「ジウォン! ごめん、あたし先に帰る!」

あっという間に遥か後ろになってしまったジウォンへ大声で謝りつつ、ヨミは兄の無事を祈りながら家へと急ぐ。

徐々に近づく自分の家。放った羊も家の様子も一見何の変わりもないが、しかしまだ油断はできない。

ヨミは家の横で馬を止めると、すぐさまその背から飛び降りて、家の中へと飛び込んだ。

「トキ兄!! 無事!?」

肩で息をしながらものすごい形相で帰ってきたヨミに、トキは部屋の椅子に座ったまま目を丸くした。

「どうしたんだ? そんな血相変えて」

首を傾げるトキに、ヨミは一気に脱力する。大きなため息をついて彼の前まで歩いて行くと、どさりと空いた椅子に座り込んだ。

「だって……さっき、蒼龍の人間が……」

「言ったろ。客が来るって」

「客……」

記憶を辿れば、確かに朝にそんな話をしていたような気もしないこともない。

「それならちゃんと蒼龍国の人間だって言ってくれれば良いじゃん……」

「だって言ったらお前絶対邪魔するか盗み聞きするだろ? 復讐のためだ、とかって言って」

「し……しないもん」

「嘘言うな。前科がある」

わざとらしく明後日の方向を見つめるヨミに、トキは軽くため息をつきつつ「もっとも」と言葉を続けた。

「今日に関してはお前もいた方が、話が早くて済んだかもしれない」

「へ? どういうこと?」

頓狂な声を上げるヨミに、トキは真面目な顔を向ける。しばしの沈黙の後、兄は静かに口を開いた。

「蒼龍国の皇帝が、お前を皇后にしたいらしい」

「はぁ??」

混乱。そして思考停止。開いた口が塞がらない。

「待って? 今ちょっと急いで帰ってきて疲れてるみたいで……。もう一回わかりやすく言ってくれない?」

「だから、蒼龍国の皇帝、(りゅう)雹藍(ひょうらん)が、ナランの首長の妹、ヨミ・ウルを皇后にしたいと言ってきた。さっきの客は、そういうことだ」

「は……」

どうやらヨミの耳が狂ってしまった訳ではなかったらしい。冗談でも、聞き間違いでもなく、自分が蒼龍国の后に望まれているのは確実なようだ。

「ちょ、ちょっとまって。なんであたしな訳?」

「しらん。来たのは本人じゃないからな」

ヨミの心の中で、様々な感情がぐるぐると渦巻く。

商人達から皇帝が皇后を選んだ事は聞いていたが、まさか自分だとは思うはずもない。今もかつても一切話したことはない上に、あの皇帝はヨミの事など認識してもいないはず。なのにヨミを皇后に望むとは、あの冷酷な皇帝はついに思考まで氷漬けになっておかしくなってしまったのかもしれない。

「とにかく、蒼龍国は皇后にお前を望んでいる。その見返りとして、ナランと蒼龍国の間で和平協定を結ぶと言ってきたんだ。……で、どうする」

「絶っ対に、嫌だ!!」

「即答か」

「当たり前でしょ!? トキ兄は忘れたの!? 父さんと母さんを殺したのはあの皇帝だよ!? あたしはあいつを殺すために生きてきたんだ!! それなのに、結婚なんて論外だよ!!」

「俺だってそれを忘れた訳じゃない。即位式であの皇帝を見たとき、何回頭の中であいつを殺したことか。本当ならお前をあいつの元になんてやりたくない。でもな……」

トキは「これは好機なんだ」といいながら、にやりと右の口角を上げる。

「どういうこと?」

「考えても見ろ。皇后になれば、奴の懐に潜り込めるという事だ。寝食を共にすれば、たった二人になる機会もあるだろう」

「……! つまり……」

警戒されずに、敵の側にいることができる。そうなれば、ヨミの悲願を遂げる事も難しくない。

「そうだ。そしてお前が奴を殺した後、混乱に乗じて俺が蒼龍国を攻める。そうすれば土地を奪い返せるどころか、蒼龍国を奪い取れるぞ。どうだ? 悪い話じゃないだろう?」

「……そうだね」

ヨミは腰に携えた短剣を握り絞める。

その時、家の扉が勢いよく開かれた。

「ヨミ!? トキさん、大丈夫だった!?」

「トキさん、無事ですか!?」

飛び込んできたのはジウォンとナパルだった。

開け放たれた扉の向こうには、作物が乗った荷台をつけられたままの馬が見える。どうやらジウォンはヨミと別れた後、家に帰らずそのままここに来たらしい。ナパルは来る途中で彼に会い、話を聞いたのだろう。

「ん? 俺はなんともないが……」

「あれ? だってヨミが……」

困惑した顔で見つめてくるジウォンに、ヨミは頬を掻きながら曖昧に笑う。

「えーっと。早とちりみたいだったんだ。あいつら、客だったみたいで」

「そうだったんだ。無事でよかった……」

安堵の息をつくジウォン。しかし彼の肩に止まったナパルは首をこてんと横に傾げた。

「けれど蒼龍国から使いが来るなんて久しぶりですね。今度はなにがあったのですか?」

ナパルの問いにトキとヨミは顔を見合わせる。沈黙ののち、トキは何故かちらりとジウォンを見て、「まあどうせ明らかになるからな」口を開いた。

「ヨミへの縁談だったんだよ。蒼龍国の皇帝からのな」

「ええっ!! もしかしてさっきの話、ヨミのことだったの!? 嘘だよね!?」

「まさか!! 蒼龍国の皇帝が、ヨミさんに!?」

ジウォンは悲鳴のような声を上げ、ナパルは衝撃のあまり彼の肩の上で本来の大きさに戻ってしまった。

「あはは……。まあそう思うよね」

二人の反応に同感しつつ、ヨミは困惑した笑みを浮かべる。

「それで、ヨミ! どうするの!? やっぱり断るんだよね!? さっきも、私なら嫌だって言ってたし! ねぇ!!」

ジウォンは必死な形相で問いかけてくる。そんな彼に、ヨミは頬をぽりぽり掻きながら答えた。

「んーと……。受ける事にしたんだ」

「え!? な、なんで!! 君、蒼龍国の皇帝の事、好きだったの!?」

「いや、好きじゃないけど……。あたしが皇后になれば、ナランと蒼龍国の間で和平協定が結ばれるらしくて……。トキ兄と話して、ナランの為にはその方が良いって思ったから……」

まさか皇帝を暗殺する計画を立てているなど言えるはずもなく、ヨミは適当にごまかした。

「そ、そんなぁ……」

ジウォンは生気が抜けたような顔をしながら目の前で床に崩れ落ちる。

比較的かの国に友好的な彼であっても、やはり幼なじみが蒼龍国に嫁入りすることはジウォンにとっても許しがたいのだろうか。

ヨミがそんな事を考えていると、ナパルが翼でジウォンの背中を撫でながら、こちらを心配そうに見つめてきた。

「本当に大丈夫ですか? ヨミさん」

「大丈夫だよ」

ヨミはナパルに意思を込めた言葉で答える。

「あたしは、蒼龍国の皇后になる」

告げるヨミの唇には、不敵な笑みが浮かんでいた。


「ほんとに……行っちゃうんだね」

トキの元に蒼龍国の者が来てから約半月。

ヨミは目尻を真っ赤に腫らしたジウォンをはじめ、大勢のナランの民と精霊たちに囲まれていた。

(まと)う服はいつものナランの服ではなく、蒼龍国から贈られてきた絹製の上等な衣だ。桃色のゆったりとした袖の上衣に裳をはいて、鮮やかな腰帯を巻き、脇に呼龍笛をさしている。その姿は完璧に、蒼龍国の高貴な姫だった。

そしてヨミの後ろには、蒼龍国の兵士二人が馬を携えて立っていた。

「うん。あたし、決めたんだ。ナランの民の為に、私ができる事をする」

にっこりと皆に向かって笑うヨミ。

皇后になる決心をした本当の理由は、他のナランの人間には話していない。故にヨミの笑顔の真意をうかがい知ることもないままに、民達は皆はただ感動して更なる涙を流している。

「別れの挨拶は終わったか?」

声の方に目を遣ると、ナパルと何やら話しこんでいたトキが歩いてきていた。

「待たせたな。そろそろ行くぞ」

「うん。……じゃあ、みんな、またね」

ヨミは皆に軽く礼をする。そしてトキに抱えられ、彼と同じ馬に乗った。

「この服、馬に乗りにくい……」

ヨミがぼやきながら馬の背にまたがろうとすると、トキに「こら」と叱咤された。

「蒼龍国の高貴な女性は足を開いて馬に跨がったりしないんだ……多分。足を閉じて横向きに大人しく座ってろ」

「ええ~。そんなの落ちちゃうじゃん、あたし。こんな慣れない服なんか着てるんだしさ」

「俺が支えてやる。それにお前、その話し方もなんとかしろ。一人称も『あたし』じゃなくて『私』だ。わかったか?」

トキに腹を支えられながら、ヨミは口を尖らせる。

「分かりましたよ、トキお兄様。これで満足でしょうか?」

「……言い方が気に食わんが、まあいいだろう。皇后になる以上、なんとしても皇帝に気に入って貰わなければならないのだ。……ナランの民の未来の為に」

先導する蒼龍国の二人の兵士が馬を進める。それと同時に、トキも馬の手綱を引いた。

後ろからナランの民達の声が聞こえたが、ヨミは決して振り返らなかった。

ナランの地、ヨミの居所から馬を走らせ続けること七日あまり。ヨミ達は蒼龍国の都、西城にある宮廷へと辿りついた。

蒼龍国の兵士に促されつつヨミとトキが通されたのは、蓮華殿という名の巨大な建物。百人ほどは入ろうかという広間の床には、赤くて細長い敷物がまっすぐ正面に向かって敷かれており、脇には兵士が左右に十人ずつ一列に並んで立っている。

そして敷物を辿った先には金細工の施された玉座があり、そこから一人の人物が頭を下げたヨミとトキをじっと見つめていた。

「して、お前がナランの民の前首長の娘、ヨミ殿か?」

「ええ。私がナランの民の前首長の娘であり、現首長の妹であるヨミ・ウルでございます」

「そうか……。まあよい。二人とも、面をあげよ」

「はい」

ヨミは静かに顔を上げ、正面に座る敵の顔を瞳に映す。

蒼龍国第七代皇帝・柳雹藍。

年齢は今年で確か二十七。日焼けなど知らないような白い肌に、艶やかな長い黒髪は頭の上で結い上げて金銀の髪飾りで装飾されている。黒い生地に赤い刺繍の入った宮廷服はどこか彼の印象にそぐわなかったが、迫力を増す小道具としては十分だった。そして、その何者をも映していないような暗く冷たい瞳は、まるで心を見透かすようにじっとこちらを見つめている。

ヨミは皇帝となった敵の威圧感に負けないように、そして黒い感情に気付かれないようにと気を保つのに精一杯だった。

「此度は、我が妹を後宮に迎えていただけるとのこと、ありがたき幸せにございます。数百年に渡る我がナランの一族と蒼龍国との争いも、これで収束を迎えましょう」

隣のトキが、聞いた事もないような恭しい言葉使いで頭を下げた。いつもは自分と同じくぶっきらぼうな兄だったが、さすが十年首長をやっているだけのことはある。

「……そうだな。そうなるとよいが」

皇帝は眉根一つ動かさず、横にいたヨミと同い年くらいの若い短髪の男――恐らくは側近なのだろう――に声をかける。彼はトキの前にやってきて、巻物を一つ差し出した。

「ヨミ殿の後宮入りに合わせ、約束した和平協定案だ。詳細は後日使者をナランに向かわせる。交渉や内容の掘り下げはそこでもらいたい。一月後、私とヨミ殿の婚姻の式典に合わせて正式に協定を結ぶつもりだ」

「承知致しました。ありがとうございます」

トキは巻物を受け取りつつ、礼を言った。男が横に戻ると、皇帝は再び口を開く。

「いずれにせよ、トキ殿、そしてヨミ殿。我が申し出を受け入れてくれて大いに感謝している。今後は、ナランの首長としてだけではなく、家族としても親交を深めていければよいと思う」

話の内容はある意味告白よりも大胆な事だというのに、全く表情が崩れない。結婚相手の家族に挨拶する時は、普通の男性ならば、顔が赤くなるとか緊張するとか、そういう素振りが少しでも面に出るのではないのだろうか。

しかし何せ彼は無防備なヨミの両親をためらいもなく殺した男。きっと心も感情も、凍り付いて動かないのだ。

そんな相手と、今日から同じ敷地内に住む。いくら宮廷の敷地が広くても、四六時中一緒にいる訳ではなくても、胸に沸き立つ嫌悪感は捨てられない。   

けれどすべては復讐のためなのだ、とヨミは心から負の感情を振り払った。

トキとの計画では、婚姻式典までに雹藍を殺す事になっている。つまりは、最大で一月この生活に耐えればよい。

初めは愛想良く接し、油断させたところで刺殺か撲殺。罠を張って絞殺でも悪くない。

どうやって皇帝を殺すかヨミが考え始めたところで、皇帝が「では、謁見はこれくらいに」と声を上げた。

「ヨミ殿は、今から部屋に案内させる。……翡翠(ひすい)

「かしこまりました」

先程トキの元に巻物を持ってきた男が、恭しく頭を下げる。そしてヨミの元にやってきて、「こちらへ」と一言だけ口にした。

「トキ兄……」

ヨミは隣の兄に顔を向ける。毎日顔を合わせてきた彼にも、今後ヨミが為すべき事を為すまでは再び会うことができなくなるのだ。

「大丈夫だ」

不安げなヨミを安心させるかのように、トキは顔に笑みを浮かべる。

「お前なら大丈夫。きっと、上手くやれるさ」

「……うん」

彼の期待に応えるように、ヨミは強い意志を持って頷いた。そして早く来いとえも言いたげな顔の翡翠について、蓮華殿を後にし道をを行く。すれ違う者は皆一様にヨミの姿に目を向けていた。

「ねえ、みて。あれが陛下の……」

「みろよ、あの鋭い目。まるで獣だ。上手く化けているようだが、蛮族の気配は隠しきれて無いようだな」

好奇と軽蔑とが入り交じる視線、更には時折聞こえる陰口に、急速に頭に血が上っていく。

獣はそちらの方だろう。

心の中で呟いたとき、ふと気になる言葉が聞こえた。

「さすが氷帝、感情も凍り付いてるんだな。麗藍(れいらん)様があんな事になったのに」

はて、とヨミは首を傾げた。聞き覚えのある名前だが、しかしどこで聞いたか思い出せない。

「翡翠様、麗藍様とは誰でしょうか?」

周りに誰もいなくなった後、ヨミはこっそりと前を行く翡翠に声をかける。しかし彼は振り返りもせず、冷たい声で言い放った。

「あなたが気にする話ではありません」

そしてそのままの声色で「どうぞ」と、とある建物に通された。

「うわ……さすが……」

思わずヨミの口から素が漏れる。

部屋には天蓋に薄い絹の垂れ幕の付いた大きな寝台と、美しい紋様が彫られた机と椅子が置かれていた。棚や鏡台、小物はすべて、赤や金の装飾で彩られている。そして壁や天井にも、同じような配色で複雑な文様が施されていた。

放牧の民であるナランの天幕に似た簡素な家とはあまりにも違う室内の様子。視覚で得られる情報量が多すぎて、目が痛くなってくる。

「こちらの白虎宮がヨミ様の住まいになります。ナランからの荷物は明日届くそうなので、届いたらこちらまでお持ちします。また、部屋にある服や調度品は好きにお使いください」

「あ、ありがとうございます」

翡翠の声に我に返ったヨミは、慌てて彼に頭を下げる。彼はそんなヨミをじっと眺めた。

「いえ。仕事ですから。それから、後で雹藍様――陛下がこちらへいらっしゃる……予定ですので、そのつもりで。……ちっ」

突然の舌打ちが聞こえ、ヨミが眉根を寄せながら顔を上げる。すると目の前の翡翠が殺気のこもった瞳でヨミの身体を射貫いていた。

そういえば、先程から翡翠はやたらと冷たい態度だった。きっとこの男も、ヨミたちナランが蛮族だとか獣だとか思っている類いの人間なのだろう。

しかしここで怒りを顕わにしてしまえば、すべてが台無しになる可能性もある。こみ上げる怒りを必死に抑え、ヨミは唇に笑みを浮かべた。

「承知致しました。案内をありがとうございました」

そんなヨミを一瞥し、翡翠はもう一度舌打ちをして「では」と部屋を後にする。ぱたんと扉が閉じられた後、ようやくヨミは一気に肩の力を抜いた。

「なんなの、ほんとに……。でも、慣れない事をするのは疲れるな……。この服も堅苦しいし動きにくいし締め付けられるし……。この部屋も落ち着かないしなぁ。はぁ」

寝台の上にどさりと腰を下ろし、ヨミは大きなため息をつく。そのままん寝転がりたい衝動に駆られたが、着ている服が崩れるからと我慢した。

「とりあえず呼龍笛は外して、短剣は出しておこうかな。後であいつが来るって言ってたけど、どうせ夜なんだろうし。もう胸が苦しいもん……」

呟きながら、呼龍笛を腰から外して枕元に置き、懐の奥から慣れ親しんだ短剣を出す。服を着替える度、蒼龍国の兵士達に見つからないよう必死に内着や帯で隠したお陰で、なんとかここまで持ち込めたのだ。

短剣を寝台の布団の中に隠し、膝の上に頬杖をついてこれからどうしようかと考え始めた時、部屋の外から窓硝子《がらす》がこつこつと鳴る音が聞こえた。

風の悪戯だろうとそれを無視していると、再び同じ音が聞こえてきたので、ヨミは首を傾げつつ窓の側に近づく。

すると見覚えのある蒼い小鳥が、窓の(さん)に止まっていたのだ。

「な、ナパル!?」

ヨミが窓を開けると、彼女はぱたぱたと部屋の中に入ってきて、床の上に着地した。

「こんにちは、ヨミさん。来ちゃいました」

「来ちゃいました、って! こんな所までなにしにきたの!?」

「それは勿論お仕えするヨミさんに会いたくて……」

「でもナパルが仕えてるのは首長のトキ兄で……」

そこまで考えて、ヨミは出発前のことを思い出す。

「わかった。トキ兄になんか言われたんでしょ?」

「あ、ばれました?」

ナパルがこてんと首を横に傾げるので、ヨミは小さくため息をついた。そして彼女に合わせて床に屈み込む。

「出発前、やたらと話し込んでたしね。どうせ、トキ兄に、あたしが心配だから一緒についてやって欲しいとか言われてるんでしょ?」

「さすがはヨミさん。全く以てその通りです」

「……ってことは、あたしとトキ兄の計画も聞いたんだよね?」

「ええ」

ナパルはそう答えた後、少し俯きがちに言葉を続けた。

「本当に、やるんですか?」

「……やるよ」

ヨミは意思の籠もった声で告げる。

「この十年間、ずっと機会を待ち続けたんだ。例え死ぬ事になったとしても、復讐だけは絶対にやり遂げる」

「そうですか……」

ナパルは何か言いたそうな瞳をしていたが、鳥の表情からはそれ以上のことは(うかが)えなかった。

「ところで、ナパルはずっとあたしの側にいるつもりなの?」

話題を変えてヨミがナパルに尋ねる。

彼女は元の調子にもどって「ええ」と頷き、ヨミの肩に飛び乗った。

「トキさんから、ヨミさんの側でいろいろお手伝いするようにと言われていますので。身の回りのお世話から、例の皇帝の件に関してまで、いろいろと」

「それはありがたいけど……。例の件についてはともかく、身の回りの世話なんて、ナパルにできるの?」

目の前のナパルは精霊で、ヨミよりも遥かに長い時を生きている。しかし彼女はずっとナランの地にいたのだ。いくら博識だとしても、蒼龍国の都合が分かっているかどうかは怪しい。それにたとえ知っていたとしても、ナパルは鳥なのだ。元の大きさに戻っても、せいぜい服をヨミの肩に引っかける位が関の山だろう。

それをナパルに訪ねると、彼女は「大丈夫ですよ」と笑いながら翼をはためかせた。

「ここに来る前、ヨミさんがひたすら礼儀作法や服の着付けについて勉強させられてたのを見ていましたから、知識は完璧です。それに……」

ナパルはそこで言葉を切る。そして翼を広げて飛び上がると、くるりと宙で一回転した。

「えっ」

ヨミは驚いて目を瞬かせる。宙返りをしたナパルの姿が揺らいだかと思うと、次の瞬間目の前に自分と同じくらいの歳の少女が佇んでいたのだ。

「だ、誰?」

「もう。ヨミさん、ご冗談を。私ですよ、ナパルです」

「え、ナパルなの?」

肩に付かない位の短髪に、ヨミよりも少し装飾が控えめの青い服。ナパルの声で話す目の前の彼女は、どこからどう見ても人間だった。

「人間の姿を真似る位は簡単ですよ。ほら、髪の色とか、面影あるでしょう?」

ナパルは頭を指さしてにこりと笑う。

その髪は真っ黒のようで深い青が入り交じり、夜空のような色をしていた。人では出せないであろうその色だが、しかし鳥の姿のナパルの面影は全くない。

ヨミはしばらく難しい顔をしてナパルを眺めていたが、彼女は精霊だからと自分を納得させてナパルの姿を受け入れることにした。

「よし、それじゃこれからどう行動するか決めないとね。皇帝にはしばらく愛想良くするとしておいて……というかまず、ナパルのことはどうしよう」

「とりあえず、私はヨミさんの侍女ということにできないでしょうか。ナランから連れてきた者ということで」

「それが一番良いんだけど、皇帝に謁見したのはあたしとトキ兄だけだから、ナランから来たのは二人だけって事になってると思うんだよね。さっきの翡翠って奴にも、この部屋にはいったのはあたしだけってばれてるし」

「そこは、ヨミさんが適当に上手くごまかしてくれればいいんですよ」

「ええ、そんな簡単に言われても……」

ヨミが眉をひそめたその時、こんこん、と部屋の扉が叩かれた。

「ええっ。もう来たの!?」

「もうって、誰ですか?」

「あいつだよ、柳雹藍! 来るのは夜だと思ってたのに!!」

ヨミが慌てふためいていると、もう一度急かすように部屋の扉が叩かれる。

ヨミは唇を歪めながら立ち上がり、さっと服を整えてから極力落ち着いた声で「どうぞ」と返した。

「失礼いたします」

直後に部屋の扉が開き、翡翠が茶器やら菓子やらを携えて入ってくる。その後ろに続いて、皇帝が静かに歩んで来た。

近くで見ると、その威圧感が数倍にもなって感じられ、ごくりとヨミの喉が鳴る。

「先程申し上げました通り、陛下がヨミ様へ歓迎の挨拶にと。ささやかながら茶の用意をいたします」

翡翠はヨミに向かって恭しく頭を下げた。つい先程ヨミに舌打ちをしてこの部屋を出て行った人物と同じ者とは思えない。

翡翠は部屋にある二人がけの机で茶の準備をしつつ、「ところで」と言葉を続ける。

「そちらの女性はどなたですか? 先程はいらっしゃいませんでしたよね?」

早速来た。知らない人間が一人増えていれば、突っ込まれるのも当然である。

言い訳など何も考えていなかったが、ヨミはひとまず勢いのままに口を開いた。

「こちらは、ナランから連れてきた私の侍女なのです」

「侍女? ナランから来たのはあなたとトキ様の二人だったかと思いますが」

「それは……その。どうやら、ひっそりと私の後をつけてきたようなのです。この子……ナパルはこう見えて結構おてんばで……」

ヨミの言葉に合わせ、ナパルが隣でにこりと微笑む。しかし翡翠の訝しげな表情は戻らない。

「ここは宮廷。あまり得体の知れない者を入れる訳にはいかないのですよ」

やはり、駄目なのか。

ヨミが言葉に詰まった、その時だった。

「よい」

一言、氷のように透き通るような声がした。それまで微動だにせず事を見守っていた皇帝が、口を開いたのである。

「し、しかし……」

戸惑う翡翠に、皇帝は表情を崩さず口だけを動かす。

「その様子、ナパル殿がヨミ殿の知古であるのは確かだろう。ヨミ殿も知らない土地で心細かろうし、ナパルという女性をヨミ殿の侍女とする事を許す」

「……っ。かしこまりました」

「あ、ありがとうございます」

翡翠は苦々しげな表情をしつつも、皇帝に頭を下げる。そして同じく頭を下げるヨミと翡翠を睨みつけた後、再び茶の準備に戻っていった。

「……翡翠は茶の準備が整ったら一度退室してくれ。それからナパル殿もだ。ヨミ殿と二人で話がしたい」

「御意」

準備を続ける翡翠の後ろから皇帝に目を向けられる。彼の長い黒髪が、さらりと肩を滑り落ちていった。

視線を彼に絡め取られたまま、ヨミは軽く唇を噛む。

悔しいが、顔はこれ以上ない程に麗しい。

白磁の肌はきめ細やかで、黒曜の瞳は深い。夜に流れる川のような髪の毛は僅かな光でさえも反射して輝く。

近くで見れば更に際立つその姿は、まさに美しいといった言葉がぴったりはまる。

ナランには男性どころか女性でさえも、その美貌を凌ぐ者はいないだろう。

しかし、美しいものには毒があるのだ。

脳内に浮かぶ、あの惨状。彼の白い手が、炎の中で両親の首を掴んでいた。

煮えたぎるような怒りを隠しつつ、ヨミは皇帝の視線を受け止める。その激しい感情に、彼が気付いたかは定かではない。

「準備が、できました」

翡翠が茶の用意を整えて片方の椅子を引き、「どうぞ」と皇帝に声をかける。それを真似したのか、ナパルも皇帝の真正面の椅子を引いてヨミに座るよう促した。

「では、私は一度下がります」

「私も、ですね。また後で、ヨミさん」

翡翠とナパルは二人並んで部屋の外へと出て行った。ぱたりと扉が閉じられて、二人きりの時間が訪れる。――即ち、沈黙である。

ヨミは困惑しながら必死になって笑顔を保つ。なにせ目の前の皇帝は、口も開かず茶も飲まないまま、じっとヨミを見つめているだけなのだ。

歓迎の挨拶と翡翠が言ってたから、なにか言いたいことでもあったのかと思ったのに、これはどういう反応なのだろう。

戸惑いながら、ヨミは彼と向かい合う。

そしてそのまま数分が経過。

額に汗が滲むのを感じたが、しかしいまだに皇帝が話始める気配もない。

殺すには絶好の機会だったが、あいにくヨミの短剣は布団の下に入れたままだ。離れた寝台まで取りに立てば、雹藍の胸に突き立てるまでに外に逃げられてしまうだろう。

しかしもう、限界だった。

皇帝より先に話すのは不敬に当たる。そんなことを兄が言っていた気がするが、これ以上の沈黙は耐えられそうにもない。

「あの、陛下? なにか私にお話でもあったのですか?」

堅い笑顔を浮かべつつ、ヨミは皇帝に尋ねる。怒られる事を覚悟で口を開いたが、しかし彼はそんな素振りも見せなかった。その代わり、相変わらずの顔で一言こう言った。

「……雹藍だ」

「はい?」

「呼び名だ。雹藍と、呼んで欲しい」

「雹藍、様?」

「敬称は、いらない」

「では、雹藍?」

ヨミがそう呼ぶと、雹藍はふいと自分の茶に目を落とし、なめらかな手つきでそれを口に運ぶ。どうやら満足したらしい。

確か蒼龍国では皇帝を名で呼ぶことは禁じられていたはずだが、良いのであろうか。しかし思えば翡翠も雹藍様と呼んでいたような気もするし、この皇帝はその辺りの規則に関しては寛容なのかもしれない。それにしても、雹で作られた藍とは。まさに民衆から氷帝と呼ばれる者にふさわしい名前だと改めて思う。

ヨミも皇帝――雹藍に続き、目の前に置かれた茶を口に運んだ。慣れない異国の飲み物は、ほとんど白湯と変わらない程に薄かった。

そして再び訪れた沈黙。

雹藍は茶をちびちびと飲みながら、相変わらず何も話し出す気配がない。

せっかく話を切り出したのに、どうやらこの皇帝は話を続ける努力というものを知らないようだ。

「あの、雹藍。お話がないなら、私から聞きたい事があるのですが、よいでしょうか?」

「なんだ」

相手から話題が出てこないなら、こちらから話題を作るしかない。

かといって互いに会話を楽しめるような共通の話もないので、ヨミは今回の件で一番気になっていることを聞くことにした。

「どうして私を皇后に選んだのですか? 私、あなたと会って話したりするのは、これが初めてだと思っているのですが」

「それは……」

雹藍の長い睫毛が僅かに伏せる。それから目を横に泳がせて、一言だけ声を発した。

「瞳、だ」

「は、はい?」

「瞳が、気に入った。……それだけだ」

再び黙って茶を飲み始めた雹藍に、ヨミは心の中で「はぁ!?」と叫び声を上げる。

瞳ということは、つまり顔が気に入ったということだろうか。

確かに即位式に出席したとき、顔くらいは見られててもおかしくはない。けれどそれだけで皇后に選ぶという考えは、ヨミには理解できなかった。

ナランの民が結婚するときは、勿論顔だけで決めたりはしないのだ。厳しい自然の中で生きていく為には、互いに信頼しあい、支え合っていける関係ではなければ、共に暮らして行くなどできないのだから。だが蒼龍国における結婚は、顔だけで相手を選んでしまえる程に軽々しいものなのか。

文化の違いがあると分かっていたつもりではあったが、到着早々大きな衝撃を受けてしまった。

ヨミは茶を飲み続ける雹藍をまじまじと見る。その顔からは僅かに浮かんでいた動揺も消え、元の無表情に戻っていた。

この生活も、この皇帝を暗殺するまで。

けれど、それまで自分はいろいろと耐えられるのだろうか。

心の中でため息をつきながら、ヨミはもう一度、味の薄い茶を飲んだ。
「ナパル、と言いましたか。……あなた、人間ではないでしょう?」

ヨミの部屋を追い出され、部屋の扉の前で再び呼ばれるまで待機していたナパルは、不意に隣に並び立つ翡翠に声をかけられた。

「……どうして、そう思うのです?」

突然の問いかけに困惑し、ごまかすように微笑むナパル。翡翠はそれに見向きもせず、「気配です」と答える。

「わかるんですよ。私には。人ならざるもの、ナランの蛮族と共に暮らす精霊たちと同じ気配がします」

「……」

黙り込むナパルを横目で睨み、翡翠は小さく舌打ちした。

「何が目的か知りませんが、雹藍様や宮廷の他の者に手出しをする事は許しませんよ」

「私は……」

誰も、傷つけたくない。

本当はそう願っているのに、先の言葉が口に出せなかった。

ヨミがナランを立つ直前、ナパルはトキから二人の計画を聞かされ、言われたのだ。

「ヨミの暗殺を手伝え。ヨミが失敗しそうになった時はお前がやれ」と。

ヨミが蒼龍国の皇帝を殺したいほど憎んでいるのは知っていた。ヨミが剣の鍛錬をしていたのもいつか彼を殺す為だという事も知っていた。

けれどナパルはヨミの行動に、心から賛成していた訳ではない。

もしも皇帝を殺すことができたとして、その先彼女が、そしてナランの地が、どうなるかは明白だったから。

何百年と生きる中、何度も何度も大切な人が刃に貫かれ、戦火に呑まれて死んでいった。

もうこれ以上、なにも失いたくはなかったのに、自分につけられた見えない枷が思いのままに進む事を許さない。

「私は誰も傷つかなければいいと願っています。ヨミさんが、大切なので」

首元に手をあてがい、俯きながら己の願望をナパルは呟く。ささやきほどの小さな声だったが、しかし翡翠の耳には届いていた。

彼はナパルを横目で睨み、吐き捨てるように言った。

「そんな台詞でごまかせると? 私は知っているのですよ。あなたたちの凶暴性を。人など小蝿程度にしか思っていない癖に」

その言葉に思わずナパルは顔を上げて翡翠を睨み、大声を上げた。

「そんな事はありません! 私はすべての命が大切だと……!」

そこで、言葉を切る。瞳を、大きく見開いた。

ナパルを睨む彼の瞳には、炎が湛えられていた。怒りと憎悪で染め上げられた、黒い炎。それはヨミの瞳と同じ色をしていた。

「翡翠さん……もしかして、あなたも十年前に……」

「両親が、あなたたち精霊に殺されました。死体も残らないほど、ばらばらに切り刻まれて。蒼龍国には、そのような境遇の人間はたくさんいますよ」

そう言って翡翠はナパルからそっと目を逸らす。その横顔は、どこか痛々しいものに思えた。

沈黙が流れた。

ナパルは翡翠から目をそらして俯いた。

ヨミ、トキ、翡翠――そして恐らくあの皇帝も。

ナランと蒼龍国の因縁に囚われ、胸に葛藤を抱きながら、それぞれの思いを遂げようと行動している。

きっとこの一月で、誰かが傷ついてしまうのだろう。

けれど、自分はそれを止めることはできない。

未来を想像したナパルは、首元を撫ぜながら瞳を閉じた。

その時部屋の扉が開き、中から雹藍が静かに外へと歩み出てきた。

翡翠とナパルは慌てて彼に頭を下げる。

「翡翠、片付けを頼む」

「はい。承知しました」

「先に、戻っておく」

そう言い残して、雹藍は靴音もなく静かに廊下を歩いていった。

翡翠はすぐに部屋へ入って片付けを始め、入れ替わりで難しい顔をしたヨミがナパルの隣にやってきた。

「お話、どうでしたか?」

「話、したのかな……」

部屋の中にいる翡翠を気にして、ヨミは小さな声で話す。

「ほんっとに何にもしゃべらなかったよ、あいつ。側近の翡翠は挨拶しに来るって言ってたけど、それもなかった」

「そ、そうなんですか……」

口をへの字に曲げるヨミにナパルは苦笑いをする。

「でも、それなりの時間、二人だけでいたじゃないですか。全く何もしゃべらなかった訳ではないでしょう?」

「まあ、一応話はしてたけど……。でも、自分の名前とか、あたしを選んだ理由は顔だったとか、そんな話しかしてないよ。しかも、話を切り出したのは全部あたしだったし」

ヨミは先程の会話を思い返しつつ、大きなため息をつく。

雹藍がヨミを選んだ理由の話をしたあとも、結局話が弾むことはなく、茶と菓子がつきるまでほとんど無言で過ごしたのだった。

「無表情で何考えてんのかわかんないし、二人だけで一緒に過ごすのも疲れちゃうし。ほんと、あれじゃ氷帝って呼ばれても仕方ない……」

突如、ばん、と背後で勢いよく扉が開く。

驚いた二人が振り向くと、そこには翡翠が一人、片付け後の茶器も持たずに立っていた。その顔には、怒りの感情が滲み出ている。

「貴様ら……」

彼はヨミ達を睨みつけ、右手を突き出しながら叫んだ。

「これはどういうことだ!?」

その手に握られていたのは、寝台の中に隠していたヨミの短剣だった。

まずい。

額に汗を感じつつ、咄嗟にヨミは笑みを浮かべる。

「ひ、翡翠様、寝台を探ったのですか? いくら陛下の信頼を得ている方とはいえ、女性の寝台を探るのは……」

「そんな事は今関係ない。やはり貴様ら、何か企んでいるのだろう! 雹藍様を殺す気なのか!?」

「殺すだなんて、まさか。その剣は護身用ですよ。ナランの民は護身用にいつも剣を持ち歩いているので、その癖でつい……」

「黙れ!」

翡翠はヨミの襟元を左手で掴み、辺りに響き渡る程の大声で怒鳴る。たまたま通りがかった女官が一人飛び上がり、そそくさと逃げていった。

「貴様らのような人の皮を被った獣の戯れ言など誰が信用する!? 雹藍様に手を出す前に、今この手で私が貴様らを……!!」

翡翠の両手の力が強くなる。息苦しさを感じ、ヨミが腕を解く方法を考え始めたとき、後ろから冷たく鋭い声がした。

「翡翠」

見ると戻っていったはずの雹藍が、いつの間にか二人の横に立っていた。

翡翠はヨミの短剣を雹藍に見せて、彼に訴える。

「雹藍様! この者、短剣を隠し持っていました! 今すぐ牢に入れなければ……!!」

雹藍は差し出された短剣をしばし見つめたのち、静かな声で言った。

「ヨミ殿から手を離せ、翡翠」

「しかし……!!」

反論しようとする翡翠に、雹藍は冷たく鋭い視線を向ける。

「離せ。命令だ」

「はい……」

翡翠は大人しくヨミの襟元から手を離すと、一歩下がって俯いた。雹藍は彼と彼の持つ短剣を見比べた後、ヨミの方を振り向いた。

「何故、短剣を?」

「……護身用です」

まっすぐ雹藍の顔を見て告げる。

彼はヨミの表情を推し量るかのように見つめた後、静かに「そうか」と言った。

「翡翠、短剣をヨミ殿に返すのだ」

「……」

翡翠は憎々しげな瞳で睨みながら、短剣をヨミの胸へと押しつける。

ヨミがそれを受け取った後、雹藍は軽くヨミに頭を下げた。

「すまない、ヨミ殿。不快にさせたようだ」

「いえ……。ありがとうございます」

取り上げられるかと思っていたヨミは、驚きながらも頭を下げる。

雹藍は一瞬目を伏せた後くるりと三人に背を向けた。

「ヨミ殿とナパル殿は部屋に戻っているといい。茶の片付けは、誰か別の者に行かせよう。翡翠は共に来るように」

「はい、雹藍様……」

歯をかみしめながら俯く翡翠を置いて、雹藍はその場を再び去って行った。

「ヨミさん、私たちは戻りましょうか……」

ナパルに促され、ヨミは部屋の中へと戻る。程なくして侍女が二人部屋を訪れ、茶器と皿を片付けていった。

すべてが終わった後、寝衣に着替えたヨミは寝台の上にどさっと腰を落とした。

「どうしよう……。まさか短剣が見つかるなんて……」

「初日そうそう、ですね。けれどあの陛下の反応はどういう事なのでしょうか? ヨミさんの台詞でごまかせているとは思えませんし、普通なら翡翠さんの言っていた通り、今すぐ捕まって死刑、のような気もするのですが。まさか短剣まで返すなんて」

小鳥の姿に戻り膝の上で首を傾げるナパルに、ヨミはうなだれながら答えた。

「わかんない……。一旦安心させておいて、後から捕まえてどん底に突き落としてやろうって魂胆かも。処刑するには回り道だけど、相手はあの氷帝だし」

ヨミは寝台の上に仰向けに倒れ込む。天蓋の複雑な文様が、ぐるぐると回っているような気がした。

良くて死刑。悪くて死刑。どのみち死刑だ。

油断させて隙を狙う計画だったのに、これではすべてが台無しである。

皇帝を殺そうと決めた時から死ぬ覚悟はできていたが、まさかこんなに早くその状況に陥るとは。

しかしこうなった以上、死ぬ事ばかりを考えていても仕方がない。

奇跡的に、短剣はこの手の中に戻って来たのだ。

「処刑される前に殺すか、道連れにするか……。計画を変えなきゃいけないなぁ……」

目を閉じて呟くヨミ。その横で、ナパルが僅かに曇らせていた。

しかし翌日も、その翌日も、ヨミとナパルが咎められることはなく、更には短剣を持っていたという噂も一切広まっていなかったので、二人は面食らってしまったのである。
「こら! 寝ないでください!」

怒号と共に、ヨミの部屋にばしんと机を叩く音が響き渡る。

「うう、すみません……」

「もう一度説明しますからね! 三十七行目を見てください!」
 
重い瞼をなんとか開きながら、ヨミは目の前の巻物とその向こうで長々とした説明を続ける女官を見比べた。

ヨミが蒼龍国に来てから約半月が過ぎたが、初日の短剣事件については相変わらず罪に問われてはいなかった。

部屋の外に四六時中見張りの兵が二人付いており、部屋の外に出るときも彼らとともに出なければならなかったが、監視と言うより単に警護の為のようだった。

雹藍と翡翠は警戒しているのか初日以来全く顔を合わせていなかったが、半月もの間牢に放り込まれていない事実から、きっとあの件は不問になったのだろう。理由は良く分からないが。

命だけは繫がって一安心しているヨミだったが、煩わしいことは多くある。

例えば見張りのせいで皇帝暗殺計画をなかなか実行できないこと。例えば至る所から「蛮族が」と蔑む声が聞こえてくること。例えば後宮の他の后達が毎日嫌がらせをしてくること。そして蒼龍国についての勉強もそうだ。

皇后になるためには、この国の事を知らねばならない。

そう言われてヨミは礼儀作法から、琴や裁縫、昨日は宮廷内の人事や後宮のあれこれまでを学ばされた。

そして、何故後宮の他の后や女官達から目の敵にされているかをようやく理解できたのである。

曰く後宮には現在ヨミ以外に六人の后がいるのだが、彼女達にも優劣があり、皇帝の后である皇后が一番高い位となる。そして本来新たに入った后は一番下の位になる筈なのだが、雹藍は諸々の手続きをすっ飛ばして新参のヨミに最高位を与えようとしていたのだ。

どんな理由があるのかは知らないが、それはさすがに后達も怒って然りの状況である。

そして后達の嫌がらせを受けるヨミにとっても、迷惑なことこの上ない。彼女達の手によって、日々窓から部屋に投げ込まれる虫や蛇や蛙たちの片付けは、蒼龍国に来てからのヨミの日課になってしまった。

「はい、次はこっちの巻物ですからね!」

今は歴史の勉強中。教育係の女官は、尖った声で言いつつヨミに新たな巻物を差し出した。彼女のとげとげしい態度も、きっと嫌がらせの一環なのだろう。

「一行目からです。我が蒼龍国は建国以来……」

ヨミは女官の声を聞き流しつつ、巻物の上に綴られた文章を始めから一文ずつ読んでいく。

蒼龍国とナランの民の先祖は同じだったとか、蒼龍国が国としてできあがっていくに従って精霊たちが姿を消したとか、北の肥沃な土地は本来蒼龍国の土地であり戦いによってナランから奪い返したのだとか、大体そんなことが書いてあった。

そこまで読んで女官の説明に意識を戻すと、彼女はヨミが読んだ部分よりずっと先の事を話しており、ヨミは小さくため息をついた。

文字は嫌いだ。

ナランの民は、基本的に読み書きができない。語り継ぐべきものは口伝で足りていたし、遠い場所にいる人間とやりとりする時は精霊に言伝を頼むため、生活の中で字を必要としていないのだ。

それでもヨミが辛うじて蒼龍国の文字を読めるのは、首長の家系故、両親に無理矢理覚えさせられたからである。

幼い頃、嫌だ嫌だと叫びながら、長時間紙と向かい合わせになっていた記憶が蘇る。

あの頃は慣れない勉強が辛くて両親を恨んだが、今となってはもう永遠に取り戻せない時間なのだ。

じわりと目尻が熱くなる。正面で何かを延々話し続けている女官にばれないように、ヨミは必死に涙を堪えた。

「……はい。では今日はここまで」

ぱん、と女官が手を叩き、ヨミは思い出から現実に引き戻される。

慌てて椅子から立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げると、女官はヨミを一睨みして軽く会釈をしてヨミの部屋を出て行った。

ヨミは目の前の巻物をくるくると巻いていく。その横に、ことりと湯飲みが置かれた。

「お疲れ様です、ヨミさん」

「ありがとう、ナパル。……ほんと、勉強なんてつまんないよ。文字を読むのは疲れるし、歴史なんて全く興味ないし。そもそも蒼龍国の歴史だからか、やけに蒼龍国贔屓なんだよね。あの土地は元々あたしたちの土地なのにさ」

「ナランでは過去の歴史を詳細に記録したり、それを勉強したりすることはありませんしね。それに蒼龍国も元から文字を持っていた訳ではないでしょうし、建国時の歴史が正しく記されているとは限りません。どこかで本当の歴史から逸れていったのでしょうね。それはナランの口伝も同じですし、真実を知る人間は誰もいないのでしょう」

「でも、ナパルは何百年も前からナランの民と一緒にいるんでしょ? 本当の事知ってるんじゃないの?」

「ええ、勿論。ですからこの記録が間違っていることは分かりますよ」

「なら本当はどうだったのか教えてよ」

「ふふ、今は秘密です」

「ええー」

盛大にため息をついて机の上に突っ伏すヨミに、ナパルはくすりと笑った。

「いつか、機会があればお話しますよ。……今は、きっと言わない方がいいでしょうから」

ヨミは「ふぅん」と鼻を鳴らしながら彼女をしばし見つめた後、話題を変えるように明るい声を上げた。

「ところで、今日はもう予定はないんだっけ?」

「あ……、そうですね。歴史の勉強で終わりだったかと思います」

「なら、ちょっと今の状況を整理しておこうかな。最近忙しくて全然把握しきれてなかったし」

そういってヨミは勉強の為に使っていた紙を一枚取り出し、後宮の見取り図を書いていく。

北側には宮廷敷地内の最北端に位置する北門。

すぐ内側には紫玉園と呼ばれる庭園があり、その西側にヨミの住まう白虎宮がある。そして皇帝の住まう麒麟殿は白虎宮の東隣、北門から庭園を挟んで正面にある建物だ。

白虎宮と麒麟殿、紫玉園内の楼閣や廟、堂等はすべて渡り廊下で繫がれている。

「あたしの部屋の前には見張りが二人。窓の外には見張りはいないから、そこから庭に出ることはできる。でも麒麟殿には入り口だけじゃなくて窓にも見張りがついているから、入ることは難しい、だったっけ?」

「はい、そうです。夜でも見張りがいるので、夜中にこっそり侵入して……というのも難しいと思いますね」

「そっかぁ……。うーん。なかなか良い方法が見つからないなぁ……」

ヨミは筆の後ろで自分の頬をつつきながら唸る。

これまでナパルの手も借りながら後宮の内部を調べ、暗殺の計画を立てていた。しかしいくら考えてもうまく雹藍に接触する術がない。

彼が自分の元に来ない以上、こちらから彼に近づくしかないのだが、何度頭で想像しても見張りに見つかって復讐を遂げることができずに牢に放り込まれる結末にしかならないのだ。

「せめてこの部屋の側を通る時が分かれば、部屋から飛び出して捕まる前に心臓をひと突きなんてできるけど、毎日同じ時間に麒麟殿を出てる訳じゃないんでしょ?」

「ええ。かなり時間差がありますね。自室で職務を行うことも多いようですし」

「うーん……。どうしたものか……」

ヨミが腕を組んで唸ったその時、部屋の扉がこんこんと叩かれた。

「ん? 誰だろ。ナパル、出てくれる?」

「わかりました」

ナパルが扉を開くと、そこには十数日振りに見る顔が二つ並んでいた。

「へ、陛下。それに翡翠様も。お久しぶりです」

まさに噂をすればなんとやら。

ナパルは慌てた声を上げ、ヨミは机の上の見取り図を握りつぶして立ち上がり、二人同時に頭を下げた。

今まで放置しておいて、一体何をしに来たのだろう。

まさか今更、短剣を持っていた事を咎めるつもりなのだろうか。

ヨミの額から、つうと冷たい汗が伝う。

雹藍の気配が自分の元に近づく度に、心音が大きく鳴り響いた。

「頭を、あげるといい」

その声に従いそろりと顔を上げると、目の前には氷の如く冷たい表情をした雹藍と、心底不機嫌そうに眉間に皺を寄せている翡翠の顔が並んでいた。

内心焦りを感じながらも、ヨミは平静を保った振りを装う。

「半月振りですね、雹藍。お元気でしたか?」

しかし雹藍はそれには応えない。代わりに一言何の感情も見えない声でこう言った。

「今、時間はあるか」

「あ、ええ。先程今日の用事は終わりましたので、以降は特に何も……」

「では、これに着替えてほしい」

戸惑うヨミに、雹藍は翡翠から何かを受け取り、ヨミとナパルに差し出した。

「服、ですか?」

ヨミは首を傾げつつ、受け取った服を手で撫ぜる。それは麻で作られた衣で、今身につけている絹の衣と比べると格段に品質が劣るものだった。

「まさか、これを着て牢に入れってこと……」

「違います」

思わず漏れた心の声を、翡翠が即座に遮った。

「私としてはすぐにあなたたちを牢に叩き込んでやりたいのですが、雹藍様が先日の事は不問にするとおっしゃっているので」

舌打ち混じりに吐き捨てて、ヨミたちから目をそらす翡翠。

正式に彼の口から不問にするとの言葉が出て、ヨミは心の中で安堵する。雹藍の方に向き直り、深く頭を下げて感謝の言葉を口にした。

「ありがとうございます、雹藍」

しかし牢に入れと言うのでなければ、この服は一体何の為に渡したのだろう。

ヨミが頭に疑問符を浮かべていると、雹藍がおもむろに口を開く。

「それを着て誰にも見つからないよう北門の外まで来て欲しい。ナパル殿も一緒に」

「北門? しかも外ですか? 一体何をするのです?」

「職務だ」

それだけ言うと、雹藍と翡翠は部屋を後にした。

ヨミは口をへの字に曲げながら、二人の消えた扉を見つめる。

「相変わらず、わかんないな……」

呟きつつ、受け取った服を寝台に広げて確認する。

袖の広い上衣に、大きめの脚衣。その形はジウォンと通っていた市で蒼龍国の商人が着ていた服に似ていた。

そこで、ヨミはある事を思い出す。

蒼龍国では、男女で着る服の形態が全く異なるのだ。

「……これ、男物だよね」

ヨミは思い切り眉にしわを寄せる。隣のナパルも「そうですね」と言いながら苦笑いを浮かべていた。その手に持っている服は簡素な青色の裳だった。

「どういう意味? ナパルは女物なのに、なんであたしは男物の服なの? あたしが男っぽいってこと?」

「そ、それは違うと思いますが……。ここではヨミさんも女らしくしてらっしゃいますし……」

「そう言うといつもは女っぽくないって言ってるみたいだけど……。じゃあどういう意味なの、これは」

「分かりませんね……。とりあえず、言われたとおりにして見ましょう」

ナパルはいまだ不服そうな顔を浮かべているヨミに着替えるよう促した。

絹の衣を脱ぎ、渡された脚衣をはいて上衣を羽織り、腰帯を巻く。髪飾りを外して団子状に結んだ髪を一度解いて一つにまとめた。股の内側に布が当たる感覚が懐かしい。

「……まぁ、悪くはないか」

着替え終わって呟いたヨミは、寝台の下に隠した短剣を引っ張り出し、腰帯に差した。

それを見たナパルは、眉をひそめる。

「ヨミさん、この前揉めたのに、短剣持って行くんですか? しかもそんなに堂々と……」

「だってせっかくの好機なんだよ。何をやるのかは知らないけど、やっと皇帝に近づけるんだ。あの件は不問にしたのにこの半月間全然会いに来なかったんだから、ちょっと愛想良くしたところで会いに来るようになるとは思えないし、手っ取り早くグサッとやっちゃった方がいいでしょ? それにこの前の件も護身用って言って不問になってるんだから、堂々と持っててもおかしくはないと思うんだ。むしろ堂々としてたほうが怪しまれないかも」

自信ありといった感じで語るヨミを、ナパルは不安げな瞳で見つめる。

「そうでしょうか……? 陛下はともかく、翡翠様はごまかせない気が……」

「大丈夫。どうせ二人一緒に来るんだろうし、捕まりそうになる前に殺すから」

ヨミはそう言って頷いた後、言葉を続けた。

「で、ナパルは着替えないの?」

変わらず女官の衣装のままだったナパルは、ヨミの問いに「ああ」と声をあげて、一瞬で小鳥の姿に戻る。

「私は一旦精霊の姿で行く事にします。この方が見つかりにくいですから。外に出て、もう一度人間の姿を取った時に、渡された服を真似ることにします」

「そっか。まあその方が良いかもね。見つかりにくいし」

頷くヨミの肩にナパルが飛び乗る。僅かに掛かるこの重さも、久しぶりの感覚だ。

「じゃあ、行こっか」

「ええ」

二人は窓から外を確認しつつ、そろりとそこから忍び出る。そして手近にあった植え込みに素早く身を隠した。

後宮は、昼夜問わず部屋にいる者が多いので、人通りは多くない。更に紫玉園内は木々や茂みが多く、隠れる場所はいくらでもある。故に、北門付近まで進むのは容易だ。

問題は、北門をどうやってくぐり抜けるかである。

北門の目の前まで辿りついたヨミは、茂みに隠れたまま、門外で左右に立ち並ぶ衛兵を見て腕を組んだ。

「普通に出て行ったら間違いなくばれて、不審者が出てきたって捕まっちゃうよね。かといって、注意を逸らす方法も……」

ヨミがぶつぶつ呟いていると、ヨミの肩に止まっていたナパルが「ああ」と声を上げた。

「私があの人達の注意を逸らしましょう」

「え? どうやって?」

「まあまあ見ててください」

ナパルは楽しそうにそう言うと、小鳥の姿から子羊大の姿に変わる。そして石を一つくちばしにくわえて北門の向こうに飛んでいった。

ナパルの姿が見えなくなってすぐ、衛兵達が騒ぎ始めた。

「なんだ、あの鳥は! あんな美しい鳥、これまで見たこともないぞ!」

「ああ。捕まえて、陛下に献上するんだ!!」

兵士達は鳥の姿の彼女を捕まえようと北門から持ち場を離れる。

その隙を見て、ヨミは全力で北門の向こうへと走り抜けた。

「ふぅ、なんとか出れた……」

北門から塀沿いにしばらく走った後、ヨミは大きな息をつく。

ナパルがいたからできたものの、一人では絶対に不可能だった。初日の事は不問にするといっておきながら、実は恨みを抱えているのではなかろうか。

赤い塀にもたれかかり、心の中で悪態をつきながら休んでいると、その横に、小鳥の大きさに戻ったナパルが舞い戻る。

「お疲れ様です、ヨミさん」

その小さな身体を右手の人差し指に乗せ、ヨミは弱々しく微笑んだ。

「ありがと、ナパル。お陰で助かったよ」

「いえいえ。元のあの姿、蒼龍国の人の人目を引くのは知っていたので、もしかしたら使えるかと思いまして。うまくいって良かったです」

そうやって二人で話していると、門とは反対側の方向から足音が聞こえてきた。

「やはり、ですか……」

見るとそこにはヨミと同じような服を着て、腰に長剣を差し、苦々しげな表情をした翡翠が立っていた。その視線は、ヨミの腰の短剣に向けられている。

「先に来て正解でした。やはりあなたは信用ならない。さあ、その短剣をこちらに渡してください」

手を差し出す翡翠。

雹藍と翡翠、当然二人一緒に来ると思っていた。

だからもし短剣を奪われそうになってもその前に雹藍を殺してしまえば良いと思っていたのに、翡翠が先に来たのは予想外だった。

今短剣を取られては、せっかくの好機が消えてしまう。かといって目の前の翡翠を斬れば、皇帝の側近を殺した罪で、今度は即刻に死刑になるだろう。それに彼は剣を持っている。打ち合いになれば北門の兵に気付かれてこれまた雹藍を殺す前に捕まってしまいそうだ。

ヨミは守るように短剣へ手をあてがいながら、慎重に口をひらく。

「この剣は護身用なのですよ。どこに連れて行かれるかも分からない中、渡してしまえば何かあった時に身を守れない」

「護身用……雹藍様の話を聞いた後だと、それが本当かどうかも怪しいですがね」

そう吐き捨てた後、翡翠はあざ笑うかのように言葉を続けた。

「安心してください。あなたの身は雹藍様と一緒に私がこの剣で守りますので」

「……信用できません」

「私とてあなたのような蛮族、進んで守りたいとも思いませんよ。しかしこれは雹藍様の命令。主君が正しい道を進む限り、私にとってその命令は絶対です。違えば命を絶つ覚悟もできている」

「……」

「さあ、それを渡してください。護身用として、あなたが短剣を持つ理由はなくなったはずです。後で返してさしあげますから」

ヨミは奥歯を噛みしめながら長剣に手をあてがう翡翠を睨む。

ここで短剣を渡さなければ護身用とは別の目的で短剣を所持していると言っているようなもの。前回は雹藍も不問にしたものの、次はどうなるか分からない。これ以上想定外の状況に陥り、余計に雹藍に近づけなくなることは避けたかった。

「わかりました」

ヨミは腰帯から短剣を外して翡翠に渡す。彼はそれを受け取ると、懐に入れてもう一度ヨミを睨んだ。

二人が沈黙したまま睨み合っていると、もう一つの足音が聞こえてくる。

「翡翠、それにヨミ殿。遅くなって済まない」

「わっ。えっ、雹藍!?」

突然現れた雹藍に驚いたヨミは、その姿を見て二度飛び上がった。

彼の服はいつものきらびやかな衣ではなく、ヨミが着ているものと同じ麻の簡素な衣だった。長い髪には髪飾り一つ見当たらず、頭の横でゆるりと結ばれ、胸の前に垂らしている。

どこにでもいる庶民のような格好の雹藍に、ヨミはぽかんと口を開いた。

「どうされたのですか、その格好……」

「これからの職務の為だ。……ところで、ナパル殿はどこへ?」

「あ……」

ヨミは辺りを見回し塀の上にいる小鳥の姿のナパルを見つける。

どうしよう。精霊である事が明らかになれば、ナパルが追い出されてしまうかもしれない。

ヨミの額から冷たい汗が流れ落ちる。

しかしその心配をよそに、ナパルはぱたぱたと雹藍とヨミの間に舞い降りると、躊躇もせずに言葉を発した。

「こちらの姿では初めまして、ですね。陛下、翡翠様」

「し、ナパル!? ちょっと! それは駄目だって……いや、駄目ですって!」

ナパルは慌ててくちばしを掴もうとするヨミの手をひょいとよけると、「大丈夫ですよ」と笑う。

「だって、お二人とも、私が精霊って事を知ってらっしゃると思うのです」

「え!?」

ヨミが雹藍の顔を見上げると、彼はこくりと頷いた。

「翡翠から聞いた。元はそのような姿なのだな」

「本当はもう少し大きいのですが、普段は勝手が悪いのでこうして小鳥の姿になっているのですよ。けれど……」

ナパルは飛び上がり、ヨミの横で宙返りをする。たちまち鳥の姿は消え、代わりに夜闇のような暗い青の髪色をした少女が現れた。その身に纏っているのは、先程雹藍に手渡されていた青色の裳である。

「皆さんとご一緒するなら、この姿の方がいいでしょう?」

にこにこと笑うナパル。ヨミは小さくため息をつき、翡翠は目を丸くしている。雹藍はというと、相変わらずの無表情だ。

彼は三人をぐるりと見渡した後、小さく頷く。

「……皆、準備はできたようだな。では、行くぞ」

「どこへ、でしょう?」

ヨミが首を傾げると、雹藍はそれを横目に一言答えた。

「都だ」

「へぇ……こんなに人が……」

人の行き交う西城の都。宮廷の正門から南にまっすぐ伸びる大通りの両側には、商店や飲食店が建ち並び、大勢の人が行き交っている。

蒼龍国建国当初から発展を続けてきたこの場所は、都の中で随一の繁華街になっていた。

短剣を奪われ皇帝殺害のことが一旦頭の端に追いやられてしまったヨミは、西城の光景を見て素直に感心する。

並ぶ建物も、行き交う人々の服装も、すべてがナランの民とは全く違う蒼龍国の人々の暮らし。

自然から離れて生きる生活は、噂を聞いている限りはそんなに良い物ではないと思っていたが、実際にその中で暮らす人々の生き生きとした表情を見ると、敵国ながらこういう生き方があっても良いのかもしれないと思えてくる。

「ちょっとだけナランにいたころに見た市に似てるな。……あ、あっちは肉を焼いてる。この匂いは、鳥かな?」

雹藍がいる事も忘れ、ヨミは素に戻って大通りをあちこち見回す。すると隣から、ぽつりと声が落ちてきた。

「……やはり、そうしている方が君らしい」

雹藍の言葉に、はっとヨミは我に返る。そして彼に向かってわざとらしい笑みを見せた。

「な、な、何の事でしょう!? ふふふふ………」

すると雹藍の眉間に、微かにしわが寄せられた。それに気付いたヨミはどきりと心臓が跳ね上がる。

何か怒らせてしまったのだろうか。

短剣を奪われた今、この場で雹藍を殺すことはできない。だから今の自分にできることは、雹藍へできるだけ良い印象を与えてなんとか接触の機会を増やすことだ。なのに怒らせてしまっては意味がない。

ヨミは雹藍の機嫌を取ろうと、知恵を絞って言葉を探す。

その時ふと豪華な店構えの建物が目に入り、咄嗟にそこを指さした。

「あ、あの! 雹藍! あれ、あのお店に行ってみたいです!!」

雹藍はヨミの差した店を見て目を瞬かせた後、何故か視線を横にそらす。

「ヨミ殿。あの店は……、その……、娼館なのだが」

「え? 何ですか、それ?」

ヨミがこてんと首を傾げると、雹藍は再び瞬きをした。

そして直後に口角をあげ、くすりと笑ったのだ。

その表情に、ヨミ、そして少し離れて後ろを歩いていた翡翠とナパルは、三人同時に目を丸くする。

「君は、面白いな」

雪解けのような明るい雹藍の笑顔に、ヨミは心の中で「えええ!!!」と悲鳴に近い声を上げた。

氷帝とまで言われた無表情かつ無感動の雹藍がこんな風に微笑むなんて、誰が想像できただろうか。

「雹藍も……笑うのですね……」

ぽかんと開いた口からそんな失礼な言葉が溢れ出る。

それを聞いた雹藍は、動揺したのか顔を真っ赤に染め上げた。これまた彼の印象からは想像できなかった表情だ。

「僕は……笑っていたのか……?」

「ええ。自分でも気付かなかったのですか? ……というか『僕』って。確か初めて蓮華殿で顔を合わせた時は、『私』って言ってませんでしたっけ」

「あれは職務中だったから……。あ、いや、今も職務中なんだが、翡翠以外の臣下がいないときはそう話している……。変、か……?」

「変と言いますか……」

呟きながら、ヨミは目の前でまごついている雹藍をまじまじと見る。

もしやこの皇帝は、無感情なのではなく、単に感情を表に出すのが苦手なだけなのではなかろうか。口数が少ないのも、口下手故なのかもしれない。更に、素の一人称は「僕」ときた。

そう考えると。

「なんだか、かわいいですね」

「かっ……、かわいい……!?」

耳の先まで真っ赤に染める雹藍。そして告げた本人であるヨミも、口を押さえて俯いた。

どうしてこんな相手のことを、かわいいなどと思ってしまったのだろう。

ちらり、と目の前の雹藍の顔を一瞥する。

顔を赤らめてヨミから目をそらす彼は、間違いなく十年前に両親を殺した者を率いていた将軍だ。

冷たい瞳に残忍な行為。

冷酷な獣のようだと思っていたのに、こんな顔を見せられてしまったら調子が狂う。

乱れた心を戻そうと、ヨミは顔を上げて話題を変えた。

「それで……あの……。雹藍は何故都に来たのですか? それも庶民の格好をして」

その問いに、雹藍は「ああ」と再び歩を進めながら話し始めた。

「宮廷でも、臣下たちから都の様子は話に聞く。けれど、こもってばかりでは、実際の様子は分からないだろう? だから月に一度か二度、密かにこうして直接見に来るのだ」

「そうなのですね。では私とナパルを連れてきた理由は?」

「二人にも、見ておいて欲しいと思ったからだ。蒼龍国はナランとは随分と様子が違うからな。それにその……君は皇后になるのだから」

改めて彼の口から「皇后」という単語を聞き、ヨミは僅かに目を見張る。

「私が未来の皇后だという認識は、一応あったのですね」

「……それは、どういう意味だ」

眉をひそめ、下唇を僅かにあげる雹藍。表情の変化が乏しいだけで、よく見ればこの皇帝は意外にも感情豊かな事に気付く。

「いえ。いろいろ思う所はありましたので。今日着るようにと渡された服も男物でしたし」

ちょっとした皮肉のつもりだったが、雹藍には随分と効いたらしい。彼は眉尻を下に向け、ヨミの横で心なしか小さくなっている。

「その……気分を害していたなら、すまない。ナランの民は、女でも脚衣を穿くだろう。だからヨミ殿には男物の方が良いと思った。ナパル殿については人間ではないと分かっていた故、ナランの服は着たことがないのではと思い、裳を渡したのだ」

「そうだったのですか……」

呟きながら、今日は驚く事ばかりだと心の中でヨミは思う。冷酷な皇帝だと思っていた雹藍は、想像以上にいろいろな事を考えているらしい。

「では、半月一度も会いに来てくださらなかったのは? 短剣の件を不問にされたという事は私達を疑っていた訳ではないのでしょう?」

「それは……君、言っていただろう。一緒に過ごすと疲れる、と……」

「あ……。それは、申し訳ありませんでした」

思い出して、ヨミは唇の片側をぎこちなく上げる。

雹藍はどこかに行ってしまったかと思っていたから他にもいろいろ口走ってしまった気もするが、もしやそれもすべて聞いていたのか。

「……でも、あれは雹藍も悪いのですよ」

こみ上げる後悔と羞恥をなすりつけるように、ヨミは雹藍を見て口を尖らせる。

「挨拶に来ると聞いていたのに、何もお話にならないのですから」

「……何を言って良いのか、分からなかったのだ。話すのはあまり得意ではなく……」

「そうは言ってもです。話さなければ、互いのことなんて何も分からないし、伝わりません。あなたが会いに来てくれなかった理由も、私に男物の服を渡した理由も、今話してくれなければ私はあなたに馬鹿にされているのかと勘違いするところでしたよ」

事実、服に関しては馬鹿にされているのかと思ったが、それは言わないでおいた。

「……」

ヨミの訴えに、雹藍は黙ったまま悲しそうに目を伏せる。

そこにいたのは冷酷な皇帝でも、残忍な将軍でもない。ただの、ひどく叱られた一人の青年だった。

「ふふ……、あはははっ!」

彼の姿に、ヨミは我慢しきれず吹き出した。

「この国の頂点に立つ人なのに、どうしてそんな顔しているのですか」

「それは……、君が……」

「そんなことを思うのならば、あなたの言葉をちゃんと聞かせてください。今からでも遅くないですから」

ヨミは一歩前に出ると、雹藍の袖を引っ張って歩み始める。身体の均衡を崩した雹藍は、前のめりに躓《つまづ》いた。

「よ、ヨミ殿……!?」

ヨミは驚く彼を振り向き微笑む。

「ヨミ、と。そう呼んでください」

   ***

人混みの中、ナランの民と蒼龍国の頂点の二人が、互いの因縁を忘れて駆けていく。

それを後ろで見ていたナパルは、彼らの姿に微笑んだ。

もしかしたら、彼ならヨミを闇から救い出し、未来へと導くことができるかもしれない。

そんなことを思っていた時、隣から冷たく鋭い声がした。

「何故そんなに雹藍様を見ているのです。あなたも何か武器を持っているのですか」

目を向けると、翡翠が警戒心剥き出しの瞳でナパルを睨んでいた。腰の剣に手をかけて、今にもその柄を掴んで引き抜いてしまう勢いだ。

ナパルは彼の問いに首を振る。

「武器なんて持っていませんよ」

「……ああ、そうですね」

翡翠はナパルから視線を外して嘲笑した。

「精霊は人智を超えた力を持っているのですよね。武器など使わなくても人くらい簡単に殺せるというわけですか」

「……翡翠様、この際なので明かしておきますが、私の力は自らの血で他者の傷を癒やすことです。あとはこうして別の生き物の姿を真似るとか。素手で人を傷つけることなんてできませんよ。多少身体能力が高いかもしれませんが、それも豪腕な人間には劣りますし」

「それが真という証拠はないでしょう。あなたたちには初日の短剣の件がある。容易に信用する訳にはいきません」

「そうですか……。怪我人でもいれば治療するのですが、今はそういうわけにもいきませんし……」

静かな怒りと恨みを浮かべる翡翠の横で、ナパルはそっと目を伏せた。

真実を彼に言っても信用してもらえない。

先日の短剣の件と、彼が抱えている闇を考えれば、それくらいは明らかな事。しかしここまで復讐心を顕わにされるとなかなか堪えるものがある。

ナパルは前を行くヨミの背中に目を移す。

彼女は蒼龍国を恨んでいても、雹藍を殺すという目的の為に彼へ歩み寄ろうという姿勢を取っている。そしてその結果、雹藍とはうまく会話ができているようだ。

しかし翡翠にはそれがない。相手に近づこうとする意思の一つで、こんなにも結果が変わるものなのか。

「考えてみれば、あの頃にあって今はないものはそれなのかもしれませんね……」

ぽつりとそんな言葉が口から出る。心の中に浮かぶのは、数百年前、まだ蒼龍国が国として成立していない頃の国境付近の光景だった。

あの頃は良かった。

「国」という境目が曖昧だったあの頃は、遊牧民と農耕民、そして自分たち精霊が、あの場所で共に暮らしていた。互いの違いを理解し、それぞれの持つ力を他者に貸し与え、(いさか)いが起こった時は皆で対話して力に頼らず平穏に解決していたのだ。

一度争い合った間柄、以前と同じとまでは困難だと分かっている。しかし今のナランの民と蒼龍国の人間の中にも、少しでもあの頃のような相手を理解しようとする心があれば、今の両者の関係も少しは良い方向に進んでいたのかもしれない。

「何をぶつぶつ呟いているのですか」

隣の翡翠が眉根を寄せて訝しげに尋ねてくる。

そんな彼に、ナパルは首元を人差し指で掻きながら無意識のうちに呟いた。

「あなたも少しだけで良いので、私たち精霊の事を知ろうとしてくれれば良いのですが……」

「は?」

翡翠の上げた低い声で、ナパルは自らの思いを声に出していたことに気付く。そして首を横に振り、困ったように微笑んだ。

「いいえ、なんでもありませんよ」
蒼龍国には、ナランにない文化が多くある。

定住。農業。貨幣。

そして飲食店も、その中の一つだ。

都の中をぐるりと一周したヨミたちは、宮廷からほど近い飲食店の片隅にいた。二人がけの長椅子が両端に並んだ机の上には、様々な料理が大皿にのせられて並んでいる。

羊の肉を串に刺して焼いたもの。鶏肉と野菜を一緒に蒸して味付けしたもの。一抱えある大きな魚を香草と一緒に焼いたもの。それから果物の入った皿と、目の前には黒い液体が杯に入っておかれていた。

宮廷で出る料理に比べると随分質素なものだったが、登り立つ湯気と香ばしい香りに食欲がそそられる。

「雹藍様、すべて問題ありません」

毒味を終えた翡翠が囁くと、隣の雹藍は頷き食べ物を口に運び始めた。続いて、翡翠やナパルも食事を始める。

ヨミが綺麗な手つきで食事を進める雹藍を見つめていると、視線に気付いた彼がこちらに向かって首を傾げる。

「食べないのか? ここの店、都にくる度に来ているが、結構うまいぞ」

「あ、いえ、食べます」

まさか食べる姿に見とれていましたなどと言えるはずもなく、ヨミは慌てて目の前の杯を持って一気に飲む。そして盛大にむせた。

「な、なに、これ!? 果実の汁かと思ったのに!」

酸っぱいような、渋いような味が口いっぱいに広がって、ヨミは杯を睨みつける。その様子を見て、雹藍は愉快そうに口角を上げた。

「ナランの民は酒を飲まないのか?」

「これ、お酒なのですか? こんな酒、飲んだことない……。変な味がします……」

「ナランにもお酒はありますが、このような黒い液体ではないのですよ」

苦々しい顔をしているヨミの代わりにナパルが答える。彼女は涼しい顔で杯を持ち、少しだけ液体を口にした。

「ナランのお酒は、馬の乳を発酵させて作るのです。あれも酸味が強いですが、このお酒の味とはまた少し違いますね」

「ああ、もしかして馬乳酒ですか? 蒼龍国にもありますよ。万人受けする味ではないうえ、蒼龍国ではあまり大量に作れるものではないので、飲む人はあまりいませんが」

ナパルの言葉に、翡翠は肉を口に運ぶ手を止めて言った。それを聞いたヨミは、目を輝かせて雹藍を見る。

「そうなのですか? お酒……馬乳酒が蒼龍国でも手に入るのですか?」

「まあ……そうだが。……飲みたいのか?」

「勿論ですよ」

答えながらヨミは、羊肉の串を大皿から取ってかぶり付いた。鳥や牛より堅い肉質に、鼻の奥をくすぐる独特の臭み。故郷の味がヨミの喉に染み渡る。

蒼龍国の料理が不味いとは言わない。鳥も、魚も、米も、野菜も、きっと美味しいのだろう。自分がそれらの食材に馴染んでさえいれば。

休戦となって十年。商人たちの手により、ナランの民も野菜を時々口にするようになっていたが、それでもやはり主食は羊なのだ。

宮廷でも一度羊が出てきたが、基本的には雹藍の好みなのか魚中心。半月程度ではまだ口慣れしていない。

「たまには故郷の味を口にしたくなるというやつです」

「そうか……。ならば、今度用意して……」

雹藍が言いかけたその時、後ろの方で、ばん、という大きな音とともに、大音量の罵声が響いてきた。

「まったくよ! 噂は本当だったってことか!」

「ああ。式典の話を聞く限りはな。ちっ……皇帝陛下が、あろう事かナランの女を后にするなんて」

見るとヨミ達の三つ後ろの席に、柄の悪そうな男が二人座っている。一人は痩せぎす、もう一人は太った片腕の男だ。彼らは酒を飲み、羊の串焼きをかじりながら、雹藍とヨミの事をあることないこと言っている。

一瞬、自分たちがここにいることがばれたのかとも思ったが、こちらを一切見ない事から、どうやらそういうわけではないらしい。

男達の話の内容と言えば、よく聞く悪口だ。

ナランは野蛮だ。ナランは醜い。ナランは……。

ヨミは、彼らを無視して食事を続ける。

そんな事、宮廷内で何度も言われ続けていた。それが少し大きな声で騒がれている、ただそれだけのこと。

蒼龍国に来た直後は怒りや悲しみを多少感じてはいたものの、今ではもう、すっかり言われ慣れてしまった。彼らは自分に面とむかって言っている訳ではないし、いつものように適当に聞き流していれば済む話だ。

ヨミがそんな事を思っていると、太った男が再び杯で机を叩いた。

「本当に、十年前のあの時は最悪だった! 俺の腕も、あの戦いでナランと奴らの操る精霊にやられていっちまったんだ! あのずる賢い蛮族め! 奴らなど、人間じゃない! 獣だ!」

「ヨミさん……」

「大丈夫。慣れていますから」

獣はお前らだと心の中で悪態をつきながら、ヨミはナパルに微笑み再び肉の串を口に運ぶ。

その時、隣の雹藍が突然席から立ち上がった。

「雹藍? どうしたのですか?」

ヨミの問いに答えることはなく、彼は黙ったまま二人組の席まで歩いて行く。

「あ? なんだ、兄ちゃん」

二人の男は突然現れた雹藍を鋭い視線で睨みつける。その相手がまさかこの国の皇帝だとは思いも寄らずに。

「なんか俺たちに用でもあんのかよ」

太った男に唸るような声で問いかけられても、雹藍は眉一つ動かさない。彼らの机の上を一瞥し、そして静かに口を開いた。

「その肉、うまいか?」

「あ?」

突然の問いかけに、男達は目を瞬かせる。そして自らの取り皿の上に置いた食べかけの肉を見た。

痩身の男が答える。

「ま、まあ、うまいけどよ……。それがなんだってんだ」

「そうか。では、それが何の肉か分かっているか?」

「羊だろ? 品書きにもそう書いてあるじゃねぇか」

「では、その羊の肉が、どこから来たものか知っているか?」

「……」

男達は黙り込む。その答えを、二人は口にすることができなかった。

雹藍はそんな二人を見比べて、そっと目を閉じた。

「我が蒼龍国の作物はうまい。けれど、その作物を育てる為に、我が国の土地の多くが使われている。育てられるといえば、場所を取らない鶏か、農耕の役に立つ牛くらいだ。食用の羊を飼える程の場所はない」

雹藍はそこで言葉を切り、瞼を開いて男達を見た。しかし彼らは苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、口を堅く閉じているだけ。

「……確かに、我が国は建国以来、ナランの民と何度も争ってきた。しかし休戦後、取引を始めた事によって、既に彼らは我が国に欠かせない存在となっている。恨むなとは言わないが、それを忘れない方がいい」

雹藍はそう言い残し、ヨミたちの席に戻ってくる。そして机の上に金を置き、ヨミの腕を掴んだ。

「出るぞ」

「あ、ちょっと……」

否定する暇もなく、ヨミは雹藍に引っ張られて店を出る。その後を、翡翠とナパルが追いかけた。

店から出て、雹藍は大通りを宮廷に向かって無言で歩いて行く。しばらく歩いたところでふと彼は立ち止まり、ヨミの方を振り向く。

「すまない。不快な思いをさせた」

「……」

目を伏せる雹藍を見ながら、ヨミは店での出来事と彼の言った言葉を思い出す。

この皇帝の事が、余計に分からなくなってしまった。

彼は十年前の戦いでナランを襲った将軍。けれど先程の店での発言は、ナランの事をかばうような言葉に聞こえた。

確かに言葉の通り、蒼龍国の利益の事もあるのかもしれない。けれど、あの場を収めてくれた理由はそれだけではない気もする。

しかし雹藍の僅かな感情表現から、彼の真の思いを読み取ることはできなかった。

一体彼は、ナランの民である自分の事をどう思っているのか。その疑問が胸の中に湧き上がり、思わず口から言葉が溢れ出る。

「雹藍は、私の事をどう思っているのですか」

突然の問いに、雹藍は眉をぴくりと動かし、顔を背ける。

その耳が真っ赤に染まっているのを目にして、ヨミは間違えた、と口を押さえて俯いた。

訂正しようと口を開こうとしたその時、雹藍の口から微かな言葉が聞こえてきた。

「それは……、もちろん……」

「え?」

ヨミは顔をあげ、目の前の雹藍を見た。彼は頬を真っ赤に染めて、口元を片腕で隠している。

自分の顔が熱くなるのを感じた。雹藍に腕を掴まれたままという事実を、妙に意識してしまう。

「もちろん、なんですか……?」

おそるおそる、ヨミは尋ねた。周りに人が大勢いるのに、目の前の青年しか目に入らない。

「もちろん……」

雹藍が口を開く。静かな声は、微かに震えていた。

「君を……好いて、いる」

ぽん、と。

何かが弾けると同時に、心の中に小さく温かいものが生まれるのをヨミは感じた。
早朝の紫玉園は、薄い靄が掛かっていた。草木は朝露に濡れ、起き上がる時を静かに待っている。空は薄い雲に覆われて、白い景色をより一層引き立たせた。

紫玉園の端、小さな堂の中に座ってその景色を見るヨミは、一人寒さを感じて肩掛けを引き寄せる。

ヨミが蒼龍国に来てから、半月と七日が経っていた。目的を成し遂げる事ができないまま、式典が七日後に迫っている。けれどヨミは、焦っていると同時に迷っていた。

「あたし……、どうしちゃったんだろ……」

七日前、西城の視察に行った日から、再びいくらか状況が変わった。

まずは見張りの兵のこと。部屋の前の見張りは相変わらずだが、こうして外に出る時は雹藍に頼んで一人で出歩けるようにして貰った。

そして雹藍はほぼ毎日ヨミの元を訪ねるようになっていた。言葉が少ないことは相変わらずだが、それでも自分の考えや感情を伝えようと一生懸命話してくれる。

無表情だと思っていた彼の表情も、日を追うごとに感情が読み取れるようになっていき、今ではどうしてあの男が無感情と思っていたのか分からないと思う程だった。

「それでも、あいつは父さんと母さんの敵に違いない。あたしはあいつを殺す為に生きてきて、あいつを殺す為にここにいるのに」

自由に行動できる範囲が広がり、そして二人きりになる時間も増えた。その気になればいつでも喉元に剣を当てられる。なのに剣をとろうとすると、「本当にそれでいいのか」と、心の中から別の声が聞こえてくるのだ。

「これも、あの男があんなことを言ったせいだ……」

――好いて、いる。

その言葉を思い出し、ヨミは頬が熱くなるのを感じた。

耳まで真っ赤にしながら、震える声でそう告げた雹藍。表情からも態度からも、冗談ではなく本心で言っているのだという事は伝わってきた。

面と向かって男から好きと言われたのは初めてだった。いくらヨミでも、告白をされて意識しない訳がない。

「別に、絆されたりなんかはしてないよ。あいつのことなんて別に好きじゃない、と思うし……。今でもちゃんと敵だって思ってるし、殺そうと思えば殺せるんだ……」

そう。最後の一押しが足りないだけ。その何かさえあれば、自分は前に踏み出せる、はずだ。

ため息をつきながら俯くと、ふと腰帯に差した笛が目に入った。

「久々に、笛でも吹こうかな……」

思考以外に意識が向けば、少しは気が紛れるだろう。

ヨミは呼龍笛を腰帯から引き抜くと、吹き口に唇を当て、静かに息を吹き込んだ。

軽やかな音色が堂の中に響き渡る。音は窓から外に出て行き、紫玉園中に広まっていく。大気に、地面に、草木や花に。そしてヨミの心に響いていった。

笛の音に願いを乗せて奏でれば、精霊たちがそれを叶えてくれる。

幼い頃、母はそう言ってヨミに何度も笛の音を聞かせてくれた。

もし本当に精霊たちが助けてくれるなら、自分の背中を押して欲しい。

そうすれば、きっと自分は前へと進んでいけるだろうから。

そんな事を思った時、突如堂の外に一陣の風が吹く。驚いたヨミは演奏をやめ、窓の外に身体を乗り出した。

つむじ風だったそれは、徐々に人の形を取っていく。しかしその影から感じるのは、人ならざる者――精霊の気配だった。

「ナパル……、じゃない。なら、誰……?」

もしかして、本当に精霊が願いを叶えにやってきてくれたのか。

そんな事を思いながらヨミは目の前の風をじっと見つめていると、やがてそれは十三歳程度の少年の姿になった。

ナランの民の服を着たその少年はしかし、肌には所々白いうろこが浮いており、尻からは蛇に似た長い尾が生えている。

「誰?」

「バラン。風龍だ」

首を傾げるヨミに、少年は大きな金色の瞳をくるりと動かしてみせた。白い尾が、ゆったり左右に揺れている。

「風龍……。にしては、まだうろこも小さいね。生まれてあんまり時間が経ってないんだ」

彼はヨミの言葉には応えない。しばし無言でこちらを見た後、一言告げた。

「伝言がある。トキからだ」

バランが来たのは笛の力だと思ったが、ただのトキからの伝言だったらしい。ヨミは心の中で密かに気を落としつつ、彼に尋ねる。

「トキ兄は何だって?」

「まだ実行していないのか。早くしろ、と」

「……トキ兄の馬鹿」

確かに兄から連絡が来ると言えばそれしかなかったが、それにしたってあまりにも折りが悪すぎる。

唇をとがらせ、不快の意をあらわすヨミを、バランはしばらく見つめていたが、やがて「トキに伝言は」と口を開いた。

「うるさい、馬鹿兄。やろうとしてる、って伝えて」

「……。わかった」

つんとした態度のヨミにも、バランは眉一つ動かさない。

蒼龍国に来た頃の雹藍と同じくらいに無表情かつ無感情だが、ただ表現が下手なだけ出会った彼と違って、バランは本当にそうなのだろう。精霊には人間と同じような感情を持たないものも時々いると聞く。

「じゃあ、俺はこれで」

「うん。お願いね」

言い終わるより先に、バランは再び風となってその場から消えてしまった。

ヨミはぼんやりと紫玉園を見渡した。朝靄は大分晴れていたが、空に掛かる雲のせいでどこか空気が重い。

背中を押されても、大して感情は動かなかった。相変わらず迷いはあるし、剣を取ることができるかどうかも微妙な所だ。

けれど、早くしろ、と言われてしまった。ならば迷いがあってもやるしかない。

「うん、今夜かなぁ……」

いつも通りであれば、今夜も雹藍はヨミの部屋に来るはずだ。

復讐を果たすこと、それがヨミの生きる意味。雹藍を殺す事は、間違いなんかじゃないはずだ。

堂から出て後宮に繋がる渡り廊下を歩きながら、ヨミはそう心に念じるのだった。